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『泣き虫チエ子さん2』~日常のほんの一瞬に、誰かに抱くやわらかい気持ち~

益田ミリちゃんの「泣き虫チエ子さん」の2巻目が出た。
Amazonのカスタマーレビューのいちばん目に「ほのぼのにちょっと食傷します」とか「チエ子さんのぶりっ子ぶりが鼻につく」とか「カップルの日常ノロケ話を聞いてるような気になってくる」とか、割とシビアなことが書かれていて、「ああ、こんなふうに感じる人もいるんだ」「よかれと思って書いているはずなのに、難しいな」「ミリちゃん、これ読んだら、ちょっとへこむかな」とか、作者の心配をしてしまった。
個人の感想なんだから、思ったままを書けばいいんだけど、クチコミとおんなじで、いちばん最初にこういうシビアな意見が書かれていたりすると「どれどれ?」と確かめようとするのが人情で、結局、そういうシビアな先入観でものを見てしまう。で、たいていの場合「たしかに」と思えてくる箇所もチラホラあるものだから、人間って実に感化されやすい生き物なんだな、と思う。
まあ、言われてみればたしかにノロケ話ではある。でも、つまりは、どれだけ共感できるか、身に覚えがあるか、ってことなんだろう。恋人がいる、いないとか、結婚してる、してないとかじゃなくて、別に異性に限らず、大好きな人、大切な人といる、あるいはその人を想う日々刻々ってやつを、どれだけ意識して心に刻んできたかってことにかかっている。少しでも何かを思い出せれば、チエ子さんの“ほのぼの”は“じんわり”に変わる。
私は47年生きてきて、結婚して20年以上も経って、「ああ、たしかに人ってどうしようもなく変わっていってしまうものなんだな」と事あるごとに感じてもいるのだけれど、そんな私でもやっぱりちゃんと覚えている。チエ子さんが日常のほんの一瞬に、サクちゃんに抱くやわらかな気持ち。そうだよね、そうだった、ってわかる。
以前にもこのブログで紹介したけど、江國香織さんの本に「いまが過去になってしまうことを承服しかねるのになすすべがない」って文章があるのだけど、好きな人と一緒にいて「永遠であればいいのに。でも永遠なんてないんだ」ってわかりたくないのにわかってしまった瞬間の、愛おしさに猛烈に切なさが刺し込んでくる感じ、このチエ子さんならきっと忘れないんだろうなって、ぼんやり今、思ってる。
第61話の「ふたりで進む」にチエ子さんがサクちゃんとふたりで人生ゲームをしている話がある。サクちゃんがゲーム上でどんどん車に人型ピンを乗せて大家族になっていって、それを面白がるサクちゃんを見て、チエ子さんが「本当のわたしたちはふたりきりの車」なのにって、複雑な心境になるところ、あれもほんとによくわかる。
人生ゲームって、実は好きな人と一緒にやっちゃいけないゲームだ。ゲームの上で相手の車にお嫁さんが乗り、子供もできて…なんてやっていくと、「この人、私とじゃなくても、こうやってちゃんと人生築いていくんだよな」って、当たり前のことなんだけどヘンなこと、わざわざ考えちゃうから。私も家族で人生ゲームをやった時、夫の車に家族がどんどん出来上がっていき、自分の車にも旦那様のピンがぽつんと立っている様を見て、ゲーム上とはいえ、人生がお互い別々の方向に進んでいってしまうことに、なんとも言えない複雑な心境になった。けんかするたび「離婚してやる」と息巻く私だが、想像力やら妄想力やらがあるくせに「ゲームの上だけでも新たな人生を」とあの時、単純に楽しめなかった自分を自分で不思議に思った。
そういうふうにミリちゃんの漫画は私にとって、いつでもいろんなことを思い出させてくれる。チエ子さんが大事に思っていること、こだわっていることのなかに、かつての私も今の私もいる。そして、驚くべきことに、ほんのちょっとだけ「こうなりたいなあ」と理想の私もいたりするのだ。
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by zuzumiya | 2013-07-27 17:59 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

懐かしみ欲、噴出!

