暮らしのまなざし

老け込む理由

a0158124_1759891.jpg今日のように薄ら寒くてシトシトと雨の降る日は絶好の読書&昼寝日和と本をかかえて電気毛布の中に潜り込んでしまう。若い頃は雨で嫌だなとは思いつつも、休日は友人と誘い合わせて電車に乗って都心まで遊びに行ったものだが、いつからこんなに出不精になってしまったのか。「雨の日は寝てるに限る」とか「雨の日は静かでいいやな」だなんて、これが年をとったということか。そんなことをつらつら考えていたら、待てよ、と思った。
エレカシの宮本浩次が「遁生」という曲を発表したのが24歳ぐらい。その若さだと“老成”という言葉がぴったりくるけど、51歳の今の私にはもう“老成”だなんて言葉は使えない。それでは中年が老境の心理に頷いたり、年寄りじみた考えをするのは何と言えばいいのか、ぴったりした言葉を誰か知らないか。
性格なのかなんなのか、なぜか私の読む本は“ジイさんもの”が多い。書き手がジイさんである随筆、エッセイの類が好きなのだ。しかも、最晩年のものを選んで読む。先日も詩人の天野忠の随筆集を買ったし、庄野潤三や小沼丹、永井龍男、長田弘、山田稔、荒川洋治、神吉拓郎、津野海太郎、木山捷平、常盤新平、久世光彦、井伏鱒二、みんなジジイか、とっくに死んでいる。
そういう老境のものを好んで読み、BGMには静かな墨絵のようなピアノの曲ばかりを流して日々を暮らしている。そんなんだから、頭の中が妙に年寄りじみて、まだ51歳なのにどんどん老け込んでジジむさく(ババむさくとは言わないのは何故?)なっているんじゃないかと、ふと気づいたのである。
最近では、常盤新平のいうところの“リトル・ピープル(庶民)”の暮らしぶりや欲のなさにうんうんとただ頷いて、読んでいてまったりしてしまう。例えばこうだ。
<もっとも、何ごとにも動作も考えもおそくなっている。歩いていると、どんどん人が追いこしてゆくし、電車も混みあう急行は避けて、各駅停車に乗ったりする。時代にもはるかにおくれてしまった。「それでいいんじゃないですか」とYさんは笑う。「年相応、分相応ということがあるんです。僕なんかお天気のいい日に庭いじりをして、夕方ひと風呂あびて、ビールが飲めたら十分です。それから好きなテレビを見たり、本が読めたりしたら」欲張ってはいけないと私もわが身に言いきかせる。望みはなるべくささやかなほうがいい。多くを望むのは若い人たちにまかせる。>とか、
<コーヒーが飲みたくなって、小さな喫茶店に行きつくと、ほっと一安心する。土曜日というと、早起きだ。金曜日の夜にいくらおそく寝ても七時ごろには目がさめて、風呂にはいり髭をそり、食事もとらずに出かけてゆく。地下鉄で一時間ほどかかって街に着くと、目に入った喫茶店でトーストとコーヒーを注文する。それにゆで玉子なんかがついてくると嬉しくなる。>とか
<もう多くは望まない。日々の暮らしが無事であればいい。なにごともないのが正常な生活なのだ。>なんかを読むと、常盤さんやその友人知人たちの見事なリトルっぷりに「いいねえ」なんて頬が緩む。ほんとうは、常盤さんの50代は徹夜ばかりでものすごく忙しく、精力的に仕事をこなしていたのだが、そういうところはなぜか読み飛ばしている。<何もかも遠のいていくようだ。これも致し方ないのだが、それに慣れてしまった気もする。人に会わない日がつづき、電話もかかってこない日がつづくと、世の中に見すてられたような気はしないものの、年をとるというのはこういうことなのだとさとる。それは淋しいことだけれど、ぼやくに当たらない。みんなそうなのだから。>に、やっぱりニンマリしている。“ジイさんもの”じゃなく、佐野洋子や田辺聖子、最近人気の佐藤愛子などの“バアさんもの”も読んだりもするが、何故かあまり続かない。それは、彼女らが作中でみな元気すぎるだからだ(佐野さんは鬼籍にはいられたが)。元気すぎてシャンシャンしていて、誰彼かまわず怒ったり叱ったり、口うるさいのがしつこくてウザったくなるのだと思う。幸田文や武田百合子あたりはふんにゃり曲げた背筋をシャキンと伸ばさなきゃならぬ。ジイさんのぬるま湯に浸かったような、ほのあたたかい“ゆるやかな諦観”がいい塩梅で今の私には性に合う。単なる怠け心だとどこからか声が聞こえてきそうだが。

