暮らしのまなざし

使う言葉のなかに季節や自然を取り入れましょう。

テレビの園芸番組をのんびり見るのが好きです。街でよく見かける花や庭木の種類や名前を知るのは楽しいですし、ゲストの園芸家のお顔が緑を扱う方らしく穏やかで、でもその手先や説明が職人らしく頼もしいのが微笑ましいです。いつだったか、ダリアの球根の植え方の説明で「八重桜の咲く頃まで暖かい陽射しの当たる日向に出しておいて下さい」という言葉に、はっとしたことがあります。ささいな言い回しなのですが、いついつとは言わないで「八重桜の咲く頃まで」という表現がいかにも園芸家らしく、それでいて互いに通じている関係性が実に素敵だなと思いました。松浦弥太郎さんの「木が香る地図」というエッセイにも、最寄りの駅から自宅までの道案内に建物ではなく、木や花を目印に説明してみてはという提案があり、心が弾む思いがしました。四季のある豊かな風土の日本に生まれたのだから、季節感をもっと日常の言葉や会話のなかに取り入れていきたいです。
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# by zuzumiya | 2010-01-25 01:09 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

杉田久女と宇内

a0158124_10387.jpg「あら、わたしだって長いこと苦労も辛抱もしてますわ、勲章や月給の高いことをのぞむんじゃありません、もっともっと貧しくてもよいから、意義のある芸術生活に浸りたい…」
久女は眼に涙をためていう。宇内も、久女が虚栄からそいうのでないことはわかっている。しかしそのほうが、ほんとはずっと厄介なのだ。
ダイヤや着物や名誉が欲しい女なら対処のしようもあるが、感情の動揺しやすい、自然や人生に何かにつけて昂揚感を味わい感激し、また、どうかするとわけもなく憂鬱になる、そういう、絶えず白熱した発光体を裡にもっているような女が、正面の大手門から堂々と
<意義のある芸術生活に浸りたいのです。平凡と安逸だけを貪るよりも、あなた、さあ、いまからでもすぐ絵筆を持って!>
と攻めてくるのは、男にとってさぞ、やるせないことだったろうと思われる。貧しくても意義のある芸術生活を、というのは、現実では夢のような話で、牛の舌を煮たり夜の川で鰻を釣ったりすることとちがう。
「貧しくても意義ある芸術生活」を送るべく神からその運命を負わされた者は、花咲かぬまま地獄をかいまみた苦しみの末に悶死する、そんな運命が待ち受けているかもしれないのだ。そういう地獄と天国の綱わたりのような人生は、人に強いるべきことではないのだから困る。
何がなんでもその道を選ばなければ生きられないような、限られた人間だけが、その道を<選ばせられて>しまう。人為ではない、巨いなる超越者の手によって。
宇内にはそのへんが見えていたにちがいない。
しかし彼はそのあたりの機微をことこまやかに妻と話し合い、妻の思いこみを訂正し、芸術と実人生の相関関係について論じ合う、という手のかかることを避けている。宇内の怠慢という以上に、それまでの日本の夫婦に、話し合いの伝統なんかないのである。明治の文物は開化したようにみえるが、男と女の共通語が育つ土壌ではないのだ。
            田辺聖子『花衣ぬぐやまつわる……わが愛の杉田久女』より。

