私という有限

最近、ちょっと胃が痛い。長年飲み続けている薬の副作用かもしれない。昨日トイレで便座に座ってぼんやり考えていると、自分はもう50代で、いつ何時病気になってもおかしくない年なんだと思った。病気が発覚したらもう入院して、場合によっては手術なんかもして、体も心も弱っちゃって、なかなか出てこれないんだろうなと想像した。そうか、そうだったか。時間は、人生は、このような今の私は、有限だったか、とこの時すごく気がついてしみじみと思った。そういえば、私の両目は緑内障である。60代だか、70代だかいつになるかはわからないけれど、確実に見えなくなっていく。網膜は再生できないので未来は変えようがない。私の今のこの見えている視力は有限である。そう思ったら、読みたいものは読もう、見たいものは見ようと思った。そして、読みたいものが眠くて読めなくなるような、見たいものが疲れて最後まで見られなくなるような、そんな無理して働くのはやめようと思った。自分のご飯が食べられて、少しずつの貯金が出来て、毎月見たい本や映画が見られればもう幸せなのだ。
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# by zuzumiya | 2017-08-16 20:44 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

こんな体たらく

夫は昨日、赤と黒の金魚を買った。私も乗じて鈴虫を買った。夜は網戸の向こうから蟋蟀と何処からか風に乗って祭り太皷と、部屋の中からは鈴虫と、ひどく懐かしい感じの夏の夜であった。
休みであっても朝は5時半に目が覚める。夫が出勤したのを聞いてから台所へ降りて一人、茹で卵とベーコンとヨーグルトで軽く朝食を済ませ、映画を見た。「胸騒ぎのシチリア」。声の出なくなった大物ロック歌手マリアン役のティルダ・スウィントンが見たいから。年下の恋人とヴァカンスにシチリア島に来ている設定だが、寄る年波には勝てず、後ろ姿の水着の尻の垂れ具合、乳の垂れ具合、下腹の出具合。中性的な魅力のはずがすさまじい崩れ方をしている。ただあの首の細さ、操り人形のような手足の長さ、骨ばった顔の凛々しい小ささ、陶器のような肌の滑らかさにはやはり恋焦がれる。そしてあの冷徹さを含んだ色気と退廃さが漂うまなざしと髪型…。やっぱり好きだ。鏡の前でしばし髪をいじって髪型を似せて笑ってしまう。私がやると東海林太郎になってしまう。白ブチの丸眼鏡のサングラス、いいな。たしかメグ・ライアンも丸いサングラスが似合ってたっけ。来年は買おう。
映画の後は漫画と本をベッドに横になって読む。読んでは寝てしまい、ふっと目覚めてはまた読むを繰り返す。時間の感覚がなくなっていく。ベッドから見える空はどんよりと灰色で、湿気と一緒に部屋の隅の観葉植物の緑を濃く沈めていく。ふいに思いついて、「青いパパイヤの香り」のDVDをネットで買うことにした。本棚から同じベトナムが舞台の岩井志麻子の「チャイ・コイ」を出してきて読み返す。
明日は娘とデートだが、仕事もしてないのに自堕落のため肩と背中が痛い。行けるか。

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# by zuzumiya | 2017-08-14 19:30 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

「more records」がお気に入り

埼玉の大宮にある「more records」のオンラインショップの試聴が楽しい。
「雨と休日」も試聴ができて助かるのだが、そことはコンセプトが違ってあらゆるジャンルの音楽が揃っていて、自分にとっての新たな音楽の「好き」が見つかる。ARLTというフランスの男女2人組のアルバムも小粋で良かったし、フォーキーソウルというジャンルのJames Tillmanの「silk noise reflex」の歌声も心地よかった。ボーカルの入った洋楽は普段、部屋で読書するためあまり流さないが、漫画や雑誌なんかを開いたり、ネットを見てたりする時には邪魔にならないからたまには買おうかなと思う。「more records」のスタッフのセンスあるセレクトは大いに助かっている。おすすめである。

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# by zuzumiya | 2017-08-12 06:24 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

生まれ変わっても会いに行く

どういう偶然か、輪廻転生ものの恋愛小説が2冊手元に揃った。
上田岳弘さんの「私の恋人」と佐藤正午さんの「月の満ち欠け」。読み比べてみよう。





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# by zuzumiya | 2017-08-07 20:48 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

