暮らしのまなざし

聞き耳団地

ああ、また図書館から予約の本が届いたとメールが来てしまった。
今は常盤新平を読んでいる。家には既に3冊ほどのエッセイがあるが、さらに今日1冊、詩人の白石公子さんおすすめの小説『たまかな暮し』が届いた。風もなく陽気もいいから図書館まで歩いて行くかという気になる。
ここへ引越して来てから新たに通うようになった図書館の前には、公団だか都営だかの古い団地があって、棟と棟との間に小さな広場がある。道路を隔てた前にはコンビニがあり、線路を越えないとスーパーには行けない不便な団地に住む人々の冷蔵庫のような役割を果たしている。午前の仕事の帰り、図書館で本を受け取った後は必ずここで昼食を買っている。この小さな広場に天気がよければいつでも老人の二人連れがいて、おそらくはこの団地の住人なのだろうが、ベンチの足元にコップ酒やビールや焼酎の缶を数本立てて、酔いに任せて陽気に喋っている。いかにも酔っ払いの野太いダミ声が団地の壁に反響して、道行く人も何事かと振り返るほどである。うるさいと苦情は出ないものかと心配になる。コンビニには何度も来ているのであまりに老人たちを見て「よく会うね、ねえちゃん」などと声をかけられたらたまらないと、毎回、慌てて自転車を出す。
ある時、老人たちにまじって、ごく普通の身なりの主婦らしきオバサンが一緒ににこやかに喋っているのを目撃してちょっと驚いた。絶対に彼らは近所の鼻つまみ者だと思っていたから、話かける人が、それも女性がいることに意外だった。彼らにしてみたらただ酒を飲んで陽気に仲間と喋っているだけで、生臭い喧嘩沙汰になったり、誰彼かまわず通行人に絡んだり、飲んだくれてそこらを汚物だらけにしたりはしていないのである。見かけるたび「まったく、昼間っからいい気なもんだ」と呆れてしまうが、よくよく考えれば社会やら家族やらの有用性の枠の中からとうに弾き出された行き場のない老人たちなのだ。「あれはあれで、わずかな年金からでも飲まなきゃ生きてる楽しみがないんだろう」とも思えてくる。そんなふうに考えながら自転車に乗っていると、自分の老後は酒も飲めないし、人見知りな性格ゆえに、さぞや孤独を持て余すことになるだろうと思えた。目も見えづらくなって読書も文章書きも億劫になったら、映画も疲れて見続けることができなくなったら、私には何の楽しみが残っているんだろう。
もしかしたらあの主婦のオバサンもああ見えて本当は孤独な一人暮らしで、あの老人たちの無邪気で陽気なお喋りを毎回「始まったナ」とほほえましく聞いていたのかもしれない。「あんなふうに楽しく生きられたら…」とおおらかな笑い声を羨ましく聞いていたのかもしれない。私にはオバサンのようにフレンドリーに振る舞える勇気はまだない。まだ、切羽詰まっていない。
古ぼけた団地の灰色の壁は住んでいる人もなぜか古ぼけた老人たちばかりに思わせる。酔っぱらいの陽気な老人たちの声がいくら反響しても、黙って許せているようなあの壁の中には、やっぱり一人暮らしの孤独な老人たちがひっそり暮らしているように感じてしまう。



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# by zuzumiya | 2017-03-18 20:20 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

