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空の写真

検査が終わって病院の玄関を出たら、
ビルの向こうに鮮やかな夕焼けが広がっていた。
先日、離れて暮らす息子のブログを覗くと、
雲間から陽射しの光がうすく放射状に伸びているきれいな写真を見つけた。
他にも何枚か空の写真が載せてあった。
息子は写真が趣味で、テーマは昔から光であることが多い。
コメント欄には亡くなられた中村ハルコさんの写真集『光の音』を見るようにと残した。
「空の写真は誰でもそれなりに上手く撮れるもの」と言われている。
けれど、こういう清々しい澄んだ瞬間を逃さず撮れたのも、
彼が日頃から世界を注意深く見ているからだと感心した。
でも、ふと、ほんとにそれだけなのだろうかと想いが過った。
人が空を見上げる時とはどんな時だろう。
今の私のように、どこかホッとしてゆったりとした気分の時。
あるいは逆に「あーあ」と思わず口走ってしまうような落ち込んでいる気分の時。
大雑把に考えても、うれしい時と悩ましい時の両極端しかないような気がする。
息子はこの空の写真を撮る前に、ひとりで道を歩きながら、
果たしてどんな気持ちで空を見上げていたのだろう。
できれば、うれしい方の気持ちであってほしいと親心がうずく。
空の写真は見る者に清々しさを与えてくれるが、
同時に撮る側の心の内までこんなふうに想像させもする。
どちらの心も透けさせてしまう魔力があるのだろう。
息子の空の写真を見た時、瞬時に明るい希望を感じた。
シャッターを切って、満足げに微笑む息子の顔が見える。
彼の心の内にもあの光のような希望が宿ってありますように。
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by zuzumiya | 2011-01-31 00:05 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

しょうの流「CM天気図」〜CM変換期・商品CMなのにさり気なく企業CM〜

朝日新聞の朝刊に「CM天気図」という小さなコラムがあるのをご存知だろうか。毎回、コラムニストの天野祐吉さん(元『広告批評』の編集長で、私が一期生だった「広告学校」の校長先生でもあった)が独自に注目するCMを取り上げて、いろいろ面白可笑しく書いてらっしゃるのだが、90年から始まって今回どうやらそのコラムが1000回を迎えたらしい。まずは天野さん、おめでとうございます。
それで、朝日新聞の26日の朝刊の「オピニオン」のコーナーに大きく「CM天気図1000回」とあって、6段にも及ぶ大スペースで天野さんの貴重なご意見が載っていた。

内容をざっと紹介してみる。(< >内は天野さんの言葉の引用です)
お得意の大正〜昭和初期の「スモカ歯磨」の片岡敏郎から始まって、60年代のアンクルトリスの開高健や山口瞳の名コピーの話、そして日清カップヌードルの「ハングリー?」やJR東海の「そうだ、京都、行こう」のシリーズ、BOSSの「宇宙人ジョーンズ氏」やソフトバンクの「白戸家」のシリーズなどを例に出しながら、
<時代の空気をいきいきと映しとっているCMほどヒットするし、ヒットすることで、それだけその商品を世の中に押し出す役割を果たす。面白いということは広告の必要条件なのだといっていい>と断言する。
じゃあ、これから広告はどうなっていくのかという質問に、86年にヒットした明石家さんまが一人で歌う「しあわせってなんだっけなんだっけ、ぽん酢しょうゆのある家さ」のCMが2009年にも再登場したことをあげて、86年の段階で、物を買ってもちっとも豊かな気分になれない、むしろ虚しいという消費者の気分が時代のなかにあって「しあわせってなんだっけ」のコピーを突きつけられたのだけれど、それがなんと2009年までずっと続いていたことを証明してみせている。今後は大量生産・大量消費の20世紀型の<経済の成長よりも生活の質を第一に考えるようなモデルに大きく変換しなければならない>として、またそうであるがゆえ、<20世紀型の生活像を描くのに広告は先導的な役目を果たしてきたが、その大きな書き換えにも力を発揮できるかどうかが、いまは問われているんだと思う>と天野さんは語っていた。
                  
