暮らしのまなざし

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働いてない私が働く私を考えるクリスマス

おととい、来年から勤めることになった園との打ち合わせに行ってきた。
今年度の残り3ヶ月間は研修ということで法人内の園を転々として、保育士としてのカンを取り戻しながらこの法人の掲げる保育の特徴などを身につけていくことになる。
かなり特徴的なところ、一見すると世の中の流れと敢えて逆行しているかのような“こだわり”がある園なので、でもそこが面白いと、ウリだと思って私は志望したんだが、入ってみてどうか、果たして本当に馴染めるかは分からない。
しかし、「どうしてその保育を選んでいるのか」「その何が良くて何が問題か」などをよく見て、保育者としてだけでなく、いち保護者、いちパンピーとしても見て、素直な質問や意見をぶつけてみたいと思う。だって、良いと思えば、普通はどの園でもこぞって取り入れるはずだから。
それにしても、それぞれの家庭での教育方針があるように、保育園もいろいろ保育の考え方が違うわけで、たくさんある中からコレというものを選ぶというのはなかなかに難しい。理念や方針みたいなお題目はいいけど、職員として入ってみたら「あ~あ」という残念な人間関係もあるのだから、ほんと、どこでも何でもそうだが、入って見なければわからないのだよ。
正社員ということでボーナスも出るわけだが、そもそも保育士の査定ってよくわからない。
子育て自体、すぐに結果が出てくれるものじゃないし、母親が何をもって良い母親と周りから評価されるのかわからないように、保育士だって本当はわからないんじゃないだろうか、などと思ってしまう。特によく良いとされる“見守る保育”なんていったら、必要以上の声掛けはせず見守るわけだろうし、でも、それで仕事してることにちゃんとなってくれるのかな、どこで評価されるのかな、なんて素人考えが過る。ま、そんなことはいいか。

で、今日はクリスマスイブです。
ケーキを持って帰る人とすれ違ったり、スーパーでは店員さんがサンタの赤い帽子をかぶってたり、お母さんがごちそうをかごに入れてたり。その周りで子供が跳ねてたり。
「お、このお宅は手巻き寿司ですか」「こっちは洋風ですね」なんて、よそ様のかごの中身をチラ見して(笑)。いいですね、ああいうハッピーな光景を見るのは。
なんか「みんな幸せになれ~」なんて、純粋に思いましたよ。

明日から年末年始、郵便局のバイトに行きます。
肋骨の打撲もよくなったし、咳も出なくなりました。私という人間はあんまり仕事をしていないと貧乏ということもあるんでしょうが、非常に不安になります。だらけきってしまって、再び社会に出てもうまく動けないんじゃないかと不安に襲われるんですね(笑)。
せいぜい2週間も休めばそれでいいんでしょう、哀しい性です。
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by zuzumiya | 2014-12-24 17:19 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(2)

ときどき、こんな気分に

もう、いちばん楽しいことはすべて終わっちゃったんじゃないか、と。
ものすごく冷静に、そう思う。
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by zuzumiya | 2014-12-21 21:04 | 降ってきたコトバたち | Trackback | Comments(4)

生きてるって痛い、辛いことなのね

咳が止まらない。先月の上旬に喉の痛みと咳が出始めて内科へ行き、五日分の薬を飲み終えた頃に今度は自転車転倒で整形外科に行き、肋骨を気にしてたらまた咳が強くなり再び内科へ行き、一週間分もの薬を飲み切ったのに未だ治らない。昼間は会話の途中に突然咳き込み、夜間は身体を横にしてからが酷く、閉じた目のはしに黒い点が映るほど強く深く咳き込み、真夜中に咳のし過ぎでどうにも寝ていられない。今も咳のし過ぎで起きてしまい、これを書いてる。これでは来月からの保育士の仕事にも差し障ると思い、昨日、お薬手帳を握りしめて呼吸器内科へ行ってきた。八月に職場の健康診断で肺のレントゲンを撮り、整形外科でも肋骨でレントゲンを撮り、今月に入って保育園雇入れ前の健康診断でまた肺のレントゲンを撮り、とどめは昨日の呼吸器内科。もう肺には異常がないっていうのにレントゲン三昧で放射能浴びっぱなしだ。で、せっかく呼吸器内科まで行ったのに、何だか医者の歯切れの悪い診断で頭にきた。
「先生、ひょっとして百日咳とかなんでしょうか」と訊けば「そうかもしれませんね」と医者。
「ゼイメイはしないんですけど、でも喘息ってこともあるんですか」と訊けば「そうですね」と医者。
結局、私がネットで調べた咳喘息に話が落ち着いてきて、喘息の飲み薬と今まで飲んできた咳止めより更に強い薬を処方されて帰ってきた。で、こうやって飲んでもいっこうに咳が止まってくれない。
今年の終いは本当に不調続きで病院通いで参った。「健康なら、もう何でもいいや」まさか自分の身体を幼な子のように思える日が来るとは。トホホ。
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by zuzumiya | 2014-12-17 01:56 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(4)

