保育観のちがいは決定的だよな

ついに先日、園長から呼び止められ「やっぱり○○先生(私のこと)は園の保育観とは違いますかねぇ」と訊かれた。実はそれより前にあった法人の研修の分科会で「職員同士の連携の難しさ」について司会者から意見を求められ、非常勤の立場はいつも正職の顔色を伺い「これをしてもいいのか悪いのか」と迷うことが多く、中途半端な保育をしているというようなことを発言してしまったのだった。おそらくはその時のアドバイザーである同じ法人内の他園の園長から、あるいは司会者であったうちの園の先輩保育士から、園長に何か連携のまずさを指摘されたのではないかと思う。
以前、園でこんなことがあった。砂場で正職の保育士が子どもたちと山を作って遊んでいた。水道から水を何度も持ってきては流し入れて川や湖を作って遊ぶ姿に「へぇ、こんなことしていいんだ」と驚いた。同時に「正職だからできることよね」とも思った。
以前勤めていた、ベルギーの保育を目指している自由保育の園ではどろんこ遊びもパンパなく凄かった。砂場から水が溢れ出るんじゃないかというくらい子どもたちが何度も水を入れてきて、それを保育士は「もったいない」とか「もういいんじゃないの?」とかいっさい口出しはせずに子どもたちが満足するまでやらせることを見守るというスタンスの保育であった。研修で見ているこちらが「水道代、大丈夫なんだろうか」と心配するくらいだった。
そんな園だから「子どもの遊びの保障をする」は徹底していた。3歳児以降の幼児クラスは異年齢保育だが、“カプラ”と呼ばれる薄い木片の積み木を子どもたちが大量に使って道路が張り巡らされた一大都市を作る。その中には動物園やら遊園地までもがある。クリスマスの時期にはクラスの入口付近に巨大なクリスマスツリーが出来ていたりする。驚くのは午睡の時間になっても保育士はその巨大な作品を子どもたちに片付けさせないこと。街の上に各自が壊さないように工夫してコット(担架のようなネットでできた一人用の寝床)を引き詰めて寝る。子どもが午睡後に遊びの続きをやりたいという気持ちを大事に汲むのである。これもひとつの遊びの保障だろう。
乳児のクラスでは、特に0、1歳児なんかはわざわざ主任から「片付けより遊びを重視するように」と言われる。片付けをやんわり促す「おかたづけ~」なんていう歌はもってのほか。保育士が床に散らばった遊具の散らかり具合を見て、遊びが本当に終わったかどうか見極めて危険がないよう少しずつ片付けていく。このように以前の園では食事・排泄・睡眠以外は子どもは常に遊んでいるものと考え、保育士は子どもの自発的主体的な行為である遊びが単に楽しみだけでなく発達も促すことから、それを保障し、最重要視することを保育士に徹底的に教え込む。
ところが今の園は昔ながらの一斉保育でしかもしつけ優先の園である。ひとつの玩具で遊び終わったら新しい玩具をだす前にまず片付けさせようとする。ブロックがままごとの鍋に入って料理されているのも“見立て”とは解釈せずに「ブロックはブロックのコーナーで遊びなさい」となる。20年選手のパートの職員が「もう、こんなに散らかして」とブツブツ小言を言いながら遊具を拾い歩いている。ブロックならブロックだけしか出さない。しかも人数に対してかなり量が少ない。遊びの広がりようがない。無駄な喧嘩が増える。子どもの遊びがどう展開して、遊んでいないようでも実はまたもとの遊びに戻ってくる可能性もあることも知らないのか、古臭いしつけ感覚でしか子どもの遊びが見られない。しつけ意識が強いのでしつけの観点からでしか言葉がけができない。遊びを「散らかす」と捉えるなんて以前の園ではクビだ。20年も勤めていられないだろう。一斉保育でしつけ意識が強いとなったら、そこはもう保育士が怖い顔して怒鳴って押さえつけている「管理・支配の締め付け園」ということになる。今の園はとにかく清潔意識も遊びへの意識も私が保育士の免許を取った19年前から何にも変わっていない。よくもまあ、長きにわたって世の中の流れや保育界の変遷にも耳をかさず目を閉じて、自分たちだけを信じてやってきたものだ。