※< >内は常盤新平『明日の友を数えれば』より引用です。
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# by zuzumiya | 2017-03-26 18:01 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

なじみの店

常盤新平さんのエッセイを読んでいるせいか、最近はやたらと喫茶店で珈琲が飲みたくなる。珈琲なんぞ実は夫がいいやつを毎月、通販で買ってあるので、家でいくらでも本格珈琲が飲めるのだが、家から出て外で味わってみたいのである。たかが一杯の珈琲をわざわざ外でね、文庫本なんかコートのポケットに入れてね、出かけて行きたいのである。影響されやすい私はすぐに地元の歩いて行けるくらいのところにある喫茶店をネットで探してみた。以前、車で通って「もしかしたら喫茶店?」と見かけた場所をGoogleMAPで調べてみるとたしかに喫茶店であることがわかった。ネットに写真が掲載されていて見たが、天井が高くてゆったりと広く、ダークブラウンの色調の木の内装が落ち着いていて、とても雰囲気のあるいいお店であった。もちろん、チェーン店ではない。ケーキも種類があってどれも美味しそうだ。モーニングもきっと期待できそうである。なんとか歩いて行ける距離なので(本当は自転車出したいくらいなんだけど)、休日を利用して是非とも行ってみたい。そして、できればそこが私の人生初の「なじみの店」になれたらいいな、もう50過ぎたんだから今度こそなじんでみてもいいのかな、なんてドキドキしながら夢見てるのである。
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# by zuzumiya | 2017-03-25 20:57 | ちっちゃい器で生きていく | Trackback | Comments(0)

