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目の前に見えてくる風景

老人ホームで食事介助の仕事をして1ヶ月が過ぎました。食堂に集まるお年寄りにはさまざまな程度と形で痴呆という病が訪れています。いつもブツブツと口の中で怒りの言葉をつぶやいている人、子供返りしている人、食欲ばかりが旺盛に残っている人、妄想と現実とを行き来しているような人、何をするにも億劫がって気が沈みがちな人…。
私も47歳。人生の折り返し地点を過ぎ、持病もいくつかあって、自分はどんなふうな老後を送るのだろうと、ふと心配になってしまいます。できれば、疑心暗鬼の目で周囲を睨み、文句ばかりを口走っているタイプではなく、忘れっぽくて失敗も多いけれど、どこか暢気で穏やかな憎めないおばあちゃんになっていたいなあ、などと密かに思っていたりします。
食事の介助をしていて、いつも興味深く思うのは、痴呆のお年寄りの抱えている妄想というもの。目の前に(あるいは閉じたまぶたの中に)幻を見ていて、幻と会話しているような具合なのです。
あるとき、食事介助をしていたら、向かいの席のおばあちゃまが(私はてっきり、彼女には痴呆はないものと思っていました)いきなり、「おじいさん、ねえ、おじいさんたら、もうそれくらいでやめておいたら? もうお腹いっぱいでしょう? 残りは明日にとっておきますから、また明日食べましょうね」とにこやかに話し出しました。一瞬、「何のこと?」となりましたが、しばらくして「もしや」と思いました。彼女の目には、向かいのおばあちゃまが亡くなられたご自分の旦那様に見えていたのでしょう。そうだとしたら、素敵だなと思いました。そしてとても羨ましい気持ちがしました。
食卓を挟んで夫の世話を焼きながら、いつものように何気ない会話をしながら食事をしている。何度も何度も繰り返されたその風景が彼女の目に焼きついていて、食事時ともなれば今もなお、そのあたりまえのあたたかな世界の中に彼女はいられるのです。私が年老いて、夫に先立たれ一人になって、そして痴呆の症状が出てきて老人ホームに入っても、目の前に広がる風景のどこかに幻の家族が立ち現れて、そして食事時には家族と囲んだ食卓の団欒が見えてくるのなら、痴呆とはいえ、なんだかそれはそれで幸せなように思えます。たしかに痴呆といってもさまざまで、さっきまで普通に大人の分別と会話ができていたのに、いきなり別人に豹変して怒りっぽくなったり、涙がちになったり、恐れを感じたり、こちらが面食らってしまうほどの波があります。
いつでも目の前に幸せな風景が見えているとは限らない、いいものも悪いものもさまざまな風景があぶくのように浮かんではすぐに消えてしまう儚さ、それが痴呆の現実のように思えます。だからこそ、彼女のあのひとときはとても貴重でした。
今、生きているこの日々の暮らしが私の思い出として積み重なっていく。知らず知らずのうちに何気ない今が思い出を作り出している。そんなこともあらてめて教えられた出来事でした。
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by zuzumiya | 2013-02-17 22:11 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

しっかりであやふやな

実は今までも幾度もこんな時期を過ごしてきました。
日々の暮らしのことだけで動き疲れてしまい、まったく何も心に浮かんでこない、考えていないわけではないのですが、面と向かって話せば話せないこともないけれど、あらたまって書くほどのことでもないと感じて、机に向かわなくなる、文章にするのが億劫になる。
リアルな日々の暮らし(仕事と家事)をしっかりやっている自負はあるので、それならそれでもういいんじゃないかと思ってしまう。そういう日々が続いていく。
誰かに何かを伝えたい、という気持ちがいつの間にかしぼんで薄まっている。
時間というものにはほんとうに特別な力があります。
いいことも悪いこともすべて薄めてしまう。いつかきっとこうなるとわかっていました。
でも、今までとはちょっと違う波かな、と少し驚いてもいます。
ひとつには、老人ホームで痴呆のお年寄りたちと一緒に過ごす時間があって、心が動いたり、考えさせられることがあって、明日の我が身を思って何となく気持ちが塞いでいるのかもしれません。介護士の仕事はほんとうに大変なのです。そばにいて痴呆というものの凄まじさを知って、つくづくそう思いました。
もう少し、こんなあやふやな自分のまま放っておこうかな、と思います。
何が出てくるか、私はどうなるのか、わからないけれど。
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by zuzumiya | 2013-02-17 00:55 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

春が立つ

サッシの向こうは裸木の枝を大きくしならす風が吹いていても、陽差しはぐっと白みを増して強く明るくなっている。気がつけば陽のあたる膝が熱いくらいだ。
今日は節分。そして明日は立春。その後の暦は雨水、啓蟄と生命の息吹を感じる泥くさい言葉が並ぶ。
ああ、春か、と思う。季節が回ってまた巡りくることをいちばん清新な気分で思いだすのはやはり節分、立春のこの頃だ。
春が立つ。昔の人は素敵な言葉を思いついたものだ。
先日、住宅街を自転車で走っていて、初めて曲がった道の先で突然、花の香りが鼻をかすめた。見ると一軒の廃屋の庭先に、細い幹の小さな蝋梅がしとやかに咲いていた。
人が住まなくなってずいぶん経つのだろう。庇のビニールトタンは大きく傾げて、無残にもボコボコと穴があいている。すべてが壊れ崩れ果てている廃屋の土色の景色の中で、ほつほつと咲いた薄黄色の花だけが日差しの祝福を受けてぼうっと浮かび上がって見えた。
言葉の由来は知らないが、このすっくと立った蝋梅を見てから、立春の“立つ”というのは樹木の立つこのような健やかな佇まいのことでもいいような気がした。
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by zuzumiya | 2013-02-03 12:42 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)


ふだんの暮らしに息づいているたいせつなもの、見つめてみませんか?


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