暮らしのまなざし

『困難な結婚』読んでも気楽になりませぬ

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なんども書いてきたが家庭内でいろいろあって、もうひと月以上も夫と口をきいていないし、顔も見ていない。そんな中、写真家で『かなわない』や『家族最後の日』の著者でもある植本一子さんが好きだと書いていた本『困難な結婚』(内田樹・著)を読んでみた。それなりの発見も確認もあって、読んでみてよかったと思う。とはいえ、今の家庭内離婚の危機的状況がすぐに解決に向かったというわけではない。「どうしよっかなぁ」はいまだ続いている。
内田さんは本書で<それをすることがあなたにとって、ほんとうにたいせつなことなら、それに相応しい「勢い」があります。>と書いているから、グズグズしている今はまだ結論を出すべき時ではないということだろう。
さて、本書では驚くべき発見があった。<配偶者が変われば、あなたは別の人になる>というところ。ここは読んでいて「嘘でしょ?」と思った。私は今の夫と別れたら、もう誰とも結婚しないだろうと思っている。夫という他人と暮らして家族を作って、もうすぐ子どもも巣立とうとするところでなんだかひどく倦んでしまって、もうこれ以上他人と暮らすのは面倒だと感じている今となっては、私が再び別の男と結婚して嬉々としてその暮らしを楽しむなんてことがあろうはずがないと思う。
内田さんによると<人間の中にはいろんなタイプの「配偶者特性」が潜在的には眠っているということです。だから、どんな人と結婚しても、「自分がこんな人間だとは知らなかった」ような人格特性が登場してきます。いってみれば、配偶者が変われば、結婚しているあなたは別人になるんです。どの人と結婚しても、そのつど「その配偶者でなければそういう人間ではなかったような自分」になります。それはいわば配偶者からの「贈り物」みたいなものです。>ということらしい。
いくら新しモノ好きな私でも、25年以上も結婚生活をした後じゃ「出てくる自分なんてもうないよ、出し切ったよ」とボロ雑巾のように卑下したくもなるが、夫ではない別の男とまた一緒に暮らせば、「え?これがワタシなの?」と瞬きしたくなるようなまだ見ぬ新しい自分が顔を出すのだろうか。スルメかだし昆布のように。でも、なんとなく行く手に希望の光がチラチラ見えてくるようで、悪い気がしないのも事実だ。反対に夫が新しい配偶者を得たとしたら、彼にも「新しい自分」が出来て、それはついぞ私がどんなにこの人生で努力しても出会うことができなかった彼ということで、そう思えばなぜだか少し哀しい気にもなる。
で、あとひとつ。夫婦の倦怠期の話で、内田さんは書く。<自分自身の人生が楽しいと、倦怠期が起きても、それほど致命的なものにはなりません。「倦怠している」人たちというのは、ある種の自己倦怠を病んでいるからです。自分で自分自身のありようにうんざりしている。そして、その倦怠を自分の周囲の人間関係全体に拡大している。自分自身が日々新しい発見にわくわくしながら暮らしていたら、選択的に配偶者についてだけ「倦怠する」ということにはなりません。>
なんかこの<倦怠とは自己倦怠にほかならない>というのは今回いちばんグサッときた。たしかに自分の感じ方なので、自分の心の持ち方のほうに責任がないか、不調はないか、夫婦ともに更年期なのだ、注意すべきところである。この文章の少し前に内田さんはこうも書いている。
<危険なのは、自分自身が社会的にうまくいかないことを結婚関係とリンクさせて説明しようとすることです。「この人と結婚さえしていなければ……」と仮想して、配偶者の無理解や無能を自分自身の不幸の原因にすると、もうダメです。だって、たしかにあらゆる自分の不調は配偶者の無理解と無能で「説明できる」からです。(中略)ほんとうは自分の心身の不調には配偶者以外にもいろいろな原因があるんです。(中略)でも、そういうさまざまな微細な「不調」が加算されて、水がコップのふちからあふれそうになったときに、「最後の一滴」となるのが、だいたい家の中のいさかいなんです。(中略)僕の経験から申し上げるなら、自分の心身の不調は無数の微細な不調の算術的総和によるものです。だからひとつひとつほぐしてゆくしかありません。(中略)配偶者のことは脇において、自分はそれ以外のどういう条件がクリアーされると機嫌がよくなるか、それを考える。そして、それが実現するようにこつこつ努力して、「心ない一言」で「コップから水があふれる」ような危険水域に自分を持ってゆかないことです。>
内田さんは、風邪で寝込んでいる妻に夫が自分の夕飯は支度しないでいいと言ったことで「私のご飯はどうなるのよ」とブチ切れて離婚した知人の話を引き合いにだして上記のことを説明している。妻の腹具合にまで気がつかなかった夫の想像力の欠如はたしかに不愉快ではあるけれど、妻の方がある程度自分の体調を予測して動いていたら、夫を当てにせずに自分の非常用の食料を自分で用意しておくことをデフォルトにして暮らしていたら、離婚に至るような致命的なダメージにはならなかったのではないかと書いている。
うーん、そうだろうか。このあたりは、自分のものは自腹で買って記名してストックしておく今の我が家のやり方みたいで、「まあね、自分が食べるんだから理にかなっているわね」とは思うけれど、ほんとはそうスパッと割り切れない侘しさがある。正しいのだけど正しさにはどことなくやさしさがない、にじむ情がないのだ。男の人はどうも正しいことには気づきやすいが、やさしいことを第一優先にしない。きっと世の中の多くの妻は「風邪で熱があるのに、結婚していて一人暮らしじゃないのに、なんで台所に立ってレトルトお粥をチンしなきゃいけないのよ」と思うんじゃないか。病気なのに気にかけてもらえていない寂しさを「これが私が思い描いていた結婚生活?」と悔しく虚しく思うに違いない。心から納得してそういう準備万端な自立の生活をデフォルトにできていればいいのだが、通常でなく、いざという時に一緒に暮らしている人を当てにしない、できないっていうのはやっぱり女には堪える。「大人らしく自分のことは自分で」という正しさと「それでもやっぱり相手に甘えたい、頼りたい」という情の依存の矛盾が結婚生活には渦巻いているから難しい。
どんなに本を読んでもドラマや映画を見たとしても、自分の結婚にすべてが当てはまって「ああそうか」と思えるものはない。正解が見えてこない。内田さんじゃないけど葛藤のネタが増えただけである。<「葛藤すること」のうちに、最も現実的なソリューションがあるんです。>の言葉を信じて、まだまだ頭を抱えるしかないようだ。ふぅ~。



