カテゴリ:日々のいろいろ( 718 )

好きなおもちゃで自由に遊べない

今日、こんなことがあった。
早番で、ある子ども(2歳児クラスのすでに3歳になっている男の子)がミニカーで遊びたいと言い出した。早番でのクラスは最初に幼児も乳児も3歳児クラスに集合し、しばらく遊んで乳児が増えてくるとその後、幼児と乳児に分かれて保育する。乳児の早番は1歳児クラスに移動となる。玩具は当然のことながら1歳児用のものしかない。絵本、井形ブロック、レゴブロックなどである。ミニカーはあるがトミカのようなものではなくプラスティックの大きめのはしご車やらトラックやらで赤ちゃんぽいものである。
男の子は最初の3歳児クラスで遊んでいたトミカでもっと遊びたいのであった。
3歳児クラス以外には一時保育の部屋にそのトミカがあった。どうして彼がそれを知っているのかといえば、遅番に限って2歳児クラスは一時保育の部屋に玩具を借りに行っているのである。トミカだったり、プラレールだったり、トーマスだったり。私は最初、彼にパトカーが欲しいとねだられた時、てっきり3歳児クラスのトミカだと思っていた。それに、彼が早番時に乳児クラスに移動になる際に、お気に入りのパトカーを手離さない時には「持ってっていいから。あとで返してね」という対応をして泣かずに行かせてきた。彼の「ミニカー欲しい」にはこういう背景がある。
で、ここのところ、毎日早番時にミニカーで遊びたいと主張して、遊べるなら泣かずにすんなり母親とも離れられ、ねだられている私は毎回、早番の正職の先生に「ミニカー持ってきてもいいですかねぇ」とお伺いをたてていた。先生によっては「いいよ。〇〇クラス(一時保育)のミニカー持ってこよう」とすんなりなり、子どもにねだられていた手前、ほっと胸をなでおろしていた。ミニカーがあるため、彼だけでなく他の子もうまく親と離れられ、朝の機嫌も良く、さほどのケンカもなく遊べていた。
で、今日。いつものように彼がミニカー欲しいと言い出し、早番担当にもOKを貰い、一時保育の部屋にトミカを取りに行った先の廊下で2歳児クラスの担任にばったり出くわした。担任は「えッ?早番の時も借りに行ってるの?そんなの知らなかった」と驚いた様子。早番の先生に承諾を得ている旨を説明しても不服な顔をして「トミカは〇〇組のおもちゃだよ。なんでお部屋のおもちゃで遊ばないの!」と怒り出した。当然の事ながら彼は泣き出してしまった。私が「とりあえず、今回はOK貰っているので持っていくって事で、毎回じゃないことはもう〇〇先生(早番の先生)と約束してきましたからすみません」ととりなしてトミカを持って行った。
部屋に着いて、彼が泣いてる件の話を早番の先生に伝えると「担任の〇〇先生には私からも言っておくからね、大丈夫だよ」と彼は慰められ、早速トミカで遊びだした。ところが、いつも彼とトミカを走らせたり、ブロックで駐車場を作ったりして遊ぶ私が今日に限って他の子に膝に乗られ絵本を何冊も読まなければならなかった。そのうち彼と友だちたちは自分のTシャツにトミカをたくさん入れて持ち運ぶ遊びをやり出して、その姿をたまたま見かけた先ほどの担任が「そんな遊び方は違うでしょ。走らせたり、駐車場作ったりするんじゃないの?そんなことしてるんなら、トミカ返してくるから」と怒った。早番も「ごめんごめん。先生、そういう遊び方してたとは知らなかった。〇〇先生の言うとおりだわ。ハイ、トミカしまって」と同調した。そして大人2人によって決められた事は絶対で、有無を言わさず片付けとなった。今度は涙も出ていない。
このやりとり、保育士だったり、保育補助だったり、保育の学生だったり、はたまた保護者だったりのそれぞれの立場でどう思うか聞いてみたい。私は正直、彼が可哀想になった。好きなおもちゃを部屋に持ってくるまでにも文句を言われ、ようやく遊べたと思ったら今度は遊び方が違うと言われ、結局、取り上げられる。一緒に遊んでいた他の子どもたちもとばっちりをくっている。遅番で使っていて、どうして早番には使ってはいけないのか。その違いは何なのか、子どもにキチンと説明できるのだろうか。2歳児クラスだが本人はもう3歳児の発達段階の子が早番クラスの1歳児のおもちゃで、しかも毎日同じもので遊べというのはどうなんだろう。大人の私だってマンネリで、ブロックで何か新しい刺激的なものができないかと毎日頭を悩ませているのに。これまで幼児クラスで遊んでいたことやパトカーを持たせて対応されてきた背景だってある。それにおもちゃでどう遊ぼうが子どもの勝手じゃないのか。シャツで何台包んで持てるか、それだって彼が発見した遊びであり学びである。子どもの遊びはどんどん変わる。その後の遊びで先生お望みの駐車場作りが出てくるかもしれない。
もちろん、正職2人がガチッとスクラム組んでおもちゃを取り上げにかかれば、非常勤の私が「それってあんまりじゃないですか」とは言えない。燻りながらも従わざるをえなかった。何となく気のせいか、子どもに言われるがままにトミカを持ってきた私が考えなしというような空気が漂ってすごく嫌だった。私には彼がわがままなのではなく、大人の場当たり的な判断と大人の都合としか考えられなかった。保育っていろんな意味でホント難しい。




