暮らしのまなざし

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くさや女のしあわせな瞬間

huluで「ホタルノヒカリ」というドラマを見た。2007年に日テレで放送されていたドラマだ。
外ではきちんとした身なりでテキパキ仕事をこなすのだが、家に帰るとシミのついたTシャツにジャージ姿で、髪はちょんまげ。あたりめをしゃぶり、片手に缶ビールで縁側でごろごろ。当然、恋愛からも遠のく。ドラマではそういう女を“干物女”と命名した。
当時、この“干物女”という言葉が流行った。あの頃、ドラマの存在は知ってはいたが、主演の綾瀬はるかがイマイチ好きでないので見ていなかった。
“草食男子”の言葉が雑誌に載ってブームになったのが2008年頃だから、“干物女”も“草食男子”もちょうど同じ頃、恋愛に逃げ腰な若者の象徴として、世間でもてはやされていたことになる。
で、20代くらいの若さで干物化しちゃうから“干物女”なんだが、48歳の年季が入ったオバサンの私は、まさに干物中の干物“くさや”ということになるか(笑)。
うちの息子は“干物女”の男版、“干物男”だ。仕事はきちんとこなし、先日もE3に息子の作ったゲームが選ばれ出展された。有給も代休もうんとこさ貯めて出勤していく。でも、家に帰るとジャージ姿でコーラ片手にビーフジャーキー。休日も家から一歩も出ず、ネトゲ廃人化している。もちろん、高校時代にフラれてからずっと恋愛とは縁がない。
美容師アシスタントの娘はクタクタになって帰ってきて、服を脱ぎ散らかした汚い部屋にジャージ姿で寝っ転がっているところまでは同じだが、しょっちゅう恋愛してるから、あれは単に“片付けられない女”なんだろう。
今の季節と同じ季節が舞台になっている小説や映画、ドラマを見るのは心にすんなり入ってきて楽しい。「ホタルノヒカリ」の古民家の縁側。朝顔の鉢や池の金魚、風鈴、蚊取り線香の豚。昭和女子の私はああいう縁側が懐かしいし、好きだなぁと思う。今、小説では三浦しをんさんの『木暮荘物語』を読んでいる。あの本も蝉の鳴く夏から始まっている。
先日、窓にすだれを吊るした。とたんに夏になった。
今日は今年はじめてのとうもろこしにかぶりついた。今度の給料で風鈴と首に巻く手ぬぐいと花屋さんに出ていれば朝顔の鉢でも買って、そうだ、ベランダに小さな池を作って、猫のももちゃんを驚かすために金魚かメダカも買おう。
さっき、もの凄い夕立がきて、水墨画のように世界が灰色に包まれた。でも今は雨が上がって、どこかわからない遠くの方で雷がごろごろと鳴っているだけだ。
梅雨の日のこんな夕暮れ。アイスキャンデーほおばって「ああ、はやく夏が来ないかなあ」と願うけど、「来たらきたで、またあっついんだよなー」と苦笑する、毎年経験するこんな瞬間が私は好きだ。
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by zuzumiya | 2014-06-29 16:47 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

そう呼んでもいいですか?

職場で新しく入ってきた男性スタッフと仲良くなる。
スタッフ「お名前は何でしたっけ? たしか○○さんでしたっけ?」
私「いえ、△△です」
スタッフ「それじゃ、△ちゃんと呼ばれることが多いでしょう?」
私「そうですね。じゃ、××さん(男性スタッフの苗字)は『ナオさん』と呼びましょうか?」
一瞬の沈黙。もしや、かぶった?
その時、私は察してしまったのである。
彼の別れた奥さん及び幾人かの過去の恋人たちは、きっと彼のことを下の名前で「ナオさん」と呼んでいたにちがいないことを…。
かようにして、男女間のあだ名はビミョーに難しい。
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by zuzumiya | 2014-06-27 14:26 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

