暮らしのまなざし

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心のどっか遠いところで

今日はほんとうはとても楽しみにしていた飲み会だった。
みなそれぞれに忙しく、予定がなかなか合わずにいたのが、今日でようやく合った(私に合わせてくれた!)というのに、いきなり私の体調が悪くなって、またもや延期になってしまった。ごめんなさい。
それが馬鹿みたいな話で、昨日の帰宅途中「やったー、休みだあ!」と思って家に電話し、「なんか好きなもの買って帰るぞ〜」とスーパーに向かう道で、友人からの携帯を見ていたら、いきなり片目が見えづらくなって、ヤバっと思ったら偏頭痛の発作がきた。
すぐに専用の薬を飲んで、ぱぱっと買い物して、食事をして寝たが、夜中に暑さで目が覚めてから、やたらと仕事のことを考えてしまって、今度は眠れなくなってしまった。空が白々と明けてくる頃にようやく眠りにつけたと思うが、朝起きたら、頭の芯に痛みが残っていて、下を向くと血流がぐわんぐわんする。そういうわけで朝も早よからメールでドタキャンのお知らせ&再度延期のお願いとなった。
友人のなかにはもしかしたら、この日のために残業をしないように上司に告げていたとか、あらかじめ仕事を早めに進めていたかもしれず、そう考えると突発的なこととはいえ、ほんとに申し訳ないことをしたと思う。すみません。
偏頭痛というのは因果な病気で、一週間頑張って働いて、週末の休日にその疲れがどっとくるのか、休みで気がゆるむのか、特有の発作がきて痛みがくることが多い。せっかくの休みをただ床で臥せっていなくてはならないという悩ましい病気なのだ。
昨日も「うれしいぞ〜」と心でガッツポーズをしたすぐ後だったので、気がゆるんだのだろう。とにかく申し訳ないし、情けないし、悔しい。「今頃は王子の街で…」と遠くビルの灯りを見つめて、しょんぼりしている。

                    *

私が仕事に疲れて歩きをサボると、夫は一人で夜の公園に歩きに行く。
今の時期はちょうど夏休みで、親子連れが虫かごと懐中電灯を持って、カブトムシを探して雑木林を歩きまわっている。
夫はもちろん舗道を歩いているが、どういうわけか何度もカブトムシのオスに遭遇しているらしい。

「『あ、カブトムシだ!』って、心のどっか遠いところでハッとするんだけど、でも、見つけたってさ、もうどうすることもないんだけどさ…」

夫のこの言葉に思わずほほえんでしまった。なんて素敵な人なんだろうと思った。
「心のどっか遠いところでハッとするんだけど」
自分の少年時代と息子の幼い頃の両方がないまぜになって、この人の「心のどっか遠いところ」に仕舞われているんだろうなあと感じて、胸がきゅうんとした。そして、それは私もまったく同じ。流れている時間が一瞬にして重なりあうことへのこの愛おしさ。
こういうことがふだんの話のなかですっと言える人だから、私は夫が好きなんだ。
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by zuzumiya | 2011-07-25 23:38 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

世界を見つめるやさしいまなざしを育てよう

今、明治神宮で「海森彩生写真展」が行われています。これは「祈り、希望、海、森、再生」をテーマに一般とプロの写真家から集めた写真による写真展で、東日本大震災への復興の祈りの意味も込められています。趣味で始めた息子の写真が今回展示されているので、悪天候にもかかわらず夫婦で行ってきました。
それぞれの写真の脇には、その作品を撮った写真家の想いやメッセージが添えられてあります。「いつかまたこんなふうな美しい自然が戻ってきますように」「どうか希望を失わないで」。ひっそりと咲く小さな花や子供の無邪気な笑顔を捉えた写真に、そんな祈りや励ましの言葉が重なると「人間の魂って、捨てたもんじゃないよなあ」と胸が温かくなりました。
息子の作品は、二枚の小さなシダの葉に一筋の光が射してそこだけさみどりに輝いている、そんなささやかな一瞬を捉えたものでした。親として何よりうれしいのは、写真が選ばれて展示されたということより、私の知らないところで、息子が一人で、そういうピュアな目でこの世界を見て、大切にしたい美しい瞬間をちゃんと感じとったということです。そういうまなざしをもった人間として育ってくれていたということです。
我が家は息子が小さな頃から生き物が好きだったので、毎週のように田圃や川や林の自然のなかに連れ出していました。もしかしたら自然の中にいて、そのふれあいが今の彼の感性の土台になっているのかもしれません。
たとえば、小さな頃からプレゼントに、ぽんっとゲーム機は渡すけれど、カメラや顕微鏡や天体望遠鏡のようなものには大人はちょっと気がつきません。テレビをつければ悲しいニュースがたくさん飛び込んできますが、子供にこの世界の素晴らしいところ、美しいところをこそ見つけてもらい、そういう世界に生きていることを再確認して、自然も自分の生命も愛おしんでもらえるように、そんなプレゼントは効果的だと思います。
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by zuzumiya | 2011-07-20 00:48 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

