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尽くされてみたい

沼田まほかるさんの原作で映画「凶悪」の白石和彌監督が撮った「彼女がその名を知らない鳥たち」を見た。「ラストを見ればあなたの恋愛観が変わる」がキャッチフレーズだったと思うが、陣治役の阿部サダヲさんの迫真の演技、すごかった。嫌われても嫌われても相手に尽くしていく。見返りを求めない。あれは恋愛というより、親子の愛情だった。でも、胸を打った。そんでもって「あんな風に尽くされて愛されてみたい」と思ってしまった。若かったらそうは思わなかったかもしれないが、年をとり、熟年離婚した今は率直にそう思う。昔の人がよく言ったけど、女は愛すより愛されて嫁に行った方が幸せになるっていうのはそうかもしれない。
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by zuzumiya | 2018-04-30 12:12 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

断捨離とハルジオン狩り

最近の金運の危うさに私は焦っている。4月だけはハンパない給料が入ったがこれを最後に来月からは勤務時間が減らされるため、減る一方だ。このゴールデンウィーク、時間はあるが、なるべく金は使いたくない。本は3冊の並行読みである。映画も見たいものは見た。あと残るは断捨離まがいの掃除である。入院した元夫が息子に下着の替えを持って来させた際、彼のタンスを覗くときちんと間仕切りがしてあり、女性のパンティのようにトランクスがきちんと畳まれて整然と並んでいたのには驚いた。もし私が入院となったら、娘は私のタンスの中身を見て腰を抜かすだろう。そうならないように全て購入させてしまう手もあるが、金がかかるし、娘の買ってきた下着と好みが合わない可能性もある。そう考えて一念発起、タンスの整理をした。靴下とパンツなどスーパーの袋3個分の下着を燃えるゴミに捨てた。これで面子が保たれる。年をとるといつ何時倒れてもいいようにボロでない下着を身につけ、タンスの中身も整理整頓なのである。
掃除が終わり、ふとベランダから庭を見下ろすと、雑草が一面はびこり、名前の知らないアザミかタンポポ系の草花が我が物顔に背丈を伸ばしている。金木犀やハナミズキの傍らには、あろうことか「貧乏草」と呼ばれるハルジオンがひっそり身を隠すように咲いている。あ、もしやこの金運の悪さはあいつのせいだったか。私はゴム手袋をして庭に立つと片っ端から容赦なくハルジオンを抜いていった。ふと顔を上げると隣接する市道にもハルジオンがぐるりと咲いている。風に揺れている姿はこちらを嘲笑っているかのようだ。我が家は知らないうちにこんなにも貧乏草に囲まれていたのだ。どおりで働いても働いても貧乏の圧が強かったわけである。許せない。私は鼻息荒く関係ない市道まで出て行って全てを引っこ抜いた。どうだ、人間様に勝てるわけないだろう。久々にやり切った晴れやかな気分であった。これで少しは金運が上昇するのではないか。そう願うばかりだ。

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by zuzumiya | 2018-04-30 11:52 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

脚より腹のメディキュット

昔から履いてみたかったのである。娘が履いてて実際に脚のむくみが取れ、キュッと絞られ細くもなっていたのである。で、今回、給料を貰っていの一番に薬局に駆けつけた。ほら、あの、履くと足首から太腿までそれぞれに適した圧がかかって美脚効果と最新のは美尻効果まで出るタイツ。ドクターショールのメディキュット、だ。普段、そういう美容系のものには疑ってかかり、金を出したがらない私だが「リンパの流れを良くし…」の文言に一気に惹かれて、たかがタイツに3000いくらも出したのである。
ときどきだが、仕事をしていて脚がつることがある。板の間に靴下で抱っこにおんぶなので脚の冷えか疲れかだとは思うが、「イタタタタ…」と始まると子どもなんぞ内心「どっか行ってろ!」になるから大変困っている。毎夜、タイツをパジャマのズボン代わりに履いて寝るだけで脚の血行を良くしてむくみや疲れを取ってくれるならとっても楽チンで助かるのである。ましてやどういう仕組みかヒップアップまでやってくれるというのである。
で、履いてみた。それぞれの部位に適した圧がかかっているという脚の方はぜんぜん苦にならない。ちょうどいい感じで締まっていて「リンパの流れ」の効果を期待できるうれしい予感がした。だが、予想外の問題が起こった。美脚だけでなく美尻効果まで求めた欲深さがいけなかったのか、ちゃんとLサイズを買ってきたはずなのにウエストのゴムがやけに食い込む。キツイ。ゴムの上から溢れた脂肪がでれーんと垂れた。それでも我慢すれば美尻になるのだと思い、じっと耐えた。しかし10分もしたら、モヤモヤと腹が痒くなってきた。ただでさえ最近は職場のゴタゴタで精神的にもやられ、ちょっとしたことで蕁麻疹が出やすくなっている。締め付けられたウエストが痒い。ああもう痒い。ただ痒い。ゴムをひん伸ばして手を入れて思う存分腹を掻きむしりたい。ああ。
痒さを忘れるためにお菓子をつまみ、テレビを見た。垂れた脂肪を思いながら「ああ、今自分は真逆のことをしている」とわかってはいたが、優先されるのは脂肪より痒さなのであった。
我ながらよく我慢したと思うが、朝方の4時になんと痒さで目が覚めた。そんな目覚め方は今まで経験したことはなかった。3000いくらも出したタイツだが、脚には全く問題がなかったのに、まさかあわよくばの美尻効果の方でこんなことになるとは思ってもみなかった。悔しいが、太腿までのやつをもう一度買ってこようと思う。すごい出費だ、バカやろうだ。泣く泣くタイツを脱ぐと、緩まったとたんに脚やら腹やらからブワーッと何かが放たれた感じがして、もしかしてこれぞリンパの流れ?と笑ってしまった。結局、ひと晩でタイツは懲りた。娘にあげようと思う。



