暮らしのまなざし

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カップルの主導権

今日、こんなことを思った。
昔も私がデートの主導権をにぎっていたが、今でも夫は私の行きたいところへ何の文句も言わずについてきてくれるし、部屋では私の好きな音楽ばかりをかけさせてくれる。映画鑑賞は二人の共通の趣味だが、私が見たいものを譲るということはあまりない。恋人時代からずっと何でも自由にさせてくれているが、ふと彼はそれで満足なのだろうかと今になって不安になった。なぜかというと今は別居していて、彼にも本来許されている自由があるからだ。自分で好きなものを選んで生きていいし、好きなもの味わう自由は素晴らしい。昨日も私の好みで銅版画を見に行ったのだが、本当は見たかったのかどうか…。無理してたんじゃないか。
以前に「子宮に沈める」という映画に連れて行った時、あまりにマイナーな内容なので直接聞いたことがある。「私の好きなものばかり付き合ってもらってていいの?」と。そしたら夫は「自分では選ばないとか、知らないものだから、そういう情報をもらって助かってる。たしかにマー(私のこと)が良いというものはそれなりに良かったりするから」と言われた。
次に会う時は国立西洋美術館の「非日常からの呼び声 平野啓一郎が選ぶ西洋美術の名品」という展覧会に誘って、私の好きなあの静謐なハンマースホイの絵を見てくる予定だが、大丈夫だろうか。
いつか「もう、いいかげんにしてくれ。離れてみてわかった。もう君に合わせていく必要などないんだ」と言われるんじゃないかと心配してる。
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by zuzumiya | 2014-04-28 00:05 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(2)

ほんとうの私の家って、何処?

朝、目覚めるとベージュがかったサーモンピンクのカーテンが見えた。この色は、ほんとうに夫に似合う。穏やかな夫の色だと思う。天井を見、ぐるりと白壁を見、私ならここには置かないなと思いながら時計を見、カレンダーがまだ三月なのに小さく驚いて、隣の夫の寝息につきあたる。ここは夫の家の和室だ。
昨日は二人で日本橋の美術館まで行って、私の好きな南桂子の銅版画を見てきた。それからコレド日本橋まで歩いて、先日届いたソファにかけるファブリックを見たり、池袋へ出てセンターテーブルを探したり、suedeのCDをタワーレコードで買ったりして、久々にものすごく歩いたのでかなり疲れた。私は二日続けて夕飯後に早々とダウンして寝てしまい、洗い物はすべて夫がやってくれた。ここに来ると、私はお客さんになる。夫は気遣って外へ出てもお金はぜんぶ払ってくれる。時にはデートみたいにそれが心地いい気もするし、私が来たばかりにと思って申し訳ない気もする。
こうしていつもの習慣でひとり朝早く目覚めて、仕方がないのでリビングに出て新品のソファに寝っ転がってぼんやりしながら考えるのは「ここにも、どこにも、私の家はないんだ」ってことだ。ここは家具から本やCDやDVDや鍋釜の類までぜんぶ夫のもので、まごうかたなき夫の家だ。クッションカバーも夫の好みを優先した。かといって私の自宅がほんとうに私の家かといえば、そうじゃない。あそこは母の持ち家でいづれ出て行こうと思っている仮の家なのだ。どちらの家も本気で自分の住みたいように、やりたいように打ち込める家じゃない。48にもなって、いまだ自分の終の住処がどこになるのか見当がつかない。ほんとうは、ほんとうは、と思いながらいじいじ生きている。ほんとうは、西荻窪辺りに住んで深緑の沈むようなふかふかのソファに寝っ転がって本を読みたいんだよと常日頃思っているが、それ以上は頭の中に映像が浮かんでこない。実現できないってことなんだろう。実はただの願望で、本気でお金を貯めたり実現しようと思っていないんだろう。
ほんとうは、ここでもなんだけどな、と思いながら夫の家を見まわしている。
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by zuzumiya | 2014-04-27 08:57 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