裸木の健やかさ

天気のいい昼間、公園を通った。
重なった枯葉を踏んで歩く。
見上げると、澄んだ空に幾筋もの裸の枝が伸びている。
けやきの木肌は光に照って、なめらかに、しなやかに見える。
そんな裸木を今年は「すがすがしい」と思った。
いらないものは、みな、振るい落としてしまえばいい。
潔く、健やかに。
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by zuzumiya | 2014-12-16 00:10 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

幸せってなんだっけ、なんだっけ

ここのところ、ほんとにいろんなことがあった。
夫の住む近所に息子と娘と私で引越しをして、家族がまとまって住む話だとか、叔母がガンで入院した話だとか…。その両方がなんだか不思議な力で引っ張り合って、結局、私と子供たちは今の場所を引っ越さないことになったし、叔母は昨日、無事にガンの手術に成功した。
12月、私の予定がこんなにも空いていたのは、きっと死んだ祖母のはからいで「叔母の面倒を見てあげて」と頼まれているんだろうなと思う。

でも、手術が無事に済んでよかった。
一人で6時間、家族控え室にいたんだけど、最後の最後まで待ってはみたが、結局、叔母の子供たちも私の母も来てくれなかった。
夕方、ちょっとお腹がすいた時に、叔母の子供たちの家も母の家も「今頃、家族で夕飯食べてんのかなぁ」と思った。「時計をちらっと見ることはあっても、この幸せを誰にも邪魔されたくない、とか思い直してんのかもな」と。
その気持ち、もちろんわからなくはない。そして、私がこうしてたまたま叔母に付き添うことができているから、ま、いいんだけれど。
でも、なんか私は思った。
あなたたちの幸せって、覆いかぶさるように腕で囲んで耳を塞いで「取っちゃダメ」なんて叫んじゃうような、そんなふうにしなきゃ、もろくも失くなっちゃうようなものなのかな、って。私、そんなに明らかな不幸を連れて、あなたがたの家庭をノックしてますか、って。
あなたのお母さん、あなたの妹が大変な病気で、もしかしたらもう治らないかもしれない病気で、でも一人ぼっちで、手術の同意書にすらサインをもらえる人がいなくて、不安で心配でほんとうに困って、ずっと音信不通だった私を頼って、夜中に一人で車を運転してたずねてきたというのに。
自業自得というけれど、叔母がそれなりの事をして、みんなが「ほれ、見たことか」と思いたいんだろうけど、何もしないことでうっすら仕返しをしているつもりなんだろうけど、でも、それって、なんだか本当には叔母の子供たちも私の母も幸せにはなれてないんじゃないかと思う。
うまく言えないが、叔母の子供たちにも私の母にも、なんていうか、守ることにガツガツとしていて、どこか“余裕”がないのだ。ほんとは幸せに満ちてる人なら、何かが起きてもそれを受けとめる心の余裕というものがあるように思える。なんていうか、慈悲とか慈愛とか、感謝とかいうものを心がもっと自然に帯びているのがほんとうの幸せ者なんじゃないのかな。
私、ほんとにお金ないし、叔母さんに頼られても立て替えできないし、病院通いもバスじゃなくて自転車かな、なんて思っているほどだけど、困ってる一人身の叔母さんを過去の不仲で突き放すことはできなかった。
私の方が誰よりも貧乏人だけど、家族が別々に暮らしちゃってるけど、でも私、きっとあの人たちより幸せなんだろうなぁ、と思う。
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by zuzumiya | 2014-12-11 11:44 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(4)

