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『安井かずみがいた時代』

a0158124_17274422.jpg安井かずみという人は大雑把に言って、人生が二つの時代に分けられる。夫である加藤和彦に知り会う前と後だ。
前半は売れっ子の作詞家で、親友の加賀まりこやコシノジュンコらとつるんで、時代の最先端を行くファッションに身を包み、颯爽と外車を乗り回し、六本木のイタリアンレストラン「キャンティ」や赤坂のディスコ「ムゲン」で派手に遊び回っていた時代。最初の駆け落ちのような結婚と離婚。孤独を恐れて恋人が欠くことがなかった恋多き女の時代。
後半は運命の男、加藤和彦と出会って、ゴージャス&スタイリッシュ&インテリジェンスなワーキングカップルになり、メディアに“洗練された今をときめく理想の夫婦像”として君臨した時代。自ら青春に終わりを告げ、つきあう友人もファッションも生活様式も仕事のしかたもすべてを一変させ、“夫婦単位”で行動した時代。そして晩年は肺がんを患い、55歳の若さで亡くなった。
この本はそれぞれの時代のそれぞれの安井かずみを知る著名人たち26人がインタビューにこたえて、自身の目に映った安井かずみ像、そして安井かずみと加藤和彦の夫婦像を率直に語っている。二人ともがもういないこと、そしてここまで時代が変わってしまい「あんな時代があったんだよね」と懐かしく振り返られる今だからこそ秘密を明かした、という体の発言もある。
前半部では、独身時代の安井かずみの風貌やらパーティ三昧の暮らしぶりやら、そのスタイルのぶっ飛んだカッコよさ、数々の武勇伝、そして売れっ子作詞家が人気絶頂のジュリーに密かに恋愛感情を抱いて仕事していたらしいところが面白く読めた。中でも最初の結婚のお相手、新田ジョージさんのインタビューが読めたことは貴重だった。安井かずみは生まれも育ちもよく、才能豊かであったが、出会う人にもほんとうに恵まれていた。
そして、後半部は夫として人生のベストパートナーである加藤和彦との結婚生活の光と影、内実、とでも言えばいいだろうか。
本書では“ロールモデル”という言葉が出てくるが、安井かずみが生涯を通して、三十年にもわたって人々の憧れを誘う“時代のロールモデル”であり続けたことは驚くべき事実だが、感性豊かで何が最先端か面白そうかの鼻が利き、審美眼があり、器用で非常に聡明な彼女も“ロールモデル”とした女性たちがいたようだ。本書には安井の著作としてこう書かれてあった。

<日本に手本になる人間がいなかったゆえに、ファッションはフランスの「VOGUE」誌から、料理はアメリカのタイムライフ社の雑誌から、結婚はボーヴォワールやジェーン・フォンダから、住まい方はイタリアの「domus」誌からあるいは旅行先のパリの友人宅から盗んだ>

