暮らしのまなざし

ドンマイな日々

バレーボールの試合で、大事なところでサーブをミスしても「ドンマイッ」と仲間に向かって声を張り上げ、顔色ひとつ変えずにコートへ戻って行く。観ているこちらは「ドンマイじゃねえよ、どうすんだよ」といつも思うが、ああいう選手の図太さがほしい。
[PR]



# by zuzumiya | 2017-04-10 14:36 | ちっちゃい器で生きていく | Trackback | Comments(0)

『フォトグラファーズ・イン・ニューヨーク』で好きになった写真家

a0158124_22425462.jpgこの一週間、正職の先生よりも多く働いた自分にご褒美のフライドチキンを片手に映画を楽しんだ。『フォトグラファーズ・イン・ニューヨーク』。ニューヨークの街を撮り続けている15人の写真家を追ったドキュメンタリー。大学時代の彼が写真を専攻していた影響で映画の中に出てきたウイリアム・クラインやロバート・フランク、ダイアン・アーバスなんかは知っていたけど、新たに好きな写真家を見つけた。ジェフ・マーメルスタインとブルース・ギルデン。どちらもAmazonで写真集が買えるようだが、どちらも一冊、万超えする値段だ。ジェフの『Sidewalk』なんて3万円以上もする。二人ともニューヨークのストリートに出て、街行く人々の流れの中にいて、一瞬を逃さず躊躇せずガンガン撮影していく。ジェフの方は肩に乗ったサルがラッパーのような粋なポーズを決めていたり、デブチワワが新聞の束の上にいっちょ前に仁王立ちしていたり、肥った男性が本をハンバーガーのように口に咥えていたり、彼独特のユーモアと人間の可愛らしさ、おかしみ、温かみにあふれている写真。ギルデンの方は街行く人にいきなり真正面からカメラを構えて背景に一瞬バッとフラッシュをたいて身動きできないところをバチッと撮る。これも彼独特のやり方で彼が選んだ被写体もちょっとエグい魅力の、個性的な顔つき体つきの人ばかり。一瞬の人間の表情がすごく面白い。ギルデンはこの強引な方法で日本のヤクザにも体当たりしてフィルムに収めたというから凄い。モノクロの『GO』という写真集らしいが見てみたい。今やブログには写真がつきものなのに、タラタラと文章ばかりの私のブログ。よく皆さん、読みに来てくださいます。ありがとう。精神的に余裕ができたら是非とも私も写真を載せていきたいです。
[PR]



