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ふだんの暮らしに息づいているたいせつなもの、見つめてみませんか?


by zuzumiya
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しゃがんで喋って

何気なくネットで占いを見ていたら、なんと天秤座は今年9月9日を以て12年に1度の幸運期に突入したらしい。天秤座はもともと社交的で平和主義者だというが、いつにも増して社交的であれば夢まで叶う勢いだそうである。社交的ねぇ。夢ねぇ。
私は人にはなるべくよく思われたい。「人に悪く思われてもいい」「世間を敵にまわしてもいい」だなんて、よっぽど何かに狂って正常な判断ができていないとしか思えない。普通になるべく外面よく、揉め事なく、世間を渡ろうとするのが人情のはずだ。そうしてきたつもりだが、いかんせん“社交的”とはいいがたい。私にはわがままをきいてくれる家族がいればじゅうぶんで、思いつく友人もわずかである。実は人づき合いが面倒なのだ。
私は完全なるインドア派で休日は寝っ転がって好きな本を読むか、大画面で自分の見たい映画を見ていればそれでいい。休日に皆で誘い合ってボーリングに行くとか、山登りに行くとか、「よくもまぁ、好きこのんで疲れに行くねぇ」としか思えない。自分の買い物には女友だちとも娘とも夫とも行かずに一人で行く。その方があっちへ行ったりこっちへ行ったり、あれやこれやと悩み、果ては何も買わずに帰ってくるなんてことが誰にも気兼ねせずにできる。人によっては女友だちにいろいろと相談事を持ちかけるらしいが、私はそれも学生時代で卒業した。無意味だとわかったからだ。相談といってもほとんどが愚痴で、相談事はすでに8割がた自分の中で結論が出ているものなのである。ただ会って、ダラダラと話して、思いの丈を“聞いて”もらいたいだけなのだ。女同士の話はだいたいが“ああ言えばこう言う”と“同じ話の繰り返し”であり、こちらのまっとうな意見やアドバイスなど聞いていない。いらないのだ。残念ながら私は誰かの話の聞き役に徹するほど我慢強くはないのである。外面はよくしているつもりだが、誰に対してもニコニコして話をするのはやっぱり疲れる。疲れるということは無理をしているということであり、なるべくしたくはない。
うちの斜め前の家の奥さんなんか、その点、ものすごい社交的である。まず、うちが引っ越してきてすぐの時、草ぼうぼうの庭に手を焼いていると、向こうから見ていたのかわざわざ鍬みたいなのを貸してくれた。朝から家の前で大きな声で近所の人と笑って喋っている。訪ねてくる人が多く、玄関先がいつも賑やかである。人柄がよく、近所の人気者のようだ。でも、いちばんすごいと思ったのは、友人でも近所の人でもない工事の作業員たちとやたら至近距離でにこやかに話をしているのを見かけた時である。
先日、仕事から帰るとアンテナの工事かなにかでトラックがとまっていて、例の奥さんの家で作業員たちが出入りしていた。見ると、庭先で一人の作業員が電線のコードを切っていて、その横になんと奥さんがしゃがんでにこやかに喋っている。まるで仲良しの小学生が頭を付き合わせて地面に絵を描いているような感じである。「作業員は知ってる人なのだろうか?」と疑うほど親密な雰囲気であった。
私にはああはできない。引越しの作業員とかエアコンの工事人とか(ああそうだ、考えてみれば娘のスナックを手伝った時もそうだった)まったく知らない初対面の男とあんなふうに親密に笑ってお喋りなんてどうしてできるものか。私はいつでも工事人が作業している時にどの位置にどうやっているのが正しいのかがわからない。そばで見ているのがいいのか、どこかへ行っちゃってぜんぜん見ていなくてもいいのかがわからないので、たぶん挙動不審である。夫は作業のよしあしがわかりもしないのに疑りぶかい男なので、作業員のそばに立ってその手元をじっと見つめている。私にはなんだかその監督するような態度が作業員に対して横柄で失礼なような気がしてできないでいる。作業している手元をじぃーっと見られているのって嫌なもんじゃないか。お店で包装を頼む時も私は店員の手元を見ないようにあらぬ方向を見ている。余計に緊張させるのって可哀想だろう。
なので、私が一人の時には作業員からちょっと離れたところで、「はやく終わんないかな」と思いながら、やってもいいがやらなくてもいい家事(流しまわりの拭き掃除など)をしながら、時どきチョロッと見るだけにしている。でも、所詮やらなくてもいいようなことなのですぐに終わってしまい、身が持たない。手持ちぶさただと人間は余計なことを考え「あの男は実は工事人なんかじゃなくて強盗だったりして」とか「いやいや強姦犯だったりして」といらぬ妄想が始まり、「どこをどう逃げるか」「包丁を持ったりしたら逆効果か」などと心の中で身構えたりする。そんなんだから、話しかけるなんてもってのほかである。でもシーンとしてしまうのも息がつまるので、一度は作業員が来る前からラジオをかけておいた。そうしたらそのラジオからたまたま電気工事の際に盗聴器が仕掛けられていたというニュースが流れて、さらに気まずくなった。
だから、例の奥さんが作業員の横にしゃがんで喋る、という馴れ馴れしさがもう信じられないくらいの驚きなのである。つねづね社交的だとは認めていたが、そこまでとは思わなかった。
だが、予想外の驚きは防衛反応で脳を反対方向に引っ張るものである。突然、奥さんの「フフフ」「いや~だあ、もう」というしなやかな声が媚を含んで艶っぽく聞こえてきた。
「工事人ごときにイチャイチャして、いやらしい」
人柄のいい人気者の奥さんが、私の中で誰かれとなく社交的に笑顔で近づく浅ましい女、いやらしい女に変化した。人間というのは自分にないものを持っている人に惹かれたり、反発して嫌ったりする。実はそれは相手の長所をカチッと把握しているということなのである。
ならば、私の深層心理はただひとつ…“うらやましい”だ。くそっ、そういうことか。

