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ふだんの暮らしに息づいているたいせつなもの、見つめてみませんか?


by zuzumiya
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大事なことですが、とても照れる話をします。夫はわりと子煩悩で、誘われるままゲームをしたり、こたつに入って娘と仲良く話込んだりしてくれます。子どもにジェラシーを感じているようで変ですが、ある日、あまりに自分だけが夫から放って置かれて少し寂しくもなったので、ふざけて夫にキスをしてみたのです。そのときにふと「ああ、自分だけがキスというものを自由にしてもいい存在なんだ」と気がつきました。考えてみると実はとても特別なことで、恵まれていて、尊いことなのだと思います。相手が生きていてそばにいてくれるからこそ、妻であるからこそ、気まぐれに笑ってしても許される行為なのです。他人にこうはいきません。欧米の文化ではないので、ともすると、キスや触れあいの大切さを忘れやすく軽んじやすくもなりますが、人は愛する誰かに、特別なことのできる特別な存在なのだということ、その恵みと誇りと喜びをきちんと憶えておきたいです。
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# by zuzumiya | 2010-02-07 12:39 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)
立春を過ぎました。先日覗いた婦人服売り場は、とうに春が来ていて、服の布地も色味も薄くなって、マネキンたちは卒業、入学用のスーツを晴れやかに着こなしていました。そんななか、売り場の隅にはエプロンも並んでいました。そのエプロンも明るい色や柄のものがとり揃えられており、見ていると気持ちが弾みました。エプロンはいわば家の中の仕事着なので、洋服ほどには気にかけない方も多いかと思います。でも、冬場はエプロン一枚のあるなしでお腹と腿の暖かさがだいぶ違いました。外出しない日は、気がついたら一日中エプロンをしていたこともあり、思いのほか活躍してくれました。そのエプロン、洗濯をしてみてわかったのですが、意外とシミがついていたり、漂白剤が飛んでいたり、糸がほつれていたりするものです。たまには洋服よりもエプロンにこだわってみませんか。新調して、溌剌とした気分で、軽ろやかに春の家事をしましょう。
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# by zuzumiya | 2010-02-05 16:37 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)
買い物に行く途中、住宅街を通るとそこここで、ぴちゃん、ぴちゃんと小さな水音が聞こえます。先日、東京にも降った初雪の雪解けの音でした。雨の音とも違い、雪解け水の滴る音は、雪国でもないのにぐっと春めいて新鮮な気分にさせてくれました。庭の梅のほころびにも自然と目が行きました。小学生の賑やかなお喋りの声、道端の固い雪を無邪気にカシャーンと蹴飛ばす音、それに驚いたヒヨドリがきぃきぃと鳴き騒ぐ声、どこかのお宅から珍しい木琴の音、空の高さを教えるような遠い飛行機の音。聴覚が敏感になると視覚にも働きかけて、気がつけばいつもの街の風景の中に、春の兆しを懸命に探していました。時にはヘッドフォンをはずして道を歩いてみましょう。音楽だけに囲まれていることも閉じた世界なのかもしれません。今ここに流れている様々な音、暮らしの音、季節の音に耳をあずけて、見過ごしていた風景やあらたな風景を初々しく発見してみませんか。
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# by zuzumiya | 2010-02-04 10:06 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

