暮らしのまなざし

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心に余裕がないと

職場でこんなことがありました。児童室の窓際の棚にはもともと蚊よけのために「蚊連草」の鉢が2つ置いてあります。最初は「室内にグリーンがあるのはいいな」と思って眺めていたのですが、新館立ち上げの忙しさでいつのまにか蚊連草の存在をすっかり忘れていました。先日、上司が「これ、お水あげてないよね、ひからびてるよ。太陽にあてて、お水あげたら元気になるかな?」と言ったので、ハッとしました。「すみません、気づいていたのにできなくて」と謝り、2人で鉢を玄関に下ろし、彼女がペットボトルでお水をあげてくれることになりました。最近、立ち上げの忙しさか人間関係の気遣いからか、上司は風邪をこじらして、精神的にも少し元気がないように見えました。勝手な推測ですが、彼女はきっとしおれてしまった植物に自分を重ねて、水をあげていたのだと思います。「ごめんね、気づいてあげれなくて」と詫びながら。私も仕事のことに気をとられているとついベランダの鉢植えに水やりを忘れてしまいます。しおれている花に向かって「こんなに心に余裕がないなんて、どうかしてたよ」と反省します。今日も階段で水やりに向かう上司とすれ違いました。情けないことにいつも先を越されてしまいますが、思わず「ありがとうございます。今度、液体肥料でも買ってきますよ」と笑って声をかけました。責任や人間関係の板挟みで参っているであろう彼女が今ほっとひと息つけるのは「蚊連草」といる日だまりの中だけなのかもしれないな、とその後ろ姿に思ってしまいました。「蚊連草」が少しでも元気になれば、彼女もまた元気になるような気がします。明日早速、液体肥料を買って、上司と一緒に「蚊連草」にあげたいなと思います。「こうやって、うちの館のみんなも元気で、生き生きとなれればいちばんですよね」と言葉をかけて。
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by zuzumiya | 2011-04-30 21:36 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

見わたせば、若葉の季節

図書館の仕事について3ヶ月が経とうとしています。研修を終えて新しい館に配属されてようやく場所と人に慣れてきたように思います。通勤途中の目の端で辛夷が咲いた、桜が咲いたとわかってはいたものの心から愉しむ気持ちになれぬまま、休日に布団を干すときだけ、ベランダで町に若葉のさみどりが増えてきたのをぼんやり眺めていました。でも、気がつくと沿道には花水木の白とピンクが交互に光っています。八重桜の濃いピンクが緑の中にくっきり浮き立っています。新緑のこの時期、すらりと背の高い欅に囲まれた公園の入り口はさながら緑のトンネル。緑に包まれて歩いていく人々の姿を見るのは気持ちのいいものです。朝の清新な空気のなかを歩いていくと、公園の雑木林の奥から姿は見えなくとも、朝の喜びを歌う鳥の囀りが聞こえてきます。見上げれば、高い空に日の光を受けた葉影がさまざまな緑のグラデーションを作っています。こんな清々しい気持ちで朝を迎えられる日がくるとは思ってもいませんでした。自然はいつでもたゆまず進んで、人間の方から見つめる"その時"を静かに待っていてくれるのでしょう。道端のたんぽぽ一本にすら、そう感じるときがあります。
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by zuzumiya | 2011-04-27 10:06 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

「何かお手伝いしましょうか?」

休館日明けの今日は処理すべき本が山積みとなります。職場にはあらかじめシフトが組まれていて、誰がどの時間にどんな作業をするのかが決められており、空き時間は自分の担当の仕事をしていいことになっています。新館オープンの今はシフトに組まれた通常業務に加えて、自分の仕事をやりくりせねばなりません。そんな中、今日も予約本の数の多さで担当者たちが悲鳴をあげていました。そこへ「何かお手伝いしましょうか」と声をかけてくれるスタッフが幾人か現れて、とてもうれしく思いました。自分の仕事がなかったわけではないのでしょう。ただそれを優先するよりかは目の前にある予約本の処理をするべきだと察知してくれたのです。「今日は私の担当じゃないから」「私だって自分のやりたい仕事があるのだから」と見て見ぬふりをしていても誰も文句は言えません。でも、忙しそうに働いている人にそう声をかけることは、とても気遣いのあるやさしさだと思いました。皆がそれぞれ自分の担当の仕事に熱中してしまうと配架本がたまっていたり、書棚が乱れていても誰も気がつきません。それは館全体としては「いいサービス」とは言えません。自分の抱える仕事の重圧のために、処理されていないと皆が困る目立たない仕事を進んでやろうとするような、広くものが見える余裕がちょっと足りないのかなと思っていたところだったので、今日は「これぞ、チームワーク!」と心が浮き立ちました。自分が担当だからといって一人が無理をしてやりきれば、それはその人の根性や能力の評価にはつながりますが、「私が出来たんだから、あなたもやってよ」というその人以外の皆にも自然と強制する力になりかねません。協力すれば済むものをむやみに冷ややかに競争化する必要はないのです。でも、今日はそこかしこで「がんばろうね」「何とかなるって」「どうもありがとうね」の声が飛んで、一丸となって仕事をやり終えた感じがして、とても清々しく思えました。
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by zuzumiya | 2011-04-26 23:05 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

