<   2013年 06月 ( 12 )   > この月の画像一覧

こうして思い出は作られていく

夕食のあと「アイスが食べたい」という娘と近くのコンビニまで歩いた。
今は正確には彼氏ではない、でも男友達としてずっと続いている腐れ縁の男の子との話を聞きながら、涼しすぎてちょっと冷たい夜風をあびて住宅街を歩いた。
コンビニでそれぞれ予定外に雑誌も買って、お兄ちゃんには頼まれたコーラも買って、おんなじアイスキャンデーの封を切って、ペロペロなめながら帰った。
「考えてみると、あんたとは買い食いばかりしてる気がする」
「そうだね。でも、楽しいじゃん!」
「お母さんね、家を見て歩くの好きなんだ」
「あたしも!家の灯り見て、中を想像するの好き!」
なんだか、うきうきしてくる。
畑の脇は虫がいるからイヤと、娘が先頭をきって住宅街をくねくね歩いていく。
両脇の家々から、黄色い灯りが漏れている。
そんな普通の景色を見ながら、風に吹かれてアイスキャンディーをなめていると、
今がすごく自由で、しあわせだっていう気分になってくる。
「あ、もう溶けてきてる!」と娘。
「えっ!」
あわてて手元に近い部分をなめてみると、たしかに溶けてきている。
「ほんとだ、ひょえ~!」
笑いながら、少し足をはやめる娘。「あっ」を連発して、垂れてくるアイスと戦っている。
「手もズボンもベトベトになっちゃったよぅ~」
手をひらひらさせて笑って背を向けたその先に、マンションが見えてくる。
9階のお兄ちゃんの部屋の窓だけに灯りがぽつんとついている。
「ああ、今、あそこにお兄ちゃん、いるんだね」
「ゲームしてんでしょ」
ぽつんとついた窓の灯りが、思いのほか小さくて、
「あんなところに、みんなでなんだかんだ言って、暮らしているんだねぇ」
つぶやくと、なんだか妙に愛おしい気持ちになってきて、
この瞬間がものすごくせつなくなった。
前を行く娘の背中も、この夜の風も、
アイスキャンデーのミルクの味も、ぽつんとついたあの窓の灯りも、
みんなみんなきっと忘れない。そう思った。
[PR]
by zuzumiya | 2013-06-30 23:27 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

音楽がいいCMはそれだけで残りやすい

昔から車のCMでHONDAはそれが抜きん出て上手かった。車なんて結局、走らせて撮るか止まってるのを撮るか、デザインの優れた部分部分を撮るか、タレントや風景の凄さで逃げるかみたいな、どの車も車としての見せ方にあまり違いは作れないものだけど、だからこそ音楽というのは大事で、その車の持つムードとかステイタスとか、人で言えばキャラクターにあたるものを付けていくのに非常に重要だと思う。
車に詳しくないので、きちんと車種車名まで言えないけれど、昔のシビック(これは不思議と車名まで覚えてる)のルイ・アームストロングが歌った“What a Wonderful World”とか、颯爽と荒野を走る馬の群れの中から一台の車がすーっと走り出てくる(これは残念ながら車名は忘れてしまった)CMで使われた“ボレロ”とか、印象に残っていて、選曲センスがいいなあと思った。音楽好きな詳しい人がチームに加わっているんだろうと思って感心していた。昔はいい映像にいい音楽のお洒落なCMが多くて、絶対自分には作れない類のものだったから、憧れだったなあ。
その後、車のCMでいいなと思ったのは、HONDAではなく、JAGUAR。
いつのものだったか、もちろん車名もわからないのだけど、流れていた音楽がよくて、調べようとメモした記憶だけあって、今あらためて調べてみたら、クリス・アイザックという歌手の“Wicked Game”という曲だった。実はこの曲、インストの扱いでデヴィッド・リンチ監督の映画「ワイルド・アット・ハート」の挿入曲だったらしい。見ていたはずなのに気づかなかった(でも、実にリンチ好みの曲!)。
とにかく、CMではこの曲のせいでJAGUARの車がやけに色っぽく艶かしく映っていて、“大人のゴージャス”を見せつけられた感じでカッコよかった。車なのにネコ科のジャガーっていうのも粋で、あの時は「乗るならJAGUARがいいな」なんて思ったものだった。