# by zuzumiya | 2017-04-07 22:45 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

アーティストのドキュメンタリーが好き

a0158124_22242493.jpg
新年度が始まった。園長が読みを誤って辞めた人間が予想外に多くて、残った人間で保育をやりくりせねばならない状況になった。私は難しい子が多くいるクラスの手伝いに今週いっぱい入ることが決まっていて残業することになっている。お金にはなるがうまく務まるか非常に不安である。自分は保育士の資格と経験があるから仕事はしているが、適性は疑わしいといつでも思っている。だから、正職を辞めて、パートでのんびり無理せず身の丈でやろうと決めたのに、何故か仕事運が私をより難しい方へ、悩める方へと導いてしまう。休日もクラスのことを考えたり、図書館から紙芝居を借りてきて読みの練習なんてやっていたら、まるで正職の頃と変わらないじゃないかと思い、せめても最後の週末だけは自分らしさを取り戻して楽しもうと好きなドキュメンタリー映画を1本見た。『マドモアゼルC ファッションに愛されたミューズ』という作品。以前にもhuluで『ファッションが教えてくれること』という邦題のアメリカの『VOGUE』の編集長アナ・ウインター(映画『プラダを着た悪魔』のモデルになった女性)のドキュメンタリーを見たが、今度はフランスの『VOGUE』の元編集長セリーヌ・ロワトフェルドの話である。
私の中のある部分はファッションや写真や音楽やアートのようなクリエイティブな世界をこよなく愛している。日芸に進んだのもいずれ日本でMVが盛んになると見越して、作れるようになりたかったからだ。だから、写真家やアーティストたちの伝記や仕事のドキュメンタリーを観ているとなぜか無性に心が弾んできて血が騒ぐ。「こういう世界っていいよなぁ」と50を過ぎても少女のように目をきらめかせて憧れがまだくすぶっている。
フランスの『VOGUE』の編集長だったセリーヌ・ロワトフェルドが10年間の編集長の座を捨てて、自分の頭文字をつけたオリジナルなファッション雑誌『CR』を新たに完成させ世に送り出すまでを追ったドキュメンタリーなのだが、『ファッションが教えてくれること』もそうだったが、もはやアートと呼べるような見事なファッションページを作り出すアイデアが斬新で奇抜でユニークで、観ていて面白くて胸が高鳴る。服を売りたいがための服がメインの宣伝ページではなく、もはや主役の服を超えて、ある物語のワンシーンを作っていて、たしかに服がそれを彩ってはいるが服がすべてを担っていないというようなアートフォトを生み出しているのである。それを仲間内でああでもないこうでもないとやりながら作っていく様はすごく刺激的でスリリングで、でものめり込むくらい楽しそうで、映画を観ながら「私だったらどういう物語、シチュエーションを考えるかなぁ」なんてワクワクする。そういえば、常盤新平さんのエッセイにもアニー・リーボビッツがローレン・ハットンというモデルのヌードを撮りたかったが断られたので、体に泥をかけて「泥を着せた」という話が出てきたが、アートにはそういう自由な発想、心の解放があるから、ムラムラと元気が出てくるのだ。保育を含めて日本の教育のような何かの型にはめたり、個性を重んじるとは口先だけで「みんなで、みんなで」と集団から外れることを良しとしないような世界で日々がんじがらめになっていると、こういう人とは違う斬新さが求められるようなアートの世界の映像を見ると、ほんとに心がスカッとする。だから、時々、私はこういうアーティストたちのドキュメンタリーを見て、「こういう世界を好む自分が好き」と生きる力をもらうのだ。作品を観た直後は「明日から金髪にして保育園に行ったろか!」と一瞬とんでもない気合が入るところもいい。






[PR]