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# by zuzumiya | 2017-03-05 00:10 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

こんなCDを聞いてます

a0158124_1331869.jpga0158124_134549.jpgCDの棚をまじまじと見たら、ジャンルを越えてピアノものの多いこと多いこと。すべて単音や和音がぼわわーんと伸びて始まるような瞑想チックな、静かで穏やかで、まるで墨絵のような感じのものばかり。なんで同じようなものばかり買ってしまうのか。私が“雨と休日”という以前、西荻窪にあったCDのセレクトショップ(現在はオンラインショップになっている)のファンということもあるけれど、音楽をかける時というのはたいてい部屋で読書かパソコンで文章を書いている時というのが理由になりそうだ。
っていうか、常日頃その二つぐらいしかしていないのである。読書も文章書きも頭の中では日本語がぐるぐる回っているわけだから、そういう時に耳が日本語の歌詞を拾っちゃうともう読書も文章も一歩も先へ進まなくなる。だから、DJが曲の合間にペラペラ喋るラジオも聞けない。つまりは、私が選んできた音楽は読書と文章書きを邪魔しないもので、そうなると先に書いたような静かなピアノの曲ばかりになるのだ。そしてこれからも私の趣味が広がらない限りは、選ぶ音楽の基準はほぼ「読書と文章書きを邪魔しないものになる」ということに今日、深く気づいてしまった。ああ、そうだったか。
でもね、ほぼと書いたのは、私だって読書や文章書きの合間に掃除をしたり、風呂上がりにクリーム擦り込んだり、ネットショッピングしたりもするわけで、そういう時に流す音楽というのもあるわけで、そういう時は季節に合ったもの、その時の気分に添うものを選んでいるのである。以前にこのブログでも「春の窓ふきにはワルツが合う」とか「蒸し暑い夏の夜こそフィーリンがいい」とか書いた。洋楽だって、エレカシだって実はいっぱい持っている。
で、今回紹介する上記の二枚だが、雪の中の山小屋のジャケットがドイツの音楽家トビアス・ヴィルデンの『ARTIFACTS/SCENES PIANO WORKS』で、素足のイラストの方が森ゆにさんの『シューベルト歌曲集』。トビアスのピアノの音は「雪の結晶のよう」と評されているが、季節や昼夜を問わないと私は思う。B・ENOの『THURSDAY AFTERNOON』並みに鳴っていても読書と文章書きの邪魔にならない美しい作品。森さんは別にオペラ歌手ではないけれど、少女のように素朴にまっすぐにドイツ語で歌っているのがなんだか聞いていて心のふたが開くというか、明るい野原に連れ出されたようで気持ちが軽くなってくる。思わず窓を全開して部屋の拭き掃除をしたくなる。私のなかではそんな春モノの音楽のひとつ。両方ともおすすめです。