その後にもサガンやドルレアックの真似をしたと名前が出てくる。私はサガンの伝記映画もサルトルとの生活を描いたボーヴォワールの映画も見ているが、安井かずみの華やかな交友関係や消費三昧の暮らしぶり、恋愛体験と重なる部分があって「あ~、なるほどなぁ」と思えた。ジョン&ヨーコの名前が本書では出てこなかったが、安井の“ロールモデル”の1つではなかったのだろうかと不思議だった。音楽家であり夫の加藤和彦の口からだったら、二人の名前は出ていたのだろうか。
私が本書を手にとった最大の理由は、若い頃、私にとっても安井かずみと加藤和彦の夫婦が“理想の夫婦”として、憧れのロールモデルだったこと、そしていちばん知りたかった「どうして加藤和彦は安井かずみが死んですぐに再婚してしまったのか」の疑問を解きたかったためである。私にとって夫婦というのは、生涯をかけて何なのだろうと考えていくいちばんのテーマだ。あれほどまでに二人一緒にいて最高のカップルに見えたのに、1周忌を待たずに再婚した(本当は再々婚だが、再婚と書きたくなってしまうほど安井との夫婦のイメージが強い)というのが、当時はショックだった。そしてそれはやはり二人を知る人々にも同様にショックを与えていたらしい。
本書は安井かずみが病を得て亡くなるまでの加藤和彦の献身ぶりも、亡くなった後、彼のとった行動が周囲の目を疑うような大胆なものだったこと、ふと漏らした言葉も隠さずに書かれている。安井かずみがメインの本なので、加藤和彦側のごく親しい人物、夫婦単位で付き合ってきた人物以外の、昔からの友人とかひそかに気持ちを吐露できていたような人物(束縛の強い安井かずみだったから、そんな人が果たして加藤和彦に残されていたのだろうかとも思う)、それから例えば再々婚相手の中丸三千繪などへのインタビューが(断られたのかもしれないが)掲載されていないのが残念だ。ミーハー的と思われようが、安井かずみが死んで、加藤和彦が中丸にどう言ってどう接近していったのか、何を求めていたのか、彼女との5年の結婚生活は安井かずみとのそれと何が同じで何が違っていたのか、そしてなぜ終わってしまったのかを知りたい気もする。
再々婚が離婚に終わった後も、「会うたびに違った女性が傍らにいた」という加藤和彦だったが、2009年には軽井沢で「ただ消えたいだけ」と遺書を残して自死を選んでしまった。死の前には安井かずみの眠る青山墓地を訪れていたという。ほんとうのことは誰にもわからない。本人たちにしかわからないのだろうけれど、あれだけの影響力のあった夫婦であったのだ、どうしてもさまざまな憶測が浮かんでくる。
本書の数々の証言のように、私も安井かずみと加藤和彦夫妻は自分たちなりに夫婦というものを楽しみながら演じていた、と思う。楽しみながら、というのは喜怒哀楽を味わいながら、という意味である。自分たちの「こうしたらステキなんじゃない?」の理想があって、それに自分たちを合わせていって(経済的にも精神的にも合わせていけたところが凄いのだが)、そんなある種の“二人でする知的でゴージャスな試み”がいつしかメディアに大々的に取りざたされ、その“型”から時に疲れることはあってもはみ出ることが許されなくなった、演じ続けることが求められたのではないかと思う。外国のように“夫婦単位”がフツーでそれが幸福になる時代のさきがけ的存在になろうという自負もきっとあって、そうやって振舞うことは嫌いではなかったし、幸せだった、ということじゃないか。
安井かずみは恋多き女であったという。でも加藤和彦という夫を得てから、大胆に人を切り捨てて排他的な生活をしたぐらいだから、「私はこれでほんとうに身も心も幸せになる!」と覚悟を決めたのだろう。そうやって最後まで、安井かずみ像を自分で作って、自分で守っていったともいえる。
一方で加藤和彦はどうだろう。ジョンがヨーコに憧れたようにまずは安井かずみへの仕事ぶりに対する“尊敬”があっただろう。彼自身、「自立した強い女性が好きだ」とも言っている。安井かずみにとってもジャンルは違っても音楽業界におけるプロデューサー「トノヴァン」の仕事ぶりには一目置いていたはずだ。
“尊敬”とは身の引き締まる堅苦しい言葉である。林真理子は本書で「家庭は楽屋」と割り切って語っていたが、たとえ初めは尊敬で結びついた夫婦でも、生活していくうちに互いのダメな部分も見えてきて、隠すことより見せ合う気軽さと惰性を愛と書き換えて、普通はさっさと捨て去るものだ。安井かずみと加藤和彦の夫婦はそれを手放さなかったのか。
おそらく、安井かずみが8歳も年上で年収もキャリアも格上、というのが夫婦のなかにいつまで経っても“尊敬”の一線を残させたのだろう。知識でもセンスでも社交でも、安井かずみが破格に凄い女性だったために加藤和彦も大いに影響を受け、面白く学びながら、それは今までのどの女性からも得られなかった知的好奇心を大いに満足させる喜びを伴っていた、ということだろう。
