立春ですよ、ららら。

節分が過ぎ、今日は立春だと知ったら居ても立っても居られなくなった。
ちょうど昨日からhuluで「山のトムさん」を見ていたのどかさも手伝って、部屋に流す音楽を森ゆにの「シューベルト歌曲集」にして、玄関の節分用のしつらえの鬼とおたふくのお面と豆の入った枡を片付けた。小風呂敷のタペストリーも紅白から春らしい桃色地のものに替え、金屏風に小さな雛人形やぼんぼりを飾り、隣に造花の桃の花を飾った。なんとなく春らしい黄色の色味も欲しくなり、「そうだ、菜の花を買いに行こう」と思い立つ。国分寺のマルイにはお気に入りの吉祥寺菊屋もThree little song birdsも入っている。ついでに久しぶりに本屋も覗いてみようと家を出た。卒婚をしたことで、これからは自分のほんとうに好きな器だけを買い集めて、ランチョンマットなんか敷いちゃって、ひとりでご飯を作ってちゃんと食べようと思った。バスを待つ間、そんな暮らしを考えて少しだけウキウキした。
雑貨屋さんをいくつか覗くともう桜のグッズが売られている。桜の花びらの可愛らしいキーホルダーを見つけて、今月、息子と同棲する彼女に鍵を渡す際にこれに付けてあげようと思い立つ。喜ぶ顔が浮かんでいい買い物をしたと思った。
菊屋に行くとさすがに菜の花も黄水仙も売っている。菜の花を手に取ると値段は900円。しかし、茎は何で切ったらいいのか、かなり太い。葉も野菜のように逞しい。菜の花とはそういうもんだけど、代わりにミモザの小枝が売られていて大いに迷う。でも、桃の花と対にして合うのは菜の花のような気がして、でも小さな花瓶には合わないし、花瓶まで買うのはなぁと店頭でひたすら迷う。で、購入を断念。菜の花目当てに電車に乗ってまで来て、買わないのだから女の買い物って厄介だ。
紀伊國屋の本屋を覗くと、益田ミリちゃんが新作のエッセイを書いていた。『永遠のおでかけ』ミリちゃんのエッセイは素直だから、これを読めば私もまたムクムクと書きたくなるかも。で、即購入。ノンフィクションのコーナーで『安楽死を遂げるまで』(宮下洋一著、小学館)に食いつく。それと最後にすんごくすんごく迷って梯久美子さんの『狂うひと 「死の棘」の妻・島尾ミホ』を購入。知っていたけど、賞もとったけど、1冊3000円もするんだもん。卒婚した私にとっては今読んでおきたい本である。
菜の花目当てで来て6000円以上も本代に使ってしまったが、最終的にはこっちもいい買い物をしたと満足感がある。昼を挟んだが、倹約をして外食せずにチョコレートドーナツ1個を買ってバスに揺られて帰ってきたのだった。





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# by zuzumiya | 2018-02-04 16:30 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

