暮らしのまなざし

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小さな夢が叶いました。

今の季節のこの時期がいちばん面白い。晴れると何処に隠れていたのか蝉が鳴き出して、足元の草むらでは秋の虫がりんりんと鳴く。風が吹けば少し冷ややかで、雲から青空がのぞけばそれが爽やかに変じる。今日も町中いたるところから金木犀が香っている。金木犀という花は秋がやっぱりふさわしい。香りの中に凛々しさがあるので、秋の少し冷たい風の中で胸いっぱい吸い込むのが正しい。
そういえば、去年引っ越してきた秋には咲かなかった庭の金木犀が(だから、金木犀と確信をもてずに新たに買ってしまった)今年になって咲いてくれた。自分で植えた方の金木犀も背は低く、夏には虫に食われたがなんとか咲いてくれた。ついに夢が叶った。自分の庭に金木犀のある幸せよ。9月の27日に気がついたから、その日が今年の金木犀記念日。来年は百日紅を植えたいなあ。さあ、天秤座諸君、我々の出番だ!






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by zuzumiya | 2016-09-30 13:43 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(2)

また、会いましたね

朝、二人連れのおばあさんを見かける。健康のために、毎朝誘い合って散歩をしているようである。仲良く寄り添いながらゆっくりと歩き、信号を待つ間、頭を寄せて何にもいないはずの川を見下ろし、楽しそうに喋っている。その姿をぼんやり眺めるのが、私の朝のなごみというか楽しみになっている。夏の盛りの頃、二人連れが一人になって歩いている時期があった。二週間くらいだったろうか。「あれ、今日も一人だ」と思いながら見るおばあさんの背中はやっぱりつまらなそうで寂しそうだった。「まさか、入院でもしたのかな」と想像して、「あの年になると何にせよ連れというものがいなくなるのは堪えるよな」と、しみじみ思った。
午後出の際に見かけるのは、バイクに座って川のガードレールに両足を乗せて、木陰でぷかりと煙草をくゆらす新聞屋のおじさんだ。初めて見たときは「あ、さぼってる!」と思った。おじさんは私の姿を確認すると、また川の方を向いてゆっくりと煙草の煙を吐いてみせた。「そういえば新聞屋さんみたいな配達の人の休憩っていつ取るんだろう」と思い、昔、やっぱりバイクを停めて自動販売機でジュースを買っていた郵便配達のお兄さんがなんとなく不思議に見えたことを思い出した。「休憩取らなきゃ、配達だってやってられないもんな」と納得した。見かけるたびにおじさんは大胆にも両足をガードレールに乗せているので、そのリラックス極まりない姿が可笑しくて、いつでもニンマリしてしまう。
町の中のこういう小さな何でもない出会いを愛おしいと思う。相手は全くの知らない人だが、何度か見かけると「ああ、また会いましたね」という気になって、たぶんそういう親しみのようなものがこちらの目線にあって、以心伝心、向こうも悪い気はしないのだろう、目元にほんのりやわらかみが混じりだす。
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by zuzumiya | 2016-09-25 09:14 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

