いい男がいない
最近、不思議だなぁと思うことがある。
若い頃に比べて、まわりにいいと思う男がいないのである。
10代の頃は友人と遊びに行って街を歩くたび「ねぇ、あの人、カッコよくない?」と囁きながら「指さしちゃダメっ!」などと叱られつつ、きゃあきゃあ騒いでいた楽しい記憶がある。通学の電車の中でもカッコいい人を見つけると、気になって文庫本を読み進めることができず、全然、頭に入ってこなかった。
今思えば「モテキ」というのは確かにあって、大学の頃から社会人になりたてぐらいまではこの私でも二股をかけたりできていた! 今となってはとても信じがたいが、冷静に考えれば、あれはやっぱりどんなメスでも輝いて見える「発情期」にすぎなかったんだろう。
ま、その発情期に何とか一匹のオスの目をだまくらかして結婚して、出産して子育てして成人させて、ようやく子離れできて、やれやれ、ふぅと安堵のため息をつきながらゆっくり世間を見回してみると「アレ?いい男ってこんなにいなかったっけ?」なのである。
世の中には子育て中にも浮気できる奥さんがいたり、中年になって突然好きな人ができて熟年離婚に踏みきる奥さんもいるというのに、私の目はたしかに緑内障ではあるが、いつからこんなに視野が狭く、曇ってしまったんだろう(って、緑内障は曇りません!)。
街を歩いていても、電車に乗っていても、デパートでも、エレベーターの狭い箱の中でも、いいなと思う男が見えてこない。別にこの年になってどうこうしよう、どうこうできるわけでないのに、そんな「ただ遠くから見つめて少しだけ胸躍らせる機会」にさえ恵まれないのは、何というか、人生つまらないではないか。若い頃にはできていて今できないというのは、もしかしたら「いい男」の「いい」は体の発情(女性ホルモン?)とか人生経験(人生の垢とも言える)と深く関係して変わっていってしまうものなのか。
私はこれでも自分をわかっているつもりである。51歳のオバサンが自分の息子ほどの若い男の子に「いい男ねぇ」と目を瞬かせるわけがない。親として息子のツラと比較してしまう。30代も若い。40代後半ぐらいになって「男感」が漂い出てくる。どうしても同じ年代の男を目が探す。すると残念ながら額の方が後退していたり、お腹の方が前進していたり、あるいはなんだか体全体にアイロンをかけたいくらいヨレヨレ感が出ていたりで、とても「いい」とは思えないのである。そうでない人とエレベーターかなんかで隣合わせになり、「もしも、私がこの人と結婚していたら?」と一瞬の妄想はしてみる(私はこの一人遊びをよくする)が、すぐに「やっぱりないな」と思ってしまう。かといって、自分の夫がいちばんいいとも思えないのである。「よっぽどいい男が出てくれば別だが、そうじゃないなら面倒くさいから夫でいいか」ぐらいの落ちである。
この辺が「人生の垢」で、「どんな男と一緒になっても人生、山アリ谷アリで喜びも悲しみもあるんだろうよ」と達観めいた、諦念めいた冷静さに覆われてしまう。もう一度、人生をかけて互いを知ろうと躍起になって互いの違いしか分かりえない暮らしを「そんなはずないだろ」と何度も期待をかけながらぶつかって、次第に「そういうものか」と諦めて「ま、いいか、これで」と静かに収まっていく暮らしをそんじょそこらの男とドタバタと繰り返そうとはどうしても思えないのである。疲れる。面倒である。人生もう一回繰り返せって、考えてみてよ、絶対、疲れるよ。
愛っていうのはこういう結末だって迎えてもいいのかもしれない。「よっぽどの」と言いながら実は何も待っていないくて、垢にまみれてボロボロだけど手放すにはなんだかさみしいタオルケットに包まれて、「くせぇ」だの「ボロでさみぃ」だのぼやきながら、消極的で、一度しかない人生に対して決して前向きとは言えないんだろうけど「ま、いいか、もう少し寝とくか」とゆるいナアナアのもやもやの温かさの中で手足をゆっくり伸ばしていく感じ。そんな体たらくを許される居場所が作れただけでもよかった。
でもある日、そんな私にジリジリと鳴り響いて空気を引き裂く目覚まし時計のようないい男が現れて、跳ね起きちゃう人生もないとも限らないのである。って、宮本浩次の夢か、それ(笑)。
若い頃に比べて、まわりにいいと思う男がいないのである。
