暮らしのまなざし

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「他人の幸福過敏症」にかかっていませんか?

最近ある作家のエッセイに「女に生まれて、母になり、こんなかわいい子供たちを産めてうれしく思っています」という新聞の投書に対して、「無邪気に自分のしあわせを宣言されるとびっくりする」「自分のしあわせは自分だけ知っていればいい」「文句のつけようのないことを正々堂々と言ってこわい」とその作家は書いていて、びっくりしました。たしかに最近は保護者会でも、人前で子供のことをやたら謙遜せずに「きれい好きです」と堂々と褒めたりする親が多くなりましたが、でもだからといって私は「ほほう、それはよかったですね」と思うだけで、子育てがうまくいってる自慢が嫌みだとかその幸せを羨んだり、ましてや文句をつけてやりたいなんて思ったことはありません。この作家はきっと「他人の幸福過敏症」に罹患しています。人がうまく行って喜んでいるなら「ほほう、それはよかったですね」と笑って、右から左に受け流せばいいことではないでしょうか。

※うまく行ってたり、幸せそうな人と自分とを比べてイライラしたり、ダメだと落ち込む のはまったく意味のないこと、さもしいこと。すぐにやめましょう。
※よそ見してないで「自分の」幸福過敏症になりましょう。 
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by zuzumiya | 2010-08-31 19:51 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

子供にせがまれて花火を買う前に

この時期、夜の公園をウォーキングしていると必ず花火をしている人々がいます。中学生の男女が騒ぎながら手持ちの筒花火を振り回して追いかけっこをしたり、小さな男の子にせがまれてロケット花火を舗道のベンチから何発も打ち上げる暴挙に出る母親もいました。先日も舗道を夫と歩いていて、いきなり30代ぐらいの若い父親が手持ちの筒花火を空に投げ、それが風に流されて私たちの頭上近くに寄せられたことがありました。思わず奥さんが「危ない!」と漏らしましたが、私もついに頭に来て「危ないですよ」と声を荒げました。子供の喜ぶ顔見たさに花火をやってやりたい気持ちはわかります(ほんとは花火禁止の公園です)。でも、公園内には他にも人がいること、100%事故を起こさないとは言い切れないからロケット花火や打ち上げ花火はできないこと。ちゃんと子供に説明すればいいのではないでしょうか。子供の前で親を叱るなんてことしたくはありません。

※花火を買う前にどこでやれるのか場所をきちんと確認するべきです。公園でも河原でも 意外と花火をやれる場所は少ないものです。
※子供のまえで大人がハメを外してどうする?です。煙の流れ、火の始末、音、騒ぎ声な ど大人が気を配っていることを子供にもきちんとわからせましょう。 
 
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by zuzumiya | 2010-08-30 19:25 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

ATMの冷酷女

最近、腹が立つことといえば、機械に指図されることである。
今日、会社の仮払金を下ろそうと銀行のATMのボックスに入った。仕事の道具やら書類がわんさか入っている鞄の中から、あるはずの通帳と財布を見つけ出そうと、懸命にがさごそ引っ掻き回していたら、
「恐れ入りますが、画面の上にものを置かないでください」
沈着冷静な女性の声でぴしゃりと言われた。
こっちは、やたら鞄をごぞごぞしているのをカメラに怪しまれやしないかと気にしながら必死になって探しているのに、なんて突き放した物言いかとカチンときた。見ると、たしかに画面の端に私のバッグが乗っている。だが、ほんのちょっとだ。
つい、腹立ちまぎれに
「はいはい、わかりやしたよ」
と嫌味ったらしく口走ってしまってから、隣に男性がいたことを思い出した。
カーッと耳まで赤くなった。なんで、機械にこんな辱めを受けなきゃいけないんだと、またむくむく腹が立ってきて、「だったら、私みたいなヌケ作用に十分に鞄を置いとける台でも作れってんだ」と腹の中で毒づいた。
その後、慣れない大金に「どーしよ、銀行の封筒に入れる行為は、いかにも大金をおろしましたって感じで目立つし、かといって、会社の金を財布に入れるのもなあ、それにパンパンになっちゃうし」とまごまごしていると、
「カードと現金をお取りください」
すかさず、冷酷なツンケン女がせっついてくる。
「わかったよ、わかったってば」とお金は封筒に入れることにして、封筒を探すと、ない。「あれ、封筒どこだ、どこいっちゃった? いつも、この辺にあるのに、あれ?」
またしてもまごついていると、
「ピコン、ピコン、ピコン、ピコン…」
今度は警告音が鳴り出した。
私はこのウルトラマンみたいな警告音が大嫌いだ。お金をおろした本人はまだ目の前にいるっていうのに、なにもそんなに大きな音を鳴らさなくてもと思う。これじゃ「お金をおろしました、たった今、お金をおろしました!」って周囲に教えているようなものじゃないか。そして周囲の注目を引きつけといて、さらに「さあ、この後、この人はお金をどのように仕舞うでしょうか、とくとご覧あれ!」と言っているように私には思えるのだ。
私はこの音と音量にいつでも恐れおののき、情けないことにいっそう慌ててしまう。
そして、とりあえずこの音を止めたい一心で、札をわしづかみにし、震える手が怪しまれるぞと思いながらようやく反対側に見つけた封筒に入れ、誰も私を見ていませんように、と祈りながら、そのままくるりと振り返ってATM機を後にする。あんなに注意していたのに、手には大金の入った封筒を持ったまんまだ。やれやれ。
ちきしょーと思う。やられたーと悔しくなる。すべてはあの、ATM機から響くやけに沈着冷静な冷酷女の声のせいだ。ATM機にはしきりはあるし、必要以上によその人を近づけさせないように、並ぶ位置までテープを貼って指定してある。いかにも「個別対応をします」と見せかけといて、その実はぜんぜん個別に対応してくれていない。人にはそれぞれペースってものがあるのに、パッパッと機械的に(機械だから当たり前か)、すこぶる事務的に進められてしまう。ちょっ、ちょっと待っておくれよ、なんて許さない。機械を前に「さあて、いくらおろそうかな」とあらためて悩むことも許さない。あんまり悩んでいると、おそらくは例の女がしびれをきらして、
「はじめからやり直してください」
と指図をして、べろりとカードを戻してくるだろう。
3回だか暗証番号の入力に失敗すると怪しまれてそのカードは使えない、というのを聞いた覚えがあるので、暗証番号を押すのだって、すごくすごく気をつかっている。番号を押す手元を後ろの誰かに読まれて、暗証番号がわかっちゃうんじゃないか、とヒヤヒヤしている私はいつでも番号をひとつ押すたびにくるりと指で輪を描いて、突き止められないようにしている。そういう小心者の私なのに、そして、いつでも残高照会をしないと今銀行にいくらあるのかわからない数字に疎い私なのに、ATM機の女はほんとうに冷たいことこのうえなしである。
切符売り場で、機械の前に来てからはじめて
「えーと、八王子まではいくらだべ」
なんてまごまごしているおばあさんを昔はひどくバカにして、迷惑がっていたけれど、なんだか最近はそんな気になれない。切符売り場で切符を買うたびに機械に、
「黙っていてくれてありがとう」
と、妙にほっとしている私である。
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by zuzumiya | 2010-08-30 13:26 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