こんな私がほんとうに12年に1度のスペシャルな幸運をつかめるのだろうか。
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by zuzumiya | 2016-09-10 16:54 | ちっちゃい器で生きていく | Trackback | Comments(0)

老人バナナ

夫は毎朝、バナナを1本食べる。長年、頑固な便秘症なのである。病気に男も女もないものだが、男が便秘というとなんだかすごく女々しく情けなく感じる。男のくせにと思ってしまう。男をけなす言葉に「ケツの穴の小さい男」というのがあるが、ケツの穴がでかいことがなんでそんなにエライのかわからない。動物においてはうんこがでかいと体もでかいからであろうか。男の便秘にはそういった事情から、小さいうんこ以上にうんこすら出ない男なんて、という蔑みが根底にあるのであろうか。
バナナは便通に非常にいいらしい。なので、我が家にはバナナがかかさず買ってある。夫は“バナナスタンド”なるものまで買って、大事にバナナを吊るして保存している。が、バナナというのはなんでああもすぐに熟れてしまうんだろう。私はかたくてまだ青みがかっている若いバナナの方が好きだ。そういうのを選んで買ってくるのだが、3日もすると皮に黒い細かい斑点が出てくる。「あ、出てきたな」と確認した翌日には細かい斑点はわっと増え、バナナの全身に広がっている。ここらですぐに食べ切ればいいが1日1本なのでそうはいかない。で、もう1日経ってしまうと、細かい斑点の他に更に大きな黒々とした斑点が出てくる。我が家ではこれを「老人性色素斑」と呼んでいる。そう、シミである。見事に全身を黒々としたシミに覆われたバナナはもう老人の様相をしている。シミだけじゃない、なんとなく皮のツヤもハリもなくなって全体的にしなしなとして、熟れすぎた匂いもきつい。ちょっとした振動でバナナスタンドからずるりと皮からむけてテーブルに落ちてしまう。まさに老人バナナである。夫は慌ててラップにくるんで冷蔵庫に入れるが、私は絶対食べずに放っておくので、そうなると今度は斑点は消失して、ただただ全体が茶色く変色していかにもヤバそうになってくる。もはや死相である。夫もこのへんから諦めが入ってきて、ある日突然、「もういいや」とゴミ箱に捨ててしまうのである。
私の祖父は「果物はなんでも腐る一歩手前がうまいんだ」と豪語し、マンゴーでも桃でも柿でもメロンでも冷蔵庫にも入れず常温でじわじわ熟らせては指でつついていたが、子供心になんだかそれがすごくみみっちくて、いやらしく思えてならなかった。爺ちゃんはバナナもソバカスどころじゃなく老人性色素斑がめいっぱい浮き出たやつを喜んでモサモサと食っていた。そういうのが影響してるのか、私はミカンでもきっぱりと青い早生ミカンが好きだ。きっぱりと。
以前の職場で、弁当派の同僚がデザートとしてバナナを持ってきたことがあった。そのバナナが見事に老人性色素斑だらけで、パッと見ほぼ茶色であった。新婚の彼女は「お義母さんがお腹が空くから持って行けって」と恥ずかしがる風もなく、茶色いバナナを堂々と剥いてぱくぱく食べていた。私は「お義母さんに可愛がられてよかったねぇ」と言いつつも「そんなバナナをよく持ってきたな。人前に晒す神経がわからない」と心では呆れていた。いい人なんだが、バナナの一件で私は精神的に距離を置くようになってしまった。