安井かずみは年収差などより、年齢差の方をひどく気にしたようだった。加藤はハンサムで知的でスマートでジェントルマンで、愛妻家の男性である。モテないはずはない。年下の夫に捨てられないように、毎朝ストレッチして体型維持にも気を配っていたらしい。そして、彼女は本来は良妻賢母をよしとする教育を受けた世代の女性だ。青春時代は恋多き女であったが、それはきっと「愛する人とただ仲睦まじく暮らしたい、愛されたい」という無意識の安定志向、結婚願望が強くて、取っ替え引っ替え生き急いだという感じが私にはする。本来は夫を立てて、素敵な旦那様に寄り添って生きていたい、という孤独を嫌う甘えん坊な女性なのだと思う。加藤和彦は強い女性のなかにある可愛らしい弱さをプライドを傷つけずに上手に愛せた人だったのではないか。
本書を読んでいると「支配され、支配する」という言葉が出てくる。考えてみればどこの夫婦もこの関係にある。でも、安井かずみと加藤和彦夫妻ほど、このバランスが良かった、傍目にはそれを“素敵に”見せることができた夫婦はいない。
切ないのは、安井かずみが亡くなった後の加藤和彦という人間だ。実際には1周忌も待たずに次の恋人中丸三千繪と再々婚を果たしている。散骨を終えたその足で恋人である中丸に会いに行ったとか、中丸との新しい暮らしのために家を全面改装し、安井かずみの持ち物をすべて一枚の写真も残さずにゴミとして処分したとか、葬儀までの4日間、遺体を霊安所に置いていたとか、いろいろと書かれている。
同時に、余命1年の妻をケアするために1年間すべての仕事をキャンセルした、安井のためにカウンセリングの本を30冊以上読んだ、夫婦で教会に通い、夫婦揃って洗礼を受けた、分厚い旧約聖書を抱えて毎日読んでいた、最初の呼吸停止から亡くなるまでの40日間を病院に泊まり込んだ、最期の時は夫の祈りの言葉を聞きながら安井は息を引き取った、などとも書かれている。仕事の面でも、安井が亡くなってからは一枚のソロアルバムも出していない。その理由は後の2004年に「安井にかわるべき作詞家がいない」「モチベーションがない」と語っている。仏教の通夜に当たる前夜式に加藤は「妻が神のもとに旅立っても、私はいまだに夫婦だと思っています。悲しくなんかありません。ただ淋しいけれど」とスピーチした。その加藤が1周忌を待たずに結婚した中丸との記者会見では「安井とのことは完結した」ときっぱり語ったそうである。
夫婦をよく知る近しい人々からさまざまな証言が飛び出て、“理想の夫婦”の影の部分を知ってしまって、少なからずショックを味わったが、みな最後は口々に「あんなに頑張って看病して、精魂込めて捧げ尽くしたんだから、もう仕方がない」と語ってしめている。
たしかに安井が亡くなった当初は、「夫婦であり続けたい」と加藤も願っていたのかもしれない。私も昔、茨木のり子さんの「歳月」についてエッセイで書いたように、夫婦の片割れが亡くなっても、あの世とこの世とで夫婦の恋物語は続くと書いた。でも、この夫婦の場合はそれができなかったと思う。あまりに夫婦二人きりで、二人きりの世界を見事に美しく完成し尽くしてしまったために、片割れがいなくなったら、自分の存在価値がまるでわからなくなった、意味のないものになってしまった、もう物語ができなくなったのだろう。おそらくは加藤和彦には、安井かずみと暮らした時間と歴史が体中に染み込んでいて、何をするにも何処へ行くにもZUZUの影がチラついたのではないか。それは加藤を見る周りの目もそうだ。加藤を見れば傍らにいるべき安井の不在がどこかで“欠けたもの”としてついて回ったに違いない。そういう自分を消し去ろうと努力すればするほど、「果たして自分はどこにいる?」「自分ってなんだった?」となったのかもしれない。その姿は相手の女性にも痛いほどわかっただろうし、かといって、どうしてあげることもできなかっただろう。結婚生活がよく5年ももったものだと思う。
またしても「支配され、支配する」という言葉が蘇る。安井かずみが亡くなったことで、加藤和彦はより完璧に彼女に支配されてしまったのかもしれない。バランスは崩れた。一人の男、加藤和彦でいるにもかかわらず、もはや“一人で立っていられなくなった”んだろう。そんな彼の自死はある意味、頷けるものじゃないか。
濃密な夫婦の絆と歴史はこんなふうにその後の片割れの人生を追いやってしまうこともあるんだと、夫婦というつながりの凄みを思い知らされて、今はしみじみと切ない。
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by zuzumiya | 2013-03-31 17:31 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(4)