ほめ言葉の"なかごと"でハッピーに

今読んでいる熊井明子さんの『続・続私の部屋のポプリ』というエッセイのなかに、住井すゑさんのお母様の教えとして「"なかごと"を言ってはいけない」というお話が紹介されています。"なかごと"とは「誰々さんがあなたのことをこう言っていたわよ」という告げ口のことです。熊井さんはその"なかごと"には「さまざまな正義の理由がつきます」としながらも言う人の心のなかに「ねたみとかうらやみなど暗い動機はないでしょうか」と訝ります。さらに「面白いことに、ほめ言葉は、"なかごと"によって伝えられないようです」と書いています。ところが私は結構、このほめ言葉の"なかごと"を伝書鳩のように伝えるのが好きです。先日も上司と話をしていて、私の同僚の一人がよくメモを取って、毎朝仕事が始まる前にちゃんと確認している姿をほめていたので、つい同僚に「(上司が)そんな姿をちゃんと見ていてほめていたよ」と"なかごと"言ってしまいました。すると同僚はパッと顔を輝かせ、とてもいい笑顔を私に見せてくれました。ほめられてやる気がさらにアップした様子です。こういうよい"なかごと"を伝えるのは、ちょっといいとこ取りでずるい気もしますが、隠して知らんぷりするのはもったいないです。伝えるこちらも伝えられた相手も気持ちよくハッピーに、前向きになれる"なかごと”なら、いくらでも飛んで行って伝えてあげたいな、と思ってしまいます。
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by zuzumiya | 2011-04-25 20:15 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

夢中になれるもの、大好きなもの、自分を解放してくれるもの。

娘が最近、ベースにはまってる。中古を自分で買って来て、毎日べんべん弾いている。まるでギターのように激しい指使いで、思わず「おお!」と唸って、拍手する。娘は読者モデルを目指すより、ギターやベースを弾いてるときの方が断然カッコイイ。人が何かに夢中になっている姿っていうのは、ほんとに輝いていて素敵だ。
見つめるこちらまで幸せな気分になる。
音楽っていいな、楽器が弾けるって羨ましいな。
先生が嫌いでピアノをバイエルで投げ出して、その後はじいちゃんの演歌を耳コピして弾いていた私なんかより、独学でギターもベースもやれてる娘の方がずっと偉いぞと思う。
勉強も大切だけど、夢中になれるもの、大好きなもの、自分を解放してくれるものをどれだけ発見できるか、結局それが人生を楽しくさせ、上手に生きるってことにつながる。私も「やってみたら、たのしー!」みたいな何かにまた出会えるだろうか。

象さんバンドはもうそろそろ東京に帰ってくる。
「旅にでるのさ」って、ほんとに旅に行っちゃったからな。
でも、きっとまたすごい収穫を持って帰ってくるんだろう。
旅先で何を見つめ、何を想っていたんだろう。
最近は「新しい季節へキミと」のインストに、実にいいメロディーだなって思う。
あのサビの部分の、世界がきらめいてどこまでも広がっていく感じ。
美しく抒情的なストリングス。爽やかな風が吹いてくる。
いつ聞いてもはっきりと「希望」や「未来」を感じる。
今度は真っ正面からポップを狙うと言っていたけれど、個人的にはこの曲の世界は好き。日本中のみんなが何となく沈んでしまっているから、こういう「希望」を感じる、広がりのある明るい曲、作ってもらいたいな。なーんてな。
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by zuzumiya | 2011-04-25 00:25 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