乙女おばさんと箱入りおじさん

私は最近、アラフォー、アラフィフとそれなりに年齢はいってるものの、実に乙女な恋心の持ち主をひそかに“乙女おばさん”と呼ぶことにしている。
その誕生メカニズムを私なりに考えているうちに、ひょっとしたら自分もその“乙女おばさん”の一人ではないのかと思ったりもする。だから、今から書くことは“乙女おばさん”を揶揄するものでなく、「イタイ!」と貶めるものでもなく、「そうだよねぇ、そうでしょうとも、わかるわかる」という仲間意識のもとに書かれたものと理解してもらいたい。
さて、その“乙女おばさん”とはどういう女性をいうのか。
私が思うに、女性というのは子育てや家庭運営を中心的に関わっているうちに、いや、もしかしたら子育てというひたすら一方的に愛を注ぐような立場に長く置かれるうちに、「私だって誰かにしっかり愛されたい」もしくは「愛した分だけ、愛されもしたい」という“愛し愛されたい欲求”が知らず知らずのうちに心の奥底に溜まっていくものじゃないかと思っている。
子育ての早い時期に夫への愛情は激減するというデータがある。ホルモンバランスやもっと本能的な意味あいで子を持ったメスがオスを嫌うことはあるかもしれない。が、妻が子育てという最も過酷な時期に夫が妻の苦労をきちんと認めて感謝し、積極的に手助けや労わりができなければ、たとえなんとかできたとしても、それが妻の本意とズレているとしたら、夫への愛情や想いというのは冷ややかなものへと変わっていって当然だ。かといって、子育ての最中に家庭の外に愛を求めて浮気やら別居やら離婚やらと家庭崩壊に繋がる行動を起こそうとする妻はよほどじゃないかぎりいない。子育てという「いちばん大事な時期に夫はまったくあてにならない、とんちんかんな男だった」というハズレの想いだけが妻の心の奥底に澱となって沈んでいく。
この夫への期待はずれは、ともすればそのまま「恋愛から結婚の行く末はこんなんだったのか」「このまま私は子育てに追いまくられて、やがてオバサンになって老いていくだけなのか」という自分への情けなさにつながっていく。それゆえ反動的に「ああ、これで終わりたくない。もう一度ときめくような恋がしたい」「誰かにちゃんと求められ、愛されたい(誰かは誰というわけでもないが、夫でもないんだよな…)」という切なる想い、ときめきを願う恋心と化して、家庭という密室で静かに純粋培養されていく。それでほんとうに子育てが終わりに近づいたり、終わった時に、母としての役割がとれて一人の女として自分を見つめ、更年期という「もうすぐあなたの女が終わってしまいますよ」というホルモンの警告によって心はかき乱され、まるで乙女の頃に戻ったかのような純な恋愛エネルギーが突如として噴出する。
ヨン様から始まった韓流ブームは実は一過性のブームなんかではなくて、今だにお熱が続いている。氷川きよしやロックバンドの追っかけしかり。すなわち、それは乙女おばさんの存在の多さと恋愛エネルギーの凄さを物語っている。あくまで家庭は大事で壊すつもりもないが、とんちんかんで情けない夫はもう放っておいて、子育て中からひそかに純粋培養されて溜まっているときめく恋心だけをバンバン放出したいのだ。そういう乙女おばさんの乙女エネルギーを私は「さもありなん」と思うし、非常に健気で可愛いと思うし、「人生はほんとにままならないものよねぇ」と共感も覚えて感慨深かったりもする。
乙女おばさんは結婚して、子育てをして家庭を真面目に懸命に守って、その間、役割と責任をちゃんとこなし、それゆえに押し殺し溜め込んでいた“愛し愛されたい欲求”を子育て終了と同時にバーンと激しい恋心に変えて噴出しているにすぎない。
夫族は「実際に妻がその辺の若い男と浮気してるわけじゃなし、手が届くはずもないスターを追っかけてるなら目をつぶろう」と鷹揚に構えているが、妻が乙女おばさんと化して女性としての楽しみときらめきと元気を取り戻そうとしているのに比べて、夫たちは妻がお膳立てした家庭と上辺の安寧とにどっぷり浸かって、どんどん老け込み、無味乾燥な“箱入りおじさん”と化していく。「私はきよしのツアーに行くから、二日間ぐらい冷蔵庫のカレーをチンして食べていて下さいね」と言い残こされ、玄関に鍵をかけられ、文字通り、家という箱に置き去りにされる夫たち(そういう意味でも“箱入りおじさん”なのである)。
中高年の夫婦のうち、どれくらいのパーセンテージになるのかはわからないが、この“乙女おばさん”の相方に“箱入りおじさん”というものが存在すると私は思っている。乙女おばさんの乙女エネルギーが強いほど比例して、放置された夫たちの“箱入り度”も進む。この“箱入り度”というのは夫族が「ああは言ってるけど、妻は現実の世界では俺をいちばんに頼り、愛しているはず」という妙な自信のことである。
ま、乙女おばさんはそういう夫の勘違いな自信すら自分の恋と妄想のために逆手にとってコンサートや旅行へと出かけていくしたたかな面もあるのだが、恋する相手にはとにもかくにも純情一途である。
ただし、おばさんで人生の経験値が高いがために若い頃のようなムダな冒険はしない。乙女らしく恋に恋する価値というか、「恋をしている今の状態がいちばん幸せで、もうそれだけでいいじゃない」という、ある意味、自分の身の程をわきまえている。人生をひとめぐりして「片想いの愛しさも切なさももどかしさもみんなひっくるめて、恋っていいわよねぇ」という原点に立ち戻れている。
私の友人に同じ年で片想い中の乙女おばさんがいるのだが、飲むたびに私なんかより肌ツヤはいいし、会話の中に48とは思えぬ若々しい恥じらいと悩ましさが垣間見えて可愛らしいし、なんだか私なんかよりずっと人生をエンジョイしている感があって実に羨ましい。別の友人からは「年齢から言って先行きを考えれば、自分の気持ちを告白したほうがいい」とか「人生一度きりなんだから」と煽られもするのだが、告白することで今のいい友だち関係が崩れるのが怖い(←乙女!)んだそうで、「大人というのは若い頃のようにガツガツ先へ急がないというのもアリなんだな」と改めて気づかされたりする。
私自身もエレカシの宮本くんに関しては今思えば実に恋する乙女であった。今だって、幸か不幸か、宮本浩次以外の男はどいつもこいつも全員色あせて見えてしまう。そういう意味で私も乙女おばさんの資質が十分にあると認めているわけだが、人生それなりに長く生きてきたが、おばさんであって同時に乙女でもあるという、長く生きたがゆえのフクザツな面白い時をこうして味わえることはやっぱりいいかも、と思うのだ。
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by zuzumiya | 2014-06-27 01:04 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(19)

