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私のなかの和歌~角田光代著『私のなかの彼女』を読んで(ネタバレ注意)~

私のなかの和歌~角田光代著『私のなかの彼女』を読んで(ネタバレ注意)~_a0158124_14142691.png角田光代さんの新作『私のなかの彼女』を読んだ。
私にとっては思い当たることが多すぎて、読んでいて精神的にはかなりキツイ内容だった。
主人公、和歌は大学で知り合ったひとつ年上の恋人、仙太郎が在学中に書いたイラストでメディアにもてはやされ、バブル期の寵児のように有名になっていくのを憧れと羨望のまなざしで見つめる。東京育ちで、ルックスも洋服のセンスもよく、食べ物や酒の趣味から、注目すべき文学、映画、演劇、音楽の知識まで、なんでも先んじて知っている仙太郎は和歌にとって、出来すぎた恋人であり、同時に未知の世界への“扉”。仙太郎が華やかに多忙になっていく傍らで、和歌は、いかに自分が田舎者で、仙太郎とは比べものにならないくらいセンスのない、芸術に疎い、無知で劣った人間かと劣等感ばかりを募らせていく。ほんとうは「仙太郎のお嫁さんになりたい」というしおらしい願望をひた隠しにして、どんどん先へ行く仙太郎の眩しい背中を追うように、対等になるべく、少しでも仙太郎に対等に見てもらえるよう、生きていこうとする。そんな中、取り壊し予定の実家の蔵から祖母が書いたらしい小説が見つかる。「男と張り合おうとするな。みごとに潰されるから」そんな言葉を残して、書くことをやめてしまった祖母への興味に駆りたてられて、仙太郎の背中を追いかけるべく、和歌はいつしか自分も小説を書いていくようになる。

この仙太郎、おそらく昔流行ったあのイラストレーター、「ミツル」だったか?を思い出しながら読んだ。私も大学が芸術学部だったから、在学中から活躍する先輩が多数いて、すごく羨ましかったし、自分と比べては妙に落ち込んだり、焦ったりした。だから、この大学時代の仙太郎と和歌の話、何げに二人の間にできてしまった上下関係、優劣の関係は実によくわかる。あの頃は「○○を知っている」「○○が好き」ということが人を判断するすべてで、明らかにそれで人種を分けていた。

やがてフリーランスのアーティストと会社員兼新人作家になった仙太郎と和歌は一緒に暮らすようになる。本来なら同じ作り手どうし、互いに創作活動を優先してうまくやっていくはずだが、実際は違った。明らかに先を行く者、それを追う者の精神的な格差(和歌が一方的に感じる劣等感)が既にできあがってしまった二人の力関係を秘めたまま、一緒に暮らしていくことの日常、そこで翻弄される和歌の心理描写がこの小説のなかでいちばん面白く、また、深く考えさせられるところだ。
多くの読者はおそらくこれが作家の角田さんの日常、あるいは過去の新人時代の日常だったんじゃないかと推測するだろう。作家の知られざる創作現場の姿だと。たしかにそのように読むのも楽しいが、この二人の暮らしぶりの描写は、創作のような仕事に限らず、女性が仕事を持つこと、その仕事に本気で打ち込めば打ち込むほど、男女の関係がこじれていき、どういうわけか女性の側にだけ後ろめたさや板挟みのジレンマがのしかかるものなのだという現実をよく表している。

<今までは、部屋に帰ってかんたんな食事をすませ、それから書いていた。けれど仙太郎と食卓を囲み、話が弾めば食卓を去りがたくなった。ビールを飲んでしまえばそれだけで書く気は失せる。週末にまとめて書こうと決意していても、仙太郎が洗濯をしていたり掃除をしていたりすると、自分も何かしなくては申し訳ない気持ちになる。>
(『私のなかの彼女』本文より引用)