近況などなど

新館立ち上げで職場のみんなが忙しくぴりぴりしているので、最近は漫画に癒されている。仕事で毎日、本を扱っていると本を読みたくなくなってくる。「好きなことを仕事にしない」というのもたしかに一理ある。ふつうに本を読んでいると、児童担当なので「児童本をどんどん読まなくてどうする?」と自分を責める声がする。だから、どどーんと漫画に逃げる。最近、はまってるのがフジモトマサルさんの作品。あの動物ばかりが出てくる濃い絵と不可思議な世界が好き。文章もあの雰囲気のままで面白かった(『終電車ならとっくに行ってしまった』)。以前から知ってはいたけれど、クラフト・エヴィング商會の吉田篤弘さんとのタッグで『という、はなし』から本格的にファンになった。今回読んだのは『夢みごごち』で、夢がどんどん次へとつながっていく奇想天外な話。次は『二週間の休暇』を買って読む。それからいつもお世話になっている益田ミリちゃん。『週末、森で』に今回も癒された。ミリちゃんの絵は余白が多く、さらりとしてスカスカだけど、そのぶん台詞がビシッと効くからそれがいい。自然のなかで生きる早川さんの含蓄ある言葉にマユミちゃん、せっちゃんと共にハッとした。これからはミリちゃんのエッセイも読んでいく。あとはお初の三好銀さんかな。『いるのにいない日曜日』を今読んでる途中。話とかはいいんだけど絵柄がいまひとつ好きじゃないか。漫画も写真もみんな何気ないエッセイっぽいものが好きで困る、広がらない。本は石田千さんの食のエッセイ『きんぴらふねふね』と熊井明子さんの『続・続私の部屋のポプリ』。熊井さんのは掲載されていた雑誌が『私の部屋』だし、私はどっちかっていうと『暮しの手帖』派だから、ちょっと私にしては上品すぎる世界かな。でも、ずっと神経が疲れていたから「日々のことづけ」の書き方,マインドを忘れちゃっていたので、短い文章を書く上で参考になってる。
音楽は象さんバンドのみ。つらい時はもう頼ってしまう。昔のように夜の公園を月を見ながら、ゆるい風をうけて、音楽を聴きながらとぼとぼ帰ってくる毎日。今回のツアーの選曲(特に新潟だったかな)がすごいようなので、6月もものすごく期待している。給料もらったらファンクラブ再入会するかな。もういいや、好きなもんは好きなんだから。はいはい、私にも2つの顔、ありまして。東京にいないだけで、なんだか淋しくなるぜい。
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by zuzumiya | 2011-04-23 19:19 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

あなたは誰とつながっていますか?

先日、研修でお世話になった館で歓送迎会の飲み会がありました。私は自館の新館オープンの忙しさで参加はできませんでしたが、そのことを知った同じ研修卒業生の一人が「あっちよりもこっちのみんなでこそ飲み会をやりたいなあ」ともらしました。最近、テレビでよく小田和正さんの歌を耳にします。「いちどきりの短いこの人生、どれだけの人たちと出会えるんだろう」「巡り会って、そして愛し合って、許し合って、僕らはつながってゆくんだ」小田さんの歌詞を聞いていてふと、自分が今まで生きてきた人生のなかで巡り会えたのに、どういうかげんかそのまま別れ来てしまった人々のことを思い出しました。たとえば、仕事仲間。職場が変わるたびにメールアドレスを交換し合って「また会おうね」と言いつつも、いつしか疎遠になってしまいます。たくさんの人々と出会い、助けられ、笑い合い、一緒にその時々を生きてきたはずなのに、自分の人付き合いの淡白さを少し省みています。先の研修生の何気ないひと言のように、期待を持って、新しく前に進もうとするあまり「今のみんな」を優先して、過去をふっと置き去りにしてしまうこともあるでしょう。でも、すべての出会いは限りある人生の、限りある機会のなかの、たしかな恵みなのだと小田さんの歌はあらためて教えてくれます。果たして自分はその恵みの真価と幸福にちゃんと気づいてこれたかどうか、わかりません。もう若くもないせいか、人生を振り返って「つながってゆくんだ」の言葉の深さにじんわりきています。
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by zuzumiya | 2011-04-23 17:51 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

