暮らしのまなざし

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The Best of Bowie!!

元気がない今日は米を研ぎながらDAVID BOWIEで踊った。
ああ、じぶんが帰ってきたーッ!!って、感じがした。
誰が何と言おうと、私はこの世界が好き。この世界の人。
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by zuzumiya | 2013-11-26 16:07 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

「違う!」のブザー

23年もの長きにわたって、“妻”であったわけで、その枠が外されて、ぽんっと世間に置かれてみると、ほんとうに自分は心もとない。私はこの年でひとりの女性(オバサンと書きたくなるが)として、ただ呆然と立っている。
先日、母の店を手伝った。酔っ払いのオジサンがふざけて私にチークダンスを迫ってきた。
素面の私は何度も断ったが、相手は母の店の常連のお客さんである。断りきれずに踊った。
酔っ払いが嫌だったんじゃない。手を組み、肩を寄せ合ってくっついたあの感じがもう、だんぜん、「違う!」だったのだ。昔だって満員電車に乗れば、サラリーマンの体にぴったり触れてしまうこともあったが、そういう時もだんぜん「違う!」と思った。そんな時「ああ、私はどうしようもなく夫の妻なのだなぁ」としみじみ思ったものだった。
自転車ですれ違う男性、道を行く男性、スーパーで見かけた男性…。ただひとりの中年女性に戻った私は、ほんとうは誰とでも付き合えるはず、自由に恋愛ができるはず。
でも、今の私は誰を見ても、誰と想像しても、そういう気持ちになれない。どこかで「違う!」のブザーが生きている。そう思うと、もしや永遠にこのブザーは取り外せないのかも、と不安になる。肩を抱き合った瞬間「ああ、しっくりくる」という安らぎはもう二度と味わえないのだろうか。こんなふうに書くと、「旦那さんがいちばんしっくりくるんでしょ?」と言われそうだが、実はもう、そうじゃない。
だからこそ、不安なのだ。胸がすうすうして、呆然と立ち尽くすのだ。
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by zuzumiya | 2013-11-25 23:28 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

ピエロの家族

うちのマンションの住人に不思議な人がいる。
仕事はおそらくサーカスのピエロじゃないかと思う。
だって、もし大道芸人だったら、生活は不安定だろうし、家族も持てないだろうし、マンションなんかに住めるものだろうか。なんでピエロかというと、練習しているのである。あの、ジャグリングとかいうやつを。
ボールだったり、ボーリングのピンのようなものだったりをいくつも同時に空中に投げては器用に手で受け取って、自転車置き場でこっそり見ていると、ほんとうにその技が見事なのだ。それからいつだったか、巨大な玉にも乗っていて驚いたが、あれはきっと玉乗りの芸なんだと思う。
ああいう芸を見せる役目は絶対、ピエロだ。ピエロに決まっている。
ライトバンから荷物を取り出しているようなので、何かそれらしき団体の名前が書かれてあるのかなと思って見てみたが、大きな三日月のマークのシールが窓に貼ってあるだけで、何も書いてない。
フリーランスのピエロなんているのだろうか。
そのピエロ氏が結婚して、もう数年前になるけど、女の子をもうけた。近くの保育所に子供を預けにいくところや帰ってくるところを見かけたことがある。「子供が生まれて、ついにピエロもパパになったか」と微笑ましく思ったものだった。それからしばらく経って、今度は小さなコリー犬のような(種の名前がわからないけど)犬を飼いだして、乳母車と一緒に散歩しているのに出くわした。
最近は女の子も小学3年生ぐらいに見える。
自転車置き場の脇の空いたスペースで、奥さんと女の子が、コリー犬にボールやフリスビーを投げてやって遊んでいるのを見かける。小柄な奥さんはやっぱり、サーカスの人なのだろうか。なんとなくフリスビーを投げる仕草がしなやかで体がやわらかそうに見える。サーカスだったら、もしかして、空中ブランコ乗り?
なんでそう思うかわからないけど、花形スターの空中ブランコ乗りの女の子にピエロが憧れて片想いしてるような、そんなお話でも絵本にあったんだっけ?
それとも、お客さん? 落ち込んで見に来たお客さんにピエロがバラを一輪差し出したのが二人が付き合うきっかけとか。ピエロって頬に涙のマークがあるけど、あの顔でにっこりスマイルされると、悲しみを抱いて笑ってみせる“泣き笑い”みたいで、妙に心にじんとくるんだよね。
とにかく、奥さんも挨拶した時に善さそうな人っぽいし、またその遊んでいるコリー犬も人懐っこくて、私がしばらく立って見てたら、尻尾振って近づいて来て、咥えてたフリスビーをぽとんと落としちゃって。女の子も奥さんも私も「ダメだなあ」って笑い出しちゃって。
先日は例のライトバンの奥から、ピエロ氏と家族の笑い声とコリー犬の吠えてる声が聞こえてきて、「ああ、ピエロが作った家族が笑ってるよ」って思って、すごくほのぼのして、いいものを聞いた気がした。
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by zuzumiya | 2013-11-23 12:34 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