憧れのふゆごもり

a0158124_2261861.jpg『ぽとんぽとんはなんのおと』(神沢利子・作、平山英三・絵)には、もわっとするほどの温かみを感じてしまう。かあさんぐまの大きな横腹の体温、そこに寄り添うこぐまたちのやわらかい毛、呼吸するたびにそれぞれの山が静かに上下する。こぐまが伸びをして見せるまだ肌色の足裏にはやわらかく皺になったところにうっすら土がついている。少し冷たく黒々と湿っている鼻、その鼻先で呼吸と共にかすかに震える落ち葉。狭い穴ぐらには三匹の匂いとしっとりとした土の匂いが満ちている。
自分たちの体温と息だけで温かく湿っている穴蔵はなんと落ち着くことだろう。そんな穴蔵で「おっぱいをのんではくうくうねむって」大きくなったふたごのこぐまが、ふと目覚めたときに耳にした外の音、春への足音をかあさんぐまになんども尋ねるお話だ。
この外の音の聞こえてくる感じの距離感が妙に親しいのは、たとえば、温かなふとんの中にいて半睡半醒のまどろみの中で耳にしているあの音の感じと同じだからだろう。「聞こえる」というのは、周りがではなく自分の内部が静かになっていてはじめて「聞こえる」ことなのだと思う。私がこうして今、静かになっていられるのは、まさにこの本の醸し出す平和な空気のおかげだ。
本の中のこぐまたちも周りではなく自分たちが穏やかにゆったりと静かであるからこそ、雪降る夜のしみ入るような静けさに気がつくのである。そして、こぐまたちを安らかに静かにさせているのはかあさんぐまの体温と匂いと「ふたりともかあさんにだっこであさまでおやすみよ」という語りかけである。本を読んでいると、母親である大人の私でもすんなりこぐまになっていってしまう。
大きくて温かく湿ったかあさんぐまにぴたっと寄り添って、かあさんぐまの肌の下の血の流れでなんだかむず痒くなってしまうほど、鼻の穴にかあさんぐまの毛まで吸い込んでうつらうつらしていたい。いとしいものにはこれぐらいくっついていたいのだ。そして「なんのおと?」とたまに尋ねては、かあさんぐまの教えてくれる外の世界を想像する。
今はまだかあさんぐまの体温や匂いから片時も離れたくはないけれど、春になったらちょっとだけ外を歩いてみようかな、などと思いをめぐらす。そして微笑みながらまたいつのまにか寝入ってしまう。ああ、いいなあ、ふゆごもり。いとしい人とする休日の朝寝のよう。

a0158124_2264788.jpg『たのしいふゆごもり』(片山令子・作、片山健・絵)には、おっとりした暮らしの温かみがある。ふゆごもりの準備のために費やされる晩秋の森での豊かな時間が美しく愛らしい絵で描かれている。本を見ている私もいつしか一緒に森の落ち葉を踏みしめて秋の匂いを吸いながら歩いていくことができる。
ベッドにひとりで眠れないこぐまのために、ぬいぐるみを作ってあげる約束をしたかあさんぐま。翌朝こぐまが目覚めてみると、オーバーを羽織ったかあさんぐまは「雪が降ってくる前にふゆごもりの仕度をしなくては」と、こぐまを急かして森へ連れ出す。揃いの青いオーバーを着たくまの親子が、白い息を弾ませながら山の斜面を下りていく見開きの風景はいつ見ても清々しく、心が浮き立ってくる。

木の実とりではリスの親子に、蜂蜜とりではおじいちゃんぐまに出会う。川ではかえるの親子と魚をとり、綿畑ではやまねの親子と綿つみをして、最後はきのこをとりながら家路につく。夕ご飯には大きな魚や木の実やきのこで作った料理がたくさん。そして、かあさんぐまはこぐまの小さくなったオーバーでぬいぐるみと新しい枕を作る。今日出会ったかえるやリスやおじいちゃんぐまややまねの形をしたぬいぐるみが出来上がり、親子は満足して蜂蜜入りのお茶を飲む。
窓の外には冬を知らせる初雪。ページを捲ると、見開きでしんしんと降る雪の夜の静かな風景。玄関の扉を開けて黄色い灯りの中に棒立ちになって雪を見つめるくまの親子がいる。この見開きは、ほんとうに美しい。私の心も暗闇のこちら側でうっとり佇んでいる。雪にただこの世界を包まれていく、この静寂、この充実、この安らぎ。
暖炉の前で居眠りをしてしまったこぐまは、ふと気がついて「さっきはねむっちゃった。でもこんどはずーっとおきてようね」とぬいぐるみに話しかける。でもそんなこぐまも、この何もかも満たされた静かな雪夜には、どんなに頑張ってもじきにとろとろと寝入ってしまうんだろうな、と思わせる。ちょうど、クリスマスや大晦日の晩のこどもたちの可愛い挑戦のように。