仙太郎はこの同棲初期の時期、どうやって仕事をしていたかというと、

<「和歌が帰ってくる前にはいつも終えるようにしてるよ。だって、気、遣わせるだろ。ドア締め切ってかりかりなんか描いてたら」
なるほど、そのように自分に課しているのかと感心し、
「え」感心したあとで疑問がわき上がる。「ってことは、私が部屋にこもって仕事していたら仙ちゃんが気を遣うってことだよね? じゃあいつ私は仕事をすればいいわけ?」だって会社から帰ってくれば仙太郎はいつも部屋にいるのだ。
あ?と訊き返すような声を出したあとで、
「べつにぼくは気を遣わないからやればいいじゃん。和歌に気を遣わせたくない、って話だよ。それに自分の仕事の時間配分を、なんでぼくに決めさせるのさ」
仙太郎は呆れたように言った。意志の弱さを、買いものや家事や、酒や仙太郎のせいにしている自分に気づき、和歌は恥じる。>(本文より)

このセリフの引用だけでも十分、仙太郎と和歌の精神的な力関係がわかると思う。自分より早くに大学時代から仕事をこなしていた仙太郎の言い分は常にまっとうでスマートで隙がなく、それゆえ和歌がどれほど自分を幼く感じて恥じて、仙太郎に従っていたか。

それでも何とか和歌は書き続け、やがて権威ある新人賞候補になる。それを機に会社を辞め、本格的に筆一本で食べていく覚悟を決める。仙太郎は仕事場を外に持った。結局はその文学賞は獲れなかったが、同世代の作家たちと知りあう機会を得て、その交友を通じて、和歌は仙太郎に対して初めて自分だけの“秘密の部屋”を持ったと感じる。すなわち、仙太郎から教えてもらった世界じゃないもの、自分自身の手でも世界は広げられるということを初めて知る。

仙太郎が仕事場を外に持ったこの時期からが同棲の後期になるのだろうが、和歌は初めこそ仙太郎の言う“家事逃避”をして書けずにいたが、やがて時代はワープロからパソコンに変わり、関西では14歳の少年が前代未聞の殺人事件を起こした。時代感覚の鋭い仙太郎はその少年を取材してノンフィクションを書きたいと和歌に語る(この会話がもとで、後にアイデアの盗作と仙太郎に誤解されるはめになる)。和歌の方はパソコンの操作ができるようになると同時に、新たな小説のアイデアも浮かんで、かつてないほど猛烈に書くことにのめり込んでいく。

和歌は一切の家事を放棄する。荒れていく部屋のありさま、食事も摂らずトイレも我慢するほどの激しいのめり込み、反対に、家事を一手に引き受け、一人背を丸めて和歌の下着をたたむ仙太郎の姿など、この辺の疾走感あふれる生き生きとした描写は作者の角田さんの身に実際に起きたことじゃないかと勘ぐりたくなるほどのリアルさだ。仙太郎が作っておいた料理、仙太郎がたたんだ洗濯物、家事をしてくれている仙太郎の姿を思うたび強烈に襲ってくる罪悪感も、「書きたい」という欲望の焼け石には一滴の水のごとく瞬時に消え去ってしまう。作家とは、書くことにノっている時の作家とは、これほど盲目で、ジコチューなのかと驚くだろう。

私は今、再びこの辺りを読み返してみて、実はこんなことは本のどこにも書いていないのだけれど、和歌が貪り書いていたこの時期、仙太郎は仕事をしているといってもさほどに忙しくない、あるいはさほどに難しくない、どちらかというと細々としたチンケな仕事(後に和歌の言う「隙間の仕事」)をこなしていたのではないかと勝手に想像している。なぜなら、和歌に仙太郎が「そういうときってゲームしてるより酒飲んでるより、たのしいよな。トリップしたみたいに」と、ぼそっとつぶやく場面があるからだ。
そして、そうつぶやいた夜に限って、和歌との性交を今まで拒否していたはずの仙太郎が珍しく和歌を求めてきたということもある。こういう気の変わり方もやはり私に言わせば、仙太郎が弱気になっていると、おそらくその原因はたぶん仕事で、自分とは正反対に仕事にノっている和歌を見るたび、家事を全面的に引き受けた(引き受けられるほどの仕事しかしていない?)仙太郎は彼なりに危機感や引け目を感じていたのかもしれず、小説に夢中になって自分からどこか遠くに離れていく和歌を自分の元に引き寄せたいがために、男という力でもってねじ伏せたい=抱きたくなったのではないか、などと想像してみる。仙太郎の心をこの時占めていた感情は、おそらくはジェラシーというよりむしろ、遠くなる和歌への漠然とした不安や疎外感だったのではないか。

