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いくらあったら?

最近は勤務時間が短かくなったにもかかわらず、なぜか疲れてしまい、だいたい9時には寝落ちしている。そんでもって昨日は夜中の3時前に目が覚めてしまった。トイレに行ったらなんとなくそのまま眠れず、不眠症でいちばんやってはいけない「考え事」をしてしまった。ふと、机の前に座り、引き出しから預金通帳を出す。日付の変わった今日は給料日である。額面は計算済みだが、手取りはいったいいくらになるのだろう。ATMから引き出されている1万円やら2万円やら並んでいる数字をぼんやり眺めているうち、はっとした。ひと月いくら引き出しているんだろう。そしていくらあったら生活していけるんだろう。今月、先月、先々月…、計算していくとどうやらひと月8万は引き出されて使っているようである。銀行はひとつじゃなく、他の銀行のATMからも引き出した月もあるので、どうやら合わせて月10万くらいは生活費としてかかっている計算である。自炊をしない私ひとりの生活で、である。
昔、群ようこさんのれんげ荘シリーズの小説で、働かずに貯金を切り崩して生きる独身のアラフォー主人公が月10万と生活費を見込んでいたのを思い出した。最初に読んだ当時はまだ結婚していて家族もいたので、設定にリアルさを感じられず、うすぼんやりと読んでいたが、今は「まさに10万じゃん!合ってんじゃん!」と驚いている。真夜中にそんなことを考えていて、その後は寝たんだか寝れてなかったんだかよくわからず、夢か妄想か、たぶん夢だろうが、得体の知れないシチサン分けの双子の男につけねらわれてドキドキハラハラして朝を迎えた。疲れた。

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by zuzumiya | 2018-05-31 13:14 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

ももちゃんと私

猫というのは気まぐれで我儘で素っ気ないイメージがあるけれど、うちのももちゃんに関しては違う。私が移動するたびに付いてきて必ず傍にはべる。トイレにも風呂場にも付いてくる。それから私が落ち込んでいる時は何となくオーラで分かるらしく、そばに座ってじっと私の顔を見つめてくる。
夜は部屋の何処にいても電気が消されると必ず私の枕元にやって来て伏せる。冬ならそのまま布団に入ってくる。私が寝付くと役目が終わったとばかりに枕元からいなくなるようで朝方トイレに立つ時はいない。朝、私が目覚めると猫タワーのてっぺんに座ってこちらを見ている。ベッドから上体を起こすとぴょんと飛んでやってきて右へ左へやたらと体を擦り付け、その熱烈なしつこさは「ものすごく会いたかったんだよ」という言葉に変換されて私の心に染み込んでくる。一晩のうちに、私が眠って勝手に夢を見ている間、私の魂がほんとにももから遠くに離れてしまっていて、それがももには何故だか分かっていて、ああ、帰ってきてくれた、また会えた、うれしい、なんだろうか。とにかく朝のキセキの再会のような猫の歓迎ぶりはいつでも不思議だし、こちらもその気持ちに頬がゆるむ。一晩で記憶を失ってしまう恋人たちの映画があったが、まさに毎朝、また今日この日から始まるんだね、という新鮮な気分にさせてくれる。もうすぐ6年になろうという間柄なのに。

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by zuzumiya | 2018-05-27 17:21 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