疲れた昨日。そしてまた立ち上がる朝。

昨日はひどく疲れて、顔にシャドウがかかっていたと思う。
朝、自転車に乗ろうとしたら空気が抜けてて「パンクかぁ!?『自転車パンクしてて遅れます』って電話したら、絶対、寝坊と思われるだろうな」と焦って空気を入れたらなんとか大丈夫で、慌てて職場に行ったら、相方が休み(苦笑)。
そしたら、なんと職員の一人も車のエンストで遅れると連絡が入って。ただでさえ、朝は人数が少なくて大変なのに「みんな、なんだよ」って、不貞腐れちゃって。そこからたぶん、日頃の疲れがドッときたんじゃないかと思う。
昼は昼で、いちばん食事介助の難しいおばあさん二人がいつものように残ってて(これは職員がうまく逃げちゃうから)、「ああ、またかよ」とガックリ。
そんでもって、いつも以上にうまく行かなくて。いちばん尊敬している真面目で実直な男性職員に声をかけて助けてもらったら、サッサと片付いて。思わず「さすがだなぁ」って言ったら、「これでもいろいろありましたよ。どうしてできないんだとひとりで悩んで、考えて…。この人(おばあちゃんのこと)とはもう10年来の付き合いですから、この人が立って歩いてた頃から知ってるんですから」となんとなく慰められた。
昼の仕事の後、昼の相方のおばさんの長い愚痴のおしゃべりに付き合って、「さあ、買い物に行かねば」と自転車に乗ったら、完全にパンクしてた。トボトボと押しながら自転車屋に。もうこのへんから腰と足が痛くなってて…。
テクニックを見て盗んだはずなのに、夕食、また昼のおばあさんに当たった時(←職員が逃げてる)試してみたんだけど、なぜか効果なし。昼の男性職員にまた助けてもらうハメに。もう、ぐったりきた。
仕事の終了時間まで10分残ってたから、他のグループの手伝いに走ろうと思ったが、相方(夕食は仕事に来た)は動こうとしない。職員が「担当だから、やるからいいわよ」と言ってる仕事を奪うようにしてやり始めた。つまりは、他のグループの仕事(こちらが終わって片付いた仕事がまだ丸々残っている)をしたくないと意思表示しているわけで。
私が疲れていたのもあって、そういうズルイ態度になんだか「そっちがそうなら、私もやらん!」という気分になって、相方が譲り受けた仕事を手伝い始めたら、結局、仕事にあぶれた先輩職員が手伝いに行くハメになった。
帰り際に顔を出してみると、やはりこちらよりたくさんの仕事が残っていて、それを手伝っていた。あれはまずかったと思うな。
なんだかなぁ、自分に損にならないように、上手に立ち回る人っているんだよな。ちゃんと「こうこう、こういう理由で今日は手伝いに行くのをやめませんか」と言ってくれればいいのに(朝の休みの理由も言わないし)、この人って明るく、いい人そうに見えるけど、ほんとはそういう心根の人なんだ」と思うと、げんなりしてしまった。

