暮らしのまなざし

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みなさん、大丈夫ですか?

こちらは全員、怪我もなく無事です。
いろいろ書きたいこともありますが、明日から停電も始まります。
しばらく、更新を休むことにします。
みなさん、元気を出して、頑張りましょう。
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by zuzumiya | 2011-03-13 21:25 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

静かな掌

休みの昨日、朝7時に母からの電話で起こされた。
おそらく最後の外泊なのだろう、医者から特別に許可を貰って、数日自宅に戻って来ていた母の連れ合いが、どうにもこうにも痛みに耐えられなくなって、これから救急車で病院に運ばれるという。私も慌てて家を出た。

母は被ったカツラが浮き上がるほど明らかに動揺しているくせに「これでもう4回目なんだよ」とふっと言い切る醒めたところがあって、過去の経験からか「あたしが救急車に乗ってったら帰りがタクシーになるから、あんたが乗って。あたしは車で行くから」などとしっかり計算していて、何にも病状経過のわからない私が流れで救急車に乗るはめになった。救急隊員も「どなたかが乗って頂かないと万一の場合もありますので」と言う。「その万一の場合に妻であるあんたが乗らなくてどうするよ」と心の中で思った。

救急車の中で「ご関係は?」と訊かれて、一瞬言葉が詰まり、「一応、父になるのかな。血は繋がってはいませんが」などと返してしまった。「知り合い」という言葉が浮かんだのだが、この場ではあまりに冷たすぎるような気がして、そう答えたのだった。今にして思えば「親戚」という便利な言葉があったのに、たぶん、本来母が乗るべきところに私がいることの体裁を瞬時に考えたのかもしれない。
痛い、痛いと騒ぎながらもそのやりとりを聞いていたのか、連れ合いの彼は母のフルネームと名字の違う私のフルネームを酸素マスクからはっきりと隊員に伝えた。気まずかった。

救急車の揺れが結構、身体に響くのは乗った者にしかわからない。正月に急性の腸閉塞で運ばれた自分を見ているようだった。揺れるたびに
「いたっ、痛い、痛いよぅ、もうダメだ、もういい、もうダメだ」
と声を出しながら、動けるほうの右足だけ立てたり伸ばしたりもじもじする。そのたびに
「痛いの、そうか、痛いよなあ、でもがんばれ、病院へ行くからね」とか
「痛い? 痛いなあ、あったま来ちゃうよなあ、病院へ行って、痛み止め打ってもらおうね、あとちょっとの辛抱だからね」などと精一杯、声をかける。
そして、痛みのために何かを握りたそうにして宙を舞う覚束ない手を思わず握った。
最初、ちょっとだけ握り返してきた感覚があったが、痛みが引いたのか、あとはとても静かな掌になった。気がつくと、体温も低い。この静かさと体温を意識したとたん、死が過って、私に雑念が入って来てしまった。

痛みと闘う人を目の前にして、たしかに私は懸命ではあるのだけれど、どこか私の心のなかですうーっと引いて行くもう一人の自分がいる。それを掌の肌をあわせてしまうことで、相手に伝わってしまうのではないか、と急に怖くなった。
「私なんかが手を握っていてこの人はほんとに救われるのだろうか」
「一度はひどく憎んだこともあるこの私に手を握られて、安心なんてできるのか」
「ここへきて血の繋がらない子供なんて言って、財産を狙ってるみたいじゃないか」
「死神の使いに見えやしないか」
などと考える。考えていると、また彼に痛みが襲ってきて、じっとしていられない彼の手は私の手をすっとすり抜けて、宙を舞い、痛みがしぼんでくると時に自分の手をじっと見ていたりする。おそらくは指先に挟まれた酸素計測器が邪魔で気になるのだろうが、私には自分の手が死神にでも冒されて黒くなってやしないか確認しているようにも見える。

そんな雑念が入ってきても、目の前で手が弱々しく挙がると何度も促されるように手を握った。握ってはみたものの、そののち、力が、想いが込められない。完全に形だけ握っているような気がする。私の肌が拒んでいる。弱気になっている。いつの間にか浮き出た血管から死がこちらへ向かって流れてくるのが怖くなっている。彼が私の持ってるエネルギーや運を吸い取ってしまうのではないか、と思う。頭のなかで「偽善者だ」「冷酷な奴め」という自分を揶揄する声がした。