『たのしいふゆごもり』の中には自然の恵みが充ち満ちている。それは木の実や蜂蜜などの収穫物だけをいうのではない。そもそも「ふゆごもり」をするいのちの体内時計のありかたそのものが、もうまったくの自然の恵みだと嬉しくなる。深まりゆく秋の森の中で、昨日まではいつものように暮らしていたはずが、今朝からは「ふゆごもり」に向けて準備を始めなくてはならないとわかるその境目とはいったい何なのだろう。
陽のやわらかさ? 踏みしめた落ち葉の湿り気? 朝の空気の冷たさ? 空の色? 雲のかたち? 木肌のざらつき? 自然の中で生きているあまりにも動物的な、細やかでいてしかも大らかな感性としか言いようがないもの。私たち人間が持っていたのに忘れていく、薄れていかざるをえない感性。
私がこんなにも「ふゆごもり」に憧れるのは、それが、いとしいものの温もりと匂いに満ちた平和な閉ざされた世界であること、そしてその中でこんこんと眠ることがただの自然の営みで、生きていくための本能でしかないことの、そのこのうえない幸福にあるのだろう。
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# by zuzumiya | 2010-02-03 22:08 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)
長田弘さんの詩の中に「いつからだろう。ふと気がつくと、うつくしいということばを、ためらわず口にすることを、誰もしなくなった。そうしてわたしたちの会話は貧しくなった。うつくしいものをうつくしいと言おう。」という文があります。この「うつくしい」を「愛する」に替えると勇気がわきます。歌の中ではよく使われているのに、実際の会話で口にすると照れくさく、残念なことに頻繁に口にする人ほど嘘くさくて、浅薄な印象を人に与えてしまうようです。「愛する」という言葉ほど、国語辞典以上にそれぞれの心の中で意味深長なものも珍しく、大切にしたい言葉なのでしょう。私は単純に「心から大切に想うこと」と理解しています。もっと素直に惜しげもなく、でも初々しく「愛してる」と言おうと思います。「愛する」の解釈で人とぶつかっても、互いを深く知るチャンスですし、迷いながら人と関わって生きて行くことが、人生の滋味になると思うのです。
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# by zuzumiya | 2010-02-03 10:22 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)
昔撮ったホームビデオを整理しながら、家族で見る機会がありました。特別なイベントを撮ったものより、家族がこたつに入ってお喋りしているような、ふだんの何気ない生活を撮ったものの方が不思議に愛おしく心に沁みてきました。見終わってすぐに夫に「今まで一緒にいてくれてありがとう」と耳打ちしてしまいました。昨今の離婚の多さに「子はかすがい」がもう死語になりつつあるのかなと思えます。だとしたら、ビデオに映っているあどけない子の姿は、それをほほえんで見守る夫や妻の姿は、あの頃の家族の和やかな時間はどうなのでしょう。ビデオを見た直後に、私がとても素直な気持ちで夫に感謝でき、夫婦二人ともを頑張ったと思えたように、これも「かすがい」になりえるのではと思います。時には家族で昔のビデオを見て、歩いて来た道と大事に育んできた絆を、笑いながらそれぞれの胸でそっと確かめあうような、そんなやさしいひとときを持ちましょう。
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# by zuzumiya | 2010-02-02 06:53 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)
a0158124_22175889.jpgちょっと独特な純愛?映画だった。でも、いろいろと考えさせられる映画はいつだって好きだ。原作は『百年の孤独』『予告された殺人の記録』などで有名なガルシア=マルケスの同名小説。

