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リラックスポーズ

最近のももちゃんのお気に入りは、ティッシュの箱の紙が出てくるあの隙間に前足を両方ともズボッと差し込んで、しずしずと座ることである。

やめてほしい。








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by zuzumiya | 2017-02-27 22:27 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

キョウコ、どうする?〜れんげ荘シリーズ『ネコと昼寝』読了〜

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やっぱり来たか、という感じで本の嗜好が随筆から小説にがらりと変わってしまいました。エッセイや随筆を読みすぎると反動で小説が読みたくなって、お話のなかにドップリ浸かりたくなってしまいます。それを私は「小説へ逃げる」と呼んでいます。それが昂じると今度はミステリーに手を出します。
昨日、群ようこさんの『れんげ荘』シリーズ読み終わりました。昔はシリーズの2作目の中途で投げていました。生活費の10万という数字、仕事を辞めて暇に向き合う姿、他人との関係、先行きの不安。当時はいろんなことがリアルなようでやっぱりリアルでないような変な中途半端さを覚え「んなこと、続けられるか、ウソッパチ!」と思って本をほっぽり投げたのでした。でも、今は以前とは違う状況下で本を読んでいました。主人公キョウコさんの暮らしぶりにすごく重なる。うちの家庭は夫と息子と私ですが、仕事の関係で平日はそれぞれが外食です。休日は食事を一緒に摂ることもあれば、息子のように遊びに出てしまったりもあります。基本、それぞれの稼ぎから家に貯金というか非常用のお金(公金という)は入れますが、外食はすべて自腹となります。主婦である私も同じ。食事の支度や買い出しなど家事がなくなったことは素直に嬉しいのですが、自分のもの(自分しか使わないもの)はたとえ部屋の芳香剤ひとつ、シャンプーひとつでも公金でなく自腹で買うんです。もちろん、医者代も。それからたとえば、暖かくなって部屋のファブリックを春物に替えたいと思ったら、男どもは「そんなもの必要ない、贅沢だ」とか言いますが、私がそれを押し切って買えば、リビングのものであろうとすべて公金ではなく私の自腹になります。同じ理由で観葉植物も花も食器の皿一枚だってそうです。猫の餌代もそう。そういうキビシイ暮らしをしているので、今回はなぜか1ヶ月10万円のキョウコさんの暮らしぶりに非常にシンパシーを感じてしまうんです。しかもキョウコさんは母親とは元来うまく行っていないし、独身でいるところもちょうど家庭内離婚中でそれぞれが上下に別れて同居人的に暮らしている私の今とあまり変わらない。図書館通いの金のかからない読書が趣味というのも似ています。先日、うちの母が何を思ったか、まあ、淋しかったんでしょうが、「結婚相談所に財産を狙ってこない裕福な男を探しに行く」と電話で鼻息荒く言ってきた時にはガビーンときました。ネタばれになりますが、今回のシリーズ最新刊『ネコと昼寝』の最後にはキョウコさんの母親もちょっと大変なことになってまして、本を胸に抱きながら「お互い、今のままじゃダメだよね。自分のことも母のことも、何とかせねば」とつぶやいてしまいました。というわけで、逃げてきたはずの小説のお話の中でも、現実が炙り出される始末。どよんときている休日です。って、部屋の空気も悪いや。換気!換気!
江國香織さんの新作、出ました。喉を潤す美味しい水のようになってくれるかな。ちょっと読んでみます。



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by zuzumiya | 2017-02-26 08:56 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

エスプレッソとカルピス

予想外に家庭内離婚が長引いているせいで、階下のリビングで映画やテレビが見られず、ここのところ本ばかり読んでいたため、ようやく図書館本が片付いてきた。それでも色川武大のエッセイ、上林暁の随筆集なんかがベッドサイドテーブルには残っている。おあずけ状態の購入本にもちょっとは手を出そうと写真家植本一子の『かなわない』を開いた。以前、興味があって図書館で借りたが、上下二段組のみっちりにあの厚さでその時は根気がなく読了出来なかった。『家族最後の日』と共にあらためて購入して本腰を入れての再読である。が、〈私の撮った写真が遺影になったことが2度ある。〉という出だしからして重たい。暗い。先行きが全く分からない悩ましい家庭内離婚中の私がこのまま読んで行っていいものか、タイミング的にどうなのかと不安になる。それならばと群ようこさんの『働かないの れんげ荘物語』でも読んで、重たいものをのほほんの軽みで薄めてしまえと並行読みを企てた。が、エスプレッソとカルピスを無理やり交互に飲んでいる感じだ。どうなることやら。
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by zuzumiya | 2017-02-20 00:02 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