話がずいぶん逸れてしまったが、どろんこ遊びの話に戻る。その後、もうひとり、正職の保育士が砂場で派手にどろんこ遊びをやっていた。だからどろんこ遊びが2回続いていての話なのだ。私が砂場で子どもたちと山を作っていたら、先日の楽しかったどろんこ遊びを覚えていた子どもが「先生、お水入れていい?」と訊いてきた。「やばっ」と内心思った。
自分が非常勤という立場のことだけじゃなく、前日の朝の集会で「お水は大事に」「プールの神様に怒られてプールに入れなくなっちゃうよ」なんて話を聞いていたからだ。それでも先日2回も正職が砂場に水を入れていたので、やって悪いはずはないと判断して「お水持ってきていいよ」とOKを出したら、そこへ5歳児の担任が現れて「アレ?お水やっていいんだっけ?お水大事に使わないとって昨日お話してたでしょ」となった。私はしぶしぶ立って事情を説明し、先日の先生方がどろんこ遊びをやっていた件を話した。「毎日毎日、どろんこで汚れてたらお母さん方も大変でしょうから」とかなんとか言いつつ苦笑いして許可してくれた(許可せざるをえないだろう)。「大人側の事情を出してくるなんて、やり方ひとつでどうにでもなるのに」とは思ったが反論せずに、許可されたことで一度だけ水を流し入れてもいいことにした。でも、実に中途半端な保育、遊びになってしまった。なんとなくその先生も話の矛盾には気がついていて、どろんこ遊びひとつとっても正職同士でも意見のくい違いがあるようで、何年も同じ職場にいて仲良く見えても、意思疎通、連携というのは本当に難しいことなんだと思った。
もう、遊びと発達の関係については本当に今の園の先生方は分かっていなくて、0歳児が遊具の入ったダンボール箱に片足を入れて跨ごうとしていると「ダメでしょ、ここは入るところじゃありません、これはおもちゃのおうち」なんて言ってやめさせる。3度も引き戻されて子どもは泣いて怒っている。私は内心「入りたいんだよね。今は跨ぐことで自分で体のバランス感覚や体幹を鍛えているのにね」と思って見ている。かわいそうな話だ。遊びと発達の知識のある園ではダンボールに布地を貼った“押し箱”なる遊具がクラスのそこらにいくつもあって、子どもたちはいつでも好きな時にそれに跨り、中に入って独り占めした空間に満足げな顔して座っている。時には仲良しの友だちが箱を押してくれて、自らの足腰を鍛えているとも知らずに楽しく遊び、時には集団の中で貴重なひとりの休息時間が過ごせる居場所にもなっている。そういう効果のあるダンボール箱なのに、今の園の先生方は作ろうともしないし、非常勤に頼んで作らせもしない。「ここならいいよ」という代替物も与えない。その子にとっての自発的な遊びのやる気と発達をうながせる貴重な瞬間を「遊具箱に入ってはいけません」というしつけ感覚で取り逃がしてしまっている。そのことに気づかない。そういう遊びや発達の研修も勉強もしてないから無理もない。
こういう遊びに対する見方はやっぱり園の保育との違いをどうしたって際立たせてしまう。いちいち引っかかる。2歳児に「クラスの中を走ったらダメ」と言うならば、ホールをテラスをどこか安全な場所を走らせるしかないではないか。だって、彼らは今、発達的には走りたいさかりなのだ。たくさん走って走って自分の力を確かめたいのだ。ひとしきり走れば満足してまた座っておとなしく遊ぶことができる。それは保育の静と動のリズムといわれるもので基本中の基本のはずだ。「ダメ、ダメ」とさんざん言っておいて、それなら他の遊びにうまく誘うかといえば注意だけで終わってしまう。そんな保育を目の当たりにすると本当にげんなりする。そういう日々の保育の小さな不満がやっぱり園への不信に繋がっていっていることはよく分かっている。だからこそ、非常勤で7時間しか働かないで、なるべく「見ザル聞カザル」でのんびり長く勤めようと思っていたのだった。それが人手が足りず、8.5時間も働いている。日々の保育に深く関わりあうことになってしまった。
長くなってしまった。真夜中の更新でうまく頭が働かず、連携の話からずれて遊びの話になったが、次回はズバリ連携の話を書くつもりだ。つづく。




