暮らしのまなざし zuzumiya.exblog.jp

ふだんの暮らしに息づいているたいせつなもの、見つめてみませんか?


by zuzumiya
プロフィールを見る
画像一覧
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31
物事がうまく運ばずに落ち込んで、自己嫌悪に陥ることがあります。そういう時、有名人の失敗談を思い出して自分を奮い立たせるのは、どこかで人の不幸を自分の糧にするようで、ちょっと大きな声で言えないような、情けない恥ずかしい気になりませんか。でもあるとき、そんな心配は必要ないと思いました。世の中にこんなに失敗談があるのも謙遜という美徳だけではなく、やはり伝えるべきことがあるからなのでしょう。自分の失敗や情けないところを隠さず明らかにすることで、人に困難を乗り越えるための大きな励ましや前進する勇気を渡したいのだと思います。人間とは時にこういう形で人を救いもするやさしい生き物なのだと心が和みます。立派な言葉や思想だけでなく、失敗や苦悩もみんなひっくるめて伝えるべき知恵なのです。自分の失敗談についてあっけらかんと語りながら頑張っている人を人生のお手本にしたいと思いますし、そんな人間でありたいと思います。
[PR]
# by zuzumiya | 2010-01-30 00:58 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)
新聞で、ある病院の小児科病棟にセラピー犬が来ているのを知りました。言葉を自由に使い、気持ちや考えを相互に伝達できるはずの人間が、時に言葉で誤解を生んですれ違い、言葉の使えない犬に助けられ、癒されるという不思議。言葉って何だろうと考えてしまいます。犬を抱いている時は言葉を交わせていなくとも、ふんだんな好意と信頼感に満たされています。人間は言葉が使えるけれど、好意を込めたスキンシップの感覚や言葉以前の思いを汲み取ろう、察しようとする心を開く努力でもって、繋がることができるのだと教えられます。言葉だけで人間同士が孤立しないように、頭でっかちにならないように、言葉を持たない生き物とも交流できるように、この世界は異なる言葉を持つ人間と言葉そのものを持たない生き物とを共存させているのでしょう。それぞれが補い合って、分かり合っていく喜びに満たされるよう、この世界はバランスよく作られているのだと思います。
[PR]
# by zuzumiya | 2010-01-28 14:47 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)
a0158124_015367.jpg夕方の買い物帰りの道で、目の前をすいと光るものがよぎりました。何だろうと目で追うと、しゃぼんだまでした。流れてきた方向を見やると、玄関の門の前で、幼稚園ぐらいの男の子がひとり、立ったまましゃぼんだまを吹いていました。コップを持つ左手はギブスで覆われ肩から包帯で吊されています。元気に外を走り回っていた男の子が、その元気さゆえにひょんなことで腕を痛めてしまい、友達と遊ぶこともできないんだなと想像しました。
おそらく昼間は母親が部屋で静かに遊んでやったり、絵本を読んでやったりしていたのだろうと思います。夕方になって食事の仕度にとりかからねばならなくなった母親は、だだをこねる男の子に手を焼きながらも、不憫に思い、台所洗剤で即席のしゃぼんだま液を作ってあげたのかもしれません。
彼はきっと、遊びたくても遊べないつまらなさやひとりぼっちのよるべなさを、吐息と一緒に胸のうちから少しずつ吹きだしては、しゃぼんの玉にしてふくらませていたのでしょう。それでもまわるく虹色ににじんで、ふうわり空に溶けていくしゃぼんだまは、とてもきれいで儚くて、吹いては飛ばし、弾けてはまた吹いてを繰り返すうちに、じぶんもまた空に吸い込まれていくように、こころは静かにおさまっていったのかもしれません。彼は夢中でしゃぼんだまを吹いていました。
小さい子どもには子どもなりの、日々のせつなさがあるものだし、それをやさしく包んでくれる何かが必ず存在するものなのだと、このとき思いました。うす赤い夕空に浮かぶしゃぼんだまはとても澄んで見え、西日をうけるときれいに光っていました。

ハナレグミの「ハンキーパンキー」という曲を聞くと、いつもあのときの男の子としゃぼんだまの情景を思い出します。

どこまでやれるかなんて
無限に浮かぶままの回答
きたるべき日々を
余すとこなく 見据えたいんだ

僕のための 日々のあわ

静かでゆったりとしたギターの音色。ボーカルの永積タカシくんの、ひかえめで、ちょっと鼻にかかった甘やかな声。「日々のあわ」と、つぶやくように歌う彼の、内にひろがる心模様を、たとえば、ささやかな祈りや希望のかけらのようなもの、生きていくことへの痛みや慈しみを、すべてを受け入れようとする澄んで静まった穏やかさなどを、わたしはことばの余韻とともにしんみりとかみしめることができます。