そして、久々にCMの音楽で「やった!」と思ったのは、今流れているHONDAのアコード・ハイブリッドの“セダン愛・登場篇”。歌っているのはカナダのビッグバンドの歌手で
マイケル・ブーブレ。曲は“Feeling Good”
このCMはとても計算されて作られている。歌詞の合間にCMのナレーションを入れて、歌詞の意味との相乗効果を上げて、特に歌詞の「Good」の時に合わせてアコードの車が出てくるあたり、ニクい編集だし、大きく“セダン愛”のテロップと共にジャジャ~ンって感じでビッグバンドの演奏が始まって、登場感をぐっと盛り上げる。「アコードハイブリッド誕生」のナレーションの背後にも「I’m feeling good」とナイスな位置でナイスな言葉が響く。「やられた~」と思った。その歌詞というのがこちら。
「It's a new dawn
It’s a new day
It’s a new life
 For me
And I’m feeling good」
いかにも“誕生”にふさわしい歌詞。ほんとに素晴らしい選曲だし、見事な編集だと思う。
音楽を大事にしてきたHONDAのCM健在!って感じで、見るたびにうれしくなる。
[PR]
by zuzumiya | 2013-06-30 18:20 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

梅雨時のお試しあれ

梅雨時の蒸し暑さで、なんだか部屋の匂い(生活臭)まで気になりだしたら、芳香剤を変えてみます。蒸し暑いときは花やフルーツの甘ったるい香りは余計に空気を重くしがち。ミントのようなハーブ系のグリーンな香りなら、風がなくてもすっきりとした清涼感を与えてくれます。さらにミントには防虫効果もあるというので一石二鳥です。お試しあれ。
梅雨の晴れ間の太陽は夏本番を思わせる勢い。吹き出す汗で頬にはすぐに小さなブツブツができて痛くなります。これぞ日焼けで、のちのちのシミに。そんな夜には、アロエのジェルで肌をマッサージします。アロエには消炎や保湿の効果があります。この時期、冷蔵庫には必ずアロエジェルのチューブを冷やしておきます。お風呂上がり、扇風機の前に陣取ってひんやりしたジェルを頬にすーっと伸ばしていく快感。極楽です。お試しあれ。
[PR]
by zuzumiya | 2013-06-29 12:15 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

ちょっとの不快で残るCM~バスマジックリンに見る女のシアワセ~

水川あさみの出ている“バスマジックリン”のCM。
内容はこんな感じ。水川演じるOLが通勤で歩いていく姿に彼女のナレーションで「毎日毎日同じ道」。デスクでキーボードを叩いている姿に「同じ仕事」。夕方、同じ道をまた帰っていく姿に「いつもと同じ」。そんな彼女が帰宅途中に寄ったスーパーで新しいピンクのバスマジックリンを見つける。満面の笑顔でお風呂掃除をしている姿に「香りが咲いて広がって、お風呂掃除がシアワセ!」とシメのセリフ。めでたしめでたし。
最初見たとき、あまりにリアルすぎて「こんなCM作られて見せられてもなぁ~」と思った。“バスマジックリンにローズの香りが出た”というだけで、女はとりあえず幸せになれちゃうって、どうなんだろう。哀れというか、情けないというか。CMなのになんかものすご~く夢のない、ものすご~くセコい世界をわざわざ見せられている気がする。
あんなことしなくても、今までのようにローズの香りのCG(お風呂場がたちまち花畑になるような)でも作って適当に遊んでおけば、ベネフィット感もそれなりの幸福感も出て、無難だけど商品寄りのCMができて、ま、バスマジックリンごとき、それくらいでもいいような気がするんだけど…。
あのCM見るたびに、「これが女の現実だよ!」「こんなものなんだろ?」ってヘンに突きつけられて、せつないような、でも、そんなささいなことでシアワセになっちゃうくらい小さな世界で頑張って生きている女の代表(を演じる)水川あさみが可愛くて愛おしいような気にもなって、私の中では妙に残ってしまう。
バスマジックリンごときでシアワセになっている自分って、自覚はしていても、外から見て「そうなんでしょ?」って言われたくないじゃない? 世界がどーんと飛んでいればよかったものを、なまじOLさんのリアルな世界で“共感を呼ぼうと”作られたために、作り手からくるこの押し付け感、お見通し感っていうのかな、このCMにあるちょっとの不快って、それなんだと思う。
[PR]
by zuzumiya | 2013-06-29 11:14 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