ファンというもの

今日、テレビで西城秀樹さんの葬儀の様子がやっていた。
中にファンのインタビューがあって「ああ、秀樹の年ともなるとファンはみんないい年のオバちゃんだなぁ」などと思い、いつものことながら有名人が亡くなるとエレカシの宮本さんの時のことをぼんやり想像してしまった。ファンはみんな真っ赤に泣きはらした目でそれぞれ虚空を見つめて立っていた。一人の女性がインタビューに答えて興味深いことを話していた。
旦那さんと結婚する時に「私はあなたのことを秀樹以上に愛せない」「秀樹が自分の中では一番」と旦那さんに正直にも告白しちゃったそうである。「息子が結婚式に秀樹の曲を流してくれた」とも語っていたので、おそらく彼女は子連れの再婚かと思われた。ああ、ここにも「ザ・ファン」がいる、そう思った。
ファンというのは単に曲が好き、歌声が好き、ルックスが好き…じゃないのである。もっと深い関係性を長きに渡って大事に大事に築きあげる人たちなのである。信奉するアーティストと共に自らの人生を生きてきた独自のストーリーと思い出を持った人々なのである。その人生の日々は、苦しみも悲しみも喜びすらも、そのアーティストと共にあって、他の誰でもない、誰もが成しえないその存在の力と支えがあって、現実はたった一人で乗り越え生きるという矛盾を抱え持つ。その中で生まれる感謝の気持ちや助けてくれた恩は計り知れないものとなっていく。たとえ一方的であっても、勝手な思い込みであっても、どんなに遠く離れていても一緒にこの時代、この人生を歩んできたという強い結びつき、同士の絆意識がファン心理である。50や60すぎのいい年をしたオバちゃんが夢見る夢子ちゃんのような発言をしちゃうのは、それだけそうでもしないと生きてこられなかったそれぞれの背景を物語っている。アーティストが自分の人生の中を一緒に歩いていくのだから、ファンにとってはそれはもうそのファンだけのアーティストに変じてしまう。百人ファンがいたら百通りの必要性でもって百通りの私だけのアーティストがいてその人生に寄り添っていくということなのである。先の秀樹ファンの彼女は、私だけの秀樹を作ってそれを頼りに人生を生きてきたのだろう。それが一緒に生きるということである。単なる妄想といえども、彼女の人生においてスター西城秀樹は繰り返し彼女の生きる糧、生きる張り合い、幸せの源であったのだ。一人のスターがそれがスターの宿命とはいえ、そんなふうに自分のはかり知れないところで人々の人生に深く関わっていくなんてほんとにすごいことである。傍らにいる普通の現実の男たちにはどうしてもできない、あり得ない関わり方である。
どんなに馬鹿にされようとも、狂ってると言われても、私にはいまだに宮本浩次以外の男は色褪せて見える。どうしようもないのである。白髪が目立ったり、皮膚が弛んできたり、たしかにルックスには避けられない寄る年波が見てとれる。歌詞だって明けても暮れてもおんなじで工夫がないな、などと思ったりもする。でも、そんなことは瑣末なことなのである。一緒に時を生きてきた、今も生きている、その人生への思いが深々と私を満たしている。私も「ザ・ファン」のひとりなのである。


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by zuzumiya | 2018-05-26 08:50 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