すべてのものは足りている

朝、トイレに座って、何げに棚を見上げた。トイレットロールの残り数が少なくなっている。洗面所に立って、洗面台の棚が目に入る。歯磨き粉のチューブが痩せてきた。冷蔵庫を開けた。逆さに立っているマヨネーズが残り4分の1を切っている。
あれも足りない、これも足りない。買っておくか、買っておいた方がよさそうだ。
主婦というのは、家中の足りないものを始終探しまわって見つけ出すのが仕事なのだと、今朝、はたと気づいた。家族みんなが気持ちよく安心した暮らしを送れるように、足りないものをなくす。先んじてそういう気配りができる主婦は主婦の鏡である。
毎日のことだから、そんな“足りないもの探し”は主婦の職業病となって、癖になる。
癖になれば、性分になる。足りないことはとにかく見過ごせない。足りないなら、さっさと補充して何不自由なく満たされて安心したい。持っておく、揃えておく。それは“余剰”ではなく“堅実な備え”と言う。
やがて“足りない”は物に対してだけでおさまらず、人にも及ぶ。子供の成績が足りない。夫のやさしさが足りない。姑からの感謝の言葉が足りない。自分自身にだって、人生そのものにだって、刺激も華も、とにかく何かが足りない!世の中の主婦の欲求不満の源は、案外、家の中のこの“足りないもの探し”だったりするのかもしれない。
すると突然、仙人のような爺さんの顔が浮かんだ。
「足るを知れ~。今あるその状態で何が悪いのじゃ。“足りている”を心に留めて生きてみなはれ~」
中国の老子爺さんである。微笑みながら杖で主婦の鏡をバリバリ割っている。
“足りている”を念頭に今一度、家の中を見回してみれば、トイレットロールはまだあと半月はもつ、と思われた。歯磨きのチューブも、探したら同じように中途半端に使いかけのが出てきた。マヨネーズにこだわらなくてもドレッシングだってあるじゃないか、と思えた。そして最後に、食卓に座っている寝起きで髪が総立ちしている夫の顔が目に入った。
「足るを知れ~」再び爺さんの声がこだました。
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by zuzumiya | 2013-03-26 22:57 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

自転車人生

朝、出がけに小雨が降っていたので、自転車ではなく歩いて職場へ行った。最近では歩くことをしなくなって、何かにつけ自転車にまたがる。
もともとがせっかちな性分だから「自転車でサーッと行ってサーッと帰ってこよう」とすぐに思う。「早く着いて安心したい」「早く着いてのんびりしたい」と思う。これも心配性だったり、小心者だったりするせいだ。
「天気もいいから、今日は歩いて行くぞ」と決めても、出がけに何かあって5分遅くなると「もう自転車じゃなきゃダメだ」とペダルに足をかけている。で、結果15分前に着く。そういう性分は実はのんびりもできずに就業時間前にひとりで先に仕事を始めていたりする。心配性だからさすがに自転車&傘はできないので、雨が降れば何処へ行くにも仕方なく歩いていく。痩せるためには天気が崩れるのがいちばんいい。
今日は職場からてくてくと歩いて、スーパーへ向かった。この辺では昔から有名な用水路を端に眺めながら歩く。土手に群生している大根の花の明るい紫が目に冴える。空には桜やこぶしの花。澄んだ水がうねって石の上をサラサラと音をたてて流れていく。向こうから来る人もこちらから行く人も、みな一様に水路の水を見下ろしながらなので歩みはのろい。
しばらく行くと、歩くことが気持ちいいと思えてきた。つい、散歩をしているかのような気分になる。だが、私は散歩は苦手なのだ。昔から文人たちがぶらぶら散歩してはいい随筆を書いていたので散歩には憧れてもいる。私にとって散歩は目的があってはならない。自由気ままに歩き回ることをいう。目的なく、目的地もなく、ただぶらぶらすることが無為に思えて、その無為さがどうにも不安で私にはできないのだ。私は今、スーパーへ向かって、スーパーの本屋で注文した本を受け取りに行くのだという目的があることに、その目的地に向かって歩いている自覚があるからこそ、こんなに伸びやかでいられるんだとわかっている。そして、それはすごく凡人じみて情けない。
なんてことを考えながらスーパーに着く。本屋で小川洋子の『ことり』と石田千の『役たたず、』と島崎今日子の『安井かずみがいた時代』の3冊を受け取る。
隣の100円ショップも覗く。100円ショップというところは不思議だ。買いたいものは別にないのに「念のため、覗いておかねば」と思わせる。そして、いつの間にか「何か買うべきものがあったはずだ」「忘れているものがあるはずだ」という気になり、なぜか自分で自分をどんどん買う方向へ持っていく。その挙句に大して必要でもないものを3つ4つ買ってしまう。それが100円ショップの浪費マジックだな、なんてことを思いながら眺めていたので、今日は何も買わないで出られた。
下の食品フロアーをぐるぐるして、結局お腹が空いたので自分の昼食を買って出た。
ふと時計を見ると、3時すぎ。これから家に帰って昼食を食べ、夕飯を作って4時半には再び仕事に出なければならない。帰ろう。
スーパーの出口に立って、今日は歩きで来たことを思い出した。愕然とした。久しぶりに歩くと、自分の時間の消費感覚が自転車仕様になっていることに気づいてショックを受ける。それは、あれだ、自転車で行くんだからとぎりぎりまで時間を使って、駐輪場に下りてきたら、実は自転車は昨日駅に止めたままタクシーで帰ってきたんだった、とわかった時のショックに似ている。
毎日の時間感覚が“自転車を使う”で当たりまえになっているということは、平たく言えば人生の時間もそういうふうに流れているってことである。
頭の中に人生の一本道を自転車に乗って走っていく漫画みたいな自分の姿が見えて、思わず笑ってしまった。
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by zuzumiya | 2013-03-25 23:26 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