やさしいって何?

今日はなんだか人のやさしさについてぼんやり考えさせられた。
先日書いた記事だけど、図書館の児童担当として、0歳児検診の際に保健センターに出向いて行って「小さい子向きのお話会やってますからうちの館にも是非遊びに来てくださいね」と宣伝する役を館長から命じられた。
でも、我が館は2階が児童室なのにエレベーターもなく、乳母車をエイコラッと持って上がるか、赤ちゃんを抱っこして上がるかしかない。トイレにはおむつ替えのベッドもなく、もちろん授乳のコーナーなどない。
先日の研修ではいろんな館のいろんな試みをパネルで見た。全ての館がエレベーターやおむつ替えベッドの完備された理想的な設備だったわけじゃない。それでも、間仕切りとしてカーテンで仕切ってみたり、ベビーベッドを置いたりして、何とか工夫して「赤ちゃんコーナー」を確保していた。
それらはブックスタートのフォローアップとして、実は大切な要素なのだ。
「図書館に来てくれ」と言うわりに「小さい子のお話会もやる」と宣伝するわりに「赤ちゃんにやさしくない設備の図書館」だと思われては口先だけで実質が伴わず、リピーターはいなくなる。この地域にある図書館3館のうち、我が館だけが「おむつ替えが思うようにできない館」になってしまっているのだ。
設備的なことはもうどうしようもない。ただ、努力できるところは努力すべきではないか。3階の事務室横の会議室でおむつ替えをさせてあげてもいいのではないか、もちろん、要望があれば授乳なども。そういう時は「ただ今おむつ替え中です」とか「ただ今授乳中です」の看板をドアにかけておけば済むんじゃないか。そうアイデアを出した。

先日、児童室で「暑いので子供に水を飲ませてもいいでしょうか。何だったら階段のところへ出ますが…」とお客さんに言われた。お話会の常連さんである。
図書館は基本的には館内の飲食は禁止である。そのかわり、足で踏めば冷たい飲料水が出る機械が置いてある。でも、そのしくみだと小さい子供はうまく飲めないものだろう。私は飲食は禁止ということは承知していたが、でも、「階段で飲ませる」というのがどうにも申し訳なくて「他のお客さんもいないし、こぼさないようにしてくれたら大丈夫だから、どうぞ飲んで下さい。熱中症になったら大変です」と言って対応した。
別の日、別の職員がやはりお客さんに子供に水を飲ませていいか、と訊かれたそうだ。その職員も飲食は禁止というのが頭にあるから「階段のところだったらどうぞ」と対応したらしい。館として、対応が違ってしまったことになる。

暑いなか図書館に来てくれて、ソファもあるのに、そのソファに腰掛けて子供にゆったりした気持ちでちょっとの水も飲ませられず、薄暗い階段でこそこそと飲まなきゃならないのかと思うと、子育てをしてきた私としては何とも腑に落ちない話である。杓子定規でやさしくないな〜、と思ってしまう。どうせだったら、もう少し足を伸ばしてもやさしい設備のいい図書館の方へ行きたくなる。
原則はわかっている。でも、母親の介助がなくても飲める子については水飲み機で飲めばいいが、そうじゃない小さな子の水分補給はどうするのか。今年の夏は節電モードもあって館内も暑めだし、そこへきて原則だけで進めていいものだろうか。