若い頃、一目惚れしたお嬢様フェルミナと何とか文通にこぎつけて、さあ、結婚というときに「幻想だった」と心変わりされて振られてしまった男、フロレンティーノ。でもこの男、失恋してもあきらめきれず、彼女に見合う男になろうと社長にもなり、その間、彼女は命の恩人の医者と結婚し、子どもも生み、そんな彼女の人生を胸を痛めながら近くでずっと眺めてきて、なんと51年9ヶ月4日目、彼女の夫が死んだ葬式の日に現れて、これほど長い年月、あなたを想い続けたと告白する。

何かこれだけ書くと、純愛そのものという感じなのだけれど、でも、この男、彼女を忘れるために、51年9ヶ月4日の間、622人もの女性と関係を持っている。ここが奇妙で独特。どんなに女性と肉体関係があったとしても、心は彼女のものであって、だから自分は純潔だという論理なのだ。葬式の日に現れて、とんでもないことを言い出すから、彼女に一喝されるが、あきらめずにまた手紙を送る。詩人気質のフロレンティーノだから、結局その文才にほだされて彼女は彼と再会する。娘に老人の恋を汚らしいと蔑まれ、ふたりは船旅に出る。
その船旅でのフェルミナのセリフが実によかった。
リアリティがあって、結婚の真髄を語っていると思う。

「フナベルはいい夫だった。彼以上の夫は想像できない。でも、振り返ると彼との結婚生活は喜びより問題の方が多かった。口論ばっかりだったわ。怒りの日々…」
「信じられないわ。あれほど長い年月幸せに暮らせたなんて。あまりに多くの問題に悩み、ケンカばかりしながら…。しかも本当に愛しているかどうかもわからないまま。」

結局、ふたりは結ばれる。なんと53年7ヶ月11日ぶりに。

a0158124_22164869.jpg先日直木賞をとった白石一文の『ほかならぬ人へ』を読んだとき、何となく複雑な気持ちになった。お騒がせな小説だとも思った。結婚相手、人生を共にする相手がほんとうに私にとって「ほかならぬ人」なのかどうか、映画のフェルミナのようにわからないまま進んできてしまって、それでも山あり谷ありの夫婦の歴史はできて、振り返ればそれなりに幸せだと思えて、でも、何となくこの疑問はいつまでも心に引っかかってしまう。時に希望のような光さえ帯びて。



「この世界の問題の多くは、何が必要で何が不必要かではなく、単なる組み合わせや配分の誤りによって生まれているだけではないだろうか。これが必要な人にはあれが、あれが必要な人にはそれが、それが必要な人にはこれが渡されて、そのせいで世界はいつまでたってもガチャガチャで不均衡なままなのではないか。」

「ベストの相手が見つかったときは、この人に間違いないっていう明らかな証拠があるんだ」
「それ本当?」
「たぶんね。だってそうじゃなきゃ誰がその相手か分からないじゃないか」
「だからみんな相手を間違えてるんじゃないの」
「そうじゃないよ。みんな徹底的に探してないだけだよ。ベストの相手を見つけた人は全員そういう証拠を手に入れてるんだ」
(中略)
「ほんとは二人ともベストの相手がほかにいるんだ。その人と出会ったときは、はっきりとした証拠が必ず見つかるんだよ。」
「だからさ、人間の人生は、死ぬ前最後の一日でもいいから、そういうベストを見つけられたら成功なんだよ。言ってみれば宝探しとおんなじなんだ。」
                     
                       (白石一文『ほかならぬ人へ』より)

実はこの本を読む少し前、問題のつきない自分の結婚について、思いを巡らしたときに、ふと、もしかしたら私と夫は結婚で家庭を一緒に築いていくペアではなくて、一緒に仕事をやるべきペアだったのではないか、と思いついたことがあった。まさに、白石さんが書いたように「組み合わせが違うのではないか」と思っていたのだった。と同時に、以前、ソウルメイトについて書かれた本を読んだとき、あてはまると思った「この世において共通の問題を一緒に乗り越えるために結婚する運命」のペアのことも思い出してもいた。
そして、また、趣味が合う程度では結婚に至らないという、まさにベストの相手へ向かって選り好みするばかりに結婚が決まらない婚活の現状の話も思い出していた。