わたしたちが日々生きていくということは、あの男の子のように、道ばたでしゃぼんだまを飽きもせず吹いているようなものなのかもしれません。そのときどきで、さまざまな思いを吹き入れた、さまざまな大きさのしゃぼんだまをふうわりと広い空に放って、生まれては離れていくものを、とどまらずに流れていくものを立ったまま、ただ静かに見送っている。でもそれらはいったん離れてしまうと、儚くもきれいで、せつないくらいにいとおしく、みな輝いて見えるのです。そうやって日々を、吹いては見送り、吹いては見送りしながら、生きているような、そんな気がするのです。
[PR]
# by zuzumiya | 2010-01-28 00:02 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

長田弘の詩を読むことは

a0158124_10493737.jpg長田弘の詩を読む。このことはわたしにとって特別なこと。
最初のページの何もないほの白さ。
詩を読むために、ここで静かに深呼吸をする。
こころを落ち着かせる、しんとさせる。
こころを耳にして、目を耳にする。
この穏やかなる作業、これこそわたしは、詩を読むことの本質だと思う。
次のページを開く。
活字がある。ことばがある。
もどかしさ、心細さのなかにもそっと耳を傾ける。
語りかけることばに、その一行一行に、慈愛でもって寄り添う。
こころを静かに透明に、やわらかにする。
ことばに対して、これほど深い懐かしさを感じることはない。
長田弘の詩を読むことは、そういうことだ。


草が語ったこと

空の青が深くなった。
木立の緑の影が濃くなった。
日差しがいちめんにひろがって、
空気がいちだんと透明になった。
どこまでも季節を充たしているのは、
草の色、草のかがやきだ。
風が走ってきて、走り去っていった。
時刻は音もなく移っていった。
日の色が、黄に、黄緑に、
黄橙に、金色に変わっていった。
ひとが一日と呼んでいるのは、
ただそれきりの時間である。
ただそれきりの一日を、
いつから、ひとは、慌しく
過ごすしかできなくなったのか?
タンポポが囁いた。ひとは、
何もしないでいることができない。
キンポウゲは嘆いた。ひとは、
何も壊さずにいることができない。
草は嘘をつかない。うつくしいとは、
ひとだけがそこにいない風景のことだ。
タビラコが呟いた。ひとは未だ、
この世界を讃える方法を知らない。

                        
                        (『人はかつて樹だった』より)
[PR]
# by zuzumiya | 2010-01-27 10:51 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)
先日、ネットを見ていて心温まる発見をしました。あるハンバーガー店のコーヒーマドラーが紹介されていたのですが、写真を見るとアイスキャンディーの棒のようなマドラーに短い文字が印刷されています。その文字は例えば「You are gifted」や「Music helps」といった、名言や箴言ほどではないけれど、コーヒーブレイクのひとときにぴったりの、誰かをほっとさせたり、やさしく励ますような言葉なのです。以前、やはり別のハンバーガー店ですが、入口に小さな黒板を出して「今日はとっても暖かいですね」と道行く人々に世間話のように親しげに話しかけているような文面を見かけて、心が和んだこともあります。大げさでなく小さなところから、そっと人々に向けられて発せられているやさしさや思いやり。誰かの笑顔のために、小さな声でもかけ続けるそんな存在があってくれることにうれしく、そのスタンスこそ見習いたいと思いました。
[PR]
# by zuzumiya | 2010-01-26 00:05 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)
テレビの園芸番組をのんびり見るのが好きです。街でよく見かける花や庭木の種類や名前を知るのは楽しいですし、ゲストの園芸家のお顔が緑を扱う方らしく穏やかで、でもその手先や説明が職人らしく頼もしいのが微笑ましいです。いつだったか、ダリアの球根の植え方の説明で「八重桜の咲く頃まで暖かい陽射しの当たる日向に出しておいて下さい」という言葉に、はっとしたことがあります。ささいな言い回しなのですが、いついつとは言わないで「八重桜の咲く頃まで」という表現がいかにも園芸家らしく、それでいて互いに通じている関係性が実に素敵だなと思いました。松浦弥太郎さんの「木が香る地図」というエッセイにも、最寄りの駅から自宅までの道案内に建物ではなく、木や花を目印に説明してみてはという提案があり、心が弾む思いがしました。四季のある豊かな風土の日本に生まれたのだから、季節感をもっと日常の言葉や会話のなかに取り入れていきたいです。
[PR]
# by zuzumiya | 2010-01-25 01:09 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