長倉和平は優柔不断か?~続・最後から二番目の恋にみる大人な潔さ~

a0158124_12541859.png続・最後から二番目の恋が来週ついに最終回を迎える。
中井貴一演じる妻に先立たれた52歳の公務員、きまじめと誠実を絵に描いたような長倉和平と小泉今日子演じる48歳独身テレビプロデューサー、元ヤンで姉御肌の吉野千明の喧嘩まじりのかけ合いと不器用でちょっともどかしい大人の恋の行方が楽しみなドラマだ。
続編の方がセリフのかけあいのヒートアップさが弱まった気がしていたが、主人公たちもそれなりに年を重ねていて、その分、会話の中に中年男女の生きていくおかしみや切なさがにじみ出ていて、しみじみと染みてくるセリフまわしになっている。
特に前回の第10話、前々回の第9話あたりは、中年女子なら(ここは敢えてオバサンとは言いたくない)思わず胸を掴まれ、しばし我が身を振り返って考え、ひとり反芻してしまうセリフが満載であったように思う。
そのセリフのどちらにも関係しているのが、長倉和平という男。
前回では優柔不断と皆にいじられていたが、実はぜんぜん優柔不断なんかじゃなく、むしろ、大事なところでは誤解のないよう、ズバッと直球で本音を言ってのける、結構手厳しい男であると私には思えた。特に「友だちになりたい」という長谷川京子演じる、バツイチの癒し系天然美女原田薫子に対しては、それが発揮されていて、見ているこちらが勝手に傷ついちゃったりする。

