<   2011年 02月 ( 13 )   > この月の画像一覧

最悪の状況ばかりを想像したがる「マイナスの想像力」を断ち切りましょう

幼い頃に大人たちの揉めている中に育つと、子供はその後の成長過程や大人になってからも人間関係にちょっと苦労するようなところがあると私は思っています。例えば、両親の夫婦喧嘩が絶えなかったとか、親類やご近所とのトラブルが絶えなかったとか。そういういざこざの多いなかに育つと、ちょっと人間関係で何か起こるたびに常に悪い方へ頭でシュミレーションしてしまうようになります。もしこう言われたら…と口論や喧嘩を想定して、勝手にどんどん悪い状況を想像してしまう「マイナスの想像力」がついていきます。そうなると相手をますます嫌いになって、ストレスの渦に巻き込まれてしまいます。それから、潜在的に喧嘩や口論を嫌うために相手へうまく自分の要望や不満が伝えられなくてため込んでしまい、「ヘラヘラしていて自分の意見がない人」「八方美人」「いい人ぶってる」などと誤解されたり、そのことで相手をイラつかせたり、最終的にはそんな人間関係が辛くなって自分の方から関係を絶ち切ってしまうか、ささいなきっかけで収拾のつかない大喧嘩に発展してしまったりします。だから、子育てをしている最中のご夫婦にはほんとうに心穏やかであってほしい。子育てと仕事の両立の忙しさ、苦労は時に二人だけだった頃の夫婦の笑顔を奪ってしまうものかもしれません。でも、いつでも家族の不幸のために動いているわけじゃなく、幸せのために頑張っていることの根本を思い出し、支え合って笑顔と信頼を取り戻して欲しいと思います。子供のその後の長い人生の生き癖、ものの感じ方に深く関わってしまうことなのですから。そして、残念ながらすでにそういう生き癖のついてしまった私のような大人たちへはただひと言。可能性を信じないで、最悪の状況ばかりを想像したがる「マイナスの想像力」をぷちんと断ち切りましょう。
[PR]
by zuzumiya | 2011-02-28 14:38 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

置き手紙の効用

何か新しい事を始めると生活のリズムが変わったり、緊張感が加わったりして、毎日が慌ただしく過ぎていくものです。いつもだったら余裕でできていたことがまるっきりできなかったり、そもそも気が行かなくなったり、とにかく疲れて何もできずダウンしてしまったり。家族の中でそういう切羽詰まった人が一人いると何となく家全体の空気も変わってきます。我が家では家族の誰かが疲れていそうだなあ、気持ちが荒れていそうだなあと伝わってくると、会話をするというよりも置き手紙で気持ちを伝え合います。先日も私が疲れのためダウンしてしまい、翌朝起きてくると食卓に夫からの励ましの置き手紙がありました。広告チラシの裏に走り書きされた簡単なものですが、うれしいものです。私も休日の朝だけは寝かせてもらっているので、代わりに「行ってらっしゃい、今日も頑張れ」と夜のうちにメモ帳に書いて食卓に置きておきます。こんな置き手紙のやりとりをもうずいぶんと我が家ではしてきました。引越しの際に夫が私の走り書きした置き手紙に日付を書いて捨てずにとっておいてくれていて、感動したこともあります。娘の書いてくれた励ましのメモの切れはしをお守りとしてバッグに入れて仕事へ持って行ったこともあります。今は便利なメールがあるのでいつでも好きな時に気持ちのやりとりできますが、朝、食卓の上に見つける置き手紙は本当にうれしく、朝いちばんに励ましてもらって、一日のいいスタートが切れます。
[PR]
by zuzumiya | 2011-02-24 21:17 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