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by zuzumiya | 2018-04-30 06:02 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

孤独を楽しむって。

ちょっとブログを書かないうちにいろんなことがあった。いや、いろいろあってブログが書けなかった、が正しい。全てが悩ましいことでガックリきている。
ひとつ、同居している元夫が職を失い、どうやら自分が宣言した7月末に出て行くというのが経済的に無理なようであるということ。
ひとつは、昨年度末に貰った処遇改善手当という名のミニボーナスの計算が間違っていて、実労働時間より大幅に減らされていたこと。これを園長から法人事務局に伝えてもらったところ、逆に労働基準法と就業規則に違反していることを指摘され、園長が厳重注意され、1年間週に実働42.5時間働いていたにもかかわらず、差額は週39.5時間までしか支払われないこととなった。且つ今期、労働時間を大幅に減らされて契約させられることになった。契約書はなぜか前々年度の契約時間数の7時間で交わしていたが「人が足りないから働いてくれると助かる」と週に8.5時間も口約束で働いていたのであった。給料も、それに基づいて計算されるボーナスもきちんと実労働時間で計算されて支払われていたため、契約書が7時間のままであったことなど大して気にとめていなかった。だが、処遇改善手当だけは契約書に基づいて支払われていたため週35時間分しか支払われていなかったのである。園長は最初、違反を理由に「今回の手当の差額は諦めてくれ」と私に言ってきたが、昨年度のあの大変なクラスで頑張ってきた1年を無駄働きにされてたまるかと事務局に直談判したら、39.5時間分まで支払われることになった。で、足りない金で騒いだ私は、今後は契約時間が週39.5時間となり、給料もボーナスも今後は減らされて、結果的に金を失くすということになった。何故、この処遇改善手当の金額違いに気づいたかというと、もともとは飲み会の席で知りたがり屋の同僚に「いくら貰った?」と訊かれて、その時、7時間しか働いていない彼女と同じ金額だったことで間違いに気づいたのであった。その彼女が後日「騒いだこと、後悔してない?」と訊いてきた。金額が足りないことを私が指摘しなければ、法律や規則に疎い園長は今も働かせすぎに気づかず、これからもいい給料やボーナスが貰えたのである。うーむ、と唸るところだが、いずれは法律や就業規則に違反していることが発覚したであろう。とは言いつつも、離婚に踏み切ったのは8.5時間働けて何とか1人でもやっていけると踏んだからでもあった。元夫の居座りも、今回の仕事の件も、とんだ番狂わせであった。
もっと言えば、労働基準法では8時間を超えて働かせた場合、残業となり、時給が1.25倍になるそうである。その事も本来なら事務局に突っ込めることだが、もういい加減交渉ごとが面倒になってきた。辞めるなら労働相談センターみたいな所も入れて派手な喧嘩もできるが、辞められない身である。時給もいいし、ボーナスももらえる珍しくいい園なのだ。
昔から家にあった蛇の置物を南東に向けて置き直し、触れればお金の音に聞こえる中国の銅製?風鈴を部屋にぶら下げて下を通るたびにわざと頭をぶつけて頭上でチャラチャラと音を出し、ド派手な黄色い財布に買い替え、中に白蛇のお守りを入れて金運を高めたつもりだったがこの有様である。
それからさらにもうひとつ、元夫が網膜剥離で入院した。職なしに加え、弱り目に祟り目、入院騒ぎでますます家から追い出しづらくなってしまった。手術すれば治ると分かっていたし、面倒を見るのは子供たちがやってくれていたので、ようやく訪れた我が家を我が家らしく自由に行き来し使えることに心弾み、3日ばかり立て続けに台所で肉を焼いて食べたりした。1階の大画面テレビで好きな映画を見もした。自由を満喫した。
で、このゴールデンウィークが始まったのである。仕事の金銭的なトラブルで一時は殺人の夢まで見て、今も何かにつけ身体に蕁麻疹が出やすくなっている私はゆっくり休もうと思っている。 昨日は髪を染めに行った。今日はひとり自転車をこいで隣町へ行き久しぶりに本屋でじっくり本を選び、美味しいパン屋でパンを買い、花屋で花を買って帰ってきた。夕食はステーキであった。月曜日に元夫が退院してくるため、台所を使えるだけ使っておきたかったのである。 元夫が帰って来れば、また私のテリトリーは2階部分となり、セブンイレブンの弁当やヨーカドーの惣菜が夕食となる。