疲れて帰ってきて、子供たちに夕食にポークソテーのトマトガーリックソースとミネストローネを作って、お風呂を洗って沸かして、遊び回る猫に「もも、うるせええ!」って怒鳴って、腰が痛いなぁって思って気がついたらベッドに寝ていた。朝の6時だった。化粧もとらず、歯も磨かず、夕食の皿も洗わず、炊飯器のご飯もとらずにスイッチもつけっぱなし、お風呂の給湯器もつけっぱなし。ああ…、とため息。子供たちはなんにもしてくれなかった。夫がいたら、それらすべてのことは夫がやってくれていただろう。
腰が痛かったので、そのまま朝風呂に入った。
それから久しぶりに朝食を作った。トーストに杏ジャム。コーヒーにロイヤルミルクティー、苺のヨーグルト、ハムとチーズとパセリのオムレツ。
なんとなく今朝は音楽が、しかもあったかいヴォーカルものが聞きたくなって、『ハナレグミ』か『ハミングキッチン』かと迷って、朝食を摂りながらなので『ハミングキッチン』にした。小泉今日子の映画『グーグーだって猫である』のサントラに使われた曲が入っている『Strange Tomatoes』。ようやく、休日らしいゆるやかな気分になった(しかし、CDの整理もせねば)。そのままいい気分で娘の弁当を作る。
今日は明後日から始まる水回りの工事のための片付けや買い物があってまた忙しくなるけど、どこかで時間を作って、huluで『グーグーだって猫である』をもう一度見ようと思う。うん、休日らしい。

ああ、お金があれば「雨と休日」で冬らしいあったかな音楽も買いたいし、エレカシとハナレグミのCDも買いたいし、今年こそ、アロマディフューザーだっけ?買いたいし、ベットカバーもカーテンも買い換えたい。なんぞ、思いながらコーヒーを啜った。
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by zuzumiya | 2013-11-23 10:25 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

恋のカテゴライズ

恋というものに対して、いつまでも10代や20代の頃の熱い激しいイメージのままでいるのはおかしい。
中年には中年の、ふさわしい温度やペースに変わってきていることを認識しなければならない。
そうしないと、どの感情も恋じゃなくなり、もう二度と恋なんかできなくなる。
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by zuzumiya | 2013-11-19 16:06 | 降ってきたコトバたち | Trackback | Comments(1)

「でも、生きていく」

「寂しいよぅ、行かないで」とか「悲しいよぅ、嫌だよぅ」とか、心のなかではたしかに思ってはいるんだけど、でも同時に、そんな自分を眺めてるもう一人の醒めた自分がいて、そいつが嗤って言うの。
「でも、結局、生きていくんだよね、あんたは」
ま、たしかにその通りなんだけど。
こうやって、孤独を飼い慣らして、やり過ごしていくのが大人なのかなぁって、今日、自転車に乗りながら考えた。
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by zuzumiya | 2013-11-18 21:52 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

夫婦にピリオドをつけて

a0158124_17283495.jpg仕事の合間にブツ切れなんですけどhuluでドラマを見てました。TBSの日曜劇場の『夫婦。』(2004年放映)。田村正和と黒木瞳が子供を二人育て上げた結婚25年の夫婦役をやっています。うちも23年ですから、興味があって見てました。
大雑把なあらすじを書けば、ひょんなことから夫が浮気して、それがバレて、妻が長年の結婚生活への不満をぶちまけ、夫は平謝りに謝っていったんは関係が修復しかけたんですが、やっぱり妻はおさまらず、結婚記念日のことだったっけかな、売り言葉に買い言葉で大喧嘩して妻は家出。でも、家出の過程で妻はあらためて社会というものに触れ、そこで懸命に働く女性たちのまぶしさも垣間見て「今度は自分の頭で、自分で判断して生きてみたいの」と勢い離婚を申し出ます。
こんなふうに書くと、ドラマや映画の夫婦によくありがちなパターンを踏んでるんですが、面白いのは「思い返せばいい思い出もいっぱいあった」という結婚25年の重み、出来上がってしまった家族としての動かしがたい情なんです。
向かうべきゴールの離婚をチラチラ見やりながら、「でも、どうしよう」「ほんとうにこれでいいんだろうか」と行きつ戻りつしている夫婦の微妙な心情がセリフや表情に表れていて、「結婚10年や15年選手でも、こういう感じはきっとわからないんだろうな」と思ってしまうほど、そこには深みや滋味がありました。
夫が娘の結婚式で挨拶した時のセリフが、またよかったです。