53年7ヶ月11日もの人生をかけて、もはや老体となってまでも、ベストと思った相手を慕い求めて、ついには愛を叶えた男、フロレンティーノ。彼にとってはベストなのだろうが、それは彼の側から見た純愛物語であって、フェルミナにとっては果たしてどうなのだろう。その後のふたりは人生の終末に向かって、ほんとうに満足して暮らしていけたのだろうか。「彼以上の夫は想像できない」と言いきった彼女は彼をどこまで愛せたのだろう。純愛というより、実は猛烈なる片恋の物語なのだろうか。人というのは、心が見えないばかりに、結局は、どちらかがより多く愛してしまうような不均衡な関係しか結べないものなのだろうか。(まさに白石さんの言う「配分」の問題)それでも幸せだと思う時、見返りという均衡を求めない愛こそが、純愛なのか。愛されるより、愛することのしたたかな強さを思い知る。

私にもどこかにまだベストの相手がいるような、フロレンティーノのような徹底ぶりに至らなかったという気にもさせられるし、白石さんのいうそのベストの相手のゆるぎない証拠とは何だろうとも夫を頭に描きながら考えるし、そんなことばかり浮ついて思っていたら、実際の日々の結婚生活でなれる幸せにもなれないような、そんな気にもなる。
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# by zuzumiya | 2010-02-01 22:27 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)
a0158124_10505310.jpg遠く遠く、天上で風が舞うようなかすかな音から始まって、からころとピアノの単音がゆるやかな風に吹かれた風鈴のようにおぼろげに鳴り、ゆらゆらてらてらとした音と光の波間を作り出していく。そこへ重厚なシンセサイザーの、世界を切り開いていくような圧倒的な強さと広さのメロディーが押し寄せる。
BRIAN ENOのアルバム、『ANOTHER GREEN WORLD』の11曲目、「BECALMED」。
おんぼろのステレオでこれを聴きながら、あのときのわたしは家の中から見えた電信柱の先っぽの三角帽が西日にきれいに輝いているのにうっとり見とれていた。高校1年の頃。傍らには祖母がいて、たしか針仕事をしていた。

「おばあちゃん、きれいなんだよ。ほんと、これを聴いているとねえ、世界がいつもと違って見えるんだよ。ほんとにすごいんだから、わかるかなあ?」
「……」
「あそこに電信柱の先っぽが見えるでしょ。あの何でもない電信柱が、この曲聴いてるとね、すんごくきれいに見えるんだよ。西日が当たってね、やわらかく輝いている感じが、神々しいっていうか、ほんとにきれいなんだよ。何でもない風景が一瞬で変わって見える。音楽ってすごいねえ」
「ふう〜ん、そうかねえ……」
それでも、祖母は手を止め、孫が熱く語るその電信柱の光る先っぽを見ようと腰をあげてくれた。

いま思い出すと少しせつなく、そして笑ってしまう。
なにせ、あのBRIAN ENOの、それも実験的な『ANOTHER GREEN WORLD』を大正生まれの祖母とふたりで聴いていたのだから。あのあと、わたしは大胆にも音楽評論家の立川直樹氏へENOに渡してほしいとファンレターを書いて送ったのだった。たしか、ENOの音楽を聴いているとスーパーのビニール袋が風に舞い上がったのすら美しく見える、とかなんとか書いて。でも、立川氏はちゃんと返事を下さった。ENOの住所はわからない、と。たぶん、ENOにティーンのファンがいることにかなり驚いたと思う。でもそのおかげ、かどうかは知らないけれど、高校3年のときにENOが日本に来て、ラフォーレ赤坂で講演を行った。笑えるけれど、ほんとの話だ。

