時には種や球根から花を育ててみましょう

図書館へ向かう道すがら住宅街を散歩していたら、珍しいお宅を発見しました。玄関脇からぐるりと庭を取り巻いて、夥しい数の球根が植わっているらしく、そのどれもが短剣のようなさみどりの葉を指四本分ほど地表に覗かせています。おそらくチューリップの芽だと思いますが、おかげで庭はやんわりと青みがかり、空気が濃く清く感じました。花が咲き揃ったらさぞや壮観だろうと想像しましたが、花が咲いた時よりもむしろ発芽の今の方が春の生気に満ちているように感じました。どこよりも今このお宅が春を享受している、そう思いました。その夜、たまたま読んだ幸田文さんの随筆に『立春』という小編があり、地中の蕗の薹の青をすでに地表の土に見て取った画家小倉遊亀さんの眼力を賞讃されていて、昼間見たこととも相まって、文章をより新鮮に感じました。緑の指がない私もあの庭の清々しい青を見てからは、是非、種や球根から花を育ててみたいと憧れ始めています。
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# by zuzumiya | 2010-03-06 10:19 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

春です。野鳥のCDを持っておきませんか

近くに都立の大きな公園があるので、幸いにも目覚めるといつも野鳥の声がします。眺める先は裸木ばかりなのに、野鳥はいつでもその姿を見せず、どこかの梢で孤高に鳴いています。高く清らかな一途な声は、朝の空気を一層澄ましていきます。鳥の名を調べるために野鳥のCDをかけてみました。こういう時には「声の図鑑」として重宝します。声の主は四十雀でした。名前は小説などで知っているくせに鳴き声は知らない、秋の虫もそうで、片手落ちはこと音に関してはよくありがちです。野鳥のCDを「声の図鑑」として一枚持っておくことをお薦めします。それから、CDはふだんにBGMとしても使えます。あいにくの雨の休日など、遅い朝食をとる時に流せば、一瞬にして高原にいるかのように部屋がさわやかに晴れてきます。名前と声を知ることにより聴覚は冴えて、ふいに頭上から鳥の声が聞こえてきても、今度は道で知人と出くわしたような親しみを覚えるでしょう。
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# by zuzumiya | 2010-03-05 10:24 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

意識して、口角を上げましょう

「引き寄せの法則」という言葉を耳にしたことがあります。詳しくは知りませんが、自分の心の持ちようで、幸福も不幸も自然と引き寄せられるものと私は解釈しています。ならば、ここで一つ提案があります。意識的に、なるべく笑顔でいることはきっと良い事を身に引き寄せるのではないでしょうか。対外的にも人に平和的な柔らかな印象を与えますし、あらかじめ笑顔でいれば、多少のことでは心も波立たずに穏やかに静かにいられます。気がつくと眉間に皺を寄せている、そんな自分に今日からさよならです。実際に口角を少しだけ上げてみて下さい。不思議なことにやんわり目尻も下がって、顔全体も品良くなります。何とはなしに心の中もやさしい気持ちが満ちてきます。自転車に乗っている時、調理している時、読書をしている時。一人の時、集中している時は忘れてしまいがちなので、意識して口角を上げましょう。今日から笑顔は「なる」ものでなく「する」ものです。
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# by zuzumiya | 2010-03-04 09:43 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

自信を持つ権利 

a0158124_10405176.jpg大好きな松浦弥太郎さんのエッセイ、『軽くなる生き方』。
弥太郎さんは『暮らしの手帖』の編集長で古本屋さん「COW BOOKS」の代表。文章を書くということにとても真摯で誠実な人。嘘は書かない。それがひしひしと伝わってくるから、読んでいてとても安心できるし、この人なら大丈夫だと信頼できる。
人柄がとても文章に滲み出ていて、読んでいるだけで彼の存在を感じられ、目の前で彼の話を聞いているような、そんな不思議なつながりを感じて、温かい気持ちになる。
『くちぶえサンドイッチ』にあったような、日常雑感的な何気ないエッセイから彼の本質的な良さを見つけるのも好きなのだけれど、彼は「エッセイは何より実用であるべき」という人で、「人の役に立てる文章でありたい」と願う人だから、今作はまさに彼の考える、いまの彼の提案できる「生き方の実用書」だったと思う。
彼の生きてきた人生から、重ねてきた毎日の生活から「僕はこんなふうに思うんだけど…」という具体的な提案がいくつもあって(この「具体的であること」はとても大切だ)、そのいちいちにうなづけた。
なかでもうれしかったのは、40歳までは自分を作り上げるための「貯金」の時期で、40歳からはこれまで作り上げた人生や貯めてきた経験という「資産」の運用を考える時期だというところで、