素直に生きられたら…。

久しぶりに映画館へ行ってきた。一人で。
休日なのに客はまばら。中年夫婦の離婚をめぐるスッタモンダの話だからか、若いカップルは一組だけ。私より年配の夫婦やオバチャン、オジチャンの一人者が目立った。
劇場に一人ちんまり座っていると、よその人の話し声や笑い声が意外と大きく響いてきてびっくりする。私も夫と来ていた頃は、映画が始まるまであんなふうに愉快そうにこれ見よがしに喋っていたのだろうかと頭を過ぎる。「何をそんなに喋っているのやら」「まさか始まってからもその勢いでいちいち隣と喋るんじゃないだろうね」とちょっと意地悪な気持ちになってくる。
で、始まってすぐ目の前の一人者のオバチャンや斜め前の年配夫婦のオバチャンらが監督の演出にまんまと引っかかって、阿部寛のさほど可笑しくもない大袈裟な演技にハッハッハと爆笑しだした。「あーあ。そんなに笑っちゃって」と思うと同時に「素直に生きられていいよなぁ」とも思う。監督はもともと脚本で鍛えた人であるから、ここぞという「泣かせどころ」を心得ていて、私なんかは「来たなっ」と無意味な身構えをしているうちにそこいら中でスッ、スッと鼻をすする音が聞こえてきて、またしても「あーあ。今度は泣いちゃったか」となんだか鼻白む。そしてまた「素直に生きられて…」の心境になる。
オバチャンたちはいちいちよく笑い、よく泣いて、映画を見終わると心の洗濯をしたかのようにスッキリとしたんじゃないか。
私は映画が終わって館内に照明が点くあの瞬間が嫌いだ。コンサートも同じ。「物語の世界から現実に引き戻される」とかそんなきれい事じゃなく、なんだか、照明がついてみんながモソモソと動き出して上着や手荷物なんかを着たり持ったり確認している時の、あの変なのろったい間がどうにも居たたまれないのである。
夫婦で座った上品で恰幅のいい老紳士も、映画が終わって灯りがついた途端、なんてことないちっぽけで情けないただの爺さんに見える。神吉拓郎さんじゃないが「モソモソやってないで、スマートに上着をひっつかんで早く出てってくれ」と内心言いたくなる。これは観客みんなにあてはまる。
それからもう一つ。私は泣いてもいないのに、そんな時、人から顔を見られたくないのだ。映画を心から楽しんだ、酔いしれたという上気した顔、笑みがやんわり張りついた顔をなるべくしていたくはないが、もししていたとしたら見られたくもないし、人様のそういう顔も恥ずかしくて見たくない。私は誰とも視線を合わせず、上着の前ボタンも閉めずにそそくさと出る。
更にエレベーターの前の人だかりが嫌で、人だかりから「あそこのシーンが面白かった、笑っちゃったね」なんていう感想がちょこっとでも聞こえてくるともうダメで、6階だろうと7階だろうとさっさとひとり階段で下りて行く。同じものを見て楽しんだ、あの和気あいあいぶりのシアワセ熱にどうしても馴染めない。
ものごとの終わりは余韻があるぶん、へんなふうな空気になっていて、そういうのにまんまと取り込まれて尋常ならざる浮かれた姿を人様に平気で見せるのはなぜか私にっては“恥”なのだ。心の奥でひとりガッツポーズをしていても、いつものように柔らかに取り澄ましていたい。あーあ。素直に生きられたら…である。