大人はこんなふうに怒りを祈りに変える

仕事帰り「世の中にはいろんな人がいる。人はロボットじゃないんだし、これだけいろんな人が雑多に生きているんだから、面白いっちゃ面白いんだけど」と自分に言い聞かせて、怒る気を散らした。学校にだって職場にだって、人が集まれば嫌味な人、どうかと思う人はいる。鼻につかない人なんて、正直いなかった。でも、同じぐらい、性格のいい人、気の合う人、尊敬できる人もいた。私が何だかんだ言ってこうして社会へ出て生きてこられたのは、人生で巡り会えたそういういい人たちの“いい心根”、“存在の余韻”が生きる助けや支えになっているからだ。心根のいいところを見せてくれたからこそ、人のいいところを探そうと思えた。たとえ嫌な人がいても、いい人がいてくれたから、学校へも職場へも出かけて行こうと思えた、がんばろうと思えた。ありがたい。でも私が「何だか嫌だな~」と思う人は他の誰かにとってはいい人、ありがたい人だったりするんだろう。なら、「私も誰かにとっては嫌な人なのかなあ?」と気がついてドキンとする。「そう思われて接していられたら悲しいな。できれば誰かにとってのいい人、好ましい人であってほしいなあ」いつしか夜空の星にそう願っていた。
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by zuzumiya | 2013-03-24 19:30 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