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by zuzumiya | 2018-09-13 23:53 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(2)

子どもの何を育てたいか

仕事のことはあんまり書きたくはないんだけれど、どういうわけか読者にはよく読まれているらしい。乗せられて今日はちょっと書く。
保育士の先生が子どもの興味をぐいっと引っ張る一斉保育の素晴らしさは見事なものだ。先生がマイバックをゴソゴソしながら「お話読むよ〜」と叫べば、一斉に1歳児が集まる。それも「ちょっと前に来すぎ〜」と先生から文句が出るほど食いつくように見ているのである。1歳児が、である。もちろん、絵本選びも読みもうまい先生なのであるが、この集中、いつも惚れ惚れしてしまう。ああ、こうやって先生の話は面白いもんだ、先生の話を聞いてみようと自然に調教していくわけか、と納得する。
例えば、保育士の夏休みでいつもより人手がちょっと足りない時、そういう先生は自由遊びを選ばない。「お話読むよ〜」とひと声かける。自分一人で一気に子どもを引きつけて、その隙に他の先生に雑事をやらせてやる。自由遊びだと必ず喧嘩があちこちで始まり、一人では見きれないからだ。この判断、確かにうまい保育だと思う。と同時に、いかにも先生ありきの一斉保育らしいと思う。

私が昨年から引き続き、メインでいるクラスは3歳児。今度の担任は一斉保育の園には珍しく遊びを中心に考えてくれる保育士である。もっと言えば、躾より遊びの充実を優先するタイプである。普通の、というか昨年度の担任なら、椅子を子どもたちがワンサカ出して遊ぼうもんなら、危ないとか出す数の制限にかかるとこだが、やりたいようにやらせている。食事の後もパジャマに着替えさすことより遊ばせる。食事の後片付けでどんなに大変でも子どもは布切れをヒラヒラさせて呑気に「せんせい、マントして〜」と来る。内心、マントじゃねえだろ、パジャマだろと思っても、担任はパジャマを着せるを選ばずに自由に遊ばせるのである。自由遊びであるから気づくとマントもあれば、ままごともパズルもブロックも出ていてクラスはオモチャでひっちゃらけている。これが昨年度の先生だったら、ひと声「絵本だけにして」で済んでいた。この違い。
確かに片付けている大人からしたら、片付けたそばからで椅子を再び出されて電車ごっこで並べられるのは徒労感ハンパない。でも、よくよく考えてみれば絵本だけという遊びの制限をかけるのは大人の都合なのである。子ども本来の姿ではない。担任が夏休みで休んだ時に他クラスの先生が手伝いに来て「すごいわね、このクラス」と半ば呆れた顔をしていた。パートも「オモチャまた出していいの?」と驚いている。