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by zuzumiya | 2017-02-19 18:14 | ちっちゃい器で生きていく | Trackback | Comments(0)

魚雷式読書で『日曜日の捜しもの』白石公子を読む。

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私の50代はこんなんでいいんだろうか、と思いながら毎日、寝っ転がって本ばかり読んでいる。読みながら、そこに著者が紹介した本があるとすぐにiPadで検索し、図書館に予約を入れるか、ネットの古本屋(多くはブックオフオンライン)で購入してしまう。
ブックオフのシステムは購入金額が1500円に達すると送料が無料になる。この1500円ジャスト(まず、やれたことはない)か、ちょっと超えたぐらいにするために「あの本をやめ、この本を文庫サイズにし…」などとやりくりに苦心する。頑張ったつもりが「送料無料まであと4円です」なんてのが表示されると悔しくなって、「どこかに108円で良い本はないか」と探す。店側もそれをわかっていて、“108円本のコーナー”(夥しい量であった)を設けたりしたこともあった。このやりくりも結構楽しいものだが、そのために買い逃した本もいくつかあった。先日など、検索に著者名を打ち込んで3件しか出てこないのを「買われてしまったか!」と仰け反ったが、冷静になってよく見てみると藤枝静男と永井龍男が一緒になって「永井静男」と文字を打っていたから笑ってしまった。まぁ、そんなこんなで小さなメリハリのついた生活を私も送っている。
この“小さなメリハリ”という言葉、実は今読んでいる詩人でエッセイストの白石公子さんの『日曜日の捜しもの』というエッセイから拝借した。音楽ではこういうのを「オマージュ」と言い逃がれをするが、文章の世界だともろ「パクリ」だなと思いながら書いている。すみません。
最近になって、今の自分の心境(なんとなくのんべんダラリとして、欲やら希望やらがなくて、今日もとりあえず生きています的な、大人としてダメダメな感じ)に近いことをお偉い作家さんが正直に平然と書き綴ったゆるめの随筆が読みたいと思うようになっている。これは明らかに萩原魚雷さんの影響である。そういう「こんな心境は自分だけでない、あの偉いセンセイ方もその頃はそういう心境に陥っていた」と本で“確認”(“共感”よりもっと切実)しながら、そう書いてあることだし、「まあ今日のところはこれでいいじゃない」とゆるく自己肯定しながら、とりあえず本を読んで眠くなって寝ちゃいましたという感じが荻原魚雷さんの読書スタイルだと解釈していて、個人的には“魚雷式読書”と呼んでいる。なんというか、魚雷さんの本ってほとんどが随筆を紹介しているが(そこが好きなのだが)、自分と似た、自分にハマった箇所をとにかく本からばんばん引用しまくり、「ほらね、こんなこと言ってる」「ここがいいでしょう」と紹介してまわって終わるだけの印象がある。まあ、そこに偉い作家さんの知られざる一面、哀れで可笑しい人間味が現れていていいのだけれども。今回、その引用で埋めちゃう書き方を“魚雷式エッセイ”と呼ぼうと思う。しかし、読んでいくうちに自分も魚雷さん的なモノの見方、感じ方になって、なぜか締まったタガが緩まって気が楽になっていくから不思議だ。ま、世間的には、こうして天気がいいのに外へも出ずに掃除もせずにこんなことツラツラ書いているわけだから、ダメダメになっているだけだれども(笑)。
で、話はようやく白石公子さんに至る。昔、エッセイの『はずかしい』は読んだ覚えがあるのだが、まるきし内容は忘れた。なので、今回ネットのコメント欄で「この人はウツなんじゃないか」と書かれていた『日曜日の捜しもの』をわざと読むことにした。
魚雷式読書のおかげで遅ればせながらかもしれないが、最近、「ああそうか」と心に落ちてきたことがある。簡単に言ってしまえば「エッセイはその人を伝えるための自己紹介文である」ということを痛切に感じてきている。エッセイの面白味は物事や事件の奇っ怪さ(ネタ)よりも(日々そんなに事件らしきことは起こらない)、作者がどう感じたか、どう思ったかにある。そこにその作者の人となり、人柄が出て「この人、なんだか好きだなぁ」となれば成功だと思うのだ。だから、エッセイやら文章を書く時に心がけるべきことは「私はこういう者です」の飾らない正直さ、気取りのない人間臭さじゃないかと思う。だからこそ、何も起こらない身辺雑記的なエッセイでも面白いものは面白い。その人の感じ方、考え方が面白いから好きになる。作品とのつながりというより、人間どうし作者と肩を抱き合ったり、握手し合った感じだろうか。「友達になれそう」と読者に感じさせられたら、それはもう大成功だ。
で、読者の一人に「ウツなんじゃないか」と怪しまれた白石公子さんだが、それは“馴じみ”という言葉や関係を嫌い、暇さえあれば横になって眠気で朦朧としながら浮かんでくるひとり言をこれぞ私の本心などと楽しんでいるせいだと思う。でも、私はそんな白石さんをフフフと笑い「友達になれそう」と感じた。『日曜日の捜しもの』にはそういうシンパシーあふれる文章でいっぱいだった。