# by zuzumiya | 2017-04-02 22:21 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

私の吉田さん

朝からカランコロンと金属の触れ合う音がする。うちのバカ息子がデートに乗っていくアメ車をまたいじりまわしているのかと思って窓から覗くと、朝日に照らされた吉田さんのハゲ頭が見えた。
「吉田さん、頑張ってるな」
吉田さんがスタッドレスタイヤを外していた。それだけで季節感のわかるいい旦那様と私の中でポイントが上がる。シジュウカラが高らかにさえずっている。
吉田さんは向かいの家のご主人である。よく気づく働き者で、毎朝、洗濯物は干すわ、ゴミは出すわ、庭に出て草むしりはするわ、年末なんぞ隣近所でどこよりも早く網戸を洗っていた。私が引越してきた当初、あまりの働きぶりに奥さんが病弱なのかと思ったほどだ。
朝、出勤する時間が私と重なっていて、お互いが玄関の扉を開けて目が合うと、ほぼ間違いなく吉田さんの方から笑顔で「おはようございます」と挨拶してくれる。腰の低いいい人だ。年は60代の中頃か。小柄で痩せていて頭は見事に禿げ上がっているが、まるで福祉関係にでも勤めていそうなおっとりとした物腰で優しい声音で話す。
しかし、しばらくして奥さんは対照的にものすごく気の強い人だとわかった。しょっちゅうガミガミと小言を言う声が外まで聞こえてくる。吉田さんは何やら抗弁しているようなのだが、気が弱いのか小さな声でモゴモゴと喋っていて、聞き耳を立てている私はいつも歯がゆい。「吉田さん、頑張れ!もっと大きな声出せ!」なんぞと心の中で応援している。
去年の夏は酷かった。吉田さんが庭で植え替えをしていて、その姿をリビングから仁王立ちした奥さんが見ていて何やら指示を出している。
「だから違うでしょ、そこに植えてどうすんのよ、もっと右よ右っ!」
しゃがんだ吉田さんがせっせこ言われた通りに直し、これでどうでしょうかと後ろを振り返ると
「だからさ、言われないとわからないわけぇ?いっつもそうじゃん」
と言い放って窓をピシッと閉めた。奥さんのあまりの剣幕に私は「ひょええ~」と仰け反ったが、子どものようにしゃがんでいつまでも土をいじっている吉田さんのハゲ頭に「何を思っているのやら…」と哀れに思った。しかし、次の瞬間「吉田さん、今はあんな風だけど、ありゃきっと、昔浮気でもして、よっぽど奥さんを怒らせたんじゃないか」と思えてきた。私にとっては毎朝、出勤前にベランダに洗濯物を干す天気予報がわりにもなる見上げたご主人でも、もしかしたら奥さんにとっては過去に酷い仕打ちをされたどうしようもないダメ亭主なのかもしれない。そうでなきゃ、あんなに隣近所にまる聞こえの大声で夫をなじるわけがない。「吉田さんとこは奥さんが頂点のカースト制なんだな。あれが世に言う“モラハラ妻”というやつで、うちとは逆だな…」と妙に感慨に浸ったのだった。
うちは吉田さんとこみたいに夫婦の一方が大声でなじるということはなく、やり合う時には日頃のストレスが爆発して、双方が大声を出し大喧嘩になる。夫は女のように口の立つ理論派で、すべて自分が正しいと思って譲らない自信家なので、情というものや「人間だもの」のゆらぎやしょうがなさを認める私のような感情的な人間は歯が立たない。正しさには情の入る隙間がなく、そのうち自分の方が悪いという気にさせられてしまう。
私は妻にうまく言い返せない吉田さんをひそかに配偶者のモラハラと闘う同志とみて、何か事あるごとに二階の窓から覗いては、いつでも優しいまなざしと声援を送っているのである。
[PR]