クリスマスリース

送別会で同僚からプレゼントをもらった。
包みを開けた瞬間「あ、リースが帰ってきた!」と思った。
彼女がくれたのは真っ赤なバラのついた素敵なクリスマスリースだった。

子供たちが大きくなって、いつの頃からか、クリスマスの飾りつけもやらなくなった。
クリスマスに家族が揃うことが自然となくなったからだ。
それでも押し入れのなかには兜や雛人形のように、ツリーもダンボール三箱分の飾りも眠っていた。最後にそれがなくなったのは、夫と別居した去年。押し入れの空いた隙間を片づけている時に「もうこれもいらないかな」と思って、すべて捨ててしまったのだ。

私が保母だった昔は12月ともなれば、本棚にはサンタクロースやツリーの絵柄のクリスマス絵本を並べ(毎年1冊ずつ買っていた)、棚の上には天使のロウソク立てや踊るサンタクロースの人形やオルゴール仕立てのピカピカ光るサンタの家を飾っていた。ある年の冬は、リビングの天井まで届く巨大なツリーを母が買ってきてくれて、そこに顔が映り込むほど大きな金の球と数百もの白い豆電球を幾重にも飾った。もちろん、玄関には新婚時代に買った可愛らしいリースをかけ、リビングの壁にも母が持ってきた電飾のリースをかけた。
クリスマスは息子の誕生日もかねていたので、毎年母が来てプレゼントをこれでもかと買いまくってくれたし、一緒に豪勢な食事を食べて、それをビデオにただ延々と撮るというならわしで、我が家では一年でいちばん盛大で楽しいイベントだった。
後年、子供たちの話によれば、息子が中学になって、友人たちからの話と我が家の経済事情もあって、サンタクロースの真実がバレて、それと同時に二歳年下のまだ小学生の妹のところにも突然サンタクロースが来なくなってしまい、娘はこのいきなりのサンタクロースの消え方をずっと根に持っていたらしい。子供たちの間では親のドジさかげんに呆れて笑い話になっているが、その話を娘から言われるたびに、今でも申し訳ない気持ちになる。

同僚の彼女はたしか戸建てに住んでいて、一人娘のお嬢さんは留学かなにかで海外に行っていて、旦那様と猫二匹の暮らしだったと思う。シフトからも私のようにあくせく働く必要のない余裕のある暮らしぶりがうかがえた。送別会のプレゼントとしてクリスマスリースを選んでくれた彼女だから、きっと自宅の玄関のドアにはもうすでに素敵なリースが飾ってあるのだろう。
自転車で住宅街を走っていると、玄関にクリスマスの赤いリースが飾ってあるお宅がいくつかあって、それを見るたび、なんだかその家の幸せと家人の心のゆとりとをリースが誇らしげに物語っているような気になる。「ああ、この家、幸せそうだな」と感じてしまう。

実際、リースのようなクリスマスの飾りつけを嬉々として付けていた頃の私は、やっぱり家族に囲まれて幸せだったと思う。特別な日を楽しみに待っていた。出費はあるけど、いつでも土壇場に母が助けてくれて、絶対いいことがあって、子供たちがすごく喜んでくれて、家族みんなが笑顔になれた。

子供が成長して、友達との付き合いを優先して「今年はいいや」と言われるたび、「ああ、家族の時代が終わろうとしてるんだな」と感じて、クリスマスはだんだん過去のきらびやかな思い出になっていった。そうやって、なんだか大切な何かが少しずつ体から抜けていって、まるで夢から覚めるように、すーっと静かに、心が平らになっていった。
ほんとうなら、家族で盛大に祝うクリスマスから大人のシックなクリスマスに移行できたはずだけれど、移行できたとしても、きっとその後は続かなかったと思う。やはり私にとってクリスマスは、家族のものでしかなかった。恋人時代より新婚時代より、いつの時代より、家族の時代が、いちばんクリスマスが楽しかった。そう思う。