統制がとれない、ヒッチャカメッチャカのクラスに見えるかもしれない。しかし、ままごとの流し台の向きを変えて、水道を電車の運転レバーに見立てて絵本を運行表に見立てて遊ぶ発想を見せてくれたのは今のクラスの子どもだけである。「これはおままごとの水道だからおままごとで使って」などと言っていたら、絶対出てこない発想である。やりたい遊びのためなら、イメージの実現のためなら机の裏面だって椅子だってなんだって使おうとする、大人に机を出してもらう時間も惜しいまま床でどんどんパズルを始めちゃう。つまりはやりたい遊びと実現の欲求に忠実で、何としてもそれをやり遂げようと自ら考え動く力がガンガンに養われているということなのだと思う。やりたいことを今やりとげたいという欲求の強さは子どもといえど逞しさがある。躾の面ではパズルは机について椅子に座って、と言いたいところだが、そんなことお構いなしに始める姿は実に子どもらしく無条件に輝いている。見方の問題なのだろうが、もともとは躾意識の強い一斉保育の園なのでこういう自由遊びに重きを置く変わり種の先生がいても面白いんじゃないかと思って見ている。彼女に対して「〇〇先生は怒らないから」と批判めいたことを言う経験3年目の保育士がいるが、ここで道を間違えてほしくないなと思う。やりたい遊びをやり遂げようとするあのがむしゃらなパワー、そこから生まれる発想力、創造力。大人の自分たちにも欲しい力じゃないか。躾として先生の怒号一発でその萌芽を摘んでしまうことは実は容易なのである。子どもの何を育てたいか、今の担任にはそれがはっきり見えているのだろう。そう理解する。
最初は違いに驚いて担任の指導によってこうも子どもが変わるのかと思ったが、今は大変だけれど、発想力のある頭の柔軟な面白い子どもたちに尊い魅力を感じている。

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by zuzumiya | 2018-09-09 23:10 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

手研ぎ男、保育園に現る

今日、園庭遊びの追いかけっこで手研ぎ男になってみた。
手研ぎ男とは私の本『夫婦いとしい時間』の中で元夫が子供たちと戦いごっこをする時に登場させた片手が鋭く長い刃物の怪人である。
子供たちを追いかけ、ジャングルジムに追い込む。ジャングルジムの升目を障子の升目に見立てて手研ぎ男の鋭いナイフがグサッと刺していく。グサッ、ズボッとやるたび子供たちが奥の方に尻込みしながら「きゃあああ」と嬉しいんだか怖いんだかわからない悲鳴をあげる。そのうち、勇気のあるのが一人、出口から逃げ出す。「シャキーン」と言いながら手研ぎ男がナイフの手をこれ見よがしに研ぎながら追いかけていく。「ザッ、ザバッ」途中で空を切るアクションも忘れない。子供はぎゃあぎゃあ言いながら必死に逃げていく。カマキリの鎌のように片腕を振り上げては逃げていく子供に切りつける。必死に走って子供はまたジャングルジムに逃げ込む。逃げ込むたびにジャングルジムの横棒におでこを2度もぶつけているが泣いてる暇はない。

「そんなこんなですんげー疲れた。でも子供にはウケるよ」
と元夫に笑って言ってやりたかったが、言えなかった。深い意味などないのだけれど。






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by zuzumiya | 2018-09-06 21:45 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