例えば、薫子と和平の会話(第9話)。
薫子「それでね、私、ちょっと確認したいことがあるんです、長倉さんの気持ち。私のこと、どう思います?長倉さんは優柔不断なので二択にします。好きか嫌いか、二つに分けるならどっちですか?」
和平「それでしたら、もちろん、好きです」
薫子「ありがとうございます。じゃあ、女としてはどうですか?恋愛対象として好きですか、嫌いですか?」
和平「あ、あの、原田さんのこと、あんまり知らないし…」
薫子「どっちですか?あるなしで言ったら、はい、どっち?」
和平「なし、です」

この後、「人としては好きだけど、恋愛とかそういうふうになりたいわけじゃない。よかった、一緒です、セフレになれますね」ととんでもない方向で喜ぶ薫子だが、内心ではほんとうに喜んでいたのだろうかと思う。恋愛対象として「なし」とはっきり目の前の男に言われてしまうのって、実は女としてはいくつになってもきつくないだろうか? 後で反芻してじわじわ落ち込みそうである。
二択じゃしょうがないとはいえ、こういうことを濁さないで、逃げないでビシッと言い切ってしまう長倉和平はほんとに生真面目というか、男としては不器用な奴なんだが、決して優柔不断ではないと思う。女の出す究極の二択は、男の人間性というか真面目さの尺度なんだな、と思ったりする。

同じく薫子と和平の会話(第10話)。
和平「友達から恋に発展することが多いともおっしゃってました。私はね、そうは思わないんです。本当に友情を抱いてる異性とは、その関係を大切にしたいから、なかなかそういうふうにはなれないんじゃないのかなと思ってるんですよね」
薫子「うーん、そういうもんなんでしょうか。私は長倉さんのことを好きになりそうだから言ってるんです」
和平「先のことは分かりません。でも 、もし、もし万が一あなたが私のことを好きになってくださったら、その時は、失礼な言い方ですけど、きちんと失恋していただきます。恋愛にならない友達。友達は、ずっと友達です」

この「きちんと失恋していただきます」には驚いた。たぶん、この回のメインのセリフ、いちばんおいしいセリフ(脚本家目線なら)なんだろうが、テレビを見ている中年女子は全員、ド肝を抜かれただろう。自分のことを好きになりそうだと告白している女に向かって、「こういう言い方をしちゃうのか、長倉和平という男は!」としばし固まったんじゃないか。
実はこの和平のセリフ。流れの中ではいい感じなのである。私はこの「失恋していただきます」を立たせたいがために敢えて一連の流れを書かなかったが、このセリフの前にあくまで“友人として”発するセリフがある。薫子に「大人はみんなさみしいから、何とか少しでも人生を楽しくしたいって、みんな必死にもがいてるですよ、私も含めて」とか「恋をすることをあきらめないでほしいって思うんです。少し時間はかかるかもしれないけど、あなたにはちゃんと人生を楽しんでもらいたい。そう思うんですよ、友人として」と優しいアドバイスがあったりする。そういう友人として薫子を思う前フリがあっての「きちんと失恋していただきます」ではあるのだが、それでも、それでもである。恋心を持った女を崖から突き落としてないだろうか、この言葉は。これが優柔不断といえるだろうか。和平、おそるべし。

