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裏切り者の春

春は大っ嫌いだ。
花粉症だからではない(花粉症ではあるが)。
裏切るから大っ嫌いなのだ。
今日もほんとは電車に乗って、春物のアウターを見にショッピングに出かけるつもりでいた。
遠足のようにワクワクして早起きし、家事もしとかなきゃと洗濯して片付け事をして掃除して朝食の洗い物なんぞをしていたら、いきなりドスンという音が2階からした。猫がキャットタワーから飛び降りたか? いや、キャットタワー自体が倒れたぐらいの音である。慌てて階段を駆け上がると、小窓のカフェカーテンが大きく膨らんでいる。「閉めなきゃ」と手をかけた瞬間ビリッと破れた。あーあ。
焦ってベランダを見ると、朝、水をたっぷりあげて日光浴させていた観葉植物らが大きく撓ってわさわさ揺れている。まさかと思って視線を横にずらすと、あーあ。いちばん元気よく青々と葉を広げていた子、水さえあげていれば大丈夫なすごく育てやすかった子(名前は忘れた)が室外機の上から落っこちていた。無惨にも横倒しになって、葉が割れ、土がばらまかれていた。「だ、だ、だいじょうぶかっ」と急いで抱き上げると太い茎がポキっと折れた。え? あーあ。
慌てて室内のベンチにみんなを避難させ、その折に下を覗くと庭の青年の樹も見事にぶっ倒れていた(2度目)。あーあ。
春は別れの季節というが、この突然さ、ひどくね?
ほんとにちょっと前までは風もなくぽかぽか陽気で洗濯物を干しながら「お出かけ日和だなぁ」と喜んでいたのに。いきなりの裏切り。今は窓をガタガタ揺らすほどの嵐である。こんなんじゃ、近所のスーパーすら行きたかねぇよ。あ、洗濯物、飛んでってないよな。あーあ、もう、春って大っ嫌い!!