私ももちろん、天野さんのあげたBOSSやソフトバンクのCMは面白くて大好きなのだが、最近のCMを見ていると、やはり変わってきつつあるのかなあと思っている。
個人的な好みもあるだろうが、市川準さんがCM界からいなくなられて、市川さんのやり方とは違うが、明らかにCMにやわらかなタッチのものが増えてきているように思う。CMにそれこそ「癒し」のような類いのものが増えてきているのだ。昔は目立つことがCMの最大条件だった。映像も出てくるタレントもジングルのような音楽もみんなそう。がんがんに押せ押せムードだった。それがこのところ、めっきり映像も音も静かにおとなしくなった。足し算ではなく引き算のCMが増えてきたようで、その変わりように驚いている。

アフラックのCMを憶えているだろうか。クリスマスバージョンだったか、まるで「みんなのうた」のようなシンプルなアニメーションに子供の声で拙く可愛らしく歌っていた。それからちょっと前まで流れていた宮崎あおいちゃんのシリーズも「今日も誰かの誕生日。ハッピバースデイー、誰かさん〜」と歌ってくれていた。私は自分の誕生日にあれを見た時、やっぱりうれしくて泣きそうになったものだった。
アステラス製薬の「120文字のアステラス」シリーズのあの文字や線描だけのシンプルな画面にピアノの音。私が見たのは「患者さんからの手紙」篇だったが、研究者生活21 年目にあたる製薬会社の研究者が患者さんからの手紙をMRに見せてもらって、胸にぐっときたというちょっといい話。会社側の人間がお客様とのこういったやりとりの中で感じた素直な想いを120文字で綴っている。そこへ「明日は変えられる」という希望あるコピーも効いて、企業の懸命さや誠実さが見る者にすんなり伝わってくる内容だ。

それから企業精神といえば、今、東芝が素晴らしいことをやってのけている。
東芝日曜劇場で今月から始まった「冬のサクラ」というドラマ。Smapのクサナギ君が今井美樹さん演ずる記憶喪失の女性に「大丈夫ですよ」と何度も声かけするシーンがある。物語のなかで実にその「大丈夫です」の台詞が温かく心に沁みた。「いいよなあ、この大丈夫という言葉」とひとりごちていたら、後に流れたCMを見て驚いた。
日本初の白物家電(冷蔵庫、洗濯機、掃除機)国産1号機80周年の記念CMとして「母親の目で見ると」篇と「父親の目で見ると」篇の2つが今流れているのだが、そのなかでどちらもやたらに「大丈夫」という言葉が台詞で使われているのだ。最後に「ママゴコロ家電」のCMでもおなじみの天海祐希さんのナレーションで「今も昔も『大丈夫』と笑って家族を守る人の力強い味方になりたい。(中略)東芝は『大丈夫』のエールを送り続けてきました。その想いは今もあなたのママゴコロ家電に受け継がれています」で締めくくる。

天野さんのコラムの記事が載った日にも新聞の全面で東芝の国産第1号の掃除機の広告があり、コピーは「日本初の掃除機から80年。東芝は「大丈夫」と笑って家族を守る人に、ずっと「大丈夫」のエールを送ってきました。」とある。つまり、東芝日曜劇場のドラマとCMなど広告全体が完全にこの「大丈夫」の言葉と精神でリンクしているのだ。そしてその背景に何があるかといえば、不況によるリストラ、学生の就職の超氷河期、政治への不信感、虐待事件、国家間のやまらない紛争、異常気象など私たちの心に積もりに積もった不安があって、みんなが誰かに「大丈夫」と言われて安心したがってるそういう時代の気分があるように思える。東芝はそこを実にうまく衝いている。ツイッターでも早速、誰かがこの「母親〜」篇がいいと呟いていた。私も心温まる好きなタッチのCMだが、何より企業の時代の空気を読むその鋭敏さと現在の商品にまで落とし込むうっとうしくない歴史や伝統の見せ方、そこに変わらぬ企業精神を伝え込む巧みさにクオリティの高さを感じて、好感を持っている。