外面のいい冷蔵庫

やりたくないのに、つい、やってしまうものがある。
冷蔵庫のドアに磁石でお知らせプリントをやたらに貼り付けてしまう。
これである。家族で撮ったビデオを見ていて、ふいに冷蔵庫が映ると、あちゃーと思う。まったくもって所帯じみている。まあ、所帯は持っているので仕方がないのだが、なんというかビンボーくさいのである。みすぼらしいのである。スタイリッシュでないのである。女性誌やインテリア雑誌なんかでは、ときどき、オシャレっぽくポストカードを2、3枚貼り付けただけの冷蔵庫が出ていたりする。しかし、うちの冷蔵庫には、もっぱら子どもたちの学校のプリントがどさどさ重ねられて、業務用のようなごっつい強力磁石で留められている。いったい何が貼ってあるのか、貼っただけで安心してしまって本人ももう忘れているので、この機会に調べてみることにした。

年間行事予定
夏休みの生活について
7月の給食献立表
防災の日の引き取り訓練について
規律ある学校生活を送るために
青少年の健全育成のために(プール開放日などが書かれてある)
M学生服立川店の電話番号
ハローワークのチラシ
M耳鼻科の電話予約のやりかた
エビグラタンの食べ方
ゴミの分別表
駅時刻表

壁にくっついている背面を除いて、冷蔵庫のすべての面にはこれら「お知らせプリント」がびらびらと貼り付けられていた。本来はシンプルな白い冷蔵庫なのだが、夥しい量のわら半紙で、遠目にはベージュに見える。
以前、ラジオかなにかで聞いた覚えががあるのだが、風水では冷蔵庫にものを貼ったりするのは縁起が悪いらしい。子どもが学齢に達してからというもの、手が離れるどころか、より一層手がかかるような気がして滅入ることが多かったり、食費やら教育費でどんどん貧乏になっていってしまうのは、もしかしたら冷蔵庫にものを貼るからかもしれない。この機会に何とか整理をし、すっきりとした元の白い冷蔵庫を取り戻そうと思うのだが、このプリントの中のどれをとってみても捨てられないものなのだ。そもそも大切であって、必要なときにすぐに見られるようにしたいから、冷蔵庫なんかに貼り付けてある。バインダーに綴じたり、ファイルに入れて、本棚にしまっておけるようなものは何一つない。

しかし、本当にそうだろうか。もう一度ここでよく考えてみる必要があるのではないか。たとえば「必要なときって、過去にどれだけあったか」という点である。
7月の給食献立表。悲しいことに重ね貼りされている中のいちばん下にあったが、かつて、給食の献立表を見て、夕食の献立をかち合わないように配慮したことがあっただろうか。なかった。
冷蔵庫から牛乳を取り出すたびに「規律ある学校生活を送るために」を見て、息子に反省を促したことがあったか。なかった。
ハローワークのチラシにいたっては、「いちおう、貼っておいた」という安心感だけで、出不精の私が職探しにエッチラオッチラ出かけていったことなどなかった。
「必要なときって、そうそうないのね」
これが私が出した結論である。

