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この温もりをももに

ももちゃんはときどき、にゃーと鳴いて私の膝に乗ってくる。
台所に立てば肩に乗ることが多いけれど、拘束される抱っこはあまり好きな方ではない。最初、膝に乗ってきたときは「寒いのかな」と思って、「現金なヤツめ」と思っていた。それでも、移り気の猫の方から来てくれるのはうれしい。膝に抱きながら温かな毛むくじゃらを思う存分撫でて「ももちゃんはいい子だねえ」と満足していた。
何度か膝に乗られて撫でていると、私の膝を求めてくるその気持ちにしみじみとしたものが込み上げてくる。心の中で「ももよ、人肌のこの温もりを憶えておくんだよ」「人にもこんなに温かな血が流れていて、こうやって寄り添えば温め合うこともできるんだよ」「甘えたい時、さみしい時、ここがお前の場所だよ。お前が望めばママはいつでも抱き上げるよ」なんて、切なく語りかけてしまっている。そのうち、ももの体温で眠気を催し、こくりこくりと船を漕ぎ出す。ひとりと一匹で漕ぎ出す大海原は今日も穏やかだ。ところがいきなり天空から魔人のような手がにゅうっと突き出て「ももちゃんアンカ、貰ってくよ」の声に目覚めると、夫がももを抱き上げている。「あ」と言って体を起こすと、もものために伸ばした両足がビッリビリに痺れている。甘い夢の目覚めには、いつだって別れの痛みがついてくる。
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by zuzumiya | 2012-10-31 12:40 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

親のできること

今日、娘は初めてのバイトに出かけた。希望通りの美容業界で働く幸運に恵まれた。人よりハンディのある子を社会の大人のひとりとして、見捨てずにチャンスを与えて引っ張り上げてくれた店長さんに何よりも深く感謝している。娘には信頼の重みを理解して頑張ってほしいし、私も彼女を精一杯フォローしようと思う。といっても、私のできることなど大したことではない。部屋をきれいに整え、温かな食事を作って待つ。笑顔で「いってらっしゃい。頑張って」と手を振って送り出し、「おかえりなさい。お疲れさま」と出迎える。そんな当たりまえのことを続けていくしかない。でも、その当たりまえが人を生かすことも安らぎを作ることも知っている。時にはアドバイスや励ましの言葉を尽くすより、一杯の白いご飯とあったかい味噌汁の方が人を救うことも知っている。親なんて、カッコよく多くのことができなくてもいいのだ。「帰っておいでね。ここで待ってるから」が伝われば。
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by zuzumiya | 2012-10-31 11:52 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