未来の余命宣告

先日、テレビで池上彰さんの番組を見ていたら、「これから30年以内に確実に、絶対に、巨大地震がくる」と彼が断言した。知ってはいたが、40年だとばかり思っていたのがいつの間にか30年に減ってしまっていた。こう聞いてなんとなく地震が起こるのは30年後のような気がするが、30年以内であって、明日かもしれないし、あさってかもしれないし、1年後かもしれないのである。
でも、それでも、この30年以内には確実に大地震が起こるともう決まっているのだから、まるでガン患者への余命宣告のように「未来はもってあと30年です」と言われたようなものなのである。あの番組を見た人々はきっと「自分の命ももってあと30年か…」とうなだれたに違いない。
以前、何かで地震が起こるのは40年以内と知った時、私は子ども達を食卓に集めて「好きなことだけ、しなさい」と命じた。私の小さい頃は未来なんて根拠なくいつまでも続くような気がしていた。ノストラダムスの大予言なんかも信じてなかったし、若さとはとにかく今を楽しく生きることに精一杯で、「今日がダメでも明日がある」「目が覚めて朝が来ているのが当たり前」というおめでたさで生きていた。なのに、この子らの未来がそんなふうな形でパッとなくなると偉い学者たちが調べあげて、もうあらかじめ決まっているということが、ただただ可哀想で不憫でならなかった。
来るのは未曾有の大地震なのである。運良く命が助かっても大怪我をしているかもしれないし、家族とはちりちりばらばら、その家族の生き死だってわからない。家屋は崩壊、病院も崩壊、職場だって崩壊。原発だってどうなっていることやら。まるで戦争中の大空襲にあったかのように何もかもが見事に崩れ、もうもうと火の手は上がり、道路はいたるところで寸断され、ちょっとやそっとじゃ助けも来ない。全身を襲う激しい痛みと深い悲しみと絶望で「助かった方が苦しい。死にたい」なんて思うかもしれないのである。復興といっても見事に壊滅させられた都市の機能はどれだけの時間がかかるのか。そう想像するとほんとうに暗い気持ちになる。
でもね、人間って変わらないのである。
母親である私が「さあ、どうぞ。先はないんだから好き勝手に生きなさいよ」と宣言してやったのに、うちの息子も娘も律儀にせこせこと毎日働きに行くのである。決して世をはかなんで、刹那的で享楽的な方向にババっと走らないのである。
夫曰く「母親が急にそんな突拍子もないこと言い出してみろ、堅実になるしかないよ」だって。
息子よ、せめても代休や有休はとっておくれね。
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by zuzumiya | 2016-09-24 10:19 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

時間貧乏

よく「5分前行動」という言葉をきく。
「5分前には行動を開始して、次にやることに遅れないように備えなさい」という意味だが、私は最近になってこの言葉の意味をはき違えていたことに気づいた。
5分は恐ろしい。5分は侮れない。特に朝の出勤時間前の5分は「ほんとに5分あったのか?」と魔法にでもかかったみたいに時計の針と自分の目を疑うほどすばやく経つ。
オバサンの私は出勤する時刻にあと5分あるから「最後にやっぱりトイレに行っておくか」となるのだが、出てきて時計を見上げると「ややっ!もう出る時間を2分も過ぎてるじゃん!」とおののく。この「あと5分あるから」の5分の余裕にほんのちょっとの家事なりトイレなり、なんとなく感覚でそれに見合う動きをしてしまうのだが、私の体内時計の5分と実際の時計のなさる5分がピタリとかち合わないので困っている。
「せっかく早く起きてるのに、毎日なんでこうなるんだよう」と半泣きで慌てて自転車に飛び乗り、「これも老化現象か」と落ち込んでいたら、同僚に「だからさぁ、『5分前行動』ってのは『あと5分あるから』じゃなくて、その5分は何にもしちゃいけないの。もう出るの、出発するの。何かしようとするから、時間が足りなくなるんじゃん」と笑われた。目からウロコが落ちた。
「ならば私は『10分前行動』にすればいいんだ」と言うと「バカじゃん」と更に笑われた。
いやしかし、若い頃はきっと正しい「5分前行動」ができていたんだと思う。結婚して主婦になって子どもを育てているうちに「5分前行動」がいつの間にか「あと5分あるから何かしなきゃ」の欲に替わり、あくせく動いて本来ある5分のゆとりを消し去ってきたんだろう。たしかに「貧乏暇なし」とはよく言ったもんである。自分がこうもせせこましくなっていたとは驚きである。
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by zuzumiya | 2016-09-23 13:13 | ちっちゃい器で生きていく | Trackback | Comments(0)

