ものの見方、発想の転換をしてくれるものをそばに置きましょう

まど・みちおさんの『いわずにおれない』を読んでいます。まどさんは谷川俊太郎さんに「望遠鏡と顕微鏡の目を持つ人」と言われています。その面白がり、不思議がりの徹底さ、自由さには驚かされます。見過ごしてしまいそうな葉っぱや蟻んこから遠く宇宙の果てにまで思いを馳せて「なんでだろう」と常に問い、我が身をわきまえ感謝できるその資質は、私に言わせたらもはや地球人を超えて「宇宙人」であり、「宇宙眼力の人」ではないかと思います。まどさんの詩やお話を読むと、まどさん的な宇宙眼力でものを感じられるので、気がついたり、感動したりすることが格段に多くなります。例えば、布団に潜り込んであったかいなあと嬉しくなる時、人間が裸で進化しないことは、人間に弱いとか恥ずかしいという慎み深さを残しておくためだと思えて納得します。小さな感動や発想の転換をしてくれる味方を少しでも多く持っておきましょう。生きることが楽しくなります。
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# by zuzumiya | 2010-02-19 12:06 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

今いる大人に合わせて子どもを育てていませんか

不況で働き盛りのリストラや派遣切りが進むなか、大学生も就職できすにいます。幼い子どもを育てている母親たちもきっと不安になっていることでしょう。食べていくために子どもに資格や手に職を持たせようと思っている方も多いでしょう。中高生までもがとにかく数年後、就職していたいというのが今や夢になりつつあるのかもしれません。理想論だと笑われるかもしれませんが、もしかしたらこの不安と焦りのなかで忘れてしまっているのではないかと思うことがあります。子育てとは、今いる大人に合わせて受け入れてもらえるように子どもを育てていくことではないと思います。親の信じる「理想の大人」を目指して、子どもを育てていくことではなかったでしょうか。今いるこの歪んだ社会に合わせて、子どもの持っている良さを曲げたり、打ち消していくことではなかったはずです。親は常に「新しい大人」を作っていくんだという気構えを忘れてはいけないと思います。
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# by zuzumiya | 2010-02-18 07:36 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

努力家とはどんなときも楽しむことができる遊び人だと思います

仕事で単純な入力作業をひたすら続けなくてはいけない時がありました。しばらくして、何とかしてこの退屈な作業が面白く楽しくならないだろうかと考えている自分に気づき、人間はやはり「ホモ・ルーデンス(遊ぶ種)」なのだと笑ってしまいました。脳というのは単純を嫌って、変化を好むようにできているらしく、自分で面白味を見つけて満足しようと創意工夫しだすのです。そもそも留まって滞ることを嫌う脳なのだから、人間はやはり「前向き」に生きられるように作られているのでしょう。楽しむことはラクとは違います。面倒だけど楽しいものもあります。ラクだけだとそのうち飽きてしまい、次を探すことで進歩も成長も促しているのです。どんなときにも楽しもうとする、そのためにあれやこれやと考え工夫することこそ、頑張るということです。真面目や努力家というのは、どんなときにも楽しもうと貪欲になれる、いちばん「遊ぶ」に近い人のことだと思います。


※新聞に本多静六氏の言葉が載っていました。「人生の最大幸福は家庭生活の円満と職業の道楽化にある」この「職業の道楽化」こそ、笑って目指していきたいものです。
※自分の一生の時間の多くを仕事をして暮らしているのです。「楽しくない」のは「楽しまない」から、かもしれません。変化を、少しずつでも、自分から働きかけましょう。
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# by zuzumiya | 2010-02-17 10:06 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

「ちょっと少なめに」で冷やご飯のない暮らし

主婦として直さなくてはいけないな、と思うことがあります。食べ盛りの子どもが二人いるので、いつもどうしてもご飯をちょっと多く炊いてしまいがちなのです。その結果、毎日冷やご飯を作ってしまい、時には冷蔵庫にあるご飯の存在を忘れて、また多めに炊いてしまったりします。心配性というより注意深く暮らしていないのでしょう。よそったご飯にすら「腹八分目がよい」という言葉もあるのに、無駄にはしていないとしても、毎回ご飯を余るほど炊いているのは、そもそも本末転倒のような気がします。そして、この話は何もご飯だけに限りません。小皿に差し入れるお醤油、スポンジに足す洗剤、髪に乗せるコンディショナー。贅沢のつもりは毛頭ないのですが「もうちょっと余計に」は、たぶん癖のように私に染み付いています。無駄にせず使い切れるとしても、それは「余計に」使い切っているということです。暮らし全般に「腹八分目」の心を取り戻そうと思います。
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# by zuzumiya | 2010-02-16 08:12 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