最近の悩み事

ああ、悩ましい。
ここのところ、ずーっと部屋に飾る絵のポスターのことで悩みに悩んでいる。
最終的には今の私の部屋が寝室のみになる予定なので、穏やかな絵がいいかなと思ってピカソの『夢』かオディロン・ルドンの『目を閉じて』に絞られている。ピカソはメジャー過ぎてへそ曲がりの私はちょっと嫌なのだが、椅子に座って居眠りしている絵がなんとも穏やかでいい。ネットでこのクッションカバーを見つけてから気に入っている(残念ながら素材が麻で、購入を断念した)。赤を主体にした色合いもパンチが効いてて茶系の部屋に彩りを加えてくれる。ただ、ほんとうに、有名なピカソの有名な絵を飾っているという一点でどことなくダサくて迷いに迷っているのである。
その点ルドンはピカソよりかはメジャーでない。ただ『目を閉じて』は水面のような場所から女性の首が出ていて、そっと目を閉じているという絵で、実に穏やかで静謐な絵なのだが口の悪いうちの娘が遊びに来たら絶対「あれ、幽霊みたいじゃん」か「死体みたいで気持ちわるーい」と言うだろう。そういうナンクセが付くともうそうとしか見えなくなるのが私の芯の弱さで、情けないのだがこちらも迷っているのである。ピカソは額装でも6000円台、ルドンは大きいのにしたいので14000円以上になる。たったそれだけの金額を迷ってしまうのは、元夫が出て行き、模様替えを済ませてから購入した方が物の場所が決まるからいいのではという思いもあるからだ(理性がちゃんと残っている)。早く欲しいという物欲と模様替えで絶対に買わなきゃいけない優先物(電子レンジとかカーテンとか猫タワーとかテーブルとか)の出費とのせめぎ合いなのだ。絵のポスターはいわば贅沢品である。だからこそ躊躇する。今月は絵本も本もCDもすでに買ってある。出費は抑えなければ。今日、京都の恵文社から届いた『庄野潤三の本 山の上の家』やら先日買った『日本の小さな本屋さん』を開くと、素敵なインテリアに部屋を飾りたくなり、テレビで医学番組や保険のCMをみれば、老後のためにできるだけお金を貯めておかねばと堅実的になる。ああ、今夜もネットの購入するボタンの手前で指が振るえ、止まる。ああビンボー人ってこれだからいやよね、なんてひとりごちるが、さっきから台風の大風で家がバキバキ言ってるし、微妙に揺れている時もある。んなこと呑気に悩んでたらこの木造家屋が倒壊して、無一文になるやもしれぬ。ごめんなさい、神様。現実をみます。


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by zuzumiya | 2018-09-04 21:30 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

楽しみな模様替え

10月の末には元夫がようやく出て行き、念願のひとり暮らしになる。
家全体が自分だけのものになり、大掛かりな模様替えができるので今からどうしようか考えてワクワクしている。
1階の元夫が使っていた6畳間に本棚を全て置いて図書室にしようかと思っている。そうすれば地震が起きても本棚の本につぶされずに寝ていられる。2階の私の部屋は寝室にしよう。ずいぶん広くなる。読書用の一人椅子もサイドテーブルもスタンドライトも下に持っていく。揺り椅子はそのまま2階の寝室に置いてもいいな。キャットタワーも天井に突っ張るタイプのシンプルなものにかえたい。食堂のテーブルは丸テーブルにかえる。今部屋に飾ってある額装のイラストは静岡にあるカフェの、珈琲をドリップしている女性の絵なのでこれを機に食堂の壁に移そうと思う。空いたところにもっとアートっぽい絵を飾ろうと思う。マグリットかホッパーの絵なんかどうかとネットのポスター店を見て回っている。マグリットの、読書している女性が目をひんむいてギョッとしている絵を見つけたのだが(タイトルは分からない)、とても面白くて気に入った。読書好きの私にぴったりなのだが、この絵は寝室より図書室にふさわしい気する。「山高帽の男」や「複製禁止」は気に入ってるが、上も下もマグリットにしてしまうのはつまらない。寝室として使うと決めたからには寝室に合う絵にしなくては…。悩ましいがこういう悩みはすごく楽しい。