「その場かぎりの集客をしてこいというならしてこれますが、赤ちゃんにやさしくない館に来いという気持ちにどうしても自分で納得できないんですよ」
私は館長にそう切り出した。館長の考えはこうだった。水は飲ませるのもOK、おむつ替えは3階でしてもらってOK。ただ職員の昼食中はダメ。本の装備をしてくれる「装備さん」がくる日(週1日)は装備さんに我慢してもらえばいい、というものだった。スタッフはダメで業者は我慢させるのかとも思ったが、まあ、いいや。とにかく館長は私の想いをわかってくれて、「やったらいい」と言ってくれた。私も職員全員の理解と対応統一のために、館内整理日で上記のことを「問題提起」として皆の前で言ってみて、皆の意見も聞いていろんなことを決めて行こうと思う。そしてみんなのOKがでたら、キルティングでおむつ替えシートを作ったり(洗濯は言い出しっぺの私がしよう)、看板を作ったりしようと思う。

ところが昼休みに館長とのやりとりを聞いていた独身の同僚が「私は水を飲ませるのはやっぱり反対」と語気荒く言い出した。日頃から他人の失敗ばかりを公表して事荒立てて、気がキツくて有名で、私の仲間内では煙たがられている彼女だが、やっぱりあっさりとそう言い切った。口論はしたくないので彼女の意見を黙って聞いていたが、結局は「トラブルになるのが嫌」ということだった。「トラブルにしない対応をみなできちんと考えて決めよう」とするのでなく、まず「面倒はごめん」というシャットアウトの考えは実にやさしくない。ある意味、努力を放棄していると思う。いずれ、最愛の人と結婚して最愛の子供ができたときに、まわりに杓子定規にされて、どうしてあのとき私がこんなにも拘ったのか、じんわり思い出す日がくるのだろうか。

「子育てをしていないとわからない」と言えばそれで終わりなので言いたくないが、自分が母親になったとして、「もしそうだったら」の想像力をどれだけ働かせられるか、それが人間として大切なことじゃないか。「きっと大変だよなあ」「可哀想だよなあ」「何か助けてあげることはないのかなあ」と困って、考える人であってほしい。
お客様あっての図書館であり、ブックスタートの話じゃないけれど、ただの「本の配布」だけで済ませてしまうか、絵本とともに応援の気持ちと具体的支援をプレゼントするかで大きくその意義が分かれてしまうように、図書館も心構えひとつで単なる「本の貸借場」になりさがるか、「人とのつながりを育むやさしい場所」になるか、道は別れてしまうんじゃないか。

                   *
駅の階段を降りていたら、下に地べたにぺちゃんと座って、前のめりにぐったりうなだれている若い女の子を見つけた。私の目の前にはOLっぽいお姉さんが先に降りて行ったが、彼女のことは横目でちらりと見たきりで無視して行ってしまった。私は以前、テレビの番組で心理実験の様子を見ていて、「倒れている人には誰も声をかけないが、一人が声をかけると何人か集まってくる」というのを知っていたので、声をかけた。すると女の子は真っ白な顔をしてか弱い声で「貧血です」と答えた。すぐさま「駅員さんを呼んでくるから」と言って階段を駆け上ろうとしたら、上から駅員さんが降りて来てくれた。
男性の駅員に体を触られるのが嫌だろうから、私が脇の下に手を入れて立たせて、駅員さんと二人で肩を貸しながら階段を昇った。途中で「やっぱりだめです」とよろよろ座り込む彼女に「担架はないですか、担架を持って来て下さい」と指示して、駅員さんが取りに行った。その間、階段の途中で倒れている彼女に扇子であおいで介抱している私の様子に階段を下りて来たサラリーマンやオジサンが「大丈夫ですか?」と声をかけてきた。
まさしくテレビとおんなじだ。やれやれ、人間というのは、なんとこズルい生き物なのかと思ったが、無視されるよりいいので「だいじょうぶです。今担架を持って来てもらっています」と答えた。担架に乗せて無事、彼女は救護室へ。彼女から携帯を渡され、事情をお家の方に説明して、20分で迎えに来てくれることを彼女に伝えて、私は救護室を出た。