本屋で中高年が読みそうな啓蒙書の類のところに行くと、決まって孤独について書かれた本が多い。それも孤独であることを豊かに楽しもうというやつである。私はそういうまやかしに騙されないようにしている。孤独はどうやったって孤独である。いつの頃からか、孤独のヤバさの片鱗に気づいた。文化系インドア派の私はインテリアに興味があり、読書と音楽や映画鑑賞が最大の趣味という内向的な人間である。部屋を整え、照明や香り、植物で飾り、好きな音楽をかけ、そういう自分好みに作り上げた部屋で本を読んだり、雑誌をパラパラめくったり、写真集や画集を楽しんだり、好きな映画を見たりが至福の時なのである。それでいいのである。なのに、ある時、読みたい本も見たい映画もない時があって、私は唖然とした。部屋は既に出来上がってしまっている。これ以上、家具はいらないし、観葉植物も置けない。インテリアはこれ以上いじくれず、興味がなくなっている。もはやハードの面は充足したのでソフトの面なのだが、本も映画もピンと来るものがない。そうなって初めて、退屈というものを感じた。今まで若い時からずうーっと退屈などという気分を味わったことがない。いつも自分にはやりたいことややるべきことがあって時間が足りない、忙しい感じで生きてきた。休日だって朝早く起きて動いていた。なのに、頼みの綱の本や映画がないときたら、もうどうしていいのかわからなくなった。仕事を取りあげられた定年後のオヤジのようにうろたえた。その時、ふと退屈が孤独と握手した。さみしい。退屈=孤独となった。そんなことがあってから、私は給料の中から本や映画にたくさん金を使うことに罪悪感を持たなくなった。時間を持て余す退屈が孤独を連れてくるのが怖いのである。豊かな孤独。ひとりを楽しむ。それは結局のところ、趣味に没頭できるということである。そんなことわざわざ本に書かなくても知っている。だから、今日も必死になって本を探してきたのである。読みたい本数冊と見たい映画の情報が知りえた。ホッとしている。





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by zuzumiya | 2018-04-29 21:31 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(1)

最近、花を買ってます?

満島ひかりが出ている洗顔フォームのCMに面白いセリフがあった。
設定は閉店間近の花屋の前、隣は惣菜屋である。「花を買うのをもったいないと思うようになった。花よりコロッケか、チェッです」というもの。いいねぇ、この自然な感じ。共感しまくりな女子も多いだろう。例えば、500円玉1枚しか財布になくても、昔の私だったら迷わず花を買っていたのである。ブログにもそう書いたと思う。だが、いつの頃からか「花に金をかけたって…」と思うようになってしまった。というのも花は買って持ち帰るその帰り道こそがいちばんハッピーで誇らしいのであって、花瓶にいければ3、4日で萎びてしまい、捨てるに捨てられず、どこをどう切って捨てるか花は非常に悩ましく面倒な存在になってしまうからだ。だが、それでも玄関に(自分の部屋は観葉植物のみと決めてある)切り花の飾ってある家というのは素敵な家で、家人の人柄もちゃんとしてて、私の理想の家なのだ。
だからほんとうに近所のスーパーへ行くたび、必ず毎回生花のコーナーを覗く。覗いて買おうか買うまいか、実際に買うと決めたり買わなきゃいけない時(お彼岸とか記念日とか客人のある時など)でさえ、あっちの花束を取ったりこっちの花束を手にしたりでかなりの時間迷うのである。花束の色合いや花の趣味もある。が、値段とそれに見合う花のもちを考えてひどく迷っているのである。
以前は何かいいことがあった時に実に素直に「今日は花を買おう」と思いついた。最近はいいことがそうそう起こらないため、逆にうんと腹の立つことがあった時に花を買おうと思っている。先だってからそう決めたのだった。花束を選びかねているうち、怒りもだんだん収まってくるのである。