シミのもと

いつできたか忘れてしまったが、私の左頬骨には、茶色い1センチ弱のシミがある。
たぶん、ニキビ(年齢によっては吹き出物?)の痕が時間が経ってシミ化したんじゃないかと思う。もちろん、47歳だからそれ以外にも細かなシミは顔中にある。
私の場合はメガネのレンズの影響か、メガネを外すとちょうど下のフレームの辺りにシミが密集している。テレビCMで“肝斑”なるものを知り、もしやと思って薬を買おうとしたが、お高い商品なのですぐに諦めた。金欠なのとこのままメガネをかけていればさほど目立たないだろうという希望的観測と、どこかで「もうしかたがない」という諦めがあって、シミを消すことに躍起にはならなかった。
というのも、私はもともとからあまり化粧が好きでなく、正直、スキンケアもこまめにしてこなかったズボラな女なのである。
今のように“美白”なんていう言葉もなく、“小麦色の肌”がカッコイイとされていた80年代に青春を送っていたので、日焼け止めなど日常に使ったこともなく(というか、そもそもこんなに店頭には売っていなかったように思う)、すっぴんで遊び歩いていたし、夏なんか海へ行ってもサンオイルを平気で顔に塗りたくっていた。
子育て中もまったく同じ。化粧もせず、ガードもせず、汗をかいたらすぐに子どもと一緒にタオルで拭けるからとすっぴんでお砂場三昧、プール三昧だった。
そのツケが今回ってきたんだとわかっている。だからしかたなく受け入れて「年をとったなあ」と鏡を見ながら、「ああ、これはあの時のニキビの痕だ。あの頃はストレスたまってたもんなあ。消えたと思っても、年とるとシミになって出てくるんだねえ、不思議…」などとつぶやいている(この“不思議”と思える客観性が自分でも凄い)。
以前、昔つきあっていた彼に街でばったり出会ったことがある。
20年ぶりぐらいだから少しお茶をしたけれど、そしたらあった!ありました!彼の頬にもやっぱりひとつ、大きなシミが。その時には私の頬にも例のシミがあったから、お互い口には出さなかったけれど、たぶんお腹の中では「年をとったなあ」と思っていたんだろう。あれ以来、鏡で自分のシミを確認するたび、時々ふっと彼のシミも思い出す。
それで、彼のシミも彼の生きてきた時間の証拠というか、歴史なんだなあとしみじみ思ったりする。その時間の奥のうーんと奥には、私と大学時代に行ったプールのまばゆい光とかが溶けていたりして…とも思う。そのシミのもとになってる時間を私も知ってるのかもなあ、って。もちろん、未練とかじゃない。ただ、シミっていうものの、人生の一定時間を経て浮き上がってくるところが思い出に近いイメージを抱かせるから、時にはそんな想像もしてみたりして、ひとり和んでしまうだけだ。
だから、もっと言えば、長く一緒にいるってこと、一緒に年をとるってことはやっぱりほんとに素敵なことなんだよな、と思う。シミひとつで「そういえばあの頃、ゴルフに凝ってたじゃない?」「子どもと公園ばっか行ってたもんなあ」なんて、互いに笑いあえるとしたら、素敵じゃないか。シミひとつが思い出ひとつだと、この生きにくい世をよくぞ生きてきたもんだとポジティブに思えば、まあ何とかやりすごせるか、と思っている。
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by zuzumiya | 2012-10-26 15:04 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(2)

別れの目安

ネットで猫の成長の目安が書かれているサイトを見つけたので、読んでみた。
1歳までの仔猫の頃は「乳歯が生えそろう」や「よく遊ぶ」「走り回り、じゃれて遊ぶ」など、日々成長していくももちゃんの今とも重なり、読んでいて自然に笑みが溢れてくる。
ところが成猫となって5歳を過ぎた頃から「運動能力が低下してくる」や「白髪が混じって毛色が薄くなる」や「肥満に注意する」など、少しずつ若さと健康に陰りが出はじめ、10歳ともなると「だんだんと眠る時間が増えて一日中寝るようになる」や「すばやく動けなくなる」、12歳では「食事も一度で食べられなくなる」、15歳で「動くのがだるそうになる」、16歳で「食べるのに痩せてくる」「ボケの症状が出てくる」と切ないものになっていく。
そういえば、前にももちゃんの獣医のところでもらった薬袋の裏にも、猫と人間の年齢換算表が載っていた。猫の年齢の16歳は人間でいう80歳である。あの時、16歳までしか書かれていないことにふと気づいて、突然、命の“終わり”を感じた。“終わり”がこんなにもちゃんとわかっている、“終わり”を突きつけられている、そんな気がした。
ももは、元気がよくて、好奇心があって、いつでも走り回っているおてんばなももなのに、それでもいつかは死んでしまう。こうして一緒に生きているようでも、実はももだけがもの凄い速さで年を取り、生を駆け抜けていってしまう。まだ知らなくてもいいようなことに無理やり気づかされた感じがして、急に寂しくなった。
小さな薬袋の表がものすごく残酷なものに思えてきて、恨めしくなった。
でも今は、ちょっと違う。
別れの目安を数字にされるとたしかに残酷に見えるけど、それでもそこに記されてあるのには意味があるように思う。圧倒的な寿命の差で、一緒にいられるのは短いかもしれないけれど、だからこそ今を大事にしましょう、とそう伝えてくれているように今は思う。“終わり”がそこにあるから、ちゃんと見つめて下さい。人間よりもずっと早くそれは訪れるから、一日一日を大事に一緒に愛おしんで下さい。そんなやさしさを感じるようになった。
ペットを飼う人間はペットを見送らねばならない運命にある。こちらがその動物を選んだ時、向こうはその役目を託してくる。「あなたのもとで終わらせて下さいね」
その時、終わりから始まる“逆算の愛”のようなものがあることに気づく。でも、本来みんなそうだ、とも思う。“終わり”に向かって止められないとわかっていても、それでも歩いて行く者だけに、見送る強さもやさしさも蓄えられていくのだろうと、今の私はそう思う。
ももよ、秋だから、ママもちょっとおセンチになったかな。
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by zuzumiya | 2012-10-24 10:25 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(2)