善いことをした自分に酔いしれて、自慢して書いているわけじゃない。
もう少し、人が倒れていたら、声をかけようよと言いたいのだ。飲み過ぎてベンチで夜を明かしたオジサンじゃなく、若い女の子じゃないか。なんで、みんな無視するんだろう?なんで同じ女性が見て見ぬ振りして通りすぎるんだ? そういう女性が彼氏の前や家族や友人の前では気の利くやさしい子なんだろう? 
私はすぐさま娘のことを思い出した。娘がこんなふうに外で倒れてしまったら、誰かにやさしく「大丈夫ですか?」と声をかけて助けて貰いたい。いや、娘じゃなくても新聞配達している息子でも、夫でもそうだ。自分の家族が外でそういう目にあったら、と想像すれば、声をかけずにいられないはずだ。こんなに疑り深いやさしくない社会なんて!、と思わずにはいられなかった。
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by zuzumiya | 2011-07-15 23:22 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

ブックスタートってあったかい

今日は休みだったが、自分で研修に応募して参加してきた。
参宮橋で行われた「ブックスタート研修」と「わらべうた」の研修。
ブックスタートというのは簡単にいうと、自治体が保健センターとかで赤ちゃんの検診の際に絵本を配って、赤ちゃんとお母さんが絵本を介して温かくふれあうひとときを体験してもらって、これからの子育てを地域ぐるみで豊かに応援していきますよと、お母さんにわかってもらう試みのこと。

私は図書館の児童担当として、来月から保健センターへ出向き、利用者カードの申込書なんかを渡しながら図書館のお話会のアピールをして、集客してくることになっている。
今日がほんとうはその第1日めで、実際に保健センターへ行くはずだったのだけど、先に休みをとってしまっていて、しかもそれがブックスタートの研修日になっていた。
でも、ほんとに休んで参加しておいてよかった、心構えがぜんぜん違う。

研修で学んだことは、ブックスタートが単なる絵本の「配布事業」でないこと、絵本を手渡すことが「早期教育や学習」を目的するものではなく、むしろ「母子保健」の考え方に近いものであること、目の前にいる幼な子をただ愛おしいと思うそれが母性であるならば、ブックスタート事業は「地域全体、社会全体の母性を育むこと」であることなど、頷いてしかも胸がじーんとする言葉が多かった。

絵本は親と子がゆったりと触れ合いながら、アイコンタクトをとりあいながら、大好きな人のやさしい言葉で、二人だけの心地よい愛ある時間を作り出す最も良いツールだ。
幼い頃に何度も何度もくりかえし大好きな人からかけられた言葉の積み重ね、その蓄えだけが、子供の心の豊かな感性、成長してからの心の逞しさとなり得る。
ストーリーがどうの、じゃない、この絵は何?、じゃない。
絵本を介して、絵本をきっかけにして、ふれあいの時間、「愛しているよ、大事だよ」のメッセージが子供にしっかり届けばそれでいいのだ。言葉の習得、絵やお話の理解は、その後から自然とついてくる。

そして、お母さんやお父さんも、忙しさに流される毎日のなかで、義務や役割から解放されて、人間として生き物として子に寄り添い、その温もりからゆったり落ち着いた心の休息をもらうことが大切なのだ。子供との暮らしをゆるりと愉しむことの幸福を心底感じてほしい。そういう意味でブックスタートは教育では決してなく、母子保健の分野に近い。

「この絵本、小さい頃よく読んでもらったなあ」という懐かしさの奥には、本のストーリーのことより、あの頃抱かれた親のぬくもり、甘えて幸福だった時間のすべてをもわもわと思い出しているはず。子育てを通して、子供の頃の自分をもう一度生き直す感じを持ったけれど、そこにはたしかに親の愛があったんだとわかる。
こうやって、うん十年たっても、人生の根っこにゆるぎなく幼き日々のそれがあるから生きて来られたし、人を信じたり好きになったり、許したりできるんだろう。これからも何とか生きていけるんだろう。