それともう一つ。これは究極の静かなCMといえる。音楽の流れていた記憶はあまりないのだけれど、もしかしたらあってもほんとに邪魔にならないくらい静かな音楽がBGMで流れていたかもしれない。サントリーウエルネスのサプリメント、「グルコサミン&コンドロイチン」のCM。いたわり合う夫婦の静かで穏やかなひとときの映像にほっこりする。
以前のバージョン「野良仕事から帰る夫」篇も旦那さんである俳優の左右田一平さんが栗をいっぱい収穫して帰って来て、それを庭先で犬と奥さん役の香川京子さんが迎え入れて「栗ごはんにしましょうね」「うん」と微笑むだけのを見た憶えがあるし、現在流れている「道に荷物を置く主婦」篇も、奥さんがひとり、道で両手に持った重そうなスーパーの袋を置くと、向こうから自転車を押しながらやって来た笑顔の旦那さんが「おい」と声をかけ、二人で夕日を浴びながら橋の上をゆっくり歩いていく。奥さんは「ありがとうございます」という台詞だけ。二人の姿に「いたわる。ささえる。」のコピー。
もの凄くシンプルで、ドラマというドラマのない、日常の単なるひとコマに完全に徹した仕上がりのCMなのだ。初めて見たときから、このCMらしからぬさり気なさ、静けさに驚いてとても気に入って、ひそかに「これこそ今を表すCMだ」と思っていた。

まあ、ひっきりなしにがちゃがちゃとうるさいCMや番組の流れるテレビのなかで、ここまで豊かな静寂と穏やかさをたたえていれば逆に「アレ?」と目を引く、耳を引くとも言える。でも、この何でもない日常のありがたみ、元気でつつがなく毎日を送り、その毎日の中からささやかな楽しみを見つけられる幸せ、それを誰かと分かち合えることに感謝すること。それこそがこれからの暮らしのほんとうの豊かさだと教えてくれているようでもある。貧乏だけれど夫婦で支え合って生きていた「ゲゲゲの女房」旋風が巻き起こったのも、このグルコサミンの夫婦シリーズのオンエアー時期と重なっているのも面白い。中高年というセグメントされた対象に向けたものであるとはいえ、きちんと時代の空気や気分、人々の好もしさを敏感に感じとり、控えめでなく必要十分に表現できていたと思う。

私が選んだどのCMもどちらかといえば、従来の攻めのCMというよりみんな「癒し系」である。きっとテレビの前で、私を含めて人々は誰かに「ハッピーバースデイ」と歌われて祝福され、出会えたことを喜ばれたいし、「明日は変えられる」と信じて頑張っている人をやっぱり信じたいし、「大丈夫」と言ってもらって安心したいし、日々の暮らしのなかで、大切な人の笑顔に出来るだけ長くふれていたいと願うものなのだろう。今のような先の見えない不安ばかりが続くのこの「時代の疲労感」をこれらのCMは従来の足し算型の鼓舞する方法ではなく、何とか少しでも癒そうと試みているようで、その健気さが企業の真面目で真摯な努力や誠実さのアピールにもつながっていて、「CMは面白くなくなった」と言われ続けてきたが、「いえいえ、そんなことはございません。より深く考えられて作られていますよ」と私は言い返したくなる。天野校長、そうは思いませんか?
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by zuzumiya | 2011-01-30 12:59 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