だったら、やはりバインダーかファイルに入れて、本棚に並べておかねばなるまい。しかし、本当にそれで解決できるのだろうか。新たな疑問が浮き上がってくる。
バインダーやファイルにいちいち分類して、綴じ込む行為が私に続くだろうか。
分類はできたとしても、冷蔵庫ほどに見る機会があるだろうか。
私はたぶん、分類は続かないし、ぜえ〜ったい見ない、と思う。
たぶんまた「こっちが便利よね」と冷蔵庫にぺたぺた貼りだすんじゃないか。
つまりは、こういうことだ。
だらしがない。
冷蔵庫が全面まるまる鉄なのをいいことに、磁石を両手に頼り切っているのである。分類の努力も嫌だし、かといって片っ端から情報を頭に入れるでもなく、捨て去る勇気もなく、「貼っときゃ、いつか見る」のずるずるべったの問題先送り主義のルーズな精神がいけないのだ。もう一度、言う(自分に)。
だらしがない。
もし、よそのお宅の冷蔵庫が「お知らせプリント」で埋まっていたら、そこのお宅の奥さんがケーキに紅茶にと、いくらもてなしてくれても、どんなに掃除が行き届いているように見えても、だらしがないと思ったほうがいい。「外面がいい」という言葉の「外面」はひょっとしたら冷蔵庫のそれではないのか、と思えたりする今日この頃である。


※これは数年前陥っていた「冷蔵庫面依存症」ですが、現在は透明の下敷きのようなケースに入れて、庫面に磁石で貼ったポケットにきちんと収納しております。わざわざ「日々のことづけ」には書きませんが、おすすめです。
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by zuzumiya | 2010-08-30 13:04 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

心のなかの想い人

『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』という映画を見ました。ベンジャミンと幼友だちのデイジーがたとえ離れていても、そして共にベッドに別の人と眠っていようとも、必ず眠る前に二人は互いを思い出しては、胸のなかで「おやすみ、ベンジャミン」「おやすみ、デイジー」と呟くシーンがあります。結婚していても心のなかには想い人がいる、と書くと不埒な妻でしょうか。恋→結婚→愛のように、日々の暮らしの中からいろいろな状況や家族という人間に揉まれて労苦もあって、愛は深く沁みてわかってくるものと実感していますが、心の中でそういう試練に晒されないきれいな結晶のようなものとして、片想いの想い人がいます。遠く離れていても、今生は結ばれずにスッタモンダして愛を知るようなパートナーではなかったけれども、面影が浮かんで「健やかであれ、頑張れよ」と心に願う人が家族以外にもいるのは、幸福なこと。素直でやさしい気持ちになれるものです。

※「誰かを応援することは自分を応援すること」何かの映画で女優の新垣結衣さんが言っ ていたことばです。「頑張れよ」と相手を想いながら、自分にも喝を入れているのかも しれません。
※短い一生のうちに出会えたこと、数多くの人の中からも見つけられたこと、いろんな縁 をもっと大事に愛おしまなくては、とあらためて思います。みんな、健やかであれ。
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by zuzumiya | 2010-08-29 09:42 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

土っ気の詩人〜木山捷平さん〜

a0158124_10581749.jpg自分の中の「土」が乾いてひび割れてきたな、と思うと木山さんの詩集を手にしている。そして、おとっつあんやらオカアやらおしのさんやらおこよをばさんやら多吉やら牛やらみみずやらに私の「土」をよく耕して肥えさせてもらう。耳を澄ましていると、「ドッテンドッテンエンヤラサ」というみんなの歌声が聞こえてくることもあるし、みみずがぴんぴん跳ねているような快感もある。じょろじょろと熱い牛の小便を浴びたり、風が吹いて、とんぼが横切るのを感じる。

静かだな、と思うとみんなが汗を拭き拭き、車座になって麦飯を食べている。「今日はおてんと様がでとるし、風がよう吹いて気持ちいいのう」なんて笑っている。「ところで、あんたんとこは、この畑に何をつくりなさるね?」と私に聞くから、考えていると、横から「大根がええ」だの「唐人芋っさ」だの声が飛ぶ。「はてさて何を作ろうかねえ」としばし考えるふりをする。ほんとは何も作らなくていいんだけど、お百姓を前にしてそんな罰当たりなこと言えないから、ただ考えている。「わし、花がええ。綺麗な花をいっぺえ咲かせてえ」おしのさんが両手を広げる。「そうだなあ、花もいいねえ」と私も嬉しくなる。「なんにしても、土だが、土!」とおとっつあんが唸るように言って、それを合図にみんなは立ち上がり、私の「土」を再び耕しに行ってくれる。

木山さんという人は生涯「土っ気」があったと思う。「土の中から」という詩では、

 おらら百姓 
 土の中から生まれたおらら
 さあ皆んなで手をつなげ
 みみずのやうに
 ぴんぴん
 ぴんぴん
 やろうぢやないか

と、はっきり自分の出自を大らかにうたっている。木山さんは「土っ気」の人ではあったけど「大地」の人とは思わない。なぜなら彼はそんな大きな詩を書く人ではなかったからだ。ただ土の温かみを知っているし、日々土にまみれて奮闘するお百姓たちの手肌の温かみを、そしてそこから生まれてくるまるまるとした唐人芋や大根の温かみを知っていた。すなわち、小さくても根太いいのちを知っていた。だから彼は雄々しい「大地」の人というよりも「田畑」や「あぜ道」の、まず手足に親しい土の人であり、たとえ文学を志して上京しても病に伏しても、お百姓の爪に洗ってもとれない土の色が染みこんでいるように「土っ気」が生涯とれない人だった。

木山さんの「土」は人も作物も草もみみずも育む故郷のいのちの源だから、とてつもなく健やかだ。だから、木山さんはときどきすごく色っぺえな、と思う。いやらしいというのではなく、健やかで大らかであっけらかんとした、人間のごく当たり前の性を感じるのである。読んでいると、たとえば、さっき畑で大根をひん抜いてきたばかりのごっつい手で下腹をまわるく撫でられているような、もわもわっとした温かみを感じる。このまま孕んでしまうんだろうなあ、というような安らかさで、くすくすと笑いたいような気持ちになるのだ。
 