郷愁の「The Rose」

a0158124_1384435.jpg鶴橋監督の影響でベット・ミドラーの「Experience The Divine」というグレイテストヒッツアルバムを出してきて聴いている。「Do You Want To Dance?」はもちろん、私の好きな「When A Man Loves A Woman」や聴くたびに涙腺をやられる「The Rose」が入っている。特に「The Rose」はいつの頃だろう、リリースが今調べたら1979年だというから14歳の中学生の頃だ。ある日、おそらくは日曜日のような休日の昼下がり。床に寝そべってラジオのFENを聞いていた。当時は洋楽に興味を持ち出した頃で、英語もわからないくせにラジオはいつもFENだった。トップテン番組だったかもしれない。「The Rose」の静かなピアノが流れてきた。何だかすごく悲しいような、でも同時に揺るぎない強さを感じる美しいメロディーと歌声に、歌詞が何にもわからないのに聴いていてつつーっと涙が流れた。「The Rose」を聴くたびに、あの日、寝そべりながら、台所で動いているおばあちゃんに気づかれないように涙をそっと拭って鼻をすすっていた14歳の多感な自分が昼下がりの柔らかい光の中に見えてくる。もう少し大きくなって、曲が使われていたジャニスの伝記映画も見たし、さらには歌詞の日本語訳も読んだ。「ああ、そうだったのか」と曲にまつわるいろいろを知って行ったが、そんなこととは別に私の中で「The Rose」にはいつでも郷愁のような懐かしさを感じてしまう。失われてしまってもう戻れないのに、あの頃はそうとも知らずに毎日を特別とは思わず、何ら疑いもせず、退屈やらちょっとした不満やらにくるまれてぬくぬくと暮らしていたんだなと。幸せってそういう時間の過ぎ方をすることを大人になった私は知っている。


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# by zuzumiya | 2017-03-17 23:30 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

萎れたビオラ

朝、見たときは元気に咲いていたのに、昼過ぎに見たらクシャリとぜんぶ萎れていた紫のビオラ。慌てて水をやった。霜をかぶっても強い花だと聞いていて、実際にそうであったが、あんなに萎れていると無事にもち直してくれるか心配だ。花ってこういう裏切り方をする。いや、潔い死に方というべきかな。
昨日、離婚届をもらってきた。窓口の職員がなぜか声を小さくして書き方の説明をしてくれた。用紙をもらってきただけなのに、なぜか気分が落ち込む。たぶん、別居前、一度、私が差し出した離婚届に夫は判を押していたという過去の事実がそうさせるのだ。あの時、すでに二人は終わっていたんじゃないかと何度も考えてしまう。
日曜は母の家に行く約束になっている。電話をかけると「今ある(金のある)私は私の行いでこうなった。(貧乏な)アンタはアンタの行いが悪かったからだ」と言われた。子どもを4人も生んで捨てて自分のためだけ考えて生きてきたくせに、そのすべてが「よい行いだった」と捨てた子どもに言わしめたいのか。金は貰えたが、金以外の方法で愛情は貰えなかった。「そんなんだから、私はあなたをいまだに心の底から信じれないでいるのよ」と言いたかった。日曜に行くのに気が重い。





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# by zuzumiya | 2017-03-17 13:39 | ちっちゃい器で生きていく | Trackback | Comments(0)

鶴橋監督、またしてもベット・ミドラーですか!

a0158124_13114418.jpg読書の合間に映画をAppleTVで2本見ました。『だれかの木琴』と『後妻業の女』です。どちらも女の業の深さを考えさせられる映画でした。後妻業の方は私の大好きな鶴橋康夫監督で、映画の途中でベット・ミドラーの「Do You Want To Dance?」が流れてきた時には「イヨッ、待ってました!」と心で叫んでいました。監督、よほどこの曲に惚れ込んでいるようで、自作の挿入歌に使うの何回目?と笑ってしまいました。ベット・ミドラーのこの曲が流れて来たら鶴橋作品と思って間違いないのではないでしょうか。ほんとにこの曲は大人の艶気と渋みがあって、こちらをじらしてくるような登場感があって、美しく悩ましく切なげに盛り上がって行くし、どんなシーンをも粋にひきたたせてくれるんです。監督は音楽にこだわる方だと思うので、きっとバーに流れていた曲も特別な演出的配慮があってのものでしょう。一曲、素敵だなぁと思えたジャズの気怠い女性ヴォーカルの曲があって、気になるのでなんとか曲名を調べてみようと思っています。小夜子役の大竹しのぶさんと結婚相談所の所長の柏木役の豊川悦司さんが酒場で探偵殺しの相談をする場面だったと思います。思わず、監督の音楽の趣味の良さを思いました。そういえば、「黄昏のビギン」も大竹さんに殺しの場面で歌わせていましたね、ふふふ。脚本も演出も面白かった。大阪弁だから勢いがあって泥臭くてスッタモンダの喜劇になってくれるんでしょうね。ストーリーや演出から離れますが、一人の女としてみれば、飢えと空虚が入り混じった小夜子の底知れない業というか、生い立ちなどの人間的な背景をもっと知りたいな、と思いました。