メモ欄のお願いについて

悲しいことにブログのメモ欄に著作権についてのお堅い文章を載せなければいけなくなった。私が過去に書いた文章が私に無断であるサイトに転載されていることが昨日わかった。名前を出してネットという公の場所で書いてきたことなので、内容について恥と思うことはないけれど、残念ながら悪意のようなものを感じている。
世の中にはいろんな考え方の人がいて、公の場で文章だけでコミュニケートしようとするのだから初めから無理もある。文章だけで判断され、噂が噂を呼び、歪められ、私にはそんなつもりは毛頭ないのに敵も作ってしまったのだろう。親しみの情はあっても迷惑や不快感を与えるつもりなどもちろんなかった。そんなムダな意地悪やストレス発散は私はしない。ブログでものを書くことの覚悟について、2008年から2009年にかけては思い知った。「何をどう書いてももうこの気持ちのままに素直に届かないんじゃないか」の不安と諦めとともにやめたブログだった。その文章を勝手に転載されたことは本当に残念でならない。

その一方で、私に書き続けることの大切さやアドバイスや励ましの言葉をかけてくれた人もたくさんいた。その方々には再びここで感謝したい。ありがどうございます。ネットから出て、直接会ってお話できた人もいた。そういう人との繋がりがあるから、私は今でもここでこうして書くことができている。「根本的に人が好きで信じていて、『届く!』と信じていなければ表現することはできない」いうことも、そして私自身が本来そういう人間であり、どこかどうしようもなく楽観的であり、すべてを悪くはとらないこともよくわかった。これはよいことだと思う。

ただ、あらためてここで書いておきたいことは、ネットの世界だけではなく実生活でも私は気をつけているし、そしてこのブログでは何度も書いてきたつもりだけれど、噂は噂でたとえ耳に入っても、必ず色眼鏡を外して自分の目で見て、自分の感性や自分の勘を信じて最終的には自分で判断すること、それが重要だと思っている。
それから、人間は多面的であることも忘れてはならない。ブログに書かれていることが私の断片や一部でもあるけれど、それがすべてではない。エッセイはすべてがノンフィクションとも限らないことや歌詞に書かれていることがアーティストの実生活で起こったこととは限らないのと一緒だ。ネットは非常に便利だけれど、人を気短にした。人を知るのに「てっとりばやく」はいけない。私のネームカードの「ひろい心とながい目で」というのはそういう意味も込めている。少しずつでいい。顔の表情も見えない、声も聞こえない文章のなかだからこそ、誤解も衝突もあるかもしれないけれど、地道にゆっくりわかり合えたらといいと思う。
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by zuzumiya | 2011-01-29 11:19 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

夫婦の時間

もうずいぶんと夫婦だけの夕餉が続いている。
ふたりだけなのでほんとにささやかだ。
昨日のおかずの残りがあればそれでじゅうぶん。
新たにおかずらしきものを作ることもない。
まるで老夫婦のように、
テレビのニュースを横目にそよそよと食事をする。
私はすぐに食べ終え、夫が食べ終えたのを見届け、
ふたりでお茶をすする頃には、テレビは騒がしいので止めてしまう。
夫は十数冊にもわたる長編の歴史小説のようやく五巻めを、
私は小さな町でおこるさまざまな人間模様を描いた外国の小説を、
テーブル越しに、それぞれ子供が座るべき空いた椅子に足を放り出して読む。
聞こえるのは時おり強まったり弱まったりするヒーターの風の音と、
加湿器のしゅうしゅうと吹きあげる蒸気の音だけ。
夫の物語は陰謀に策略に、戦いに美女の誘惑に…なんだろうか。
私の物語は外国の海辺ののどかな風景が続く。
そのうち、たまらなく眠くなってくる。
うとうとして意識が遠のくなかで、
しずかすぎる夫婦の時間を思う。
詩人の天野忠は、
「結婚よりも私は「夫婦」が好きだった。
 とくにしずかな夫婦が好きだった。
 結婚をひとまたぎして直ぐ
 しずかな夫婦になれぬものかと思っていた。」
と書いたが、私もこの出だしを好ましく思っていた。
天野忠は三十年経って、ようやく夢見た「しずかな夫婦」になれたらしいが、
私は二十一年で、うっとりするほどじゅうぶんなしずかさを手に入れた。
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by zuzumiya | 2011-01-25 22:40 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(3)