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by zuzumiya | 2018-08-30 23:13 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

シャワーを浴びると

外から帰ってシャワーを浴びる。まず頭に浴びるとふわっとお日様の匂いがする。
子どものほっぺたとか布団とか洗濯物とかの形容にお日様の匂いって言うけど、外で一生懸命働いた私の頭からもお日様の、日向の匂いが立ち昇る。あの瞬間が好き。昨日は蚊がいて、蚊取り線香を焚いたので、シャワーを浴びたらぷうんと蚊取り線香の匂いが立った。夏らしくっていい。

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by zuzumiya | 2018-08-17 17:55 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

夏の終わりは…

16、17日と夏休みを頂いている。昨日は娘と立川でショッピング&映画で、今日は図書館に本と雑誌を借りに行ってからは、たまった積ん読本をちびちび読んでは居眠りしていた。風が秋を運んできた。蝉はより一層騒がしく鳴くが、空が、雲が夏のひと頃と全然違う。小学生の頃、プールに浮かんで「かったるいなぁ」と見上げた空の雲のシュッとした感じ、追いやられるような風の感じを思い出す。あの頃から「もう秋になるんだなぁ」とわかっていた。
夏の終わり。夏の終わりはいつでも何かやり残した感がある。夏らしいことを少しもしなかったと悔やむのだ。毎年のことだけど。どうも夏という季節が、夏という季節だけがそう感じさせる、人に強いてくるようである。でも、その「夏らしいこと」っていうのも年を取るにつれ「しなかった」ではなく、「できなくなって」いく、実は「選ばなくなって」いるにすぎないのではないか。夏のイメージだけがいつでも不動で、私はそれを受け止めきれない年になっていく。海水浴に行けなかった、スイカ割りができなかった、旅行に行けなかった、川遊びやキャンプやバーベキューなんかができなかった、墓参りに行けなかった、かき氷が食べられなかった、花火を見られなかった、お祭りや盆踊りに行けなかったなどなど、ほんとは、ほんとのところはどれもそれほどやりたいわけでもなかったんだろう。そんなこともう面倒だって、もういいよ、人混みは、って思っていたに違いない、心の奥底では。
凄いね、夏って。夏のあるべき濃いイメージがこんなにも人に影響を及ぼし、左右し、夏の終わりには充実だの諦めだの後悔だの来年こそはの希望だのを与えるんだから。そんな季節って他にないよな。もう、50代になったんだから次は孫ができるまで、そういう活動的な夏のイメージに囚われたままでやたら残念がるのはよそう。私は冷房の効いた部屋でひたすら本を読んでは居眠りし、ハッと目覚めてまた読むのゆるやかな、静かな、何もしないで過ぎて行く夏を楽しんでいます、でいいんじゃないか。


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by zuzumiya | 2018-08-17 17:39 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

今がすべてで

保坂和志さんの短編集『ハレルヤ』を読んでいて、こんな文章があった。

【ジミ・ヘンドリックスもジョン・レノンも著作権継承者が彼らの音楽の使用、肖像の使用にうるさいが本人が生きていたら、
「好きに使ってくれ。」
と言うだろう、そしてきっと、
「どうせ、もうその写真は俺じゃない。」
と言うだろう。】

この部分を読んだ時、宮本浩次を思い出した。本人が本当にこう言うかはさて置いて、私にとっては宮本さんはそういう感覚の人なのだ。今だけを生きる人で、今がすべてで昔の、いや、ほんの数週間前の写真でも宮本さんはもうそこに居ないという気がする。いつでもファンは彼の抜け殻だけを後生大事に胸に抱いている、そんなイメージ。

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by zuzumiya | 2018-08-12 16:07 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