# by zuzumiya | 2017-04-02 10:43 | ちっちゃい器で生きていく | Trackback | Comments(0)

今日の悲しみの果て

自分が思いもよらなかったことで誤解されているというのはものすごく辛いものだ。
今日、ある人にひどい誤解をされていることに気がついてものすごくショックで心外だった。「そんなことはないです。ぜんぜん違います」「誤解です。そう思わせてたならごめんなさい。でも違うんです」と必死に誤解を解こうとしても「いや、絶対そうだ」と言ってガンとして譲らず、こちらの言い分は聞き入れてもらえなかった。
心外なのだが詫びる態度に出ているのに、少しもそれを認めようとしない頑なさによほどのことだったのかとゾッとしたが、人にずっとそんなふうに思われていたなんて、あまりのショックで、ただでさえプライベートでいろいろあるのに50過ぎにもかかわらず思わず涙が滲んでしまった。
最近、ネットでエレカシの宮本浩次を検索すると、同時に「発達障害」やら「薬」やらのワードが並んで出てくる。おそらくは先日の「ワイドナショー」などの場違いな番組での印象なのだろう。確かに音楽番組ですら質問やコメントを振られた際に、例のいつもの髪を触ってグシャグシャにしたり、話が質問からずれてあらぬ方向へ飛んでみたり、興奮して思わず立ち上がってしまったり、ファンであっても「ああ、またやってるけど、大丈夫かなぁ」と思わずその外しっぷりや周囲からの浮き加減にドキドキハラハラしてしまう。若い頃はまだそれでも「チャーミングで面白い人だな」と周囲には思われていただろうが、50を過ぎた中年の今は、やはりバンドの歴も長い大御所なのでもう少し年相応に貫禄を見せて落ち着き払っていてほしいというファンもいるだろう。いわゆる「いじる」方にもそれなりの敬意を含めて発言してもらいたいな、と思ってしまう。人によっては「多少オーバーに面白おかしく、天才の奇人キャラクターを作ってわざと注目を浴びるようにやっている」という見方もあるが、たしかに見られる商売なのでそういう計算みたいなものがあるのかもしれないし、一度ついたキャラクターの仮面は容易には剥がせず、周囲に求められるキャラクターをそのまま演じきるしかないのかもしれないが、彼の場合は「思わず」や「何気ない癖」が多くを占めているんじゃないかとも思う。それなのに「発達障害」やら「薬をやっている」なんてネットに書き込まれたりして、本人や友人、親族が何かのはずみで目にしたらほんとうに辛いだろうな、可哀想だなと他人事でも思ってしまう。
今日もMステでバンド紹介のVTRのところで、お客に「バカヤロ」と言ってイキがっていた若気の至りの頃のコンサートが流れて、ワイプの中の宮本さんの表情が少しだけ暗くなったように見えた。ラジオなんかでもいまだに女性DJに切れた話を蒸し返されたり、そういう過去の失敗、たぶん思い出したくもない自分の至らなさをメディアがエレカシ宮本というと必ず出してくる、ついてまわるのを本人は上辺では「逆に話題作りになってアルバムが売れてよかった」などと笑い話にかえてはいても、やっぱり内心はいい気はしなくて、自分の身から出た錆とはいえ、いつでも後悔していて反省もあって辛いし、できれば触れてほしくない嫌な話題なんじゃないかと思う。メディアはそういう人の失敗、汚点を面白おかしく取り上げたいのだろうが、実に意地悪だなと私なんかは思ってしまう。覚せい剤をやったとか詐欺をしたとかはすぐに忘れて復帰させるくせに。
それにしても今日の宮本さんの歌唱力は素晴らしかった。VTRやタモリさんのコメントやジャニーズのガキタレのチャチャも含めて、ああいう前フリがあったからこそ、「歌で真正面から真剣勝負した」というふうに見てとれた。テレビの前でヒヤヒヤしていたファンも「どうだ、これがエレカシだ!」と大いに溜飲を下げたのではないだろうか。それにしてもどんな人でも、人に誤解されるというのは嫌なものなんですよ。
[PR]