<40年という時間が共通であれば、誰だってたいした差はないというのが、僕が立てた仮説だ>

としながら、

<人生の資産は、苦労や努力の量で決まるのではない。ある程度の時間を過ごせば、誰だってなにかしら得ているはずだ。それに気づいていないだけだ。
「40年、生きてきた自分には『目に見えない資産』がある」
40歳の誕生日が来たら、自分にそう言い聞かせ、自信をもつ権利があるーこのところ僕はそんな気がしている。>

と書かれていたこと。
特に「自信を持つ権利がある」という表現には、多くの読者が励まされることだろう。この人の良さは、この分け隔てのなさにあって、トップに立って多くのことを成し遂げているにもかかわらず、自分は決して特別じゃない、読者のあなたといつでも同じところでつまづき、考え、幸福をもとめて暮らしているんです、というスタンスを心しているところ。心の育ちの健やかさがあり、上品な人だと思う。
いちばん掛けてもらいたい言葉を、正直で誠実だと信じている人から、ぽんっと掛けてもらった気がしてうれしい。また頑張れそうだ。
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# by zuzumiya | 2010-03-03 10:42 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

「前倒しに悩まない」を心がけましょう

これは夫によく言われる言葉です。「何かをするときにどうせ悩むのなら、やる前に悩むのは悩みゾン。その時になって大いに悩めばいいじゃないか。今やっていることはただ気持ちを落ち込ませているだけで時間の無駄だよ」という意味のようです。ただ不安に苛まれて悩みがちで、きちんと頭を働かせて考えていないと言いたいようです。冷静にしっかり考えてみること、見通しを立ててみること。不安な中にも「今できることは何か」の視点を持つことが大事なのです。できることが少しでもあるなら、考えてやってみれば必ずそこから突破口が開けますし、今できることがもうないなら、いくら悩んでみてもしょうがないので、悩むことをさっさと諦めて他の楽しいことでも考えましょう。悩む脳力を向けるべき方向へきちんと向けてはじめて能力たりえるのです。今、悩んで建設的に何かが働くのならそれは「考えた」こと、そうでないなら悩みは「害悪」と割り切りましょう。


※悩んでそれに固執しつづけることで、考えていると思いがちです。悩んでもしょうがないものまで悩むのはやめましょう。
※理想的な答えが実はわかっているのにそれを受け入れたくない、という場合は時間が許す限り、しばらくその問題を放っておきましょう。最後の最後に、決断力にも火事場の馬鹿力が働いて、ひょっこり決断できますよ。
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# by zuzumiya | 2010-03-02 09:34 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

食生活はお皿や器からも考えてみましょう

家族に楽しく、偏りなく食べてもらうための工夫として、お皿も重要だと思っています。例えば、食卓に大皿で皆が自分のほしい分だけ取って食べる方法では、子どもはもし大皿の中身が嫌いなものだったら、手を出さないで済ませてしまいます。あらかじめ、小鉢や小皿でこれだけは食べさせたい量を取って、家族それぞれの前に並べてしまえば、目が喜んで、素直に食べてくれるものです。たくさんのおかずが並ぶ楽しさとバランスの良さ、味付けのバラエティと小鉢・小皿料理の長所は多いです。それから、例えば朝食にはワンプレートがおすすめです。大きなお皿に三つばかりの仕切りが付いていて、お子様ランチのように料理を乗せられます。例えばパン派なら、サラダや卵料理、ベーコンやウインナーなどのお肉、あるいは季節のフルーツと彩りよく朝食に最低限必要なものを一つの大皿に乗せてしまえます。バランスもよく、忙しい朝には何より洗い物が少なくて楽です。
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# by zuzumiya | 2010-03-01 09:57 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