おめでとうの黒板

バス停の向かいに小さなケーキ屋さんがあります。ドア脇に黒板が立てかけてあって「おたんじょうび、おめでとう」の文字と「ひとみちゃん」「たけしくん」と名前が大きく書かれています。「今日のこの日この世界に、ひとみちゃんとたけしくんがめでたく生まれました!」道行く人に向かって、文字が元気に叫んでいるようです。ドアが開いて、ケーキの箱を持った男性が黒板の前で立ち止まり、携帯で写真を撮って満足そうに帰って行きました。どっちのパパなのでしょう? 家で待っている奥さんに写真を見せて微笑みあう姿が想像できます。我が家も以前そこで誕生日のケーキを買ったことがあります。もしかしたら、あれからずっと息子と娘の名前がそれぞれの誕生日に黒板に書かれていたのかもしれません。誰かが知らないところでそっと祝福してくれている。世の中にはそんな素敵なこともあるのですね。
ケーキ屋さんの親切に心が温かくなりました。
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by zuzumiya | 2012-10-23 09:47 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

日記のようなもの

10月19日
澄んだ青空にやわらかな日差し。風のなかには金木犀の香り。
秋の一日に生まれた自分を“恵まれた”と思います。
夫が倉橋由美子の本をプレゼントしてくれました。
1975年に出版された『倉橋由美子全作品』の8巻組です。ネットの古書店で見つけてくれたようで、誕生日の当日に届くように手配してくれました。とてもうれしかったです。
いつものようにケーキをみんなで食べましたが、チョコプレートの名前が「かずみちゃん」だったのには驚きでした。ロウソクの数を考えたら、お店の人は「?」だったのではないでしょうか?

10月20日
夫と久しぶりに立川へ出かけました。職場を辞める方がいて、その方へのプレゼントを買いに付き添いました。バスのなかで夫が彼の人柄を話してくれました。どこの職場にも心根のいい人はいるもので、彼の場合は率先してコーヒーメーカーを自宅から持ってきて、夏はアイスコーヒーを、冬はホットコーヒーをみんなにふるまってくれたそうです。夫は給湯室で彼に出会うたび、「やあ、マスター」と笑って挨拶していたといいます。夫を含めた数人でコーヒークラブを作って、お金を出し合い、豆を挽いて、つかの間の休憩時間を楽しんでいたというから、可愛らしい話です。「そういう人はきっと心のゆとりを大事にする人だから、音楽とか本、そうねぇ随筆とか詩集とか贈ってあげるのもいいかもよ。コーヒー好きなら、長田弘さんの詩集かなあ…」などとあれこれ話しながら行きました。
いろいろ迷った挙句、立川に新しくできたロフト(!)で、フィルターなしに紅茶のように粉を入れてそのままコーヒーが飲める便利なマグカップに決めました。クラブのために彼がコーヒーメーカーを置いていってくれる事を思いだしたのです。ほんとにいい人なんですね。
ついでに私も先生への絵はがきを1枚買いました。先ほど「よければ、絵はがきの送りっこをしましょう」と提案を書いて投函してきました。
絵はがきの絵はこうです。
明るい水色の地にミシンで使うときの黄色いボビンが二つ描かれてあります。片方のボビンからもう片方のボビンにピンクの糸が巻き取られてあります。巻き取られて空のボビンの上に、白いドレスを着た小さな女の人(バレリーナ?)がこちらを向いてちょこんと腰掛けています。静かで控えめではあるけれど、とても可愛らしい絵です。
「今の私の気分はこんなです。わかりますか?」
先生が今の私をこの絵からどう受け取るか、そして先生の返信はどんな絵になるのかとても楽しみです。