# by zuzumiya | 2017-04-01 09:26 | ちっちゃい器で生きていく | Trackback | Comments(0)

老け込む理由

a0158124_1759891.jpg今日のように薄ら寒くてシトシトと雨の降る日は絶好の読書&昼寝日和と本をかかえて電気毛布の中に潜り込んでしまう。若い頃は雨で嫌だなとは思いつつも、休日は友人と誘い合わせて電車に乗って都心まで遊びに行ったものだが、いつからこんなに出不精になってしまったのか。「雨の日は寝てるに限る」とか「雨の日は静かでいいやな」だなんて、これが年をとったということか。そんなことをつらつら考えていたら、待てよ、と思った。
エレカシの宮本浩次が「遁生」という曲を発表したのが24歳ぐらい。その若さだと“老成”という言葉がぴったりくるけど、51歳の今の私にはもう“老成”だなんて言葉は使えない。それでは中年が老境の心理に頷いたり、年寄りじみた考えをするのは何と言えばいいのか、ぴったりした言葉を誰か知らないか。
性格なのかなんなのか、なぜか私の読む本は“ジイさんもの”が多い。書き手がジイさんである随筆、エッセイの類が好きなのだ。しかも、最晩年のものを選んで読む。先日も詩人の天野忠の随筆集を買ったし、庄野潤三や小沼丹、永井龍男、長田弘、山田稔、荒川洋治、神吉拓郎、津野海太郎、木山捷平、常盤新平、久世光彦、井伏鱒二、みんなジジイか、とっくに死んでいる。
そういう老境のものを好んで読み、BGMには静かな墨絵のようなピアノの曲ばかりを流して日々を暮らしている。そんなんだから、頭の中が妙に年寄りじみて、まだ51歳なのにどんどん老け込んでジジむさく(ババむさくとは言わないのは何故?)なっているんじゃないかと、ふと気づいたのである。
最近では、常盤新平のいうところの“リトル・ピープル(庶民)”の暮らしぶりや欲のなさにうんうんとただ頷いて、読んでいてまったりしてしまう。例えばこうだ。
<もっとも、何ごとにも動作も考えもおそくなっている。歩いていると、どんどん人が追いこしてゆくし、電車も混みあう急行は避けて、各駅停車に乗ったりする。時代にもはるかにおくれてしまった。「それでいいんじゃないですか」とYさんは笑う。「年相応、分相応ということがあるんです。僕なんかお天気のいい日に庭いじりをして、夕方ひと風呂あびて、ビールが飲めたら十分です。それから好きなテレビを見たり、本が読めたりしたら」欲張ってはいけないと私もわが身に言いきかせる。望みはなるべくささやかなほうがいい。多くを望むのは若い人たちにまかせる。>とか、
<コーヒーが飲みたくなって、小さな喫茶店に行きつくと、ほっと一安心する。土曜日というと、早起きだ。金曜日の夜にいくらおそく寝ても七時ごろには目がさめて、風呂にはいり髭をそり、食事もとらずに出かけてゆく。地下鉄で一時間ほどかかって街に着くと、目に入った喫茶店でトーストとコーヒーを注文する。それにゆで玉子なんかがついてくると嬉しくなる。>とか
<もう多くは望まない。日々の暮らしが無事であればいい。なにごともないのが正常な生活なのだ。>なんかを読むと、常盤さんやその友人知人たちの見事なリトルっぷりに「いいねえ」なんて頬が緩む。ほんとうは、常盤さんの50代は徹夜ばかりでものすごく忙しく、精力的に仕事をこなしていたのだが、そういうところはなぜか読み飛ばしている。<何もかも遠のいていくようだ。これも致し方ないのだが、それに慣れてしまった気もする。人に会わない日がつづき、電話もかかってこない日がつづくと、世の中に見すてられたような気はしないものの、年をとるというのはこういうことなのだとさとる。それは淋しいことだけれど、ぼやくに当たらない。みんなそうなのだから。>に、やっぱりニンマリしている。“ジイさんもの”じゃなく、佐野洋子や田辺聖子、最近人気の佐藤愛子などの“バアさんもの”も読んだりもするが、何故かあまり続かない。それは、彼女らが作中でみな元気すぎるだからだ(佐野さんは鬼籍にはいられたが)。元気すぎてシャンシャンしていて、誰彼かまわず怒ったり叱ったり、口うるさいのがしつこくてウザったくなるのだと思う。幸田文や武田百合子あたりはふんにゃり曲げた背筋をシャキンと伸ばさなきゃならぬ。ジイさんのぬるま湯に浸かったような、ほのあたたかい“ゆるやかな諦観”がいい塩梅で今の私には性に合う。単なる怠け心だとどこからか声が聞こえてきそうだが。

※< >内は常盤新平『明日の友を数えれば』より引用です。
[PR]



# by zuzumiya | 2017-03-26 18:01 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

なじみの店

常盤新平さんのエッセイを読んでいるせいか、最近はやたらと喫茶店で珈琲が飲みたくなる。珈琲なんぞ実は夫がいいやつを毎月、通販で買ってあるので、家でいくらでも本格珈琲が飲めるのだが、家から出て外で味わってみたいのである。たかが一杯の珈琲をわざわざ外でね、文庫本なんかコートのポケットに入れてね、出かけて行きたいのである。影響されやすい私はすぐに地元の歩いて行けるくらいのところにある喫茶店をネットで探してみた。以前、車で通って「もしかしたら喫茶店?」と見かけた場所をGoogleMAPで調べてみるとたしかに喫茶店であることがわかった。ネットに写真が掲載されていて見たが、天井が高くてゆったりと広く、ダークブラウンの色調の木の内装が落ち着いていて、とても雰囲気のあるいいお店であった。もちろん、チェーン店ではない。ケーキも種類があってどれも美味しそうだ。モーニングもきっと期待できそうである。なんとか歩いて行ける距離なので(本当は自転車出したいくらいなんだけど)、休日を利用して是非とも行ってみたい。そして、できればそこが私の人生初の「なじみの店」になれたらいいな、もう50過ぎたんだから今度こそなじんでみてもいいのかな、なんてドキドキしながら夢見てるのである。
[PR]