この気まぐれに抱かれた一夜のために和歌は妊娠してしまうが、どうしても完成させたい小説のために和歌の気はお腹の子から逸れていく。妊娠していても仕事を優先し、仙太郎から自覚を持つようにと注意されていたにもかかわらず、書くことに打ち込みすぎてお腹にいる子の存在を忘れ、何ら生活を改善しなかった和歌は、直接の原因は染色体異常だったにせよ、流産してしまう。この流産が引き金となって、仙太郎との関係は大きくこじれていく。

仙太郎という男は学生時代の早くから大人のなかで仕事をして、バブルのような華やかな時代にもてはやされたが、その分、自分が安っぽく“流行りもの”として扱われているにすぎないことや業界人の移り気もわかっていて、だからこそ、真逆の“地に足のついた”家庭生活に人間として信じるに足るまっとうさを感じていたのではないか。流行に敏感で、それなりの審美眼も選択眼もアレンジ力もあって、いわゆる“器用な人”だったのだろうが、仙太郎が和歌に言ってきたように、本当は仙太郎の方こそ、和歌以上に創作を支えるバックボーンがないまま、走ってきたのではないかと思う。

おそらく仕事の量はあっても“質”がだんだんと落ちていくにつれ、反対に妊娠していても貪り書くように熱中している和歌を目にするたび、仙太郎の内面には自然に「女は子育てに喜びと生きがいを見出すもの」という古風な男の面が次第に頭をもたげてきたのかもしれない。そして、和歌のように女が家事や子育てと関係ないところで全力を注ぐようなことをしていると、意識的というよりもっと生物的、本能的な部分で、男は何か「このままではいけない」という危機を察するものだと思う。なんていうか、漠然と自分の種や城を守るべく、実に本能的な力が働き「女は女でいてもらわなくては困る」という抑圧の意識が働くのだ。

ある日、ついに仙太郎は和歌に期限のない旅に出ることを告げる。すなわち、和歌は別れを切り出されたのだ。「二人で好きなことやって、家がゴミ屋敷みたいになって、コンビニ飯で腹を満たして、やっていけるのかな」「気がついたほうがやればいいと思ってたけど、気がつくのがひとりだけだったら、そっちは家政婦みたいにせこせこ家のことするしか、ないもんな」という仙太郎に、和歌は「今だけ忙しいだけだから」「そのうち仕事のバランスの取り方ができるようになるから」と必死に抗弁するが、仙太郎は口元に薄い笑みを浮かべて、さらにこう言い放つ。

<「きみは、ずっとこうなんじゃないかな。仕事をしようとすれば、それだけになる。自分の時間を自分のために使うことしかできなくて、他人を思いやる想像力を持てなくて、自分の汚した皿を自分で洗うのも、だれかにそうさせられているって思っていやいや洗う、そういうことしか、できないんじゃないかな」>

<「それはしょうがないと思う。だから、それでいいんだと思う。でもぼくはさ、そういう人に、だれかの心に届くようなものが書けるとは思わない。生活を放棄している人に、人の営みが書けるとは思わない。」>

<仙太郎が泣いている。
「どうしても思い出すんだ。あんなもののために殺された子のことを」
鼻水をすすって仙太郎は苦しげに言う。
「それでもきみはまだわからない。人のアイデアを奪ってすら、力もないのにまだ書こうとしてる。賞もらったら、その先どうするつもりだったの? 書くことで、殺した自分を正当化しようとしてる」>
(<>内は本文より)

仙太郎のこの一連のセリフは、小説の中でもいちばん強く深く、私の心を抉った。子殺し云々の件は別にしても、もしかしたら角田さんは過去にこのようなことを誰かにそのまま言われたのではないかと邪推したくなるが、仙太郎の言葉はまさにその通りと有無を言わさぬ正当な響きがある。でも、実際は日常生活、家庭生活がハチャメチャな無頼派のような作家たちもいて、彼らが作品で人間を描けていないとは言えないし、書いている作品がみな人の心に全く届かないというわけでもない。そんなことは仙太郎なら百も承知のはずだ。しかし、彼はそれを自分の恋人には当てはめたくないのだ。そんなふうになってほしくないのだ、自分の女には。この手の仙太郎のような男は実は多いんじゃないかと思う。というより、男とは本来そういう生き物だという気さえする。そして、そういう男たちの傍らで自分の仕事に打ち込む女たちはいつだって、男の望む女性像を突きつけられ、唖然とし、やりたい仕事との狭間でひとり思い苦しむのだ。
先日、永瀬清子の詩を読んでいたら、「黙っている人よ 藍色の靄よ」という詩にこんな件を見つけた。