ブックスタートをただの絵本配布事業にしてしまってはもったいない。
私がやりに行くことは一時的な集客業務になってしまってはいけないと思う。
我が図書館もブックスタートのスピリットを再確認して、地域の図書館として子育て支援をどれだけどんなふうにできるか具体的に考え、アイデアを出し合い、何よりお母さんたちに行動をみせて行かねばならない。
早速、「子育てにやさしい図書館」になるために何をしなければならないか、館長がどこまで本気なのか、話し合ってみようと思う。保育の経験と子育ての経験もあり、図書館員でもある私だ。売りのない、実質の伴わない図書館の看板を背負って、へーこら出て行く勇気はない。
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by zuzumiya | 2011-07-13 22:07 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

「もう、家へ帰ろう」

a0158124_22214673.jpga0158124_22223273.jpgさっき、なにげにRO69のサイトを見ていたら、なんと私の大好きな写真集『もう、家に帰ろう』の続編『もう、家に帰ろう2』が出版されていることがわかり、思わず声をあげた。これは即、買いである。
『もう、家に帰ろう』は写真家の藤代冥砂さんがモデルの田辺あゆみさんと結婚して、日常生活のなかの愛らしい妻の姿をほんとに自然体に撮っているもので、人んちの夫婦のスナップ写真、というより妻の写真なのに、見ていてこちらがもう非常に幸せな気分になる。なんていうか、田辺さんの見せる表情に女の私までもが「愛おしいよなあ」と思って微笑んでしまうのだ。写真のその一枚一枚はまさに藤代さんがファインダーごしに見つめている彼女であって、好きな人のこの愛おしいまぶしい一瞬を収めたい、永遠に留めたい、そんな気持ちがあふれているのがわかる。ページ一枚一枚が藤代さんの妻を見つめる温かなまなざしなのだ。そしてもちろん、田辺さんも愛しい人とともに過ごすあたりまえで幸福な時間をこのうえなくリラックスして生きている。そういうふたりの醸し出すゆるりとした空気が写真によく出ている。RO69のサイトの宣伝には「結婚したくなる写真集」と書かれていたが、ほんとにそうだろう。
私が写真家が自分の家族や恋人を撮った写真が好きなのは、たとえ、ケンカして拗ねたり、泣きべその表情を撮っていても「世界でいちばん大事なキミ、大好きなキミ」とカメラが、すなわち写真家の目が正直にそう語ってしまっているからだ。被写体がどうのこうのより、テクニックがどうのこうのより、写真家の心のうちがいちばんよく現れてしまう、嘘がつけない写真のような気がするからだ。「目はものを言う」というが、言葉なんかを越えて幸福なほんとの心持ちが滲み出てしまうからだ。そこが伝わってくるから、「ああ、いいなあ」と好きなんだろう。被写体の妻や家族に写真家と一緒になって「愛」を感じてしまうのだ。そう感じさせる写真が撮れているということなのだ。いちばん愛おしいものをこのうえなく愛おしく大切に撮れない写真家なんてダメだよな、なんて生意気にも思う。龍之介くんが生まれてからの続編もきっと素晴らしいものだろう。楽しみだ。
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by zuzumiya | 2011-07-12 22:24 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

暑くて暑くて…

夫が外出から帰ってきて、玄関の防犯カメラにサングラス姿でぐったりして映っているので、「そんな怪しい方はお断りです」とふざけていたら、
「ふざけてないで、はやく開けてくれ、死にそうだ」と言う。
ドアを開けたとたん私をはねのけて「だああああ〜」と言って走って行って、エアコンのスイッチを入れた。
「ああ、危ない。もうちょっとで死にかけた…」と夫。
「大袈裟な。私は冷房つけなくても扇風機だけで、ぜんぜん平気だったよ」
「何言ってんだよ。部屋の中と外はぜんぜん違うよ。外を見てみろ、死体だらけだ」
二人で爆笑したあと「笑っちゃいけないけどねえ」と私。
それからげんなりしている夫に「とりあえず横になったら?」とすすめる。
私は食卓で読書の続き。
夫はすぐさま寝てしまい、私もいつのまにか椅子の上で寝てしまう。
突然、「うああああ」と言って夫がむっくり起き上がった。
「こんなんじゃ、一日寝て終わっちまう!」
「二人とも死ぬまで寝ちゃいそうだよね」
「いや、エアコンつけてなかったら、実際、ここで死んでたかもな」
「そんでもって遊び人の娘は帰ってこないから、腐乱死体で発見されるんだ」
またもや爆笑して「笑えないジョークだ」と夫。
夕方5時、部屋の中に入ってくる風がようやく少し涼しくなってきた。
今年の夏は下駄が欲しいと言う夫をつれて、これから散歩がてら、下駄やさんに行くつもりだ。
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by zuzumiya | 2011-07-11 17:13 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