NHKの音楽対談番組でサンディさんが好きな歌として挙げた「黄昏のビギン」がきっかけで、今、私の中では“懐メロブーム”が起こっている。
「黄昏のビギン」は昭和34年の水原弘(「黒い花びら」のヒットで有名な人)の歌。ご本人の歌よりCMにも使われたちあきなおみのカヴァーしたスローバラード調の方が有名かもしれない。YouTubeにあるので一度聞いてみてほしい。ほんとに絶品である。
ちあきなおみといえば、鼻の脇に大きなホクロをつけたコロッケの「喝采」のものまねが頭に浮かんできてしまうのだが、実はものすごく歌が上手い人なのだった。ものまねされるって、いいような悪いようなである。私がどうしてもプレスリーを嫌いなのも、西田敏行だかが腕からフリンジをビラビラさせてプレスリーのものまねをしていたのを「カッコ悪いな」と思ってしまったのが原因なのだ。
ちあきの「黄昏のビギン」から始まって、「星影の小径」(昭和25年 小畑実)や「蘇州夜曲」(昭和15年 渡辺はま子)、これらはアン・サリーのカヴァーがすごくいいのでおすすめ(「ムーンダンス」というアルバム)で、それから「水色のワルツ」(昭和25年 二葉あき子)、「雨に咲く花」(昭和10年 井上ひろし)、「アカシアの雨が止む時」(昭和35年 西田佐知子)など、昭和40年生まれの私にしてみれば自分が生まれる以前の歌ばかりで、なんで知っているかというと、祖父母と一緒によくテレビの懐メロ番組を見ていたからである。あの頃の歌をYouTubeでぽつぽつと検索して聞いてみると、ほんとにいいものが多い。歌詞も大人の雰囲気で非常に上手いし、メロディーも覚えやすく、染み入るような哀愁がある。一青窈だとか平原綾香とか平井堅とか、もしかしたらやっているかもしれないが、歌のうまい歌手に是非、昭和の名曲に挑戦してもらって、新たにカヴァーしなおしてみせてほしい。きっとヒットすると思うけどなぁ。
同じように青春時代を送った80年代の洋楽もYouTubeで検索してみた。スパンダー・バレエの「True」のコーラスのとことか、ロキシーミュージックの「アヴァロン」のあの揺らめく感じとか、好きだったなぁ。それから、ジャパンに似た美形のバンド、デュラン・デュラン。当時は“ニューロマンティック”と呼ばれてたんだっけか? カルチャー・クラブなんかも好きじゃなかったけど騒がれてたよな。デュラン・デュランはイギリスのみならずアメリカでもヒットしたけど、「Reflex」のサビは今聞いてもカッコイイ。高校時代、友人に連れられてフィルムコンサートへ行ったんだよな。それから、トーキングヘッズとかユーリズミックスとかシンプリー・レッドとかブロンディとかゴーゴーズとか(笑)。
コラムニストの酒井順子が40代になると「懐かしみ欲」が出てくると書いていたけど、ほんとにそうだ。
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by zuzumiya | 2013-07-24 23:30 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

オバサンとは何ぞや

最近、ぼんやり思う。この国で女が年をとっていくことって、どういうことなんだろうと。
そこに希望はあるのか、と。
子育てと家事と仕事に追われ、何とか子供を社会人に仕上げて、ようやくひと息つけるかという頃に閉経を迎えて、容貌もカラダももはや女の役割を終えたと突きつけられ「はて自分は何者か?」と鏡を見ながらふざけて自問している間に、今度は親が倒れて老親の介護が始まる。気がつけば夢は人生の波間に消え、贅沢できたり安心できるほどの金もなく、ふと傍らを見ると自分の若さも人生という時間も惜しげもなく捧げ尽くした男(夫)の成れの果てがあって、それでも医学の進歩で平均寿命までまだあと何十年も生きなければならない。
この国の男たちに限らずオスというものはみな、本能的により若いメスを捕まえて種を残そうとするから、若いということが女性の絶対的価値としてあり、特に日本はヨーロッパのように大人の成熟に重きを置かず、若さに媚びてばかりいるロリコン社会だから余計にそうで、この国で女として用がなくなった者は、結局は(主婦としても妻としても)労働力として社会に在るしかないんだろうか。夫に尽くし、子供に尽くし、老親に尽くし、尽くしづくしで人生の大半を生きてきて、その行き着く果てもまた労働力として社会に尽くして、そのくせ社会はオバサンと蔑むのだから、辛い構図にため息がでる。そう考えると、オバサンたちがどんなに周りに「図々しい」「恥ずかしい」と思われようが、ふっ切って、やけくそになって、自分の人生をそこから楽しもうとするカラ元気はわからないでもない。更年期を迎えて、本格的にオバサン期に突入した私。「オバサンはどうして作られる?」「オバサンとは何ぞや」と今、本を読んだりしながら考えている。
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by zuzumiya | 2013-07-20 10:12 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