どんどんダメになっていく

ここのところというわけでもなくずっと、朝に夕に部屋には静かなピアノのジャズばかりを流していた。仕事は近所で車椅子の老人相手。職場と家とスーパーを往復して、家事の合間には本を読むか文章を書くか映画を見る。朝が早いので、夜の9時には頬を打っても眠くなる。休日は朝寝床で本を読む時間が長くなるだけで、特別に何処かへ出かけることもない。あまり変わりばえのしない毎日を送っている。
日々を無事に、暮らしを守るということは、こういう平穏さを繰り返し繰り返し続けていくことだ。
でも、突然、「Suede」を知ってしまった。衝撃的だった。ロックというのは、“やたらにかき乱す”こと、“どこかをダメにすること”なんだと思い知った。平穏無事が一挙に崩れて、静かに沈殿していたものがもやもや浮き上がり、てらてらと光うごめいて悩ましくなった。これは何かに似ているなと思ったら、“恋におちること”だった。最近見たリドリー・スコットの映画「悪の法則」でキャメロン・ディアスが車とファックするという馬鹿げたシーンがあったが、ひょっとして音とファックしてる?!と思えるほど、私は今バーナード・バトラーの唸るギターが好きだ。
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by zuzumiya | 2014-04-21 13:52 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

見事にハマりました!

先日、知った「Suede」。見事にハマりました。ヴォーカルのブレット・アンダーソンの甘ったるくてヒステリックな歌声といい、それにからみつく官能的でクレイジーなバーナード・バトラーのギター。90年代はじめ頃、私はいったい何をしていたのでしょう。子育てのまっ最中でした。
でも、よかった。今、知ることができて。うれしい。youtubeで聞いていたら息子が「志村けんが歌ってるみたい」と笑ってましたが、母の日に買ってもらいましょうか(笑)。
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by zuzumiya | 2014-04-19 18:51 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

フェイクな観葉植物

風もなく日差しが穏やかな春の日にはなぜか花が買いたくなる。
それも切花じゃなく、ふかふかな土の鉢植えのもの。冬の間しまっておいたプランターを引っ張り出して、あったまった土をいじくりまわしたくなるのは、幼い頃のどろんこ遊びの名残だろうか。
それから、まなこをさっぱり洗われたような欅の早緑が目立ってくる今頃には、風景だけじゃ物足りなくて、部屋の中にも緑の葉物がいくつも欲しくなる。毎年のことだ。
だが、我が家には遊び盛りのお転婆な若い雌猫、ももちゃんがいる。切花でさえ、鼻っつらを入れてくんくん匂いを嗅いで、前足で揺さぶり、猫草のようにカミカミしようとする。先日、娘がもらってきたチューリップのミニブーケはいつやられるかと心配はしていたが、昨日、見事に倒され食卓を水浸しにした。iPadがそばになくてよかった。
こんなんだから、アジアンタムのような豊かな葉物の観葉植物なんぞ、危なくて部屋に置けないのである。
さっき、テレビの情報番組を見ていたら、雑貨屋さんでフェイクな観葉植物を紹介していた。種類も豊富で、あれならももちゃんも無関心でいてくれるんじゃないかと欲しくなった。だが、ああいうものはフェイク感がバレバレの安作りだと子供のままごとの材料みたいで哀しくなる。葉物はフェイクっぽさが出やすいので、小さめの葉の、本物かどうかあんまり見分けがつかない、例えばアイビーみたいなものを買う方がいい。驚いたのは多肉植物で、テレビからではあったがフェイクらしさがなく、実に本物っぽかった。
ベランダでは本物の鉢植えを育て、室内ではフェイクでもいいから、なんとか緑を増やしたいなぁと思う春の休日。
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by zuzumiya | 2014-04-19 14:00 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