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by zuzumiya | 2018-04-17 20:53 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

エプロンのたすき

20年勤め上げてこの3月に退職された大先輩から最後の日、エプロンをいただいた。
先輩がつい先日までご自分で使われていた目に馴染みのあるエプロンである。
正職との連携のうまくいかなさや自分の力のなさに気落ちしたままむかえた新年度。自信を失くして不安ばかりつのる朝に先輩のエプロンを願掛けのように身に着ける。
「子どもたちに怪我をさせないよう、ミスしないよう、先輩、私に力を貸して下さい」
先輩は庭に咲いた花をわざわざ園に持ってきてはトイレに飾って下さった。春は沈丁花や十二単、梅雨時には紫陽花、秋には金木犀、冬には椿。辞められた今はトイレに花などない。誰もそんな余裕がないのである。花と一緒に持ってきてくれた先輩お手製の小さな陶器の花瓶は床の隅にひっそりと置かれたままだ。それを見るたび、先輩の些細なでも立派なお心がけに頭が下がる。
今の園にこれからも長く勤めるつもりでいるが、いつかは先輩のように辞めていく日に後輩に「頑張ってね」とエプロンを渡していきたいと思う。



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by zuzumiya | 2018-04-15 20:10 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

馴染んだものを捨てる時

4月の新年度のクラスと言ったら、もう、どこへ入ってもドタバタで、非常にストレスフルである。乳児クラスに入れば泣きに泣かれておんぶに抱っこ。幼児もまさかのオシッコ漏らし。3月の末まで出来ていたことが担任が変わる、クラスが変わるで途端に出来なくなってしまう。担任が変わるので昨年度までの身体に馴染んだやり方が、例えば机ひとつの向きからしたって、ガラリと変わるので非常勤で今度は全体フリーの私は大人にもやたらに気を使う。昨年度はこうしてましたよ、とか、こうするとスムーズに流れて行きませんか、などとは口が裂けても言えない。新担任の言う通りにモヤモヤしててもハイハイと動かざるをえない。面白いな、と思ったのは3歳児のクラスのやり方。昨年度は障がい児が多くて猫の手も借りたいクラスに専属でいたが、そのクラスではある程度の時間20から25分程度の時間で「ごちそうさまでした」をみんなで一緒にさせたが、今回の新担任は食べ終わった子どもから順に「ごちそうさま」をしてうがいをさせていた。早く食べ終わった子は玩具を出して遊んでいいのである。昨年度のやり方はとにかくみんなで一斉に「ごちそうさま」するので、多動の子さえ椅子に座り続けることを強く指導されていた。以前の先生なら、玩具なんてもってのほか、短い活動の合間ならせいぜいが絵本で「絵本だけ出していいよ」と言われていた。それに慣れていた非常勤のフリーらは「先生、おままごと出してていいんですか」なんて声が出た。新年度の始まりのまだパジャマにも着替えさせないこの時期だから、という理由もあるのだろうが、障がい児もいないただの3歳児クラス、その上に担任の保育観の違いも大きいように思える。慣れというのは恐ろしい。正職にくっついて懸命に働いているうちに、その先生の保育観ややり方に馴染んでしまい、いつの間にかそれが正解と思えてしまう。正解とは本心から思っていなかったはずなのに、新しい先生の新しいやり方にどことなく違和感を持つ。で、改めてはたと気づくのだ。どっちがより子どものためにいいか、子どもにとって自然なことかを。その意味では面倒でも担任が変わることはやはり大事なのである。4歳児クラスも担任が変わってクラスを1から作り直しているようだ。正職を含め障がい児に詳しい先生が二人いることで、昨年度の障がい児への加配が加配でいられなかった教訓を生かして、新任の非常勤が一人多動の子に付きっきりである。それで担任二人はリーダーとサブを回していこうとしている。昨年度までは強い指導、力で従わせていた多動児はおかげで人を試すタガがはずれたような振る舞いも見受けられるが、昨年度までは出来ていなかった机上でのお絵描きを楽しめるようにもなり、友だちともだいぶ遊べるようになってきた。子ども自身の成長もあるだろうが、たかが1ヶ月ほどの間である。これはやはり担任たちが作ろうとしているクラスの雰囲気というか、保育観の違いなのだろうと思われる。昨年度関わった者として、当時のクラスの保育が失敗やしくじりと印象づけられるのは遺憾だが、きちんと話し合いをしながら保育が出来ていなかったその連携のまずさにだけは今でも心残りである。大変なクラスだからこそたくさんたくさん話し合わなければいけなかったのである。
非常勤の全体フリーは全クラスの子どもの名前と特徴、担任の人柄、クラスのやり方等、細かいことまで覚えることがめいっぱいである。気も使う。正直、今はシンドイ。乳児のおんぶに抱っこがもう膝や腰に来ている。その上、土曜出勤も加わる。ああ、とため息が出る。でも、人が足りない。まだまだ休むわけには行かないのである。