無言の圧力

声の大きい人が得をするという話はよく聞く。例えば、会議の意見でも何かのクレームでも声が大きいというだけで迫力があって自信に満ちあふれ、それゆえ非の打ち所のないまっとうなことを言っているように聞こえてしまう。
けれど、それとは逆に言葉を何にも発しないというのも周囲を気圧す力があることに最近、気づいた。
仕事場に若い子がいる。私が流しで洗い物をしていると、突然、私の脇へドスンとバケツを置く。はたまた、洗い物をしている私の肩からいきなり手を伸ばしてきて、向こうの棚に置いてある雑巾を取ろうとする。すべて「すいません、ちょっといいですか」の言葉がけもなく、無言でする。最初は虫の居所でも悪く、あるいは私を嫌っていて、私と口をききたくないのかと訝ったが、帰り際に面と向かって話しかけると普通ににこやかに返すからそうでもないらしい。そのうち、その子の無言の行動は誰に対してもそうで、決して悪気があるわけでなく、単に“コミュニケーション下手”、“言葉足らず”なのだとわかった。
しかしそうは言っても、「すいません」の言葉もなく、強引にそういう事をされていい気はしない。いつでも私が相手の気配に気づいて、つい「あ、ごめん」「あ、失礼」と謝っては体を避けて場所を譲ってしまうのだが、「なんで、私の方が謝らなければいけないんだ」と思う。私は別段、邪魔になるような位置にいたわけではないのだから。
人と一緒に何かをしていたり、人がそばにいるのにもかかわらず、自分のやりたいことをやりたいように通そうとして、相手に「すいません」の言葉も言わずに、体が先に動いてしまうというのは、いかがなものか。
無言であるそれだけで「もしかしたら、今怒ってる?」「私、何か悪い事した?」と人をじゅうぶん不安に陥れるし、何よりいきなりの動きは人を驚かし、人をひるませる。そこには無言であるがゆえに放つ“無言の圧力”がある。
あるいはまたこんな場合も。PTAの役員決めで、クラス中の母親たちがみんな黙って俯いている。あの時の“無言の圧力”。あの気詰まりな雰囲気が嫌で、早く終わらせたくてやりたくもないのに立候補の手を挙げたという人もいるだろう。
このように周りを気圧すのには声が大きいばかりじゃない。無言であること、ただそれだけで十分だったりするのである。
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by zuzumiya | 2013-07-19 01:20 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