猫のふり見て我がふり直す

落ち込む内容だったので書かないでいたが、実は我が家の飼い猫のももが家出をしていたのである。
9月最初の日曜日、深夜12時頃、夫がトイレに行っている隙に夫の部屋の網戸を自分で開けて出て行ってしまった。ももは窓のサッシも網戸も襖も手で開けてしまう器用な猫なのだ。脱走予防に100均で突っ張り棒を買って家中のサッシと網戸につっかえ棒をして開くのを防いできたつもりだったが、今回は夫がうっかりし忘れていた。こんなふうに今までも人為的なミスで何度か脱走されたことはある。でもすべて昼間だったし、「もうダメか」と縁側でガックリ肩を落としていても、2時間くらいで無事に帰ってきたのだった。今回は初の深夜の脱走だった。近所迷惑になるので声を張り上げて名を呼ぶわけにもいかず、朝には戻ってくるだろうと家の周りをひと巡りしただけで深く探さないで寝てしまった。
ところが朝になっても帰ってこない。昼になっても、夕方になっても、帰ってこない。鳴き声ひとつしない。ネットで迷い猫が帰ってくる方法として庭先に餌を置いたり、おしっこの臭いのついた猫砂をばらまいたりしたが、我が家の周りを縄張りにしている野良猫の三毛に餌をまんまと食べられただけで、夜になっても帰ってこなかった。それどころか、次の日もその次の日も、三毛が餌をねだりに来ただけで、雨が降っても台風が来ても、ももは帰ってこなかった。「今度こそダメかもな…」と4日目に役所や警察、保健所に連絡した。役所や警察にどこかから連絡が入るということは“猫が死んだ”ということであり、その辺を走り回っている野良猫・飼い猫に関しては何の情報も入らないということを今回初めて知った。それから、ももを譲ってくれた野良猫を保護するNPO団体にも連絡した。娘や職場の同僚やらが口々に慰めてくれるなかで、団体代表のおばちゃんだけはこっぴどく私を叱った。完全に飼い主側のミスなのだ。叱られても当然。きちんと叱られなきゃいけないのだ。
ネットを見ると半年や1年でも無事に帰ってきた猫もいる。あまり悪く考えず、「いずれは帰ってくるさ」とおおらかに構えていようと思っても、雨が続くと心配で、よく夢でうなされた。1週間経った頃、「本格的にダメかもしれない」と覚悟を決め、ももの写真を入れるフレームを買った。お香を立てて、「どこにいても元気でね」と手を合わせた。
ところが、ももは帰ってきた。帰ってきたのである。
ちょうど2週間目の日曜の朝方、4時半だったか、家の周りで猫が争う声がして、かすかにももの声に似ている気がしたのでダメもとで懐中電灯を持って庭へ出た。隣家との境を照らすと柵の上に茶色く丸まった尻が見えた。すかさず「もも、ごはん!」と声をかけるとこちらをふり向き「にゃ~」と鳴いた。「ももだっ!」と確信して家に駆け戻り、寝ている夫と息子に「ももが帰ってきた!」と声を張り上げた。おやつのカニカマスライスの袋をガザガサ言わせて「か~まかま」と言うとまたもや「にゃ~」と鳴く。庭の近くまで戻って来ている。サッシを開けてカニカマをひとつまみ床に置くと茂みから現れ、ぴょんと床に飛び乗り部屋に入った。よっぽど腹が減っていたのだろう。テレビ番組で紹介される嬉しさのあまり「にゃごにゃご」言いながら食べる猫のように声を立ててカニカマを食べた。下りてきた寝ぼけ顔の息子に缶詰を開けさせると、それもあっという間に食べた。体に触れると確かに背骨が手に触れて痩せてはいたが、外傷はなく毛並みも乱れていない。ただ肉球が剥がれてじんわり血が滲んでいた。爪もほとんどが折れていたり抜けて無かったりした。でも、母猫の私に会えて嬉しくてたまらないのか、それとも鳴きすぎて声が出ないのか、かすれたような甘え鳴きをしながらひっきりなしに体をすり寄せてきた。とりあえずノミやダニの心配から、もう一匹の飼い猫チビと隔離するために2階のベランダからケージを持ってきて中に入れた。すべてを終えたらとうに空は白んでいたが、ひと眠りしてから医者に連れて行くことになった。しかし、ももは眠っても私との再会を夢に見るのか「にゃあ」と鳴いて起き、私もその度に目が覚め、互いにあまり眠れずに起きるはめになった。