たとえば(と書いて、“魚雷式エッセイ”ぶってみると)
<「こんにちは」と声をかけられて顔を上げると近所のブティックの主人だった。二回ほどその店で洋服を買っただけなのに、こうして会うたびに挨拶を交わさなくてならなくなっているのは、いささか窮屈だ。知らない間に近所づきあいがはじまっているようで、いたたまれなくなってしまう。>(「馴染み客について」より)

上記のブティックで服を買ったのは、たぶん、この↓ジャケットかと思われる。

<そのジャケットを着て店の前を通るのが、どうにもイヤなのだ。ましてガラス越しにあの主人が(あっ、例のジャケット、着てるぞ)とニヤニヤしながら見ていると思うと、ますます不愉快な気分になり、ジャケット姿を主人に見られたくない自意識と意地がせめぎあって、違う道を通ったりするのだ。> (「やっかいな客のために」より)

電車の中で座っていると前に老婆が立って、席を譲ろうと声をかけたが断られた話で、
<次の駅で新しく乗って来た事情を知らない人達に、お年寄りを前にして席を譲らない図々しい女だと思われ、新聞の投稿欄なんぞに書かれたりするのも傷つく。お願いだから座って下さい。>(「悲しみの丸ノ内線」より)

<もっとも他人が軽く指摘する「肥った」「やせた」は、挨拶程度のもので、そこから相手のちょっとした私生活の変化を探ろうとする下心が少しだけ働いている。>(「食べすぎた後に体重計に乗るか」より)

<原稿用紙四枚ほどの書評エッセーだったのだが、出だしに何度もつっかかって先に進まず、弱気になるほどに知的に思われたい、といった下心が芽生えて、何を書いたらいいのかわからなくなり、そんなこんなでだらだらと三日もかかってしまった。>
<女性には、思いっきり髪を伸ばすときと短くするときがあるが、ショートにすると決めたときの、ある種の気負った不安と興奮した状態。そして、終わったときの虚脱感から、やがて見慣れない自分への戸惑い。美容院からほうり出されて行き場を失ったような、おちつかないもの悲しさ。これらの感情の流れは、時間のかかった原稿を書き上げ、ファックスで送った後に襲われる感情とよく似ている。そして、あてどもなく街を歩き回り、いろんな店に立ち寄って疲れてくると、やっと、いつもの自分を取り戻し、たちまち帰りたくなるのだ。>(ともに「身の置き場を失って」より)