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# by zuzumiya | 2017-03-04 14:03 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

保育には正解はないと言うけれど。

園では早番遅番の乳児のフリーという立場で仕事をしている。
フリーなので0歳~2歳までのどのクラスにも同じように入る。過去の園では0歳児や1歳児の担任として勤めて、担任ならではのやりがい、面白み、辛さの経験もあるが、今はフリーという仕事の大変さを感じている。
つまりはどのクラスに入っても子どもの情報(単に持病や身体がらみの話だけでなく、性格や家族環境なども)がわかって保育に対応できなくてはならないのと、親やクラスの担任たちの性格や特徴を掴んでそれぞれのクラスに合わせたやり方に従って動かなければならないという難しさだ。はっきり言って、これが結構面倒である。
担任の人間的なクセ、保育のクセのようなものをキャッチし、「いい悪い」とか言ってられずに(パートなので言える立場でも議論をしあえる時間もないが)「合わせて」いかねばならない。時には子どものことなんかより、担任の保育の進め方に「え?」となりながらも「ハイハイ」と深く考えずに聞き入れて動く。自転車をこぎながら「なんだかなぁ」と思いながらも「保育には正解はない」という大前提のもと、すべてがうやむやになって心の中に澱のようにたまっていく。
今日の2歳児の遅番でこんなことがあった。
ブロックで遊んでいて、お片付けの時間になった。ある男の子(A君としよう)が先生の「お片づけ」の声を聞いて他の子(B君)が作ったブロックに手を出して(こういう悪気はないがお節介な子はよくいる)片付けようとした。瞬間、B君がA君の手を鷲掴みにした。A君はその痛さで泣いた。事情を知らない遅番の正職が飛んできて、まずB君に手を鷲掴みにした事実を叱る。当然な対応だろう。ちょうどそこへA君の母親も帰ってきたことから彼女は事情を説明し謝り、「それならB君、片付けてよねッ」と冷たく言い放って去り、どんどん保育を先に進めていった。それを見た私はB君に「自分で片付けたかったんだよね。手を出すんじゃなくて口で「やめて」と言えばよかったんだよ」と言ってきかせた。B君も泣き出す。B君はクラスでは一度意地を曲げるとなかなか直らない扱いに難しい子と担任からはされているが、「先生も一緒に片付けようか?それともB君が自分で片付ける?」と私が言っても、涙をためて睨んで首を振るばかり。ブロックに私が手を出そうとするとその手をはじく。「先生向こうへ行ってようか?」と聞くと首を振り、「それならそばにいる?」と訊いても首を振る。「じゃあ、どうしたいか先生に教えてくれる?」と言うと、「ヤダ」。しばらくするとそばに同僚のパートがやって来て、ブロックを片付けてくれようとしたが私が手で制した。何度めかの同じ質問でB君はようやく「壊しちゃった」とつぶやいてあらためて泣く。
すなわち、A君にブロックを壊されてしまったことが悔しくて片付けもできなかったのだと分かった。「じゃ、もう一度作ってから片付けようか?」と訊くと、B君は素直にうんと頷いた。「先生も手伝っていいかな?」と訊くとまた頷く。
「こんな感じだったっけ?」「ここはこれでいい?」とやりとりしながら完成させると、B君は今度は自分で片付け始めた。しかし、ここがB君の難しいところ。片付け終わって納得したはずだろうに、私を見る目つきがまだ鋭いままなのだ。すぐにB君の気持ちに気づけなかった私への恨みなのか、と感じた。
この一連の話をパートナーの、無資格だがこの道20年のベテランパートのおばちゃんにしたら、ひと言。「そんなのほっとけばいいのよ。ひとりで考えさせることも必要よ」と言われた。そうだろうか。先のセリフはいかにも百戦錬磨のベテランらしく聞こえがいいが、そして「保育に正解はない」と言われてはいるが、私はあの場合はB君のわがままだと大人が放っておくことは違うのではないかと思う。周りに保育士という肩書きのたくさんの大人が居ながら、よく話も聞きもしないで、すなわちB君の拙いながらも自分なりの気持ちの吐露をさせないで、ただわがままと見定め、ひとり放って置かれることがベストなどとは私には到底思えない。それなら我々大人はいったい何のためにそこにいるのか。ブロックを早く片付けて生活の流れをどんどん先に進めたいがため、か。そんなふうに自分の気持ちをうやむやにされたら、B君はいずれ大人というものを信じなくなってしまう気がする。助けてほしい時に助けてもらってこそ、大人との信頼関係ができていく。
私は放っておかれたB君を想像してみた。他の子たちは先生の前に集まり紙芝居に見入っている。B君だけが離れて床にぺたんと座り、涙も乾き、ぼんやり前を向いて呆けている。頃合を見計らったように現れた大人にひと言ふた言声をかけられ、ブロックを片付けてもらい、促され、腑抜けたように立って連れて行かれる。悔しい気持ちも悲しい気持ちももはやどうでもよくなっている。ただただ、どんより疲れている。こんなふうな虚しい姿が見えるのだ。
B君に「先生向こうへ行こうか?それともそばにいようか?」と言った時、どちらにも首を振ったこと、素直に片付けたとしても最後までどこか私を許せないという目つきで睨んでいたところは、なんだか彼が自分の気持ちをわかってほしいのにわかってもらえてこなかった積み重ねを背後に感じさせた。もしかしたら家でも「そんなふうにいつまでもわがまま言ってるなら、もう知らないからねっ」と親に放っておかれているのかもしれない。気持ちを聞いてほしいのに深いところまで聞いてもらえないで打ち捨てられるその繰り返し。大人に頼りたいのに突っぱねられて心底頼れないもどかしさ、悔しさ、孤独感。そんなものがあの「いてほしくないけどいてほしい」という矛盾した気持ちや鋭い目つきを作ったのかもしれないと思うと、すべての大人を代表してその鈍感ぶりになんだか謝りたい気持ちになる。たとえ早番遅番のパートの保育士であっても、担任じゃなくフリーの立場であっても、20年もこの仕事してきてないけど、私はここぞという時はちゃんとあるべき大人として(「保育士として」とまでは言わない)向き合おうと思う。