いまCDでこの「BECALMED」を聴いていると、不思議な感慨を覚える。
あのとき、祖母はどんなふうな気持ちだったろう。音楽を聴いて電信柱の先っぽがきれいに見えるなんて、わけのわからない事を言い出す孫に、何か少しでも不安はなかっただろうか。10代でENOなんかを聴いて、世界が美しく見えるなどと思ってしまったばかりに、あれからわたしは祖母から、家から、従順な子供の時代から、どんどん離れて行ってしまった。あの電信柱の光る先っぽはほんとに人生の分かれ目だったのだ。あんなものが美しく見えてしまったばっかりに、わたしは祖母の望む堅実で安全な人生を歩めなくなった。県内でも優秀な語学の高校に通っていたのに、周囲の反対を押し切って、大学は180度違う芸術学部を選んだ。祖母に高額な授業料を出させ、そして、男に猛烈な恋をし、家へは帰らなくなり、一握りの者しか成し得ないような夢を見て浮き足立ち、しなくてもいい挫折を繰り返した。

それなのに、息子が芸術の道へいま行こうとしている。
そもそも創(つくる)と名付けた息子だ。わたしと夫の血を分けた息子だ。しかたがないと言えばしかたがない。応援はする。しなければならないだろう。
それでも、彼の前には茨の道が続いていることはわたしにはよくわかっている。やさしくて素直な家族思いのあの息子が、これから幾たびも訪れる精神の挫折に耐えていけるだろうか。わたしが味わった、いや40を過ぎた今このときだって噛みしめている苦い思いを息子にも味わわせることになるかもしれないのに、わたしはそれがわかっていて、ほんとに息子にその道を歩ませてしまってもいいのだろうか。背中を押してしまっていいのだろうか。

「俺さあ、インストゥルメンタルの方が好きかも。だって、音楽聴いていて、いろんなイメージが湧いてくるんだもん」

芸術の道へ行くのだからと、健気にも息子はいまあらゆる音楽を聴こうと張り切っている。そんな彼にわたしは、BRIAN ENOのいくつかのアルバムを手渡そうとしている。

「これを聴くとね、世界ががらって変わって、きれいに見えたんだよ。高校1年の頃かな、電信柱の先っぽが西日に輝いてね……」

『ANOTHER GREEN WORLD』の11曲目。
「BECALMED」の風の音が9階の窓辺に、わたしと息子のふたりの世界に静かに流れ出す。目に浮かぶのは、あの日の祖母とじぶんの姿だ。見える世界が変わってしまったように、ここからわたしも変わってしまった。あの日の祖母はたぶん、なにも予想していなかっただろうが、わたしにはわかる。息子もきっと変わっていくだろう。遠く手の届かないところへここから旅立つ。
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# by zuzumiya | 2010-02-01 10:53 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(3)
それぞれの家庭で習慣や決まり事があるように、文化もあると心に置いて暮らしてみてはいかがでしょう。例えば、本棚にはどんな本が並んでいますか。CDやDVDの棚にはどうですか。家族のアルバムや写真は置いてありますか。情報はどんなものから得ていますか。筆記用具はどこに置いてありますか。壁に棚に何か飾られていますか。花や植物はありますか。ペットはいますか。カーテンの柄や部屋の灯りはどんなですか。季節のものは置いてありますか。楽器や家族の趣味のものは置いてありますか。手作りの品、オリジナルな品はありますか。夕食後や休日の家族はどんなふうに過ごしていますか。テレビやラジオはどれぐらい使用しますか。などなど、あらためて見回してみるといろんなことに気がつくと思います。我が家というリラックスできる場所だからこそ、衣食住の中に精神的で創造的な刺激やひらめきを得られるように、日々の暮らしを整えておきたいものです。


※子どもの小学生時代に懇談会で聞いたお話です。あるお宅は「読書の日」というのを決めて、その日は夕食後はテレビをつけずに、家族みんなでのんびり好きなものを読むのだそうです。あるお宅は年末に必ず、家族みんなで映画館に映画を見に行くそうです。どちらも素敵ですね。
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# by zuzumiya | 2010-02-01 00:00 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