# by zuzumiya | 2024-03-17 11:16 | Comments(0)

そんな夜もある

実は昨日、勤めている保育園に家の鍵を忘れて帰って来てしまった。お年頃なので落ちたらすぐに気がつくように鍵には鈴がついている。なのに何にも気づかなかったということは、床や道端でなく、おそらくは着替えやら雨具が乱雑に入っているロッカーの中で鞄から落ちたのだろう。私は遅番担当なので園に戻ったところでもう誰もいない。それでも念の為、通ってきた道を調べに自転車に乗った。「ないよな〜、鈴の音しなかったもんな〜」と外灯に照らされた冷たい路面を見て回った。真っ暗な園まで来て「明日来てロッカーを調べよう」と諦めがついた。そして娘にラインを送った。その日娘は友人とパチンコに行っていた。たとえ、母が鍵をなくして真っ暗な玄関で往生していても、いい調子なら絶対に何時間でも帰って来ないだろう。娘はそういう奴である。パチンコで当たっていてどうにも席を立てず親の死に目に会い損ねた、なんて娘ならあり得ると思う。案の定、ラインの既読がつかない。だから、そこでもすぐに諦めがついた。財布の中身を確認してコンビニでお金を下ろすと「さあ、何処に何を食べに行こうか」と俄然、前向きになった。家からそう遠くないところにハンバーグで有名なファミレスがある。今夜はひとまずそこに落ち着いて、発表されたばかりのクラス編成のことなんぞをあれこれ考えながら、娘の帰りを待つことにしよう。すると久々のひとりきりの外食にうれしくなってきてペダルも軽くなった。災い転じて福となす、でなく、福に捻じ曲げる自分がすごい。
ファミレスは金曜の夜ということもあってか、すこぶる混んでいた。ベンチには大柄なおばさん二人連れがメニューを見ながら喋っていて、詰めて座ってくれれば隣の家族連れとの間にどうにか一人座れそうな微妙な空間がある。「ああいうの困るよなぁ」と視線を送ってもおばさん二人は食欲の塊と化してただただメニューを取り替えっこし、浮かれていて気づかない。
保育を8時間もして遅番の諸々の業務もして、自転車をいつもよりうんと漕いだ私は、到底、立って待っていられないと思えた。どうするかと迷っていたら娘からようやくラインが来た。「あと10分で着く」というので、瞬間、「今日は負けたんだな」と思った。帰りがけコンビニに寄って二人分の弁当を買い、スイーツや菓子も買いこんで、自転車に乗った。空には猫の爪のような白い月が出ていた。片側は古い団地、片側は住宅地の窓の灯りを見ながらひたすら走る。それぞれの窓の向こうは家族がご飯を食べたり、テレビを見てのんびりしてるんだろう。それでも今日、娘が仕事でなく近くにいてくれてよかった。ほんとに一人だったら、私は今夜どうしていただろう。母のマンションまで行っただろうか。母が店に出ていていなければ、嫁のところに行っただろうか。どちらもちょっと気が引けてやっぱりファミレスにいるんだろうな、と考えてたら途端に寂しくなった。家に帰れないという心許なさ、行くところがあるようでない寄る辺なさ。片や家に帰りたくないという若者や帰宅拒否症のサラリーマンがいるらしいけれど、根っこのところはきっとおんなじ気持ちだと思う。心落ち着ける自分の居場所がない。安心できる場所のない寂しさ。そんなことを考えていたら、歩いて来る夫婦連れとすれ違った。
娘はきっと「何やってんのよ、大丈夫? ボケたか?」と私を叱るだろう。今日の私の仕事の大変さ(同僚に誤解されてちょっと気まずくなった)や新しいクラス編成の表を見て「(人間関係が)うまくやれるだろうか」と不安になった気持ちや「抱っこしないよ」と平然と言う担任たちの中で子どもたちの「抱っこしてぇ」を受け止めてきた一週間分の身体の疲れやその上で鍵を忘れてしまった落ち込みを知らない。いちいち、子である娘にどれだけ私の今日が大変だったかなんて説明などしない。
一人で生きていくを選んだことは、もう誰からも「そうなんだ、大変だったね」と頭をヨシヨシされず、自分で自分をヨシヨシしながらなんとか前を向いて立ち止まらず悔やまず生きていくということなのだ。その切なさをもう一度覚悟に変えるべくペダルを強く踏んだのであった。