※捕食の際には私の隣で笑顔に戻ったB君。あの睨んだ凄みのある顔つきが目に焼きついていますが、これからも難しい子と怖じずに向き合っていきます。


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# by zuzumiya | 2017-03-02 22:24 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

リラックスポーズ

最近のももちゃんのお気に入りは、ティッシュの箱の紙が出てくるあの隙間に前足を両方ともズボッと差し込んで、しずしずと座ることである。

やめてほしい。








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# by zuzumiya | 2017-02-27 22:27 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

キョウコ、どうする?〜れんげ荘シリーズ『ネコと昼寝』読了〜

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やっぱり来たか、という感じで本の嗜好が随筆から小説にがらりと変わってしまいました。エッセイや随筆を読みすぎると反動で小説が読みたくなって、お話のなかにドップリ浸かりたくなってしまいます。それを私は「小説へ逃げる」と呼んでいます。それが昂じると今度はミステリーに手を出します。
昨日、群ようこさんの『れんげ荘』シリーズ読み終わりました。昔はシリーズの2作目の中途で投げていました。生活費の10万という数字、仕事を辞めて暇に向き合う姿、他人との関係、先行きの不安。当時はいろんなことがリアルなようでやっぱりリアルでないような変な中途半端さを覚え「んなこと、続けられるか、ウソッパチ!」と思って本をほっぽり投げたのでした。でも、今は以前とは違う状況下で本を読んでいました。主人公キョウコさんの暮らしぶりにすごく重なる。うちの家庭は夫と息子と私ですが、仕事の関係で平日はそれぞれが外食です。休日は食事を一緒に摂ることもあれば、息子のように遊びに出てしまったりもあります。基本、それぞれの稼ぎから家に貯金というか非常用のお金(公金という)は入れますが、外食はすべて自腹となります。主婦である私も同じ。食事の支度や買い出しなど家事がなくなったことは素直に嬉しいのですが、自分のもの(自分しか使わないもの)はたとえ部屋の芳香剤ひとつ、シャンプーひとつでも公金でなく自腹で買うんです。もちろん、医者代も。それからたとえば、暖かくなって部屋のファブリックを春物に替えたいと思ったら、男どもは「そんなもの必要ない、贅沢だ」とか言いますが、私がそれを押し切って買えば、リビングのものであろうとすべて公金ではなく私の自腹になります。同じ理由で観葉植物も花も食器の皿一枚だってそうです。猫の餌代もそう。そういうキビシイ暮らしをしているので、今回はなぜか1ヶ月10万円のキョウコさんの暮らしぶりに非常にシンパシーを感じてしまうんです。しかもキョウコさんは母親とは元来うまく行っていないし、独身でいるところもちょうど家庭内離婚中でそれぞれが上下に別れて同居人的に暮らしている私の今とあまり変わらない。図書館通いの金のかからない読書が趣味というのも似ています。先日、うちの母が何を思ったか、まあ、淋しかったんでしょうが、「結婚相談所に財産を狙ってこない裕福な男を探しに行く」と電話で鼻息荒く言ってきた時にはガビーンときました。ネタばれになりますが、今回のシリーズ最新刊『ネコと昼寝』の最後にはキョウコさんの母親もちょっと大変なことになってまして、本を胸に抱きながら「お互い、今のままじゃダメだよね。自分のことも母のことも、何とかせねば」とつぶやいてしまいました。というわけで、逃げてきたはずの小説のお話の中でも、現実が炙り出される始末。どよんときている休日です。って、部屋の空気も悪いや。換気!換気!
江國香織さんの新作、出ました。喉を潤す美味しい水のようになってくれるかな。ちょっと読んでみます。