「シュウトメ根性」

今年度もあとわずか。パートの分をわきまえて、欲をかかず無理せず身の丈でやってきたおかげで来年度も同じ職場で仕事を続けられる。昨日、ついに辞職する先生方の名前が我々パート職員にも告げられた。どよめきが起こったが、私の予想はほぼ的中していたので驚かなかった。辞める人間というものは年度末に溜まった有給のことで最後の不満を小声で漏らし、あたふたするものだからなんとなくわかってしまうものである。ただ一人、園を辞めて海外で幼児教育に携わるという若い娘がいて、彼女はすこぶる仕事がデキる人だったのでてっきり園から誘われて正規職員になるのかと思っていたから驚いた。やはりデキる子の夢はデカイ、若さっていいなぁと思って、思わず「いろんな生き方があるんですねぇ」と感慨深く漏らしたら、横にいた例のこの園20年の先輩が「1年もたなかったか…」とつぶやいたのでまたしてもムッとしてしまった。
何度も書くが確かに20年は凄い。偉い。その間にいろいろあったろうと思う。プライベートにだっていろいろあって、続けることが難しく思えて辞めようかと悩んだ日々もあったはずだ。でもなんとか踏ん張って続けたことは素晴らしい、とは思う。だからって、それがすべてではない。人はいろいろだ。
人が辞めていく時、いろんな職場で私はいつも思ってきたことがある。辞めていく人に「続けていくことができなかった」と努力や辛抱が足りなかったかのように語る人がいるが、(先ほどの「1年もたなかったか」の“もつ”という言葉使いもそうだ)その発言はやはり考えなしの言葉に思えてしょうがない。
ほんとに千載一遇の素敵ないい職場だから、やりたい夢と天秤にかけても残る人もいる。逆にあまりに心地いい職場だから、ずっと居たくなってしまい、大切な夢が遠のくという考え方で敢えて出て行く人もいる。何でもかんでも努力や辛抱の価値観で切られては困る。
むしろ、長年の先輩としては若者が去ることに責任や反省こそを感じてほしいと思う。彼女の最終決断においてこの園が「選ばれなかった場所」という見方を心に置いて、何か反省すべきことはないか、改善しなくてはいけないことはないか、辞めていく人間のもらす言葉や態度にそのヒントはなかったか、自分にできることはなかったか、などと謙虚に真剣に考えなくてはいけないと思う。「去りたい人間は去って結構」と豪語したらしいある園の園長も知っているが、それでは何も変わらず、よってその園はいつも人に去られてばかりいて、年中人手不足だという。
辞めていく人間がいると、残された人間は心がなぜか揺さぶられる。人はいつでも岐路に立っていること、そして自分の選択の是非を、価値観を自分に問うことになるからだろう。その一瞬の不安定さがああいった「1年もたなかった」の言葉をひょいと言わしめたのかもしれないが、女性においてはそれだけではないのである。
とかく女性は心のどこかに「シュウトメ根性」を持っている。「自分が新人の時には先輩の酷いイジメにあって、それでも辛抱して働いた。今はその先輩はだいぶ丸くなって、ぜんぜんラクなはずよ」と言い切る人を知っている。「自分の方が苦労したんだから」と苦労自慢をし、他の人に同じ苦労を「するべきこと」のように無意識に押し付け、苦労の伝授をしたがる女性を私は哀しい「女のシュウトメ根性」だと捉えている。小さい頃に人は「自分がやられて嫌なことは人にやらない」と何度も教えられてきたはずなのに、「自分だってやられたんだから、アンタもやられなさい」となぜか人は変わってしまう。どうしてそうなるかと考えてみたら、やっぱりその時々できちんと気持ちを受け入れられ、「大変だったね、よく頑張ったね」ときちんと評価されなかったことからくる“捻れた寂しさ”じゃないかと思う。実際の嫁姑の話では、同じ姑でも「私はイジメられたから絶対、お嫁さんにはやさしくしようと思う」という見上げた女性だっている。そういう姑、いや先輩のひとりでもいる職場の人間関係はきっと少しずつでも良い方向へ変わっていく。
先の20年選手の「1年しかもたなかったか…」発言もその裏に「自分は20年も長きに耐えたのに」という苦労自慢、「シュウトメ根性」がほの見えて、どうにもいやらしさを覚えてしまう。悪い人じゃないのはわかっているんだけど(苦笑)。



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# by zuzumiya | 2017-03-25 10:19 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