子どもたちのいらなくなった教科書を読んでみましょう

春は進級や卒業で子どもたちの使わなくなった教科書がたくさん出ます。処分する前に手に取って覗いてみませんか。意外な発見があります。我が家の場合、中学の国語の教科書には新川和江さんの「わたしを束ねないで」の詩が、高校の方には川上弘美さんのエッセイ「境目」が載っていて感激しました。私の好きな書き手の作品が学校で教えられていることがうれしく、「この人の本なら、家にもあるよ」と本を手渡すこともできました。教科書に劣らず面白いのが資料集です。国語便覧には李白や杜甫の漢詩が載っていて、今読んでみるとしみじみと胸に迫ってきます。美術の資料集には東京の美術館や博物館の写真が載っていて、ガイドブックのように出かけてみたい気にさせます。両方とも学校で使われているものなので、写真や図も多く、時代背景の説明もあり、理解しやすくできています。こういう資料集こそ捨てずに取っておき、調べものの際に大いに利用しましょう。
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# by zuzumiya | 2010-02-15 11:14 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

「誰も知らない」の子どもたち

a0158124_1343991.jpg季節はいつだろう。
そうだ、秋だ。私の誕生日だから、秋のはずだ。
秋の日のうす明るい午後。
ひとり道路に出て、駅の方を見ている。
まだ、来ない。
線路から飛び出ている猫じゃらしを一本引き抜いて、振りまわす。
小道の敷石をひとつ抜かしでぴょんぴょん飛んでみる。
家の中から、もやもやとテレビの音がする。
垣根の間からおばあちゃんをうかがうと、台所に立っている。
はたまた。
わたしは道路の端にしゃがみこみ、砂いじりをしている。
砂はさらさらとして温かい。
ときどき、砂をはらって立ち上がり、道路へ出てみる。
駅の方から車が現れる気配はない。
もしかしたら、来ないかもしれない。
しかたなく、またしゃがみ込んで、
温かくなめらかな砂のなかへ両手の指をひろげる。

映画『誰も知らない』を見た帰り、電車の中でふいに浮かんできたのは、誕生日に来てくれるはずの母をひとり外に出て待っていたときの情景だった。それは、現在の私が透明人間のようになって、あの頃の幼い私の後ろに立って、母を待ちながら手持ち無沙汰にやっているいろいろな遊びを穏やかな気持ちで静かに見つめている、といった感じの映像だ。目の前にそれが浮かぶと、なんだか無性に懐かしくなり、あの頃の家のまわりの風景も空気も光の感じも、いじっていた砂の温かみも、幼い私自身の後ろ姿の小さささえ、ちゃんと「覚えている」と思えて、すべてにたまらなくいとおしくなった。
不思議なことに、昔を思い出すたび、透明人間の私が幼い私をそばでじっと見つめているような感覚を覚える。それと同じ感覚を映画『誰も知らない』でも味わった。
あの映画に登場した子どもたちの見つめた世界を、胸のなかにしまってある心情を、私はたしかに「覚えている」と思えた。幼い頃の私がそのままスクリーンの中にいた。
だから穏やかな懐かしさとともに、ある部分では強烈にせつなくなった。私も母を求めて、受け入れられなかった子どもだったからだ。けれどそれがどんなにか悲しい事実でも、何度、母にうまくあしらわれてだまされても、どうにも諦めきれずに心のどこかでは、やはり希望としかいえないものを持っていたし、幼い私が毎日、母を想ってひたすら泣き暮らしていたかというとそうでもなかった。子どもどうし遊んだり、子どもの世界で笑ったり悩んだり、泣いたりしていた。
子どもというのは植物に似ている。暗い箱の中に入れられても少しでも光のある方へと身をよじって伸びて行く。来ないかもしれない母をひとり待っているせつない時間のなかにも、温かくてさらさらな砂と戯れる恍惚の時間を私は持っていた。猫じゃらしを振り回してささやかな自由を満喫し、敷石をうまく飛び越えては喜んでいた。それが子どもだったということを、思い出した。
もともとこの映画のモチーフは実際に起きた「西巣鴨子ども4人置き去り事件」だが、是枝監督がこの映画を幼児虐待事件が後をたたない今、ひとつの「事件」として、社会に問題提起するようなタッチで作らなかったところはさすがである。どんな境遇で育って来たかにかかわらず、かつて子どもだったすべての大人が、スクリーンでもう一度ひとりの子どもに戻って瞬間瞬間を生き、世界を見つめることができたのだから。
映画の中の子どもたちをいとおしく思うとき、自分の中に失われずに生き続けてきた「子どもの自分」の存在を確認でき、いとおしく思えるはずだ。大人がそう思えたとき、はじめて傍らにいる現実の子どもたちに救いの手を差し伸べられる気がする。

家に帰って、食卓から暮れていく空をぼんやり眺めた。
いまごろ、あの4人の子どもたちはどうしているだろう。
この広い空の下、今でもひっそり誰にも知られることなく、
生き続けているような気がした。
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# by zuzumiya | 2010-02-14 13:39 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