自分を信じること。そのいちばん難しいことで日々闘っている。

情けない話ですが、この世の中でいちばん厄介で難しいことは、自分を信じることだと常日頃からひしひしと感じています。私にとって自分自身が最も扱いづらい、いいところもあるとは控えめには思うんですが、やっぱり悪いところ、すぐに逃げ腰の、弱いところが自分としては目立ってしまいます。今までの人生を振り返って思い起こしてみても何が問題かといえば、いつだって目の前の優秀な彼や彼女の存在じゃなく、実はうまくコントロールできない自分自身の歯痒さであり、理想の自分自身とのギャップでした。でも、この世の中にどれほどの人が自分に自信があって、いつでも堂々と優雅にしていられる人がいるのでしょう。自分自身のダメなところに悩まずに揺らがずにいられる人なんているのでしょうか。アスリートたちの「記録を作るのも自分、それを超えるのもまた自分」という孤独な闘いをアスリートでない普通の私たちだって、日々の暮らしのなかで実はやっているんです。みんな「自分を信じる」そのいちばん難しいことで、日夜、挑戦し、自分と闘っている。自分を見放さず、いつからでも育ててやりたい、よくなっていきたい。可能性を信じて、さあ、明日も頑張りましょう。
[PR]
by zuzumiya | 2011-02-23 21:46 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

恨むということ、許すということ

今日はこれから母の連れ合いの見舞いに行く。
母の話によると彼はもう癌の末期を宣告されて、先は長くはないという。
父親でもなく、夫と5つしか違わない彼のことをいつでもどう接していいのかわからなかった。生きてきた世界も私たち夫婦とまるきし違って、会って話しても話題に困り、話も盛り上がったためしはなかった。ずいぶん長いこと目もまともに合わせられなかったように思う。結果、彼が家にいるときは自然に足が遠のいたし、彼が帰ってくると入れ替わりにそそくさと私が帰った。母が家柄のいい彼と周囲の反対を押し切って再婚する時(母は水商売のママさんで、9つも年上)に、当初私という子供の存在を隠していたというし、バレてからもそんな私がちょろちょろ現れては、財産目当てだと思われるのが心外だった。
今日だって正直に言えば、死に行く人に何て声をかけていいものかとても悩んでいる。ただ、今日はひとつのことをどうしても謝まらなくてはならないと思っている。

母が初婚の彼と結婚式を挙げようとしているとき、体裁を考えて祖父母に出席を頼もうと実家に電話がかかってきたことがあった。
当時小学生だったろうか、私は電話に出て、その話の内容に激怒した。母は私の父と離婚をして私を実家に置いて、再婚して種違いの妹まで作り、その幼い妹(まだ3歳だった)をまた捨て、再々婚の勝手を繰り返してきた。そんな母に対して「何が両親揃っての結婚式だ」「いまさら誰が幸せを祝えだ」と猛烈に腹を立てたのだった。
背後には子供心に祖母が毎日自分の食事を抑えてやりくりし、私を大学まで行かせようと苦労している事実を知っていたからでもある。母とは電話口で大げんかになった。何度かかってきても断固として私は電話を祖父母にとりつがなかった。その後、今度は連れ合いの彼から電話がかかってきた。新婦方の親類が少ない上に晴れの結婚式に両親ともに欠席というのは、あまりにも哀れと思ったのだろう。

私はいびつではあったが根は純な子供だったし、私を置いて養育費も払わずやりたい放題だった母だけが皆から祝福を受けて幸せになろうとするのがどうしても許せなくて、頑になっていた。何度も彼から祖母に電話を替わってほしいと頼まれてもその都度、ガチャンと電話を切った。込み上げてくる怒りと悔しさと悲しさを説明しようにも、子供の私にはうまく説明できず、育ってきたさまざまな想いを他人にわかってもらうには話が長過ぎた。大人にはいつでも「親があって今のあなたがいるのだから、感謝しなきゃ」としか言われなかったし、幼い私は産んでもらった命があるというだけでいつでも言いくるめられた。

私は泣きながら、祖父母に母の結婚式に出ないでほしいと懇願したが、結局、叔母たちの度重なる説得に応じて祖母は私に隠れて式に出た。そんな祖母を後から知り「結局おばあちゃんも母親なんだよなあ」と当時の私は呆れたが、面白いことにあのちゃらんぽらんのユニークな祖父だけは「かずみが可哀想だ」と最後まで言い張って頑として行かなかったという。