家族の味覚を作っていることの覚悟と自負を持ちましょう

料理好きの祖母に育てられた私は、様々な手料理を食べて育ちました。毎日のお味噌汁も、運動会の巻き寿司も、ほどよくしんなりした白菜のお新香や沢庵も、大正生まれにしてはハイカラなスパゲティミートソースも、お萩も草餅もおせち料理の数々もみな美味しかったけれど、台所に立ってその一つ一つを教えてもらう前に祖母は70歳で逝ってしまいました。暢気に食べるだけ食べて、作り方は分からずじまいなので娘に教えてやることもできず、料理というものも死んであの世に持って行くものだと思い知りました。それでも、舌だけは繰り返し食べた祖母の味を覚えていて、売り物の巻き寿司を頂いてもどこか物足りなさが残ります。人の記憶がどんなに薄れても、育てられた味覚だけはゆるぎなくあり、人生の最後まで口にするものに美味しい、まずいの区別をはっきりとつけていくのです。味覚こそ大いなる財産と感謝しつつ、祖母の料理に追いつこうと励む毎日です。


※石垣りんさんの「儀式」という詩にあるとおり、母親は娘に包丁を持たせて料理の何たるかを教えなくてはならないのでしょう。この心がけでまな板の前に立っているかと母親である私は反省してしまいます。一読あれ。
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# by zuzumiya | 2010-02-27 00:26 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

今日から「ストレスはない」と決めてしまいましょう

はっきりと病名がついたとたん、人はそれを受け入れ、落ち込んでより病人らしく振る舞ってしまいます。自己暗示にかかりやすいのが人間なのです。ストレスは私が子どもの頃にはない言葉でした。精神的な圧迫感、不快感にストレスと名がつけられてから、すべての病気や不調の原因としてストレスは認識され、蔓延してきました。しかし、悩みや不安や怒りなどストレスの素は、人がこの世に一人で生まれ一人で死んで行く絶対的な孤独と、それでも人を求めて一人では生きて行けない矛盾とを思えば、どうしようもないもの、生きているうちになくなるはずなどないものだと思えます。ストレスこそ生きている証拠たりえるもの、人生にあって当たり前のものです。当たり前なのだから騒ぐことなく、特別なストレスなどないのだと頭を切り替えましょう。これからは「ストレスはない」と決めてしまいましょう。自己暗示をかけるなら、良い方へ持続的にかけるのです。
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# by zuzumiya | 2010-02-26 09:06 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

宮沢賢治 『よだかの星』

a0158124_028187.jpg44歳にして、『よだかの星』で宮沢賢治にやられてしまった。
いつだったか国語で『春と修羅』を習ったような気がするが、学校の授業というのはどうなのだろう、あのときはなぜか宮沢賢治を好きになれなかった。
でも、人生のなかで出会うべきものには遅かれ早かれきちんと出会い、向き合うことになるのだろう。この法則はほんとうに私を深く安心させる。
よくも考えず手放した宝石が巡り巡って私の手元に帰って来たかのような感動がある。
私にとって、賢治は思春期でなく、思秋期の今だったということだ。でも、なんだかそれでいいと思う。その方が賢治をずっとよくわかる、ずっとよく心で噛みしめることができると思っている。
しかし、44歳が日暮れ時に童話の一編を読んで、ほろほろ泣くのであるから、人生は面白い。生きてみなければわからない。

『よだかの星』
なんというか、せつなく悲しい話だった。
どうしようもなく、とことん孤独な話だった。
そして最後に、やはりこれは美しい話だと思った。

賢治の文章のそこここに、これでもか、これでもかというくらい徹底的によだかを孤独へ追いやる描写があって、むおむおと胸が押される。
よだかは醜い器量で、鳥のみんなに嫌われている。本当は「美しいかわせみや、鳥の中の宝石のようなはちすずめの兄さん」として同種の鳥なのに、