家族の食卓を撮る

おとついのNHKの「トップランナー」に映画監督の荻上直子さんが出ていた。
荻上さんといえば『かもめ食堂』や『めがね』で有名、最新作は字幕の『トイレット』。脚本も監督も両方やって、女優もたいまさこさんを撮らせたら今やピカイチの方。フードスタイリストの飯島奈美さんを一躍有名にしたほど、彼女の映画といえばごはんのシーン。実に自然であたたかみがあって美味しそうに撮れている。

インタヴューでは、人間を描きたいがためのごはんのシーンであって、ふつうに人の暮らしの中にあるもの、人と人との距離を縮めるものと答えていた。
話を聞いていて、いちばん印象に残ったのは、最新作『トイレット』でのごはんシーン。餃子を家族みんなで作って庭で食べるのだけど「すごく幸せそうで、その一方ですごく儚い感じ。みんなで一緒に作って、食べて…。だけどその幸せな時間が長くは続かない感じが出てる」のだそう。

たしかにそうだ。どこかの車のCMで「家族の時間がなんたらかんたら」というキャッチコピーがあったように思うが、家族の時間は過ぎてみるとほんとうに短い。
子供が中学生や高校生ともなれば、部活やら塾やら習い事やらで家族みんなで揃ってごはんを食べることが少なくなってくる。休日だって、家族より友達どうしのつきあいを優先されてしまう。ファミレスでよく見かけるような「前を向いて食べなさい!」「ほら、こぼさないの!」なんて子供をどやして、母親が自分の食事より子供の世話が忙しくてごはんが何処へ入ったかわからないような家族の食事の風景なんて、いま思えばほんとに懐かしい。
車もそう。家族や子供の友達まで乗せていたファミリータイプのバンなんて、すぐにいらなくなる。家族で夏休みの旅行も行かなくなるし、息子の野球やサッカーの仲間たちをどかどか乗せることもなくなる。いつしか夫婦でスーパーへ買い物に行くだけになって、軽自動車ですべてことが済むようになるものだ。ほんとに家族の時間なんて短い。そして荻上さんが言うようにそれは儚いものだとしみじみ思う。

私はドラマや映画や市川準さんのCMなんかの、家族で食卓を囲むシーンで、
たとえば
  母 「お父さん、はい、お味噌汁、熱いですからね」
  息 子 「親父、醤油とって」
  母 「おじいちゃん、袖、お味噌汁に浸かりそうです」
  娘 「お母さん、目玉焼きは半熟って言ったのにぃ、もう〜」
  母 「ごめんごめん、ちょっと忙しくて蓋とるの忘れてて」
みたいな会話のやりとりが大好きで、特に「親父、醤油とって」のなかにある一本の醤油差しを家族みんなで順に手渡しで回すときの、あの待ってる感じ、分け合う感じの間合いというかがほんとに「家族の食卓」の醍醐味だと思っていて、いちばん愛すべき瞬間だと思っている。
自分が食事のシーンを作るなら、必ずこの「醤油とって」を忘れずに入れるだろう。
幸せそうで、でもだからこそ儚い感じ。まさに家族そのものにあてはまる。
「美味しそう」「ほっこりする」「癒される」と評される荻上作品だけど、新たなキーワードとして憶えておいていいと思う。
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by zuzumiya | 2011-01-24 11:40 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(6)

