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ブランコ

娘が一緒に乗ろうというので久しぶりにブランコに乗った。ふたりはまるで同級生の女の子同士になって、ブランコの板にお尻を軽くかけた状態で立つ。「せーの」という娘のかけ声で一気に板に飛び乗る。一瞬、気持ちがふわっと浮く。足をまっすぐ伸ばしておでこを晒して空気に切り込んでいく。先へ、もっと先へという気持ちが漲ってくる。てっぺんで足を折って、空気をかき、そのまま背中で後ろの空気を押しながら滑り下りていく。ブランコは風を押していく遊びであることをひさしぶりに思い出した。

私はブランコが弧を描いて高みから降りていくときの、あの、ふわっと気持ちが浮く瞬間が嫌いだ。なんというか胸がどきんとしてしまい、魂だけがふわっと浮いて、体とずれてしまったような感覚がたまらない。大人になってからのブランコはこの感覚が余計にひどくなったように思える。しかし、勝ち気な娘は隣で「お母さんより、高いもんね」と言い放ち、本気でブランコをこいでいる。負けてはならじと、高みから下りていくときはわざと「わー」と気合いを入れた声を出す。挑むような気持ちに切り替えて「乗られる」のではなく「乗る」ことができれば、だんだんと慣れてくるのを私は経験から知っている。そう、ブランコは実に精神的な乗り物であった。

娘が小さい頃、公園へ行くたび、私は娘の背を押してやらねばならなかった。しばらく押してやって、その揺れが続いているうちは娘は満足でおとなしくしているが、やがて揺れが収まってしまうと「ママ、押してよう」とだだをこねる。なんとかブランコを自分でこげるように教えてやりたいのだが、「はい、足を伸ばして」「はい、足を折って」だけではブランコは思うように振り子運動をしてくれないのだ。

「空気をかいていく」「こぐ」というニュアンスを幼い子に言葉でわからせるのはなかなか難しい。結局は体でコツを覚えてもらうしかないのだが、「自分で乗りたいんだ」という気持ちが本当に湧き上がって、じらじらしてこないうちはダメなのだ。ブランコの上のお人形さんではダメなのだ。その後、保育所に通っていた娘は友達の刺激もあってか、ある日突然、ブランコが「わかって」しまって、自分でこげるようになった。

だからブランコは、おそらく自転車よりも先に、子どもが最初に出会う精神的な乗り物だ。ブランコには一人で乗る。板の上に乗ることは単に座ることなので誰にでもできる。しかし、満足する揺れを作り出すのは難しい。ひとりでなんとかブランコを揺すって、自分で自分を楽しませることを学ばなければならない。自分の思いと体とがうまく繋がらないことを学ぶ、たぶん最初である。自分の内面と話をすることの、たぶん最初である。友達の姿に「ああなりたい」という憧れを持つ、たぶん最初である。そして自分で自分を越えていくことの、たぶん最初であるのだ。

ブランコには意欲が不可欠だ。先へ、もっと先へ行きたいという気持ちしか揺れを増進させない。しっかり前を向いて「桜の木のあの枝まで」と目標を決める。その熱意が足先にまで伝わって、空気を裂いていき、ブランコを我が物にする。自由を感じる。自分で獲得した自由だった。そしてまた一段、目標が高くなる。「今度はあの枝まで」

しかし、なんと多くの子ども達が「空まで飛んでいけ」という高望みをしたことだろう。空はそばにあるようでいて、はてしなく遠かった。多くの子どもたちが空に焦がれて、その焦がれた分のスピードで振り戻されて下りていった。そして、だんだんと諦めていったのかもしれない。ブランコが鎖で繋がれている乗り物だということに子ども達は気づいてしまった。ほんとうの自由ではないことを気づいてしまった。

最初にひとりの男の子が飛び降りた。勇敢でクリエイティブでロマンチストな彼は、ブランコに振り戻され下ろされる前に、てっぺんのところでひょいと飛び降りた。空まで飛んでいかれないのならいっそ自分で自分を解き放してやりたかったのだろう。彼は手を放して一瞬の自由を味わった。

子どもというものは遊びのために生きている。自由のために生きているものだ。どんどん、男の子達が真似をしだす。着地に失敗して弾みでブランコの柵にあたって鼻血を出す子もいた。ずるりと膝小僧をすりむいた子もいた。危険だと教師や親達は注意したが、やめる者はいなかった。あの宙を舞う感覚、あれこそ空と一体になって得られる最高の自由だった。最高の自由を手にするための代償は当たり前だとみんなどこかでわかっていた。危険を冒してまで味わってみたい自由。そしてそれを達成できた自分への満足。みんなからの賞賛。

ブランコは大人の私を今また、かき乱していく。ふわっと魂がずれる感覚は気がゆるむといつでも襲ってくる。こころから挑戦していく、自分を自分で高ぶらせる、楽しませる気概を持って臨まないとすぐ恐怖に飲みこまれてしまう乗り物だ。こげばこぐほど高くなって、スピードも出るし、世界を味方につけたような開放的な気分になる。しかし、自分でこぐのをやめてしまえば、スピードは落ち、やがては止まって、ただの椅子になり下がってしまう乗り物だ。ブランコによって私たちは人生の本質に子ども頃から触れていたのかもしれない。乗るのも自由、乗らないのも自由。ただひとつ、こがなければ動かない。
by zuzumiya | 2010-10-12 23:22 | 日々のいろいろ | Comments(0)
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