いつかまた、笑って会えますように

4月9日の夕方、母の連れ合いが亡くなった。
夫と5つしか年が違わない、まだ60歳の早すぎる旅立ちだった。
末期癌の激しい痛みによく耐え、よく頑張ったと思う。
翌週の月曜の休みに病院にもう一度顔を出そうと思っていた矢先だった。
きっと彼は残された母のことを頼むと私に伝えたかったろうと思う。
それが本人の口から聞けなかったことが残念でならない。
でも、救急車で運ばれたあの時、不思議と「娘」と口走り、
手を握っていられたことだけが、今ではよかったと心底思える。
あの日は神様が用意してくれた二人のための日だったのかもしれない。
あんなことがなかったら、私は彼の手に一生振れることはなかっただろう。
思えば、彼はほんとうに私たち家族によくしてくれた。
新居で最初のクリスマスに招待したら、母と一緒に松戸まで来てくれた。
義理の母が長野からりんごを贈るたび、お礼の電話で必ず母の後に出てくれたという。
子供たちへの毎年のお年玉や誕生日、クリスマスプレゼント、その時その時のお小遣い。
豚足料理など珍しくて美味しい料理を作ってふるまってくれた。
貧乏な夫によくビールやウイスキーを分けてもたせてくれた。
結婚したての頃、義理の両親を新宿のエスカイヤクラブに招待してくれた。
私が入院するとどんなに遠くても必ず見舞いに来てくれた。
正月に挨拶に行くと「死ぬまで飲もう」と冗談を言って夫と酒を酌み交わしてくれた。
金銭的にもずいぶん助けてもらった。
彼は一度たりとも恩ぎせがましいことは言わなかった。
実の子でもなく、実の父でもない。
あいまいな、いつまでたっても、あいまいで不自然な二人だった。
埋められない溝、わだかまり、変な緊張。混じり合うことのない空気があった。
若い頃はずっと「母を咎めずにきた人」「過去を見ずにいる人」として、
ずいぶん恨んでもいたのに、
でも今振り返ってみると、こんなにも思い出ができていたことの不思議。
面と向かってはついぞ訊けなかったけれど、
今なら心のなかの声もちゃんと彼に届くだろう。
「ほんとは私のこと、どう思ってました?」
「娘と思おうとしてくれたんですか?」
そんなこと思っては、ふうわり笑ってみる。
そして、いつでも「ごめんなさい」と「ありがとう」が押し寄せる。

いつかまた、笑って会えますように。
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by zuzumiya | 2011-04-14 23:50 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

「悪気はないと思うんだけど」で許してしまっていいのか

たとえば「こんなキツイことを○○さんに言われたんです」と人に相談されたとき、相談を受けたほとんどの人がたぶん「相手には悪気がないと思うんだけど」と答えるんじゃないかと思う。相談された人はそのやりとりの現場に自分がいなかったから、あるいは、一方から話を聞いただけでその相手のことを悪くは言えないから、一応どちらの味方にもつかずにひとまず話を聞いて、できれば目の前の人の気持ちをうまくおさめられればと思ってそう言うのかもしれない。でも、「悪気はないと思うんだけど」と言ってしまうのは実は単なる自己防衛、ええかっこしいでないかと私は思う。厳密に言えば「悪気があるかどうかは私にはわからないけど」と言うべきだ。なぜなら、人の本音は誰にもわからないから。そして、こういう言葉で相談事にワンクッション置きたがる人にもう一度考えてほしいのは、「悪気がぜんぜんない」ということこそ、実はいちばん「許されざるべきこと」だということだ。悪気があるなら話はむしろ早い、悪気があるんだから。でも、いちばん困るのは悪気がないのにそういう嫌みったらしい、皮肉めいた、キツイ表現を平気でしてしまうということである。これはまったくデリカシーがないとしか言いようがないと思う。そしてデリカシーがない人のことを、なぜ多くの人が「悪気はないと思うんだけど」と庇うような発言をして流してしまうのかが私にはわからない。もし、ほんとに悪気がないのにそんな嫌みな発言をしているのならば、それは「言葉の使い方が大いに間違っている」と即刻、注意やアドバイスをする必要がある。そういう大事なことをよく考えもせず、その場しのぎ的に「悪気はないと思うんだけど」をさも優しげにサラリと言うのは不実である。そして、私はそういう発言を耳にするたびに「こいつ、親身になってるフリだけしてるな」「何にもわかっちゃいないな」と必ずがっくりくる。悪気があってキツイこと言うことより罪深いのは、悪気がなくてキツイこと言うことだということを忘れてはならない。悪気がないとしたら、ほんとに由々しき問題なのである。
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by zuzumiya | 2011-04-12 22:58 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