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# by zuzumiya | 2017-07-22 01:34 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

どういう教育してるんだ?

以前に男性トイレの個室が空いてない話を書いた。大はもちろん、小の方も個室でする男性が増えているという予想だった。それに似た話で、保育園のトイレ事情を紹介する。男の子も三歳児となればパンツを下ろして立ってオシッコできる。オシッコしたら、下腹の辺りをポンポンと叩いて尿切りをする(園ではそう教えている)。立ってできない子は女の子と同様、個室へ入って便器に座ってする。ところが最近多いのが、オシッコが終わると男の子でもペーパーでちんちんの先のオシッコを丁寧に拭き取ろうとするのだ。保育園ではこの場合も二歳の頃から「お腹ポンポン」で尿切りを教えてきたから、これは母親が家ではそのように拭くことを教えているとしか考えられない。もしかしたら、このまま園が見過ごしていたら、将来この子たちは個室を選んで入り、几帳面にせっせとちんちんを拭いているのではないかと想像してしまう。そんでもって今、個室を好んで入っている若者はみんなそうしているのかもしれないとさえ思えてくる。
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# by zuzumiya | 2017-07-20 00:40 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

久しぶりの更新です。

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結局、自主研修には行きました。本当はその日は職場の同僚と上野の美術館の予定だったのだが、我儘を言って研修にも一緒に参加してもらいました。しかも、時間が押して上野に行っても絵は見れずに終わるという身勝手さ。ごめんね。今度、かき氷でも奢らせてね。今年はかき氷を食べ歩きたいな。
毎年夏になると「今年の夏の一枚」いう感じで「雨と休日」さんからCDを買います。今年はボサノバの上品な室内楽バージョンで「Chamber Bossa」です。私は昼間に流す音楽をあんまり持っていないので(夜に合うものばかり)、夏の休日、クーラーの効いた部屋でのんびり読書でもしながら流しておける音楽ということで、やっぱりボーカルのないものを選んで買いました。あとはクラシックでフォーレの「舟唄」や「バロック ラルゴ名曲集」を買う予定です。こちらは昼夜どちらでもOKな感じのゆるやかな音楽。興味のある方は「雨と休日」さんのオンラインショップを覗いてみてください。
さて、我が家の猫たち。クーラーや扇風機の風の当たるところへはチビが喜んで寝そべるけれど、ももは巣箱の中に逃げちゃう。猫にも暑がり、寒がりがあるみたいです。
猫たちの可愛いところは、私がベッドに横になると集まってくるのですが、ももは私が眠るまで必ず枕元に寄り添ってくれること。朝気づくといなくなっています。優しい猫です。
窓辺に置いておいた赤いシェードのスタンドライトが壊れてしまいました。雰囲気があってお気に入りだったのに残念です。この際、夏らしくブルーのモザイクライトでも買おうかなと迷ってます。
8月のお盆に1週間のお休みを頂きました。今年は少しぐらいはアウトドアしなきゃと思っています。


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# by zuzumiya | 2017-07-15 11:17 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

こういうギターアルバムが欲しかったの

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Bill Brovold&Jamie Saftの『Serenity Knolls』という二人のギタリストの競演アルバムが最高カッコいい&心地よい。エレクトリックギター、ドブロギター、スティールギターで醸し出す“ゆらめきとたゆたい”の音色。くぅーんと脳みそが引っ張られる。私が出会った過去最高のギターアルバム。バーボンの酒臭い髭面男とやわらかいベッドでゆっくりとキスを交わすような感じ。




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# by zuzumiya | 2017-06-28 22:08 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

もっと爽やかに疲れたいんだ

生きていると悩みは尽きない。考え事をしていて、ついブレーキから足が浮くのもさもありなんと思うので私は車の運転を諦めた。
正職員を辞めて非常勤のパートとしてゆるやかに、あんまり頑張りすぎないで保育に関わって行けばいいやと思って今の園に決めた。家から近いし、時間のわりにお金がいい。保育の考え方、その実践のしかたの合う合わないなんかは本当は働くうえでとても大事なことなんだが、パートだし、時間が短いし、で深く追求しないでいくつもりだった。でも、もう2年目にして週5日、1日8.5時間も働き、しかもよりによって障がい児を何人も抱える難しい3歳児クラスにいて、いろいろ考えるなっていう方が無理になってきた。パートだから、正職員からの指示に従って動けばいいんだというのは雑用の時だけである。子どもと接する際はもちろんすべてが保育だ。子どもにとってはパートも正職員も役割分担もない。目の前のこの私という大人から学んで行く。子どもたちのためにこれでいいのかな、どうしたらいいんだろう、と保育について考え悩むことは正直尽きない。疑問や不満の投げかけを職場の人間と共有したい。一緒に建設的に解決していきたい。休日にもかかわらず、録画した教育テレビや専門書や保育士のサイトを覗いてどうすべきかをひとり考え込んでいる。一日の何時間も費やす仕事に対して目を逸らさずマジメに向き合えば、日々はきっともっと変わっていく。楽しく面白く、納得と信念をもって仕事したい。そういうところで爽やかに疲れたい。
今度の週末に開かれる保育の研修会を見つけた。“支配や管理でない保育”という言葉にとても共感する。“保育士おとーちゃん”こと須賀義一さんのセミナーだ。ブログを読んで素直に行きたいと思った。しかし「行ったところでどうなる?」ともう一人の私が待ったをかける。長いことかけて出来上がった園の風土は一人の熱血漢が騒いだところで変わらない。保育士ボヘミアン。自分の思いと合う園を探して歩くにはもう年を取りすぎた。給料に見合わない正職員の仕事量の多さも分かっている。でも今のままじゃ何もかも中途半端な気がする。意識すら高めるのにもこんなふうに迷うなんて情けない。