南洋から帰つた人が僕に話した。
「あつちでは
夫婦であつてもあれをする時
きつと戸外(そと)へ出かけて行く。」

その話は僕をたいへん喜ばせた。
月の明るい晩
青い草つ原に出て
あれをしてゐる南洋の土人を胸に描いた。

僕は不思議にきよいものを感じた。
そして何だか無上(むしやう)にうれしかつた。

「蝶蝶」にも「おしのの腰巻き」にも「たうもろこしのひげ」にも「をなご」にもこの大らかな寛き性を感じる。これらの木山さんの詩を読んでいると、性というのは飯を食ったり、糞をひったりと同じ生きるための本能であって、いのちを愛おしい、いたわりたいと思う分、つくづくせつなく、美しい本能だとも思う。

木山さんの健やかなる「土」が育んでいる無垢についても、私は羨ましい。「土の中から」もそうだが、「蚯蚓の詩」や「蝉の詩」などには自らを重ね合わせてもいるのだろう、腹の底から振り絞る声援を、そして「メクラとチンバ」「さつまいもの花」には胸が締め付けられるような美しさを、「あんまの金さん」「阿呆の伝やん」には「無垢なるもの」への懐かしみや敬愛の情が混じっている。

さつまいもの花

さつまいもに
さつまいもの花が咲いてゐる。
さみだれのふる日
しよんぼり
みのかぶつておしのが植ゑたさつまいも畑の
さつまいもに
さつまいもの花が咲いてゐる。

木山さんは東京にいたって、いくつになったって「土っ気」がとれず、どんな詩を書くにしても詩を書くときは自らの中にある、ふるさとのいのちの「土」をいじりながら、それが育んだ様々な恩恵でもって書いていたように思う。かつての「ふるさと」という詩の中に私は木山さんの究極の「土っ気」を感じてしまう。
 
 わらびをとりに行つて
 谷川のほとりで
 身内にいつぱい山気を感じながら
 ウンコをたれて見たいのう。
 ウンコをたれながら
 チチツ チチツ となく
 山の小鳥がききたいのう。

木山さんは64歳まで生きて、今、岡山県笹岡市の故郷の山、長尾山で温かな土の中に眠っている。あんなに故郷が好きだった人だから、さぞや嬉しいことだろう。
笑いながら、みみずとぴんぴんごっこをしているのかもしれない。

※『木山捷平全詩集』 講談社文芸文庫より
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by zuzumiya | 2010-08-28 11:03 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

恐るべき自治会企画

今年は水着を着る機会がなくて、ほっとしている。
金がないと騒いでいたら8月は盆休みもないほどにめいっぱい仕事を入れられてしまった。子どもと夫は長野に帰省するが、私はひとり残ってひたすら働く。海にもプールにも行かない。
中年にもなると、いやがおうにも胸より腹が出てくるし、背中や二の腕にこんもり肉がついてくるし、尻はとめどなく垂れてくるしで、水着になって無様な姿を世間にさらすのはほとんど拷問である。もう腹を引っこめかげんに力を入れて、とりすまして座っているのも限界だ。あっちを隠せば、こっちがギャッという丸見え状態だから、なにをやってもムダである。プールでも海でも、すぐ脇を軽薄そうな茶髪の男と手をつないだピチピチバ〜ンの若い娘がきゃぴきゃぴとエロ気を振りまいて歩いて行く。「お〜い」と呼ばれて振り返れば、見事に腹のでっぱった夫が、娘とともに家族分の焼きそばの袋を持って突っ立っていたりする。ああ、栄枯盛衰、世は無常。そんな場所に誰が好きこのんで出かけようか。

若い頃、私のまわりの友人たちはほぼ毎年、水着を買い替えていた。
理由は「飽きちゃった」とか「今年は今年の水着でなくっちゃ」だったが、年をとった今は「毎年サイズが合わないのよ」という嘆かわしい理由で買い替えている。私も今年、水着を着なかったら来年また同じものを着られる保証はないだろう。でも、もういい。来年も、再来年も、そしてこれからずーっとプールや海には行かなければいいんだから。

ところが先日、とんでもないチラシがポストに入っていた。
「マンションのみんなで温泉バスツアーに行きませんか」
という自治会からの誘いのチラシである。
我がマンションでは毎年8月に親睦を深めるという目的で、夏祭りを行ってきた。その年の役員が焼きそばやフランクフルト、おにぎり、かき氷などの屋台を出して、他の住民たちにふるまう。すべて自治会の費用でまかない、ビールは飲み放題、ビンゴゲームなども行われる。180世帯もあるジャンボマンションでこれほどまとまりがあるのは、いまどき珍しいことだが、役員がまわってきたらさぞかし大変だろうと気に病んできた。しかし、ここ何年かで、急速に住民の方も老朽化が進み、老夫婦だけの世帯も増えてきたので、今年は夏祭りの実施を取りやめて、そのかわりにバスをチャーターして、みんなで温泉に行こうということになったらしいのだ。