いかがだろうか、この白石公子の人となりは。私は好きなんだな、こういう不器用な人。軽めのエッセイでよくある自虐ネタの「笑わせてやるぞ」のドタバタ感もない。それはきっと詩人の感性が描写を深くしているからだと思っている。思春期に父親の入った後のお風呂に入れなくて、湯船の栓を抜くシーンがあるが、
<「ごおっと苦しそうな音がして、排水口に吸い込まれていく水面の窪みを見つめながら、栓をするのに今なら間に合う、まだ、大丈夫だ、とせきたてる自分がいて、それでも動けずにいた。>(「父の後のお風呂は」より)
この水面の窪みと一緒に良心がずずーっと吸い込まれていく動けない水圧の感じ。トイレの水道の修理人を呼ぶために急遽、家中の掃除をしだすが、黴取りスプレーをブラウスに飛び散らせてしまい、余計に慌てたあと、
<お兄ちゃんが帰った後、ひとつ問題が解決した安堵でトイレに行きたくなり、スリッパを履いたら、まだ生暖かかった。ドキドキしていた。>(「梅雨のブリーチショック」より)
書かなくてもエッセイは終われただろうに、スリッパの生暖かさが妙に読者の心に沁みてくる。スリッパに残った人の温みに気づいて、そこでまた「ドキドキしていた」とあらためて心のトンガリ具合に実感が湧いているのである。詩人ならではの感受性が要所要所で文章に芯を作っていく。「いやあ、勉強になります」と言いたい。勉強にはなるけれど、私はたぶん、こんなふうには書けない。



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by zuzumiya | 2017-02-19 16:05 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

二世帯住宅の使い途

いい年をして恥ずかしい話だが、いまだ夫と家庭内離婚の只中にいる。もう3週間になるか、かつてない日数である。それを難なく更新させているのはマンションではなく上下に分かれて住むことのできる戸建てであること、互いに仕事を持っているためのすれ違い生活のなせるわざである。扉を開ければリビングであり、そこを通らねばトイレにも玄関にも行けなかった昔はどうしたって相手と顔を合わせてしまい、照れ半分の気まずさから喧嘩の続けようがなかった。リビングを通らねば自分の部屋にも行けない造りにすれば、子どもの異変に気づきやすいとどこかで聞いたが、確かにそうだろうなと今こそ思う。狭かろうが、平らかに住んでトイレも風呂もひとつで一緒というのが、結局は人を繋ぎとめるものなのかもしれない。そうなると二世帯住宅っていうのはすれ違いを助長させるので、あんまりいいものじゃないのかもしれない。っていうか、あれはもともと一緒に暮らしたくないのにしぶしぶ無理に暮らせば、の発想なんだな。
二世帯住宅で思い出したのが台所である。以前、家庭内離婚をした時に自分の部屋でコーヒーやらカップ麺が食せるようにすぐにニトリに飛んでって小さなキャビネットと電気ポットを買った話を書いた。うまく(普通に)行っている時は「こんな猫の餌しか入ってないキャビネットなんか捨てて、でっかい本棚買おう」なんて思っていたが、今回も喧嘩してまずは納戸から電気ポットを探して持ってきた。キャビネットの中を整理してマグカップを並べ、猫餌の脇にこじんまりと人間の餌も買い揃えようと思っている。人間の餌の方が安いし、しみったれているのが悔しい。本棚などと洒落たことを言ってる場合じゃないのである。欲を言えば、階段脇の棚に電子レンジ、廊下の奥にミニ冷蔵庫があったらいいが、そうなったら、もうまさに二世帯住宅なのだ。で、考えたのが、こんなバージョンである。結婚した息子の家族と暮らす用に老朽化した家を既に二世帯住宅に建てかえたものの、息子がいっこうに結婚せず、二階が空いているという場合、熟年夫婦が喧嘩したら、仲良く上下に分かれて非常に便利に快適に家庭内離婚ができるんだな、と思った。世の中にはこういう恵まれた環境下での家庭内離婚中の夫婦もいるのではないだろうか。休日をむかえた今日、仲直りするのもせずに突き進むのもこの休日という二日間にかかっている。休日なのに非常にストレスフルである。しかし、心の片隅には「このままどこまで行くのだろうか」とその先を見てみたい子どもじみた興味がないわけではないから悩ましい。
とりあえず、外へ出る予定はある。入れた。失笑(もしかしたら哀れ)を買うのを承知で書くが、ひとりで『恋妻家宮本』を観に行く。その後は本を持ってかかりつけの眼科にでも行けばいい。夜はひたすら読書である。なんて書いていたら、ほうら、うまい具合に電気ポットの湯が沸いた。ひとりの朝である。