10月21日
ももちゃんは相変わらず、元気です。
今もソファで体を伸ばして、安心しているのかお腹を出してぐっすり眠っています。愛しいものが眠っている姿に湧きあがってくる感情はみな同じ。「健やかなれ」です。
先日、夕方6時前でしたか、電気をちょっと消してみたら、もう部屋の中はまっ暗でした。もし私が仕事を再開して帰ってきたら、こんなに暗いんだと気づき、ももを部屋に残して仕事に行くことをちょっとためらってしまいました。
最近、また好きな作家が増えました。私と同じ年の窪美澄さん。『ふがいない僕は空を見た』からのファンです。娘と自分のために二作目の『晴天の迷いクジラ』と自分のために最新作の『クラウドクラスターを愛する方法』を買いました。いいですよ。人の弱さや人生のままならなさを、それでも抱えて生きていく感じが実に自然で、肩肘はらずに、善人ぶらずに書いてあって、私いっぺんに好きになりました。よしもとばななさんの作品に出会ったときと似た感覚が蘇ってきています。
それから『人生という名の手紙』(ダニエル・ゴットリーブ著)もいい。事故で四肢麻痺となってしまった精神分析医のおじいちゃんが自閉症の孫のために綴った手紙なんですが、生きていくうえで大切なことがわかりやすくきちんと書かれてあります。自分の生きてきた人生のエキスがみっちり入っているから、ほんとに盛りだくさんな感じがしますが、少しずつ言葉を噛み締めて、ゆっくりと読んでいます。
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by zuzumiya | 2012-10-21 15:59 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

47歳の誕生日に

勤めていた職場の同僚にとても素敵な女性がいました。
彼女は気配りのある人で同期の子の誕生日をみな憶えていて「今日は誕生日でしょ? おめでとう!」とサラリと言ってくれるのです。それだけでなく、料理上手の彼女はケーキまで作ってきてくれます。
美味しいケーキを頂きながら、「○○ちゃん、誕生日おめでとう!」「××さん、ケーキごちそうさまです!」と言い合って、誕生日を迎えた当人がみんなから祝福がもらえるように、そしてみんなもハッピーになれるように、誰に頼まれる訳もなく自腹を切って率先してそういう機会を作っていました。今振り返ってみてもほんとに素晴らしく、人間として私は彼女を尊敬します。
その彼女が今朝、職場を離れた私にまで「おめでとう」のメールをくれました。お礼の返信を書いている時、ふと大切なことに気がつきました。誕生日はみんなに「おめでとう」と祝ってもらって、今日一日はやさしい言葉をもらい、笑顔をもらい、プレゼントをもらい、どちらかと言うとチヤホヤと「してもらう」立場にたてる甘えられる日です。
でも、彼女のしてきた行いを思い出すと、相手のなかに“祝う気持ち”があっての今日一日なのだと気がつきました。人から「おめでとう」と言われて、はじめて本当にめでたい気分になって、めでたい一日になるのです。「してもらう」「甘える」立場にいられるのはそうしてくれる、甘えさせてくれる存在があってのこと。誕生日こそ、まわりの存在のありがたさを思い出す新しい一日なのだとしみじみ思いました。
彼女のおかげで、思いやりやありがとうの気持ちを持って、今日のこの日を始められます。
ありがとう。
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by zuzumiya | 2012-10-19 12:46 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