「夫婦というのは、もしかしたら、自分が生きてきたことを誰よりも相手にわかってほしいと思ってる二人なのかもしれません。この広い世界で、この人にだけは自分が精一杯生きてきたことを憶えておいてほしい、自分という人間がたしかにいたことをその人の口から誰かに伝えてもらいたい、そんな人を選ぶのが結婚なのかもしれません」

このセリフを聞いた時に、はたと思い出したものがありました。
私の夫が出て行く前に“家族の年表”を渡してくれたんです。彼はとても几帳面な人で、息子と娘それぞれの生まれた日から一歳ごとに起きたいろいろをパソコンで簡単な年表にまとめていました。4歳のときに娘はこうま組で先生は中西先生だったとか、息子が5歳のときに初めて滲出性中耳炎を起こしてたとか、2006年の5月には家族で千葉の白浜海岸に旅行してるとか、それには書いてあって。貰ったときには「子供たち、喜ぶだろうなぁ」としか思わなかったんですけど。そして実は、子供たちほど細かくはないんですが、私の年表もあって、ちゃんと0歳の池田産婦人科から始まってるんです。「これから先はそっちで足していって」と手渡されたあの年表のことを、ふと思い出していました。
何者かになりたくて、でも何者にもなれなかった自分のようなちっぽけな人間でも、生きていたっていうささやかな歴史をあたたかみを持って憶えておいてくれるのは家族だけなんだってことを、先のセリフであらためて思い出しました。
48歳のところにボールペンで「10月、夫と別居」と書き込み、50代、60代、70代、80代と続いていく年表の空欄に「これから先はあの人のことは何もわからないのか」と思って、しみじみとしたことを憶えています。

ドラマの話に戻ります。見ていて何度か涙することもあったんですが、よかったのは夫婦二人で離婚届を出しに行った役所で一緒に指輪を外すシーン。指にくっきり指輪の跡が付いてるんですよ。もう25年のね、跡なんですよ。あの指のアップには泣けました。それに続いて、夫が「お前の人生の貴重な25年間、俺のためにありがとう。一生に一度しかない、大切な一日を、一時間を、一分を、俺のためにありがとう」って、涙をにじませながら言うんです。あれにはテレビの前の奥様たちも、たとえ実際の夫からは何にも言われなくとも「ああ、この言葉が聞きたかったんだ」と涙し、じゅうぶんに癒されたんじゃないでしょうか(笑)。

このドラマのラストは、ネタバレになってしまいますが、一年後のクリスマス、一年間音信不通だった妻がプレゼントを渡しに夫に会いに来るんです。実は新婚旅行の際に泊まった旅館に住み込みで働いていて、司書資格の勉強をしているんだけど、現実は厳しいと弱気になって落ち込んで、夫の顔を見に来たんですが、そんな妻に「いつでもいいから」と夫は今度は婚姻届を渡すんです。
妻は受け取り、胸に抱きながら去っていくんですが、その表情はやわらかでやっぱり嬉しそうなんです。実際にこのあと再婚するのかどうなのか、それは「視聴者の皆様のご想像にお任せします」なんですけど、あの婚姻届は彼女にとってきっと“お守り”になるんだろうな、とは思いました。ここへきて、ようやくタイトルの夫婦の文字の次に「。」がついていた意味が、その良さがわかりました。
ドラマのなかの架空の二人ですが、いつかあらたに成長した姿で晴れやかに出会い直して、また夫婦になるかもしれないし、親友のような関係になるかもしれないと思えてくる。いったん自分たち夫婦の歴史に自分たちでピリオドをつけて終わりにしたけれど、でもだからこそ、そこから見えてくるものがあり、そこから学んで、また始めることができる。思えば、人生はピリオドをつけて終わり、また襟を正して始めるの連続でした。
テレビの前の奥様方の中には「え、嘘でしょ?離婚届を出して一年でまさかの婚姻届?」とツッコミたくなる方もいたでしょうが、演出的に恋愛もののラストシーンの盛り上がりとして上手いテクニックというほかに、何度も言うようですが、私にはやはりこれが結婚25年ってことなんだよな、と思えてくるラストでした。
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by zuzumiya | 2013-11-17 13:12 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