家族写真

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子どもたちが幼かった頃、外国映画に見る暖炉の上のように家族写真を小さなフレームに入れて棚にいくつも飾っていたことがある。引越しに引越しを重ねているうち、子どもたちも家族写真の甘ったるさに恥ずかしさを覚えるほどに成長し、主婦の私も並べたフレームの掃除の面倒さもあって、いつの頃か飾ることはやめてしまった。その後、家族写真の入ったフレームはアルバムやその他の撮りためた写真と一緒にダンボールに入れられ、どの家に引っ越しても天袋の奥にしまわれた。
夫が別居する際、その中から家族の思い出として画用紙ほどの大きさの一枚の額を持って行った。そこには大小の丸や四角の切り抜きがあって、そのどれにも幼い息子と娘、あるいは肩寄せ合って笑う家族四人が収まっている。再び同居を始めた時、その額はそのまま夫の部屋に飾られていた。ところが数ヶ月前、部屋の模様替えをした時に、夫が何を思ったかその額を出してきてリビングの壁に飾った。私はすかさず「もうこういうものは出したくないの。飾りたいなら今までどおり自分の部屋に飾って」と告げた。その時、夫と私の時間の流れ方の違いというか、家族に対する捉え方の隔たりをすごく感じた。なぜか夫の時間はこの笑顔の家族写真のまま止まっている、もしかしたら止めておきたいのかもしれない、と感じた。
映画やドラマで登場する家族写真はいつでも「こんな頃もあったのに…」という切ない気持ちを見ている側に起こさせる。たいてい主人公が家族写真を手にとり、ぼんやり眺めているシーンである。懐かしさと愛おしさと一枚の家族写真から派生してくる様々な暮らしのフラッシュバックと、もう戻れない取り返せない時間とそこから遠く隔たってしまった今と、そして最後に必ず「どうしてこんなことになってしまったんだ」「どこでどう間違えたんだ」という強烈な悔恨がふきだす。すなわち、その主人公の家族には握りしめている家族写真のように幸せや平和がそのまま続いてはいかなかった、儚く消え失せて惨憺たる真逆の現実になっているという哀しい証拠のように家族写真は扱われる。そう、過去の平和な家族写真は今の哀しみや不幸の証拠写真なのだ。
昨日見た映画『葛城事件』の家族写真もやっぱりそういう使命を帯びて映画で使われていた。家族へ対する愛情が暴君のような抑圧になっていることを自分では全く気づかず、妻や息子を萎縮させ、徐々に精神を蝕ませ、従順でも対人関係が苦手な長男はリストラのち自殺、妻は精神崩壊し入院、次男は引きこもりからの無差別殺人へと追いやることになる父親の役を三浦友和が演じている。その父親がやっぱり昔の家族写真をひとり見つめるシーンがある。そこには映画ポスターのキャッチフレーズ「俺が一体、何をした。」のつぶやきがどうしても重なってしまう。そういえば、妻より夫、女より男の方が映画やドラマで写真を見つめる率が高い気がする。昔から過去の思い出を吹っ切れず未練がましいロマンチストは男の方だからか。
そういう家族写真の使われ方を見てきたためか、私は子どもたちも成人した今さら、わざわざ幼い頃の家族写真をリビングに飾ろうとはどうしても思えない。そんなものを見たらどうしたって今をあの頃と比べてしまう。今の哀しみと不幸の証拠写真にはしたくない。夫が家族写真を飾ろうとする意味はもしかしたら「あの頃に戻りたい」あるいは「戻れないまでもここから歩いてきたことをしっかり憶えておきたい」なのかもしれないが、私の方は「もう終わったこと、過ぎ去ったこと、そこには戻れない。いまの私たちは誰もそこにはいない。すべては変わっていく。現実を見つめて今のお互いと向き合いたい」なのかもしれない。家族写真をリビングに飾りたがった夫だけが、なぜか家族写真の昔にとどまろうとしていて、そこからでしか私や子どもたちを見たくないような、変わってしまった家族を認めたくないような、そんな気がしてしまう。それは三浦友和が演じた恐ろしくも哀しい父親の一方的な愛情にどこか似かよっている気がして複雑でもある。


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# by zuzumiya | 2017-03-20 21:04 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