# by zuzumiya | 2017-03-25 20:57 | ちっちゃい器で生きていく | Trackback | Comments(0)

「シュウトメ根性」

今年度もあとわずか。パートの分をわきまえて、欲をかかず無理せず身の丈でやってきたおかげで来年度も同じ職場で仕事を続けられる。昨日、ついに辞職する先生方の名前が我々パート職員にも告げられた。どよめきが起こったが、私の予想はほぼ的中していたので驚かなかった。辞める人間というものは年度末に溜まった有給のことで最後の不満を小声で漏らし、あたふたするものだからなんとなくわかってしまうものである。ただ一人、園を辞めて海外で幼児教育に携わるという若い娘がいて、彼女はすこぶる仕事がデキる人だったのでてっきり園から誘われて正規職員になるのかと思っていたから驚いた。やはりデキる子の夢はデカイ、若さっていいなぁと思って、思わず「いろんな生き方があるんですねぇ」と感慨深く漏らしたら、横にいた例のこの園20年の先輩が「1年もたなかったか…」とつぶやいたのでまたしてもムッとしてしまった。
何度も書くが確かに20年は凄い。偉い。その間にいろいろあったろうと思う。プライベートにだっていろいろあって、続けることが難しく思えて辞めようかと悩んだ日々もあったはずだ。でもなんとか踏ん張って続けたことは素晴らしい、とは思う。だからって、それがすべてではない。人はいろいろだ。
人が辞めていく時、いろんな職場で私はいつも思ってきたことがある。辞めていく人に「続けていくことができなかった」と努力や辛抱が足りなかったかのように語る人がいるが、(先ほどの「1年もたなかったか」の“もつ”という言葉使いもそうだ)その発言はやはり考えなしの言葉に思えてしょうがない。
ほんとに千載一遇の素敵ないい職場だから、やりたい夢と天秤にかけても残る人もいる。逆にあまりに心地いい職場だから、ずっと居たくなってしまい、大切な夢が遠のくという考え方で敢えて出て行く人もいる。何でもかんでも努力や辛抱の価値観で切られては困る。
むしろ、長年の先輩としては若者が去ることに責任や反省こそを感じてほしいと思う。彼女の最終決断においてこの園が「選ばれなかった場所」という見方を心に置いて、何か反省すべきことはないか、改善しなくてはいけないことはないか、辞めていく人間のもらす言葉や態度にそのヒントはなかったか、自分にできることはなかったか、などと謙虚に真剣に考えなくてはいけないと思う。「去りたい人間は去って結構」と豪語したらしいある園の園長も知っているが、それでは何も変わらず、よってその園はいつも人に去られてばかりいて、年中人手不足だという。
辞めていく人間がいると、残された人間は心がなぜか揺さぶられる。人はいつでも岐路に立っていること、そして自分の選択の是非を、価値観を自分に問うことになるからだろう。その一瞬の不安定さがああいった「1年もたなかった」の言葉をひょいと言わしめたのかもしれないが、女性においてはそれだけではないのである。
とかく女性は心のどこかに「シュウトメ根性」を持っている。「自分が新人の時には先輩の酷いイジメにあって、それでも辛抱して働いた。今はその先輩はだいぶ丸くなって、ぜんぜんラクなはずよ」と言い切る人を知っている。「自分の方が苦労したんだから」と苦労自慢をし、他の人に同じ苦労を「するべきこと」のように無意識に押し付け、苦労の伝授をしたがる女性を私は哀しい「女のシュウトメ根性」だと捉えている。小さい頃に人は「自分がやられて嫌なことは人にやらない」と何度も教えられてきたはずなのに、「自分だってやられたんだから、アンタもやられなさい」となぜか人は変わってしまう。どうしてそうなるかと考えてみたら、やっぱりその時々できちんと気持ちを受け入れられ、「大変だったね、よく頑張ったね」ときちんと評価されなかったことからくる“捻れた寂しさ”じゃないかと思う。実際の嫁姑の話では、同じ姑でも「私はイジメられたから絶対、お嫁さんにはやさしくしようと思う」という見上げた女性だっている。そういう姑、いや先輩のひとりでもいる職場の人間関係はきっと少しずつでも良い方向へ変わっていく。
先の20年選手の「1年しかもたなかったか…」発言もその裏に「自分は20年も長きに耐えたのに」という苦労自慢、「シュウトメ根性」がほの見えて、どうにもいやらしさを覚えてしまう。悪い人じゃないのはわかっているんだけど(苦笑)。