夏休みはクーラーの中でひたすら

お盆に子どもの数が減るので山の日から1週間夏休みを頂いた。
正職以上に懸命に働いて金はあっても時間がない。正確にいうと時間はあっても体が疲れて眠たくなってしまう。読みたい本などいくらもあるが平日は寝落ちしてしまうのだ。インテリアを整えた今はようやく、さあ、読書なのに。で、お盆休みに備えてネットで本と漫画を買いまくりの日々である。戸田誠二さん、豊田徹也さん、高浜寛さん、楽しみだ。詩人の高橋順子さんがあの強烈な私小説作家車谷長吉さんとの夫婦の日々を綴った小説も来る。クーラーをつけてのんびり読書がいちばんいいや。


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# by zuzumiya | 2017-08-05 08:28 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

死んだように眠れる音楽

「この世を去る60分前に聴く最後の音楽」という大胆にも挑戦的なコンセプトに惹かれて「Ending Music」というコンピレーションアルバムを買った。落ち着いたピアノがメインのアルバムはうんとこさ持ってはいるが、何せ「死ぬ前に」しかも「60分前」って時間も指定して、つまりはアルバムは天に召されるその瞬間に向ってそういう曲順で収められているんだろうということで、あまりにそそられるから買ってみたのである。で、一曲目はこれから死にゆく者がどういう心持ちになっている設定なのかは想像しがたいが、美しいかなり情緒的なピアノ曲であった。アンドレ・ギャニオン的な、はっきりと覚えられるメロディラインで、思い出が走馬灯のように駆け巡るシーンでも表しているのか、やけに美しくきらびやかな感じ。「みなさん、今までありがとう。私は幸福でした」と言わんばかりの盛り上がり。でも、はたと「これから私は死にゆくのだ」と思い出すと「人生の最後なんだからこれくらいいいのか」という気にもなる。で、聴くというよりいつものように読書しながら聞き流していたら、やっぱり猫どもはすとんと寝ちゃうわ、私もトロトロになるわでまさに死んだように眠れそうな音楽でした。一番最後の曲、すなわちこの曲を聞きおえたら私は死ぬという曲の感じは……何度聞いても覚えていない。最後まで聞き終われずに意識が飛ぶ。そういうところも妙にリアルです(笑)。埼玉は大宮にあるCDのセレクトショップ「More Records」から買いました。寝苦しい夜のお供にどうぞ。
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# by zuzumiya | 2017-08-03 22:56 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

夢の中の男

時々、夢の中に顔の分からない(夢の中では見えてるけど夢から覚めるとどんな顔だったか忘れてしまう)男性が現れる。私の年齢がいくつなのか夢の中ではわからないが、どうやら彼は恋人らしい。その彼に向かって私は弱々しくベソをかきながら「疲れたよぅ」と訴えて、腕の中に体を預けていく。彼が優しく抱きしめてくれる。そういう瞬間が2度ほどあった。目覚めた時はなんだか満足して幸福の余韻が残っていた。馬鹿馬鹿しいと苦笑しながらも、自分がそれほどまでに疲れていること、そしてそれを心の底では誰かに優しく慰めてもらいたがっていることをしみじみとわかった。私ってぜんぜん平気じゃなかったんだ、という具合に。夢の中でまた彼に出逢えるだろうか。ありがとうは言えていただろうか。
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# by zuzumiya | 2017-07-31 23:05 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

ティルダとボウイ

ハリウッド女優の中で誰が好きかと問われたら、迷わず、ティルダ・スウィントンと答える。彼女はデビッド・ボウイの若い頃によく似ている。実は彼女の横分けのツーブロックの刈り上げのショートヘアは私の憧れだ。やってみたい。
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# by zuzumiya | 2017-07-30 19:25 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

困った猫の問題行動

新しく観葉植物を買うたびに私は用心する。我が家の飼い猫のももが葉っぱを噛んでゲロを吐くかもしれないからだ。それはどういうわけか必ず朝方、4時半とか5時とかに起こる。浅い眠りの靄のなかから突然「グゲッグゲッ」と音が聞こえる。あわてて飛び起きて、ももの居場所を確認する。ももは床の上で背中を丸めて激しくえずいている。お気に入りの、洗濯が大変な3万近くしたフロアラグの上ではないことに一瞬は安堵するが、本来ならこの時えずいている最中にももの口元に洗面器ならぬ小さなお椀でもティッシュの山でも添えて待てればいいものをいつも体が寝ぼけていて動かない。最終的に「グゲェ〜」と吐いているのをただ見つめているだけだ。情けない。そしておもむろにアルコール消毒スプレーとティッシュ箱を持ってきて始末する。今回は「エバーフレッシュ」という夜になると葉を畳む繊細な鉢植えだった。ゲロが3日続いて寝不足も3日続いた朝、ついに決心して猫が行けない棚の上に置き場所をかえた。オシャレなイラストのポスターが飾ってあって、そこには何も置きたくなかったがどうしようもない。
猫は毛玉除去のために草を食むのは本能でやむをえないのだろうが、場所を選ばず吐かれるのは困る。トイレで吐いてくれれば猫草などいくらでも買ってやる。一度はパソコンの上に履かれた。延長コードのプラグの上に吐かれたことも羽根布団の上に吐かれて朝まで気づかずまあるくシミを作ってしまったたこともある。観葉植物が犠牲になるのも困る。毛玉除去用のカリカリを食べさせたりもしたが、チビはあまり吐かないのにももは吐きたがる猫らしい。観葉植物を食むことに慣れたももは新しく鉢植えを買うたびに食べられる種類か調べにくる。今日買った「モンステラ」はさすがに無事だ。園芸店で観葉植物を選ぶ際に一瞬、ももの顔が浮かぶのは本当にしゃくにさわる。