歌人と凡人の小さな砂時計

歌人で作家の穂村弘さんは私と同じ40代で会社の健診で緑内障が見つかった。彼の講談社エッセイ賞受賞作の『鳥肌が』の「小さな砂時計」を読んでそれを初めて知った。
緑内障というのは原因はわからないけど視神経がダメになっていく病気で、いずれ視野がどんどん欠けていき、最終的には失明してしまう今のところ不治の病いなのである。私も穂村さんも眼圧を下げるための点眼をして、なんとか進行を抑えている。でも、60代だろうか、70代だろうか、80代だろうか、いずれは視野が欠けていき、それも彼の文章によると鼻側から(できればそんな中央部からでなく、端っこから欠けてほしかった)欠けていくらしいが、見えなくなる運命がもう決まっている。河瀨直美監督の『光』という映画で視力を失うカメラマンの役を永瀬正敏さんが演じていたが、見えなくなるとは真っ暗になるんじゃなくてぼんやり乳白色に染まっていくものだと知った。世界が徐々に乳白色に包まれて昼だか夜だかわからない。障子の穴のようにほんの小さく空いた隙間から懸命に今を覗き見る感じ。ああ、こうなるのか…と少しショックを覚えたが、今はまだ両眼で視力を補って見えているので、穂村さん同様、そんな深刻な病気になった気がしない。穂村さんは書く。
【死までの時間を刻む大きな砂時計は、万人が持っているから、通常はほとんど意識されることがない。でも、私にはもう一つ、失明までの時間を刻む小さな砂時計がある。そちらの方が大きな砂時計よりも先に落ち切ってしまわないか不安だ。】
失明より自分の寿命が先に来てしまえば、病気から逃げ切ったことになる。40代発症ケースはほんとに微妙なレースなのだ。なんとなく、なんとなくだが、私は寿命の長い女性だし、逃げ切れないような気がする。白い杖をつく老後が待っている気がする。
【小さな砂時計はオプションで与えられたものだから、御飯を食べていても、本を読んでいても、誰かと話していても、いつも意識のどこかにある。逆に云えば、そのために丈夫な目の持ち主よりも世界が少しだけ綺麗に見えているはずだ。】
穂村さんの文章は文章としての終わり方は歌人らしく素敵だが、ここを読み返すたび、「ホントか」って自分に問う。いずれ見たくても見えなくなることがわかっているのに凡人の私は毎日、空も見上げることなく忙しく過ごしている。そんな瑞々しい生き方、してないなって。でも、穂村さんのこの世界の見え方のくだりと小さな砂時計がいつも頭の隅にあって消えないのだ。恋でもできたら、この世界はまた美しく色づいてくれるだろうか。


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# by zuzumiya | 2018-02-04 09:21 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

保育の現場と保育補助

以前、ここで書いた「先生が辞める時」という文章にコメントを下さった方がいます。その方は無資格で保育補助をしているとのこと。一斉保育の園での正職の先生との保育観の微妙なズレ、それに伴う連携の難しさを書かれていました。この問題については私もこの1年で随分と考えさせられ、悩まされ、漏れ聞こえてくる園長、主任の対応などから園としての長年の変わらぬ、ガンとして変えたがらない気風を感じ、そして52歳という年齢や卒婚して1人で生きていかなければならないこともあり、正直に言って1年かけてようやく心穏やかに平らかに諦めの境地に達したところです。生きるために、細く長くこの職場で働けるよう、自分の仕事への向き合い方に折り合いをつけました。これも以前書いたと思いますが、時間帯によって資格者と無資格者が混在している場合の保育の現場で、仕事に必要なのは資格だろうか、それとも無資格でも子育ての経験があって長年いろんな子どもを見てきた経験があればいいんじゃないのか、と疑問に思ったことはあります。もっと言うと、正職のする保育以外の補助の仕事に学問的な資格なんてさほど必要じゃないんじゃないか、子育ての経験と人間としての常識や今何が必要か、求められてるかという一般的な仕事の動きの勘、段取りの勘みたいなものあれば誰でもできる仕事じゃないかと現場で働いていて思ったりします。
保育の現場もきっちりとピラミッドがあって、結局は正職の思い描く保育を進めるため、補助は単なるフォローであって、その程度の仕事しかハナから求められていないし、させて貰えないというところが現実です。保育補助とはそういう立場なんだと思わざるをえません。分かりやすく言えば、正職が週案で今日はクレヨンでお絵描きさせようと考えたなら、補助は人数分のテーブルや椅子を出して机が汚れないようにカバークロスを掛け、お絵描きが済んだ子どもの手洗いを見たり、給食に備えてクロスや床を掃除してきれいにすることなのです。こういう雑務に資格もクソもないでしょう。パッパと動けばいいだけです。日誌も書かなければ、連絡帳もお便りも書かない。月案や週案、児童票はもちろん見せて貰ったこともない。子どもたちの親の職業だって知らない。会議や研修も参加させて貰えない最下層に位置します。そういう立場の人と正職とほんとの意味の腹を割った連携なんてとれるはずがないのです。では保育の補助に最低限、何が求められているかといえば、生命の保持、怪我をさせないでいてくれたらそれでいいのです。勉強や研修をしてきた資格者なら子どもへの言葉掛けや仲立ちの重要さを分かっていますが、無資格者にそこまでは求めていません。昔そこいらに居た近所の世話焼きおばちゃん程度のダメ出しの多い気さくな言葉掛けでも耳に入っても概ね聞かぬふりをしてくれます。そんなものなのです。本気で子どもと(そして延長線上にいるその親とも)関わりたいのなら、正職になることをおすすめします。貰うであろう給料以上に仕事は精神的にも肉体的にも大変です。態度を改めない親に暖簾に腕押し感もハンパないでしょう。園長や主任がいつでも理解があって味方について守ってくれるかどうかはわかりません。そして子育て同様、努力の結果は浅いものは見えても何十年か先にしか現れてきません。1年ごとに変わるクラスの担任も人間だから合う合わないもあります。苦手な先生との1年はそれだけでキビシイものがあります。どうでしょう? 脅かすわけではありませんが、保育士不足や潜在保育士の多さにはそれなりに理由があるのです。私も立場的には非常勤保育士で保育補助ですが、資格者で正職の経験もあり、これでも少しは抗おうとしましたが、これがこの園の長年の風土なんだな、新しい風は求めてないのだな、と分かってからは自分を園に合わせる方へシフトしました。求められていないところに求めろと迫ってみてもカラ回りしてモチベーションが下がるだけです。補助は補助として立場をわきまえ、正職の求める保育に従い、正職がやりやすいよう最大限のフットワークでよく気づき、よく動くことだと思っています。