画家としての才能を認めて結婚したのに、そこにどうしようもなく憧れを持って惹かれていたのに、九州は小倉の片田舎の中学の図画教師となって、その職に甘んじて一向に絵筆を持たない夫、杉田宇内に対して、久女がこころに巣くわせはじめた怒りの発端がうまく書かれている。夫、宇内とのこういった精神面での齟齬(たぶん、いちばんこの夫婦にとって厄介なところなんだろう)が、やがては久女を俳句に猛烈に駆り立てて行ったのだろう。やるせない。
久女はきっと、そういった芸術一本槍に貫かれた生活を人生の理想として、夫がそれを与えてくれないのならば、自分でその渇きを癒すしかないと思ったのだろうか。自覚はあったのかなかったのかわからないが、俳句と出会って尋常じゃないほどのめり込んで行ったのが、なんだかわたしにはよくわかる。
久女はもともと絵が好きだったし、視覚的な句も多い。つまりはみんな見えて、わかっていた。小倉の自然を間近にして「どうしてあなたは描かないの? この景色が見えないの? 何も感じないの?」と不満に思って、怒って、それがつのればやがては諦めに変わっていく。
自己中心的、勝手な思い込みの女だろうがなんだろうが、久女のこころに思い描いた結婚生活が日々目の前でどんどん崩れていく。そのさまを想像するに、まだ俳句との出会いもなくて子供も抱えていて、自分に何が出来るかなんぞ思いもしなかった頃の久女の心情は、さぞやがっくりときて、絶望的だったろうと思う。
夫宇内の心情にもせつないものがある。妻にやれやれと言われても、自分の才のことは自分がいちばんわかっている。絵で食べていくことの困難さも想像がつく。愛する妻子を抱えて綱渡りするわけにはいかない。そこに宇内の優しさもまっとうな責任感もある。
芸術家であるまえに生活を担う者として、いまあるこの場からなんとか精神の充実をはかっていくしか方法はない。久女が大袈裟に言うほど、絵の世界から全く離れたわけではないのだ。教師となって若き生徒たちに絵画芸術の素晴らしさを教えることは、それなりに意義や充実感がある。自分をほんとうに愛してくれているのなら、いつかはその生き方の素晴らしさを久女もわかってくれるだろうと宇内はどこかで信じていたのではなかったか。
夫婦はたしかに芸術愛好でつながっていたけれど、その奧で芸術への求め方の程度、温度というものがやはり決定的に違っていたのだろう。久女の方がおさまりがつかないくらい熱かった、激しかったのだろう。
この結婚は果たして良かったのだろうか。でも、他のお茶の水の同窓生のように銀行員や官吏との良縁をのんで結婚していたら、そして何不自由ない暮らしのなかで、その上で俳句に巡り会っていたら、久女の句はどんな句になっていたのだろう。
俳句がたしなみ程度のものでしかなく、「生きる術」「心の拠り所」となって久女の人生の根幹を強く貫いていくような唯一無二の激しいものになりえたかどうかはわからない。宇内と不幸な結婚をしたことで、俳句と真に出会い、俳句と真に生き、後生に残るあれだけの名句が生まれたのだと思えば、せつないことだが、これもまた神の見事な手さばきと言えなくもない。
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# by zuzumiya | 2010-01-24 01:04 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

子どもたちの思い出を日々作っていることを意識しましょう。

先日、道を歩いていて、よそのお宅の玄関ドアに見覚えがあるなと思ったら、遠い昔、今はもうなくなってしまった実家のドアでした。幼い頃住んだ家の思い出は誰でもふっと思い出すことがあるでしょう。今でも大工だった祖父の物置にひんやり漂っていた機械油の匂いや、米びつの横の暗がりにごろんと転がっていたすいかや、黒電話が着せられていた花柄のカバーや、水風呂をしながらぼんやり見ていたタイルの模様を憶えています。そう思って我が家を見渡せば、この部屋にあるものすべてが、ベランダから見える風景のすべてが、子どもたちの遠い日の懐かしい記憶となって今、現在進行形で作られているのだと気がつきます。思い出は自然に「なる」より「作っていく」を心に留めておくと、毎日の暮らしに弾みがつきます。何を選んで、どう暮らすのか。何気ない選択の毎日ですが、子どもたちの記憶に「心地のいい家」として、ずっと憶えておいてもらいたいものです。
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# by zuzumiya | 2010-01-23 12:45 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