女の「買う?」「買わない?」

節約をしなければならないことはわかっているのに、お給料が入るたび何かしら自分に買ってしまう。若い頃はそれを“自己投資”と呼んだりしたが、最近はもう開き直って堂々と“自分へのご褒美”と言う。何に対するご褒美だか知らないが、ま、何に対してもいい。50近くにもなれば、全部まとめて簡単に“苦しいこの世を今日も死なずに生きたご褒美”でいい。
それにしても、“自己投資”と“自分へのご褒美”の品目の違いは何だろう。どこで線引きされるのかな。本やCDは投資の方で、デパ地下のスウィーツはご褒美なのかな。クラシックのCDは“自己投資”でも、ジャニーズのCDは“自分へのご褒美”のような気もする。 
以前、売っていた家計簿で教育費と遊興費が一緒の項目になっていたのを見て「え?なんで一緒なの?けしからん!」と思ったが、それとちょっと似ている。
厳密にはどうでもいいのだ。要は女はいくつになっても自分のための買い物が大好きで、そのために“理由づけ”するのがうまいってこと。
欲しいものリストを作っている。さすがに家庭持ちは来月の給料でというわけにはいかず、その辺はゆるやかに“いつか近いうちに”“余裕ができたら”“何かの折に出かけたら”買えればいいと思って机の前に貼ってある。見るたびにニヤニヤする。仕事をする張り合い、生きる張り合いのようなものがムクムクと湧いてくる。でも、しばらくじっと見ていると「ま、別に買わなくてもどっちでもいいんだけどさ」という気持ちになる。なんでだろう。欲しいものなのに。
昔、石川啄木の詩に面白いものを見つけた。
「考へれば、
ほんとに欲しと思ふこと有るやうで無し。
煙管をみがく。」
初めて読んだ時、あんまり長いこと貧乏で辛抱し続けていると、たとえ欲望が湧いても次の瞬間、自然に自滅できるようになるんだろうなと思った。貧乏のせいにはしやすいが、事実、長年そう思って片付けてきた私だったが、もしかしたらそうじゃないんじゃないかと今は思っている。たぶん、逆だ。物欲だけ満たされてもきっと人はほんとうには幸せにはなれないんだろう。物欲が満たされてもそこから何かに発展しなければダメなのだ。
欲望は満たされればすぐに消えていく。瞬間は幸せだけれど、長くは続かない。そしてまた新たなものへ、次なる欲望へと移っていく。そういう繰り返しを“生きるハリ”とも言えるけど、どういうわけか年をとると、そういう欲望との“追いかけっこ”が面倒で少々疲れてくる。長年生きてきて、物を買ったり捨てたりの消費を繰り返してきても、手に入れたあの瞬間の喜びや幸せ以上にはならない、やがては興味も関心も薄まって見向きもしなくなる、平坦な日常しかなくなる。そのからくりがわかってしまって「それなら無理して買わなくてもいいかなぁ」「買ったところでなぁ~」といった冷静さがふと湧いてくるんだろう。つまりは、貧乏とか経済的な問題じゃなく、あの気持ちはただただ繰り返す消費のパターンに飽きた虚しさなんだろう。もしかしてほんとうに欲しいものは目先のものじゃなく、もっと別の、実はカタチのないもの、欲しても手の届かないものだったりするんじゃないか。ほんとうは年とともにそのことにうっすら気づいていて、でも、どうすることもできないから、“自己投資”やら“自分へのご褒美”やら、私たち女は何とか体裁をつけて、少しでも消費の虚しさをごまかしたいんだろうな。
と、わかったところいまだに物欲はなくならないんだけど。
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by zuzumiya | 2013-03-21 19:57 | Trackback | Comments(0)

夕日の自転車

年をとると、何でもないものにふと心を奪われて、しみじみと感慨にふけってしまう。
ある日の私は、職場の駐輪場に止まっていた荷台に幼児用シートをつけた自転車にやられてしまった。
夕日を背に前輪をこちらに倒して首をちょっと傾げたような格好で、ひっそりと慎ましやかに止まっている姿を見て、何だか妙にじーんときてしまったのだ。
「ああ、こんな小さな子供がいる人がここで一緒に働いてるんだ」
ふだん目にしていたはずの自転車なのに、そのとき急にそんなことを思った。
「子供はやっぱり保育園に預けてるのかな」
「この前みたいに風の強い日は自転車の送り迎えはさぞかし大変だったろうな」
「介護は肉体労働なのに、家に帰ってからも休みなく働かなきゃならないんだろうな」
「一人でそんなに頑張って、ほんとはさみしい想いをしてるんじゃないかな」
「ダンナさんは話のわかる、手伝ってくれるやさしい人だといいな」
「ツライけど子供はすぐに大きくなるから、このくらいの時がいちばん可愛いよな」
「この自転車で何気ない親子の思い出をいっぱい作ってるんだろうな」
などと考えていたら、幼い息子や娘の笑う顔が立ち現れて、
「あれからずいぶん時が経ってしまったなぁ、もう戻れないんだよなぁ」と思ったら、なんだか胸がきゅうんとして、寂しいような、でも幸せなような、甘く切ない気持ちになった。
胸のなかに夕日がじんわり溶けてきたみたいだった。
「がんばれよ」
歩き出しながら、心のなかで自転車にそっとつぶやいた。
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by zuzumiya | 2013-03-20 22:36 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