[PR]



# by zuzumiya | 2017-03-25 10:19 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

家族写真

a0158124_20565111.jpg
子どもたちが幼かった頃、外国映画に見る暖炉の上のように家族写真を小さなフレームに入れて棚にいくつも飾っていたことがある。引越しに引越しを重ねているうち、子どもたちも家族写真の甘ったるさに恥ずかしさを覚えるほどに成長し、主婦の私も並べたフレームの掃除の面倒さもあって、いつの頃か飾ることはやめてしまった。その後、家族写真の入ったフレームはアルバムやその他の撮りためた写真と一緒にダンボールに入れられ、どの家に引っ越しても天袋の奥にしまわれた。
夫が別居する際、その中から家族の思い出として画用紙ほどの大きさの一枚の額を持って行った。そこには大小の丸や四角の切り抜きがあって、そのどれにも幼い息子と娘、あるいは肩寄せ合って笑う家族四人が収まっている。再び同居を始めた時、その額はそのまま夫の部屋に飾られていた。ところが数ヶ月前、部屋の模様替えをした時に、夫が何を思ったかその額を出してきてリビングの壁に飾った。私はすかさず「もうこういうものは出したくないの。飾りたいなら今までどおり自分の部屋に飾って」と告げた。その時、夫と私の時間の流れ方の違いというか、家族に対する捉え方の隔たりをすごく感じた。なぜか夫の時間はこの笑顔の家族写真のまま止まっている、もしかしたら止めておきたいのかもしれない、と感じた。
映画やドラマで登場する家族写真はいつでも「こんな頃もあったのに…」という切ない気持ちを見ている側に起こさせる。たいてい主人公が家族写真を手にとり、ぼんやり眺めているシーンである。懐かしさと愛おしさと一枚の家族写真から派生してくる様々な暮らしのフラッシュバックと、もう戻れない取り返せない時間とそこから遠く隔たってしまった今と、そして最後に必ず「どうしてこんなことになってしまったんだ」「どこでどう間違えたんだ」という強烈な悔恨がふきだす。すなわち、その主人公の家族には握りしめている家族写真のように幸せや平和がそのまま続いてはいかなかった、儚く消え失せて惨憺たる真逆の現実になっているという哀しい証拠のように家族写真は扱われる。そう、過去の平和な家族写真は今の哀しみや不幸の証拠写真なのだ。
昨日見た映画『葛城事件』の家族写真もやっぱりそういう使命を帯びて映画で使われていた。家族へ対する愛情が暴君のような抑圧になっていることを自分では全く気づかず、妻や息子を萎縮させ、徐々に精神を蝕ませ、従順でも対人関係が苦手な長男はリストラのち自殺、妻は精神崩壊し入院、次男は引きこもりからの無差別殺人へと追いやることになる父親の役を三浦友和が演じている。その父親がやっぱり昔の家族写真をひとり見つめるシーンがある。そこには映画ポスターのキャッチフレーズ「俺が一体、何をした。」のつぶやきがどうしても重なってしまう。そういえば、妻より夫、女より男の方が映画やドラマで写真を見つめる率が高い気がする。昔から過去の思い出を吹っ切れず未練がましいロマンチストは男の方だからか。
そういう家族写真の使われ方を見てきたためか、私は子どもたちも成人した今さら、わざわざ幼い頃の家族写真をリビングに飾ろうとはどうしても思えない。そんなものを見たらどうしたって今をあの頃と比べてしまう。今の哀しみと不幸の証拠写真にはしたくない。夫が家族写真を飾ろうとする意味はもしかしたら「あの頃に戻りたい」あるいは「戻れないまでもここから歩いてきたことをしっかり憶えておきたい」なのかもしれないが、私の方は「もう終わったこと、過ぎ去ったこと、そこには戻れない。いまの私たちは誰もそこにはいない。すべては変わっていく。現実を見つめて今のお互いと向き合いたい」なのかもしれない。家族写真をリビングに飾りたがった夫だけが、なぜか家族写真の昔にとどまろうとしていて、そこからでしか私や子どもたちを見たくないような、変わってしまった家族を認めたくないような、そんな気がしてしまう。それは三浦友和が演じた恐ろしくも哀しい父親の一方的な愛情にどこか似かよっている気がして複雑でもある。