バトンを渡す

a0158124_055464.jpga0158124_031939.jpg優秀な表現者の人たちには共通するものがある。
自分で作り上げた世界を見せながらも「でもこれをヒントにして、自分たちの生活のなかで自分たちで何かを見つけて下さいね。みんなそういうものを創り出せる存在なんですから」というようなコミュニケーションをとる。そう、バトンを渡すような感じ。
伝えるということの意味を知っている。伝えるとは、人に何かをさせる、行動を起こさせるところまでいって、ほんとうに伝わったといえることを肝に銘じているようなのだ。わたしの好きな永井宏さんも松浦弥太郎さんも、そういうスタンスでもって表現に携わっていることをあらためて誇らしいと思う。
松浦さんはエッセイ『今日もていねいに』のあとがきで、
「おそらく、あなたの心にも似たようなレシピがあるでしょう。今回はたまたま僕が代表して書きましたが、それをカスタマイズしてもっと良いものに生まれ変わらせ、次に発表するのはあなたかもしれません。」と書く。
永井さんも『ボタンとリボン ほんとうにたくさんのロマンティックなこと』という本のまえがきで
「この本によってたくさんの愉快なことが起こってくれればよいと思っています。誰でもが言葉(art)を生みだし、並べたり揃えたりしながら、声を上げるということが、もっともっと普段の生活の中に自然に存在していて欲しいと願うからです。何気ない眼差しの奧に潜んでいる多くの物語を、この本を眺めたり読むことで感じることができるはずで、そこに、喜びも悲しみも、全てひっくるめての、楽しくもしくは豊かに生きるためのコツというようなものの発見がきっとあるはずだと信じています。この本を眺め、共感された方は、自分もまた参加するのだという気持ちで、自分なりの眼差しを頭の中に潜めながら、いまの時代、自分なりのものを作る、表すということはどういうことなのかということを考えて欲しいと思います」と書く。
ちょうど同じ時期にこのふたりの本に出会って、ほんとうに奇跡的な縁を感じた。
まさしく読者は今、バトンを手渡されている。
そのバトンにはひとこと「やってごらん」と書かれている。
伝えるべきものがあって、伝えることができる場所にいる表現者たちはすべて、プロアマを問わず、媒体を問わず、このふたりのスタンスを心の底にそっと持っていなければならないと思う。
そして、受け取ったバトンはいつだって、次の人のためにある。
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# by zuzumiya | 2010-01-22 00:12 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

すべてがダメではありません。人間は本来、開かれた存在です。

人間はとてもうまくできているな、と思います。例えば、どんなに絶望して目を閉じていても、耳は鳥の囀りを拾ってしまうし、鼻はどこからか流れてくる美味しそうな匂いを嗅ぎつけてしまうし、口の中に自然と唾も溜まってしまうし、肌はそよ風がやさしく撫でてゆくのを感じてしまいます。どうやら、人間はこの世界と常に交流できるよう、すべての感覚を閉じきることが出来ないように作られているようです。世界に向かって常に開かれた存在で、開かれているということはそれだけ救われるチャンスがあり、幸福を感知できるということです。うれしいではありませんか。自然と共にあり、一人では生きて行けないという理由がよくわかります。人間の身体の構造からして、八方塞がりなど本来ありえないことなのですから、頭でばかり考えてしまわずに、五感を信じて身を任せること、心地よいと感じる何かを素直にすること、それらで困難を乗り越えていけると思うのです。
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# by zuzumiya | 2010-01-20 08:56 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

プランターひとつぶんの楽しみ。それが「ゆとり」です。

我が家のベランダには、土だけ入れてある小さなプランターがひとつあります。家事でベランダに出るたびに、今度の週末には花を買ってきて植えようと思っているのですが、いざ、その週末がくると何やかやで忙しく、残念ながら花屋をのぞく暇もなく終わってしまいます。そんな繰り返しですが、土だけのプランターを見ては、今度こその決意をあらたにして、どんな花にしようかと考えながら、にこにこしています。まるでこの先に幸せが待っているような、幸せへの切符を一枚握りしめているような、そんな穏やかな気持ちになるのです。ある時、これが「ゆとり」というもので、こういうささやかな「ゆとり」で人はじゅうぶん幸せになれるのだと気づきました。いつでも取りかかれる、そしていつでも幸せな気持ちになれる、そういう自分だけのゆるやかさで楽しみをひとつ持っておくこと。取っておくこと、かもしれません。あなたの暮らしの中にも、きっとあるはずです。
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# by zuzumiya | 2010-01-18 11:58 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