# by zuzumiya | 2024-03-16 19:48 | 日々のいろいろ | Comments(0)

なんとかならないものか

年をとると良いことのひとつに、あんまり食に固執しなくなるというのがあると思う。こう書くと誤解されやすいのだが、58歳の今でも私はガンガンに食欲はある。ただ、いろんなものを貪欲に食べたい、フランス料理のアレ、エチオピア料理のアレを食べてみたいというのではなく、自分の食人生の中で美味しいと感じてきた、好きなものだけをそこそこ食べられればもういいと思っている。フォアグラを知らなくてもエチオピア料理を一度も口にせずに死んでもぜんぜん構わない。年と共に興味の範囲も行動の範囲も食の範囲も狭まるものだとわかった。
私の朝食はトーストにハム、ヨーグルトにオレンジやキウイなどのフルーツ、切れてるチーズ、そしてコーヒーである。これで何年も過ごしているが、不思議なことにぜんぜん飽きない。コーヒーも家族といた頃はマシンで豆から砕いて点てていたが、離婚して朝起きてこない娘と二人の今は、一人分のスティックコーヒーやドリップコーヒーで十分だ。よくYouTubeなんかで朝、一人分のコーヒーを豆から挽いてわざわざ作っている丁寧さんを見かけるが、あんなゆとりは私の平日にはない。あれよりかは楽だと思ってドリップコーヒーにしているが、しかし、そのドリップコーヒーが意外と厄介なことをご存知だろうか。
スーパーに行くといろんなメーカーのものが売られているので、特に好きなものが決まってない私は値段とコスパを考えながらいろいろ試してみる。で、問題はメーカーさんによってコーヒーの袋の開き方というか、カップへのセッティングの仕方がみんな違うことだ。コーヒーが入った袋を開いてカップの端に引っ掛け、お湯を注ぐという仕組みはみな同じだが、いつも何処をどう切って何処を引っ張ってかけるのかと迷う。取っ手を持ちながらそのまま左右にやさしく引っ張ると袋が開くタイプ、袋は自分で最初に横にビリリと切って開けるタイプといろいろで、しかもカップの縁にかける足の出し方もいろいろな折りたたみ方をされていて毎回迷う。なぜ統一しないのかと、いつも食卓でイラッとする。力加減を間違えて袋を破り過ぎたり、足を一本なくした状態でガタガタと不安定なところに熱湯を注がねばならないハラハラドキドキを考えてみてほしい。
子どもたちに大人気の絵本に『大ピンチずかん』というのがあるが、そんなことがあるたびに「今日のせんせいの大ピンチはね、」と話のネタにはできるが、いい気持ちはしない。
大ピンチといえば、あの食品の袋に付いてる「こちら側のどこでも切れます」の表示。発明してくれたのは都知事選挙でいつも落選するあの変なジャンピングシューズを履いた発明家だったような記憶があるが(違うか?)、あの表示がついてからほんとに消費者はみんな助けられたと思う。ハサミを探したり、そのハサミがあったところに戻されていない問題が勃発したり、ハサミを探すのを待ってられず変に力を入れて袋を引いちゃぶいてポテトチップスを辺り一面ばら撒いたりの事件が少なくなったのは凄い。
しかし、その厚い消費者の信頼を裏切る時がままある。表示のとおり、こちら側なら何処からでも切れるはずと指先で切ろうとしても、いくらやってもまるっきり切れない時があるのだ。その時の「切れねえじゃん!」ショックはすぐに怒りに変わり、食べる前からもう喰い物の恨み的に上昇する。あの発明家さんはたしかに人々の役に立つ善行をしたが、その発明を何にでも使いたがる商品側の落ち度、「ほんとにちゃんと切れるのか」のチェックの甘さを是非とも正してほしいものである。昨日の納豆の出汁醤油の小袋、切れたはいいが飛び散って指がビショビショに。カラシも同じく。そうめんの束を綴るテープ、すでに鍋には一束入っているのになかなかほどけないイライラ。信頼していたものに軽く裏切られる瞬間。なんとかならないものか。