丁寧にくらすコツ

今日、こんなことを思った。
今、エッセイを二冊、並行して読んでいる。荒野さんの方は小説家の素顔を(素顔なんてものは、なにせ嘘話を作る小説家なんだからものの数パーセントかもしれないが)垣間見る感じで読み進み、飽きると千ちゃんのふだんの日常を読む。本を読んでは、家事に立ち、そのついでに猫の遊びに付き合ったり。眼鏡を遠いのと近いのと、両方共を丸眼鏡にしてしまい、居眠りをして起きた時には、取り違えてかけてたり。
ふと、「丁寧にくらしたい」のならば、よいエッセイを読むことじゃないか、などと思い立つ。
しかも、そのよいエッセイというのは、なるべくなら日々雑記の類である。
どちらのエッセイもまだ途中なんだが、荒野さんのエッセイはお父様との思い出や旦那様との暮らしぶりなどいわゆる「小説家の素顔を覗く」楽しみでしかないように思うけれど、石田千ちゃんのエッセイは、予想していたとおり「日々の暮らしから見えてきたことども」だった。いわゆる「日々雑記」の類である。たまったアイロンをかけてたらいつのまにか季節が変わっていただの、菜っ葉をゆでて春を見ただの、散歩で冬の木々から励まされただのである(あまりにざっと書きすぎて味わいがないが)。でも、小説家が講演の旅をして美味しいものを食べてどうだったとか、どこそこのパーティーではっちゃけたとか、そういう話はあまりに自分とかけ離れているし、本来小説家である人がエッセイを書くときに使う「裏話」のような持ちネタを見せつけられているような気がして、そのうち「ふうん」と飽きてくる(荒野さんが、というのではないですよ)。反対にエッセイで売ってる(立ってる)作家さんたちは、「目のつけどころ」が勝負だったりするわけで、ふだんの日々雑記の類でも、ハッとさせられることが多い。それで、なにせ書かれてあるのがふだんの暮らしなので、事件も事故もない。ただゆっくり時間が淡い色合いで流れていく。一篇読んでも、一文心に残る際立ったものがあればメッケもの(失礼!)。何もなくても、書き手と一緒にのんびりと時間を過ごして、ただそこに暮らしている感じ、ゆったりした息使いばかりが残る。
千ちゃんのエッセイを立て続けに何篇も読んで、本のなかでは季節が移り変わり、私の枕元の朝の光が濃くなって、ゴミ出しに行かねばと起き上がる。9階の共用廊下に立ち止まり、街を遥かに見晴かすと、桜にかわって、けやきの緑が目立ってきた。眺めながら、ふっと「こういうことか」とわかった。この心持ち、このゆとりは千ちゃんのエッセイの呼吸だったと思い出す。「丁寧にくらす」コツはここにもあったか。
日々雑記を「つまらないもの」「とるにたらないもの」とバカにしてはならない。みんなの足元だからこそ、日々雑記を書くのは、書き続けるのは、難しい。
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by zuzumiya | 2014-04-19 10:15 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

世界がひろがっていく

あるサイトで宮本浩次が非常に好きということでUKロックの「suede」というバンドを知る。早速、youtubeでPVを見、音楽を聞く。まるでボウイ・チルドレンだ。どことなく懐かしい。「情緒がある」と言ってた意味がよくわかる。それにしてもyoutubeは便利だ。いろいろ教えられる。
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by zuzumiya | 2014-04-18 11:34 | Trackback | Comments(0)