茨木のり子さんの『歳月』

a0158124_9195156.jpg「自分の感受性ぐらい」や「倚りかからず」で有名な詩人の茨木のり子さん。
その作品は、鋭い言葉の直球で軸がゆらがず、凛とした強さでもって読む者に深く内省を迫るようなものが多いが、先日『歳月』という詩集に出会い、今までになく心を揺さぶられた。
この詩集は先立たれた彼女の夫、三浦安信さんへの想いを綴った一種のラブレターであり、茨木さんは夫を見送ってから40篇にも及ぶ詩を書き残していたのだが、生前は「照れくさいから」という可愛らしい理由で出版されなかった。
かの金子光晴を敬愛し、厳しい人、凛々しい人のイメージが強い茨木さんが「ラブレター」だの「照れくさい」だの、似合わないなと思わず微笑んでしまったが、たしかにこの詩集の中には、夫婦であった頃の、ふたりの性愛すらもまっこうから正直に懐かしみ、せつないくらいの愛おしさを込めて綴られているものがあり、生前に出されていたらさぞや恥ずかしくて道も歩けなかっただろうと想像できる。
先日、やはり城山三郎さんの先立たれた奥様との思い出が書かかれた本を読んだが、「新婚初夜にシーツを汚してしまった」という件があって、何でこんなことまで書くのか、妻を亡くしたことが冷徹な作家の筆をここまで乱すものかと驚いたのだが、茨木さんのこの『歳月』を読んでみて、そんなふうに書かざるをえない、書いてしまう途方もない哀しみと孤独がわかった。
つれあいを亡くすことは、もしかしたら自分が死ぬまでの間の、長く狂おしい恋の始まりなのではないかと思う。そしてそれはたぶん、かつて若かりし頃の恋人時代に感じていた恋情の数百倍、数千倍の激しさで、日夜思いもしないところからふいに襲ってくる。
夫がぴんぴんしていて、話すこともケンカすることも触れることもでき、夫の吐き出す息のいくらかを私が吸い込んでいるこの部屋で、今、どんなに想像を巡らしたとてわかることのできない、哀しみの陶酔をもたらすのだろう。
生きているうちに、その恋情の半分も相手に向けられないことの愚かしさ、ともに居られる時間の当たり前のような浪費…。しかしそう思う反面、それが人間の自然というもの、それでいいのかもしれないとも思う。夫婦は片方が死んでから、またあらたな夫婦の恋物語を始めるのだから。身体と心に残された刻印と歴史を時にせつなく愛おしみながら、いつかまた巡り会えるその日を夢見て、孤独を生きる。いつか交わす抱擁の懐かしさと喜びのために課せられる必要な孤独。

どれもこれも胸に染み入るいい作品だが、最後にひとつだけ紹介しよう。

急がなくては

急がなくてはなりません
静かに
急がなくてはなりません
感情を整えて
あなたのもとへ
急がなくてはなりません
あなたのかたわらで眠ること
ふたたび目覚めない眠りを眠ること
それがわたくしたちの成就です
辿る目的地のある ありがたさ
ゆっくりと 
急いでいます

(『歳月』茨木のり子 花神社)
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# by zuzumiya | 2010-01-17 09:20 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(2)

心に「Welcome」の言葉を持って生きましょう。

中島みゆきさんの『誕生』という歌。その中に「わたしいつでもあなたに言う 生まれてくれてWelcome」という詞があります。「生まれてくれてありがとう」にはなじみ深いのですが、彼女は「Welcome」と歌います。その言葉には、どんな想いが込められているのでしょう。母と子の間で交わされる生命への感謝を超えた、もっと大きな想い。例えば、生まれたての小さな人をいま仲間としてこの世界に迎え入れた、この地球上の生命全体からの祝福のような想い。そして、先に生きている者が「Welcome」と言えるためには、この世界が素晴らしく、生きるに値するところだと胸を張って確信できていなければなりません。彼女の歌から、あらためてこの「Welcome」という言葉の精神に気づかされました。いつでも「さあ、どうぞ」と世界に向かって笑顔で手を広げていられるような寛大さ、そうするために自分を整えておく、そうありたいと思います。
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# by zuzumiya | 2010-01-16 13:30 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