『窓につたう雨は』

a0158124_2246274.jpg一昨日ここで書いた雨をテーマにしたコンピレーション・アルバム『窓につたう雨は』のCDを息子に頼んで買ってきてもらった。
今、BGMにしてこれを書いているが、やはり寺田さんのセンスはものすごくいい。1曲目のピアノから、すぐに「ヨシっ!」と膝を打った。1曲1曲も素晴らしいのだけど、曲の並びがまたすごくいい。前の曲の終わりの余韻の薄靄の中から次の曲がふうわり現れてくるシンクロの雰囲気の良さ!見事です。

“雨もの”だけあって、インストでもヴォーカルものでもすべての曲のタイトルに雨という言葉、または雨にまつわる言葉がつけられている。つまりはいろんなアーティストが雨を表現したり、雨を歌ったりしているのだけど、雨という言葉がもたらす世界はみな、どこかゆるやかにメランコリックで甘くセンチメンタルなものなのだな、と思わず微笑んでしまう。
たしかに雨のことを「空が泣いている」と表現することもあるし、雨粒が窓をつたって落ちていく様は、人の涙にも似ている。そして、窓をつたう雨は、それをぼんやり見つめている独りの時間も、いつでも澄んでいて美しい。そう思う。
それにしても、このCDはたしかに雨の夜もいいけれど、季節を問わず、夜に流しておきたいアルバムになってしまった。少しだけ灯りをともした部屋で、独りで、エンドレスで。

※全体の流れで、通しで好きなのだけど、特にお気に入りは、3曲目、Michael Feinstein & George Shearingの「September In The Rain」と10曲目のElla Fitzgerald & Joe Passの「Rain」、14曲目 Claudine Longetの「I Think It’s Gonna Rain Today」かな。聞いてみて。
[PR]
by zuzumiya | 2013-06-24 22:48 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

雨の日には雨の日の

買い物をした店先で空を見上げて、傘を持つのが面倒だなぁと思っていたら、隣の老婆たちがゆったりと「農家にとっては恵の雨ですからねえ」「今降っておいてもらわないと水不足になりますものねえ」と微笑み合っていた。不快で邪魔な雨をよきもの、ありがたいものとして受け容れる日本人の感性。そういえば、こうやって季節感を育んできたのだったと、ふと思い出した。
先日、息子のすすめで新海誠さんのアニメの最新作『言の葉の庭』をDVDで見た。
雨の新宿御苑の描写の素晴らしかったこと。濡れた緑のさまざまな濃淡。草むらの暗がりを時折抜けてくるひんやりとした微風。土の匂い、樹木の匂い、水の匂い。雨音に閉じ込められた静寂という“圧”。たちまち、感覚と記憶が呼び覚まされる。
この描写の徹底した細やかさには、梅雨という季節への日本人特有のメンタリティー(愛と叙情性)を感じる。雨がもたらす癒しを含んだ甘やかな孤独、感傷。それもまたよきものと浸るしなやかな情緒。
ジメジメして蒸し暑いと嘆くばかりの私は、せかせかとして、心のなかの襞は乾いていたようだ。
雨の日には雨の日の心持ち、慎み、愉しみ方がある。
そんな折、西荻窪のCDショップ「雨と休日」からメールマガジンが届いた。
店主が選曲・監修した、雨をテーマにしたコンピレーション・アルバムが出来たという。
その名も『窓につたう雨は』
試聴サンプルを聞いてみたが、静かなジャズヴォーカルが中心で、なかなかいい。
我が家はマンションのすぐ脇を大きな街道が通っている。曲の合間に車のタイヤが雨を弾いていく音が重なって、まるで雨の効果音が入っているみたいだ。ひょっとしたら、外の雨音も一緒に味わう、そんな心憎い計算がなされているのかもしれない、と笑った。
梅雨という季節の旬を2作。あなたにも。
[PR]
by zuzumiya | 2013-06-22 08:29 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