これが自分の夫や子供の掌だったらどんなに楽だったろう。力を込めて、祈りを込めて、そう、「彼の痛みを私に分けて。彼の皮膚から私に送ってよこして」「私の命のエネルギーを子供にあげて。いくらでもあげて」と必死に懇願できたろう。肉親の「死」に直面すれば、その土壇場において怖くはない、脇目もふらず必死だ。絶対、最後まで闘おうとする気がする。だが、母の連れ合いの彼の「死」はなにか別物なのだ。どうしてものめり込めない、こちらにもあちらの彼にも、通いきれない何かがある。それが二人の掌の静けさだ。痛みや死を前にしたこの瀬戸際にも、隔たりと躊躇がある。藁をもすがるあの掴み合う、握り合う感じの必死さが互いの掌にない。

ひとことで言ってしまえば、それが信頼関係というものなのだろう。愛情というものなのだろう。父でもなく、母の連れ合いとしか思わず、ましてや母の身勝手さを正さないことで恨んでもきて、長年付き合いもなかったのだから、と自分を正当化してみる。それでも多くの他人の患者の手を握る看護婦を思えば、戦場で死に行く兵士の手を握る救護班を思えば、自分はやはり冷酷な人間なのかと思ったりする。不思議なものだ。「助けなきゃ」と促されて、びくんと体が弾んで思わず手を握りはするが、その善性はまぎれもなく善性なのに、続かない。頭が介入する余地があるなんて、と思う。そして、そのことを恥ずかしく思う自分もいる。私はいったいぜんたい、どういう人間なのだろう。複雑だった。
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by zuzumiya | 2011-03-08 12:32 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

誰かが助けてくれたから、誰かを助けられるのかも

夜になってひとり「今日はどんな一日だっけ? 何があったっけ?」と思い出してみると、まず浮かんでくるのは情けないことに今日の仕事の失敗。「ああ…なんでもっと」と後悔して、しばし反省します。そして、次に浮かんでくるのはいつでも人から助けられたこと。不思議と毎日、誰かしらに助けられている(研修生だからというわけでもなく)ことがわかります。たとえば、お客さんの笑顔。こちらがカウンターから「こんにちは〜」と声をかけます。この挨拶だけは私の得意分野。まず誰よりも先に声を出しています。そうするとほとんどのお客様が「こんにちは」と返してくれます。頭を下げるだけでなく、言葉を返してくれることは思ったよりずっとうれしいものです。挨拶の大切さは、この言葉の行き交いの晴れ晴れとした気持ちよさなのでしょう。

それから、絵本を借りに来てくれる子供たちの笑顔。失敗しちゃったなとか、また素早くできなかったなと、しゅんとしている時に子供の顔がカウンターから覗くとホッとします。幼い彼らは決して文句を言わないし、苛つく態度もとりません。そうできないからではなく、何だかこちらの心を静かに見抜いてわかってくれているような気がします。保育所の時もそうでした。初めて先生になって、泣かれたらどうしようとドキドキしながら教室に入ってきた私を、慣れないところに来たか弱い動物のように子供たちが私の周りをそっと囲んで笑顔で迎えてくれました。あの瞬間、私は立場が逆転して子供に心を見抜かれ、判断され、仲間として許され、迎い入れられたのだと思いました。子供にはそういう不思議な感性があって「癒される」というより、私には「助けられる」と思えます。いつもは「子供なんてあんまり好きじゃない」なんて言うくせに、気弱になっている時は電車の中でも街中でも、必ずどこか不思議と子供の存在を目にして、ふっと温かな気持ちになります。助けられてるなあと思います。

それから、見るからにやさしいオーラの出ている先輩。気をつけて聞いているとやっぱり彼女も「だいじょうぶ」をよく口にしています。焦ったり、不安だったり、悩んだりしている人に一拍置くような「だいじょうぶ」という言葉。私はいいなあと思います。たぶん「落ち着いてね」と同じニュアンスなのでしょうけれど、「だいじょうぶ」と言われる方がずっと心が落ち着きませんか。そして、「だいじょうぶ」の言葉の奥には「私はだいじょうぶだから心配しないでいいのよ」の肯定の気持ちも入っているんですね。相手を苛立たせてない、困らせていないという気持ちがこちらの胸をどれだけホッとさせるでしょう。私も「だいじょうぶ」と周りの人に言って、安心させてあげられるようになりたいと思います。毎日誰かにこうやって助けられてるから、いろいろあっても最終的にはこんなにも心は穏やかで、そして穏やかであればこそ、家族にもやさしく接することができて、そんな私の笑顔が今日も家族の誰かをきっと少しくらいは助けてもいるのじゃないかな、なんて思えます。なんでもそうでしょうが、ぐるぐるまわってるんですね。
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by zuzumiya | 2011-03-02 22:47 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