嘘も方便

最近、認知症のお年寄りの接し方というか、付き合い方のようなものが自分なりにわかってきた気がする。先日、あるおばあさんが綿入りのベストを握りしめて「ねえ、おねえさん、コレって私のかしら?」と訊いてきた。いつも着ているのを見ていたベストだったので「そうですよ。いつも着ていたじゃないですか」と笑って答えたのだが、首を傾げて「そうかしら?私こんなの持っていたかしら?」と言う。裾裏に書いてある名前を見せて「ホラ、ここにちゃんと名前も書いてあります」と言っても、「違うわよ。私のじゃないのに、誰かが間違えて名前を書いたんだわ」と納得しない。「大丈夫ですよ。きっと洗濯していたものが戻ってきたんですよ。○○さんのだから安心してね」とベストを返したが、どうにも不思議でたまらないという顔で去って行った。
向こうの方でベテランの男の職員にも同じ質問を浴びせていたので聞き耳を立てていたら「あのね、そのベストはね、この間あなたのパパさんが寒くないようにって、持ってきてくれたものなの。よかったじゃない?」と答えていた。まったくの嘘である。
でもおばあさんは「アラ、そう!そうだったの!それならよかった。うれしいわ~」といきなり笑顔になった。嘘も方便とはいうが、こういうことかと思った。
保育士をやっていたくせに、機転の利かない自分の答えが少し恥ずかしくなった。私のやったことは彼女に正確な事実を突きつけただけで、彼女にしてみれば“覚えていない不安”と“自分への情けなさ”がいたずらに掻き立てられただけだったろう。たとえ嘘であっても、本人が“幸せに納得できる”着地をさせてあげればよかった。しかも、職員の返答は最後に家族への感謝の気持ちまで呼び起こしている。さすがだな、と思った。
でも、こういう嘘が方便になるのは実は認知症だからこそ、なのである。認知症のおばあさんたちの気分はコロコロ変わる。10分前までニコニコしていたのに、歯磨きに呼び止めたら急に「アンタの顔なんて見たくもないんだよっ!」と怒鳴られる。手に触れようものなら、それこそ暴れて叩かれる。でも、そこで無理やり歯磨きをさせなくとも、時間が経つのを待てばいいのだ。次に呼び止めた時はガラリと人が変わって、柔和な顔になって、もとのいいおばあさんに戻っている(もちろん、そうならない場合だってある)。そういうことをこの2ヶ月の経験でわかった。
認知症のお年寄りには「さっき、○○と言ったはず」「○○と言ったよね」というようなことは通用しない。忘れてしまう、気分が変わってしまう、白紙になっていることが多い。だから、何度でも同じ質問を繰り返し訊いてくるし、何度言い聞かしても効果がなかったりする。時にはたまりかねて職員も怒って叱ることもあるが、でも、「あの人は怖いから嫌だ」という残り方はしないようで、さっきうんと叱られていたのに10分もすればケロッと忘れて、気まずくならずに同じ職員の冗談にみんなと一緒に笑っていたりする。普通の人間だったら根に持つだろうな、絶対仲たがいするな、というようなことも一回一回その場かぎりで忘れてくれるから、その点では変に人間関係がこじれないので認知症の方は扱いやすいのかもしれない。臨機応変な、その場の機転の利いた話術と対応、無理強いせずに時間を置いて気分を変えてみるなど、互いに笑顔で過ごすためのさまざまなコツがあるようだ。
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by zuzumiya | 2013-03-18 21:11 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

無難な贈り物

ホワイトデーの義理チョコへのお返しほど面倒なものはない。夫と息子に頼まれて品物を買いに走るのは私だが、彼らの面子を立てつつ、家の者の常識やセンスを問われている気もして、結局、ある程度有名どころの無難なクッキーの詰め合わせを選ぶ。楽しくないし、いつでも不毛なやりとりをしているなぁ、やめればいいのにと思う。
かつて私が贈った贈り物で喜ばれた思い出があるのは鉢植えの花。近所のお茶会に誘われたとき、玄関のドアをあけたホスト役の奥さんに「はい!」と隠していた鉢花を差し出した時の彼女の顔の輝きを今でも憶えている。無難なスウィーツにしなくて正解だった。
それと保育士としてお世話になった保育所を去るとき、菓子折りでなく、事務所の正面に飾れるようにとシクラメンの鉢花を贈ったことがある。所長先生がとても喜んでくれて、その後も賀状で「今年も咲きましたよ」と書いてきてくれて、大切に育ててくれていることがうれしかった。切花でなく鉢花なら長く育てる楽しみも贈ることができるし、花種によっては翌年も咲かせることができる。思い出もまた続いていく。
贈られる方だって、例えばお中元やお歳暮で中を開けてみたら食用油や洗剤だったというのは、たしかにありがたいけどつまらない。トキメキの少ない無難なものはやっぱり贈り物には欠けるよなって、本心ではそう思う。
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by zuzumiya | 2013-03-17 16:55 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