夫は脱出の責任をとり、自ら診察代を支払うと宣言した。実はこの猫の家出の一件で我が夫婦は再び離婚の危機に瀕していた。夫は自分のミスで猫が逃げたのに、喧嘩もふっかけずに落ち込む妻を放っておいて、普段は「金がない」と言っておきながら飲み会で深夜2時にタクシーで帰ってきたのだった。呆れかえって物も言えなかった。ももが見つかるまでの2週間、ほとんど口もきかず目も合わさずで、またもや1階と2階の家庭内別居状態であった。ももが無事に帰り、ももの体調や世話のことで会話が自然と復活し、離婚問題は真剣に話し合われることはなく、今、棚上げ状態になっている。
ももは病院から初めて“エリザベスカラー”を首につけて帰ってきた。消毒した肉球を舐めないためである。もともと片目が濁って視力が弱いうえにカラーである。動くたびにケージのあちこちにぶつかりうまく歩けない。そのうち、カラーが重いのか首をうなだれて歩くようになった。それがまた疲れるのか、少し歩いてはすぐにごろんと横になりうつらうつらしてしまう。夫は「ももは落ち込んでるんだよ。人間じゃないから、カラーがしばらくの間だけなんてわからないんだよ。せっかく帰ってきたのに変なもの付けられて、もう一生、このままかもって、落ち込んでるんだ」と言った。確かにそうかもしれない。帰宅後、段差にバコンバコン当たりながら階段をどうにか上がり、いつもの勢いで猫タワーのてっぺんに駆け上がろうとしてバコンバコン当たってずるずると無様に落ちたのを、年下猫のチビに見られた。チビは得体のしれないロボット猫のような化物が暴れていると目ん玉が飛び出るほど驚き、慌てて部屋から出て行った。久々の対面がああだったのだからかなりのショックだったろう。
それ以来、見事にチビはももを嫌ってしまった。ももは育ての親でもあるのに酷いものである。人間が懸命に「ももだよ。あのももちゃんが、帰ってきたんだよ」と感動的に伝えても、姿を見るなり「シャア」と威嚇する。チビが威嚇するもんだから、外で喧嘩を売られ鍛えられてきたももだって負けずに「シャア」とやる。猫は「2週間で互いを忘れてしまうものなのか」と思った。たしかにももがいなくなってからのチビは餌は食べ放題、タワーは上り放題、私を独占して甘え放題とやりたい放題だった。そのいいご身分がももの記憶を脳の奥に押しやってしまったのかもしれない。もしかしたら「今さら、どのツラ下げて戻ってきたのか。もうこの家のリーダーはア・タ・イなんだよ」と思っているのかもしれない。
大きなカラーは食事や歩行のみならず、トイレにも不便なようで、ももは帰宅してから一度も便が出ていなかった。あまりに不自由そうなのとカラーがあるからチビとの関係がスムーズにいかないのではと思って、2日目にええいと外してしまった。カラーが外れてももは体を舐めたいだけ舐め、心配ではあるが肉球も舐めまわし、満足して安心したのか元の俊敏さが戻った。チビも訳のわからないロボット猫のようなものから普通の猫だと認識できたようだった。ももの行動はいちいち気になるようで、一定の距離をおいてチビは大きな目玉を更に大きくして食い入るように見つめている。ももも見られているのはわかっているけど素知らぬフリで、わざと(私にはそう見える)堂々とやりたいようにやっている。