ところがある日、同僚の彼女が突然、クリスマスリースをくれた。
まるで結婚式のブーケトスのブーケみたいに、この手にぽんっと届いた。
我が家に再びリースが来た意味を、ここ数日ずっと考えていた。
リースを飾れるような家じゃない。自分で壊して、もう何もかも終わったんだ。
そんなことばかり、考えていた。

でも、ある朝、光のなかで真っ赤なバラと木の実の精巧なリースをしみじみ眺めていたら、もしかしたらカミサマが「ほら、もっと、素直に幸せを呼び込みなさい」と言っているのかな、と思えてきた。それなら、それでもいいかと、ふっと思えた。
不幸って、事故だとか病気だとか災害だとか人間関係の不和だとか、なんだかそういう禍のことを言うだけじゃない。幸せを願う気持ち自体がすうーっと薄れていってしまうこと、それもあるなぁ、と思う。ドツボにはまると、気持ちはただ凪の海のようになって、何も感じなくなって、願いなど生まれてくる気力もなくなる、どうでもよくなる。

包みを開けた瞬間の「あ、リースが帰ってきた!」と思ったあのぱっと華やいだ気持ちが私の本音なら、なんだか私はまだ、幸せに見放されていないのかもしれない。
ぜんぶなんて、なくなっていないのかも…。
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by zuzumiya | 2014-12-04 16:59 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

弱ってる私が思うこと

最近は風邪が長引いたり、自転車で肋骨痛めたり、すぐ頭が痛くなったり、朝方足がつったりして、なんだか身体じゅう痛いことばっかりでついてないなぁ、なんて思っていて、そういう時にはバスに乗っていてもおばあさんたちの「整形(外科)に行って注射してもらってる」なんていう会話が自然に耳に入ってきて、「そうか、この人は毎回注射しないと痛みがとれない生活を毎日しているんだ」と思ったりする。
人は自分が弱っていないと他人の痛みもほんとにはわからないんだなと、今更だけど当たり前だけど、どうしようもないことに思い当たる。
今朝、就労前の健康診断に近くの医者に行った。採血の時にぼんやり壁を見ていたら、貼ってあった紙に日本人の平均寿命が書いてあった。その下に健康寿命というのが書かれてあって、正確な数字は憶えていないけど、男女ともに平均寿命からざっと10年ぐらいの差があった。看護婦さんに「健康寿命って何ですか」と訊いたら、「寝たきりにならずに自立できている年のことです」と教えてもらった。男女とも健康寿命は70代で、つまり、平均寿命との差の10年ほどは、生きているといっても病気を抱えて寝たきりや要介護の状態でいるという意味だ。だから、平均寿命が男女ともに80代で長寿なんて騒いでいても、自立してやりたいことが自分でできる活動寿命はほんとは70代までということ。
なんだ、という気になった。
そして、やっぱりな、という気になった。
人生は80年というより、健康寿命の70年と捉え直した方がいい。咄嗟に別れて暮らす夫のことを思った。そして、私たちは、いや、きっと多くの私たちが、ひたすら時間を浪費している、と思った。
そんなことを考えていたから、待合室の笑っている老夫婦や、その後立ち寄ったスーパーでも、一人で足を引きずりながら買い物しているおばあさんの姿が目に入って、心がしんとなった。きっとこれもいつも繰り返されているふつうの風景なんだ。でも、身体が弱くなっていて心も弱くなっていて、より繊細になっているから、普段は気にもしないことに気づき、見過ごしているものが見えてくるんだろう。
人は何も持たずに生まれてきて、何も持たずに死んでいく。
だから、人生っていうのは生きている間、すべてを持ったつもりでいても実は借りているだけなんだ。手放すのは、無くなっていくのは、だから当たり前なんだ。ただ、心に積もる想いや思い出だけがほんとに得たものなんだ。そんなこと考えながら、風に吹かれて自転車こいだ。
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by zuzumiya | 2014-12-03 14:39 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(1)

ふだんの暮らしに息づいているたいせつなもの、見つめてみませんか?
by zuzumiya
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