ほんとに私の日々にはいろいろある

今週は実に長かったなあ。選書会議に、選書&発注指示、新刊本の受入れ、書店への発注、会議の報告書の作成、お話会の手遊びのプリント作成、お話会、展示本の選び出し。通常業務に加え、盛りだくさんだった。毎日「今日を越えれば…」と思いながら、仕事をこなした。お話会と選書・発注指示が終わった土曜日の段階で、仕事帰りにローソンで好物の「なんこつつくねバー」にコーラを買って、東西線の駅のベンチでひとり食べた。
「自分へのごほうび」ってやつである。手にしているのがコーラだが、やってることはまさにオヤジだ。でも、ぜんぜん恥ずかしくない。「こんなんでハッピーになれるんだから、安上がりな女だなあ」とつくづく思い、そういう自分にひとり笑ってしまった。
いいのだ、幸せには変わりないのだから。
                   *
節電で温度設定が高めなので、館内で使ってもらおうと団扇を作った。
児童室の方は動物の絵を貼って可愛らしく仕上がり、子供やお母さんに好評だ。一般の部屋にも置こうと皆に呼びかけたが、各自の仕事に忙しくて誰も団扇に手が回らない。
それなら言い出しっぺの私が作ろうと「節電川柳」を書いた団扇を作った。
「飼い猫に教わる風の通り道」
「ステテコを流行服といばる祖父」
「ケチ妻が節電という大義もち」
「節電で薄着の妻に身も凍る」
とか書いて館長に見せたのだが、「品がない」と却下。
ムッとして、
「んじゃ、館長はどんなの作れるんすか?」と聞くと、
「ケチ妻が今年の夏は大ケチに」
と言い出したもんだから、「はあ〜?」
ひとつ年下の館長とは常にぽんぽんと突っ込み合う夫婦漫才のような感じなのだが、二人のやりとりを聞いていたあるスタッフが「それじゃ、私が作りますか」と言い出した。
次の日、なんと彼女は「団扇キット」なるものをわざわざ使って、きれ〜いに絵柄をPCで印刷した団扇をこれみよがしに作ってきた。
「作れるんだったら、このタイミングで作らずにもっとはやくやれよ、いやらしいな〜」
と内心思ったが、出来が素晴らしいので「こりゃ仕方がない」と自分のを引っ込めた。
こうやって間抜けな私はオイシイところをかっさらわれることが多い。
                   *
今日、帰宅途中の電車のなかで目の前に50代ぐらいの夫婦が座った。
二人とも首にお揃いのスカーフみたいなのを巻いている。今流行の首もとを冷やすスカーフだろう。日曜だから二人で買い物に行ってきたみたいだ。座って落ち着いたら、奥さんがバッグからポカリスエットを出して旦那さんへ渡した。旦那さんはひと口飲み、奥さんへ渡した。すると奥さんがそれを受けとってひと口飲んだ。そしてまた旦那さんへ渡し、旦那さんがひと口飲んだ。旦那さんはすぐに奥さんへ渡して、奥さんはまたひと口飲んでそして、旦那さんへ渡して…。
私はひと口ずつ飲んでは渡しあいっこする二人をねぼけまなこで見ながら、
「なんだか、やけに艶かしいなあ」と思った。
                   *
岡村ちゃんが本格的に活動を再開する。2枚組のセルフカバーのアルバムも出す。
コンサートもやる。ところが、そのコンサートがひじょーに高い! 7000円である。
更にドリンク代とかチケットの手数料とか別途かかる。稼がなければいけないのはわかるが、ちょっと価格設定、高すぎないか? 
一時期才能に惚れ込んだ人だったので応援しなければと思うのだが、エレカシの野音も控えている。どうしても天秤に(すみません、天秤座なもんで)かけざるをえない。そして、どうしたって私の場合、エレカシが勝ってしまう。
野音は昔、一度Aブロックで見たことがある。武道館もアリーナだった。JCBの挨拶と共にもうそんな奇蹟は起こらないだろうが(ほんとにあの頃はツイていた)、大切な思い出だ。宝くじに当たるよりほんと凄いと思う。当時、チケットを取ってくれた友人に今でも感謝している。全国ツアー後の野音である。チケットは取れるのだろうか…。
                   *
よしもとばななさんの『すぐそこのたからもの』を読んでいる。
子育て中のエピソードを散りばめた心あたたまるエッセイだ。息子さんのチビちゃんの言語感覚というか、ものの感じ方が凄すぎて、親ゆずりなんだろうなあと感心してしまう。
それから同じようなことを多くの親が子育て中に感じてはいても、「うれしいなあ」「楽しいなあ」「よかったなあ」でほんわか済ませてしまうところを、さらに一歩突き進めて「生きているって、こういうことなのかもしれない」「人を好きになるってこういうことなんだ」というところまで、きちんと辿り着けちゃうのがさすが作家さんである。
よしもとさんのそういう真摯なところが、私はいちばん好きなのだった。
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by zuzumiya | 2011-07-10 23:48 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(2)