「ごはん」と呼べば、ももが真っ先にすっ飛んで来て、食べたいだけ食べていく。以前から喰い意地は張っていたが、家出以来、ひもじい思いが更に喰い意地を強めてしまった。息子の部屋のベッド下に隠れているチビのそばにわざわざ餌皿を置いても、腰の引けてるチビより野良猫あがりの図々しいももが走って行って全部食べてしまう。以前は慌てて食べると決まってゲロを吐いていたが、「そんなもったいないことはもうできない」と戻ってからはどんなに食べてもゲロは吐かない。さっさと食べて猫タワーに駆け上がり、てっぺんを占拠して(猫は高い方にいる方が地位が上である)のうのうと横になって肉球の手入れをしている。ももがいない間、チビが寝転がっていた出窓のクッションの上も、どんなにチビの匂いがついていてもももは平気で横たわり、すやすや寝息を立てている。チビはやられるがままにそういう姿を遠巻きに眺め、静かに用心深く背を丸めている。
4日目の今日はチビの方がだいぶ慣れたのか、「同じ屋根の下、いがみ合ってもしょうがない」という気持ちで折れてきたのか、たまに2匹がすれ違ったり、ももの後に付いてチビが階段を下りてみたり、ももが出窓に、チビは隠れず私のベッドの上に、という具合に同じ空間にいるようになった。でも、時として正面で顔を合わし、カチリと目が合うとチビから先に「シャア」と威嚇し、「負けてなるものか」とももも威嚇する。間に入った私に叱られ、すごすごと去っていくのはいつでもチビ。ももはフンとすまして歩いていき、プライドをかけた猫タワーのてっぺんに駆け上がる。
そういう2匹の姿を見ているうちに、ふと「こりゃ、我が夫婦の姿にそっくりだな」と思った。互いに何食わぬ顔をしてすれ違うが、実は頭の中は相手のことでいっぱいで、ガンガンに意識して気を張っている。家庭内別居の真っ最中は、互いが相手の物音に敏感で、「今、風呂に入ったから、冷蔵庫を開けに行けるな」と相手の行動を読み取りながら自分の行動を決めている。同じ屋根の下とはいえ、近くにいると気詰まりなので、台所の食卓とリビングのソファぐらいに離れていると少しは落ち着いていられる。もものように私は好きなものをたらふく食べて夫のために残すことはない。眠くなれば勝手に寝てしまう。片や夫はチビに似ている。何か気に障るとすぐに自分の部屋に閉じこもって出てこない。食事だってとろうとしない。ちょっとしたこと(例えば塩のフタがちゃんと閉まってなかったとか、ガムテープが所定の位置に戻されてなかったとか)を相手に指摘すると「そういうアンタだって」とすぐ口喧嘩に発展するのは、猫の威嚇の応酬である。
こうなってくると私はももが帰ってきたことが単なる奇跡とは思えないのである。神様はきっと(いや、神様じゃなく私の死んだ祖母だったりして)ももをうちに帰すことで夫婦に会話を取り戻させ、ももとチビのやり取りを見て、自分ら夫婦の馬鹿げた不毛な関係に気づかせたのではないだろうか。ももとチビはいづれ元の関係に戻る予感はする。ももはきっともものままでチビが慣れてそのうち折れる気がする。餌も居心地のいい寝場所も確保されてあるのだから、別に争う必要はないのである。同じ屋根の下という空間に収まっていさえしたら、あの2匹の猫のようにもう一度リセットして、折り合って生きていけるものだろうか。
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by zuzumiya | 2016-09-22 00:22 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