不毛感という凪

昨夜、本を読んでいて寝落ちしてしまったので、久しぶりに朝のシャワーを浴びた。体を洗っていてふと、ここ数日の間にものすごくカチンときた出来事があったはずだが、と思い出そうとして、出てこない。あれだけ怒っていたはずなのに、という感覚だけは残っているが、何に怒っていたのかすっかり忘れている。自分でも「え?」という感じだ。最近はお腹の底から笑うこともなければ、涙を流して泣くこともない。ムッとしたり、カチンとくることはあってもひと晩寝ればずいぶん薄まる。楽しくてたまらないと夢中になったり心浮かれることも、ない。じゃあ、喜怒哀楽がその程度になってしまったのなら、私の心の中は一体何が占めているんだろうと考えたら、ちょっとした不安や心配事、自己嫌悪や後悔からくる「あーあいう残念な感じ」なのである。これは一応落ち込みの部類に入るのだが、人生において何度となく挫折や失望を繰り返してきたために多少、深度計の針がバカになってしまって、深いものを浅め浅めに捉えようとするらしい。具体的に書くと、風呂で湯に浸かりながら「あーあ」とつぶやいてはダメな自分のダメぶりを思い出す。でも体が弛緩してくるにつれて、だんだんどうでもよくなってきて「まぁ、いいか」で落着、忘れようとするのである。この後にモヤモヤと浮き立ってくるのが「残念な感じ」ぐらいのゆるさでくる自分への諦め、もはやどうにもなれない不毛感なのである。年をとるとこのなんとも言えない不毛感が避け難くなってくる。
先日、映画館でさほど可笑しくもないところで声を立てて笑っていたオバチャンたちがいたが、あれは今思うに意識して、いわば多少の無理をして、笑っていたのではないか。少しでもチャンスがあれば笑っておこうというような。放っておけば喜怒哀楽のすべてが薄まり、不毛感の凪に覆われてしまう老いの感情を意識して奮い立たせ、喜んだり笑ったり、今を人生をじゅうぶん生きて楽しんでいると自分に知らしめようとしていたに違いない、なんて思う。


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# by zuzumiya | 2017-03-20 09:56 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

聞き耳団地

ああ、また図書館から予約の本が届いたとメールが来てしまった。
今は常盤新平を読んでいる。家には既に3冊ほどのエッセイがあるが、さらに今日1冊、詩人の白石公子さんおすすめの小説『たまかな暮し』が届いた。風もなく陽気もいいから図書館まで歩いて行くかという気になる。
ここへ引越して来てから新たに通うようになった図書館の前には、公団だか都営だかの古い団地があって、棟と棟との間に小さな広場がある。道路を隔てた前にはコンビニがあり、線路を越えないとスーパーには行けない不便な団地に住む人々の冷蔵庫のような役割を果たしている。午前の仕事の帰り、図書館で本を受け取った後は必ずここで昼食を買っている。この小さな広場に天気がよければいつでも老人の二人連れがいて、おそらくはこの団地の住人なのだろうが、ベンチの足元にコップ酒やビールや焼酎の缶を数本立てて、酔いに任せて陽気に喋っている。いかにも酔っ払いの野太いダミ声が団地の壁に反響して、道行く人も何事かと振り返るほどである。うるさいと苦情は出ないものかと心配になる。コンビニには何度も来ているのであまりに老人たちを見て「よく会うね、ねえちゃん」などと声をかけられたらたまらないと、毎回、慌てて自転車を出す。
ある時、老人たちにまじって、ごく普通の身なりの主婦らしきオバサンが一緒ににこやかに喋っているのを目撃してちょっと驚いた。絶対に彼らは近所の鼻つまみ者だと思っていたから、話かける人が、それも女性がいることに意外だった。彼らにしてみたらただ酒を飲んで陽気に仲間と喋っているだけで、生臭い喧嘩沙汰になったり、誰彼かまわず通行人に絡んだり、飲んだくれてそこらを汚物だらけにしたりはしていないのである。見かけるたび「まったく、昼間っからいい気なもんだ」と呆れてしまうが、よくよく考えれば社会やら家族やらの有用性の枠の中からとうに弾き出された行き場のない老人たちなのだ。「あれはあれで、わずかな年金からでも飲まなきゃ生きてる楽しみがないんだろう」とも思えてくる。そんなふうに考えながら自転車に乗っていると、自分の老後は酒も飲めないし、人見知りな性格ゆえに、さぞや孤独を持て余すことになるだろうと思えた。目も見えづらくなって読書も文章書きも億劫になったら、映画も疲れて見続けることができなくなったら、私には何の楽しみが残っているんだろう。
もしかしたらあの主婦のオバサンもああ見えて本当は孤独な一人暮らしで、あの老人たちの無邪気で陽気なお喋りを毎回「始まったナ」とほほえましく聞いていたのかもしれない。「あんなふうに楽しく生きられたら…」とおおらかな笑い声を羨ましく聞いていたのかもしれない。私にはオバサンのようにフレンドリーに振る舞える勇気はまだない。まだ、切羽詰まっていない。
古ぼけた団地の灰色の壁は住んでいる人もなぜか古ぼけた老人たちばかりに思わせる。酔っぱらいの陽気な老人たちの声がいくら反響しても、黙って許せているようなあの壁の中には、やっぱり一人暮らしの孤独な老人たちがひっそり暮らしているように感じてしまう。