休日は本を読んで寝ちゃってます

新しい勤め先で半年経ったので有給をもらい、金曜から休みをとっている。
金曜は職場の知人のすすめで整骨院を教えてもらい、痛む肩のマッサージに行った。
マッサージ(というか、ストレッチ)は涙が出るほど痛かったが、しばらく我慢して続けるしかない。施術後は後ろ手に腕が10センチくらい上がっていた! 今はもうダメ。
図書館からぞくぞくと本が届いていて、読み散らしている。
肩の痛みで夜間に起きてしまうため、昼間はほどよく冷房がかかった部屋のソファや食卓の椅子で、本を読んではすぐに眠りこけてしまう。こんなふうに眠っては読書する贅沢なゆる~い時間の使い方をしていると、夏の海辺にバカンスに来ている老婦人みたいだと思う。
『さよならは小さい声で』(松浦弥太郎)…後半の恋愛もの(エッセイ?小説?)が素敵だった。弥太郎さんの『暮しの手帖』の編集長としての、真面目でお堅い啓蒙的なエッセイよりも『くちぶえサンドイッチ』の頃の、生身の男としてのごくごく私的なエッセイの方が私は好きなので、特に後半部の書き方はいいと思う。
『センス入門』(同じく松浦弥太郎)…以前にも『日々の100』シリーズとかこの手の本は書いているけれど、「あなたは加藤和彦にでもなりたいのか」と思ってしまう。私は和彦さんの『優雅の条件』とかの方を好む。
『わりなき恋』(岸惠子)…話題の本なのでとりあえず読んでみた。70代女性と50代男性との恋だなんて、そんなの今の私には考えられない。だって、私にしてみれば自分の母親と夫が恋するくらいの年齢設定なんだもの。恋愛って結局、年や人生経験に関係なく、感情を支配され、疑念を呼び起こさせ、同じカーブを描いて終わるだけ。
『犬とハモニカ』(江國香織)…忘れた頃にやってきた本。川端康成賞かなんかとった短編集。退屈だったが、「おそ夏のゆうぐれ」には感じるものあり。
<いまが過去になってしまうことを、承服しかねるのになすすべがない。時間に置いていかれそうな気がした。>なんて表現、実に上手い。この瞬間のせつなさを感覚だけに流さない書き方。江國さんは大人になってから振り返ってみた時の少女の頃を書くのがものすごく上手い。「おそ夏のゆうぐれ」の最後に少女と出会うシーンがあるが、そこの描写は読んでいる私も幼き日に戻って、純粋に「知っている」「懐かしい」と思った。永遠に心の中に少女を持ち続けていて、それを愛してやまないのが実際の風貌にも滲み出ているのが江國さんだ。少女っぽいおばあさんになって行くのかな。
今後は『想像ラジオ』(いとうせいこう)や『歓喜の仔』(天童荒太)が控えている。絵本もくるし、『小鳥来る日』(平松洋子)もすぐだろう。大変だ。
さてと、今日はTBSの日曜劇場の「半沢直樹」がある。池井戸潤さんの作品はNHKの「七つの会議」もあってなぜか人気。面白いのはこういう社会派経済ドラマはひと頃は唐沢寿明や江口洋介らの専売特許だったが、世代交代なのか。時の人、堺雅人や東山紀之らが頑張っている。日テレの「Mother」のスタッフが再び集結した「Woman」も目が離せない。「ショムニ2013」が見られなくてちょっと残念だが、まあ、内容からいったら坂元裕二の本の方が断然見るに値する。「Mother」とのテーマの違いは何だろうと思いながら、毎回見ている。
ということで、それではまた。
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by zuzumiya | 2013-07-14 18:01 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