ワルツをかけて窓拭きをして、春の光を楽しみましょう

久保田万太郎の俳句に「春塵やいつひろごりし生活(くらし)の輪」というのがあります。春は風が強いのと同時に、日射しがぐっと明るくなるので、部屋の其処彼処にうっすらと塵が積もっているのが目立ってしまいます。春が近づくと、何よりこの句を思い出すのは私が主婦だからでしょう。新年を迎えてふた月ほど経ち、暮れの大掃除の効果もそろそろ薄れてきた頃、明るい光をあびて、サッシのガラスが薄汚れてきたのがわかります。そうなると窓拭きです。私の春はこの窓拭きから始まります。よく晴れた日に、軽やかなワルツをかけて、家中の窓や鏡を拭いてまわります。テレビのブラウン管や写真立ても忘れずに拭きます。そうしながら、暮れの大掃除の時とは違う、背中に当たる陽射しの暖かさやガラス越しの光の強さで、春が確実に近づいていることを実感するのです。主婦ほど五感を刺激される仕事はありません。清少納言風に言えば、「春は拭き掃除」なのです。
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# by zuzumiya | 2010-02-14 13:27 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

リビングの目につく所に色鉛筆やクレヨン、マーカーを飾りましょう

仕事や趣味で使う人は別にして、大人になると手にしなくなるものに、色鉛筆やクレヨン、カラフルなマーカーや絵の具があります。おそらく小さい子どものいる家庭では、画用紙やお絵描き帳とともにリビングに置かれているでしょう。でも、子どもが大きくなるにつれて興味がゲームなどに移ってしまえば、それらはだんだんと子ども部屋の机の引き出しの奥へ追いやられて、図画や美術の授業の時にしか使われなくなってしまいます。最近はコンピューター上でも簡単に美しい絵が描けるので、ますます出番はなくなっています。それらが日常的に使われないということは、子どもも大人も黒のペンばかりで字や数字を書いて暮らしているということで、とても寂しい気がします。家族の集まるリビングの棚に色鉛筆やクレヨン、マーカーを可愛らしく飾ってみましょう。ふと手に取って誰かが何かを描き始めるかもしれません。部屋もそこからぱっと明るくなったように感じます。
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# by zuzumiya | 2010-02-13 00:27 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

「今あなたに知ってもらいたいこと」

a0158124_0214071.jpg「ジョンの場合には、あのジョンがやったんだとわかることもあるでしょうが、そんなに有名な人でなくとも、人類の歴史が進んでいく中のある一点で、その人がしたことが必ず意味を持ち、寄与しているはずです。
それは、どこかのパン屋さんが作ったクロワッサンであったり、畑で採れた野菜であるかもしれない。それを口にした人たちの命が救われたり、元気になっていることもあるでしょう。作ったものが自分の手から離れ、行く先々で働いている。そのことを作った本人は知ることができない。また、知らなくてもいいという、何か運命のおもしろさというものがあるのです。
ただ、何かを始めなければ、なんの力も働きません。
まずは「善意」を持って「始めて」ください。
グッドネス、善意、善性ということが、とても大事な時代になってきました。私たち一人ひとりのすることが、世界を変えていっているのだという明確な意識と善意を持って、世界に、宇宙に、よいバイブレーションを送りましょう。」
                        (「まずは始めてみること」より)


愛にあふれた多くの言葉があるなかで、ここにいちばん、励まされた。

自分はいま何をしているのか、これでいいのか、ほんとうは何がしたかったのか…。
考えれば疑問符だらけになる毎日で、いつでもやめようとするもう一人の自分がいる。
でも、ヨーコさんのこの言葉を読み返すたび、私はいつでも背中を押してもらえる。
以前に書いたバーガー屋さんのコーヒーマドラーに刻まれた言葉の話。
あのマドラーの棒切れで自分はまったく構わないと、いつだってそう思う。

この本はあまりにヨーコさんが素敵なので、お守りのように机の前に飾っている。
すべての人に「Bless you!」
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# by zuzumiya | 2010-02-13 00:22 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

「すみません」「お疲れさま」の言葉に頼っていませんか

先日、電車の中でサラリーマンの男性が「すいません。どうもありがとう」と言ったのを耳にしました。「すみません」の後に会釈でなく、「どうもありがとう」と続いたことが心に残りました。「すみません」は便利な言葉で、人に呼びかける時も謝る時も感謝する時にも使いますが、感謝の意味なら本来の「ありがとう」の方がしっくりと伝わります。またある時、小学生たちが信号で「緑のおじさん」に「さようなら」と手を振って横断歩道を渡っていくのを見かけました。どこか懐かしい気持ちになったのですが、後でそれは「さようなら」という言葉のせいだと気づきました。大人になると職場を離れてまでも「さようなら」が「お疲れさま」に替ってしまいます。日本語にはたくさんの言葉があって、ニュアンスが微妙に違います。できれば「すみません」のような便利な言葉に頼ってしまわずに、「お疲れさま」のような職場の言葉でふだんを済まさずに気をつけましょう。
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# by zuzumiya | 2010-02-12 08:37 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)


ふだんの暮らしに息づいているたいせつなもの、見つめてみませんか?


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