「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」のとおりに母への恨みつらみが連れ合いの彼へまで及んだこともあった。私の知るかぎり、子供を何人も置いてきた母を責めたてるまっとうな大人は誰もいなかったし、母のお金に魅せられて寄ってくる友人のように、連れ合いの彼も過ぎ去った過去は過去として見ようとはせず、人間として敢えて母に問うことも過ちに一緒に向き合うこともなかっただろう。それは私にとっては許せないことだった。今の彼が半身不随になったうえ、癌の末期を宣告されて、もうすぐ最期を迎えるようになるのも、もしかしたら私の幼い頃からの積年の恨みや他にいる姉や妹たちがいまだにどこかで母を恨んで、不幸にも自分の人生を生きえていないから、その恨みを彼が一身に受けてしまったのではないかと思えるときがある。母を庇う者や頼る者のいない一人に、孤独にしてしまうことこそほんとうの贖罪への道なのかもしれないのだから。

とにかく、あの幼い日の電話の件だけは謝っておきたいと思う。たしかに私は子供だったが、「母親が幸せになるのがそんなにも嫌なのか…」と沈んだ彼の頃が今も耳の奥に残っている。普通に育った彼には理解できないことだったろう。
今の私は人が幸せになるのを別に羨ましくも妬ましくも思わない。善人ぶってカッコつけるわけではないけれど、みながそれぞれに幸せになればそれでいいと思う。前にも書いたが、いろんなことが許せるようになってきた。カチンと一瞬くることはあっても、それが相手への憎しみや恨みになどにはつながらず、逆に獏たる哀しみや憐れみをつれてくる。人にキツイことを言ってのけれるこの人の背後は、生まれ育ちは、人生には何があったのか、今は果たして幸福なのだろうか、寂しい想いはしていないだろうか、ふっと考えてしまう。

昔は私も「一生恨んでやる」という言い方や思い方を母によくしたものだが、今それを誰かに言われても、憐れみの気持ちしかない。恨むという言葉のほんとうの重みを人生を何十年も費やして知っている私は、ひょいと口に出してしまうその人の軽やかさが哀れでしょうがない。きっと何か別のことでも人生がうまく運んでいないのだろう。でも、非常に憤慨しているということと恨むということの重さは全く違う。恨むということはそのことに対して人生の何かを犠牲にしてでも、極端でなく人生を棒に振ってでも思いを曲げず貫くことだ。年がら年中よくないことがあるたびに思い出し、そのせいにして、その都度激しく憎み、あらためて震えるほど怒り、自分は何も悪くはないのだと棚上げし、そこから反省も学びもせずいっさんに逃げさることだ。それほどまでして、自分と人生を何かに縛られ囚われてもいい覚悟があって、はじめて人に向けて言える言葉が「恨む」という言葉なのだと思っている。

私は肉親を恐ろしい勢いで恨んだり、それゆえに生まれてくる自己否定や自己嫌悪、自暴自棄で苦しんできた人生だっただけに、人を求める強さも人一倍あって、愛されたいと思い、どこかに一人くらいは自分を見捨てずに心を通わすことのできる、わかってくれる誰かがいるはずだと希望を持って信じてきた。それを生きるよすがとして小さな頃から諦めないでいた。それで出会えたのが戦友とも呼べる今の夫だったし、彼と家族とのこのささやかな暮らしのなかから、人生で重要なすべては今も学んでいるのだと思う。人はそんなに多くのことを学べないし、いくら難しい哲学書を読んでも人生訓をいくつ知っていても、自分で行動して得た実感として心に深く刻まれたものしか残らないのではないか。
天国の門のところで「お前は何を学んできたか」と訊かれて目を輝かせて答えたいと思っている最大のことは、だから私にとっては「許す」ということだ。幼い頃たしかに人を恨み、悲しい想いも苦しい想いもしたけれど、夫と家族と生きるささやかな日々のつらなりが結局は幸せというものであり、その繰り返しのうちに何もかもを許せるようになっていたという不思議に今とても感謝している、このことを幸福な人生だと伝えたいと思っている。

話がだいぶ逸れてしまった気がするが、母の連れ合いはいきなり謝る私にどう接するだろう。残された時間のうちには、彼もきっと母のことで私にあらためて話をしてくるだろうと思う。そのとき、ようやく今まで聞けずにいた彼の本心が聞けるような気がする。彼と何もかもとっぱらって、はじめて人として向き合える気がする。死ぬ間際なんて何と遅いことかと思う反面、これほどまでに時間が必要だったのだとも思う。
[PR]
by zuzumiya | 2011-02-21 23:43 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