漏らして生きる

老人ホームで働いてみてわかったのだが、頻尿のおばあさんというのは実に介護士泣かせである。
「トイレ~」と叫ばれたものを知らんぷりもできないので、食事の配膳や介助の途中でもエプロンを外してトイレへと向かう。時にはほとほと困った顔をして「え、さっき5分前に行ったばかりじゃないの。ほんとに出るの?」とか「食事中だから、もう少し待てませんか?」なんて、ちょっと変化球を投げてはみるが、向こうはぜんぜん意に介さず、「はやくしないと、漏れちゃうよ」と催促する。でも、きっとそこまで頻尿だとトイレに座わらせてもチョロっとしか出ないんだろうな、なんて想像する。
こういう頻尿気味のおばあさんがフロアに何人かいると落ち着かない。しかもどういうわけか、食事の配膳などスタッフがわざわざエプロンに三角巾をつけてバタバタ動き回っているときに限って、非情にも言い出すのである。“出物腫れ物所嫌わず”とはいえ、介護士はその都度、ヨイコラショっと体を抱えてトイレに座らせるのだから、回数が増せばさすがにいい顔もしていられないだろう。
今私は48歳だが、なんとなく若い頃に比べてトイレが我慢できなくなった。と同時に尿もれパッドのCMも目につくようになった。出産経験のある女性はどうしても息むので尿もれがしやすくなるのだという。
私なんか4キロ超えの長男を帝王切開することなく普通に産んだので、近い将来、尿道がゆるゆるに弛みそうである。病気で子宮を摘出したため、月のものは既に30代からなく楽をしてきたが、またナプキンのようなものを今度は尿もれ対策で付けなきゃならない日が来るのかと思うとげんなりする。女はつらいよ。
でも、今の日本の紙おむつや生理ナプキンの品質は凄い。高分子ポリマーだか何だか知らないが、吸収力はハンパないし、防臭効果も抜群だ。だから、今CMで流れているように、40代でも50代でもオフィスで涼しい顔して人知れずオシッコをチョロっと漏らせる時代なのである。
片や頻尿のおばあさんたちの中年時代には、そんな優れた尿もれパットなんかなかった。オシッコを漏らすことは女の最大の危機、最高の恥だったわけで、ゆえに年老いた今でも「オシッコだけは何としても漏らしてはならぬ」という危機管理能力が残っていて、頻尿になっているのではないかと想像する。ならば、中年の時代から優れた尿もれパッドに恵まれ、オフィスでもレストランでも旅先でも、仲間と笑いながら平気でチョロチョロ漏らすことのできる私たちの老後は、実は安泰なのではないか。今から漏らすことを恐れず、大らかに伸び伸びと生きていれば、先々、介護士泣かせの頻尿おばあさんにはならないですむような気がする。
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by zuzumiya | 2014-04-17 00:30 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

老眼のよしあし

まるまると膨らんだ八重桜を見上げると、どうしても桜餅を思い出す今日この頃。
仕事から帰って、ひとりでタコライスの残りで昼食をとり、「最後から二番目の恋」の再放送を見ていた。
何げに肩を見ると、紺色のTシャツ地に緑の糸の切れ端がついてたので指でつまんだら、ぷにゅって潰れた。何が起きたのかよくわからなかったが、一瞬のち、ギョッとなった。すべては老眼のせい。よく見えなくてわからないその緑のものは、小さく丸まってテーブルの上にあるようだったが、そのままよく見えない、いえ、もう見ないままに、そうっとティッシュにくるまれてゴミ箱に捨てられた。
この老眼で夏を迎えるのはいささか、怖い。
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by zuzumiya | 2014-04-16 15:10 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

恐るべき社名と「雨の名所」

今日、仕事から帰ってきたら、玄関ドアの隙間に宅配便の不在届が小さく折り込まれて入っていた。広げてみると、依頼主のところにボールペンで「爽快ドラッグ」と走り書きされている。「爽快ドラッグ? まるで、脱法ハーブでも頼んだみたいじゃないか」と焦った。あとで夫にメールしたら、なんのことはない、いつも夫に頼んでいる炭酸水だった。
人騒がせな社名である。

石田千の『夜明けのラジオ』購入。早速読み始める。その中に「雨の名所」という文章があって、すこぶる感心した。
<花の名所をさがすように、雨をながめるのにいい窓をいくつか覚えていて、こんど雨がふったらと、心づもりをしてある。
とまり木の小窓やビアホール、ほかにも天窓のある銭湯、植物園の温室、区役所の一階のソファ、神社の茶屋、老舗のデパートのおどり場や博物館も、静かでいい。>(本文より)
「雨の名所」とはさすがである。冴えている。窓に垂れていく雫や傘の花咲く雨の街を静かな室内からぼんやり眺めるひととき。たしかに、そんなふうにゆったりと雨の日を味わい過ごせるお気に入りの場所を持てたら、どんなにいいだろう。そうだよなぁ、と思う。いいエッセイは日常を見る目を養ってくれる。日常から逃げずに、日常を生きることを豊かにしてくれる。だから、好きなのだ。私も見つけよう、私だけのお気に入りの「雨の名所」。

ということで、しばらくは読書に浸ります。
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by zuzumiya | 2014-04-15 21:44 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

ふだんの暮らしに息づいているたいせつなもの、見つめてみませんか?
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