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# by zuzumiya | 2017-06-25 07:05 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

ついに達成!

ミニボーナスが入って最後のペンダントライトを購入して、ついに部屋の模様替えが完了した。購入したもの、本棚&CD棚、デスク&チェアー、読書用フロアスタンド、読書用一人掛けチェアー、チェスト、ラグマット、ベッドカバー、ペンダントライト。50代の今の自分に似合った黒茶紺白でまとめた落ち着いた雰囲気の部屋になったと思う。あとは本とCDをチマチマと買い足していこう。いい部屋だ。頑張って働いてよかった。
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# by zuzumiya | 2017-06-23 23:59 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

褒めて伸ばす

「プレバト」なるテレビ番組で、一芸に(いや二芸にも三芸にも)秀でた芸能人がさらに俳句や華道、書道、水彩画なんかに挑戦して、才能のあるなしを競い合っては一喜一憂している。面白いのは俳句の時の渡辺えりさん。脚本だってエッセイの類だって書くような文才のある彼女が俳句では手も足も出ない。「才能なし」に選ばれた時のあの恥入りながらも本気で不服そうな顔。番組的には大いに盛り上がるが、結構本人はへこんでいるんじゃないかと思わせる。芸能人たちのそんな姿を見るたびに、私なんかは「一芸に秀でているんだから欲張るなよ、もういいじゃん」と言いたくなる。芸の世界にいるからこそ「才能」という言葉にあれほど敏感に貪欲になるんだろう。
「Aスタ」でもエレカシの宮本さんがロッキング・オンの山崎さんにデモテープを聞かせに持っては来たけどなかなか渡せないというエピソードを知り、作り手の持つ繊細で奥深い逡巡を感じた。その逡巡の機微を分かってあげられないとあの女性DJとの一件になるんだろう。
夫がどういうわけか突然、漢字検定の試験を受け始めた。「何で漢字検定なの?」と訊いてみても「漢字に強くなりたいから」としか答えない。何かに夢中になり、努力してそれが結果としてちゃんと認められる、そういう経験が欲しかったのかなと私は勝手に解釈している。学生時代、国語の成績が良く、クイズ番組でも漢字問題での正解率が高くて、家族から一目置かれていたゆえの漢字検定でもある。でもね、ほんとに大事なのは漢字検定は代償行為なんだろうなということで、彼にとってはたとえ一級に受かったとしても満たされない何かが残りそうな気がする。たまに次々に資格試験を受けて資格に拘る人がいるが、そういうことなんじゃないか。身近な誰かに口先だけでなく心から認められること、そういう自信がなくて欲しいこと、心はそっちを求めているんじゃないかな。
保育をしていても、遊びの中でたくさんの子どもたちから口々に「せんせい、見て」と言われる。目は二つしかないのにあっちもこっちもなので本当に大変だが、急がずひとりひとり、ひとつひとつ着実に具体的に褒めていく。私は子どもたちには人気がある方だと思っているが、それはユーモアがあって面白いのといつもどこかを褒めてくれる(洋服であっても褒める)からだと思っている。こんなに小さいのに褒められたくてうずうずしていて、褒めてくれる人を心から求めていて、みんな自分の存在を認めてもらいたいのだ。そのために懸命に頑張っている。そんなふうな心の帰着をしながら、テレビを見たり、生きている。





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# by zuzumiya | 2017-06-18 09:04 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