旅人はつねに上を向いている

ふと空を見上げたら、月が出ていました。そして、月のそばにはきら星が。明日が休みのせいもあって、心に少しだけゆとりができたのでしょう。微笑みながら月と星とを見上げて歩きました。朝日新聞の「定義集」で大江健三郎さんは以前、こんなことを書いています。<『神曲』三篇すべての終わりの単語が星stelleであるのは、旅をする者がつねに上を向いている姿勢の強調で、ダンテは実人生でもそうあれ、と読み手に熱心に勧めている(exhortしている)>これを読んだ時、瞬時にそうかと思いました。「旅をする者がつねに上を向いている」なんと希望のある言葉でしょう。まったくそのとおりです。旅の途中で時に道に彷徨いさすらいもするけれど、夜空の星を見上げては自分の位置や進むべき方角を知る。旅人の目は旅を続けるため、生きていくためには常に上を向く必要があるのです。彷徨いながらも俯く顔を上げ、空に希望を探す旅人。私たちもきっとそんな旅人だと思うのです。かつて「同じ星を見ている」と歌ってくれた人のその想いが今ようやくわかった気がしました。
[PR]
by zuzumiya | 2011-02-14 00:26 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

みんなへの手紙1

こんばんは。おひさしぶりです。みなさんはお元気でしょうか?
私はもう、ほんとに仕事を憶えるのに大変で、毎日が慌ただしくて精神的にゆとりがありません。通勤電車の中ぐらいは何とか自分の時間にしようと思っているのですが、そして借りた本はみないい本なので読み切りたいと思っているのですが、ぜんぜん思うようになりません。
詩集なら読めるかと荒木スミシの『光集め』を持って乗り込むのですが、眠気が襲ってきて読めないんです。でもね、「私も同じこと考えてたよ!」とか「日々のことづけでそれを書いてたんだよ!」って、共感できてうれしくなる詩が多くてよかった。それだけで気持ちが勇気づけられてずいぶん明るくなりました。
ロイ・アンダーソンの「散歩する惑星」のDVDも最後まで見れていません。しかし、あの監督の撮る人物というか画面というか、白塗りの感じは何なんでしょうね。独特で面白い映像です。「毎日かあさん」も見てみたいな。
でも、こんな忙しい時に俳句の仕事も来てくれました。うれしいような悲しいような。もう週2日の休みもなくなりました。

私の働いているところは区立の図書館なんですが、図書館ってちょっと優雅な感じに見えるけど、本当はものすごく仕事量が多いんです。雨の日だって雪の日だって、お客様は来て下さるし(雪の日にわざわざ返却に来てくれたお客様には感激しました)、土日はまたファミリー層も多い。新人の研修の入ったカウンターはもうてんてこまい。
バックヤードの督促電話の仕事も緊張するし、予約本の処理の仕事も大変。本は重いし、返却ポストまで階段を駆け上がらなければならないし、意外と肉体労働だったりします。あらためて、いつも借りている地元の図書館の人にわがままを言ったりして、ほんとに感謝の気持ちを感じています。
もう少し、仕事がちゃんと憶えられたら、きっと心に余裕ができて、以前のようにいろんなこと感じたり、考えられるようになるでしょうけど。でも、ここ何日かのカウンターの修行とメモの整理と清書をして、何となく端末操作に掴めてきたなと思うところもあって、頑張れそうな気がしています。
そうそう、自分の本が働いている区内の図書館2館にあってくれたのですが、1つの図書館ではなんと「汚破損」となっていて、そんなに多くの方が手に取ってくれる本とは思えないので、また良からぬことを想像して、それだけでもちょっと落ち込みました。本は大切にしましょう(苦笑)。