あなただったら、行くだろうか? それとも行かないだろうか?
私は迷わず「不参加」の方に丸をうった。だって、廊下ですれ違う隣の奥さんに自分の裸を見られるのは嫌だし、見るのも嫌だからだ。ぜったい、温泉から帰ったら、どこの家だって
「お隣の奥さん、ああ見えて結構太ってんのよ」
「3階の佐藤さん、おケツなんか、こ〜んなよ、こんな」
とか、食卓でおもしろ可笑しくしゃべるに決まっている。
廊下で隣の奥さんに会っても、すっぽんぽんの姿がチラついて、以前のように面と向かって挨拶できなくなるんじゃないだろうか。エレベーターの中で、まじまじと後ろ姿を見られて、
「着やせするタイプなのね」
と思われるのもしゃくである。

この話を夫にしたら、昔は銭湯だったじゃないか、と笑われた。
そういえばそうだったが、昔は家に風呂がなかったからしかたがないし、何度も行くうちにお互いの裸に慣れて何とも思わなくなったんだろう。が、今回のは違う。「年に一度のイベントで」というのは妙に印象に残りやすいような気がする。
水着すらああだこうだと文句を言っているのに、裸なんかもう、論外である。しかし、我がマンションは老人マンションだから、「温泉」の二文字には弱いかもしれない。もし、この企画が好評で、この調子で夏祭りの代わりに毎年「温泉バスツアー」を組まれたりしたら事である。おそらく3年後ぐらいには役員がまわってくるだろう。役員がツアーに参加しないことはないはずだから、なんとかして企画変更をしないかぎり、私はマンションの住民の前でとんでもない裸をさらすことになる。
宝くじでも当たらない限り、引っ越せないし、いまはただ「温泉バスツアー」に人が集まらないことを願うばかりである。



※やはりこの「温泉バスツアー企画」は無理があったのか、この年、一度限りとなりました(笑)。役員のやる気に水を差すのもなんですが、こういう大胆な企画はやっぱりやめといた方がいいと思います。現在でも夏祭りだけは無事に続いております。
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by zuzumiya | 2010-08-28 09:37 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

『東京猫町』『人町』を歩く〜アラーキーの町写真〜

a0158124_9103325.jpg猫を見つけるとなんでだろう、「あ、ねこ!」って口走る。猫は「ねこ」に反応して私を見る。で、一瞬しゅっと身を低くして警戒し、ささっと走り出す。猫は自分が「ねこ」と言われることにすごく敏感だ。自分のことを「ねこ」と呼ぶ人の感情を信じないふしがある。だから、ほとんどの場合、私は猫に撫でさせてもらえない。たとえ、口に出さなくても「あ」というのが猫に伝わって「今、心ん中で『ねこ』って言ったにゃろ」と目を細められて、やっぱりすっと去られてしまう。

アラーキーの『東京猫町』のページを捲ると、自分のこの癖が面白いように出てくる。どのページを捲っても「あ、ねこ」って心の中で口走ってしまう。で、写真の猫と目が合い、一瞬ヒヤリとする。「逃げられる!」とこっちが身構えてしまう。「あと一歩動いたら、行っちゃうかな」なんてどきどきする。そうかと思うと、猫のつぶらな瞳に見つめられて「ね、触ってもいい? 逃げないでくれる?」なんて間合いをはかって指先がぴりぴりしてくるときもある。そういうわくわくする猫との遭遇がいっぱいできる、ちょっと心臓に悪い写真集である。

でも、なぜ写真にまで私は「あ、ねこ」と口走るのか。それはアラーキーの仕掛けのせいである。「猫の写真集」として愛らしい小猫たちがゴロニャ〜ゴとアップで写っているやつだったら私だって「あ」とは思わないのである。ところが『東京猫町』は町の中に住んでいる猫たち(ノラも飼い猫も)の写真集であって、背景は町の路地だとか軒下だとか、空き地や駐車場や道ばたの、いわゆる「その辺」である。だからリアルでどきっとくるのだ。

猫のアップはほとんどなく、近寄ろうかこのままでいようかと迷う猫との静かなる駆け引きの距離であったり、逆に「あれ、猫どこにいるの?」と探すほど遠景であったりする。写真の隅から隅までずいぶんと探して「あ、いたいた、あんなとこに顔出してるよ」なんて『ウォーリーをさがせ』的苦労も強いられる。つまりは、猫の愛らしさをというよりも、猫がうろついているような町、猫町を撮りたくて、そしてそんな町に飄々と住み着いている素顔の住人としての猫を撮りたくて、出来た写真集なんだなと思う。

さっき「その辺」と書いたが、都会では今やノラ猫よりカラスの時代だ。この頃は猫がうろつくところもあんまり見られなくなったのではないか。昔はよく春の宵にさかりがついた猫が鳴いてうるさくて眠れず困ったものだが、最近ではめっきり聞かなくなった。
アラーキーは言う。「猫が消えちゃったら東京は廃墟になっちゃうんだろーニャア」「猫が歩いている町はイイ町なのです」そうだな、と思う。年間に三十万匹もの捨て猫たちが保健所で殺処分されているという悲しい話もあるのだけれど、それでもやっぱり猫は猫としてささっと草むらから道路へ飛び出したり、塀の上や車の下でのんびりと毛繕いしていてほしいなと思う。そこらを行くのが人間と車ばかりじゃ、いずれ町はほんとに血の通らない「廃墟」になると思う。小さき弱きものが共に生きていける隙間がないと。