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# by zuzumiya | 2017-07-30 19:16 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

前回の続きで連携の話

私は今、3歳児クラスに保育補助として入っているが、人手不足の影響で毎日1時間半も多く働いている。ただでさえ、3歳児は手がかかるというのに26名中、まず診断名がきちんとついている障がい児枠の子ども(自閉症スペクトラム、ADHD、知的障がい)が3名いる。しかもスペクトラムの子は言葉の通じない外国人である。発達相談、心理相談など公的な発達支援の定期的な見守り援助を受けて、さらに最近「アスペルガー傾向がある」や「ややポジティブなタイプのADHD」と言われた子が増えて(さらに今後も診断名がついていくことが予想される)、全体で配慮が必要な子がなんと7、8名はいるという問題の多いクラスなのだ。これだけのクラスを4月当初、園長は障がい児を持った経験のない担任2人でやるようにと命じた。「そんなのできっこない」と担任は大いに反発して、園も慌てて求人を出したが誰も来ない。私のような非常勤職員たちが時間数や日数を増やして(年間収入制限のある方もいる)、なんとか保育を回して日々凌いでいるのである。
本来、“加配”の役目でクラスに入るならば、対象児につきっきりなはずだが、人手がないから臨機応変に雑用もやるフリー的な動きもしなくてはならない。加配が純然たる加配として機能できていないのが現状だ。クラスリーダーは「保育の質を考えるなら、最低でも5人は保育士が欲しい」と園に訴えても何せ人が来ないという理由で対応できずに担任2名と非常勤2名しか入れてくれてはいない。
いちばん担任たちが困っているのはADHDの子どもがほとんど午睡をしてくれないことだ。本来なら午睡中にできる連絡帳や日誌など書類関係の仕事、行事などの係の仕事が全くできないで持ち帰るばかりだという。午睡の時間帯は私はいったん帰宅してしまうのでそこでもまた人手が足りなくなる。毎日、1時間半もかけて担任たちは交代で寝かせつけに奮闘するのだがうまく行かない。そのストレスたるやいかばかりだろう。
これだけの人数の障がい児がひとクラスに揃っていて、ひとりひとりに配慮の仕方、対応の仕方が違うのに、4月当初の担任たちは一斉保育の意識のままでスタートした。すなわち、マンツーマンの特別な配慮が必要にもかかわらず、いつもどおり「みんなと一緒に早く同じようにする」をクラスとして目指そうと躍起になった。座っていられないADHDの子どもに「今は絵本を見る時間でしょ」と教え諭して腕を引っ張った。クラス運営と同時進行で担任それぞれが障がい児保育の研修に行き、ADHDの障がいの特徴を学ぶにつれ、必要な遊具はすぐさま購入し、保育室の環境を整え、保護者とも話し合った。そしてそれでも保育士の人数が足りていないため、どうしようもないワサワサした雰囲気がなくなることはなく、「とりあえず怪我なく過ごせた」だけの毎日を「これでいいのだろうか」と不安とため息をつきながら送ってきたのだった。
初めに私が疑問を持ったのは、ADHDの子の食事対応についてだった。背後には障がいを認めたがらない保護者との思いの行き違いがあるのだが、「家ではたくさん食べています」と連絡帳にひと言書かれたことを皮肉に捉えた担任は、それならばと完食を目指した。泣いているのに「食べて」と強要して無理やり食べさせているのを横目に「私はあれはできないなぁ、したくないなぁ」と思ったが、立場上、口出しはできなかった。私は3食のうちの1食のことであんなに躍起になる必要はないと思うし、好き嫌いは成長するにつれだんだんと修復されていくものである。何より食事は頑張って食べるものではなく楽しんで食べるものだと思っている。4月である。健常児だって信頼関係も築けていないのに完食なんて無理なのに、集団のワサワサが嫌いなADHDの子が同じテーブルで落ち着いて食事なんぞできるわけがないのである。私が完食させられないのを甘やかしや力量不足ととったのか、食事見を交代した若い担任保育士がかなり厳しく食べさせたので、とりあえず完食はできるようにはなった。が、その頃からチックらしき瞬きが片目に出るようになった。それを保護者に指摘されてからは彼女の食事対応は少しずつゆるくはなっていった。
