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静かな掌

休みの昨日、朝7時に母からの電話で起こされた。
おそらく最後の外泊なのだろう、医者から特別に許可を貰って、数日自宅に戻って来ていた母の連れ合いが、どうにもこうにも痛みに耐えられなくなって、これから救急車で病院に運ばれるという。私も慌てて家を出た。

母は被ったカツラが浮き上がるほど明らかに動揺しているくせに「これでもう4回目なんだよ」とふっと言い切る醒めたところがあって、過去の経験からか「あたしが救急車に乗ってったら帰りがタクシーになるから、あんたが乗って。あたしは車で行くから」などとしっかり計算していて、何にも病状経過のわからない私が流れで救急車に乗るはめになった。救急隊員も「どなたかが乗って頂かないと万一の場合もありますので」と言う。「その万一の場合に妻であるあんたが乗らなくてどうするよ」と心の中で思った。

救急車の中で「ご関係は?」と訊かれて、一瞬言葉が詰まり、「一応、父になるのかな。血は繋がってはいませんが」などと返してしまった。「知り合い」という言葉が浮かんだのだが、この場ではあまりに冷たすぎるような気がして、そう答えたのだった。今にして思えば「親戚」という便利な言葉があったのに、たぶん、本来母が乗るべきところに私がいることの体裁を瞬時に考えたのかもしれない。
痛い、痛いと騒ぎながらもそのやりとりを聞いていたのか、連れ合いの彼は母のフルネームと名字の違う私のフルネームを酸素マスクからはっきりと隊員に伝えた。気まずかった。

救急車の揺れが結構、身体に響くのは乗った者にしかわからない。正月に急性の腸閉塞で運ばれた自分を見ているようだった。揺れるたびに
「いたっ、痛い、痛いよぅ、もうダメだ、もういい、もうダメだ」
と声を出しながら、動けるほうの右足だけ立てたり伸ばしたりもじもじする。そのたびに
「痛いの、そうか、痛いよなあ、でもがんばれ、病院へ行くからね」とか
「痛い? 痛いなあ、あったま来ちゃうよなあ、病院へ行って、痛み止め打ってもらおうね、あとちょっとの辛抱だからね」などと精一杯、声をかける。
そして、痛みのために何かを握りたそうにして宙を舞う覚束ない手を思わず握った。
最初、ちょっとだけ握り返してきた感覚があったが、痛みが引いたのか、あとはとても静かな掌になった。気がつくと、体温も低い。この静かさと体温を意識したとたん、死が過って、私に雑念が入って来てしまった。

痛みと闘う人を目の前にして、たしかに私は懸命ではあるのだけれど、どこか私の心のなかですうーっと引いて行くもう一人の自分がいる。それを掌の肌をあわせてしまうことで、相手に伝わってしまうのではないか、と急に怖くなった。
「私なんかが手を握っていてこの人はほんとに救われるのだろうか」
「一度はひどく憎んだこともあるこの私に手を握られて、安心なんてできるのか」
「ここへきて血の繋がらない子供なんて言って、財産を狙ってるみたいじゃないか」
「死神の使いに見えやしないか」
などと考える。考えていると、また彼に痛みが襲ってきて、じっとしていられない彼の手は私の手をすっとすり抜けて、宙を舞い、痛みがしぼんでくると時に自分の手をじっと見ていたりする。おそらくは指先に挟まれた酸素計測器が邪魔で気になるのだろうが、私には自分の手が死神にでも冒されて黒くなってやしないか確認しているようにも見える。

そんな雑念が入ってきても、目の前で手が弱々しく挙がると何度も促されるように手を握った。握ってはみたものの、そののち、力が、想いが込められない。完全に形だけ握っているような気がする。私の肌が拒んでいる。弱気になっている。いつの間にか浮き出た血管から死がこちらへ向かって流れてくるのが怖くなっている。彼が私の持ってるエネルギーや運を吸い取ってしまうのではないか、と思う。頭のなかで「偽善者だ」「冷酷な奴め」という自分を揶揄する声がした。

これが自分の夫や子供の掌だったらどんなに楽だったろう。力を込めて、祈りを込めて、そう、「彼の痛みを私に分けて。彼の皮膚から私に送ってよこして」「私の命のエネルギーを子供にあげて。いくらでもあげて」と必死に懇願できたろう。肉親の「死」に直面すれば、その土壇場において怖くはない、脇目もふらず必死だ。絶対、最後まで闘おうとする気がする。だが、母の連れ合いの彼の「死」はなにか別物なのだ。どうしてものめり込めない、こちらにもあちらの彼にも、通いきれない何かがある。それが二人の掌の静けさだ。痛みや死を前にしたこの瀬戸際にも、隔たりと躊躇がある。藁をもすがるあの掴み合う、握り合う感じの必死さが互いの掌にない。

ひとことで言ってしまえば、それが信頼関係というものなのだろう。愛情というものなのだろう。父でもなく、母の連れ合いとしか思わず、ましてや母の身勝手さを正さないことで恨んでもきて、長年付き合いもなかったのだから、と自分を正当化してみる。それでも多くの他人の患者の手を握る看護婦を思えば、戦場で死に行く兵士の手を握る救護班を思えば、自分はやはり冷酷な人間なのかと思ったりする。不思議なものだ。「助けなきゃ」と促されて、びくんと体が弾んで思わず手を握りはするが、その善性はまぎれもなく善性なのに、続かない。頭が介入する余地があるなんて、と思う。そして、そのことを恥ずかしく思う自分もいる。私はいったいぜんたい、どういう人間なのだろう。複雑だった。
by zuzumiya | 2011-03-08 12:32 | 日々のいろいろ | Comments(0)
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