詩を書く私はいつも自分一人になり切ろうとして
 ほかのことは何も考えられなかったから
 あなたはきっと とても淋しかったわ
(中略)
悪い妻 心なしの私は
できるだけあなたに尽くしたいとは思っても
つい遠い夢の方へ心がいったわ

でも世の中の男の人は
どんなに大きな岩みたいな仕事を彫りあげても
そのため妻に不在を詫びようとは思わないのに
 
私はただ柔かな身近な泥をこねていただけなのに
 なぜこうも可愛想でたまらないの
 あなたの方ばかりに私が向いていなかったことが

これはおそらく亡き夫に捧げた詩なのだろう。詩作に没頭するあまり、自分は良き妻ではなかったと反省しつつも、でも、懸命に仕事をすることで、なぜ女たちばかりがこんなにも“詫びの気持ち”を抱え込まなければならないのかという悩ましさもあって、複雑な心境が吐露されている。好きな仕事に没頭する女はいずれも同じ定めで、どこかやるべき本業から逸れている罪悪感を抱き、どんなに頑張っても男からの手放しの安らぎは貰えないものなのかと、ため息が出る。

仙太郎が旅に出ている間、和歌はコラムやインタビュー、映画評や書評のような細々とした仕事をし、いつしか長い小説が書けなくなっていた。仙太郎の捨てゼリフにひどく傷ついたからだ。やがて、突然、帰国した仙太郎は和歌との別居を申し出る。なすすべもない和歌は、仙太郎の不在を他の男で紛らわそうとする。やがて、仙太郎への思いまでもが歪んでいき、自分を書けなくさせた仙太郎に激しい怒りを覚えるようになる。取り憑かれたように本屋に行っては、仙太郎の本を探しまわる和歌。自分の祖母が師事した作家に恋をし、弄ばれ、男の言うなりに振り回されていくその姿に、仙太郎と自分を重ねて悶々と妄想する日々。和歌の書く小説のテーマである“妄想のなかで生きることと現実を暮らすことは矛盾しない”をまさに和歌は体現していた。

この“妄想のなかで生きることと現実を暮らすことは矛盾しない”はこの小説のもうひとつのテーマであるように感じた。祖母タエとその師、鉄治との関係、タエと和歌との関係、和歌と仙太郎との関係、それぞれはこの小説の語り手である和歌の、和歌自身が考えているひとつの妄想でもあるといえるからだ。和歌と仙太郎との関係も、実は和歌が学生時代からの劣等感から仙太郎を勝手に尊敬し、崇拝して、和歌のなかで実際の仙太郎とは違う“自分の思う仙太郎像”を形作ってきたにすぎないのかもしれない。結婚や家庭なんぞ仙太郎は望んでいないはずと決めてかかっていた和歌が、妊娠を告げた時の仙太郎の喜びように戸惑ったように。いつだって仙太郎にバカにされないように、低く見られないように、仙太郎の発する言葉の裏に自分を非難する何かが隠れていないか身構えるような和歌だったのだから、“こうあるべき仙太郎像”という妄想で自分自身を縛っていたともいえるのだ。人を好きになる、人に執着するということは、自分と相手との妄想を生み出し、そのなかに生きていくことでもある。そして、いつしか人はその妄想に現実の日常の方を合わせていけるものなのだ。自分の中で作った妄想と現実をうまくミクスチャーした世界を私たちは世界と見て、のうのうと生きているに過ぎないのかもしれない。