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by zuzumiya | 2018-04-11 23:55 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

お持たせ袋の定番は

先日、後輩に貸した靴下が返ってきた。またしてもディズニーランドの袋に入って。
誰かに何かを渡す時の袋は女子だったら、その辺のスーパーのレジ袋なんかじゃなく、ディズニーランドやらちょっと洒落た絵柄や名の知れたブランド名の入ったしっかりした素材の袋を選ぶ。ここではそういう袋を「お持たせ袋」と名付けよう。
娘と同居していた頃は彼女が洋服や服飾雑貨を買ったりするたびに、花柄やパステルカラーや若い娘が好むブランドのロゴの入った小袋を彼女がこまめに取っておき、友人たちへのお持たせ袋に活用したりしていた。私も時々、少ない友人にCDやら文庫本やらを貸す時に使わせて貰ったりした。その娘が巣立ってからは置いていった可愛くて華やかな小袋たちはサイズぴったりという理由で全て猫の糞取りになった。いや、私だって小袋はあれば取っておく。あくまで第一義的には猫の糞取り用にだが。で、どんな袋が取り置かれてあるかといえば、多くがLoftや無印良品の袋、本屋の袋なんかである。色気も可愛げもないのである。
そこへいくとディズニーランドのミッキーやキャラクターのついた絵柄の小袋はなんていうか、お持たせ袋の定番じゃないだろうか。今まであれで貰う率が高かった。確かに絵柄が捨てるにはもったいないほど凝っていて可愛い。それに貰った方は「あ、この人、アニバーサリーなんたらに行ったのね、きっと彼氏とね」なんて思ったりする。「ディズニーランドごとき外国じゃないんだから行こうと思えばいつだって行けるわい!」と思いきや、実はなかなか行けないことをみんな知っている。だからこそ、今だに「行ってきました!」の価値が上乗せされるのだろう。私なんぞ過去に一度貰ったディズニーの袋をきれいにシワを伸ばして取っておき、次に使ったりしたこともある。いやまてよ、ひょっとしたら私だけじゃなくみんなもそうやって使い回ししているから、定番にのし上がったのかもしれない。ん、そうだ、きっと。



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by zuzumiya | 2018-04-08 15:36 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

窓の灯り

家々の窓の灯りを見るのが好きだ。たとえ、その内側で家人たちのいろんな揉め事が起きていようと、たぶん、問題を抱えていない家などないんだろうが、あの橙色の窓の灯りはいつだって平和にしか見えなくて、見上げる私の心を癒す。台所の小窓の蛍光灯に照らされて洗剤やら鍋釜やらがぼんやり見えているのもいい。夏場などそよぐレースのカーテンの隙間からテレビの画面がチラリと見えるのもいい。ああ、あの中でみんないま暮らしてるんだな、もし、私がここの家の奥さんだったらどんな家族を持ってどんな人生を送っているのかな…。そんな他愛もない想像をしながら歩いたり、自転車をこいだりする。坂道を上ると我が家が見えてきて、玄関に灯りがついている。玄関の灯りは帰ってくる家人への「お帰りなさい」の灯りである。離婚後も何故か一緒に住むはめになって口も利かない二人だが、互いに玄関の灯りだけはつけているというのも不思議な話だ。
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by zuzumiya | 2018-04-08 12:01 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)


ふだんの暮らしに息づいているたいせつなもの、見つめてみませんか?


by zuzumiya

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