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# by zuzumiya | 2017-02-26 08:56 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

エスプレッソとカルピス

予想外に家庭内離婚が長引いているせいで、階下のリビングで映画やテレビが見られず、ここのところ本ばかり読んでいたため、ようやく図書館本が片付いてきた。それでも色川武大のエッセイ、上林暁の随筆集なんかがベッドサイドテーブルには残っている。おあずけ状態の購入本にもちょっとは手を出そうと写真家植本一子の『かなわない』を開いた。以前、興味があって図書館で借りたが、上下二段組のみっちりにあの厚さでその時は根気がなく読了出来なかった。『家族最後の日』と共にあらためて購入して本腰を入れての再読である。が、〈私の撮った写真が遺影になったことが2度ある。〉という出だしからして重たい。暗い。先行きが全く分からない悩ましい家庭内離婚中の私がこのまま読んで行っていいものか、タイミング的にどうなのかと不安になる。それならばと群ようこさんの『働かないの れんげ荘物語』でも読んで、重たいものをのほほんの軽みで薄めてしまえと並行読みを企てた。が、エスプレッソとカルピスを無理やり交互に飲んでいる感じだ。どうなることやら。
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# by zuzumiya | 2017-02-20 00:02 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

素直に生きられたら…。

久しぶりに映画館へ行ってきた。一人で。
休日なのに客はまばら。中年夫婦の離婚をめぐるスッタモンダの話だからか、若いカップルは一組だけ。私より年配の夫婦やオバチャン、オジチャンの一人者が目立った。
劇場に一人ちんまり座っていると、よその人の話し声や笑い声が意外と大きく響いてきてびっくりする。私も夫と来ていた頃は、映画が始まるまであんなふうに愉快そうにこれ見よがしに喋っていたのだろうかと頭を過ぎる。「何をそんなに喋っているのやら」「まさか始まってからもその勢いでいちいち隣と喋るんじゃないだろうね」とちょっと意地悪な気持ちになってくる。
で、始まってすぐ目の前の一人者のオバチャンや斜め前の年配夫婦のオバチャンらが監督の演出にまんまと引っかかって、阿部寛のさほど可笑しくもない大袈裟な演技にハッハッハと爆笑しだした。「あーあ。そんなに笑っちゃって」と思うと同時に「素直に生きられていいよなぁ」とも思う。監督はもともと脚本で鍛えた人であるから、ここぞという「泣かせどころ」を心得ていて、私なんかは「来たなっ」と無意味な身構えをしているうちにそこいら中でスッ、スッと鼻をすする音が聞こえてきて、またしても「あーあ。今度は泣いちゃったか」となんだか鼻白む。そしてまた「素直に生きられて…」の心境になる。
オバチャンたちはいちいちよく笑い、よく泣いて、映画を見終わると心の洗濯をしたかのようにスッキリとしたんじゃないか。
私は映画が終わって館内に照明が点くあの瞬間が嫌いだ。コンサートも同じ。「物語の世界から現実に引き戻される」とかそんなきれい事じゃなく、なんだか、照明がついてみんながモソモソと動き出して上着や手荷物なんかを着たり持ったり確認している時の、あの変なのろったい間がどうにも居たたまれないのである。
夫婦で座った上品で恰幅のいい老紳士も、映画が終わって灯りがついた途端、なんてことないちっぽけで情けないただの爺さんに見える。神吉拓郎さんじゃないが「モソモソやってないで、スマートに上着をひっつかんで早く出てってくれ」と内心言いたくなる。これは観客みんなにあてはまる。
それからもう一つ。私は泣いてもいないのに、そんな時、人から顔を見られたくないのだ。映画を心から楽しんだ、酔いしれたという上気した顔、笑みがやんわり張りついた顔をなるべくしていたくはないが、もししていたとしたら見られたくもないし、人様のそういう顔も恥ずかしくて見たくない。私は誰とも視線を合わせず、上着の前ボタンも閉めずにそそくさと出る。
更にエレベーターの前の人だかりが嫌で、人だかりから「あそこのシーンが面白かった、笑っちゃったね」なんていう感想がちょこっとでも聞こえてくるともうダメで、6階だろうと7階だろうとさっさとひとり階段で下りて行く。同じものを見て楽しんだ、あの和気あいあいぶりのシアワセ熱にどうしても馴染めない。
ものごとの終わりは余韻があるぶん、へんなふうな空気になっていて、そういうのにまんまと取り込まれて尋常ならざる浮かれた姿を人様に平気で見せるのはなぜか私にっては“恥”なのだ。心の奥でひとりガッツポーズをしていても、いつものように柔らかに取り澄ましていたい。あーあ。素直に生きられたら…である。