[PR]



# by zuzumiya | 2017-03-20 21:04 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

不毛感という凪

昨夜、本を読んでいて寝落ちしてしまったので、久しぶりに朝のシャワーを浴びた。体を洗っていてふと、ここ数日の間にものすごくカチンときた出来事があったはずだが、と思い出そうとして、出てこない。あれだけ怒っていたはずなのに、という感覚だけは残っているが、何に怒っていたのかすっかり忘れている。自分でも「え?」という感じだ。最近はお腹の底から笑うこともなければ、涙を流して泣くこともない。ムッとしたり、カチンとくることはあってもひと晩寝ればずいぶん薄まる。楽しくてたまらないと夢中になったり心浮かれることも、ない。じゃあ、喜怒哀楽がその程度になってしまったのなら、私の心の中は一体何が占めているんだろうと考えたら、ちょっとした不安や心配事、自己嫌悪や後悔からくる「あーあいう残念な感じ」なのである。これは一応落ち込みの部類に入るのだが、人生において何度となく挫折や失望を繰り返してきたために多少、深度計の針がバカになってしまって、深いものを浅め浅めに捉えようとするらしい。具体的に書くと、風呂で湯に浸かりながら「あーあ」とつぶやいてはダメな自分のダメぶりを思い出す。でも体が弛緩してくるにつれて、だんだんどうでもよくなってきて「まぁ、いいか」で落着、忘れようとするのである。この後にモヤモヤと浮き立ってくるのが「残念な感じ」ぐらいのゆるさでくる自分への諦め、もはやどうにもなれない不毛感なのである。年をとるとこのなんとも言えない不毛感が避け難くなってくる。
先日、映画館でさほど可笑しくもないところで声を立てて笑っていたオバチャンたちがいたが、あれは今思うに意識して、いわば多少の無理をして、笑っていたのではないか。少しでもチャンスがあれば笑っておこうというような。放っておけば喜怒哀楽のすべてが薄まり、不毛感の凪に覆われてしまう老いの感情を意識して奮い立たせ、喜んだり笑ったり、今を人生をじゅうぶん生きて楽しんでいると自分に知らしめようとしていたに違いない、なんて思う。


[PR]



# by zuzumiya | 2017-03-20 09:56 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

ふだんの暮らしに息づいているたいせつなもの、見つめてみませんか?
by zuzumiya
プロフィールを見る
画像一覧
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

※このブログの無断な転載はご遠慮願います。

最新の記事

宿題終了
at 2017-05-28 22:00
お疲れ様はエレカシで
at 2017-05-26 21:05
今、いちばん困っていること
at 2017-05-25 22:11
最近、久しぶりにマジに笑ったこと
at 2017-05-23 20:14
夢のなかの街
at 2017-05-20 09:32

最新のコメント

検索

ブログジャンル