カナブンの恩返し

夏になると、マンションの廊下やベランダにたびたびカナブンがひっくりかえってもがいているのを見かける。カナブンは甲虫で背中がむっくりと丸いから、何かの拍子でひっくりかえるとなかなか自力では戻れない。私はどういうわけか、足をバタバタさせてもがいているカナブンを見つけてしまうことが多く、「このままでは疲れて死んでしまうのではないか」と思うと哀れで放っておけない。もちろん、昔に比べて虫は怖い。わりかし愛嬌のあるカナブンといえども怖い。指先にすがりつこうとするあの足のギザギザには怖じ気づく。だから、かなり手荒いやり方で「甲虫だから大丈夫だよね」なんて思いながら、壁にカラカラぶつけながらひっくり返してやる。無事に戻ると「よかったね」と言い置いて去る。頭のなかでは「よいことをしたなあ」という仏様にでもなったような満足感と、「カナブンの恩返し」の文字がちらちら浮かんでくる。「カナブンだからお金系だったりして…」とちょっと卑しいことを考える。もちろん、絵本のお話のようにカナブンが大判小判を持って家の戸口に現れるなんてことはない。お金も拾わない。でも、先だっての朝、そうやってカナブンを助けたら、私の降りた電車の直後から運転見合わせとなった。すぐに「カナブンからの恩返しだな」と直感したのだった。どっぺんぱらりのぷう。
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by zuzumiya | 2011-07-08 21:37 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