ニチニチ草の葉陰に

猛暑の続く中、一回の水やりを忘れたために玄関脇にあったワイヤープランツが全枯れしてしまった。空いた鉢に今度は花でも植えようとホームセンターを見て回った。ここ何年かはポピュラーなニチニチ草とペチュニアを交代に植えてきた。しかし、夏といえば、やはりニチニチ草だろう。容赦ない直射日光と少々の水やり忘れでも耐え抜くしぶとさがある。育てやすさはダントツなのである。ペチュニアはしなやかで、か弱そうな外見にもかかわらず、放っておくとやたら丈を伸ばしてアフロ頭のようにだらしなくぼうぼうになる。剪定すればまた新たに茎が伸び、再び花を付けるのだが、そういう面倒さを強いてくるのが嫌だ。萎れた花を取ろうと伸びたアフロヘアの中に手を入れると、いかにも「ペチュニア」というクチュクチュした音らしい、なんだか粘っこい液が付いてくる。そんなところも嫌いである。その点、ニチニチ草は潔い。花はしぼまず、パラソルのように開いたままポイッと落ちる。その名の通り、一日咲いたらポイッなのである。ニチニチ草のその潔い捨てっぷりは過去をくよくよ振り返らず、明日は明日の風が吹くさという非常に前向きな人生訓を想起させる。掃除のしやすいところも助かる。
で、ニチニチ草の赤とピンクを購入し植えたのである。翌日、水やりの時に鉢を見ると葉っぱの上に4センチくらいの子どものカマキリがいた。そいつはワイヤープランツが植わっていた時に一度姿を見せたやつである。ワイヤーがそいつの巣で、今までこんもりとした葉の茂みに守られ、ここまで細々と一匹で育ってきたのだった。それにしても何を食べて生きてきたのか、ずいぶんと大きくなった。ワイヤーが全枯れして庭に捨てられた時には門柱の裏にでも避難していたのだろうか。雫の残ったニチニチ草の葉にしっかりつかまって揺れている。しかし、私はカマキリが好きではない。だいいち、あの顔。三角形の細い顎に大きな目。いかにも狡猾、意地悪そうな顔。怒った時のカマの振り上げ方、中国人の武闘家のような一丁前の動き、燕尾服のような裾広がりの羽の広げ方、ぷくりと膨らんだ腹。どこもかしこも嫌いだ。なのに、毎朝毎夕の水やりの時につい「今日もまだいるかなぁ」と重なる葉っぱの陰にその姿を探してしまう。見つけると「おはよう、今日も暑くなるぞ、気ィつけろな」と心で呼びかけ、姿が見えないと「死んだのか」「ついにどっかに行っちゃったか」と心は乱れる。うちの植木鉢で育った、うちに居ついた、ただそれだけだが、すでに情のようなものが湧いてきてしまったらしい。居たものが居なくなるのはちょっと寂しい。不思議なことに大嫌いなカマキリでさえそう感じることに驚いている。


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by zuzumiya | 2018-08-11 18:03 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

これからだ

離婚の財産分与的な話し合いが済んだ。大きな家電は持って行かれないで済んだ。アイロンもホットカーペットも手放さずに済んだ。電子レンジだけは購入せねばならない。細々とした日用品を幾つか手放すがまあまあ譲歩できた。出て行く期限も決まった。今度は10月末だ。昔のスケジュール帳を引っ張り出して見てみたが、6年前の10月に元夫と別居していたことがわかった。10月はそういう月なのか。でも、私の53歳の誕生日がある。53歳は良いことがいっぱい、でなくてもいいから、今年よりはあってほしい。健康に気をつけて新たな人生を楽しみたい。
明日は母と映画デートだ。お互い連れ合いがいなくなって母とようやく水入らずの時間が持てるようになった。これからだ、と期待する。

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by zuzumiya | 2018-08-05 00:35 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)


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