ああ、ありがたや

ネットショッピングにはまっている。といっても、私の場合は古本だ。
ブックオフのオンラインショップで1500円までは送料無料だから、マジ助かる。
文芸書も漫画も写真集や画集やCDもDVDも合わせて1500円だから、助かる。
最近は身体が疲れて居眠りしてしまい、ほとんど週末しか読書ができないので、図書館の2週間では読めなくなってしまった。ブックオフのオンラインを知ってから、Amazonで新品を購入しなくてもよくなった。今日も漫画とエッセイをたんと注文した。
それから秋らしく竜胆の鉢を買い、ジャズのジミージェフリーのCDも買った。花と音楽と本と。三連休がうれしいぜ。

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by zuzumiya | 2016-09-17 18:55 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

サラリーマンが怖い

朝、園までの道を自転車に乗っていると駅へと急ぐサラリーマンの自転車に追い越された。ベルも鳴らさず脇からスッと入ってきて、私の先をぐんぐんこいでいく30代らしき四角いリュックを背負った尻の張った後ろ姿を見ると「サラリーマンってなんだか怖い」と思う。
彼にもきっと妻と幼子がいる家庭があって、つい今しがた玄関で笑って「行ってきます」「行ってらっしゃい」とやってきたのであろうが、玄関を出て門扉を閉めたとたん、サッと笑顔が消えて、家庭のよきパパ、よき夫からサラリーマンという戦闘人種に変わってしまうような気がする。厳密に言うと、人種というよりなんだか体温も感情もないアンドロイドに近い。後ろに背負ってる四角いリュックはそのまま彼を動かすコンピューターに見える。この感じはうまく説明できないが、駅でも電車の中でも、歩いていても並んでいても居眠りしていても、ひとたび家を出ればサラリーマンの表情に家庭という“愛の面影”がないのが、そういうふうにできてしまえるのが、人間らしからぬ感じがして気味悪いのである。出がけに妻子に向けた優しさと見知らぬオバサンの脇をスッとすり抜け駅へと急ぐ強引な冷淡さがほんの少しの時間差で出る。情愛というものはもっと引きずって、ふんわり包まれていてもいいはずなのに、門扉を出てサラリーマンになったとたん、戦闘モードにチェンジして世間はみな戦わねばならぬ敵になって、私ごときのオバサンも虫けらのように冷たくあしらわれてしまうのだ。戦うために歩き、追い越し、先に並び、満員電車で押し返し、ドアが開けば我先に出て行く。すべては金を稼ぎ、自分の家族を養い守るためなのだが、その根底の優しさや愛や人間的なあたたかみが背広の武装からは一切表に出てこない。よくアイドルがみんな同じ顔に見えるというが、サラリーマンがワンサカ新宿駅の階段を下りていく映像やら横断歩道を交差していく映像を見るたびに、誰も彼もが同じに見える。人間味がないというか、個がないというか、やっぱり戦士というにふさわしいアンドロイドなんだよなぁ、と思う。
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by zuzumiya | 2016-09-16 22:02 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

季節で遊ぶ

先日、はたちを過ぎた娘とひさびさに買い物に行って褒められた。
「お母さんは、絵本とか“おはなしのろうそく”とか読んでくれたり、菖蒲湯とかゆず湯とか季節の行事や習わしとか教えてくれて、お母さんらしいお母さんだったよね。友だちに聞いてみても、そういうことみんながしてもらってるわけじゃないんだってこの年になってわかった」のだそうである。
ま、当時から私が保育士だったということもあるが、もとより「蝉の声より虫の声が立ってきたなぁ」と季節の移り変わりの方に心が揺れるおセンチで、純和風の暮らしをしているわけではないけれど、昔ながらの行事や習わしを生活のいろどり、演出として楽しく暮らしの中に取り入れてきた。
我が家では玄関の下駄箱の上を“季節のスペース”として、季節感あふれる花や植物、オブジェを飾り付けている。教育的な目的で始めたのではなく、私のささやかな楽しみなのだ。
今日は十五夜。この日のために娘と一緒に吉祥寺に出かけて、“菊屋”ですすきと吾亦紅の造花や鈍色の花瓶を選び、東急の鳩居堂で月をバックにうさぎが跳ねているミニ色紙を買ってきたのだった。たてるお香は竜胆で決まり。実は客人も少ない玄関だが、外出から帰ってくるたび目に入ってちょっといい気分になる。それだけでも“豊かな暮らし”をしている気になってくる。十五夜飾りの前は金魚鉢を模した丸いガラス(手頃なサイズの金魚鉢がなかった)に“菊屋”で買ったガラス細工の赤い金魚と蛙を入れて、イミテーショングリーンの先っぽをちょん切って水草に見立てて置いておいた。
こうやってテーマを決めて「何をどう飾ろうか」と考えるのはまるでディスプレイアーティストになったみたいで実に楽しいものである。巷のスーパーではもうハロウィーン飾りのようだが、それでは少し先取りすぎている。そこまでの間にもうちょっと自分流にいろんな“秋”を飾ってみたい。季節で遊ぶこんな姿が娘に“子どもに季節感を抱かせるよいお母さん”として効果的に映っていたようだ。
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by zuzumiya | 2016-09-15 14:27 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