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# by zuzumiya | 2018-02-03 23:26 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

ラブソングなんてしばらく聞けないな。

先日、ついについに卒婚しました!
今はまだ戸籍の移動中で苗字が宙ぶらりんな状態です(笑)。
手続きが忙しいのと諸々の事情から元夫と半年は同居となるためまだ実感はありません。夏からは晴れて独身となる予定。第三の人生、やりたいことはやっていこうと思います。


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# by zuzumiya | 2018-02-01 13:36 | ごあいさつ | Trackback | Comments(0)

再び検査へ

夜間に37度台の熱が出て頭痛や倦怠感もあり、今日も仕事を休んだ。
解熱剤を飲まなければ何処まで体温が上がるか、試したら7度6分まで行く。ネットで気管支炎を調べるも原因はウイルスで、対症療法しかできないとある。それなら抗ウイルス剤で叩けるインフルの方が早く治るじゃないかと思う。インフルじゃないのにこのまま身体を動かせない微熱が続いたら何日休めばいいんだ。予防接種しているので熱が38度にまで上がることはないだろうが、もう一度再検査して来ようと家を出た。
結果は見事に黒!インフルエンザB型だった。そうだろうよ、いつもの風邪と違うなぁと思っていたんだ。タイミングの問題だったらしい。昨日は偽陰性だったんだ。それにしてもインフルというのはウイルスが身体の中である程度に増えないと確認できんのかねぇ。それまで待つのは辛い。予防接種していなければいきなりガーンと高熱が出て、私みたいな時間と手間のロスはなかったと思うと予防接種もなぁ、とも思う。でも、断然、症状は軽いんだろう。薬局で私と隣に座った体温38度のおばちゃんは別の密室へ連れていかれ、二人して「これでもか」とばかりにイナビルを吸いまくった。薬局のお姉さんに「そこまでしなくてももう充分入ってますから大丈夫です」と軽く笑われたが、隣のおばちゃんは「少しでも…」と言いながら奮闘し続けていた。頑張れ、イナビル!

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# by zuzumiya | 2018-01-17 12:49 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