『ペコロスの母に会いに行く』~物語を持って生きること~

a0158124_1231463.jpgその存在を知ってはいたけれど、仕事にすべてを支配されそうで、もう介護まわりの本は読むのをやめようと思っていた。でも、漫画だし、なぜだかずっと気にはなっていて、ついに先日、給料が入った太っ腹で買ってしまった。
岡野雄一の『ペコロスの母に会いに行く』。
これが、実にい~い本だった。思い切って買って正解だった。
やっぱりいい本は「ほら、こっち来い」「読んでみろ~」と魂を誘う引力を持っている。


坂の街、長崎が舞台の(方言も場所もこれがまたすごくいい味を出している)、老人ホームにいる認知症の母と見舞う息子の、家族の生きてきた時間をめぐる時間旅行のような温かくてせつないお話。読む前は子育て漫画によくあるドタバタ、シミジミの泣き笑いの幸せの介護版だろうと高をくくっていたけれど、違った。もっと深かった。
認知症とか介護とかの文字で「今の自分は関係ねえや」とこの本を手に取らないのは大損だと思う。
たしかに、母が認知症になってからこそ気づいた人生の時間、過ぎ去った家族の時間の豊かさを描いてはいるけれど、認知症じゃなくても老人じゃなくても、すべての人に生きてきた時間と歴史があって、それを今この瞬間も何気なく作っていて、そういうものにずっと支えられてこれからも生きていくこと、その中にこそ自分はいるんだってことをあらためてこの本は教えてくれる。
遠い将来、またひょっこり出会うために、思い出を今まさに作っていることの自覚、というのかな。そういう、時間を未来から遡りして懐かしむ感性だったり、失っていくけどほんとうは何も失わないんだという幸せな矛盾を私は好ましく思うし、今このぞんざいにしがちな普通の日常がほんとに尊いものだと思えるからいい。
認知症って、人にも程度にもよるのだろうけど、“憶えていたいことは憶えている”ものなのかもしれない、と希望を持った。以前、このブログで、亡くなった旦那さんが食事のたびに幻になって現れて(みつえさんのよう!)、昔のようにいろいろと世話を焼くおばあさんのことを書いたが、何ていうこともない繰り返された日常の風景なんだけど、そこに居る自分が“憶えていたい自分”だったのだと、この本を読んであらためて思わされ、さらに感慨深くなった。
それと、岡野さんの(というか、母のみつえさんの感覚なんだろうけど)空の上から過去の街を、そこで懸命に生きている過去の自分や家族の日々を見下ろすあの慈悲深い俯瞰のまなざしの感覚が、「ああ、そうだろうなあ」と思わず笑みがもれるほど、微笑ましくて温かくて私は好きだ。本に出てくるあの“山を降りてくる陽だまり”もまるで神様のような大きな何かにみんな祝福されて、見守られて生きてきた証のような気がして、読んでいて気持ちがやさしくなった。
みつえさんが老人ホームのベッドの上で、布団の縁をつまんで幻の針と糸で運針のように子供と夫の服に“ふせ”(長崎弁でかけはぎ、継あてのこと)をしている姿を見るたび、じんわり思う。
何かになって名を残さなくても、偉くなくても、金持ちじゃなくても、ひとりの女が平凡な妻になって母になって、家族のために懸命に身を削って生きて、愛だけを注いで、やがては老いて死んでいくというのも、なかなか尊いものじゃないかと素直に思えた。私も老いてヨレヨレの婆さんになって、ひょっこり思い出す自分はきっとそういう夫や子供の世話をうるさいくらいに細々と焼いている、このいつもの自分だったりするんじゃないか。そして、それがいちばんいい。
私たちはみんな繰り返す日常にささやかな物語を持って生きているし、その物語を持って死んでいけるんだと思う。
[PR]
by zuzumiya | 2013-06-16 11:42 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