春を呼び込む

職場の同僚が昼休みに買い物に行き、菜の花を買ってきました。「おひたしが大好物なの」そう明るく笑う彼女に、春へ向かって確実に季節が移り変わっていくことをふいに教えてもらえた気がして、うれしくなりました。寒いなあと思いながらも公園を歩いていると線路端にきれいに咲いたロウバイ並木が続いています。頭上の裸木にもごく小さくですが、芽のふくらみらしきものが見えてきました。花屋の棚にはヒヤシンスの水栽培のポットが並び始めています。瀬戸物売り場には早々と可愛らしい小さな雛飾りも出始めました。春は少しずつでも近づいています。今年の春は去年の夏の猛暑のために杉の花粉が10倍も増えるとか。花粉症やその予備軍の人はそんなニュースにさぞかし気鬱になることでしょう。春が嫌な季節になってしまわないために、少しでも暮らしのなかに春の楽しみを見つけてゆきたいものです。私は花屋さんでロウバイをひと枝買ってきて香りを楽しんでいます。次はヒヤシンスの球根と育てるためのガラスの花瓶を雑貨屋さんで探そうと思っています。そういえば、職場の若い子がピンクのスウェードの靴を履いてきました。小物からそっとピンクを使っていくのも春を呼び込むようで素敵です。
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by zuzumiya | 2011-01-23 17:36 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(2)

近況11

Facebookのマーク・ザッカーバーグ氏の映画『ソーシャル・ネットワーク』、話題ですねえ。でも日本のこれだけ匿名を好む国民性では浸透するはずなどないと思うのだがどうなるんだろう。私なんぞこうやってブログをやっているが、書けば書くほどエレカシの『男は行く』の「ああ、青蝿のごとく小うるさき人達よ 豚に真珠だ貴様らに聞かせる歌などなくなった」の心境と『花男』の「きさまに言うこと何もない、聞きたいことも何もない、俺は口もと笑いうかべてきさまを信じるさ」の心境の間をうろうろしてる…。ブログに書かれていること=その人のすべてであるとか、思い違いじゃないだろうか。
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by zuzumiya | 2011-01-23 13:13 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

笑わせてくれるぜ、ザ・クロマニヨンズ!

身体のことがいろいろわかってから、何だか急にしょんぼりしてしまった。
2月からは新しく生活を始めなくちゃならないというのに、おいおい、どうしたよ!
いつものハッタリは何処へ行った? 
せつなさは好きな感情だけれど、そればっかじゃな、カビが生えちまう。
そんなとき、私はクロマニヨンズのCDをでっかくかける。
そして、ヒロトやマーシーと一緒にハモりながら台所で踊りながら歌うんだ。

「ただ生きる 生きてやる
 呼吸をとめてなるものか
 エイトビート エイトビート」   (『エイトビート』)

彼らのメロディは憶えやすく、乗りやすく、盛り上げ上手で、とにかく明るい。
彼らの歌詞は簡単で、大らかで、やさしくて、面白くて、すっとんきょ。

「南南西 積乱雲が 発達中 大きいぞ
 ハッ!! ハッ!! ハッスルする!!」 (『南南西に進路をとれ』)

私は昔、保母をやっていた頃、パラパラが流行りつつあったときに、保育所ですぐさまパラパラをお遊戯に取り入れた。クロマニヨンズの音楽はときにあの頃のことを思い出させる。私が今保母であったなら、確実に彼らの『ドロドロ』や『ニャオニャオニャー』や『ナントカドン』や『むしむし軍歌』や『南南西に進路をとれ』なんかをテキトーに振りつけて、子どもたちと足踏みならして踊るだろう。
面白ければ、なんだって、やる。
楽しければ、なんだって、やる。
新しければ、なんだって、やる。
私はそういう先生だった。保育室からアンパンマンや「おかあさんといっしょ」じゃなくて、ロックやレゲエやスカが流れるのもいいと思うんだけどなー。
そういうこと心から許してくれるなら、もう一度先生やってもいいんだがな。
とにかくクロマニヨンズを聞いてると、元気がでちゃう。
面白くて、いつの間にかむきっと笑っちゃう。歌で笑わせるって、すごいことだ。
もっと、もっと、もっと、元気をだそう。昔みたいに大声で笑おう。歌おう。