10代の頃は友人と遊びに行って街を歩くたび「ねぇ、あの人、カッコよくない?」と囁きながら「指さしちゃダメっ!」などと叱られつつ、きゃあきゃあ騒いでいた楽しい記憶がある。通学の電車の中でもカッコいい人を見つけると、気になって文庫本を読み進めることができず、全然、頭に入ってこなかった。
今思えば「モテキ」というのは確かにあって、大学の頃から社会人になりたてぐらいまではこの私でも二股をかけたりできていた! 今となってはとても信じがたいが、冷静に考えれば、あれはやっぱりどんなメスでも輝いて見える「発情期」にすぎなかったんだろう。
ま、その発情期に何とか一匹のオスの目をだまくらかして結婚して、出産して子育てして成人させて、ようやく子離れできて、やれやれ、ふぅと安堵のため息をつきながらゆっくり世間を見回してみると「アレ?いい男ってこんなにいなかったっけ?」なのである。
世の中には子育て中にも浮気できる奥さんがいたり、中年になって突然好きな人ができて熟年離婚に踏みきる奥さんもいるというのに、私の目はたしかに緑内障ではあるが、いつからこんなに視野が狭く、曇ってしまったんだろう(って、緑内障は曇りません!)。
街を歩いていても、電車に乗っていても、デパートでも、エレベーターの狭い箱の中でも、いいなと思う男が見えてこない。別にこの年になってどうこうしよう、どうこうできるわけでないのに、そんな「ただ遠くから見つめて少しだけ胸躍らせる機会」にさえ恵まれないのは、何というか、人生つまらないではないか。若い頃にはできていて今できないというのは、もしかしたら「いい男」の「いい」は体の発情(女性ホルモン?)とか人生経験(人生の垢とも言える)と深く関係して変わっていってしまうものなのか。
私はこれでも自分をわかっているつもりである。51歳のオバサンが自分の息子ほどの若い男の子に「いい男ねぇ」と目を瞬かせるわけがない。親として息子のツラと比較してしまう。30代も若い。40代後半ぐらいになって「男感」が漂い出てくる。どうしても同じ年代の男を目が探す。すると残念ながら額の方が後退していたり、お腹の方が前進していたり、あるいはなんだか体全体にアイロンをかけたいくらいヨレヨレ感が出ていたりで、とても「いい」とは思えないのである。そうでない人とエレベーターかなんかで隣合わせになり、「もしも、私がこの人と結婚していたら?」と一瞬の妄想はしてみる(私はこの一人遊びをよくする)が、すぐに「やっぱりないな」と思ってしまう。かといって、自分の夫がいちばんいいとも思えないのである。「よっぽどいい男が出てくれば別だが、そうじゃないなら面倒くさいから夫でいいか」ぐらいの落ちである。
この辺が「人生の垢」で、「どんな男と一緒になっても人生、山アリ谷アリで喜びも悲しみもあるんだろうよ」と達観めいた、諦念めいた冷静さに覆われてしまう。もう一度、人生をかけて互いを知ろうと躍起になって互いの違いしか分かりえない暮らしを「そんなはずないだろ」と何度も期待をかけながらぶつかって、次第に「そういうものか」と諦めて「ま、いいか、これで」と静かに収まっていく暮らしをそんじょそこらの男とドタバタと繰り返そうとはどうしても思えないのである。疲れる。面倒である。人生もう一回繰り返せって、考えてみてよ、絶対、疲れるよ。
愛っていうのはこういう結末だって迎えてもいいのかもしれない。「よっぽどの」と言いながら実は何も待っていないくて、垢にまみれてボロボロだけど手放すにはなんだかさみしいタオルケットに包まれて、「くせぇ」だの「ボロでさみぃ」だのぼやきながら、消極的で、一度しかない人生に対して決して前向きとは言えないんだろうけど「ま、いいか、もう少し寝とくか」とゆるいナアナアのもやもやの温かさの中で手足をゆっくり伸ばしていく感じ。そんな体たらくを許される居場所が作れただけでもよかった。
でもある日、そんな私にジリジリと鳴り響いて空気を引き裂く目覚まし時計のようないい男が現れて、跳ね起きちゃう人生もないとも限らないのである。って、宮本浩次の夢か、それ(笑)。
by zuzumiya
| 2016-10-10 08:17
| 日々のいろいろ
|
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by zuzumiya
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