※音楽を担当した羽岡佳さんの事務所に曲名と歌手をお訊きしています。果たしてお返事くれるでしょうか。


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# by zuzumiya | 2017-03-16 22:11 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

先生が辞める時

今年もそろそろ年度末が近づいてきた。
どこの園でも辞める先生たちがいて、早いところではもう来年度のクラス分け、担任が決まっていることだろう。
いつも思うのだが、先生が辞めるというのは保育園でも幼稚園でも学校でも、寿退社や介護退社、夫の転勤や家の購入、引越しなど以外はおそらくは人間関係じゃなかろうか。保育や教育の現場では考え方、価値観の違いが致命的だったりする。夫婦仲が悪ければ子どもがうまく育っていかないように、ペアを組む先生との相性、保育観、教育観がすごく大切になる。大人だから表面上はなんとか取り繕っていても、実際はいろんなところで漏れ出て、子どもやクラスの雰囲気に影響してしまうものだ。子どもは総じて力関係、序列というものに敏感である。クラスリーダーにはビビって逆らわないが、それ以外にはワガママをぶつけてきたりする。そうやって人を見る。甘えを使い分けている。クラスという小さな集団で自分の居場所を確保し、日々を生き抜くために身につけていく知恵なのだろう。そういうことを逆手にとって「私の言うことは聞くんだから、あなたの言うことを聞かないのはあなたの能力がないせいよ」とこれ見よがしに威張るリーダーはおかしい。子どもとのそれぞれの関係性は違って当たり前なのだから互いに良いところを認め合い、足りない所はフォローし合わないといけない。先生が辞める時というのは、小さな職員室で誰ひとり仲間が信頼できなかった、心からの味方が誰もいなかったという絶望感、内側からの問題なんじゃないか。子どもや保護者が嫌い、面倒ということではないと思う。足の引っ張り合いで、支えたり支えてもらったりの関係がなかった、というのが本当のところなんじゃないだろうか。

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# by zuzumiya | 2017-03-15 23:32 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

降ってきた読点

うたた寝から目覚めたら視界の中で何かが違う。何だろうと見回すと窓に何かが張り付いている。猫のチビも両足で立って見上げている。「うわっ」すぐにメガネをかけた。見ると、運よく蛾やヤモリのような生き物ではなかった。ガラスの中央に墨の毛筆で書かれたような5センチくらいのシュッとした点があった。「句読点?」と思った。いや、正確には読点(ヽ)なんだが、書道で言えばその最後を「止め」でなくシュッと「はらい」で流したような点だ。そういうのがガラス窓に残されてあった。量といい、その勢いといい、すぐにカラスの仕業だとわかった。この辺を縄張りにしているカラスの一羽がわざわざ猫のケージのある方の窓に向かって空から糞を飛ばしたんだろう。まったく、もももいい加減バカにされている。
とはいえ、その読点もどきの点をぼんやり見つめていると、なぜだかすぐに掃除して消さなくては、という気にならない。糞だし汚いしバイ菌あるかもしれないし、ケージのあるベランダは狭いし寒いし、面倒で億劫ではある。でも、それだけではないような。暇人な頭がいきなり現れたその点に何かカラスの糞以上のものを感じ取ろうとしている。
昔、子どもがまだ幼い頃、千葉から東京までよく車でドライブをした。ちょうど浅草のあたりでアサヒビール本社の金色の巨大なオブジェが見えると、子どもが「神様の落っことしたウンコだ」と騒いで「ウンコビル、ウンコビル」と笑った思い出がある。糞つながりでそんな楽しかった家族の昔を思い出した。昨日読んだ白石公子のエッセイに<ぼんやりという言葉が好きなのは、その瞬間、なにかを忘れていたり、なにかを思い出していたりするからだ。※>というのがあったが、ほんとうにそうだと感心する。
単なるカラスの糞であることをひとたび頭の隅に押しやって、いきなり天から降ってきた「読点」として、神様からのメッセージをあえて考えてみる。「まだまだ続く」なのか、ここらでひとつ「区切りをつけよ」なのか。するとまたしても私の思考は離婚話へとつながっていく。いやいや、もしかしたら「読点」なんかじゃなく神様は「ペケ」のつもりか「チェック」のつもりでマーキングしたのではないか。だとしたら、どうだ?なんとなくもうこの夫婦の行き着く定めは決まっていて「ハイ、終了」という感じか。そういえば“お墨付き”という言葉もあるじゃないか。ああ…。
ベッドにぼんやり座っていると、チビが膝に飛び乗ってきた。「にゃーん」と鳴いたその目は「ありゃ、カラスの糞だね」と言っていた。