院内妄想

インフルエンザB型なんだろうな、と半ば諦めて病院の待合室にいた。うちのクラスではすでに4人がインフルエンザB型に罹っている。診察が終わって隣に座った少年は母親との会話からインフルエンザB型罹患者だとわかった。ゲゲッ。向こうもこちらもマスクはしていたが、隣に当のインフル患者が座っているというだけで何だか緊張して普通に呼吸ができない。できれば直ちに席を立ってなるべく遠くに行きたいが、小心者の私にそんな露骨なまねはできない。そういう目で周りを見回すと、病院は保菌者だらけである。何処へ逃げても菌やウィルスがうようよしている。左隣の背の高い若い女性はこの寒いのに素足にジャージ姿で、いかにも「さっきまで寝てました」感を漂わせ、自分の風貌なんぞもはやどうでもいいくらい具合が悪そうである。トイレに立っただけなのに「もしやノロウィルスでは」と小心者は勘ぐる。「どうしよう、ノロとインフルに挟まれた!」と脳内は勝手にパニックになる。冬場の病院ではよくこういう妄想に悩まされる。ありませんか?こういうこと。
で、ひとしきり妄想で悶えてからふと気付く。インフルだったら、一週間は休みだなぁ。休みは嬉しいな、読めてない本を読もうかな、映画もちょこっと観ちゃおうかな。でも有給1日しか残ってないから給料に響くなぁ。もし、インフルじゃなかったら、園長が今日の4時半から来てくれと言ってた(超きびしくね?)から行く羽目になるのか、嫌だなぁ辛いなぁ。どっちがいいんだろう…。ううう、どっちも選べない。と言いつつ、どっちかっていうとやっぱインフルかなぁ、と怠け者の私が出る。運命に任せるしかないか。
で、結果は白。風邪からくる気管支炎だった。園内でインフルを広げた極悪人というレッテルを貼られなくて済んだのはいいが、この弱った身体でまたしても目に見えぬインフルの脅威に怯えて生活しなくてはならない。次こそインフルの波をまともに受けてしまいそうだ。インフルでなくて良かったようなちと惜しかったような、どっちつかずのへんな気持ちで病院を後にした。
その後、園から電話があって4時半からの出勤はなくなった。そりゃそうだろう、具合が悪いって早退したんだから、もう。




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# by zuzumiya | 2018-01-16 19:05 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

山本ふみこさん、読んでます。

私の読書や映画鑑賞は現実逃避だと十分自覚している。本や映画の世界にどっぷり浸って忘れてしまいたいほどのいまいましい日常なのか、とあらためて自分に呆れることもある。しかし、本で言えばエッセイ、映画で言えばドキュメンタリーにおいては、今生きているこの日々の暮らしの隅々にもう一度光を当ててその価値を見いださせてくれるような、今こうしてあることが何より幸せなんだということを再確認させてくれるような効果をあきらかに期待して選んでいる時もある。そういう嗅覚を私は持っている。もっと言えば、読んでいる途中に何度も本を置いて、自分でもなにか書きたくてしょうがなくなってくる、そういうそそられるエッセイを私は自然に選べている。出会えている。そうやって、いろんな人からたくさんの刺激や影響を受けて書いてきた。で、今回は山本ふみこさん。エッセイストであり、カルチャーセンターの講師であり、武蔵野市の教育委員でもある。料理や台所仕事から子育てにまつわるお話が多い。平松洋子さんと少し攻め位置がかぶる《丁寧な暮らし》推進派とでも言おうかな。タイトルに惹かれ、装幀に惹かれてミシマ社の『家のしごと』を読んだ。短いのでサラリと読めて「ああ、そうだった」と後からホンワリくる。ブログを更新していない、日々のいろいろを書かなくてもいられた自分をあらためてどうしたもんかなぁ、と思っている。
※『ふみこよみ』、『忘れてはいけないことを、書きつけました』読んでます。


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# by zuzumiya | 2018-01-08 16:54 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