「はちすずめは花のみつをたべ、かわせみはお魚をたべ、よだかは羽虫をとってたべるのでした。」
と賢治は容赦なく書く。羽虫か…、と読んでいる私のこころはなおも俯いてしまう。
そして、鷹の言いようも酷い。

「たとえばおれは、青いそらをどこまでもとんでゆく。おまえは、くもってうすぐらい日か、夜でなくちゃ、出てこない。」

なにかもう、器量云々を超えて、すべてに嫌われ、見放された重苦しさが襲ってくる。
まるで、おまえは、間違ってこの世に生まれてきた、と言われたみたいに。
そこに追い打ちをかけるようによだかが飛んでゆく風景描写が書かれる。それは、単に夜になっていく描写なのだけれど、よだかが飛ぶと、不吉なこの世の地獄に見える。
そら恐ろしい夜を好んで飛ぶ鳥なんて、鳥じゃない、不吉そのものだと徹底的に鳥たちに嫌われる要素がここにもある。

「もう雲はねずみ色になり、むこうの山には山やけの火がまっ赤です。」
「よだかがおもいきってとぶときは、そらがまるで二つにきれたようにおもわれます。」
「雲はもうまっくろく、東の方だけ山やけの火が赤くうつって、おそろしいようです。よだかはむねがつかえたようにおもいながら、またそらへのぼりました。」

この「むねがつかえたように」なるよだかの気持ちは手に取るようだ。きっと鷹の言葉を何度も何度も反芻して、この暗い世界を飛んで生きるしかない自分は、疑いようもなく、寸分違わず、まったくその言葉通りの要らぬ存在なのだと思い詰めたにちがいない。

甲虫をよだかは二度飲み込むが、一度目に飲み込んだ時、なぜか背中がぞっとして、二度目にはのどにひっかかってばたばたする。その固い異物感、そして腑へ落ちて行った後の静かな時間。その哀しみ、虚しさがなんだか体感としてよくわかる。そして、ついに大声をあげて泣いてしまう。

「ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、まいばんぼくにころされる。そしてそのただ一つのぼくがこんどはたかにころされる。それがこんなにつらいのだ。ああ、つらい、つらい。ぼくはもう虫をたべないで飢えてしのう。」

醜いと蔑まれ、存在価値のないとなじられる自分自身でさえ、身一つ生かすためには幾匹もの虫をただ殺さねばならない。それなのに、鷹は無理難題を言いつけて面白半分に自分を殺そうとする。このどうしようもない力のからくり、生きるということのゆるぎなさ、救いのなさにつくづく嫌気がさしたのだろう。何ものをも、もうその存在を傷つけたくはない、そのたった一つの生を奪いたくはない、よだかはそう思ったにちがいない。

赤く燃えた山やけ(山火事)を登場させた賢治の感性は素晴らしい。
この赤はよだかの飛ぶ夜の空の不吉さを醸し出しているのと同時に、よだかの生きざるをえないこの世というものの酷さをも表し、よだかの芯にたぎる怒りでもあり、生命力でもあり、弟のかわせみの感じる悪い予感でもある。挿絵の赤が目に刺さる。

賢治の筆の厳しさはさらにこちらをへこませる。
よだかが死を決意して「やけてもいいからつれてってください」と星々に願い出ているのに、星々すら冷たい断り方をするのだ。
特に鷲の星は底意地の悪い人間のようだ。

「星になるには、それそうおうの身分でなくちゃいかん。またよほど金もいるのだ。」

しかし、よだかは諦めず、弱りながらも飛んで行く。諦めずとは悲しいかな、死を諦めず、なのだ。なぜなら、「わたしのようなみにくいからだでもやけるときには小さなひかりを出すでしょう。」とよだかは健気にも信じているから。