大それた役回り

仕事帰り、信号で黒Tシャツに黒短パン、黒ソックスのまるでスポーツの審判のような出で立ちの60代前半くらいのおばさんと一緒になった。
信号が青になり、先に行く彼女の背中に白い文字が見えた。
“今、できる事を”。
思わず「うーむ」と唸る私。今できる事、って何だろう。私は今できる事を精一杯しているんだろうか。
いや、きっとしてない。いつも逃げてばかりだ。
おばさんはそんな私の戸惑いや反省を知らずに自転車をこいでいく。なにせ青信号なのである。今、おばさんのできる事は前進することなのだ。
おばさんの背中は小さくなっても“今、できる事を”の文字は私から離れていかない。
「今、できる事を」で止め、「今、できる事をしよう」でも「今、できる事をしているか」でも「今、できる事をしなさい」でもないところが、それぞれ見る者の心に様々な余韻をもたらす。今日一日、言葉は私の中に留まって絶えず私に問いかけてくるだろう。
そうやって町行く人々に戸惑いや不安や反省や気付きを、そしてもしかしたら勇気や決意までもを自分のTシャツの背中が促していることをおばさんはきっと知るまい。
サラリーマンにいきなり腕をひっつかまれて「ありがとうございます!あなたのTシャツのお言葉で今、目が覚めました!」なんて泣かれるかもしれないのである。知らずにそんな大それた役回りをして町中を平気で自転車をこいでいるなんて、私にはできない。
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by zuzumiya | 2016-09-14 20:46 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

お香づいている私

a0158124_21135590.jpg観葉植物を買いに入ったホームセンターでスティックタイプのインドお香を発見した。
その中に「虫除け効果」の文字を見つけ買ってみることにした。最近、猫のしわざなのか何なのかわからないけど(猫は室内飼いでノミ・ダニ取りのフロントラインは済んでいる)、家族で私ばかりが身体を虫に刺されていて、ダニだったら嫌だなぁと思って対策を考えていたところなのだ。値段はなんと88円。嗅いでみるとスーッとしたメントール系のすっきりした中にまさしくインドっぽい、白檀のような独特のえぐみが混じっている。虫除けと言われれば納得がいく香りだ。私はこのお香を焚くわけではない。洋服タンスに入れて防虫剤の代わりにしょうと思っている。ちょうど衣服の柔軟剤も切れてしまったから、服にやんわりアジアンテイストの匂いがつくのもいい。
3本ずつ流しのネットのゴミ袋に入れてホチキスで止めたものを2セット作って、タンスの引き出しにいれていく。ふと表記の「CAMPHOR」の意味が気になってネットで調べたら、なんと「樟脳」のことであった。それなら防虫効果は望めるだろう。こんなふうにお香を使うのは初めてだけど、なんかいい気分だ。
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by zuzumiya | 2016-09-13 21:15 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

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