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# by zuzumiya | 2017-02-19 18:14 | ちっちゃい器で生きていく | Trackback | Comments(0)

魚雷式読書で『日曜日の捜しもの』白石公子を読む。

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私の50代はこんなんでいいんだろうか、と思いながら毎日、寝っ転がって本ばかり読んでいる。読みながら、そこに著者が紹介した本があるとすぐにiPadで検索し、図書館に予約を入れるか、ネットの古本屋(多くはブックオフオンライン)で購入してしまう。
ブックオフのシステムは購入金額が1500円に達すると送料が無料になる。この1500円ジャスト(まず、やれたことはない)か、ちょっと超えたぐらいにするために「あの本をやめ、この本を文庫サイズにし…」などとやりくりに苦心する。頑張ったつもりが「送料無料まであと4円です」なんてのが表示されると悔しくなって、「どこかに108円で良い本はないか」と探す。店側もそれをわかっていて、“108円本のコーナー”(夥しい量であった)を設けたりしたこともあった。このやりくりも結構楽しいものだが、そのために買い逃した本もいくつかあった。先日など、検索に著者名を打ち込んで3件しか出てこないのを「買われてしまったか!」と仰け反ったが、冷静になってよく見てみると藤枝静男と永井龍男が一緒になって「永井静男」と文字を打っていたから笑ってしまった。まぁ、そんなこんなで小さなメリハリのついた生活を私も送っている。
この“小さなメリハリ”という言葉、実は今読んでいる詩人でエッセイストの白石公子さんの『日曜日の捜しもの』というエッセイから拝借した。音楽ではこういうのを「オマージュ」と言い逃がれをするが、文章の世界だともろ「パクリ」だなと思いながら書いている。すみません。
最近になって、今の自分の心境(なんとなくのんべんダラリとして、欲やら希望やらがなくて、今日もとりあえず生きています的な、大人としてダメダメな感じ)に近いことをお偉い作家さんが正直に平然と書き綴ったゆるめの随筆が読みたいと思うようになっている。これは明らかに萩原魚雷さんの影響である。そういう「こんな心境は自分だけでない、あの偉いセンセイ方もその頃はそういう心境に陥っていた」と本で“確認”(“共感”よりもっと切実)しながら、そう書いてあることだし、「まあ今日のところはこれでいいじゃない」とゆるく自己肯定しながら、とりあえず本を読んで眠くなって寝ちゃいましたという感じが荻原魚雷さんの読書スタイルだと解釈していて、個人的には“魚雷式読書”と呼んでいる。なんというか、魚雷さんの本ってほとんどが随筆を紹介しているが(そこが好きなのだが)、自分と似た、自分にハマった箇所をとにかく本からばんばん引用しまくり、「ほらね、こんなこと言ってる」「ここがいいでしょう」と紹介してまわって終わるだけの印象がある。まあ、そこに偉い作家さんの知られざる一面、哀れで可笑しい人間味が現れていていいのだけれども。今回、その引用で埋めちゃう書き方を“魚雷式エッセイ”と呼ぼうと思う。しかし、読んでいくうちに自分も魚雷さん的なモノの見方、感じ方になって、なぜか締まったタガが緩まって気が楽になっていくから不思議だ。ま、世間的には、こうして天気がいいのに外へも出ずに掃除もせずにこんなことツラツラ書いているわけだから、ダメダメになっているだけだれども(笑)。
で、話はようやく白石公子さんに至る。昔、エッセイの『はずかしい』は読んだ覚えがあるのだが、まるきし内容は忘れた。なので、今回ネットのコメント欄で「この人はウツなんじゃないか」と書かれていた『日曜日の捜しもの』をわざと読むことにした。
魚雷式読書のおかげで遅ればせながらかもしれないが、最近、「ああそうか」と心に落ちてきたことがある。簡単に言ってしまえば「エッセイはその人を伝えるための自己紹介文である」ということを痛切に感じてきている。エッセイの面白味は物事や事件の奇っ怪さ(ネタ)よりも(日々そんなに事件らしきことは起こらない)、作者がどう感じたか、どう思ったかにある。そこにその作者の人となり、人柄が出て「この人、なんだか好きだなぁ」となれば成功だと思うのだ。だから、エッセイやら文章を書く時に心がけるべきことは「私はこういう者です」の飾らない正直さ、気取りのない人間臭さじゃないかと思う。だからこそ、何も起こらない身辺雑記的なエッセイでも面白いものは面白い。その人の感じ方、考え方が面白いから好きになる。作品とのつながりというより、人間どうし作者と肩を抱き合ったり、握手し合った感じだろうか。「友達になれそう」と読者に感じさせられたら、それはもう大成功だ。
で、読者の一人に「ウツなんじゃないか」と怪しまれた白石公子さんだが、それは“馴じみ”という言葉や関係を嫌い、暇さえあれば横になって眠気で朦朧としながら浮かんでくるひとり言をこれぞ私の本心などと楽しんでいるせいだと思う。でも、私はそんな白石さんをフフフと笑い「友達になれそう」と感じた。『日曜日の捜しもの』にはそういうシンパシーあふれる文章でいっぱいだった。