『子宮に沈める』を見て考えよう

a0158124_1739856.jpg昨日、早速、公開初日で『子宮に沈める』を見てきた。
新聞の記事でカメラが部屋の中だけのフィックスだとは知っていたが、流れてきた映像はまるで一家の生活をどこかの隙間から覗き見しているような、時には限りなく床に近く低く(たぶん寝転んだ子供の目線くらいで)撮影されていたりするので、そのリアルな空気感、臨場感には思わず息をひそめた。
驚いたのは音楽を最初から一切使わなかったこと。この決断はとても勇気がいったろうし、素晴らしかった。監督はきっと音楽によって余計に悲しみを増長させるような、故意に観客をある方向に導いていくような真似はしたくなかったんだろう。“そこで起きていること”をそのままに、非常に客観的に淡々と描いて投げてみせて、観客がどのようにでも考え、どのようにでも揺さぶられるようにしたかったんじゃないかと思う。
監督はドキュメンタリーを撮ろうとしているわけではなく、あくまで大阪の二児放置死事件をベースに自分の解釈で自分の“映画=フィクション”を撮っているんだとインタビューでは語っていたが、見せ方、伝え方という細部はこのようにある意味で非常にテクニカルに撮っていた。考えてみれば、最初の頃の親子三人で遊んでいるような暮らしの幸福感をやわらかな音楽のイメージで補完する必要なんてほんとうはまったくないのだし、ゴミ袋で埋まった部屋の中を飛び交う耳障りなハエの羽音やマヨネーズの空き容器から勢いよく「ごくん」と飲みこんだ時の音が音楽で弱まってしまうのは惜しく、音楽が全くないことで非常に生々しく、観客に“生と死”を感じさせることに成功したと思う。

大阪の事件をモチーフにしているとはいえ、何ら事件についての具体的な説明はなかった。細かいことを言えば、何で旦那さんが出て行ったのか、母親の実家とのつながりはどうしてないのか、昼は何の仕事をして夜は何をやっていたのか、女友達は子供のことを何も気遣っていなかったのか、保育所など行政は何もアクションをとらないでいたのかなど、全然描いてくれていないので疑問は残る。事件についてワイドショーで聞きかじったぐらいの知識しかないので、彼女の境遇や事実の細やかな点は、ちょうど今新刊で出ている『ルポ虐待 大阪二児置き去り事件』を読むしかないかと勝手に途中で割り切った。
監督によれば、シングルマザー以上の背景や境遇とかを細かに説明しだすと“特殊な家庭”、“特殊なケース”になってしまって“自分とはかけはなれた別の世界”での出来事で片付けられてしまうからということだが、境界をあいまいにしておくことでより肝心な部分「あなたの育児にも、あなたの暮らしのなかにも、こういう感情、こういう気持ちの芽生え、覚えがありませんか」と訴えることができ、「母性っていったい何なんでしょうね」という疑問を素直にぶつけることができる。