あけましておめでとうございます。

去年は後半、ほとんど更新をして来なかった。パソコンがいかれてしまったこと、iPadで書かなければいけない面倒がその要因として大きいが、単に更新しなくても生きていける怠惰か諦めかに心が占領されていたからだ。思い起こせばいろいろなことがあったたし、その都度いろいろな考えも想いも過ぎったはずだが、ここに書くには至らず、日々は流れるに任せた。仕事以外に好きな読書をして音楽を聴き、部屋を自分なりに飾って、映画を見ていればそれで幸せなのが私である。今年も同じように過ぎていけばいい。変わりたくない、留まっていたいと思ってもそうはならないのも知っている。
今年は来月に息子が家を出て行く。フィアンセと一緒に暮らすのだ。ついに広い家に夫婦二人だけとなる(猫が二匹と金魚も二匹、どじょう一匹がいるが)。息子は戌年で犬を飼うらしい。娘は去年からアメショを飼い始めた。みんな自分以外の誰か何かのために気持ちや労力を注げるようになってきてよかった。私の日々は変わらずを望むが、今年の目標は52にしてようやく〝貯金〟となった。今までお金のことにずっと無頓着であった。宝くじも買わないし、ギャンブルもしない。化粧品やらブランドに拘ることもない。なのに、お金を意識して貯めようとはしてこなかった。いつでもカツカツだったがガツガツしない人生だった。そういうお金に対して薄い認識からもう少しだけ気を入れて頑張ってみる意欲を持とうと思う。そしたらこの私がどうなるのか、楽しみでもある。と思ったそばから、息子の巣立ち。冷蔵庫の購入を助けてやることになった。どどんと金が出る。崩れても立て直してみせる。
明日から仕事。今日はドキュメンタリーを二本観た。ターシャとギーガ。天国と地獄であった。



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# by zuzumiya | 2018-01-04 16:25 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

今を歌え!

ネットのニュースを見てびっくりした。
エレカシがNHKの紅白に出場する。凄いことだ。ああ、ほんとうにビッグになったんだなぁと感慨深く思う。そして、こうなったからは来年は更に躍進すること間違いないだろう。さぞかしメンバーや家族、親族、友人、関係者らは喜んでいるだろう。もちろん、売れないエピックの頃からずうっと支えてきたファンだってそうだ。こんな日が来るとは…、だろう。紅白なんて、とは言わない。日本の歌い手ならこの歴史ある晴れ舞台には誰もが本音では立ちたいはずだ。売れて、知名度を上げなければオファーもないのだから。宮本さんはロックの人だが、意外とこういう権威に弱そうである。今頃、うれし涙じゃないだろうか。さて、この最高な年の最高な締め括りにどんな曲を持ってくるのか、セットは?、衣装は? 楽しみでしょうがない。
とはいえ、実は私自身は最近ではめっきりエレカシは聞かなくなってしまった。以前にも書いたように専らクラシックのピアノ曲を聞いている。実は「マスターピース」あたりからなんとなく心が離れてきて、前作の「レインボー」では心底気に入ったのは「なからん」だけだった。その後、幾つかシングルが出ていたがメロディはまだしも歌われていること(つまり、フレーズ、歌詞)にかわりばえがなくて、正直、飽きがきていたことを告白する。宮本さんの歳に抗いつつ、それでも更に上を目指す、勝ちに行くという飽くことない熱情に私自身の心の老いがだんだん付いていけなくなったんだろう。互いがまだ若かった頃には確かに悩ましき心の代弁者だったはずなのに、いつからか置いていかれた、そんな気がする。「心は巧みなる画師の如し」という言葉があるが、確かに宮本さんのように勝つ、勝つ言っていると本当に勝負運を引き寄せて物事に打ち勝てるのか、と今回思うはめになった。
新曲「今を歌え」はそんな置いてけぼりをくらった(いや、自ら彼の言葉を信じずに後ろを向いてしまった)私でも久しぶりに心が揺さぶられる曲だ。歌詞でいえば、やはり「今宵」で歌ったような、これぞ宮本節とわかるさほど変わりばえしないいつもの言葉が並ぶ。この曲でも主語は意識的に「わたし」を用いている。宮本さんの凄いところはメロディに乗せるとこの何度も耳にしてきたようなシンプルすぎる歌詞が言葉以上に深く沁みてくることだ。そうであるために、素人の私は「もっと何とかできないものか」と言葉をいじくり回したくなるのかもしれない。
「わたしは何度も生まれ変わり、そして歩いてきたのさ」なんて、一見何ということもない歌詞だが、聴きながらしみじみと「あぁ、そうだった、そうやって生まれ変わってきたのかもしれないなぁ」と思いあたる。そんなふうに歌われて、自分の幼少期から青春期、そして中年の今までの山あり谷ありの人生の幾つかの場面が思い出されて、「そういやぁ、大小にかかわらずいろんな夢を持ってその都度コロリと人が変わったように追いかけては挫折して正当化して、やがてそんなこともプイと忘れて、また人が変わったように次の興味へ移って行ったもんな」と苦笑する。そうやって生きてきたのはほんとに宮本さんの歌う「何度も生まれ変わり」だった。過ぎ去ったたくさんのあの頃のかわいくて無様でバカ正直で怖いもの知らずで健気な自分にそっと「ご苦労様」と語りかけたいような気分になる。そして、今があることを、こうやって部屋で椅子に座ってこの歌にじっくり耳を傾けていられる今があることをほんとうに心から幸せに思う。ああ、君に会えてよかったよ、ほんとに、なんて柔らかな慈愛に心が満ちてくる。
でも、そんな思い出に浸って切なくなってしまいそうな歌の後半で「今、飛びたて、今、輝け、今、戦え、心よ」と「今」をたたみかけて歌が続く。何事も諦めてしまいそうになる自分に「そうか、今なのか、この今にまだ光はあるんだ、力はあるんだ、信じろ、心よ奮い立て」という気にさせる。宮本さんが自分自身に言い聞かせるように何度もまっすぐ歌うから、それはどこか彼自身の迷いも憂いも影さえも想像させ、老いに向う後ろ向きになりがちな同じ中年の人間としてさもありなんとも思うし、そのシンパシーが離れてしまったこの手をもう一度引っ張りあげてくれたようで、非常に彼らしいあたたかくてそして厳しいメッセージをくれたように思えるのだ。この歌を何度も噛みしめるようにして、空を見て、日々を送っている。来年はまたライブに行きたいものだ。