杉田久女と宇内

a0158124_10387.jpg「あら、わたしだって長いこと苦労も辛抱もしてますわ、勲章や月給の高いことをのぞむんじゃありません、もっともっと貧しくてもよいから、意義のある芸術生活に浸りたい…」
久女は眼に涙をためていう。宇内も、久女が虚栄からそいうのでないことはわかっている。しかしそのほうが、ほんとはずっと厄介なのだ。
ダイヤや着物や名誉が欲しい女なら対処のしようもあるが、感情の動揺しやすい、自然や人生に何かにつけて昂揚感を味わい感激し、また、どうかするとわけもなく憂鬱になる、そういう、絶えず白熱した発光体を裡にもっているような女が、正面の大手門から堂々と
<意義のある芸術生活に浸りたいのです。平凡と安逸だけを貪るよりも、あなた、さあ、いまからでもすぐ絵筆を持って!>
と攻めてくるのは、男にとってさぞ、やるせないことだったろうと思われる。貧しくても意義のある芸術生活を、というのは、現実では夢のような話で、牛の舌を煮たり夜の川で鰻を釣ったりすることとちがう。
「貧しくても意義ある芸術生活」を送るべく神からその運命を負わされた者は、花咲かぬまま地獄をかいまみた苦しみの末に悶死する、そんな運命が待ち受けているかもしれないのだ。そういう地獄と天国の綱わたりのような人生は、人に強いるべきことではないのだから困る。
何がなんでもその道を選ばなければ生きられないような、限られた人間だけが、その道を<選ばせられて>しまう。人為ではない、巨いなる超越者の手によって。
宇内にはそのへんが見えていたにちがいない。
しかし彼はそのあたりの機微をことこまやかに妻と話し合い、妻の思いこみを訂正し、芸術と実人生の相関関係について論じ合う、という手のかかることを避けている。宇内の怠慢という以上に、それまでの日本の夫婦に、話し合いの伝統なんかないのである。明治の文物は開化したようにみえるが、男と女の共通語が育つ土壌ではないのだ。
            田辺聖子『花衣ぬぐやまつわる……わが愛の杉田久女』より。

画家としての才能を認めて結婚したのに、そこにどうしようもなく憧れを持って惹かれていたのに、九州は小倉の片田舎の中学の図画教師となって、その職に甘んじて一向に絵筆を持たない夫、杉田宇内に対して、久女がこころに巣くわせはじめた怒りの発端がうまく書かれている。夫、宇内とのこういった精神面での齟齬(たぶん、いちばんこの夫婦にとって厄介なところなんだろう)が、やがては久女を俳句に猛烈に駆り立てて行ったのだろう。やるせない。
久女はきっと、そういった芸術一本槍に貫かれた生活を人生の理想として、夫がそれを与えてくれないのならば、自分でその渇きを癒すしかないと思ったのだろうか。自覚はあったのかなかったのかわからないが、俳句と出会って尋常じゃないほどのめり込んで行ったのが、なんだかわたしにはよくわかる。
久女はもともと絵が好きだったし、視覚的な句も多い。つまりはみんな見えて、わかっていた。小倉の自然を間近にして「どうしてあなたは描かないの? この景色が見えないの? 何も感じないの?」と不満に思って、怒って、それがつのればやがては諦めに変わっていく。
自己中心的、勝手な思い込みの女だろうがなんだろうが、久女のこころに思い描いた結婚生活が日々目の前でどんどん崩れていく。そのさまを想像するに、まだ俳句との出会いもなくて子供も抱えていて、自分に何が出来るかなんぞ思いもしなかった頃の久女の心情は、さぞやがっくりときて、絶望的だったろうと思う。
夫宇内の心情にもせつないものがある。妻にやれやれと言われても、自分の才のことは自分がいちばんわかっている。絵で食べていくことの困難さも想像がつく。愛する妻子を抱えて綱渡りするわけにはいかない。そこに宇内の優しさもまっとうな責任感もある。
芸術家であるまえに生活を担う者として、いまあるこの場からなんとか精神の充実をはかっていくしか方法はない。久女が大袈裟に言うほど、絵の世界から全く離れたわけではないのだ。教師となって若き生徒たちに絵画芸術の素晴らしさを教えることは、それなりに意義や充実感がある。自分をほんとうに愛してくれているのなら、いつかはその生き方の素晴らしさを久女もわかってくれるだろうと宇内はどこかで信じていたのではなかったか。
夫婦はたしかに芸術愛好でつながっていたけれど、その奧で芸術への求め方の程度、温度というものがやはり決定的に違っていたのだろう。久女の方がおさまりがつかないくらい熱かった、激しかったのだろう。
この結婚は果たして良かったのだろうか。でも、他のお茶の水の同窓生のように銀行員や官吏との良縁をのんで結婚していたら、そして何不自由ない暮らしのなかで、その上で俳句に巡り会っていたら、久女の句はどんな句になっていたのだろう。
俳句がたしなみ程度のものでしかなく、「生きる術」「心の拠り所」となって久女の人生の根幹を強く貫いていくような唯一無二の激しいものになりえたかどうかはわからない。宇内と不幸な結婚をしたことで、俳句と真に出会い、俳句と真に生き、後生に残るあれだけの名句が生まれたのだと思えば、せつないことだが、これもまた神の見事な手さばきと言えなくもない。
[PR]
# by zuzumiya | 2010-01-24 01:04 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)
先日、道を歩いていて、よそのお宅の玄関ドアに見覚えがあるなと思ったら、遠い昔、今はもうなくなってしまった実家のドアでした。幼い頃住んだ家の思い出は誰でもふっと思い出すことがあるでしょう。今でも大工だった祖父の物置にひんやり漂っていた機械油の匂いや、米びつの横の暗がりにごろんと転がっていたすいかや、黒電話が着せられていた花柄のカバーや、水風呂をしながらぼんやり見ていたタイルの模様を憶えています。そう思って我が家を見渡せば、この部屋にあるものすべてが、ベランダから見える風景のすべてが、子どもたちの遠い日の懐かしい記憶となって今、現在進行形で作られているのだと気がつきます。思い出は自然に「なる」より「作っていく」を心に留めておくと、毎日の暮らしに弾みがつきます。何を選んで、どう暮らすのか。何気ない選択の毎日ですが、子どもたちの記憶に「心地のいい家」として、ずっと憶えておいてもらいたいものです。
[PR]
# by zuzumiya | 2010-01-23 12:45 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