※『はずかしい』白石公子 白水社


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# by zuzumiya | 2017-03-12 21:28 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

エレカシの「喝采」に寄せて

私は何でも人より先んじるより遅れをとる方だが、エレカシの宮本さんの歌うちあきなおみの「喝采」をようやくネットで見た。ちあきなおみの歌を歌う情報は知っていて、それが「喝采」であって、間違っても私の好きな「黄昏のビギン」なんかじゃないことは少し残念ではあったが、見てみて吃驚した。歌の上手さにほんとうに惚れ惚れした。二番めの歌詞に「喝采」を選んだわけがほの見えて「ああ、そうか」と納得もした。マイクを強く握りしめ、真剣に丁寧に歌う姿に、久しぶりに「私はやっぱり、この人が好きだったんだ」と心底思え、あの頃感じていた愛おしさとそこへ帰ってきた懐かしさに頬がゆるんだ。ファンは水ものと言っていたが、寄せては返す波のようだね。
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# by zuzumiya | 2017-03-11 18:40 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

凝りの原因

先日、美容院に行って若い兄ちゃんに肩をマッサージしてもらったら「凝ってますねぇ」と言われた。ま、肩という部位は「凝ってますねぇ」が褒め言葉、お世辞みたいなものである。
肩が凝っていないでフニャフニャだとまるで日頃怠けて暮らしているみたいで、肩が凝っていればいるほど仕事や家事を頑張っていて真面目な証拠だと無意識にみんな思っているのではないか。なぜなら、美容院の兄ちゃんはその後「お仕事、大変なんでしょう?」とかぶせてくる。で、私の場合はその凝りの原因が仕事や家事でないところが情けないので、兄ちゃんにも「ああ、そうですね」としか返せない。凝りの原因はおそらく仕事30%、残りの70%が猫なのである。
冬場、猫たちは寒いので私の布団の中に潜り込んでくる。ももちゃんは私の右隣、妹分のチビは左隣か足元中央。こう書くと「ふうん、可愛いね」なんて思われるだろうが、私にとっては「つらい」のひと言である。ももちゃんは幼い頃、まるで男性が恋人にするかのように私が片手で布団を押し上げ中に誘い、腕枕をして、胸の鼓動を子守唄のように聞かせて育てた。夏場以外は布団の中でしばらくそうして眠る。熱さか呼吸がつらくなってそのうち這い出て、私の顔の真横、同じ枕に顔を乗せて両手を投げ出すようにしてぷんすか眠る。尿意でこちらが目が覚めたりすると、薄暗闇に縞の顔のドアップが見えてドキリとすることがある。チビはももに習って、横向きの私の背中側の隙間から布団に侵入してくる。チビはへんな猫で、昼寝の時も体は横向きだが顔だけうつ伏せにして寝るのが好きで、息が苦しくないのか布団の中に頭から入っても方向転換しない。だから私たちの寝姿はもも・私・チビの川の字を狭いシングルベットの上に書いている。
私は自分の子どもにも腕枕はしてやったことがない。猫でやってみて、ほとほと世の男性が褥でどれほどの労苦に耐えているのかがわかった。可愛い恋人とはいえボーリングのボールのような人の頭。しびれを我慢し、嫌な顔ひとつせずお喋りにつき合い、よくぞ乗っけているものだ。腕枕はそんなに太っていない成猫のももでも10分も経たないうちに腕がしびれてきて、私は手を引っ込める。しかし、背中にぴたりとデブ猫のチビが張り付いていて、私は寝返りが打てないのである。人は寝返りを打つことで、血液やリンパの流れをよくしているのだという。寝返りを打たないことは身体にものすごく悪いのである。ついに我慢ができなくなって寝返りを打つと、息の続くチビがもぐらの移動のように足元にぐんぐん潜って行くのはいいけれど、私の左足を越えて両足の間に落ち着いてしまうとこれがまた厄介なのである。最初は久々に仰向けになれて気持ちがいいが、これが続くと今度は腰が痛くなってくる。なんとしても左側に寝返りが打ちたくなってくる。しかし、寝返りばかりを打って右側のももの安眠を妨げたくはない。ももが「とてもじゃないが寝てられない」と出て行ってしまい、しばらく経って寒さにふるえて布団の中に入り直し、冷たい毛を私の背中にすり寄せられては今度は私の安眠を妨げるからだ。うう、どうしよう。でもやっぱりつらい。で、左に寝返りすると思った通りにその拍子にももが布団から這い出てしまう。もういいやと目をぎゅっと閉じると、しばらく経って今度は枕がぐんにゃり潰れてきて(私の枕はウォーターピローである)、嫌な予感がする。左側に向いた私の鼻先にももの冷たく濡れた鼻が触れて、布団に入る隙間を探しているのがわかる。つまり、ももという猫は私の横向きになった腕のなにしろ腕枕を望んでいるのである。ああ。
そうやって私は寝返りを打っては両腕を痺れさせ、足元にいるチビを蹴り飛ばすことのないように仰向けになっても両足をベッドの端に寄せ、そのために枕に対して体勢が斜めになっているので首にも負担がかかっているのか、朝、目覚めても首やら肩やら腰やら、身体中が痛いのである。職場では苦笑いして「0歳児クラスに入るとこれだから…」なんておんぶやら抱っこのせいにしているが、実は毎晩の猫との添い寝のせいだとはとても人様には言えないのである。