最近のお買い物から。

東京は真夏のように暑い毎日。午前中の仕事が終わり、疲れて帰ってきて、揺り椅子に座って午後のもわわんとした風にあたりながら読む本は、ここのところコマツシンヤさんの漫画である。『8月のソーダ水』の全編カラーの水色、夏っぽくて爽やかできれいです。『つるまき町夏時間』もぜんぶカラーの緑色にして欲しかった。『午后のあくび』も『睡沌気候』も同じくカラーで読みたかった。コマツさんの作品はお金がかかっても全てフルカラーにして出版して欲しい。そうしないと彼のやろうとしていることの良さが半減すると思うんだけどな…。お話は大人も楽しめる童話、ファンタジー。夏休みのプールにプカプカ浮かびながら間延びした時間に遊ぶめくるめく妄想のようなお話。真冬には読めないけど、季節を選ぶけど、彼の描く可愛らしいファンタジーが大好きです。
村山由佳さんの『風は西から』読了。ブラック企業を相手に自死した恋人の仇を討とうと奮闘する女性と彼の遺族のお話。会社組織と闘うのって死んでから3年もしないと決着つかないんだとわかってため息が出た。もうすぐ小池真理子さんの『死の島』も終わる。「脱血死」という死に方があるのを知って戦慄く。死に関わる本ばかり読んでいたので、18日に出る吉田篤弘さんの新刊が楽しみ。
音楽は夏らしくキューバのギター音楽とクラシックではフォーレの舟歌を購入。夜風に心地よくいい感じに憩える。母からお古のロッキングチェア(揺り椅子)を貰った。今週末は娘とインテリアショップを回って、チェアに合うクッションを買う予定。
NHKの番組でバイヤーが外国に買い付けに行くのをやっていて毎週見ているが、北欧の家具の回でスウェーデンの人は窓にカーテンを吊るさないというのを知って素敵だと思った。夜のスウェーデンの集合住宅の窓辺はどこもかしこもショップのように美しい。それを知ってからは私も電気代のことなんか忘れて間接照明をバンバンつけている。でも勇気がないのでカーテンはすぐ閉めてしまうが。
最近、運気を上げるために様々なものを購入したが、鯉の滝登りの絵柄の手拭いを見つけて買った。尊敬する作家の鈴木マキコさんが開運を願って鯉の滝登りの着物を買ったというので真似をした。手拭い額に入れて部屋に飾っている。
テレビは土曜の『植物男子ベランダー』を毎週楽しみにしている。いとうせいこうさんのファンなので。
見たい映画は画家の熊谷守一さん夫婦を描いた『モリのいる時間』と『万引き家族』。どちらも樹木希林さんが出ている。楽しみ。でももしかしたら娘とショッピングの帰りに『孤狼の血』を見ちゃうかも。はやく週末になんないかなー。



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by zuzumiya | 2018-05-16 21:56 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

サービスってやつは。

今日トイレでひとり、サービスというものの本質をしみじみと考えた。
若い頃からの習慣で私はパンティライナーを愛用している。中年の今は身も心も枯れ果てて使い続ける理由なんぞないのだが、ああいう清潔に関わるものは一度使い始めるとやめる理由が見つからないものだ。いや、もう少ししたら、もしかしたら尿漏れ対策に少しは役立つかもしれないが。
で、今日もトイレでライナーを使おうとしたら、なんと台紙の余白に「たまには息ぬきしよう!」と書かれているのを見つけた。「おおっ、こんなところにこんなメッセージが!」と驚いた私は置いてあるすべてのライナーを一枚一枚調べてみた。すると「今日もすてきな一日になりますように」とか「笑顔でいることがキレイの近道」などと書かれているものが見つかった。メッセージは全部に書かれているわけではないようで、だいたい10枚くらいに1枚の割合で見つかった。このレア感がいい。私みたいにふとした時にひょっこり目にする。そういう時のメッセージは不意打ちなので心にストンと落ちる。考えてみると私はトイレでいちばんため息をつく。「あーあ」とため息をつきながらおもむろにライナーのパッケージを開いたら「たまには息ぬきしよう!」なんて文字が出たもんだから、心の底に沈めて素知らぬ振りをしていた疲労感や孤独感がじんわり浮き上がり、「そうか、いいのか、そんなに強がらなくても」という気になった。こういうささやかな、でもちゃんと人の気持ちを考えたサービスは実は素晴らしい。サービスって人をほんのささやかな幸せに導くことなんだよな、なんて思う。コアラのマーチの中に一個だけ違った奴がいるとか、見つけるとラッキーってうれしくなるあの感じ、あれは企業側からの立派なサービスなのである。
昔、シャンプーとか洗剤の取り替えパックの注ぎ口が改良されたというCMを見た時、「そんなささいなことより値段を下げろよ」なんて毒づいたことがあったけど、実際、取り替えパックの不便さ(液漏れと注ぎ切るまでの時間)はよーくわかっていて、風呂場でまっ裸でじっと注ぎ切るまで待っているのは悲しくなるくらい情けないものである。面倒くさい時は容器に移さずパッケージを折って洗濯バサミでとめていたほどであった。で、改良パックを使ってみると、ほんとうに注ぐのがラクなのである。注ぎ口をストロー状にする程度のささやかなサービスがこんなにもありがたいものとは、あの時も深く胸を打ったのだ。サービスとは大それたものでなくてもいいのである。日常にほんのちょっとのささやかな幸せを与えてくれさえすれば、私たちはまたにっこりと笑って前を向いて生きていけるのである。