じゃがいもとわたし

a0158124_11255253.jpg『いま、きみにいのちの詩を 詩人52人からのメッセージ』という本の中に武鹿悦子さんという詩人の「白い芽」という詩がある。






白い芽

使い忘れてダンボール箱の底に残っていたじゃがいも
干からびてお婆さんの握り拳のようになり
皺のあいだに三つ、四つ、
つぷっとまるい
白い芽を覗かせている

湿り気もなく
季節の温度も伝わってこない箱のなかで
ゆっくりと自分の時計に合わせて
芽をふいたじゃがいも
自分自身を養分にして伝える
じゃがいもの命

このようにして伝えられてきたのだ、命は
そのようにして伝えられていくのだ、命は


a0158124_11351292.jpgこの詩を読んだときに、はたと思い出したことがあった。
わたしが昔、仕事を辞めることになったとき、当時の課長のN氏がわたしに小さな絵本を一冊くれた。
『にょき にょき』(しまだ しほ作)といって、じゃがいもの話だった。
芽が出たじゃがいもは食べられないからとママに捨てられて旅に出る。はさみやさんに会って伸びた芽を切られそうになっては逃げて、しまうまに会って食べられそうになっては逃げて、ようやく、やおやの店先でざるの上に盛られたじゃがいもを見つけて寄っていくのだけど、「へんなじゃがいもとはおつきあいしたくない」と無視される。あまりに絶望して「死んでやる」とじゃがいもは土にもぐる。そうしてしばらくたって、通りがかったおじいさんに発見されて、土から引っこ抜かれると、じゃがいもがいっぱい飛び出てくる。じゃがいもを家に持って帰って、おばあさんと一緒に喜んで食べるというお話。

当時、わたしは結婚したてで逃げ場があったから、とにかく会社を辞めたい一心だった。それだから、この絵本の意味も、N氏がくれたほんとうの気持ちも、ぜんぜん考えようとしなかった。ただ漠然と、「芽が出なかったなあ」とか「絶望して土にもぐるってところが、今のわたしなんだろうな」ぐらいにしか感じてなかった。
今回、この「白い芽」の詩に出会って、思い出して『にょき にょき』を読み直してみたら、あの頃のN氏のやさしさや励ましが今ものすごくよくわかって、じいんとしてしまった。仕事の面では期待に応えられなかったけれど、そのあと、結婚して子どもをもうけて、子育てしながら勉強して保母にもなれたし、夫への感謝の本も出せた。今思えば、華々しい世界から絶望して土にもぐったけれど、わたしの芽は伸び、茎はすっくと立ちあがり、葉は茂って、いつのまにか人生の収穫がそれなりにあったんだなあ、と思える。
彼はこの絵本を渡しながら、きっとまずは「自分を信じて安心できる場所で静かに時を待ちなさい」と思ってくれていたんだろう。そして「芽が出ることのほんとうの意味をわかりなさい」と教えてくれていたんだ。
芽が出ること。残念ながらわたしの芽は何者かになって成功する方には伸びなかった。でも書くことを通して、じぶんを自由に表現したり、この世界を見つめて喜怒哀楽のぜんぶを噛みしめて、より深く豊かに生きていこうとすること、生きることぜんぶをまるごと受け入れようとすること、きっとそっちの方に伸びていったんだ。
芽が出ること。それはわたしにとって、誰かのために、誰かの笑顔のために、じぶんの良さを生かそうと努力すること、なんだ。

自分自身を養分にして伝える
じゃがいもの命

きっと、人が一人生きて行くことだって、親が子どもを育てることだって、そして書くことだってみんな同じ。わたしという命をまわりの誰かに伝えていくことなんだろう。
生きることに心ひらこう。喜びも悲しみもぎゅっと味わおう。ていねいに生きよう。
誰かの心にも宿る実りを信じて。
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# by zuzumiya | 2010-01-31 11:30 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)