バトンを渡す

a0158124_055464.jpga0158124_031939.jpg優秀な表現者の人たちには共通するものがある。
自分で作り上げた世界を見せながらも「でもこれをヒントにして、自分たちの生活のなかで自分たちで何かを見つけて下さいね。みんなそういうものを創り出せる存在なんですから」というようなコミュニケーションをとる。そう、バトンを渡すような感じ。
伝えるということの意味を知っている。伝えるとは、人に何かをさせる、行動を起こさせるところまでいって、ほんとうに伝わったといえることを肝に銘じているようなのだ。わたしの好きな永井宏さんも松浦弥太郎さんも、そういうスタンスでもって表現に携わっていることをあらためて誇らしいと思う。
松浦さんはエッセイ『今日もていねいに』のあとがきで、
「おそらく、あなたの心にも似たようなレシピがあるでしょう。今回はたまたま僕が代表して書きましたが、それをカスタマイズしてもっと良いものに生まれ変わらせ、次に発表するのはあなたかもしれません。」と書く。
永井さんも『ボタンとリボン ほんとうにたくさんのロマンティックなこと』という本のまえがきで
「この本によってたくさんの愉快なことが起こってくれればよいと思っています。誰でもが言葉(art)を生みだし、並べたり揃えたりしながら、声を上げるということが、もっともっと普段の生活の中に自然に存在していて欲しいと願うからです。何気ない眼差しの奧に潜んでいる多くの物語を、この本を眺めたり読むことで感じることができるはずで、そこに、喜びも悲しみも、全てひっくるめての、楽しくもしくは豊かに生きるためのコツというようなものの発見がきっとあるはずだと信じています。この本を眺め、共感された方は、自分もまた参加するのだという気持ちで、自分なりの眼差しを頭の中に潜めながら、いまの時代、自分なりのものを作る、表すということはどういうことなのかということを考えて欲しいと思います」と書く。
ちょうど同じ時期にこのふたりの本に出会って、ほんとうに奇跡的な縁を感じた。
まさしく読者は今、バトンを手渡されている。
そのバトンにはひとこと「やってごらん」と書かれている。
伝えるべきものがあって、伝えることができる場所にいる表現者たちはすべて、プロアマを問わず、媒体を問わず、このふたりのスタンスを心の底にそっと持っていなければならないと思う。
そして、受け取ったバトンはいつだって、次の人のためにある。
[PR]
# by zuzumiya | 2010-01-22 00:12 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)
人間はとてもうまくできているな、と思います。例えば、どんなに絶望して目を閉じていても、耳は鳥の囀りを拾ってしまうし、鼻はどこからか流れてくる美味しそうな匂いを嗅ぎつけてしまうし、口の中に自然と唾も溜まってしまうし、肌はそよ風がやさしく撫でてゆくのを感じてしまいます。どうやら、人間はこの世界と常に交流できるよう、すべての感覚を閉じきることが出来ないように作られているようです。世界に向かって常に開かれた存在で、開かれているということはそれだけ救われるチャンスがあり、幸福を感知できるということです。うれしいではありませんか。自然と共にあり、一人では生きて行けないという理由がよくわかります。人間の身体の構造からして、八方塞がりなど本来ありえないことなのですから、頭でばかり考えてしまわずに、五感を信じて身を任せること、心地よいと感じる何かを素直にすること、それらで困難を乗り越えていけると思うのです。
[PR]
# by zuzumiya | 2010-01-20 08:56 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)