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by zuzumiya | 2017-02-18 09:20 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

要らないものへのお返しの話

要らないからあげると言われて、それなら貰うかと二度ほどものを貰った。
二度も貰ったので何かお返しせねば、という気になってささやかなお茶菓子を買った。
でも。向こうは要らないものを人にあげて、こっちはわざわざ金を出してお返しの品を買う。何だかわりに合わない気がする。
私には別に人にやるほどの要らないものはない。あってもたぶん、捨てる。




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by zuzumiya | 2017-02-14 20:51 | ちっちゃい器で生きていく | Trackback | Comments(0)

読まなきゃいられん。働かなきゃ買えん。

読みたい本がたまっている。読みたくて買ったり、図書館で借りたりしているのに、時間がない。平日は夜しか読めない。あと一日、働かずに休みがあったらいいのにな。週四日働いて、三日休むがベストだが、そんなんじゃ金が足りない。本が買えない。
図書館本を優先しなきゃならないのに、そういう時に限って購入済みの本の方を読みたくなる。植本一子さんの『家族最後の日』が今日届いた。ヤバイ。帯の文章でもう読んでしまいそうだ。すげえ。

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by zuzumiya | 2017-02-13 20:46 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

灯油屋のメロディ

先日ここで灯油の移動販売車との戦いのことを書いた。
現在、日曜の夕方、もうすぐ6時になろうとするところである。休日のこんな遅くの時間になっても、いつも律儀に路地のドンつきの我が家の前までバックで入ってくる灯油屋がある。この辺りの住宅街にはメロディからして移動販売の灯油屋が3社あるようで、そのうちの最も明るく、まるでパン屋のごとく軽快なメロディを鳴らして親しげにやって来るのがこの夕方の灯油屋である。
しかし、自転車や車で住宅街を走っていても、そのメロディを耳にしたことがないので、ふだんは一体どこら辺を回っているのか、私の中ではマイナーな灯油屋だ。他の2社は灯油屋にありがちな、冬らしい短調のもの悲しいメロディで回っている。昼間に一度、いちばんよく聞くメロディの最もメジャーな灯油屋がこの辺りを回ってしまうので、夕方6時にマイナーな灯油屋を呼び止める者はいないだろう。しかし、昔一度、うちが買ってあげたことを覚えているのか、念のために一応見回ってくれているようにも私には受け取れる。出窓のすぐ下まで来ていながら、うちも近所も誰もが戸を閉め切って買う気配がないことになんだか申し訳なさのようなものがこみ上げて、思わず窓を開けて「あんた、出遅れてるんだよ。もっと早くに来なきゃここはダメだよ」と声をかけてやりたくなる。この妙な親切心を掻き立てるのは何だろう。きっと、暗い夜道に軽快に響きわたる長調のメロディの、そのいたいけな善良さのせいじゃないかと思っている。
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by zuzumiya | 2017-02-12 21:59 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

中年の休日

昨日、職場の友人と新宿まで出かけてスタイリストの高橋靖子さんの仕事展「YACCO SHOW」を見てきた。展覧会(無料!)を見た後、会場がビームスジャパンの上だったので和雑貨をチラホラ見て気を良くした二人は、久しぶりにデパートでも覗こうかということになった。久しぶりの新宿で、昼頃にはだんだんと道行く人が増えてきて、50代の身には既に“人疲れ”的なものがこみ上げてきたので、帰る駅(西武新宿)に近いという理由でルミネイーストに入った。しかし、どこを見ても花の咲いたようなピンクやオフホワイトの服がいっぱいで、友人は「もうちょっと私らには茶系の色味がないと目が疲れる」とぼやいた。で、早々とエレベーターで下り、すごすご西武新宿の方面へ帰ることにした。地下のサブナードを歩きながら、またしても友人が「私らにはこれくらいの人数がホッとするね」などと言って笑う。「一万円を握りしめてきた」という友人のために「何かひとつは買って帰ろう」と田舎から出てきた中学生みたいな言葉をかけて、西武新宿の駅ビルに入った。上の階で日本、中南米、ハワイの雑貨などが置かれている不思議な空間があって、そこの和雑貨店の箸置きを覗き込んでようやく友人は安心したように「カワイイ」とつぶやいた。
私ら50代は微妙な年代である。デパートと言っても京王や小田急の百貨店に入るのはつまらない。それほどは老いていない、とでも言おうか。でも、ルミネなんぞにはもう行けないことが今回よくわかった。和雑貨の店で友人が「私、小銭入れが欲しいの」と口走った時、最近ハマっている神吉拓郎のエッセイを思い出した。