ここで中年女子の我らが(勝手に我らにしているけど)考えておかなきゃいけないのは、男女の友情問題である。中年まで長きを生きてきて、どれだけの男女が友情を恋愛にさせずに友情のまま、知人レベルに落とさずに大事に育んで来られただろうか。よく言われる“男と女の間に友情は成立するか”という根源的な問題だが、仲良くなって、二人でいるのが俄然楽しい思えば自然の摂理で恋愛感情は芽生えてしまうものと私は思う。そして、一度芽生えた感情を恋愛だと本人たちが認識したとたん、関係はギクシャクしだす。大抵はそこで気持ちが抑えられなくなり、白黒つけたがって告白になる。今回の薫子も「好きになりそう」と言いながらももうたぶん、だいぶ好きになっていることの告白をしているものと私は解釈しているのだが、見事に撃沈させられた。和平の言葉はかなりキツイが、和平が恋愛感情はないこと、友情を純粋に育みたいこと(もともとは薫子がそれを望んでいた)をはっきりさせるには、これくらいの直球でガツンと行かなければ哀しい誤解が生じると判断したのだろう。そう、誠意という言葉があるが、まさに自分の気持ちを正直に伝えることが相手への誠意、二人の関係への誠意と和平は思っていそうである。
で、友情問題だが、友人関係を続けるか終わらせるか、いかようにでもできるのは撃沈させられた今後の薫子の方である。まさに薫子に全てはかかっている。「友達は、ずっと友達です」(これも受け取り方によってはかなりキツイ言葉なんだが)言ってくれた和平との間の距離感をどうとるか、である。ここで撃沈させられたことを意識しずぎて距離をとりすぎると友人から知人へ、すとんとレベルダウンしてしまう。「恋愛が冷めると友人ですらいられなくなる」そういうもったいない失敗パターンを我々中年女子は人生で何度経験してきたことか。若ければ先の人生は長い。まだたくさんの出会いが待っている。(ほんとはさほどでもないんだが)少なくとも希望を持ってそう思える。でも、中年ともなれば先は短いし、出会いの貴重さは若い頃の比じゃない。
人生における喪失感や情けなさをわかって、なんとか受け入れてそれでも生きていかねばならない中年は、恋愛の激しく胸焦がれる熱さもそれが維持できず冷めていくやるせなさも知っている。茶飲み友だちという言葉もあるが、年をとるにつれ、人生のままならなさを笑って認め合い、友情というほどよい湯加減の親密さが男女ともにいいものだということ、人生に変わらぬ励ましと滋味を与えてくれるありがたいものだということをわかりはじめている。互いにどこか情けない、不格好な生き様の中年だからこそ、男女のせわしなく求め合う恋愛じゃなく、ゆっくり与え合う友情がようやく育めるものかもしれない。ようやくそういう何でも急がない(年齢的には急ぐんだが)、白黒つけなくても成り立つほどよい関係をゆっくり愉しめる年、いわゆる“大人”になれそうなのかと、なんだか思えた。すなわち、男と女の友情は中年になってようやく余裕を持って育めるもの、ってことだろうか(逆に燃え盛っちゃう人もいますが)。我が身を振り返って考えなきゃいけない大事なポイントを今回提示された気分だ。恋愛に行き止まりはあっても友情にはない。長く長く歩いていくことはできる。

さて、その白黒つけない関係だが、和平に恋心を抱いてる柴田理恵演じる市長のセリフにいいのがあった(第9話)。

市長「長倉さん、お気づきだと思いますが、私はあなたに恋をしています。だからといって別につき合ってくれと言ってるわけではありません。私は私なりに自分のことはよーくわかっているつもりです。つまり、その、女性としてのポテンシャル…。ですから、この恋が実る可能性があるとは思っておりません」
和平「いえ、そんな…」
市長「あるんですか、可能性は?」
和平「市長、あの、お気持ちは大変うれしいんですが…、申し訳ございません」
市長「断らないで下さい。恋愛はできなくても片想いする権利くらい、私にはあるはずです。片想いには二種類あるんです、長倉さん。一つは想いを告げて、その結果失恋に終わる片想い。もう一つは想いを告げず、あるいは結果を知らされず、永遠に続く片想い。後者の場合、ずっと夢を見ることができます。ですから、そうさせて下さい。人生、最後になるかもしれない片想い。結果のない片想いにさせて下さい。お願いします」
市長「というわけで、私はあなたに恋をしつづけます。ええ、長倉さん、あなたはそれを知ってはいるものの、答えを出さない、優柔不断な男でひとつ、よろしくお願いします」