自販機トラブルの裏には…

最近、自販機にしてやられてる。
梅ソーダを買おうとしてお金を入れてボタンを押したら、がたんごとんと出てきたのが梅ジュースだった。お茶を買おうとしてお金を入れて、出てきたのはサンプルでお茶の隣にあるエビアンだった。エビアンを買おうとしてお金を入れてボタンを押したのに、待ってもな~んも出てこなかった。ボタンを何度押し直しても出てこず、返却レバーをガチャガチャやってもお金は返ってこなかった。頭にきたが、仕方がないからお茶を買った。ここまで書けばどこの自販機メーカーか分かる人には分かるだろう。
自動ってやつも良し悪しだ。胴体には何かトラブルがあったらここへ連絡してくださいと住所や電話番号が書かれたシールがこれ見よがしに貼ってある。だが、クレーマー盛りの今日であっても、そこへいちいち電話する人なんているのだろうか。
電話して「あの~、今、梅ソーダ買おうとしたら梅ジュースが出てきたんですけど」って言ったら、電話の先の人はどう対処するのだろう。
「ちょっと待っててください。今、お取替えに伺いますから」って言うのか? 
さらに「通勤途中で急いでるんですよぉ」とか「すぐに返金してくださいよ」って言ったら、何て答えるのか?
多くの人はこのようなやり取りのムダを瞬時に想像して「100円ぽっちで騒ぐのも面倒だ」と腹立たしくなりながらも「100円落としたと思って諦めよう」としぶしぶ気持ちを切り替えるんじゃないかと思う。私もそうだった。でも、こう立て続けに三度も自販機に騙されたとなっては黙ってられない。
頭にくることはいろいろあるが、百歩譲って、お金を入れたのに何も商品が出てこなかったいうのは、単なる機械のトラブルとして考えてやる。でも、梅ソーダが欲しいのに梅ジュースが出てくるというのは、缶とペットボトルという明らかに形態の違いがあるのを考えても、完全に人を小馬鹿にしていると思う。アルバイトだか契約社員だか知らないが、商品の補充係の兄ちゃんのずさんさというか、悪意を感じる。
例えばこんな想像ができる。何かのミスで梅ソーダの数が足りなくて、人気のイマイチな梅ジュースの数が余っていたとしよう。
「同じ梅味なんだから、いいじゃねぇか。これでも飲んどけっ」と入れて行ったような気がするのだ。その背後には「どうせこんな表示してたって、誰も文句なんて言ってこねぇんだから」という人を見下した感情が潜んでいるように思う。たしかに「それきしのことで」多くの人は文句は言えず、兄ちゃんの読みが当たってしまっているだけに腹が立つ。
はたまた、こんな想像はどうだ。もし仮に、数十本に一度の割合で機械のトラブルで商品は出ないにもかかわらずお金だけ入るように意図的にセットしておいたら、全国規模でかなりの金額がメーカーの懐に入ってくる。自販機だけにお客は誰も文句を言ってこないから、不正な儲けの問題は表面化されない。だとしたら、とんでもない話だ(私の想像力もムダに凄いか?)。
たかが百数十円のことでも、結果的に泣き寝入りせざるをえない現実というのはほんとうにどうしたものだろう。
でも、実は梅ソーダの自販機はうちのマンションの敷地内のものなので、今度、こういう間違い?があったら、それこそ電話してやろうと思う。おそらくは商品補充の担当が地域によって決まっているだろうから、誰がやったかはすぐに判明して、そいつは確実に上司に怒られるはず。
仕事は誰かの笑顔を生むためにするのだ。バカタレめ。
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by zuzumiya | 2013-07-13 23:23 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

下ネタが許されるオッサンキャラへ~福山雅治の成功~

先日、あるテレビの番組で福山雅治の特集を見た。福山雅治といったら、ガリレオの成功、カンヌ映画祭での高評価、アジアでの熱狂的な人気ぶりと、今や怖いものなしの俳優だ。ハンサムな顔立ち、渋く甘い声、ソングライターとして歌詞の文才もあり、ギターも上手。驚くべきことにカメラの腕もよい。神はこれほどまでに一人の人間に秀でた才を与えてしまっていいものか、と呆れてしまうほどの凄い男である。
ここまで何拍子も揃ってしまうと、揃いすぎてかえって嫌味というか、反感を持たれたりするはずだが、福山雅治を嫌いという声は男女ともまず聞かない。
それは何でだろうと思いつつ番組を見ていたら、彼がラジオのパーソナリティを長いことやっていて、その中で“女体学者”と自他共に認めるほど下ネタが好きらしいことを知った。これか!と思った。

考えてみると、福山雅治と同じようなタイプの男たちはいる。国民的バンド、サザンオールスターズの桑田佳祐もそう。彼は57歳で、同じバンドに奥さんである原由子もいて、子供も成人しているくらいのいい年をしたオッサンなのだが(うちの夫と同い年!)、いまだに恋の歌をばんばん作り、子供が口ずさむと思わず恥ずかしくなるような悩ましく意味深なエッチな歌詞を書き、あからさまなジョークを飛ばす。そういうのが嫌がられることなく、逆に「桑田さんらしい茶目っ気」と親しまれ、愛されている。芸人の明石家さんまも同い年のオッサンなのに、彼の場合はバツイチの独身だが、同じ芸能界に年頃の娘も別れた妻もいながら、若い娘をいつでも口説こうとするキャラやスタンスを崩していない。タモリもリリー・フランキーもアラーキーも、実は加齢臭だってありそうなオッサンたちなんだが、エッチな話をニヤニヤしながらいくらしてもどこか憎めず、むしろエッチな話が大人の遊び心、教養ぐらいに粋に思われるそんな恵まれたオッサンたちである。