「真冬の電柱よりも
 冷たい雨にぬれて
 オレは核ミサイルだ
 飛び出すぜ 飛び出すぜ
 飛び出しちゃうぜ 」

いいよなあ、飛び出しちゃうぜー!
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by zuzumiya | 2011-01-21 22:07 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

夕暮れに…

見上げると澄んだ空に小さな雲のかたまりがふたつ
端をピンクに染めて浮いている。
「ああ、今日も一日終わったなあ」
なんだかほっとして、駅からの帰り道、ゆっくりと人について歩いていく。
鴉が鳴き交わしている。
自転車に乗った高校生たちがおしゃべりしながらやってくる。
「今夜のおかずはさて何にしよう」
頭のなかで洗濯物を取り込んで
台所で忙しく立ち働いている自分を思い浮かべる。
灯りをつけて、ストーブで部屋を暖めて
夕餉の仕度のいい匂いをさせて、帰ってくる家族を待つ。
そんな何でもないいつもの暮らしがなぜだか無性にいとおしい。
すれ違った高校生の男の子が友達に
「また、明日な」と言った。
ふいに飛び込んできた言葉に明日が来なかった同僚を思い出す。
重なる枝の向こう、家々の屋根にきれいな夕焼け。
今日が終われば、普通に明日がくること。
そんなこと、当たり前すぎて、さっきの高校生は考えもしないだろう。
           
夫が探し物で古い書棚を開けたら、私のアルバムが出てきた。
なかに幼稚園の卒園式の集合写真があって、
担任の原先生がおばあちゃんの肩を抱いて、二人とも満面の笑みで映っていた。
たくさんの着飾った母親たちが居並ぶなか
原先生はまんなかでおばあちゃんの肩をぎゅっと引き寄せている。
母親がわりに孫を育てるこれからを思って
「おばあちゃん、まずはここまでよくがんばったね」
おそらくはそんな気持ちだったんじゃないか。
ありがたくて涙が出た。
あの頃、幼い私は何も知らなかった。知らずに育ててくれていた。

あまりに普通で、いつものことで、毎日おんなじで、
気にもとめない、何にも知らない。
そんなふうにして、しあわせに暮らしてる。
そうしてきっと、いつかそのことに、ただ泣けてくるんだ。
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by zuzumiya | 2011-01-18 23:10 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

一緒にいて感じのいいあの人の秘密

そろそろ、新年の初々しさの効力が薄れて来た頃ではないでしょうか。今年の抱負、目標、決めたとおりに続いていますか? 私は「備忘録日記」をなんとか続けています。歩いたり走ったりも身体の調子を見ながら続けています。年のはじめに行ったコンサートでは、最後にアーティストが「今年はいい年になるぞー」と明るい言葉でしめて舞台を去って行ってくれました。あの言葉がとてもうれしくて、暗示の力かそう言われるとほんとに良い年になりそうで、印象深く憶えています。希望ある言葉、明るい励まし、笑顔の安心。そういったものが人の心をほんとに素直にし、一人じゃないんだとあたためてくれます。「だいじょうぶだよ」「よかったねえ」「きっといいことあるよ」なるべく長く、忘れずにいつでも、そういう心が軽やかになる言葉を人にかけていきたい。そして、やっぱり笑顔でいたい。誰も仏頂面や険のある顔には近寄って話しかけようとは思いません。笑顔のいい人がみんな好きなのです。そういう人のそばにいて、自分も安心して肩の荷を下ろして笑いたいのです。あの人は好きだな、いい人だなと感じる人というのは、たぶん、悪い言葉を口にしないことや誉めること、笑顔でいることを心がけている人なのではないでしょうか。 
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by zuzumiya | 2011-01-17 17:33 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(2)


ふだんの暮らしに息づいているたいせつなもの、見つめてみませんか?


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