# by zuzumiya | 2024-03-16 13:17 | 日々のいろいろ | Comments(0)

ネガティブ→ポジティブ

自分の性格のダメなところはわかっているつもりである。すぐに焦っておっちょこちょいなところ、気を配って細かいつもりでもすこんと抜けるところ。そして失敗を引きずる気の弱さ。
保育士をしているが、性格というのはほぼほぼ遺伝だが、そこへ生育環境が追い打ちをかけて出来上がっていくものと思っている。私は人によく思われたいという見栄っ張りで、その裏には自信の無さ、自己肯定感の低さがある。親に捨てられ、とにかくいい子で過ごすことが自分の居場所を守る手段だった。口げんかの多い家に育ったので、人と面と向かって争うことが苦手で、自分の主張があっても口ではうまく言えない。そのため不満を内にためやすく、考え込んでるうちにもしかしたらすべて自分が悪いのかもと思ってしまう。こういうところは人にマウントを取られやすい要因でもあろう。
以前にもここで書いたような気がするが、角を曲がっていきなり自転車と自転車が鉢合わせした時に、あなたはすぐに謝るタイプだろうか?
私はほんとに、すぐに、謝ってしまうタイプなのである。これはもう癖のようなものですぐに「すみません」と口をついて出る。たまたまで、二人ともが悪いはずなのに、なぜか私が先に謝ってしまうのだ。そして人間というのは先に謝った方が悪いことをしたことになってしまう。当然ながら、ムッとされるのである。おばさんやおじいさんなら「危ないなぁ」と怒られたりする。心の中では「そりゃ、こっちのセリフだよ」と投げつけているが、実際は何も言えず苦笑いして走り去るのだ。走りながら猛烈に腹が立ってきて「クソジジイ、ふざけたこと言ってんじゃねぇ」と毒づく。と、しばらくしてから今度は落ち込んでくる。なんで自分はこうもすぐに謝っちゃうんだろう。たぶん、自分の性格の悪いところ(人によく思われたい、争いごとが苦手で言いたいことが言えない)がこういう咄嗟のときに出てしまうのだろう。で、ペダルを漕ぎながら、情けない、すごく悔しい、と歯噛みしつつ、毎回「ま、自分の運転が完璧だったかといえば、そうは言い切れないよなぁ。じゃ、ま、いいか、謝るくらい。ジジイに花を持たせてやるか」と気持ちをポジティブに落とし込むことができる。今、書いてて思ったが、こういうポジティブな変換、実は私のいいところかも。で、よくよく考えてみると、人の脳にはこういう自浄作用みたいなことが実は備わっているのではないか。自分の性格がダメダメと落ち込んでばかりでは多くの人が絶望して、人類はとっくに滅亡してしまっていただろう。脳は激しい痛みを感じた時にそれを感じなくさせる物質が自然と出て、痛みを和らげようとするらしいから、それと同じにネガティブ思考をポジティブ思考へ変換させようと脳が勝手に働いてくれてるのではないだろうか。それを正当化や開き直り、諦めと悪く言うなかれ。生きていく上で大事な自浄作用ではないかと思ったりする。もはや口癖の「すみません」は直そうと思っても無理なので、「すみません」「すみません」と謝りつつこれからも身を縮めて生きていくことになるが、いちいち凹んでもまた「ま、いいか」で気持ちがなんとか元通りになるだろう。まるでスポンジのような人生だが、そのうちほんとに穴がいっぱい空いて、脳の方で今度は勝手に「忘れて」くれるのかもしれない。


# by zuzumiya | 2024-03-16 08:52 | ちっちゃい器で生きていく | Comments(0)

あの日の栞

これだけ本を読むのに昔から栞には特にこだわってこなかった。映画“花束みたいな恋をした”の中で趣味嗜好が奇跡的にもそっくりな男女が本の栞に映画の半券を使う、というのがあってにんまりしてしまった。あれは私も若い頃よくやっていた。栞といえば、たまに本屋さんで出版社の名前のついた宣伝の栞を挟んでくれたり、そもそも文庫本に付いていたり(ハンプティ・ダンプティの絵が付いたやつあったよね)、出版社の“今月の新刊”のチラシを大きかったがそのまま栞の代わりに挟んだり、出版社への感想ハガキを挟んだり、何もなければ机にあるメモ帳を1枚破いて折って栞にしたり、買い物のレシートだったり、それも無ければティッシュでさえ挟んだりもした。もちろん、読書はほぼほぼ家の中だけなのでそれで全然困らないのだ。
でも、過去一度だけ栞を買ったことがある。
母の膀胱がんがわかって、見舞いの帰りに病院近くの本屋で見るともなくうろうろしていたら、色とりどりの食器柄のかわいい栞が売っていて思わず買ってしまった。手術当日、控室で長い時間を待つ間、何となく思い立ってその栞の端に手術の日時を書いた。母はそのまま亡くなった、、、。わけではなく今もピンピンしている。で、その栞はというと、何の本に挟んだかもう忘れ、何処行っちゃったかなぁ、で探しもしていない。だって栞にティッシュの人だもの。

# by zuzumiya | 2024-03-10 08:03 | 日々のいろいろ | Comments(0)


ふだんの暮らしに息づいているたいせつなもの、見つめてみませんか?


by zuzumiya

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