たとえば(と書いて、“魚雷式エッセイ”ぶってみると)
<「こんにちは」と声をかけられて顔を上げると近所のブティックの主人だった。二回ほどその店で洋服を買っただけなのに、こうして会うたびに挨拶を交わさなくてならなくなっているのは、いささか窮屈だ。知らない間に近所づきあいがはじまっているようで、いたたまれなくなってしまう。>(「馴染み客について」より)

上記のブティックで服を買ったのは、たぶん、この↓ジャケットかと思われる。

<そのジャケットを着て店の前を通るのが、どうにもイヤなのだ。ましてガラス越しにあの主人が(あっ、例のジャケット、着てるぞ)とニヤニヤしながら見ていると思うと、ますます不愉快な気分になり、ジャケット姿を主人に見られたくない自意識と意地がせめぎあって、違う道を通ったりするのだ。> (「やっかいな客のために」より)

電車の中で座っていると前に老婆が立って、席を譲ろうと声をかけたが断られた話で、
<次の駅で新しく乗って来た事情を知らない人達に、お年寄りを前にして席を譲らない図々しい女だと思われ、新聞の投稿欄なんぞに書かれたりするのも傷つく。お願いだから座って下さい。>(「悲しみの丸ノ内線」より)

<もっとも他人が軽く指摘する「肥った」「やせた」は、挨拶程度のもので、そこから相手のちょっとした私生活の変化を探ろうとする下心が少しだけ働いている。>(「食べすぎた後に体重計に乗るか」より)

<原稿用紙四枚ほどの書評エッセーだったのだが、出だしに何度もつっかかって先に進まず、弱気になるほどに知的に思われたい、といった下心が芽生えて、何を書いたらいいのかわからなくなり、そんなこんなでだらだらと三日もかかってしまった。>
<女性には、思いっきり髪を伸ばすときと短くするときがあるが、ショートにすると決めたときの、ある種の気負った不安と興奮した状態。そして、終わったときの虚脱感から、やがて見慣れない自分への戸惑い。美容院からほうり出されて行き場を失ったような、おちつかないもの悲しさ。これらの感情の流れは、時間のかかった原稿を書き上げ、ファックスで送った後に襲われる感情とよく似ている。そして、あてどもなく街を歩き回り、いろんな店に立ち寄って疲れてくると、やっと、いつもの自分を取り戻し、たちまち帰りたくなるのだ。>(ともに「身の置き場を失って」より)