情熱が運を引き寄せるのか、出会うべくして出会っているのか。

2日続けて休みが取れたので家のことをやりながらも精神的にすごく余裕が持てた。
やっぱり休みというのは大事なんだよなあ。
月並みな言い方だけど、自分らしさを取り戻すって感じ。
今日は地元の図書館に本を予約して、髪を染めてリフレッシュして、定期を買いがてら、今度移動になる新しい図書館をこっそり見に行った。
思った以上にこじんまりとして小さかった。なんか「こんなことはどうだろう」みたいな企画や夢ばかり描いてたから、ちょっと現実とのギャップに驚いてしまった。
でも、子供のコーナーは全面じゅうたん敷きなので和む。
外は雨模様で、子供はまだ一人しかいなかった。
ぺたんと座って絵本を見ていて、その姿にほっとした。
いいぞ、全面じゅうたん! ぜいたくじゃん!
雨の中、高田馬場で急に思い立って、映画を観に行くことにした。
今日は3月の1日。映画の日で1000円!
本屋で何十年ぶりに『ぴあ』を調べたら、新宿は時間的にもう無理。
食料品の買い出しが残っているので、あきらめて帰ることに…。
でも、乗り換えの駅について電車を見てたら、やっぱり諦めきれずに飛び乗った。
いちかばちかで行ったいつもの立川の映画館。最後の回の始まる10分前だった。
すごいよね。「○○したい」っていう情熱は引き寄せるんだよね、運を。
それとも、今日が出会うべき時と決められてて、出会うべくして出会っているのか。
館内で夫にメールを送った。
「夕飯の仕度はできていますので先に食べて下さい。
 お休みなので少し自由にさせてもらいます。よろしく〜。」
ほとんど人の入っていない映画館で、悠々と好きな映画を見られるこの至福。
独身にかえったようで、うれしくてしょうがなかった。
でも、観た映画は『毎日かあさん』。
面白くて、少しせつなくて、あったかかった。
気取らない、ありのままの、おおらかさ。
台詞がぴしっと決まる、西原漫画のいつものテイスト。
あのまねできないやさしい余韻。
映画が終わって、またまた思い立って、本屋で鴨志田穣さんの『酔いがさめたらうちに帰ろう』を買ってしまった。
それからあわててスーパーに飛び込んで、ひな祭りのちらし寿司の材料なんかを買って、バスに乗って鴨志田さんの本を読みながら帰ってきた。
休みの日はやりたいことやって元気に過ごすのがいちばん!
明日もまたいろいろあるんだろうけど、いいこともきっと起こるはず。
リフレッシュできたから、ちっちゃないいこと、この精神力なら見つけられると思うなー。
明日も頑張ろう。
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by zuzumiya | 2011-03-02 00:18 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

益田ミリ『どうしても嫌いな人』に溜飲を下げてもらう

ああ、今日はひさびさに休みっていう気がしたなあ。
とは言っても、実は健康診断で朝も早よから立川にいたんだけれど。
せっかくの立川なのにバリウム飲んでるから、映画も本屋も覗けなかった。
でもね、あんまり寒かったから、カフェみたいなとこじゃなくて、汁物が食べたくて、ひとりでラーメン屋に入った。カウンターでオッサンとアンチャンの間で堂々と餃子まで頼んじゃってさ。帰りはバスだっていうのに。
こんなとき、オバサンらしい図々しさがあるんだなあって、心の中で自分で笑っちゃった。仕事の時もこれくらい堂々としてられたらいいんだけどねえ。

この年で新人だから、若い子にときどき、ちくりちくりとやられる。
でも、仕事じゃ向こうの言うことがごもっともだし、入って1ヶ月じゃかなわないから、どうしても愛想笑い浮かべてへらへらしちゃう。向こうにしてみりゃ「笑ってる場合じゃないよ、わかってんのか、このオバサン!」なんだろうけど。