うちは夫が協力的だったが、最初の子である息子の夜泣きがひどくてとても苦労した。
夫婦に子供がいることが当たり前で、それでこそ家庭だと思っていたし、子供がいればとにかくもっとさらに幸せになるようなそんな気がして子供を作ったわけだが、背景には期待されていたのに仕事がうまく行かなかったという敗北感もあった。欲しかった家庭に逃げ込み、母という存在に逃げ込んだ感がある。
そんなんだから、子育ては面倒や苦労が先に立って、息子を可愛いとなかなか思えなかった。ある時、いつものように息子を怒っていたら、ふと、息子の目線になって、怒って立っている怖い私を下から見上げたイメージが浮かんで、単純に「かわいそうだな」と思えた。「こんなお母さんだったら、自分が子供だったら、嫌だなぁ」と。それからだろうか。愛情っていうものは自然に胸底からじわじわ湧いてくるものでもあるけれど、「愛そう」という意識的な決意と努力でもって育む、“作っていく”ものでもあると思った。“愛に努力が必要”なんて、若い頃は思ってもいなかったけれど、この息子の子育てがあってから、少し見方が変わったと思う。愛情神話というか、私なりの母性神話というのが崩れた瞬間だったんだろう。
私は私の自然な気持ち以外に「憐れな息子を積極的に愛そう」としたために、精神的にもぐっと関わり合いが増え、相乗的に子育てはいい方向に向かっていったと思っている。
もちろん、フリーとして自宅で仕事をしていた夫の協力は大きかったし、私の精神的な安定にもつながっていたと思う。

以前、「『母性』を読んでいろいろ考えた」というタイトルの6月13日のブログで、母親の心の中には母として子を庇護したい部分と庇護されたい娘の部分とが共存していて、バランスをとろうとしていて、夫はその娘の部分の要求を是非満たしてあげてほしいと、そうすれば自ずと母として立っていけるものだと書いた記憶がある。夫が妻から母性を導き出す、妻の母性を育む覚悟を持つこと、それが男の場合の子育てになると今でも思っている。
映画では、夫が着替えだけ取りに来て、妻が追いすがってもそのまま出て行ってしまうシーンがあるから、妻を孤独にさせたいちばんの原因は夫で、夫こそが悪者のように感じたが、映画を見たあとの舞台挨拶で「この映画には悪者がいないんです」という言葉を俳優の一人から聞いて、夫の立場、男の気持ちというものも実は自分はまだよくわかっていないんじゃないかと思った。
夫族のなかには妻が妊娠した途端に浮気をするとか、子育てにかかりっきりになっている忙しい妻をよそに浮気するとか、その手の話をよく聞く。手のかかる子供と大人の自分とを天秤にかけさせる幼稚さに呆然とするが、そこにもまた“父になっていく”という時間のかかる戸惑いやそこからくる孤立や孤独があるのかもしれない。やさしい妻の顔から髪振り乱して夢中で育児し、母の顔になっていくその過程で、いきなり「一緒に走れ」と迫られる父親という役割。物事が子供を中心に有無を言わさず決定していき、家庭がどんどん妻と子供で占められて出来上がっていくことの疎外感と重圧感。妻とはまた違った様相で、ぽんと生まれた子供にぐいぐいと自分が追い詰められて、父親という枠にはめられてもう二度と逃げたり、放り投げたりすることができない果てしのなさに呆然となるのかもしれない。ああ、でも、と思う。それでも、妻の味方は夫しかいないんだよ、と私はすがってしまう。