最近の読書から…

図書館でたまたま見つけて、遅ればせながらベストセラーの香山リカの『しがみつかない生き方』を読んでいる。心のどこかで「何かにしがみつきたがってる自分」を感じていたのかもしれない。つい、手に取ってしまった。
読んでみると精神科医の著者らしく、今を生きる老若男女の心の傾向と分析が丁寧にされており、大いに頷ける箇所がたくさんあった。特に最近、職場の若者のツンデレ的な言動や彼らから醸し出される独特の緊張感のことで「なんだかなあ」と思っていたので、「ああ、そういうことだったか」と合点が行く箇所もあり面白く読んでいる。


「最近では、就職活動中の学生の自己PR文を集め、その優劣を競う「自己PRコンテスト」なるサイトまである。そこには、「私は『滝を登る鯉』です。常に挑戦し、自分を高める姿勢を忘れません」「私は地域密着型ポータルサイトを立ち上げて、市内の主要大学やスポンサー等の関連企業に営業をかけ、最終的に月間二十万PVのアクセスと年間六〇〇万円の収益を生むサイトに成長させました」などと、これでもかというほどの自己肯定、自画自賛の言葉が「優秀作品」として並んでいる。(中略)自分のしていることを過剰なまでにアピールして臆することのない人が増えたのは、日本人の性格が厚かましくなったからというよりも、自由競争社会における自己防衛と言うこともできるのではないか。しかし、こうして若者たちがどんどん”自慢競争”に走り、採用を勝ち取って行く先には、いったい何が待っているのだろう。三年で辞める若者。社内いじめ。急増する二十代、三十代のうつ病と長期休職。過労自殺と労災申請の増加などなど、若者と企業との関係は、かなり悪化していると言わざるをえない。」
                   (第2章「自慢・自己PRをしない」より)


「やはり大きく社会の流れを変えたのは、世界的には2001年9月の同時多発テロであり、日本国内では同年4月の小泉純一郎首相時代の始まりだろう。この二つの問題が日本社会にどういう影響を与えたかについては(中略)あえてひとことで言うとすれば、「人間の狭量化が進んだ」となるのではないか。いつ自分がテロの犠牲者になるかわからない。少しでも自分と違う人は排除しておくに越したことはない。また競争社会になる中で、ちょっとでも弱い人や自分と違う人のために立ち止まっていては、自分が蹴落とされて"負け組”になってしまう可能性がある。だから、なるべく他者のことなど考えずに自分の安心、安全、進歩や成長のことだけ考えて生きるしかない…。(中略)自分とは少しでも違う行動をする人たちの心を想像し、理解することができなくなっているのではないか。(中略)ある瞬間で時間を凍結し、人々に「あいつも負け」「こっちは危険」と"負けシール"を貼っていく。そんなゲームが活発になっている印象だ。「タトゥーを取りたい? 後先考えずにそんなバカなことをするからだよ」と嘲笑する人たちも,その時点で「その人たちは愚かな敗北者」と決めつけ、同時に「私は違うから勝ち残り組」と認識することで、かりそめの安堵感を覚えているだけなのかもしれない。」
                   (第3章「すぐに白黒つけない」より)


この引用した二つの文章を読むだけでも、今の若者の、他人とやたらに自分を比べたがる、そしてすぐに人間関係を"競争関係"に仕立てて、瞬間的に優劣の白黒をつけたがる性急で狭量な傾向が見えてくる。誰かと比べて自分の優位さを少しでも探して周りにアピールしておきたいという躁的ポジティブさと同時に、ちょっとでも他人と比べて劣ったところがあると気づいたら直ちに萎えてノイローゼのように落ち込んでしまう鬱的繊細さもある。その二つが同じ若者の中に同居している気がする。別に誰と比べなくても悠々と平気でそのままでいられる自分というのは社会に出たらめったには出せない。「まあいいや、私は私で行くから」のちょっと引いたものの見方や肩の力を抜いたマイペースさはすでに周囲に対して戦線離脱の意思表示になってしまう。いつの頃からそんなことになったんだろう。たぶん「空気を読めない」という言葉が流行り出した頃からだろうか。周りに合わせて流れに乗って生きられない人はダメという烙印を押される風潮になって、他者との関係を過剰に意識しだして、その過敏さに疲弊して出て来た結果が今なのかもしれない。


