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川内倫子の『うたたね』

川内倫子の『うたたね』_a0158124_853311.jpg運命だった、というほかない。
恋に落ちたみたいな言い方だが、好きになるのは何も人ばかりじゃない。ところで、恋に落ちるという表現はその通りだと思う。ものの見事に、すとんと、ほんとに音でもするように、そう、滑り台の終わりのひょいと軽く地面に投げ出される感じで、私は川内さんの写真に恋をした。『うたたね』という写真集である。

この日、私は高野文子の漫画を買いに本屋へ行った。後から考えれば、高野文子というところがそもそも前兆だったのかもしれない。漫画の方は電話で注文しておいたのでカウンターで受け取ればよいだけだった。せっかく来たのだからと同じフロアの写真集や画集のコーナーを何の気なしにうろついていた。

そんなとき、川内さんの『うたたね』を見つけた。本棚のいちばん上の隅に白い背表紙を見せて、それはそれは静かにいた。『うたたね』というひらがなの姿がすべてを語っていた。手にとって表紙をみると、何かがふわっと揺れた。風がやわらかく流れた感じがした。表紙の写真は、スプーンに盛られて差し出された半透明のタピオカである。室内の窓辺のうすあかるい光がタピオカの表面をやんわり透かしている。すくい取った瞬間なのでスプーンの背にひとつぶ、タピオカがくっついている。ただ、それだけの写真である。ただ、それだけ。そこにあるだけ。

中を見ていくと、自然に顔がほころんでくる。いわゆる「ほほえましい」写真ではない。
人を和ませるために作られた写真ではないが、慰めるための何かの漂う写真である。そこに映っているのはあまりに日常、あまりによくある風景ばかりだ。風景というよりも生活という方が合っているかもしれない。たとえば、グラスの水に浮かんだ氷だったり、街灯に照らされた雨の筋だったり、糸のちぎれかけたフェンスだったり、しゃぼん玉をふくらます口元だったり、ドアの覗き穴だったり、アパートの窓に映るテレビのチラチラした青白い光だったり、鍋の中でゆでられている白いうどんだったり、おじいさんが人差し指でほじってる耳だったりする。

みんな見たことがあるものばかりだ。かつて見ていたのに、見ていたことも忘れてしまったような、ささいな日常たちである。しかし、そのささいなものたちがなんだか私を揺すぶるのである。そういえば、見ていた、たしかに知っている、私はそこにいた、そこに立って見ていたんだ、と体の中からもやもやと懐かしくなるのである。デジャビュなのだ。晴れた日の砂利の山や白いふうせんの束を底の方から見上げる感じの写真など、まさにうたたねの夢の中で見たような風景、不思議な空気感を漂わす。

中でも私が心底嬉しくなったのは、洗濯槽の中のグルグル回っている水流やミシンをかけている手元のあの小さな灯り、窓辺でころんと固くなって死んでいるミツバチ、廊下にできたどこか隙間からの細長い日差し、蛇口から流しに落ちる水滴の数珠、地面に掘られた穴や耐熱ガラスポットの沸騰する泡をとらえた写真の数々、である。それらは何の変哲もない日常で、普通ならレンズを向けることのないものたちである。ただ、それだけ、そこにあるだけの日常はすかすかの隙間だらけで「面白味」というはっきりした集中力、核に欠けている。人によっては何も感じないかもしれない。現に私の古くからの友人は「ぜんぜん、感じるものがなかった」と白状している。

でも、私はそれらの写真をまったくこのうえなく愛おしいと思った。特に、ミシンの手元の灯りのいじらしさや隙間の日差しのささやかな幸福感にはまいった。なぜか、久保田万太郎の俳句の「短日やうすく日あたる一トところ」や「だれかどこかで何かささやけり春隣」を思いだした。万太郎の感じ取るささやかさの中にある詩情が川内さんの写真にも流れていると思う。そして、昔はそういうものをじっと飽きずにいつまでも見つめていた自分がいた。幼い頃の方がそうする時間も機会もはるかに多かったけど、今だってそういうものを愛おしく思える自分の本質が変わらずにあることを思い出させてくれる。

川内さんのまなざしはとても素直で子どものようだから、時にはっきりと見てしまう。死んで固くなったミツバチや蝶々や魚や、路上で頭から血を流して死んでいる鳩なんかを見てしまう。「あ」というだけの、しんとした、透明な時間が流れていく。私も川内さんの隣にしゃがんで、「あ」と固まって見ている。まるでランドセルをしょった小学生の女の子がふたり、道ばたでじっと地面を食い入るように見つめている感じ。小さなものの死は見つめていると吸い寄せられて、身動きがとれなくなる。

川内さんの見つめるものは今までもこれからも、たぶん絶対、私も見つめている確信がある。魂の同級生だという気がする。そして私たちに共通しているものは、と思い巡らしてみる。それはたぶん、こんなふうに日常の中のささいなものが愛おしく感じるときは、自分のことをまっすぐに好きになっているときなんだろうな、ということ。自分をなにもかも許せてしまえる気持ちの寛やかなときは、日常の、生活のディティールがとてもやさしく、温度や気配を持って見えてくるものだ。

いつもの湯飲み茶碗の小花模様がいじらしく思えたり、洗濯物の靴下がユーモラスに見えたり、冷蔵庫のモーター音に安心したりする。だから川内さんは、きっと自分のことをおおらかに許している人なんだと思う。どの写真を見てもそういう伸びやかな、あるがままの空気を感じるし、その空気を私も自然に吸っている。そして、私も今の自分がどことなく憎めないでいる。このまま生きていても構わないな、と素直に思える。

写真集を見ていたとき、網戸の向こうから子供の鼻歌が聞こえた。ベランダに出て下を覗くと、青い長靴をはいた男の子が庭の地面にシャベルで穴を掘っていた。
ゆるやかな、幸福な日常がそこにあった。
by zuzumiya | 2010-08-28 08:53 | わたしのお気に入り | Comments(0)
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