それと、この映画を見てあらためて考えたのは、夫婦二人だけのお互いに注がれる愛と子供ができてからの家族としての愛とはやはり違うんだ、ということをマスコミに踊らされることなく、もう一度私たち女性はきちんと捉え直した方がいいのではないかと思った。世間では“美魔女”と言ってもてはやされているけれど、子供を産んでも女を捨てずにいつまでたってもきれいな奥さんでいるっていうのが理想だと煽っているけれど、それって、実はものすごく女性たち自身を追い詰めていることじゃないかと思う。セックスレスの問題もそうだけど、夫側、男性側の言い分というのも、はねつけるんじゃなくて、もっと真摯に耳を傾けてみるべきなのかもしれない。「子供が生まれて妻が母親になって、家族愛が芽生えてきて、もはや肉親的な強い結びつきの家族としか見られないのに、セックスなんてする気になれない」という言い分だが、よくよく考えればその通りなんじゃないだろうか。女性誌に代表されるマスコミはいつでも「結婚して子育て中でも、セックスを誘える、したくなる女性であれ」的な書き方をするが、あれは単にそういうムーブメントを作れば女性の消費をあらゆる方面にがんがん促せるからだろう。実際、そんなふうに子育て中に精神的に余裕が持てるというのは、経済的にもかなり余裕があるということで、ヘンにそれに踊らされるとえらい無理をすることになる。
どんなに家事育児を立派に頑張っていても、セックスレスの奥さんは夫からの愛情がなく、それは不幸なことで、女として見られていない、もはや終わっていると言わんばかりの論調は、この映画の若い母親のように、夫の迎えにいじらしくも口紅をうっすらと引かせ、「もう愛してないの?」と詰め寄らせるような無駄な疑心や焦りを生み、何かでそれを拒まれたときの落胆は完全に自己否定にまで容易に繋がるだろう。マスコミが子供を持っても“女として扱われる愛”を最重要に掲げたために、今まで家族として“家族愛”でじゅうぶんに満足でそれゆえ魅力的だった妻たちがとたんに不幸にカテゴライズされ、女としての自分磨きの努力不足、自業自得だと否定され、男たちもその流れに乗って、性的魅力こそ女の魅力と賛同した結果、離婚は増え、もしかしたらシングルマザーが増えたのだとしたら、果たしてそれは言い過ぎだろうか。でも、最近はひところよりセックスレスの深刻さは抜けてきたようで、妻たちの方が「セックスレスでなにが悪いの?私たちはじゅうぶんシアワセよ」と語っているという文章も読んだ気がする(たしか亀山早苗さんの著作だったと思う)ので、いい傾向かもしれない。『産後クライシス』という本が出ているそうなので、セックスレスが妻に及ぼす精神的影響についてはまた読んで考えてみようと思っている。

消費を操るマスコミに女心のいちばん弱い部分を握られて、操作されて踊らされることのないよう、今一度、夫からもらう愛が恋人時代か新婚時代のような男女の愛から、家族としての愛に徐々に変わりつつある、変わっていくことに、そこに育児と引換えに自分の女性性をすべて失ってしまったかのような悲しみや自己否定の感情を何一つ抱くことはないのだと伝えたい。こういう愛情の捉え方の問題というのが、もしかしたら育児放棄の問題の根っこに静かに横たわっているのかもしれないと、この映画を見て思った。
老若男女多くの人にこの映画を見てもらって、いろんなものの見方でそれぞれに気づいて語ってもらって、世の中が少しでもいい方向へ動き出してくれたら、と願う。



※追記(11月14日)
映画の中ですごく考えられたいい演出だなと感心したのが、育児放棄されて子供らが食べ物を探していた時に、ヨチヨチ歩きの弟が流しの下から漂白剤を見つけていじろうとするのだけれど、3歳のおねえちゃんが「これはダメ!」って、激しく奪いとるシーンがあるんです。見ている方はヒヤヒヤするんですけど、これは何で素晴らしいのかというと、お姉ちゃんが女の子ゆえ母親をよく見てきたという意味と、母親がこの子らを放棄する前まで、良き母親としてきちんと躾をしてきたという証拠にもなっているんだと思うんです。お話として入れなくても成立するシーンなんですが、そういう細かい配慮がリアルさを引き出すし、よく考えられているなと好感が持てるいい演出でした。
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by zuzumiya | 2013-11-10 23:31 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(2)