仕事はデキるが自由人

うちのチーフはちょっと公共図書館にいそうもないキャラクターの自由人です。
初めて会った時から髪型といい、服装といい、聞いている音楽といい、帰国子女だった経歴といい、芸術系の大学にでもいそうなお洒落っぽいオーラの、ちょっとくせのある独特の雰囲気の方でした。年はいくつなのかな、20代後半でしょうか。
前にいた館ではサブチーフでしたが、館長に「仕事がデキる」と惚れ込まれ、今回新しく立ち上げるうちの館で見事チーフに抜擢されました。たしかに仕事の知識はあり、処理するスピードも速いです。新人が失敗してもムッとせず、すぐに対応してくれます。
チーフという役職でも偉ぶっていたり、人をアゴで使うようなことはしません。むしろ何に対しても「めんどくさ〜」というのが口癖で、チーフだからといって、女子同士の好き嫌いや派閥や内輪もめに対して、まとめようとはせず、「勝手にやってよ、めんどくさ〜」という引きかげんなのです。お客様に対しても丁寧すぎて慇懃無礼になることはなく、「いいのかそれで!」というぐらいフレンドリーな口調で話しかけたりもします。我々下々のスタッフはチーフという役職のイメージとのギャップにいつでもびっくりさせられます。
服装も制服として決められた上下は着ず、ひとりでだぼだぼジーンズだったり、ドクロの柄のTシャツを着てきたりします。遅刻もしょっちゅう。朝は起きられないからという理由で遅番しかやりません。一人フレックスタイムで、夕方にお昼を食べて(ずっと書架整理をしていてお昼を食べてなかったそう)、そのままソファに横になっているのでドアをあけてびっくりしたこともありました。事務室でも平気で自分の服をネット注文して、まわりに軽く突っ込まれると「あっし、今、休み時間だもん」と笑っています。
先日は「暑い、暑い」と騒ぎながら事務室に帰ってきたと思ったら、エプロンの下がシマウマ柄のノースリーブでした。「えっ!そんな姿で書架にいたのか…」とみんな度肝を抜きました。
でも、そんなチーフに対して、誰も文句は言いません。館長とは以前におおっぴらに喧嘩をしたようで、館長も何も言いません。会社において「仕事がデキる」ということは、ここまで許されることなのかと少し驚きです。どうしてみんな「自由すぎてズルイ」だの、「ルール違反」だのと言わないのでしょうか。チーフは仕事がデキるから「別格」なのでしょうか。私がチーフの真似をしてとんでもない恰好をして、とんでもない時間に一人フレックスをやり「チーフと同じですもん」と言ったら、どうなるのでしょう。絶対、放っておかれないはずです。つまり、みんなそれがわかっているから誰もチーフの真似をしないんですね。チーフの大胆な自由っぷりはたしかに羨ましいけれど「そういう人間には自分はなれそうもないなあ」と、各々ひそかに思っているんだろうと想像すると可笑しくなってきます。そして、トップがゆる〜くくだけていた方が、下々がやりやすく楽チンだから、みんな何も言わないんでしょう。人が集まればいろんな利害関係、駆け引きが生じるもの。会社というのはそれに能力というものが噛み合わさって、実に複雑で面白いところだなあと思います。ところでよく聞く「仕事がデキる」って一体どういうことなんでしょう。長く社会人やってても、いまだにその定義がわかりません。
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by zuzumiya | 2011-07-06 23:39 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

暑中お見舞いに素敵な立体カードはいかが?

メッセージカードというのでしょうか。娘が私に「これ、お母さん、好きそうだから買ってみた」と素敵な立体カードをプレゼントしてくれました。まるで、しかけ絵本のような、紙でできた小劇場のような、手の込んだカードです。
昔、バースデイカードやクリスマスカードで、ボタンを押すとメロディが流れるものがありましたが、娘の買ってきてくれたカードも同じようなしかけがあります。
手前に木の柵(おそらくは橋の柵なのでしょう)があって、中央に川が流れていて、向こうにも小さく木の橋があり、明るい月夜の晩、橋の上で浴衣を着た女の子が団扇を持って、いちめんに飛び交う蛍を追っているという絵柄です。手前の橋の奥に草むらが左右に二つずつ段々にあって、たくさんの蛍が止まっています。夜空にも蛍が舞っています。
ボタンを押すと川の流れる水音がして、草むらと橋の上の蛍のいくつかがやんわりと黄色く光ります。同時に鈴虫など虫の音も静かに聞こえてきます。
ものの十数秒ですが、目は和み、涼やかな川音に癒されるひとときです。こういうカードはいかにも日本情緒という感じで、暑中お見舞いには最適だと思います。
最近はロフトや東急ハンズなどの文房具の売り場で、洒落た立体カードがたくさん売られるようになりました。藻や金魚の配置を工夫して奥行きのある金魚鉢のカード、水族館のウインドウのカード、ボタンを押すと花火の音がするカード、すぐに吊るせるモビールのカード…。楽しいものがたくさんあって、自宅だけでなく「児童室に飾ったら素敵だろうなあ」とつい買いたくなってしまいます。でも、児童担当なのだから、まずは自分で製作しなければと思い直し、今度は作り手の目線になっていろんな角度からチェックしはじめる私です。
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by zuzumiya | 2011-07-05 23:15 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

ふだんの暮らしに息づいているたいせつなもの、見つめてみませんか?
by zuzumiya
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