隙間で思い出したが、猫がうろつくこの「猫町」には隙間があって、町がでこぼこしているように思う。空き地があったり、小道があったり、民家と民家との間に変に空間があったり、塀があったり、溝があったり、草むらがあったり、物置があったり、庇があったり、植木鉢や看板が並んでいたり。そういう中にもマンションの横壁がのっぺり写っていたりすると、つまらないなと感じる。町がでこぼこで、引っ込んだり出っ張ったりしてないと、コンクリートばかりじゃなく土や草地があって、固かったり柔らかかったりしないと、それからちょっと生活くさく、乱雑、猥雑になってたりしてないと町は実に味気ないものである。女の人もそうだけど、きれいばかりじゃ写真にはならないのだろう。

自分が猫だったら、と考えてみる。庇を渡って恋猫のところにとかげを渡しに行きたいし、住宅街の塀の上をくねくね歩いて空き地に出て、雀取りを楽しみたい。猫がうろうろできる町というのは、必要とあれば、さっと隠れることが出来る変化に富んだ、奥行きのある町だ。内包する物の多い、表情豊かな、温度のある町だ。猫に習って、人間も散歩をしてみればわかる。マンションばかりが続く単調さより「猫町」のようにでこぼこしている方がずっと楽しく興味をそそられるはずだから。

a0158124_911763.jpg『東京猫町』で猫を追いかけて歩いていたら町の写真集が見たくなった。嬉しいことにアラーキーは撮っていてくれたのである。今度は『人町』だ。『人町』の帯にはこう書かれてある。「人生は幸福でなければならない」胸が熱くなった。紫陽花の鉢を持って笑っている花屋のおばあさんの上に掛けられている。もうそれだけでこの写真集はいいとわかる。アラーキーが一年をかけて、作家森まゆみさんと撮った「写真版、谷根千(森さんが作っている谷中・根津・千駄木の地域雑誌)」である。アラーキーは心を込めて写真を、森さんは文章を載せている。さすがにでこぼこ、だんだん、くねくね、ごちゃごちゃ、ぼろっちいの町である。

狭い路地に自転車やら、植木鉢やら、段ボールやらビールのケースやらがいっぱい飛び出ている。商店街の八百屋も雑貨屋も洋品店も店先にこれでもかこれでもかと、めいっぱいの商品を並べる。おばちゃんやおじちゃんが呼ばれて、笑って写真におさまっている。墓地には猫がうろついている。自分だけ店先に出してある椅子に座って世間話をしているのは履物屋のおばちゃん。仲良し4人組の中学生が通る。気のいいおばちゃんの自転車が通る。駄菓子屋の子ども。お寺や墓碑。板塀のポスト。四代目面六のおじいさん。二代目指信のおやじさん。御輿をかつぐ若い衆にふんどし姿の親爺衆。浴衣のおねえさん。祭りにおどける人々。客を待たせて笑っている床屋のお兄さん。二段竿のあけっぴろげな洗濯物。看板だらけの細長い飲み屋横丁。路地の奥からネオンがもれてくるラブホテル。

森さんの文章はアラーキーの要望で谷中を舞台にした随筆のような私小説のようなものになっている。最初、文章を読むと、写真がまともに入ってこないかもな、と心配していたけど、そんなことはなくて、むしろ、森さんの文章が写真に更なる余情をつけてくれるので、なくてはならないものになった。暮らしの底が抜けてる「ざる」のような男と暮らした日々を語った『ざる』、「坊さんは雲の上の人じゃなく人間だ、富士山と同じであまり近寄らない方がいい」なんていうジョークがいい『お寺のうわさ』、道ならぬ恋の相手と行き場がなく、東照宮で寒さのために抱き合っていたら神官に見つかり怒られたという『私の神様』は心に残った。早々と撮影をきりあげて、飲み屋でビールを飲みながらする客や店主との会話、スナックでカラオケするときの会話なんかも町の、人の息づかいが伝わってきてよかった。

アラーキーがカメラを向けると、みんな笑顔になる。老若男女、歯を見せて笑う人が多い。下町だな、と思う。下町のでこぼこ、だんだん、くねくね、ごちゃごちゃ、ぼろっちいところがきっと、この飾らない、愛くるしい笑顔を育てている。
あ〜、たまらなく人恋しくなる。
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by zuzumiya | 2010-08-28 09:12 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

川内倫子の『うたたね』

a0158124_853311.jpg運命だった、というほかない。
恋に落ちたみたいな言い方だが、好きになるのは何も人ばかりじゃない。ところで、恋に落ちるという表現はその通りだと思う。ものの見事に、すとんと、ほんとに音でもするように、そう、滑り台の終わりのひょいと軽く地面に投げ出される感じで、私は川内さんの写真に恋をした。『うたたね』という写真集である。

この日、私は高野文子の漫画を買いに本屋へ行った。後から考えれば、高野文子というところがそもそも前兆だったのかもしれない。漫画の方は電話で注文しておいたのでカウンターで受け取ればよいだけだった。せっかく来たのだからと同じフロアの写真集や画集のコーナーを何の気なしにうろついていた。

そんなとき、川内さんの『うたたね』を見つけた。本棚のいちばん上の隅に白い背表紙を見せて、それはそれは静かにいた。『うたたね』というひらがなの姿がすべてを語っていた。手にとって表紙をみると、何かがふわっと揺れた。風がやわらかく流れた感じがした。表紙の写真は、スプーンに盛られて差し出された半透明のタピオカである。室内の窓辺のうすあかるい光がタピオカの表面をやんわり透かしている。すくい取った瞬間なのでスプーンの背にひとつぶ、タピオカがくっついている。ただ、それだけの写真である。ただ、それだけ。そこにあるだけ。