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by zuzumiya | 2018-05-10 21:49 | ちっちゃい器で生きていく | Trackback | Comments(0)

保育格差ってあるよね

以前、老人ホームで食事介助をしていた経験があるので、ここしばらく『誰も書かなかった老人ホーム』という名の新書を読んでいた。読み進めていくうち、あ、そうか、保育園について裏事情というか実態を暴露したようなものはないかと思いついた。ネットで調べてみると『ルポ 保育崩壊』、『ルポ 保育格差』を見つけたので即購入。その際に『ブラック化する保育』という本も見つけたので試しに図書館で借りることにした。
先日、このブログでも愚痴ったが、人手不足で園長の許可のもと懸命に働いたのに、法人から労働基準法と就業規則違反と言われ、処遇改善手当を全額支払って貰えなかったり、ほぼ一年間分の残業手当が出されてなかったりしたことがあった。ひとえに園長の認識不足、判断ミスで「ごめんなさい」じゃすまされないことで、働いたこっちはなあーんも悪いことはないのに大損した。まるでブラックじゃないかと腹だたしかったし、是正ということで労働時間数が減らされて身体は楽になったはずなのに、頑張るモチベーションがガクーンと下がってしまった。払うものを払わないなんてまるでブラックと思ったのでこれらの本を手に取ったわけだが、やっぱり人手不足、過重労働、低賃金のせいで現場の保育士の心がすさみ、保育の質が下がっていることが多々あるようだ。うちの保育園も延長時間帯に無資格者が何人かいるが、彼女らの時給が有資格者の昼間の派遣と同じくらいの値段で破格なのだが、そこまで値段を上げる必要があるのかと私は思っている。無資格者に破格の時給でしかも夏と冬にそれぞれ1ヶ月分ほどのミニボーナスがある園なんて聞いたことがない。そんな人件費の使い方をするなら、子どもに汚いブロックを使わせてないで新しいのを買ってくれと言いたい。確かに人がいない。でも、そこでいくら子育て経験があるからって無資格者を入れることは「だれでもいいから来てくれ」であり、それで成り立つ保育なら国家資格の保育の専門性などいらない。世間に「保育士なんていらないじゃん」となり、ますます「子どもと遊んでいるだけ」となって保育士の評価が下がる。自分で自分の首を絞めているようなものだ。じゃ、無資格者に独自に園内研修でもして教育しているかといえばそんなこと忙しくてできないのである。まるっきりの放し飼い状態である。で、やれてることは最低限の命を守ること。事故を起こさないように(それは当然だが)怒らなくてもいいところで怒ってばかり、やっちゃダメの制限ばかりの否定語の多い怒鳴る保育である。それでいいと思って、しっかり仕事をしている気でいるのだから、保育の質などほど遠い。はっきり言って無資格者の時給を下げて有資格者の時給をもっと上げてやればうちの園でも人はくるのではないかと思う。非常勤を慮っているようで、変なところで金を落としている。
どちらかの本で、一斉保育をやめた園がいくつか紹介されていたが、それには大いに頷けた。私は大賛成である。今日も担任の指示でそれぞれが集中して遊んでいた外遊びをやめさせてまで「ホールで楽しいことするんだって」とホールに誘って強制的に連れて行ったが、やってみると「はあ?」と目を疑いたくなるほどの大人の自己満足な企画で、しかも準備不足で「これでいったい何を育んだ気でいるのか」「ひとりひとりの発達にどう関わっているのか聞いてみたい」と呆れてしまった。どうしてこうみんなで一斉に何かをしなきゃ集団でいる意味がないとか、集団でやっていけない、そぐわない人間になってしまうと思ってしまうのか。法人内だけで研修なんてしてないで、あらゆる形態の園に見学に行ってうちの園に取り入れたい長所をレポートに書かせるみたいなことさせればいいのにと思う。そうすると人が逃げちゃうからやれないのか。保育園というところは実に保守的である。毎年、研修で作文を書かされるが、たまには「あなたが園長ならどんな園を作りたいですか」ぐらいぶっ飛んだ、でもいちばんその人の保育観のわかるテーマで自由に書かせてみたらいいんじゃないか。
ま、保育関係の本を読むとそれなりにイライラ、ムラムラ来ちゃうのであった。