この頃はスーパーでバナナを手にするたび虚ろな気分になる。どんなにかたく青いバナナを選んでもすぐに老いぼれる。特にこの夏の気候じゃ、置こうが吊るそうがあっという間である。私も今年の夏の熱さにはずいぶんとやられた。「老人性色素斑」だの「老人バナナ」だのと笑ってきたが、毎朝、夫がひとり食卓でバナナの皮を剥いている時、うんこのことよりバナナに自らの老いを重ねてぼんやりする日もあるんじゃないかと、思ったりする。
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by zuzumiya | 2016-09-05 22:42 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(2)

男は黙ってビニール袋

今朝、近所のスーパーに夫とふたりで買い物に出た。
そこで久々に夫の長所を発見した。
よくいるじゃないか。レジが終わって袋を詰める台の向こうにヌボーッと突っ立って待っている夫たち。「俺は運転手と荷物持ちなんで」と言わんばかりの夫たち。私は大嫌いなのである。見かけるたびに「突っ立ってねぇで手伝えよ、バカ」と腹の中で悪態をつく。
じゃあ、手伝ったら喜ばれるのかと言うと残念ながらそうでもないのが夫婦というものである。
「だからさぁ、なんで冷凍食品と豚肉を一緒に詰めないのよ。冷えるでしょうが、こうすれば。少しはアタマ、使ってよ!」とキリキリ声で夫の詰め方が悪いと袋に入れ直している妻もいる。夫婦ゲンカが始まる火種はそこいら中にあるものである。
手伝わずにいるのも悪いが手伝ったら手伝ったで上手に相手の意に添うようにやらないと妻の怒りを買うものなのである。ではどうするか。
そこに我が夫の素晴らしさを発見して、私の心はどよめいた。
要はでしゃばらず“自分のできること”をやればいいのである。夫はレジを終えた私の横にしずしずと歩み寄り、置かれたかごの中からまずは豚肉のパックを手に取り、巻きビニールをぐるりとひっぺがし入れ始めた。次に鶏肉、次に卵のパック、次に牛乳、次にお新香のパック。汁が出てしまうと困るもの、落として割れたり破れたりしたら困るものを次々と選んでビニール袋に入れていく。エライのは“それだけに徹する”ことである。勝手に自分の考えでスーパーの袋に入れるようなことはしない。何でも入れりゃいいというのは、前出の夫のように浅はかな自殺行為である。主婦は袋に入れるにしてもきちんと組み合わせを考えて入れているものである。袋の大きさと商品の質と数とを見極めながら入れ、“うまく入った感”を味わって終わりたいものなのだ。夫はそこをよく心得ている。黒子に徹して私をフォローし、私の舞台ででしゃばらず、私に花を持たせているのだ。そうしておいて、自分では花ならぬ重い袋をスッと持つ。よくできた夫だと感心した。で、すかさず褒めたのだが、理由を聞いて「なんだ、そんなことか」としか言わなかった。
スーパーにおける夫の役割を極めていると思うんだけどな。
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by zuzumiya | 2016-09-04 17:21 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