『母性』を読んでいろいろ考えた

湊かなえの『母性』を読んだ。「これが書けたら作家をやめてもいい」という作者の意気込みの凄さが何よりの宣伝になって評判を呼んでいる。
私は作品の良さというのは小説のお話そのものの出来というより、読後、読者が日常に戻ったなかで、どれだけいろいろ考えられるかだと思っている。その意味では、いいきっかけを貰えた本だった。
話の中で、女には二種類あって、それは「母」と「娘」であると説明する登場人物のセリフの中にこんなのがある。

<「子どもを産んだ女が全員、母親になれるわけではありません。母性なんて、女なら誰にでも備わっているものじゃないし、備わってなくても、子どもは産めるんです。子どもが生まれてからしばらくして、母性が芽生える人もいるはずです。逆に、母性を持ち合わせているにもかかわらず、誰かの娘でいたい、庇護されたる立場でありたい、と強く願うことにより、無意識のうちに内なる母性を排除してしまう女性もいるんです」>

子どもを産んだことのある私の経験から言えば、女性はこのようにきっちりと二分化されるものではないと思う。ひとりの女性のなかには「子どもをこれからしっかりと守り育んでいかなければ」という「母」としての強い自覚と共に、「子どもを産むという命がけの大業を成し遂げたのだから、もっといたわってもらいたい、感謝してもらいたい」「かよわき子どもを抱える私だからこそ、誰かに守ってもらいたい」といった、甘えを含んだ受身の「娘」の心情も存在している。
初めての子どもを産んで、睡眠不足で朦朧とした頭で、どうにも泣きやまない我が子を抱いて部屋中をうろつき、不安と疲れと無力感で泣きたくなるくらいいっぱいいっぱいになっている孤独な若い母親を想像してみれば、それがよく分かるだろう。
たしかに「母性」というのは、男性が信じているような頑丈さではじめから存在するものではない。
本来、女性の中の「母性」は、それこそ生まれたての子どものように敏感で危うい“かそけきもの”で、子どもと同じように、そこから慈しんで育んでいくものなのだと思う。「母になっていく」という現在進行形の言い方がいちばん適切で、育児のテクニックも母としての心持ちの問題もすべて、子どもと接して試行錯誤することで子ども自身から教えられ、だんだんに育児の勘所が分かって、「母」としての自信に跳ね返っていくものだと思う。
そういう“かそけき母性”を育むのは、母親本人だけではないのだ。父親である夫こそ、実は重要なキーパーソンである。子を産んだ女性のなかには「母」と「娘」の両方の心理が危うくゆらゆらとバランスを変えながら同居しているのだから、夫のできることはその庇護されたい、守られたいと願う「娘」の心の方をまず満足させてやることだと思う。
「父性」とは社会のルールやマナーを教える「しつけ」のことだという。子どもにとってそれが必要になるのは集団生活に入ろうとする頃で、もっとずっと先のこと。私が思うに「父性」はその頃までとっておき、まずはよき夫であろうとすること、いわば「夫性」として、妻へ力を注ぐべきだ。命をかけて夫の子どもを産んで、日夜、懸命に育てているのに泣き言ひとつで「母親なんだから頼むよ、しっかりしてくれよ」なんて言葉で突き放されたら、女はあの凄まじい出産の痛みにひとりで耐えた自分がバカらしく思えて、夫の顔に似た子どもに愛情を覚えなくなるかもしれない。育つ「母性」も育たなくなる。
世の夫族には「妻を母にしていくんだ」くらいの心意気で子育てに向かってほしいと思う。「父性」はまず「夫性」からと憶えてほしい。
そして、もうひとつ。子どもの数が少なくなって、ひとりっ子に親が関わる機会が多くなると干渉することも増えて、「しつけ」や「教育」を何より優先する母親も多くなる。最近は「父性的な母親」「父性的な家庭」が多くなっている気がするのは、女性の社会進出が当たり前になって、意識が男性的になっていることと関係しているのかもしれない。
女性の「母性」のその根っこは、やはりやさしく包み込むような「女性性」のような気がする。激しい闘争心とか、競争して相手を蹴落として上に行くとか、そういう猛々しい男性的な“切った切られた”の世界で女性性をすり減らしてしまうと、やがて必要になる「母性」の泉が枯れてしまうかもしれない。男性社会で生きるために勝つために、まず手放してしまいがちな「女性らしさ」「女性としてのよさ、価値」をもう一度豊かなものとして見直すべきだと思う。
我々女性は受け入れ、慈しみ、育む性だということを誇りに思いたい。
なんて、ずいぶん湊さんの『母性』のお話からは逸れているんだが、つらつらと考えた。
[PR]
by zuzumiya | 2013-06-13 22:28 | 日々のいろいろ | Trackback(1) | Comments(0)