いかがだろうか、この白石公子の人となりは。私は好きなんだな、こういう不器用な人。軽めのエッセイでよくある自虐ネタの「笑わせてやるぞ」のドタバタ感もない。それはきっと詩人の感性が描写を深くしているからだと思っている。思春期に父親の入った後のお風呂に入れなくて、湯船の栓を抜くシーンがあるが、
<「ごおっと苦しそうな音がして、排水口に吸い込まれていく水面の窪みを見つめながら、栓をするのに今なら間に合う、まだ、大丈夫だ、とせきたてる自分がいて、それでも動けずにいた。>(「父の後のお風呂は」より)
この水面の窪みと一緒に良心がずずーっと吸い込まれていく動けない水圧の感じ。トイレの水道の修理人を呼ぶために急遽、家中の掃除をしだすが、黴取りスプレーをブラウスに飛び散らせてしまい、余計に慌てたあと、
<お兄ちゃんが帰った後、ひとつ問題が解決した安堵でトイレに行きたくなり、スリッパを履いたら、まだ生暖かかった。ドキドキしていた。>(「梅雨のブリーチショック」より)
書かなくてもエッセイは終われただろうに、スリッパの生暖かさが妙に読者の心に沁みてくる。スリッパに残った人の温みに気づいて、そこでまた「ドキドキしていた」とあらためて心のトンガリ具合に実感が湧いているのである。詩人ならではの感受性が要所要所で文章に芯を作っていく。「いやあ、勉強になります」と言いたい。勉強にはなるけれど、私はたぶん、こんなふうには書けない。



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# by zuzumiya | 2017-02-19 16:05 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

二世帯住宅の使い途

いい年をして恥ずかしい話だが、いまだ夫と家庭内離婚の只中にいる。もう3週間になるか、かつてない日数である。それを難なく更新させているのはマンションではなく上下に分かれて住むことのできる戸建てであること、互いに仕事を持っているためのすれ違い生活のなせるわざである。扉を開ければリビングであり、そこを通らねばトイレにも玄関にも行けなかった昔はどうしたって相手と顔を合わせてしまい、照れ半分の気まずさから喧嘩の続けようがなかった。リビングを通らねば自分の部屋にも行けない造りにすれば、子どもの異変に気づきやすいとどこかで聞いたが、確かにそうだろうなと今こそ思う。狭かろうが、平らかに住んでトイレも風呂もひとつで一緒というのが、結局は人を繋ぎとめるものなのかもしれない。そうなると二世帯住宅っていうのはすれ違いを助長させるので、あんまりいいものじゃないのかもしれない。っていうか、あれはもともと一緒に暮らしたくないのにしぶしぶ無理に暮らせば、の発想なんだな。
二世帯住宅で思い出したのが台所である。以前、家庭内離婚をした時に自分の部屋でコーヒーやらカップ麺が食せるようにすぐにニトリに飛んでって小さなキャビネットと電気ポットを買った話を書いた。うまく(普通に)行っている時は「こんな猫の餌しか入ってないキャビネットなんか捨てて、でっかい本棚買おう」なんて思っていたが、今回も喧嘩してまずは納戸から電気ポットを探して持ってきた。キャビネットの中を整理してマグカップを並べ、猫餌の脇にこじんまりと人間の餌も買い揃えようと思っている。人間の餌の方が安いし、しみったれているのが悔しい。本棚などと洒落たことを言ってる場合じゃないのである。欲を言えば、階段脇の棚に電子レンジ、廊下の奥にミニ冷蔵庫があったらいいが、そうなったら、もうまさに二世帯住宅なのだ。で、考えたのが、こんなバージョンである。結婚した息子の家族と暮らす用に老朽化した家を既に二世帯住宅に建てかえたものの、息子がいっこうに結婚せず、二階が空いているという場合、熟年夫婦が喧嘩したら、仲良く上下に分かれて非常に便利に快適に家庭内離婚ができるんだな、と思った。世の中にはこういう恵まれた環境下での家庭内離婚中の夫婦もいるのではないだろうか。休日をむかえた今日、仲直りするのもせずに突き進むのもこの休日という二日間にかかっている。休日なのに非常にストレスフルである。しかし、心の片隅には「このままどこまで行くのだろうか」とその先を見てみたい子どもじみた興味がないわけではないから悩ましい。
とりあえず、外へ出る予定はある。入れた。失笑(もしかしたら哀れ)を買うのを承知で書くが、ひとりで『恋妻家宮本』を観に行く。その後は本を持ってかかりつけの眼科にでも行けばいい。夜はひたすら読書である。なんて書いていたら、ほうら、うまい具合に電気ポットの湯が沸いた。ひとりの朝である。





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# by zuzumiya | 2017-02-18 09:20 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

要らないものへのお返しの話

要らないからあげると言われて、それなら貰うかと二度ほどものを貰った。
二度も貰ったので何かお返しせねば、という気になってささやかなお茶菓子を買った。
でも。向こうは要らないものを人にあげて、こっちはわざわざ金を出してお返しの品を買う。何だかわりに合わない気がする。
私には別に人にやるほどの要らないものはない。あってもたぶん、捨てる。




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# by zuzumiya | 2017-02-14 20:51 | ちっちゃい器で生きていく | Trackback | Comments(0)

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