神吉拓郎は二つ折りの紙入れタイプの財布をモゾモゾと取り出して、背を丸めて札を出す一連の動作をユーモラスに描いて
<これは、中年以後の匂いを濃厚に感じさせる動作で、誰が悪いんじゃない、原因は紙入れである。紙入れがそうさせるので、誰が、どう工夫して、美しくやろうとしても、紙入れから札を出すという動作は、中年以降のものになってしまう。すくなくとも若い人のすることじゃない。
これは小銭入れにもいえることで、駅の自動券売機の前で、背を曲げて小銭入れのなかから十円玉を拾い出している格好は、お義理にもスマートとはいえない。自分のは見えないから、他人のを見ているとよくわかる。たとえば自動券売機の横に一分も立って観察していれば、人間が小銭を出すときの動作が、どんなにコッケイなものか、痛感させられる。
そんななかに、一人の男がやって来て、ポケットからざくっと小銭をつかみ出すと、てのひらの上で、そのうちの何枚かをつかみ取り、ポイポイと券売機の口に放りこむ。そういうのを見かけると、これは文句なくきわ立って見える。さわやかなのである。
あの小銭入れのなかをいじましく指先でかき廻している姿とは比較にならない。>
(神吉拓郎傑作選2食と暮らし編「カネのあつかい」より)

小銭入れを求む人というのは、たいへん几帳面な人なのだと思う。札と小銭を別にしていれば財布は無様に膨らまず、支払いもスムーズと思えるのだろう。実は我が夫も長年、小銭入れを愛用している。でも、私は夫と一緒に買い物をしていてずっとひそかに思ってきたのだが、小銭入れというものは逆に面倒で周りに迷惑に見える。
夫はポケットから札入れ(前出の紙入れ)を出して札を出し、今度は反対側のポケットから小銭入れを出して小銭をかき回す。レジで一緒に並んでいて、その二度手間の動作にヤキモキしてしまう。いちいちポケットから出すからではない。両方を片手に持っていたとて、どうしたって二つの財布から出すから二度手間になってしまうのである。レジのお姉ちゃんも私も私らの後ろに並んでいるオバチャンもじっと立って、夫のかき回す指先に「金があるのか、ないのか」とヤキモキさせられているのが分かって、私としては恥ずかしいことこの上ないのである。この一連の動作が二度手間だけにやけにのろったく思えて、神吉拓郎のいう中年っぽさが漂い知れて、夫にしてみれば小銭を出すのが親切心だとしてもなぜかひどく情けない姿に映ってしまうのだ。夫だって視線の圧を感じて、内心、早く早くと焦っているのではないかと思う。だったら、小銭入れなどやめるべきなのだ。
友人の彼女もどちらかというとおっとりとした性格で動作が機敏な方ではない。レジや券売機の前で本人も周りもハラハラ、ヤキモキさせられるに違いなく、周りに中年のオバチャンの情けなさをただ披露するだけなのである。本気で買うとなったら、彼女にこれらの話をとくと聞かせてやろうと思っていたが、気まぐれだったらしく、フラフラと小銭入れの売り場から離れて行った。
結局、買い物は私がチチカカ(中南米の雑貨店)で極楽鳥のような鮮やかな鳥のぶら下げるガラス細工をどうにか買っただけで、彼女は何も買わずに、喋りたおした喫茶店2軒分の飲み食い代だけ使って帰っていった。そういうところもほんと私ら50代の、中年のオバチャンの休日らしい気がした。
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by zuzumiya | 2017-02-12 13:35 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)


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