福山雅治のデビュー当時の写真を見ると絵に書いたように爽やかな好青年だった。歌手としてもドラマの俳優としてもおそらくはずっと非の打ち所がない二の線で来ていて、色恋の噂もあまりなく、そういうふうに身綺麗に天上人的に売っていくことも出来たはずだ。でも、ラジオという顔の出ないメディアだったからすんなり出来たのか、エッチな、ある意味、実に平凡な男くさい面を打ち出して、それが彼の清廉潔白なキャラに人間的な深みと親近感を与えたのかもしれない。彼ほどのハンサムに恋の噂があまりにもないと、世間はすぐに「福山雅治=ホモ」説を言い出すので、そういう意味でも下ネタ話は先手を打てる。
ところで、女性というのは実は、本能的に男の助平心をそんなに嫌っていないんじゃないかと私は思っている。どこかで「それは健全だ」と認識できていると思う。それゆえ、うまく機能すれば女性のフェロモンのように、大人の男の色香として、エスプリとして格別な魅力になる。
いつごろから下ネタキャラを解禁したのか、そういうふうにキャラをシフトさせていったのか、事務所の売り方なのか、福山自身のもともとの持ち味だったのか、何にせよ、あれだけのクールなハンサム顔でありながら、オスとして十分に成熟した健全なエッチさを吐露できるなんて、なんて上手に共存しているパターンなんだろうと思う。
さて、私のお気に入りの宮本浩次。彼ももう47歳のオッサンである。いつまでも見果てぬ夢を追いかけて突っ走る戦う男の雄々しさで押すんじゃなくて、年相応に下ネタ話をゆる~くかますぐらいの滋味あふれるちょっとエッチなオッサンキャラに上手にシフトして行ってほしい気がする。
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by zuzumiya | 2013-07-12 02:04 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

女の食べる?食べない?~ゼロカロリーを選ぶということ~

前の仕事を辞めてから、4キロも太ってしまった。
太ったのには理由がある。仕事を辞めてとたんに動かなくなったこと、仕事から解放された気の緩み、仔猫を飼って再び“肝っ玉かあさん”的母性が激しく目覚めたこと、それからこれがいちばん大きな理由のような気がするけれど、心の中で大事にしていたある種の憧れとの別離があって「人生から降りた」ような気分になっていたこと。
ざっと考えるとこれだけの理由があったのだが、ま、ひとえに「自分が弱かった」ということか。
中年であるから代謝は落ちていて、食べたものはぜんぶ脂肪と化した。
もうこの年からはよっぽどの努力をしないかぎり体重は落ちてはくれないだろう。
やれやれ。やっちまった。
最近は肥満対策にゼロカロリーをうたった商品が多い。私もコーラやらゼリーやら、どうせだったらゼロカロリーのものを選ぶ。
でも、ある晩、食後にゼロカロリーのゼリーをかっ込んでいた時、ふと、「食べるとは何ぞや」と思った。
食べるとは、食べ物から栄養をもらって自分の体を作ること、だったはずだ。
なのに、なぜ自分はカロリーがゼロのものをわざわざ選んで食べているのか。いや、もっと正確に言うと「選んでまで食べたいのか」である。
体には何も及ぼさない、影響力ゼロである。なのに、食べたい。そうまでして、食べたい。
「下卑た欲の塊め!」という気になる。体云々じゃなく、もはや食欲という目に見えない怪物にせっせと餌を与えているみたいだ。
つまり、ゼロカロリーを選んで食べるということは、ただただ純然に、欲望を満たすためだけに口にしているということ。そう気づくと「何やってんだ、あたし」と呆れてくる。
そこまで体と心がチリチリバラバラで、欲望に体を乗っ取られている自分が不憫で「おい、どうした?」「何があった?」と声をかけたくなった。
ゼロカロリーを選んで食べようとする自分はいま、病んでいる。
やらないでもいいことをやろうとしている。そのくらい思ってみてはどうか。
と考えつつ、結局はぜんぶ平らげたんだけど。
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by zuzumiya | 2013-07-08 23:07 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

虹を見たかい?