身体の方は大丈夫。こんなに忙しいし、寝不足でもあるのに頭痛もしません。
今日の午前中にNHKで放送していた無縁社会の話に感動しました。
「小さな幸せはほんとうは大きな幸せなんだよ」っていう歌を教会で歌っていた自殺未遂の経験者。涙が出てしまいました。図書館で働きだしたくせに、実はいまNPOの仕事にいま、とても興味を持っています。自分にも何かできるんじゃないか。というより、何かしたくなっている自分がいて、何かがきっと近い将来始まるような予感もして、自分でも不思議です。
メールを下さった方々、返事が遅れていてすみません。これから書きます。
とにかく、毎日頑張っています。そんななかでも歌のように、小さな幸せを探して、それで「だいじょうぶなんだ」と笑って顔を上げられるように明日も生きてみましょう。
仕事を憶えているときに思うのは、昨日までわからなかったことが今日「ああそうか」とわかったりして、毎日少しずつでも進んでいるんだな、動いているんだなと思えることです。髪の毛だって、爪だって、一日数ミリずつ伸びています。細胞は日々生きようとして生まれ変わっていくんです。新鮮であろうとします。
みんなドカーンとは行きません。本来はみな小さな、ささやかなことばかり。そういうもののなかに生きている。
神は細部に宿るというじゃないですか。小さなささやかなことを見つけられる、それで良しとする生き方が結局は幸せに近いと思います。
明日も頑張りましょう。みっともなく情けなくじたばたしながら、何かをさがそうとしている人はここにもいます。ひとりじゃないです。
おやすみなさい。
[PR]
by zuzumiya | 2011-02-13 00:04 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

みんな、いつもありがとう。

いつも「暮らしのまなざし」を読んでくださってありがとうございます。
「日々のことづけ」が何とか200を越えました。毎日の私の暮らしのなかで見つけた小さなささやかな言葉たちです。明日へのことづけとして書きながらも「そんなふうになりたいな、そんなふうにしよう」と自分自身に言い聞かせてきたものばかりです。実感もあり、理想もありです。
それとは別に、ブログらしく日々の近況のようなものを肩の力を抜いて書きたい気持ちもあって、「ブログらしく近況」やら「日記のような近況」やらその都度タイトルにしてちょこちょこと書いてきました。私はもともと手紙調が好きで、PCの向こうの不特定多数の人を思い描いて言葉を紡ぐいうより、一対一の手紙のやりとりのように書いていけたらいちばん素直で楽しいんじゃないかと思っています。そこでいわゆるブログみたいな、今日のできごとみたいな内容は「みんなへの手紙」というタイトルにして、これから書いていこうかなと思います。「みんなへ」で始めるけれども、気持ち的には顔は見えないけれど今パソコンの前にいるあなたに向かって書く、そんなつもりです。いかがでしょう?
[PR]
by zuzumiya | 2011-02-08 22:17 | ごあいさつ | Trackback | Comments(0)

公共図書館のこれから

公共図書館のカウンターに立ってみて、しみじみ思うことがあります。毎日毎日、時には朝に夕に図書館に通ってきてくれる常連さんのおじいさんがいるのですが、いつでもカウンターの職員たちに笑って話しかけてくれます。毎日来てくれているのですから、会話は本のことというより他愛もない話だったりします。それから朝、寒いなか図書館の入口の前で開館を待っているお客様もいて、姿を見かけるたびに「失敗しても怒られても、今日も頑張らなくちゃいけないな」と胸が熱くなります。開館のチャイムが鳴るのと同時に、何人ものお客様がふうーっと息を吐きながら朝刊を手に、いつものテーブルのいつもの指定席にやってきます。電子書籍が広まったら、公共図書館の先行きはどうなるのかという不安もあるようですが、こういうお客様を見かけるたびに図書館の場の役割の重要性をひしひしと感じます。極端な話でなく、毎日の生活の一部に公共図書館がある、そのことの意味を考えます。孤独死や30代40代まで長引く引きこもり、虐待の事件の増加など、無縁社会と言われる中で、公共の施設である図書館も、もっともっと人と人との繋がりを創造する場になれると私は思っています。図書館もそういう視点から新たな試みをどんどん企画して、本や読書にかかわる情報提供だけでなく、人と人が巡り会い、暮らしの中で安心できる大切な居場所として定着できるよう、積極的に地域社会に働きかけて行くべきだと思います。もうすでに私のなかではいくつかのアイデアが浮かんでいます。
でも、まずは仕事をマスターしてからですね(笑)。
[PR]
by zuzumiya | 2011-02-08 21:37 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