知るってことを端折っちゃいけない

読書をしている私の背後で息子が「行ってきます」という。彼女の家まで毎度のことながら車で行くのだ。この「行ってきます」のきますの部分のかすれ声の感じが今日はなんだかやけに耳に残る。嫌な予感があるわけじゃないが、これも先日、息子の彼女を送って車で千葉まで家族で行った経験があるからこそなのだろう。あの遠さを思えば、無事に行って帰って来いよ、の切実さが違う。知るってことを端折っちゃいけない。
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# by zuzumiya | 2017-06-17 09:55 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

生きているのに一緒にいられないのは死んじゃっているのと変わりない

今日みたいに夜中の2時半に何故か目覚めてしまって、トイレに行ったら眠気が飛んでしまった夜はいろいろと考えてしまう。例えば、母とのこと。
母は今、ようやくひとり暮らしをしている。9つも下の最後の夫は、長年の浮気相手と寿司屋でデート中にくも膜下で倒れた。車椅子生活の後、ガンを発病して死んだ。その後、やっぱり年下の面倒見のいいボーイフレンドと同棲したが、浮気され、その浮気相手が自殺未遂を起こしたため別れた。「もう男はこりごり」と言って、私たち子どもに財産分けを始めて家や車を買ってくれた。そうして私は母のいるマンションから出た。
夫との離婚が頭を掠めるたび、母のことを思う。小さい頃、あれだけ一緒に暮らしたかった母が今ひとりなのだから、元気なうちに一緒に暮らして互いの人生の中に失われた親子の時間を取り戻そうなんて思ったりする。そうやってなんとか最後に納得のいく母とのいい思い出を作ろうとしている。でも、じゃあ、どうするかと考えればいつだって堂々巡りだ。母にはお気に入りの自分のマンションの部屋と5匹の猫との生活があり、引退したくない仕事があり、私にも食べていくための仕事があり、好みに作り上げたばかりの部屋がある。「私は本当はマンションより一軒家が好きなの。庭で家庭菜園なんかやりたいの」と言いつつも、私がたとえ夫と別れても母は住み慣れたマンションを出てこの家には来ない気がする。理想は今のこの家を建て替えて二世帯住宅にすることだが、大金を使った母はもうそこまで大掛かりなことはしたがらないだろう。私がこの家を出て、母の持つマンションの5階に住むのがいちばん実現可能な話なのだが、それでも所詮10階と5階の離れ離れだ。9階に住んでいた昔と変わらない。しかも5階の内装のラブホテルのようなオレンジ色の壁と鏡ばりだけは勘弁してほしい。それなら、週末ごとに私が母の部屋に泊まりに行く手もあるが、正直、5匹の猫がうざったいのと貴重な週末が削られて休んだ気がしない、疲れがとれない。日曜だけが休みの母もきっと同じだろう。と考えていくと、笑ってしまう。なあんだ、結局私は、たぶん母も、このまま離れて暮らすのがいちばん都合がいいのかと。いつの間にか私もそんな風に親離れしていたんだな、と。そうして一周ぐるりと回って、つくづく私たち親子は縁薄いんだな、と認めざるをえないのである。同じような話が私と娘にもある。中学や高校から家を出たり入ったりの娘との親子の時間はあまりにもなかった。今も彼氏と同棲していて、このままなら数年後には結婚するだろう。母娘のかような因縁が続くなら、娘には是非男の子を産んでもらいたいと思う。
生きているのになぜだか一緒に住めず、離れ離れの方が互いにうまく行くなんて、持てる時間は有限なのにどうにもならないなんて、なんともせつない話だなぁと思う。生きているのに一緒にいられないことは、実は死んじゃっているのとあんまり変わりないなと思う。生きていればいつでも会えるさ、というのは違う。いろんな口実を作って先送りにして、つまりは互いに会いたくないんだろう。会わなくても別にいいや程度なのだ。それって、死んじゃった人を時々ふと思い出すみたいな薄さだ。凄いよな、生きているのに互いの頭の中ではもう死んじゃった人と同じレベルに落ちているなんて。喧嘩しいしいでも面倒くさくても一緒に住むっていうことの大事さを思う。


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# by zuzumiya | 2017-06-17 08:53 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

休日はじぶんらしく

三角みづ紀さんの詩、かくたみほさんの写真を知る。
谷郁雄さんのエッセイとよしもとばななさんのエッセイを購入。
バスキアとダイアン・アーバスの映画を観る。どちらも3度め。

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# by zuzumiya | 2017-06-11 19:12 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)


ふだんの暮らしに息づいているたいせつなもの、見つめてみませんか?


by zuzumiya

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