この言葉のあと、乙女な市長はそっとすすり泣く。
中年女子はこの市長の懸命な心からの言葉にきゅんとしただろう。“女性としてのポテンシャル”。この言葉、私もあるのかないのか、ここ数日、ずいぶん反芻した(笑)。
実際、私と同じ年の友人にこの市長タイプがいる。
飲んで問いただしたら、結果を出さずに、自分の心のなかだけで大事にしておきたいから告白は絶対せず、今の仲良しの状態をキープするんだそうだ。この気持ちもよくわかる。友情の話でああは書いたが、実際のところ、多くの場合が告白をしてしまったためにギクシャクして自然消滅するというパターンは多い。第10話で薫子にあそこまで言い切った和平はそのままいつもと変わらない態度を貫くだろうが、彼女の方が意識しずぎておかしくなれば、和平ももう追いかけはしないのである。薫子があらためて、気を取り直して、友情維持に心を向けるしかないのだ。
私の友人の場合も、彼女の乙女度を考えてみても、おそらくは告白してしまったら自然消滅に追い込まれるだろう。友人のひとりとして笑ってそばに居る、その方が彼女にとっては幸せが長く続くことなのだ。市長の言うとおり、恋愛は成就できなくても片想いする権利、想い続ける権利は乙女だろうがプラトニックだろうが、誰にでもあるのである。今風に「いい年をして痛い」と片付けてしまうには惜しい、染み入る言葉である。
長倉和平、優柔不断と揶揄されていたが、なんのなんの、言うべきときにはきっちり言い、それゆえ、誠実さが時にちょっと酷にも思える男であり、そして、同じくこの市長も言うべきことはきちんと言って、何より自分に懸命に言い聞かす、二人のその線引きかげんの潔さが実に大人だなぁ、と思った。
次回が最終回だが、この優柔不断のオーラがあっても決して優柔不断じゃない長倉和平という男。本命、千明にどこまで潔く言えるのか。そして姉御肌の千明は(和平の前で泣いちゃったし、おんぶもされちゃったけど)そんな和平にどう潔く“大人”を見せてくれるのか、楽しみである。
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by zuzumiya | 2014-06-21 12:45 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(2)

中年夫婦の齟齬と再生の物語〜55歳からのハローライフ〜

14日から始まったNHK総合の土曜ドラマ「55歳からのハローライフ」(原作は村上龍)。
本は以前に読んでいて、私も中年なので身につまされるというか、実に共感するところが多くて味わい深かったんですが、この度、ドラマ化されました。ドラマの方もすごく面白いんです。最近、NHKのドラマはいいものが多い気がします。民放より優秀です。
初回は、最近俳優としていい味を出しているリリーフランキーさんが主演。
仕事一筋で生きてきたサラリーマンの男。早期退職したお金でキャンピングカーを購入して、妻と日本中を巡る夢を今まさに実現しようとしています。でも、妻の方は家庭を顧みずがむしゃらに働く夫にすがることなく、精神的に自立していて、絵を描く趣味を持てていました。妻は夫のキャンピングカー購入の話を聞いて、いい顔をしません。ある日、「絵を描くために自分の時間を自由に使いたいの」という妻の本音を聞いて、夫は愕然とします。夫婦それぞれの第二の人生への夢、その思いのすれ違い…。限りなくリアルであるから、切なくもあり、可笑しくもあり。一生懸命生きてきたはずなのに…。ふと、中年がいとおしくなる、そんなドラマに仕上がっています。
夫の家で二人で見ていましたが、我が身に引き寄せて「この夫婦、どうすればよかったんだろうねえ」としばし語り合い、どこの夫婦にもある「根っこは互いに良かれと思ってはじまった思いのすれ違い」に行き着いて、二人ともしみじみしてしまいました。次回は風吹ジュンさん主演の「ペットロス」。ペットの死がどんな夫婦の齟齬を、そして再生をあらわにするのか楽しみです。
                     