言葉足らず、気持ち足らず

ようやく仕事絡みでなく、変な罪悪感もなしに好きな本を読めるようになってきました。
今日も買い物の帰りに図書館に寄って本を受け取ってきました。カウンターの前で「本が来ていると思うのですが…」とカードを出すと、20代後半ぐらいでしょうか、若い女性の職員がウンともスンとも言わずに受け取って、書架に本を探しに行きました。一瞬「あなたに口はないの!」と思いました。彼女はすたすた本を持ってきて貸出の処理をし、「11月3日までとなります」とだけ言って私に本を差し出しました。顔を見るとあまり表情はありませんが、特に機嫌が悪そうという雰囲気でもありません。単純に「言葉足らず」なのだと思いました。「ありがとう」と言って私は受け取りましたが、必要最低限の会話しかしない(いや、この場合は挨拶からして、していない)それで仕事が成り立っていて許されていることに何だかちょっと腹立しい気持ちがしました。
私のいた図書館は指定管理として区からすべてを任されていた館でした。
3年の間に利用者を増やし、利用者の満足度も上げなければなりません。カウンターに立てば必ず「おはようございます」「こんにちは」の挨拶を笑顔でして、本を借りていく行かないにかかわらず、すべてのお客様がゲートを出て行く際には「ありがとうございました」と頭を下げていました。それはまるで商売をやっているような、本屋さんのような感じでした。
このブログでも以前に書いたと思いますが、こちらが「こんにちは」と明るく挨拶をし続けていれば、どんなお客様も最終的には声を出さずとも軽く会釈をして、必ず挨拶を返してくれるようになります。それはかなりうれしいものです。
平日の公共図書館の利用者はほとんどが近所のお年寄りと小さい子供を連れたお母さんです。もしかしたらですが、この「こんにちは」が今日誰か他人に向けて最初に口にした言葉かもしれないと思えば、挨拶はもう立派な会話なのだと思えます。一人暮らしのお年寄りや一日中赤ちゃんのお守りをするお母さんにとって、そういう可能性は十分ありえますし、挨拶程度でも誰かにちょっと気持ちを向けられることは孤独な気持ちがほぐれて、うれしいことなのではないでしょうか。
カウンターに立っていると実は話しかけてくれるお客様は多いものです。本の話だけでなく、天気の話やお孫さんの話、体調の話などほんの1、2分の立ち話ですが、一対一なので、必要なこと以外に話しかけてくれるその気持ちは私に向けられたものとしてうれしかったです。それと同時に、人はみな、誰かと笑顔でちょっとお喋りしてふれあいたい、そういう一日を持ちたいものなのだなと思いました。
「私は先だってまで大病してましてね。家に居ても鬱々としてしまうので、ここへ来るのがリハビリと思ってるんです」などとこちらから聞いてもいないのに、胸のうちをそっと打ち明けてくれたお客様もいて、ちょっとした会話の大切さを痛感しました。「個人的な話はしてはいけない」と研修でも教えられていましたが、私は人間である以上、臨機応変だと思っていました。
誰かと気持ちよく挨拶を交わしあって、笑顔を見たり笑顔になったり、そこからちょっと話しかけてみたくなる、そんな気持ちがある日ふっと湧き上がる。本と人とを結びつけるだけじゃなく、人と人とがふれあうささやかな場所に公共図書館がなっていることに、もっと多くの働く人たちが気づかなければならないと思います。図書館で働く人間だから、立ち居振る舞いだけじゃなくなるべく口もきかず必要最低限な話で静かに、というのは「言葉足らず」が「気持ち足らず」につながると私は思います。いつもの場所、なじみの場所。町の図書館が暮らしのなかにそんなふうに安心できる場所としてしっかり根付くためには、そこで働く人間にもまず心地よさを求められていることを大切に思ってほしいものです。
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by zuzumiya | 2012-10-18 13:47 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