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# by zuzumiya | 2017-03-18 20:20 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

郷愁の「The Rose」

a0158124_1384435.jpg鶴橋監督の影響でベット・ミドラーの「Experience The Divine」というグレイテストヒッツアルバムを出してきて聴いている。「Do You Want To Dance?」はもちろん、私の好きな「When A Man Loves A Woman」や聴くたびに涙腺をやられる「The Rose」が入っている。特に「The Rose」はいつの頃だろう、リリースが今調べたら1979年だというから14歳の中学生の頃だ。ある日、おそらくは日曜日のような休日の昼下がり。床に寝そべってラジオのFENを聞いていた。当時は洋楽に興味を持ち出した頃で、英語もわからないくせにラジオはいつもFENだった。トップテン番組だったかもしれない。「The Rose」の静かなピアノが流れてきた。何だかすごく悲しいような、でも同時に揺るぎない強さを感じる美しいメロディーと歌声に、歌詞が何にもわからないのに聴いていてつつーっと涙が流れた。「The Rose」を聴くたびに、あの日、寝そべりながら、台所で動いているおばあちゃんに気づかれないように涙をそっと拭って鼻をすすっていた14歳の多感な自分が昼下がりの柔らかい光の中に見えてくる。もう少し大きくなって、曲が使われていたジャニスの伝記映画も見たし、さらには歌詞の日本語訳も読んだ。「ああ、そうだったのか」と曲にまつわるいろいろを知って行ったが、そんなこととは別に私の中で「The Rose」にはいつでも郷愁のような懐かしさを感じてしまう。失われてしまってもう戻れないのに、あの頃はそうとも知らずに毎日を特別とは思わず、何ら疑いもせず、退屈やらちょっとした不満やらにくるまれてぬくぬくと暮らしていたんだなと。幸せってそういう時間の過ぎ方をすることを大人になった私は知っている。


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# by zuzumiya | 2017-03-17 23:30 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

萎れたビオラ

朝、見たときは元気に咲いていたのに、昼過ぎに見たらクシャリとぜんぶ萎れていた紫のビオラ。慌てて水をやった。霜をかぶっても強い花だと聞いていて、実際にそうであったが、あんなに萎れていると無事にもち直してくれるか心配だ。花ってこういう裏切り方をする。いや、潔い死に方というべきかな。
昨日、離婚届をもらってきた。窓口の職員がなぜか声を小さくして書き方の説明をしてくれた。用紙をもらってきただけなのに、なぜか気分が落ち込む。たぶん、別居前、一度、私が差し出した離婚届に夫は判を押していたという過去の事実がそうさせるのだ。あの時、すでに二人は終わっていたんじゃないかと何度も考えてしまう。
日曜は母の家に行く約束になっている。電話をかけると「今ある(金のある)私は私の行いでこうなった。(貧乏な)アンタはアンタの行いが悪かったからだ」と言われた。子どもを4人も生んで捨てて自分のためだけ考えて生きてきたくせに、そのすべてが「よい行いだった」と捨てた子どもに言わしめたいのか。金は貰えたが、金以外の方法で愛情は貰えなかった。「そんなんだから、私はあなたをいまだに心の底から信じれないでいるのよ」と言いたかった。日曜に行くのに気が重い。