和歌はある日偶然、何年かぶりに仙太郎に会う。仙太郎は既に結婚をし、会社勤めをし、二人の子供の父親になっていた。別れた理由を改めて問う和歌に「きみが仕事をとったんじゃない。ぼくじゃなくて」という言葉が返ってくる。仙太郎の言葉はもはや和歌を傷つけなかった。そしてこれをきっかけに、自分に重なる祖母タエの書かなくなった人生に新たな結末を思いつく。

祖母はきっと愛する男のために文学をやめた。愛したからこそ、書かないことを選んだのではないか。そして、どんな形でも祖母は自分で自分の人生を選び取って生きたのだと和歌には思えた。そう思えることで、ようやく和歌は心の中の仙太郎を手放したと感じる。これは仙太郎という妄想の呪縛から自らを解き放ったということ。たしかに、「愛したからこそ、書かない」という選択は、女には、女にだけは、あり得る。そしてその選択こそ、いちばん腑に落ち、いちばん幸福な、誰も傷つかない結論だったのではないかとなぜか私にも思える。

エジプトへの取材旅行で、和歌は気づく。
仙太郎との恋愛によってたしかに自分は歪んだし、自らも歪むがままにしていたと。人と親しくなることは、どこへ連れて行かれるかわからない怖さもあれば、どんなふうに自分が歪んでしまうかもわからない。仙太郎との長年にわたる関係で、人と関わることが恐ろしいくせに、それでも人の暮らしの近くにありたいと和歌は願う。この和歌の抱える矛盾こそ、私は書くこと、書きたいと願うことに強く繋がっているような気がしてならない。この矛盾こそ、和歌を支えるほんとうのバックボーンじゃないかと私は思う。

そして、和歌は立ち寄った店で、壁に飾ってある凛とした佇まいの女性作家の写真に釘づけになる。彼女がまとう、ぞっとするような孤独。でも同時にその孤独に強烈に惹きつけられている。いつかは自分の矛盾がそのような孤独に姿を変えればいい、と和歌は思う。これはすなわち、彼女のひとつの決意なんだろうと私は受け取った。書くことを選んだ和歌の、我が身に引き受けなければいけない孤独だと。でも、きっと長い時間の果てにはそのような孤独も彼女のように美しい何かに変わっていってほしいと。
結局、女がこの社会の中で何かを成すには、男にも増して孤独を引き受けなければならないのだろう。
たとえ、そうならなくても、女が前を向いてすっくと立つには、その“覚悟”が何よりも大事なのだろう。
和歌の心にはもう“秘密の部屋”はない。和歌自身の大切な部屋があるだけだ。
そこには誰も立ち入ることはできない。それを和歌と付き合う男性が永瀬清子の夫のように孤独と感じる日も来るかもしれない。入れてやれないことを和歌自身が孤独と感じるかもしない。でも、きっと和歌はその部屋をなくさない。タエのように鍵もかけないだろう。そして、私は、と立ち止まる。和歌の抱える矛盾がバックボーンになり得るなら、きっと私も同じ。私もその部屋を持ち続けて、鍵はかけたくない。だからこそ、この物語は堪え、今もなおこんなに堪えている。私のなかの和歌に。
by zuzumiya | 2014-03-16 09:37 | わたしのお気に入り | Comments(3)
Commented by yopo at 2016-12-05 23:51 x
ちょうど今日この本を読み終わって、感想などを検索していてこちらを拝見しました。

精神的な力関係の、繊細な部分をあそこまで的確に描けるのは本当にすごい!と思いました…。
仙太郎、私も「326」を思い出しながら読みました。
はやり物として消耗される「アーティスト」が当時は多く存在したように思います。

和歌がいつも編集者達に仙太郎のことを
誇らしげに伝える旅に、「え、誰?」という感じの
あの温度差も胸が詰まりましたね…。

レビュー、大変面白く読ませていただきました。
Commented by あやの at 2017-07-17 22:48 x
とても素敵な感想でした
わたしはまだ読んでいませんが、きっと痛すぎて読めそうにないなと思いました
Commented by zuzumiya at 2017-07-23 10:33
あやの様、はじめまして。コメントありがとうございます。私も結構、大学時代の自分に当てはまることが多くて読んでいてのめり込みました。
あらすじに触れていてネタばれとは書いてありますが、今度、お時間がある時にお読みになったらいかがでしょうか。痛くてもやめられませんよ。
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