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# by zuzumiya | 2017-11-18 15:32 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(3)

ペットショップの恐るべきおばちゃん

昨日、ジョイフル本田に行った。私は猫の方へ夫は金魚の方へと別れたのだが、用事が済んで夫の元へ行くと、夫は爬虫類のケージをじいっと見上げていた。
「どしたの?」
「あれ、見てみろよ、さっきからずっとぶら下ってるんだけど、どうにもよじ登れないみたいなんだよ」
見るとカメレオンがケージの天井の細かな網に両手の爪を取られて、体全体がぶらりと宙にぶら下がっている。引っかかった爪だけで懸垂のように全体重を支えているのだ。どうやったらあんな高いところに飛び移れるのか、はるか下に遊び木の枝がある。
「落ちることもできないし、さっきから何度か足を上げてるんだけど届かない」
夫が言うそばから、カメレオンはぷっくりした腹を折り曲げて力の限り腹筋を使って両足を上げた。二又に分かれた手のような足は可愛らしく申し訳程度にほんのちょっと上がっただけで、とても天井には届かない。すぐに力尽きて、またぶら〜んと体を伸ばしてしまった。
「大丈夫かぁ? あれ、ヤバいっしょ、どうみても」
「ああやって、何度も試しちゃ、休んでるんだよ、さっきから」
ケージを見上げながら喋っている私たちの脇を小さな男の子とその父親が「あんなことやってるよ」と笑いながら通って行った。
「あれ、店員さんに言わないとぜったい体弱って死んじゃうよ」
私は近くにいる店員を呼びに行った。ペットショップに似合わない茶髪にピンクの口紅の厚化粧のパートと思しきおばちゃんだった。事情を説明して、おばちゃんがてっきり男の飼育員を連れて来るものと待っていると、なんとその茶髪のおばちゃんが赤いゴム手袋をはめてこっちに来るではないか。「まさか、おばちゃん自ら?」と思って見ていると、さっさと踏み台に乗ってケージを開けると、天井からカメレオンを引っぺがして
「もう、何してんでちゅか、こんなとこ登ったらダメでちょ。下りられないでちょ」
掌のカメレオンに向かって厚いピンクの唇をすぼめて赤ちゃん言葉で話かけている。ゲゲッ。私も夫も度肝を抜いた。おばちゃん、ただのパートじゃなかったの?
帰りの車ではカメレオンの不思議よりニンゲンの不思議の方で盛り上がったのは言うまでもない。







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# by zuzumiya | 2017-11-05 13:55 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)


ふだんの暮らしに息づいているたいせつなもの、見つめてみませんか?


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