祖母と私の美空ひばり

老人ホームの老人たちはテレビやDVDを見るのがひとつの楽しみ。
よく懐メロの番組が流れていたりするが、先日は美空ひばりのステージのDVDがかかっていて、懐かしい歌に思わず、胸がきゅうんとしてしまった。
私にとって美空ひばりはちょっと特別な存在だ。
母が若い頃、彼女に憧れて歌手を目指し、歌い方を真似したりして、クラブやバーで歌っていたという。母は芸能界からスカウトもされていたらしいが、両親(私を育ててくれた祖父母)に歌手になるのを猛反対されて泣く泣く断念した。今はしがないスナックのママさんだが、カラオケはものすごく上手。身内びいきじゃないが、美空ひばりの歌はどれを歌わせても裏声といい低音部といい、ほんとうに見事だ。私の結納の時のパーティーでも、それから結婚式の時も美空ひばりの「川の流れのように」や「愛燦燦」を歌ってくれた。
堅物の祖母は母が歌手になるのを反対したくせに、母の十八番の美空ひばりの歌は大好きで、よく口ずさんでいた。お気に入りは「柔」や「港町十三番地」「花笠道中」だった。私も幼い頃からテレビで美空ひばりが出るたびに、離れて住んでいてなかなか会いにもきてくれない母の面影を重ねて見ていた。
「おばあちゃんが歌手になるのを反対しなかったら、今頃ママがテレビに出てたかもしれないんだよ」と不満げに話したこともあったから、あの頃きっと、祖母もどこか美空ひばりに娘の歌う姿を重ねて見ていたんじゃないかと思う。
とにかく私と祖母にとって、美空ひばりといえば、母だった。
祖母と母とは昔から折り合いが悪く、互いに素直になれない者同士だったが、そんなふうに美空ひばりを見る時だけは祖母と私の心の中には同時に母がいて、純粋に母に占められて、それそれが懐かしく愛しい気持ちで見つめていたんだなってことが、今思えばせつないくらいにうれしい。母はそんなこと、ずっと知らないままに今も生きてるんだろうが。
だから、仕事で疲れているときに、ふと耳にした「愛燦燦」はまるで母が「頑張れよ」と私を励ましてくれているような気がして、そこから繋がって祖母の在りし日のことも思い出して、ちょっと守られてる気がして、心強くて胸に染みたのだった。
一日のうちで、仕事が大変だったり、それで疲れてしまってため息をついたり、凹んでしまったりすることはあるけれど、いつだって、不思議なことに何処からかそっと救いの手が伸びてくる。
そんな時、ほんとうに心から「ありがとう」と思う。
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by zuzumiya | 2013-11-09 00:01 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

愛しのメグ・ライアン

最近、気がついたんだけど、映画も本と同じで好きなものは何度でも見たくなるし、また見られるもんなんだなぁと思った。
女優のメグ・ライアンが好きで、彼女の作品は繰り返し見る確率が高い。中でもトム・ハンクスと共演した「ユー・ガット・メール」やニコラス・ケイジとの「シティ・オブ・エンジェル」やアンディ・ガルシアとの「男が女を愛する時」が好き。昨日は「ユー・ガット・メール」をhuluで久しぶりに、もう3回目くらいなんだけど見て、ほんわかしたハッピーな気持ちになった。
彼女ってほんとにキュート。笑顔が可愛いし、ショートの外ハネの髪型がすごく似合っていて素敵。真似したいけど首が長くないと似合わないんだろう。
映画のあらすじは、お互いに同棲している恋人がいるんだけど、ふとしたきっかけで始めたメール交換でウマがあって、どんどん絆が強まっていってという話なんだけど、私も実は照れ屋でへんにお調子者だから、直接会って話すより、まずはメールや手紙のコトバに託して頼るタイプだ。男性の好みもコトバが巧みな人(口がうまいという意味じゃなくて、なんとか伝えようとコトバを尽くす誠意やユーモア感覚のある人、コトバで遊べる人のこと)だったりする。まずはメールや手紙での書きコトバで素直に正確に自分の想いや気持ちを伝えて、そのうえで実際に会ってという段取りの方が面白いし、中身を分かってもらえてるという安心感もある。
なんて書いてるけど、もう48の私にこの先、誰かを好きになったり、熱くなったり苦しくなったりする恋愛なんてもの、訪れないんだろうなぁ。こんなオバサンの私じゃなくて、若い頃のピチピチの私を知っていて、母になって年をとって、やつれてきたけれど、っていう私の人生の歴史をいちばんよく知っているのは夫だけなのかと思うと、女が結婚するってやっぱり人生をかけてるんだな、と今更ながら思う。ひとりの女が一生をかけてその輝きを失うまで寄り添うんだから、男の人はそのことの意味をよく理解して、最後までやさしく労わってほしいと思う(ひとごとのように書いてますが)。
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by zuzumiya | 2013-11-08 00:02 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

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