「めぐり逢い」と「ぬくもりにふれて」~アンドレ・ギャニオン

a0158124_22473112.jpga0158124_22474045.jpgテレビを見ていて、はっとした。
樹木希林演じる老婆が死んで一本の樹になって、その周りに町ができるというトヨタの企業CM“TOYOTOWN”(トヨタウン)篇。その後ろに流れている優しいピアノのメロディー。アンドレ・ギャニオンの「めぐり逢い」だ。


アンドレ・ギャニオンといえばこの「めぐり逢い」が有名で、とても素敵な曲なのだけれど、私にとっては「ぬくもりにふれて」(アルバム「夢のほとり」に収録)が思い出深い大切な曲である。私の本がNHKのラジオ番組“私の本棚”で朗読された時に、ある回で流れた曲なのだ。
一冊の本を10日間にわたって、たしか15分か20分程度の分量に分けて、女優の斉藤由貴さんに朗読していただいた。そのなかでいちばんのお気に入りの回、ひょうきんな夫が“手とぎ男”というキャラクターに変身して子供たちとプロレスごっこに興じるくだりのあとに、ゆっくりと静かに流れてきた曲だった。あのギャニオン特有のちょっと物悲しくてやわらかなピアノのおかげで、“遠い日の家族の姿”“もう戻れない懐かしい過去”が聴く者の心をきゅうんとせつなく、そしてじんわりと温めてくれた。私の拙い文章だけでは望めなかった選曲のありがたい効果だった。
ギャニオンのCDは2枚持っているけれど、聞くと悲しくなるようなあまりにベタな哀調で、叙情的すぎて、ほんとうはそんなに好みではない。でもこの「めぐり逢い」と「ぬくもりにふれて」だけは、せつなさのなかにもそっと包み込んでくれる優しさと未来にひらけていくようなほの明るさがあって、ラジオ放送以降も家族や大切な思い出について書いたりする時にはBGMに流したりした。
たしか作家の夏石鈴子さんも執筆の際にはイヤフォンでちょっと物悲しい曲を聞くと仰っていた。彼女の『家内安全』という本の、あのせつなさと温もりを思い出す。
私は流す音楽で書く内容がすぐに影響されてしまうタチなので、なるべく静かで、空間に溶けていくような暗すぎず明るすぎずの中庸なピアノの曲を好んでかけている。日本語は耳が引っ張られるからダメ。最近は洋楽の英語もうるさくなってしまった。そうして同じようなピアノのCDばかりが増えていく。
でも、たしかに音楽の力で胸のなかの思いをすうっと汲み上げてもらって、言葉にするのを手助けしてもらっている感じがする。
[PR]
by zuzumiya | 2013-06-10 22:18 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

ハッピーバースデー、もも!