園庭での三輪車遊びもいきなり暴走しだして、他の保育士やよちよち歩きの乳児にまで突っ込むこともあるため、私が傍らについて園庭を小走りしながら、いざという時は三輪車を鷲掴みにして止めることが必要だった。時々は手が滑ったり、今一歩出遅れたりして三輪車を止められないことがあったが、「障がい児を園全体で見ていきましょう」と体裁のいい事を言ってはいるが、実際は「うちのクラスのかわいい子にぶつけて、あんた何すんの!」的な迷惑そうなまなざしを子ども共々浴びたりもした。「これが母親の気持ちか」と何度も思った。5月の強い日差しの中、汗をかいてここまで頑張っていても、遠くで見ていた若い担任から「先生がくっついて来るのを面白がっているフシがあるから、ちょっと待ってみましょう。私が引き継ぎます」なんて言われて、こちらは他児への事故防止に懸命に努めてきたのに感謝もされずに否定された気分だけが残った。結局、その担任が立って見守るだけでは衝突事故は防げず、園の会議では私が加配として見ていると発表されていたので、まるで私が子ども見を怠って衝突させたと他の職員に思われてやしないかと心配して「私はあの時、子ども見を交代していたんです!」と皆に言いたくてたまらない気持ちだった。以前にもブログで書いたが、そうやって頑張っているところを「交代します」「私がやってみてもいいですか」(一応、言葉遣いだけは丁寧)と来るので、何をやっても「あなたのやり方はダメです」と否定された気持ちになって、「どうせ私はダメですよ」と嫌な気分になってモチベーションが下がることが多かった。彼女は研修で学んだことも非常勤の私には何も教えようとしない、分かちあわない。クラスにこれだけ深く関わっているのにそういう差別的な態度をされると連携のれの字も浮かんでこなくなる。とにかく彼女の保育は支配的、威圧的、管理的で、「○○しないと××させないから」「赤ちゃんクラスに行かせるよ」と脅して、迷いなくチカラで子どもたちを押さえ込むことをずっとしてきたようで、そうやってできた統制を「見よ、この先生としての私の力量を!」と誇示してきた人だと思う。いつだったか、遅番時、床で寝転んで遊んでいた子どもに「○○くん、ここはおうちじゃないんだから起きて遊んで」と言葉がけしていたのを聞いたことがあるが、呆れた。「大人の都合で保育園に来ているのに、しかもこんなに長い時間過ごしているのに、ここは第2の家じゃないのか、保育所保育指針をもう一回読み直してこいよ」と言いたくなった。話は飛ぶが、以前の園では保育室のなかに必ず「リラックスコーナー」があり、クッションが置かれて子どもが自由に寝そべって休息できた。ほんとうに、園の考え方が違えばこんなにも子どもに負担が行くものなのかと驚きだった。
ようやくADHDという障がいの大変さが研修でもわかってきたのか、専門家に言われなければ私ごときいっかいの保育士が何を言ってもダメなのだが、体の内から湧き出てくる「動け!」という強い衝動は抑えることは薬以外難しく、言葉がけで教え諭して分かるものでもなく、衝動は運動という形で放出してやることしかできないとわかった。園庭が使えないならば、ホールをひたすらぐるぐると走り回らせることで、解消させる手を臨床心理士から教わった。集団のワサワサが嫌で机に上ってしまったり、他児の作ったブロックを踏んづけて壊して回ったり、他児を押したりし始めたら、「ああ、もう限界だ」となって、担任や非常勤が代わる代わる声かけしてホールに連れ出すようになった。そしてひたすら走らせる。さっき園庭であれほど三輪車を走らせてきた後でも、驚く程パワーが残っていて、足をもたつかすことなく走っている姿を見ると、ハンパない障がいの強さを思う。抱き上げると心臓は早鐘のごとく鳴っている。薬で抑えれば、知的な遅れも自閉もなく、母親の読み聞かせの努力の結果である絵本への興味やイメージ構築力もある。衝動さえ抑えられれば、「先生もお茶、飲みなさい」とコップを持ってきてくれる優しさだってもっと浮かび上がるだろう。私はそういう時、母親のやってきた孤独でひたすらな子育ての努力を垣間見た思いがする。お迎え時に会えば「お母さんのおかげですよ、ありがとうね」と言い添えている。