今日、久しぶりに虹を見た。
私のなかで虹は吉兆なので、虹を見つけるやいなや必ず大声で家族を呼ぶ。
自室でゲームをしていた息子は「なんだ、なんだ、ガキみたいに」と苦笑いして出てきた。夫も昼寝を起こされて、のそのそとTシャツのお腹を掻いて和室から出てきた。
家族三人で空を見上げる。午前中、梅雨が明けたからとガラスを磨いていてよかった。
サッシのほぼ上半分を灰色の空から住宅街の屋根の中へと大きく弧を描いてうっすらと虹がかかっていた。夕立の雨はまだ横殴りに降っていて、時折、光に照らされて銀色の針のようだった。
「ほら、あそこの家、虹の足もとにある!」
吉野弘の詩『虹の足』が好きな私はいつでも虹の足もとに目が行く。それでもって
「いいなあ、あの家。じぶん家が虹の足もとにあるの、気づいてないんだよね」
と詩人と同じことをつぶやく。自分の家がすっぽり虹に覆われていて、しかもそこから空へ向かって大きな虹ができているなんて、ほんとに素敵、考えただけでわくわくする。
と見る間に、虹は薄れていき、何度も目を凝らした。
「ねえ、もう薄くなってきてるよね」
「うん」
「だいぶ、薄くなった。儚いねえ」
結局、虹は一分ももっただろうか。いつの間にか雨もあがっていた。この儚さ、だからこそ私は子供のようにこんなにも騒ぐのだと胸が熱くなった。
なぜ、虹を吉兆と思うようになったかといえば、私が投稿するための原稿を書き上げた時、外に出ると太くて短い虹が空にかかっていて、それを見た瞬間、直感で「これはイケるぞ!」と思ったら、ほんとうに出版社から声がかかったからだ。
でも今日、久しぶりに虹を見て「ああ、たしかに虹は吉兆なんだ」としっかりと思えた。
横殴りの雨が降っているにもかかわらず、今日のようにその只中にもきれいな虹が出ていたりすると、トラブルや嫌なことの中にあっても、見方を変えれば美しいもの、尊いものの存在が見えてくるんだなとか、物事には決して悪い面ばかりじゃないんだなとか、もしかしたら神様はときどき虹を作って、そういうふうに人々に希望というものを示してくれているのかな、とか思えたのだ。
それに虹というのは太陽を背にすると見えるという。まるで太陽がか弱き人間の背中を押して、「ほら、顔を上げて見てごらん」と教えてくれているようで、そういうところもなんだかうれしくなる。
虹は吉兆。雨上がりの世界はすべてがキラキラしてきれいだった。
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by zuzumiya | 2013-07-07 21:00 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