昨日はももの1歳の誕生日だった。というか、ほんとうは捨て猫だったから、いつが正確な誕生日なのかわからない。うちにもらわれてきた去年の9月7日で、里親探しの協会の人が「だいたい3ヶ月ぐらいだと思うけど…」と言っていたので、誕生日は一応6月7日とした。
娘と私が猫用のおやつをたくさん買ってきて、ちょっと高価なほたての缶詰も与えてお祝いした。「誕生日おめでとう!」とパチパチ拍手をしてやった。昨日は一日、姿を見るたびに「おめでとう」と言われたが、当のももは「何のことやら?」だったろう。
でも、いいのである。ももは何にもわからなくても。
生まれてすぐにちょっと苦労したけれど、うちに来て、家族になって、こんなにもみんなに笑顔と癒しを与えてくれた。ほんとうによかった。うれしい。
今日はちょっと久しぶりに最近のもものおてんばぶりを書く。
ももはおもちゃを投げると走っていって咥えて戻ってくる犬のような猫である。しかもそのおもちゃというのは、何ていうこともないスーパーの袋。なぜだか“マツモトキヨシ”の黄色い袋が好きで、小さく縛って丸めたものが最高のお気に入り。お金をかけたねずみのおもちゃなんかよりずっとよく遊ぶ。「なんだ、こんなんでいいのか」とがっくりきた。
ももは退屈すると、そのおもちゃを咥えて私のそばにやってきて、ポロリと落とす。
読書をしていたり、iPadを見ていたりすると、気がつくと足元に落ちていたりする。
「遊びたいのか」と思うが、家事が終わってようやくひと息ついたばかりで、それでわざと気づかないふりをしていると、ももはさらなる行動に出る。咥えたおもちゃを読んでいる本の上やiPadの真上に落とすのだ! そうなるともう遊ばざるを得ない。
本を伏せiPadは閉じ、力を込めてなるべく遠~くに投げてやる。ももは「待ってました!」とばかりにすっ飛んで行って咥えて戻ってくる。そしてまたポロリ。何度も何度も飽きずに繰り返す。そのうち、私の右肩は痛くなり、ももも疲れてへたばってくる。へたばると、私の足元でなく、ズルをして足元から1mくらい手前に落としてくる。
「私に取りに来いってことか?」とカチンと来て、そうなるともう絶対に投げてやらない。そこで疲れた二人は決裂して、お互いそっぽ向いて、ひとりは読書を再開し、一匹はそのまま床にふて寝する。そのままももが寝入ってしまう場合もあるし、しばらくして再び「悪かったよ、ゴメン」とばかりに本の上にポロリ落としてくる場合もある。
たしかに可愛いのだが、非常に迷惑な時もある。
夕食の準備をしている時とか(人間の子供のようだ)、最近は夜、灯りを消して床についてるといきなり体に乗ってきて、ぽとんと布団の上に落とす。忙しかったり、疲れていたりすると投げてやらないのだが(一度でも投げると、延々投げ続けなくてはいけなくなる)、そうすると自分で私の足元や布団の上で勝手にモゾモゾ遊びだすのである。
自分で咥えて後ろの両足でキックする、私の足を障害物として回り込んで捕獲をわざと難しくする、布団と布団の隙間にわざわざ入れて爪で掻き出す、ジャンプして飛びつく、取り出したものが転がるとさらに手で叩いてそれを追いかける…。
こういう時は我慢して無視するのがいちばんなのだが、先日は私が横を向いて寝ていたその背中でこのひとり遊びをやられて、朝方早くに起こされてしまった。寝ぼけ眼で「何だよ、もう~!」と怒って思わずおもちゃを投げてしまって、すぐに「シマッタ」と思ったがもうだめだった。ももは遊びが始まったと思ってダダダーっと駆けていき、布団の上にポロリとやり、ひとり遊びを繰り返されて、完全に私は覚醒してしまった。
今、我が家ではこの“おもちゃポロリ”を“ハンカチ落とし”に見立てて「ホラ、あんた、鬼だよ」と教え合っている。たいてい、みんな「え~っ」と半分、迷惑そうな声を出す。
[PR]
by zuzumiya | 2013-06-08 12:28 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)


ふだんの暮らしに息づいているたいせつなもの、見つめてみませんか?


by zuzumiya

プロフィールを見る
画像一覧

S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30

※このブログの無断な転載はご遠慮願います。

最新の記事

保育士あるある3
at 2017-09-24 12:22
CMに物申す
at 2017-09-23 17:30
一緒にいる理由
at 2017-09-23 14:14
ただでさえ怖いんだから
at 2017-09-23 13:45
私の母はカッコイイ!
at 2017-09-19 20:34

最新のコメント

検索

ブログジャンル