絵はがきの絵

先日、講演会の仕事でお世話になった講師の先生から絵はがきを頂きました。精神的な不調で約束をお断りさせて頂く旨の手紙を送ってすぐの返信でした。大きな病気を経験された方なので、控えめに、でも真摯に、私の心身への気遣いの言葉が綴られていました。
「あなたの意志に添い、ジッとおとなしく会える日を待ちます」のやさしい言葉に、先生の愛くるしい笑顔を思いだし、しばし温かい気持ちになりました。
絵の方は、薄緑色の壁の洋風な家に白い窓枠の大きな窓が二つ、左右に描かれています。窓辺には赤やピンクや白い色の花が植えられています。左側の窓は閉じられてカーテンが引かれ、右側の窓は開いていますが室内はまっ暗、窓辺に吊るされたカナリアの鳥かごが日を浴びて金色に光っています。表に“長野県信濃美術館 東山魁夷館”とあるので、東山魁夷氏の油彩だとわかりました。
先生の心のこもった文章を読んでから裏返し、絵をじっくり眺めていると、今の私という人間が見事に表われているな、と感じました。片側の窓のしっかり閉じられたカーテン、鳥かごのカナリア、そしてその背後の深い闇。闇のせいか、カナリアは少し寂しげに見えます。明るさのなかにも静かな孤独が感じられるのです。今の私はきっとカーテンがきっちり閉じられた窓の奥にいるのでしょう。あるいは鳥かごの中のカナリアかも…。
外の世界は花が咲き、明るい光に満ちているのに、隔絶されている。片方の窓が開いているのは、かろうじて世界とつながりたい気持ちや中途半端な戸惑いを表しているようです。そして、カナリアの私は明るい窓辺にいても、かごの中。そこに先生の言葉以上のメッセージを感じました。
「今のあなたの姿ですよ」
「窓は開いているじゃないの、外はこんなに素敵ですよ」あるいは
「いつかそこから飛び立って、もう一度、世界の素晴らしさを歌ってごらんなさい」
言葉としてこうやって書いてしまうと、あまりにストレートすぎて、心が弱っている者には少々強引です。絵の中から、そのときどきの気分で解釈可能な絵というゆるやかなものの中から、ほのかに立ち上がってくるそんな程度でいいのでしょう。絵はがきの持つ言葉だけでない、絵と合わさった表現力、魅力に改めて気づかされた思いがしました。
私の今の精神状態から、この絵はがきを選びとった先生の感性も見事ですが、そういう魂の微妙なやりとりができた先生との絆や縁もまたうれしく思えました。
言葉だけでなく、その絵の中に送り手の言葉にしていないさまざまな想いの機微が込められている絵はがき。素敵です。
「たまにこうしておはがきくらいは出してもいいのかしら?」と書いてくださった先生とゆっくりと絵はがきのやり取りからまた始めるのもいいかな、と思います。今この素敵な思いつきをどんな一枚から始めようかと、ワクワクしている私がいます。
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by zuzumiya | 2012-10-17 10:29 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

おばあさんのまなざし

先日、買い物へ行ったときのこと。そこのスーパーは入口を入ってすぐのところにカート置き場があり、その脇に一列にベンチを並べて、ちょっとした休憩所を作ってあります。ベンチを陣取っているのはたいていがお年寄りです。私がカートを返している時、ふと視線を感じました。どうやらひとりの品のいいおばあさんが私に微笑みかけているようです。そのまなざしには何だか“眩しいもの”を見つめているような、そんな温かな感じがありました。私の姿かたちが素敵で“眩しい”わけなどありません。その時の私は両手にスーパーの袋をこれでもかというほどぶら下げた情けない状態でした。人見知りの私はおばあさんに直接話しかけることもできないまま「なんだろう」と首を傾げながらスーパーを出ました。
自転車のかごに袋を移し入れている時に、はっと気がつきました。これは全くの想像なのですが、あのおばあさんはもしかしたら、私のことがちょっと羨ましかったのではないか。カート置き場で、家族のために買い込んだたくさんの袋をバランスよく両腕にかけようと奮闘している私を見て、「ああ、私にもあんな母親の時代があったのよねえ」と思い出して、昔を懐かしんでいたのかもしれない、そう考えるのがいちばん自然な気がしました。そういえば、あのおばあさんは小さな袋しか持っていませんでした。いろんな時代を経て、ひょっとしたら今はひとり暮らしなのかもしれません。
穏やかな秋の日差しのなか、大勢の主婦たちに混じって自転車をこぎながら、私もいつかは頑張る母親の姿に思わず見とれ、眩しい視線を送ってしまうんだろうなと思い、やさしい気持ちになりました。
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by zuzumiya | 2012-10-16 14:58 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)


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