私ね、いつでも思うんだけど、若い子って仕事がテキパキできるのがそれがすべてって感じの価値観なんだよなあ。会社においてそれだけを求めてる。「それだけのどこが悪いんですか!会社って仕事をするための場所でしょう? 私はそれだけでいいです!」ってズバッと言い返されそうだ。いろんな人間がいて、いろんな想いを持って、いろんなペースで同じ時間を働いてるっていうことを忘れてしまうのかな。

以前にも書いたことがあったと思うけど、社内の世代間断絶ってあんまりいい事じゃない気がするんだよね。飲み会を誘っても若い子は平気で断るでしょ。まあ、若いんだから予定もあって無理にとは言わないけど、ほんとのところはウザイんだろうなあ。「仕事終わってまで、なんで上司の説教、聞かなきゃいけねえんだよ」「仕事とプライベートはきっちり分けたいんです」って思うんだと思う。

たしかに飲んで説教臭くなるのはまいっちゃうけど、なんでこの人こんなこと言い出すのかなあと思って、よくよく聞いてみると、そうねえって頷けるところも1つや2つはあるもんだ。誰かの話に耳を貸すってことはその人の「人となり」を知ろうとすることで、ちょっと大げさな言い方をすれば人間ってやつを、人生ってやつを少しでも知ろうとすることにつながる。そういう人間臭さはふだんの仕事ではなかなか見えづらい部分だろう。どんな人にも物語はあって、人生があって「頑張って生きて来たんだなあ」って思える根本の共感性って、一緒に何かを作り上げていく上で大事なことだと思うんだがなあ。
「そういうものに縛られると面倒だし、正直、効率が下がりません?」ってまたズバッと返されそうだな。

だから、私は飲めなくても誘われれば飲み会いに行く。みんながお酒でいい感じに酔っぱらって、ふだんでは言いそうもない爆弾発言をしたりして、ちらっと本音が見え隠れする。「この人、ほんとはこんなとこあったんだ」っていうのが、今まで知らずにかけていた自分の色眼鏡を外させてくれるかもしれない。仕事では見えづらかった、あるいは評価に至らなかった「その人の良さ」がわかるようになるかもしれない。お酒の力を借りて気が大きくなって、手を叩いて大いに笑って喜び合って、仲良くなれる。そういうひとときって、私は「よかった、よかった」って単純にうれしく思えるんだけどな。こういうの若い子は馴れ合いって言うのかな。

先日はあまりにも「なんだよ、その言い方」って思っちゃったから、たくさんの甘いお菓子と一緒に益田ミリの『どうしても嫌いな人』っていう本を買って帰った。そしたら共感しまくりで、いつもながら「ミリちゃん、いい味出してるなあ、うまいなあ」って思った。どこかのお偉い先生の人生訓とか心理学系の本とか読むより、友人にべったりくっついて愚痴をえんえん聞かせてしまうことより、益田ミリのコミックエッセイ(←ジャンル、合ってる?)の方がずうっと心に沁み込んでくる、「そうだ、そうだ」って溜飲が下がる。ここで紹介しようと付箋をつけてたらいつものとおり、いっぱいになっちゃったので、うんうんって思った箇所をもう限定で2カ所だけ引用しとく。

「キツく言ったら、キツく言われたことだけが残るんだ
 素直に直すなら優しく言えばいい
 上に立つ人間は面倒くさがってはいけないんだよ」

「嫌いな人のいいところを探したり、嫌いな人を好きになろうとがんばったり、
 それができないと自分が悪いみたいに思えて、また苦しくなる。
 逃げ場がないなら、その部屋にいてはダメなんだ(中略)
 あの人を嫌いなわたしも間違っていないって思ってもいいよね」

なんだそうです。
でもね、私の場合は入ったばっかだし、まだこれからだから、私が「日々のことづけ」でも書いてきたとおり、「人間関係において可能性を捨てないでおこう」と思う。ちゃんと相手のいい所もその都度、ピンっときてるし、探さなきゃ見えてこないというわけでもないので。こちらからガードを築くことだけはやめて、親しみをもって向き合おうと思う。

こんなふうに結論づけられたから、今日はやっぱり、いい一日だったよなあ。
明日も実はお休み。いろいろ勉強しようと思う。

それではみなさん、明日もいい日になるように頑張りましょう。
おやすみなさい。
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by zuzumiya | 2011-03-01 00:26 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

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