このよだかの死ぬために繰り返される努力たるや、すさまじい。
賢治も何十行にも渡ってここをしっかりと書き込んでいる。このよだかの飛翔の努力が行を追ううち、生きるための努力のように錯覚してきて、でもそうだった、死ぬための努力なのだった、とあらためて気がつくとき、胸は震え、よだかの叫び声の「キシキシキシキシキシッ」が鋭い錐のように胸に突き刺さってくる。
これほどの健全さで、生命力漲る強い飛翔の力を持っていて、しかも、醜いからだでも放つことのできる光を信じるような美しい魂を持つよだかが、今どうしても死のうとしていることへの理不尽さ、もはやこの世にはその死を誰も止められないことへの無力感、無情さに、本当に胸がえぐられるのだ。
賢治はよだかの飛翔で生命力を繰り返し書き込んで、こんなにも惜しい尊いひとつの命を生かすのではなく死なせてしまうことで、差別と偏見の恐ろしさを語った。

よだかの、光になるため死んでいく痛ましい努力と一途な想いに対して、どんな言葉がふさわしいかといえば、やはり「美しい」しかないだろう。
醜いと嫌われていたよだかが、きっとひそかにもっとも憧れていただろう言葉、
「美しい」を捧げたい。
死にゆく姿ではなく、死に臨んで最後に見せた生きて飛ぶ真摯な姿がどれほど眩しかったか、美しかったか、よだかに語ってやりたくなる。
地上の誰もが、そして、天上の星々すら誰もよだかを助けなかった。
よだかはひとりで飛んで、ひとりで逝って、ひとりで星になった。
よだかがその後どうなったのか、そして天上によだかの美しい星がきらめいてあることを、結局、地上の鳥たちは永遠に見ることはないという虚しさ。
あのよだかの持つ生命の本来の美しさを、生きてきた日常において、ひとひかりも輝かせることなく、誰もそこを見ようとも知ろうともせず、よだかが死に向かうことでしか、生命のありのままの美しさを発揮できなかったことが、厳しくもあり、しみじみと悲しい。
死ぬことでなく、生きることでこそ、あの凄まじい飛翔をさせたかった、と切に思う。
たとえ、星になって永遠の命として輝くのだ、という理屈があるにしても。

「そしてよだかの星はもえつづけました。いつまでもいつまでももえつづけました。
今でもまだもえています。」

この余韻に、心がしんとする。
人の心がときに暗闇に覆われるとき、
その奥の奥に、よだかの星がひとつ、きらめいてあってほしい。
そのひかりがたとえ、弱々しくも小さくとも、燃え続けてありますように。
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# by zuzumiya | 2010-02-25 00:29 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(4)

台所で立てる音はやわらかに、まろやかにを心がけましょう

休日に体を壊して家事を夫に頼み寝ていたら、ふいに台所の音が気になりました。幸田文に「台所の音」という随筆があります。父露伴に教えられた、鍋釜や瀬戸物などの当りの穏やかさ、動き回るその気配の優しい気遣い。病気で寝て、客観的に台所の物音や気配を感じてみて、ようやくこれだったのかと思い知りました。食器への水当りの音、水切り籠へ置く時のかち合う音、棚に仕舞う皿の音、ガラス戸の開け閉め、極めつけはペットボトルを踏みつける音…。夫が怒りに任せて荒々しく家事をしているのではないか、あてつけではないかと思ったら、ふと心細くもなりました。同時に、台所に立つ私によく息子が後ろから「何、怒ってんの」と声をかけてきたことも思い出しました。露伴が父なら私の荒っぽさはもはや勘当もの。文さんは後に「台所」という随筆で女の心の業をこなす場所、教室だったと書き残しています。自分の立てる台所の音は心の波の音と解釈します。


※お皿の当たるカチャンという音は意外に響くものです。静かにていねいに置きましょう。こういうことの一つ一つが人のやさしさにつながるそうです。
※洗い物を楽しくするためにハミングを口ずさむのもいいものです。台所から流れてくるお母さんのハミング。聞いている家族も穏やかな気分になれそうです。
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# by zuzumiya | 2010-02-23 07:31 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)


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