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by zuzumiya | 2014-06-18 16:08 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

Tシャツにお洒落手ぬぐいで半衿あそび

先日、お相撲を見に行った知人からプレゼントされた力士の絵柄の入った黄色い豆絞りの手ぬぐい。仕事で汗をかくので、首に巻いています。以前、冬にこのブログで防寒とお洒落用に手ぬぐいを首にまくことを提案したことがありましたが、今年の夏は汗取りに実行しています。Tシャツにカラフルな色や絵柄の今風手ぬぐいを買って合わせています。ちょうど着物の半衿のように、首元からチラリと手ぬぐいの色と柄が見えて、可愛らしいアクセントになりますよ。手ぬぐい専門店の「かまわぬ」さんや和風雑貨の置いてあるお店を覗いては、Tシャツに合いそうな手ぬぐいを探しています。ほんの首元の、見えている部分が少ないので、大胆な色や絵柄を選ぶのがポイント。私は黄色いTシャツに「かまわぬ」さんで買った紫の「すみれ」を合わせています。今年の夏、Tシャツにタオルではなく、Tシャツには手ぬぐい、下はステテコかリラコで粋に涼しく過ごしたいものです。
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by zuzumiya | 2014-06-18 15:56 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

お誕生日、おめでとうございます。

今日も朝から横殴りの雨で、レインスーツを着てびちょびちょになって自転車で走る。
なんか、全身雨に濡れそぼって、これから行きたくもない仕事に行かなきゃいけない自分が、すごーくみじめ。出たよ、更年期障害。ふつふつと怒りがわいてくる。
でも、誰かを怒ってみても恨んでみても、結局、今あるこの人生から降りることはできず、ひとりでも生きていかなきゃいけない。ペダルをこぎながら「幸せになることこそが最高の復讐」を呪文のように繰り返す。で、誰に?何に対する復讐だ?それにしても“復讐”って言葉はキッツイよな、復讐まで怒ってんのかな、怒ってないよな、あたし。なんて考えて、一人で可笑しくなる。
「いやな日だよ、まったく」と沈んでいたら、ふと職場の新聞で今日が12日だと知り、宮本くんの誕生日であることを思い出す。
それでも、やっぱり宮本浩次って男は凄いですよね。
あんなふうに降ってた雨がやんで、仕事帰りには見事に空に白い月が浮かんでましたから。
きれいでしたよ、白くてまんまるい月。宮本くんの、月。
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by zuzumiya | 2014-06-12 23:32 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

せこい商売

定食屋のバケツにこんもり紫陽花が差してあって「一本150円」の張り紙。フラフラと引き寄せられたが、バケツの先に野生の紫陽花が群れ咲いている。「なんだよ、庭先の紫陽花を切り売りかよ。絶対買ってやるもんか」と思った。
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by zuzumiya | 2014-06-12 20:34 | ちっちゃい器で生きていく | Trackback | Comments(0)

たかみなの言うとおり!