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by zuzumiya | 2018-05-08 23:03 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

キュアな戦士

すごいCMを見た。またしても小林製薬なのである。「アオキュア」という名のスキンケア商品で、いわゆる「青タン」内出血の痣の青みを薄くしていくという治療薬だ。風呂に入っていて「あれ?いつの間にできた?」という内出血の痕。保育士にとってはよくあることだ。
で、このCMの設定がすごい。デートの席で彼氏に「どしたの、それ」と指摘されるのだが、そのキレイに着飾った彼女のスカートから出ている片膝がもうハンパなく青い。ガーン。まるでDVにあったかのような惨たらしい酷い青あざなのである。この設定があんまりすぎて、もう可笑しすぎる。小林製薬らしい単刀直入なわかりやすさである。
ネットで調べてみると先行商品の傷痕を薄くしていく「アットノン」の売れ行きが絶好調(発売から13ヶ月で約12億円の出荷見込み)らしいので、スキンケア商品の開発にも自信を持ったのだろう。どんどん商品が出ている。
同じく保育士の悩みとして膝の黒ずみがある。どうしても正座したり、膝立ちしたり、膝をついて床掃除したりするので膝頭が黒く色素沈着してしまう。乳児保育を3年もやれば、若くしてスカートが履けなくなるのである。この黒ずみを薄くする商品も実は出ていて、名前はもちろん「クロキュア」なのである。プリキュアならぬアオキュアにクロキュア。悩める保育士の心強い味方である。さあ、買いに行こう!

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by zuzumiya | 2018-05-06 21:02 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

「子どもなんて」

最近は母と妙なところで気があうようになった。
それは「子どもは当てにならない」というところである。
母にとって私はまぎれもなく当てにならないところの子ども本人なのだが、だから私に対して充分な皮肉でもあるのだが、私が年をとってきて母の気持ち、親の気持ちが昔より理解できてきたこともあり、自分が子どもであることはいったん棚に上げて、我が息子、娘との関係を鑑みるに「子どもが当てにならない」が実感を伴ってよくわかるのである。
母が70代、娘の私が50代の、このうまい具合に互いが「老い」や「孤独」をそれぞれに意識できる年頃っていうのがミソなのだろう。この年頃になって、娘の私の方の子育てが終了して、息子も娘も親より恋人になり、なんとはなしに邪魔者扱いされてくる。息子の言動から将来は確実に親の私ではなく、嫁の意思を優先させるであろうことが情けないことにチラリとうかがえたりする。一生懸命育てた末が「年寄りは邪魔者なんかい」となり、茫然となる。その意気消沈したところに母がニタリと笑って寄り添ってくる。「ね、子どもなんていたってみんな生きていくのに大変で、ぜんぜん当てにならないでしょ」。なぜか私たちは手と手を取り合い「ほんとよね、子どもなんて苦労するばかりで、ぜんぜん頼りにならないわよねぇ」となる。それはもう母娘ではなく、同年代の近所のオバチャンのノリ、一致団結感なのだ。変だというのは頭の片隅で分かってはいるが、それでもこの共感がひどく嬉しい私は母をつかまえては「子どもなんて」と愚痴っている。





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by zuzumiya | 2018-05-06 18:27 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)


ふだんの暮らしに息づいているたいせつなもの、見つめてみませんか?


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