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# by zuzumiya | 2017-03-11 12:43 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

ブログの自由

いやぁ、びっくりした。
昨日、書きかけて眠ってしまった文章を直そうとブログに行っていじっていたら、“ブログジャンル”というのが気になっていろいろな方のブログを見ていたんですけど、中にブラウスの前をはだけて小玉スイカのダブルのような豊満な胸をあらわにした露出趣味の方のブログに出会ってしまい、「な、な、なんだこりゃー」と慌てふためき、部屋に自分ひとりなのをいいことに朝っぱらから中学生の男子のようにドキドキしながら思わず見入ってしまいました。世の中にはいろんな趣味の方がいるんですねぇ。私は女性ですけど、重力に逆らえなくなった中年といえどもかなりの貧乳なため、まるで男性のように豊満な女性の胸にはいつも釘付けになってしまいます。ま、心の内は「どうやったら、こんなに育つんだ?」ですけど。結局、書くことがみんなすっ飛んでしまい、胸の鼓動を鎮めるために逃げる猫をひっつかんで撫でまくっていました。今日が3.11だっていうのに、私ってどうしてこうなんだ?
思い出したらまた書きます。

※ジャンルが「日々の出来事」から「つぶやき」にかえました。50代にはかわりはないけれど。

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# by zuzumiya | 2017-03-11 09:57 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

日々の泡

人に言われた言葉が妙に頭に残って自分の行動を縛るいうことがある。
「糖尿病のオシッコは泡が立つというから、いつもオシッコした後見ちゃう」
この言葉を友人にふいに言われてから、私は便器に座るたび、目の前のドアにトイレでオシッコを確認する彼女のかがんだ姿が浮かんでくるようになってしまった。で、自分も流す段になってオシッコをまじまじ見るようになった。どうか、この泡がすぐに消えますようにと願いながら。
年をとると不安や心配はトイレまで追ってきて、ちっとも落ち着かせてくれないのだ。

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# by zuzumiya | 2017-03-11 08:58 | ちっちゃい器で生きていく | Trackback | Comments(0)

ふだんの暮らしに息づいているたいせつなもの、見つめてみませんか?
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