あなたは立ってする派?それとも座ってする派?~男性トイレのなぞ~

先日、ここで男性トイレの個室の数があまりにも少ないことを書いたが、その後、娘からとんでもない事実を知らされた。今日はそのことを書いてみる。
娘の働く美容院に業者さんの男性が来るのだが、来るたびにいつでもトイレを借りていくという。彼が出たあとに、たまたま娘が入ると“便座が下りていた”。時間的にも業者の彼はたぶん小用であったはずだが、娘は「なぜ便座が下りていたのか」とふと疑問に思ったという。なぜなら、我が家の男たちは小用を済ませた後、便座は必ず上げっぱなしで出てくるので、男性というのはそういうものだと娘は理解していたのである。業者さんがわざわざ便座を直して(下げて)帰ってくれたのかと考えてはみたものの、もしやと思って、娘はスタッフに訊いてみた。
「もしかして、座ってオシッコする男の人っているんですか?」
すると、店長が「俺、するよ」と事も無げに答えたという。
娘が「え~っ!」と驚きの声を出すと、スタッフのオバサンの一人が
「うちの息子たちもそうよ。我が家では便座を下ろしてさせてる」
「な、なんでですか?」と娘。
「立ってすると、オシッコがまわりにハネて汚れるでしょ。だから禁止」
「え?小さい頃からですか?」
「そう、小さい頃からずーっと」
当然でしょ、という顔に娘はもはや返す言葉もなかったという。
その話を聞いて、私も驚いた。
そして、会って話したこともあるあの店長が座ってオシッコしている(すいません、いちいち“小用”と気取っていられなくなりました)姿を想像したら、可笑しくて吹き出してしまった。
ハネを防ぐというけれど、体の構造上、突き出ているものを(ワカリマスカ?)、こう、意図的に曲げてというか下げて、オシッコするわけで(あくまで想像ですが)、そうするとかなり便器の壁面や水面が近くなって、そっちの方がハネる率がだんぜん高くなるはずだと思うのだけれど…。そこを無理やりオシッコしなければならないわけで、するとどうしたって、出る勢いを弱めてチョロチョロとしか出せないわけで、そんな事を毎回強いられているのだとしたら、それはあまりに可愛そうだと思う。
そんなやり方では、オシッコを限界まで我慢してきてようやくトイレに入れた時の、あの出るに任せて勢いよく放尿する快感なんぞ味わったことはないんだろう。あれはひとつの幸せといってもいいのに、頭の片隅でいつでもモノが便器から飛び出さないように、オシッコがハネないようにと理性を働かせているというか、緊張感を持ってしなきゃならないなんて、ほんとに不自由で不幸なことだ。
この話を一緒に聞いていた夫が翌日、会社へ行って早速若い男の子に質問してみると、その子(20代)も「オシッコは座ってします」と平然と答えたそうだ。
理由はやはり、家庭教育。気の強いお姉さんがいて、便座が上がっているとそれだけでものすごく怒られたらしい。
以前、トイレの個室の数が少ない話でも触れたが、その個室が少ないゆえにいつでも閉まっているのだとばかり思っていた私だが、こういう話を聞くと、もしかしたら、その個室内では実は大の方ではなく小の方をしているのではないかと思えてくる。ただでさえ個室の数が少ないのに、外でもできるオシッコを中でしているとしたら、ズルである。大をしたくて使いたい人はほんとにいい迷惑である。
考え方の古い?私としては、大の男がこそこそと個室内でオシッコの勢いを調節しながら座っているなんて、情けないというか気持ち悪いというか、いつからニッポンダンジはこんなヘタレになったのか、嘆かわしいと思ってしまう。
それに、これは医学的な根拠もない私個人の勝手な推測だが、言われて久しい草食男子やセックスレスが増えているとか、男性の精子の数そのものが少なくなっているとか、男性の意識や体の変化について耳にすることも多くなったが、男性はオシッコの出る穴と精子を出す穴が一緒なわけで、便器に座って多少なりとも緊張感を伴い、勢いなくチョロチョロとオシッコをすることが普通になると、なんというか、長い目でみれば、性欲とか性的能力にも影響を及ぼすんじゃないかと心配する。素人考えだが、放出する力は大事で、毎回のオシッコで鍛えられていくもののような気がする(女性の出産のいきみの力もそう)。
母であれ姉であれ、女性に言われて女性の強制力でオシッコを座ってするようになったなんて、こんなところにも女性の力が強くなって男性がどんどん弱くなって、従属的になっていくという構造が隠れていた、とも思った。
どうだろうか。自分の掃除の手間なんて考えず、日本の将来のためにも、男の子には堂々と立って用を足すことを普通として教えた方がいいんじゃないかと思う。ちがうか?
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by zuzumiya | 2013-07-06 23:36 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(8)


ふだんの暮らしに息づいているたいせつなもの、見つめてみませんか?


by zuzumiya

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