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# by zuzumiya | 2017-03-17 13:39 | ちっちゃい器で生きていく | Trackback | Comments(0)

鶴橋監督、またしてもベット・ミドラーですか!

a0158124_13114418.jpg読書の合間に映画をAppleTVで2本見ました。『だれかの木琴』と『後妻業の女』です。どちらも女の業の深さを考えさせられる映画でした。後妻業の方は私の大好きな鶴橋康夫監督で、映画の途中でベット・ミドラーの「Do You Want To Dance?」が流れてきた時には「イヨッ、待ってました!」と心で叫んでいました。監督、よほどこの曲に惚れ込んでいるようで、自作の挿入歌に使うの何回目?と笑ってしまいました。ベット・ミドラーのこの曲が流れて来たら鶴橋作品と思って間違いないのではないでしょうか。ほんとにこの曲は大人の艶気と渋みがあって、こちらをじらしてくるような登場感があって、美しく悩ましく切なげに盛り上がって行くし、どんなシーンをも粋にひきたたせてくれるんです。監督は音楽にこだわる方だと思うので、きっとバーに流れていた曲も特別な演出的配慮があってのものでしょう。一曲、素敵だなぁと思えたジャズの気怠い女性ヴォーカルの曲があって、気になるのでなんとか曲名を調べてみようと思っています。小夜子役の大竹しのぶさんと結婚相談所の所長の柏木役の豊川悦司さんが酒場で探偵殺しの相談をする場面だったと思います。思わず、監督の音楽の趣味の良さを思いました。そういえば、「黄昏のビギン」も大竹さんに殺しの場面で歌わせていましたね、ふふふ。脚本も演出も面白かった。大阪弁だから勢いがあって泥臭くてスッタモンダの喜劇になってくれるんでしょうね。ストーリーや演出から離れますが、一人の女としてみれば、飢えと空虚が入り混じった小夜子の底知れない業というか、生い立ちなどの人間的な背景をもっと知りたいな、と思いました。


※音楽を担当した羽岡佳さんの事務所に曲名と歌手をお訊きしています。果たしてお返事くれるでしょうか。


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# by zuzumiya | 2017-03-16 22:11 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

先生が辞める時

今年もそろそろ年度末が近づいてきた。
どこの園でも辞める先生たちがいて、早いところではもう来年度のクラス分け、担任が決まっていることだろう。
いつも思うのだが、先生が辞めるというのは保育園でも幼稚園でも学校でも、寿退社や介護退社、夫の転勤や家の購入、引越しなど以外はおそらくは人間関係じゃなかろうか。保育や教育の現場では考え方、価値観の違いが致命的だったりする。夫婦仲が悪ければ子どもがうまく育っていかないように、ペアを組む先生との相性、保育観、教育観がすごく大切になる。大人だから表面上はなんとか取り繕っていても、実際はいろんなところで漏れ出て、子どもやクラスの雰囲気に影響してしまうものだ。子どもは総じて力関係、序列というものに敏感である。クラスリーダーにはビビって逆らわないが、それ以外にはワガママをぶつけてきたりする。そうやって人を見る。甘えを使い分けている。クラスという小さな集団で自分の居場所を確保し、日々を生き抜くために身につけていく知恵なのだろう。そういうことを逆手にとって「私の言うことは聞くんだから、あなたの言うことを聞かないのはあなたの能力がないせいよ」とこれ見よがしに威張るリーダーはおかしい。子どもとのそれぞれの関係性は違って当たり前なのだから互いに良いところを認め合い、足りない所はフォローし合わないといけない。先生が辞める時というのは、小さな職員室で誰ひとり仲間が信頼できなかった、心からの味方が誰もいなかったという絶望感、内側からの問題なんじゃないか。子どもや保護者が嫌い、面倒ということではないと思う。足の引っ張り合いで、支えたり支えてもらったりの関係がなかった、というのが本当のところなんじゃないだろうか。

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# by zuzumiya | 2017-03-15 23:32 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

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