中を見ていくと、自然に顔がほころんでくる。いわゆる「ほほえましい」写真ではない。
人を和ませるために作られた写真ではないが、慰めるための何かの漂う写真である。そこに映っているのはあまりに日常、あまりによくある風景ばかりだ。風景というよりも生活という方が合っているかもしれない。たとえば、グラスの水に浮かんだ氷だったり、街灯に照らされた雨の筋だったり、糸のちぎれかけたフェンスだったり、しゃぼん玉をふくらます口元だったり、ドアの覗き穴だったり、アパートの窓に映るテレビのチラチラした青白い光だったり、鍋の中でゆでられている白いうどんだったり、おじいさんが人差し指でほじってる耳だったりする。

みんな見たことがあるものばかりだ。かつて見ていたのに、見ていたことも忘れてしまったような、ささいな日常たちである。しかし、そのささいなものたちがなんだか私を揺すぶるのである。そういえば、見ていた、たしかに知っている、私はそこにいた、そこに立って見ていたんだ、と体の中からもやもやと懐かしくなるのである。デジャビュなのだ。晴れた日の砂利の山や白いふうせんの束を底の方から見上げる感じの写真など、まさにうたたねの夢の中で見たような風景、不思議な空気感を漂わす。

中でも私が心底嬉しくなったのは、洗濯槽の中のグルグル回っている水流やミシンをかけている手元のあの小さな灯り、窓辺でころんと固くなって死んでいるミツバチ、廊下にできたどこか隙間からの細長い日差し、蛇口から流しに落ちる水滴の数珠、地面に掘られた穴や耐熱ガラスポットの沸騰する泡をとらえた写真の数々、である。それらは何の変哲もない日常で、普通ならレンズを向けることのないものたちである。ただ、それだけ、そこにあるだけの日常はすかすかの隙間だらけで「面白味」というはっきりした集中力、核に欠けている。人によっては何も感じないかもしれない。現に私の古くからの友人は「ぜんぜん、感じるものがなかった」と白状している。

でも、私はそれらの写真をまったくこのうえなく愛おしいと思った。特に、ミシンの手元の灯りのいじらしさや隙間の日差しのささやかな幸福感にはまいった。なぜか、久保田万太郎の俳句の「短日やうすく日あたる一トところ」や「だれかどこかで何かささやけり春隣」を思いだした。万太郎の感じ取るささやかさの中にある詩情が川内さんの写真にも流れていると思う。そして、昔はそういうものをじっと飽きずにいつまでも見つめていた自分がいた。幼い頃の方がそうする時間も機会もはるかに多かったけど、今だってそういうものを愛おしく思える自分の本質が変わらずにあることを思い出させてくれる。

川内さんのまなざしはとても素直で子どものようだから、時にはっきりと見てしまう。死んで固くなったミツバチや蝶々や魚や、路上で頭から血を流して死んでいる鳩なんかを見てしまう。「あ」というだけの、しんとした、透明な時間が流れていく。私も川内さんの隣にしゃがんで、「あ」と固まって見ている。まるでランドセルをしょった小学生の女の子がふたり、道ばたでじっと地面を食い入るように見つめている感じ。小さなものの死は見つめていると吸い寄せられて、身動きがとれなくなる。

川内さんの見つめるものは今までもこれからも、たぶん絶対、私も見つめている確信がある。魂の同級生だという気がする。そして私たちに共通しているものは、と思い巡らしてみる。それはたぶん、こんなふうに日常の中のささいなものが愛おしく感じるときは、自分のことをまっすぐに好きになっているときなんだろうな、ということ。自分をなにもかも許せてしまえる気持ちの寛やかなときは、日常の、生活のディティールがとてもやさしく、温度や気配を持って見えてくるものだ。

いつもの湯飲み茶碗の小花模様がいじらしく思えたり、洗濯物の靴下がユーモラスに見えたり、冷蔵庫のモーター音に安心したりする。だから川内さんは、きっと自分のことをおおらかに許している人なんだと思う。どの写真を見てもそういう伸びやかな、あるがままの空気を感じるし、その空気を私も自然に吸っている。そして、私も今の自分がどことなく憎めないでいる。このまま生きていても構わないな、と素直に思える。

写真集を見ていたとき、網戸の向こうから子供の鼻歌が聞こえた。ベランダに出て下を覗くと、青い長靴をはいた男の子が庭の地面にシャベルで穴を掘っていた。
ゆるやかな、幸福な日常がそこにあった。
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by zuzumiya | 2010-08-28 08:53 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

時間

先日、こんなことがあった。昼間、ひとり静かに仕事をしていると突然けたたましい音がしてどこかの家の目覚まし時計が鳴った。すぐに音は止められたが、時計を見ると10時。こんな時間に起きる人がいるんだ、と笑ってしまった。私の一日は6時50分からすでに始まっていて、目覚まし時計の人の一日はたった今、10時から始まるのだなと思うと不思議な感じがした。昼と夜と一日の時間の分量は誰もが同じに貰っているのだけど、それぞれ自分の生き方、考え方で時間はどのようにでも使えるんだということがなんだか新鮮に思えた。