日記のような近況

忙しくて精神的にあっぷあっぷ。毎日、本を扱っているせいか、楽しみとして本が読めない。やっぱりこうなると思った。地元の図書館から4冊も届いている。
みなどれもいい本。さらに日曜版で読みたい本『しづ子』(娼婦と呼ばれた俳人の鈴木しづ子の評伝)と写真集『散歩の収穫』(赤瀬川原平著)を見つける始末。ああ。
それでも絶対、井坂洋子の『はじめの穴終わりの口』と荒木スミシの『光集め』だけは読むつもりだ。
特に荒木スミシの詩集は最初のページにブライアン・イーノの「自分のこころのなかよりももっとよくなれる可能性のあるものをつくること」という言葉が載っていて、びっくり。不思議な縁を感じる。

ついにようやく金魚の水槽を洗った。それから仕事優先のため、髪を本格的にショートにした。
デキャンタで水栽培しているヒヤシンスから白い根が伸び始めて、ピンクの花が覗き始めた。うれしい。
夕飯は久しぶりに鍋。娘の大阪みやげのソース味のぬれ煎がおいしい。うれしい。
明日もまためげずに頑張ろう。
[PR]
by zuzumiya | 2011-02-08 00:46 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(2)

ほんとに今日一日、嫌なことだけだったのかな?

新しい生活が始まって6日経ちました。苦手なことがあって、うまく行かないことだらけで、先輩に迷惑をかけて「どうしてこんなに自分はだめなんだろう」と落ち込む日々が続いています。そんな中、ふと気がつきました。「だめだなあ」といったん自分で思ってしまうと、どんどん身体が強ばって、心は引いて、以前出来たことも出来なくなって、より一層惨めになるような出来事を引き寄せてしまいます。いわゆる「泣きっ面に蜂」状態です。だからいちいち「だめだなあ」と自分に思わせて、わざわざ余計な蜂を誘い込まないこと、「だめだなあ」を振り払うことが重要です。
そして、電車の中やお風呂で一人になった時に「ほんとに今日一日嫌なことだけだったのかなあ」と思い出してみます。自分をにこっと笑わせたり、俯いた顔をちょこっと上げさせたり、一瞬ほっとさせられたり、元気づけたりしてくれる何か、ほんのささいな何かが嫌なことの中にもあったんじゃないか、と思い出すのです。
私の場合は、たとえば、公園を歩いていると臘梅のいい香りが風に乗ってくること。
河津桜が膨らみはじめていること(桜に自分を重ねて希望を持って眺めています)。
朝焼けがきれいなこと。
「電話って緊張するんだよねえ」と慰めるように言ってくれた先輩がそうっと詰めていた息を吐いたので、一緒になって緊張してくれていたのがわかった瞬間。
電話の先のおばあさんの声がとてもやわらかだったこと。
いつも朝一番に会う清掃係の男性と笑って打ち解けて話ができたこと。彼が励ますようにそばにきて掃除してくれること(勝手にそう解釈するようにしています)。
先輩が何度も私のためにお客様の真似をしてカウンターに来てくれたこと。
分類を勉強していた甲斐があって、本をすぐに探し出せたこと。
絵本を読み聞かせする母と子の姿に癒されること。
落ち込んでる真っただ中に友人から吹き出しちゃうような面白いメールが届いたこと。
テーブルに夫からの励ましの手紙が置いてあったこと。
好物のコーヒーゼリーが冷蔵庫に買ってあったこと。
渡る信号すべてが青だったこと(進め!って励まされているみたい)など。
こうやって書き出してみると結構あるものです。毎日、「あーあ」と思うことは避けられないけれど、そして嫌な思い出の方が心を支配しがちだけれど、よくよく探せばいいことも素敵なことも起きているものです。幸せを感じたり、引き寄せたりするためには、まず楽観的であること、そう思います。
[PR]
by zuzumiya | 2011-02-07 00:45 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)


ふだんの暮らしに息づいているたいせつなもの、見つめてみませんか?


by zuzumiya

プロフィールを見る
画像一覧

S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28

※このブログの無断な転載はご遠慮願います。

最新の記事

男たちの話
at 2017-10-16 17:16
よだかがここにもいた
at 2017-10-15 17:15
休んでも忙しかったってどうい..
at 2017-10-10 21:37
ネコメンタリー、いいよ。
at 2017-10-09 16:00
フケ顔読書
at 2017-10-09 08:05

最新のコメント

検索

ブログジャンル

画像一覧