いつだったか、私がその子のホール番になったとき、たまたまその時は走ることよりそばにあった木製のジャングルジムに興味があって登っていたら、件の若い保育士が通りがかり「あれ?走るのとボールがお約束じゃなかったっけ?」と言ってきた。しかたなく「それもやっていたんですけど。でも、そうなんだ。じゃあ、下りようか」と促したところ、激しく泣いて嫌がった。事務所にクラスリーダーがいたので声をかけたら園長とともに来てくれた。リーダーは「臨床心理士に衝動を放出させるにはそれがいちばんいいと言われたんです」と私情をはさまず事実を述べた。「ジャングルジムがやりたいと言って泣いている子を引きずり下ろす必要があるか?」と内心思ったが、そこではまた非常勤の立場や私が直に臨床心理士に質問したわけでもなく、そのニュアンスを聞いていないということで反論を言い控えた。しかし、やりたい遊びも自由に選べない(そんなこと前園ではありえない!)目の前の子が可哀想で、そんなことだからこの子は一日何度も「あれはダメ、これはダメ」で規制され、泣いてばかりいるんだと腹が立った。
その夜だったか、やはりどうにも気持ちが収まらず、クラスリーダーに「ホールに出てしまっている段階でもはや3歳児の躾云々の保育から少し離れて、障がい児の保育として捉えるべきでないか」とメールした。すると、私の話を分かってくれて、あの場合はジャングルジムで遊ばせてあげればよかったと書いてきてくれた。クラスリーダーはこの園の支配、管理の保育に傾きがちで、非常勤を下に見る風土を異動してきた当初からおかしいと思っていたとのことで、園長に再三、人数の補充を訴え、保育の質というものにとても気を配る人で、園の中では私が唯一尊敬でき、何でも相談できる先輩なのだ。その先輩も相方の保育の強引さにはびっくりしていて、早く自分で気づいて直してくれることを願っていると書いてきた。連携の悪さは正職と非常勤だけでなく担任同士も感じているようである。もっと言えば、他クラス、他職員の目もある。園始まって以来の障がい児の多さで理解しがたいのかもしれないが、「ひとクラスに大人が5人はさすがに多いでしょ」「5人もいたことがない」「いらないでしょ、4人で何とかならないの?」との声も実際聞こえてくる。あまりに腹立たしいのでクラスリーダーに言いつけてやった。リーダー曰く、「そんなこと言うなら一週間やってみろ!!」と怒っていた。
3歳児という難しいクラスにしかも複数の障がいを持った子どもが重なって入ってきて、関わる保育士の人数が圧倒的に少ない。外国人の自閉症スペクトラム児はほとんど食事と排泄しか関わりを持てずに自閉をいいことに放って置かれている。知的障がい児は知能が1歳程度で言葉もまともに話せないのに、一斉保育の波に引き込まれて暑い園庭にいつでも駆り出されている。動きの大きいADHD児ばかりに気が行き、今では統合保育とは名ばかりで、保育室とホールの別々の保育となっている時間の方が圧倒的に多い。
ただ、考えようによってはいいこともあった。こんなにも支配的、規制的でしつけを重視する一斉保育の園がバラエティ豊かな障がい児の登場によって、ようやく「ひとりひとりを見つめる保育」に切り替わろうとしている。軍隊じゃないんだから「みんなと一緒に早く同じようにする」保育に私はあまり意味を見いだせない。今はてんやわんやしているが、これからは園長が非常勤の私も含めて保育についての話し合いの時間を儲けようとしているらしい。みんなが一緒の同じ関わりをもつことが子どもを混乱させなくて大事だという。実は非常勤だってすべての人が保育に並々ならぬ熱意を持って働いている、というわけではない。障がい児に直接かかわらない人は同じ園の中にいても口では「大変ねえ」と言ってはくれるが、実は本音は「担当じゃなくて助かった」なのだろう。園全体で温かく見守るを実現するためには、立場を越えて何度も何度も話し合いが必要で、そのためには少しぐらい自分の時間は割いてもいいと思える同じ園の職員としての同僚意識、愛社精神のようなものがないとだめだ。障がい児が我が園に持ってきてくれた課題はほんとうに見過ごしてきた大事なことばかりなのである。


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# by zuzumiya | 2017-07-23 00:47 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)


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