今日の夕食時はすごく気持ちよく仕事ができた。
やっぱりお互いに気を遣って、お互いのために少しでも頑張って動くというのはいい。
気持ちが通じ合うというか、「頑張ってくれているから、こっちも頑張らなきゃ」というふうによい方向へ力が結集して向いていくような気がする。こういうことがときどきメンバーによって起こるから不思議だ。気の合うメンバーということなのだろう。一緒になると仕事が早いし、気持ちが疲れず、何より達成感がある。
私が昨日頭痛で休んだことを心配してか、彼は食事の台車を運んで行くと言ってくれた。私は入居者の歯磨きで忙しく立ち動いていたけれど、時間を見ながら動いているのでじゅうぶん自分で台車は返せた。
「大丈夫ですよ、私が持っていけますから」
でも、彼の台車を持っていく口実がまたいい。
「いえ、ちょっと台車を持っていくついでにトイレへ、ね」と照れ笑い。
「また~、気を遣ってくれてるんじゃないですか?」と私も笑う。
ほんとは私が病み上がりなのに率先して動いていた姿を見ていて、手伝ってくれたのだと思う。だって、その後、彼はまた別のグループの台車まで運んであげていたから。
たとえ、ほんとにトイレのついでだとしても、そんなことはいいのだ。いっぱい頑張って、人から親切にされて、仕事終わりに特別うれしくて清々しい気持ちにさせてもらえたのだから。
努力って、こんなふうに人から返されて報われることもあるんだな。
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by zuzumiya | 2014-06-10 21:48 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

すごい混んでいるのかな、バルテュス展は

a0158124_175155.jpg有給婚の私は今月も休みをとって15日は夫宅へ行く。先日のしけた結婚記念日のやり直しだ。
さて、今回は何をしようか。上野のバルテュス展を見に行こうか、それとも映画X‐MENの最新作か、両方か。映画といえば、今月の28日から公開のジョニー・デップ主演『トランセンデンス』も面白そうだ。でも、ジョニデの方は来月のお楽しみにしてとっておこう。
やはり、バルテュス展を見ておくべきか。さて、そのバルテュス。「称賛と誤解だらけの20世紀最後の巨匠」と銘打たれているらしいが、私はこの「誤解」という言葉、そもそも芸術に向けて使うべき言葉じゃないんじゃないかと思う。いかにもバルテュスの絵をちゃんと理解した人間が「バルテュスの絵を誤解しないように」と注意を促しているみたいな言い方がとんちんかんに思える。
日曜美術館という番組内でバルテュス自身の言葉として「私は自分の絵を理解しようとしたことはない」と紹介していた。あれは、私が思うに「理解なんてしてもらわなくて結構、そもそも芸術に理解という言葉はふさわしくない」っていうふうに捉えたんだけれど。理解の対語として誤解があるのだから、誤解なんて言葉、そもそもそういうバルテュスに使っては失礼だと思うんだが。
バルテュスの絵は、いわば挑戦的だ。人間の心の内には清らかで聖なるものを好む部分と俗で邪悪なものを好む部分が混在している。そうであるから人間は非常に複雑でそれゆえ愛しくて憐れむべき存在なんだが、その相まったところを揺さぶってくる、揺さぶってゆらゆらと浮き出てきたものを突きつけてくるのだから、挑戦的な絵だと私は思う。絵から何が見えるか、どう見えているのか、見て感じたままがあなたなのだから…と深層心理のテストを受けてるようにも感じてしまう。
バルテュス自身が理解しようとしないと言うのだから、感じたままでいいではないか。どう感じてもよい、どう受け取ってもよい、そのありとあらゆる正解のない自由さが芸術の醍醐味なのだから、誤解もへったくれもない。そう思うから、私はバルテュスの絵が好きだし、バルテュスの絵に限らず、芸術というもの全般に惹かれる。作品は作者のものであって、同時に受け手のものである。もっと言えば、バルテュスの絵であって、でももうどうしようもなく私の絵であるということ。凄いよね、そういうのが許される世界って。
言語でない絵画芸術の世界だからこそ、そのぶん縛りは溶けて、あらゆる人のあらゆる絵になっていく。しみじみと芸術は人間に許された感性の解放、カタルシスだと思う。
私がときどき、美術館へ出向くのも日常の縛りから逃れて、感じたままをよしとする自由さ、自分のこの生きている感性を自分で確認して味わいたいから。「アートを日常へ」なんていうのと真逆な気持ち。そんなアートはたちまち商品になってしまう。非日常だから、ズドンと効く。そう思う。
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by zuzumiya | 2014-06-08 17:56 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

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