リカ先生は第3章の終わりにこう書いている。

「直感が大切だが、あまりにはっきりと評価が決められることについては、むしろ「これは後になって変わるかも」と疑ったほうが本当はよいはずなのだ。そもそも人間のやることは、白か黒かはっきりしない、絶対的な正解はないもののほうが多いと考えるのがよいのではないか。(中略)「まあ、いまのところはそう思っているのだけれど、もうちょっと様子を見てみないと何とも言えないね」といったあいまいさを認めるゆとりが社会にも人々にも必要なのではないだろうか。そしてこの「あいまいなまま様子を見る」という姿勢はまた、自分と違う考え方、生き方をしている人を排除せずに受け入れるゆとりにも、どこかでつながるものだと思われる。」


まさに私もそう思う。職場の若者たちの、それこそ若気の至り的な傲慢さで、一瞬で人間の能力の優劣を判断する一刀両断なサバサバ感には手厳しいものを感じていた。
それはまさに「こいつよりは仕事が速いから勝ってるな、私の方が価値があるな」というささやかな安堵を必死になって追い求めている、そうしなければ不安でしょうがない哀れな姿である。この不況下だから「今度、契約を切られたら次はない」という危機感が拍車をかけているのもよくわかる。でも、一日のうち8時間も一緒にいる人間同士なのに、あまりに人間判断のピッチが速いし、肝心の判断を下すポイントも少なすぎるように思う。「仕事場なんだから仕事の能力でその人物の判断をして何が悪いの?」、そういう性急さ、狭量さがたしかに顕著になってきている。「大丈夫?替わろうか? 何だか大変そうだから…」人前で人を助けるふりしてその人の能力のなさをさり気なく周知させる巧妙さは日常茶飯事だし、「言いたい事はあるんだけれど、今言うとまたパニックになるから言わないでおくね」というやさしさにカモフラージュした嫌みもよく聞く。

しかし、暢気な上司には社員同士がそんな冷ややかな戦いをやりあっている姿は見えていない。「互いに助け合ってよくやっている」「気遣って仲がよい」と表面上は映るかもしれないが、実際は育つべきチームワークはこれでは育たないだろう。なぜなら周りは本質的にはぜんぶ敵だからで、そして敗者がいてこそ勝者が目立つというもので、勝者になるには敗者を何としても作り出そうとするからだ。あれでは精神的に毎日疲れるだろうな、としみじみ思う。そして「あの子はデキない子」というレッテルを誰かが貼ると、みなで共通認識化して、誰も「そんなことないよ、○○はできてたよ」などと言ってかばって剥がしてやろうとはしない。落ちこぼれがいる方が皆が「あそこまでは酷くないはず」と自分が思えて安心できるから、実は内心ありがたいのだろう。そういうからくりを誰もが知っていて、知っていながら「ぎすぎすして嫌だなあ」と鬱屈しているにもかかわらず、それでも正せない職場は数多くあるはずだ。ちょっと前からCMにやたらに「私へのごほうび」というキャッチコピーが数多く出たが、あれこそ背後には「社内ではなかなか誉めてもらえない私」「せめても自分で自分を誉めてやろう」という時代の気分をよく表している。近年「人を育てます」と堂々と言える企業が少なくなったが、リカ先生の言う「あいまいなまま様子を見る」ことが、もしかしたら案外「人を育てる」に直結していくことなのかもしれないなと私は思っている。育つかもしれない芽を切れ味鋭い刃で互いに焦って切り合うなんて、ほんとうにもったいない。

ところで私はやさしさはいちばんの強さだと思っている。なぜなら、人間は困難な状況に陥ると自分のことで精一杯になって、いちばん最初にまず他者へ向けるやさしさが失われてしまうからだ。そして、それはどうしようもないことだとも思っている。でも、そのやさしさをどんな状況でも心に持とうと思い出し、頑張る人はほんとうに強い人だと思う。やさしさみたいなほんのり淡い感情は、競争社会では何の役にも立たないのかもしれない。やさしい声は怒号にたちまちかき消されてしまうかもしれない。でも、ほら、ブルーハーツが「人にやさしく」を大声で歌ってくれたように、心からそういう強い人を若者には目指してほしい。
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by zuzumiya | 2011-04-11 17:09 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(5)

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