それぞれがそれぞれの時間を持って暮らしているというようなこと。以前にもこれと同じことを感じたことがあった。

ある日の夕方、気分良く自転車で走っていたら、鼻筋の辺りに涙を光らせた若い女の子とすれ違った。人が泣いているのを見てどきんとしたが、もし、彼女が悲しくて泣いているのだとしたら、と考えて不思議な気持ちになった。一本の道の上で彼女の悲しい今と私のすこぶる爽快な今がすれ違っている。今日という日はみんなに同じ分量しかないのに、彼女のこの夕方はただもうせつなく悲しいものになっている。
彼氏とけんかしたのか、ふられたのか、それとも親が倒れたのか、いろいろを考えていて、ふと、私は彼女に流れている人生の時間の一瞬とたった今すれ違ったのだと思った。なんだかちょっとすごいなと感じた。そしてまわりを見渡すと歩道や店先に人がいて、この人達もみな自分の時間を抱えて生きているんだと思えて、今までそんなふうに街を眺めたことがなかったから、なにかすごく大事な発見をした気がして、おおと感動した。

人が人と出会うということは、その抱えている時間と時間が交じりあうことだ。一日という単位じゃなくても、一生という単位でもそれぞれの人は命という持ち時間が決まっていて、そのなかで出会い、共に過ごし、別れていく。なんだか限られたわずかな時間の中で限られた人と出会ったり、過ごしたりすることは、とても感謝すべき貴重なことのように思えてくる。ある人とは時間が交じり合い、ふたりの共通な時間として流れていくのだけれど、ある人とはぜんぜんかみ合わない。でも、その人は別のある人とふたりの時間を作って、その時間の中を着々と生きている。

なぜ、こんなことを考え始めたかというと、父のことを思い出したからだ。
父と母は私が一歳の頃、離婚したらしい。それっきり、私は一度も父と会っていない。だから父は今、生きているのか死んでいるのかもわからない。母に執着して生きてきたので、不思議と父のことはあまり考えてこなかった。ただ父の姿は幾枚かの写真に残っていて、アルバムを開くたびに「あ、お父さんだ」とは思ってきた。記憶がないので懐かしがって泣くこともできず、ただ淡々と写真を見てきたはずだった。

しかし、何度も繰り返してアルバムを見るうちに、私の頭の中でいつしか写真の父は動き、赤ん坊の私を抱き上げて乳母車に乗せたり、そして父が押す乳母車からの景色や振動をなんとなく覚えているような気になったり、雪かきをして私に雪だるまを作ってくれて、できたときにそれにぺたぺた触ってとても嬉しかったような気がしたり、ないはずの記憶が写真をもとにどんどんできていくのを不思議に感じたこともあった。
鏡を見るたび、自分が母だけでなく父にも似ていて、そういうときは私がこの世に存在しているのは母だけじゃなく、父のおかげでもあるのだとあらためて思ったりもした。
母の話によると、父は母と別れてからまた別の人と再婚し、男の子をふたりもうけたというが、それしかわからなかった。

昔、テレビのドラマで、離婚して別れた父親を慕って、歌手志望の女の子がひとり夜空に向かって「アメイジング・グレイス」をしっとり歌う場面があった。彼女が父親に会いに父親の経営する花屋へ行くのだが、父親の方はまったく気がつかず、家族と仲睦まじく働いているのを見て当惑し、結局は客として父親から勧められた花を買って、泣きながら帰ってくるというシーンがあった。これにはさすがに胸が詰まった。
今でも「アメイジング・グレイス」を聞くと、この花屋のシーンが浮かび、じわじわとせつなくなる。そして時間というものを、もうずっと交わることのない時間というものをぼんやり考える。

たぶん、そういうとき、私は天国という場所を信じたいと思っているのだ。この地上で一度は出会っても、どうしても離ればなれにならざるをえなかった男と女や、親と子や、友と友が死んだとき、この世でのすべてのしがらみから解放されて、再び天国で巡り会い、見つめ合ってほほえみ、手を取り合って抱擁する。
終わりもなく、別れもなく、哀しみもなく、痛みもなく、不安もなく、ただこみあげてくる懐かしさと愛だけに満たされて、永遠の心の平安と幸せのなかでみんながいっしょに生きられるのだとしたら……。
私は父に必ず出会えると思うのだ。たとえ、私がこの世の時間をどれだけ生きても、そのためにどうやっても父の時間と交わらなくとも、必ず出会える。見つめ合うだけで、時を越え、強烈な懐かしさと愛おしさが光のようにあふれてくる瞬間が私と父の間には必ず訪れる。だから、哀しんだり、残念に思ったり、諦めたり、忘れようとしたりせずに、ただ静かに待っていればいいのだと思う。

父は父でこの世のどこかで父の時間を生きていて、私は私でこうして私の時間を生きている。朝になれば同じ太陽を見て、夜は同じ月を見る。私たちは離れた場所でもきっと懸命に生きているのだろう。信じる宗教は何も持っていないけれど、天国のような特別の場所は心のなかに持っていたいと思う。もしそういう場所がないと決めてしまったら、この世を生きていくことはあまりにつらすぎるのではないか。人は人と出会うことをためらい、深く知り合うことを恐れて、どこかで別れを気にして不安でいなくてはならない。しかし、もし天国のような再び出会える場所があるなら、私たちはたとえどうしようもない理由で別れることがあっても、そしてその人と二度とこの世で会えなくなったとしても、何も恐れることはなく、前を向いて自分の時間をせいいっぱい生きていけるのだ。天国はきっとある。失ったものは、このうえなく完璧で幸福なかたちでまた取り戻せる。父を思うとき、私はそう信じている。
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by zuzumiya | 2010-08-28 07:37 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

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