ゴンチチと栗コーダー

a0158124_964129.jpg私が随筆を好む理由に「日常の本当を描きつつ、日常を慈しむコツのようなものをそっと教えてくれるから」というのがある。音楽にもそれがあてはまり、平凡な日常の生活を何一つ変えることなく、でも浮き立たせて見せて「そうだったのか」と、ささやかな幸福に気づかせてくれる随筆的なものを好んでいる。
たとえば、休日の午後。
ベランダの洗濯物の家族のパンツや靴下がゆるく風に揺れている平凡きわまりない風景も、そこにゴンチチのギターが流れてくれば、のほほんとして微笑ましい幸福の風景に変わる。BGMというと、音楽そのものが独り立ちできない、力がないかのように受け取られがちだが、実はそうではない。
これぞ、音楽のマジック。音楽をメロディと歌詞の総和として、その世界にどっぷりはまって聞き込んでしまうような音楽を「音楽がメイン」の音楽とすると、ゴンチチは、窓をあけたらリビングに吹いてくるそよ風のように、日常生活にすっと入り込む「日常生活がメイン」の音楽だろう。前者にはリアルな日常を超えてここではないどこかへ瞬時に連れ去ってしまう力があるけれど、後者は、このリアルな日常の見え方をちょっとレンズをいじくって変えてくれる力がある。どちらもすごいが、「パンツ=幸福」に見させてしまう音楽の力、肯定感は、もっともっと評価されるべきだと思う。

a0158124_9125853.jpg「栗コーダーカルテット」のCDに出会った。
小学校の音楽の時間に練習させられたあのリコーダー(唾臭かったな)を大人のおじさんたちが懸命に吹いて、懐かしくも愉快で愛らしい音楽を奏でている。聞き込んでどうのこうのと論評したくなるような「音楽がメイン」の方の音楽ではないけれど、栗コーダーの音楽をかけてみれば、あっという間にこの日常がやさしく、いとおしいものに様変わりする。ゴンチチにしてもこの栗コーダーにしても、映画音楽で使われているのには、そういう「空気をやさしく演出する」ような、ちゃんとした理由があるからなのだ。
街や電車のなかで、若者達が聞いている音楽のほとんどがおそらく「音楽がメイン」
の方の音楽だろうと思う。そういう音楽しか生きていくための助けやエネルギーにならないと思っているのなら、だまされたと思って、たまにはこの手の「日常生活がメイン」の音楽をiPodに入れてふらりと出かけてみてほしい。サラリーマンの寝顔も八百屋の店先も道端の名も知らぬ赤い花も愛しさにあふれて見えるだろう。そういう世界に本当は私たちは暮らしているんだってことがしみじみとわかるはずだ。そして、なんだかうきうきとしあわせな気分になって、この日常の、この人生の主人公は音楽を聞きながら今歩いているこの自分なんだって思えてくれば、この世界も自分もあるがままに肯定して、生きていくエネルギーはもう充電されたってことだ。


※栗コーダーカルテッド『アンソロジー20songs in early 10years(1994-2003)』
 ゴンチチ『GUITARS』
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# by zuzumiya | 2010-01-16 00:40 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

物事を悪くとっても始まりません。良くとらえる努力をしましょう。

目の見えない、耳の聞こえない方々のこの世界の捉え方について、よく思いを巡らします。防音サッシで遮断された向こうに欅の木立が大きく揺れています。この風景を爽快ととるか、不安ととるか、それは見ている者の心一つです。私が見つめているこの世界は、すなわち私の心が見せている風景です。目の見えない、耳の聞こえない方々は全身のあらゆる感知力と想像力で補っていますが、もし、この世界や人間に対して悪く想像していれば、恐怖や不信感のあまり、一歩も外へ出て行くことはできないでしょう。彼らの心の寛大さ、そして日々行っているであろう心を平穏へ導く努力を尊いことと思います。きっと彼らの心根のどこかに、この世界や人間に対して、良きもの、敵対するものでない、という信頼があってくれているのだと思えます。横断歩道で信号待ちをしていた盲人の方の、誰よりも先に踏み出したその最初の一歩が、私にはとても嬉しく、ありがたく思えました。
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# by zuzumiya | 2010-01-15 10:43 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(1)

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