絵本代に換算すると…

ちょっと古い話題になるが、上がると言っていた保育士の給料は月額2%しか上がらず、介護士は1万上がるというニュースを見た。2%と1万。これから保育士になるのと介護士になるのとどっちが得か。
例えば保育士なら、わかりやすい数字で10万もらってた人の2%なら2000円のアップ。片や介護士はいくらもらってようと1万円のアップ。手取り10万ってことはないにしても、たかだか数千円の値上げで保育士やれよ、ってことである。数千円給料上げるから「全国に70万人いる潜在保育士さん、大変だけど帰って来て」なのだ。馬鹿じゃなかろうか。
ネットで調べてみると、政府は保育士の平均給与を26.8万円として計算しているという。で、平均6000円のアップらしい。この給与額も信じられない(もっと低い気がする)が、たかだか6000円のアップじゃ、「保育士をやろう」や「保育士に戻ろう」なんて絶対思えない。「保育士を続けよう」すら危なくなる。
ま、それにしても、これで政府の腹が見えたということだ。パンパない少子化なのに将来ある子どもよりジジババにより長く生きててもらいたいのだ。考えてる人がジジババだから、結局は自分たちのいいようにしか考えられないということか。情けない。
なんで、こんな話題からしたかというと、保育士は残業代ももらえない(まず当たり前)のに、その少ない給料の中から子どもたちのために保育の材料を自分で買っているという事実を知らせたいからである。
“はじめに先生ありき”の設定保育では先生が仕切って子どもたちの興味や集中を引っ張っていくから特にそうで、手弁当が当たり前になっている。自由遊びから片付けをさせ、お決まりの「はじまるよ、はじまるよ」の手遊び歌の後、先生の膝の上にはこんもりふくらんだ“マイバック”が乗っている。
その“マイバック”の中には絵本はもちろん、お手製のペープサートやら指人形やら、エプロンシアターやらがうんとこさ入ってる。それらはぜんぶ、その先生の私物で、その先生が給料から金を出して日々の保育のために自分で買い集めたり作ったりしたものなのである。私物であるし、その先生のアイデア(保育雑誌のどっかから盗んできたものにせよ)や選択眼やセンスが反映されている金も手間もかけたものであるから、他の先生は滅多なことでは使えないという暗黙のルールがある。
設定保育の先生たちは、いうなれば“個人の保育力”がここで試されてしまう。「はじまるよ」の歌ではじめた保育が面白くなければ、子どもの気が引けなければダメなのである。つまらない絵本を選んできて、つまらない手遊びをしてみせて、子どもが集中せずワサワサしだしたら保育力がないことに直結する。だから、設定保育の先生たちは“マイバック”のなかに“ここぞの見せ場”をいつでも用意しているのである。自分の評価につながるからこそ、金もかけているのだろう。
なのに数千円しか上がらないって、どういうことだ。絵本は1冊いくらだと思っているのか。手取り15万の先生の2%は3000円である。絵本にしたら2~3冊分であろう。「そんなの、上がる前からフツーに買ってるわい!」と憤慨する声が聞こえてきそうだ。
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by zuzumiya | 2016-09-04 08:19 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)