春のおでん

春は三寒四温と言われてきたけど、今年は降り注ぐ“煙霧”のせいで気温は1日ごとに10度近くも変わっている。せっかくの休みだが、今日になって2ヶ月も逆戻りした寒さとあっては家でストーブにあたりながら読書でもするしかない。夕飯のメニューも温かい鍋物にかえて、季節を逆戻りする必要がありそうだ。
やれやれ。たしか昔読んだ川上弘美さんのエッセイに“春のおでん”というタイトルがあった。
実はそのタイトルに強く惹かれて、内容は「友人とこれから春のおでんを食べに行く」というところしか憶えていないのだけど、うららかなある春の昼下がり、陽光に包まれて箸に挟まれた白い“ちくわぶ”から細い湯気が立ちのぼっていたりする映像が浮かんで、「川上さんののほほんとした文体やほんわかした外見のイメージにぴったりだなあ」「最高傑作のタイトルだなあ」と思っていた。
春におでんを食べる。それもなんとなく語感から昼間に食べちゃう気がしている。もちろん、お酒も昼酒である。花見であってもなくてもいい。ひらけた野っぱらが見えて、できれば遠くないところに川もたゆたゆと流れていてほしい。そうするとやっぱり屋台だろうか。薄いピンクの地に白抜きの文字で“春のおでん”が、特に最後のおでんの「ん」がいくぶん弾んで書かれた幟がゆらりとはためいている。鳥の声やら子供らの声も遠く聞こえてくる。“こんにゃく”なんぞ、冬のこんにゃくよりずっと力んでなくて伸びやかだ。白こんにゃくなんかもあってくれる。“はんぺん”は波間に浮かぶ泡のかたまりのよう。川上さんの小説ならさしずめ、先のことがわからないフリンの男性と食べているのかな。これから何処へ行くとも何をするとも話さずに、ただゆるい風に吹かれてふたり春のおでんを食べている。なーんてね。
でも、こんなふうに一挙に想像してみると、“春のおでん”はのほほんとしているけれど、かすかに独特の哀感というか淡い寂しさもあって、それは何かで知っているぞと思って調べてみたら、俳句の春の季語「春愁」だった。“春のおでん”は句も詠む川上さんだからこそ、その含みもわかってつけることができたタイトルだったのかな、と思う。
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by zuzumiya | 2013-03-14 16:06 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

とりどりの春

春は暮らしに変化を起こしたくなる季節。例えば朝食。大のコーヒー党の私ですが、どういうわけか春になると光に誘われて紅茶の赤が恋しくなります。最初はストレートで、2杯目はレモンの絞り汁を垂らして、鮮やかに色が変わる瞬間、気持ちも華やぎます。
それからジャム。紅茶ならパンにはオレンジやレモンのマーマレードや杏や林檎のジャムを添えたくなります。籐籠の中に小瓶に分けたジャムを入れて食卓に出せば、その日の気分で選べて楽しめます。百円ショップでシンプルな小ぶりの瓶を探して、移し替えてみたらどうでしょう。
子供の頃、母の家に行って浴室に入ったら、しつらえた棚に輸入物のさまざまな香りと形のシャンプーやコンディショナー、ボディソープのボトルが立っていました。「どれを使ってもいいわよ」と言われ、嬉々とした覚えがあります。母ほどの贅沢はできないにしても、今ならボトルはやはり百円ショップで揃えて、詰め替え用のパックで買えば香りを試せます。ジャムは途中で飽きて冷蔵庫の奥へ追いやられたり、いつの間にかソープの香りに慣れてバスタイムがリラックスタイムにならなくなることを思えば、上手に“とりどりを楽しむ”ことは贅沢でなく大事なことだと思います。
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by zuzumiya | 2013-03-14 13:14 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)


ふだんの暮らしに息づいているたいせつなもの、見つめてみませんか?


by zuzumiya

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at 2017-09-13 21:05
シアワセは何かに託してはいけ..
at 2017-09-10 08:44

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