暮らしのまなざし

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玉葱の味噌汁

今までそんなに好きじゃなかった。
どちらかといえば汁が甘くなるのが嫌いだった。
でも、今ではよく作るんだ。玉葱の味噌汁。玉葱だけの、味噌汁。

ゆみちゃん、お元気ですか?

たしか品川に暮らしてるんだよね。シュンくんはうちの祐一よりひとつ上、
あゆみちゃんは、そう、たしか智美と全く同じ誕生日だったっけ。ふたりとも元気かな。
新しい旦那さんとはどう? ごめん、名前知らないんだ。
もう再婚してずいぶん経ってるはずだけど、今度はうまく行ってるかい?
去年だったかな、あゆみちゃんから智美にひょっこり年賀状が来てた。
住所を見たら品川のマンションだったから、ようやくビンボーから抜け出せたのかって、ちょっと羨ましかった。うちは相変わらず、っていうか年々ヤバくなっているよ。
今でも相変わらず、9階に住んでる。ときどき、コウちゃんにも会うよ。
ずいぶん、痩せた。いつだったかエレベーターで一緒になったとき、「俺、病気かなってぐらいに痩せたもん」って笑ってた。離婚やつれじゃん、って思ったけど、口には出せなかった。でも、たぶん、そうだったんじゃないかな。

痩せたコウちゃんを見ると、離婚ってやっぱりもの凄く消耗するんだろうなって思った。もしかして、ゆみちゃん、あなたはもう玉葱の味噌汁なんて作ってないで、バンバンいいもの食べて太ってんじゃない?
そういえば、シュンくんがときどき泊まりに来てくれるんだって。
コウちゃん、喜んでた。なんだか、シュンくん、彼女のことで相談があったらしくて、「ようやく男どうしの会話ができた」って笑ってた。自分の存在を忘れないで、父親として、実の父親として頼りにされてるの、よっぽどうれしかったんだろう。
こっちは何も訊いてないのに、コウちゃん、わたしの顔見ると懐かしがって、いつもよく話しかけてくれるんだよ。

あの頃はみんなでよく集まってバカ騒ぎしてた。
ゆみちゃん家に5家族ぐらい集まった時もあったなあ。うちが1度転勤で引越して、新しいマンションに移ったときも、家族ぐるみの付き合いなんてもうしなかった。
たぶん、はりきりすぎて疲れちゃったんだろう。残ったゆみちゃんたちだって、もうしてないってあの頃の手紙には書いてあったもんね。いい潮時だったんだな。

今思えば、親の私たちも必死だったんだ。
上の子供が幼稚園になって、早くこのマンションに友達作らなきゃってそれぞれが焦ってた。朝はみんなでマンションの前で当たり障りのない会話して、親どうし交流してバスを見送った。午後にバスが帰ってきたら、今度は子供のひとりが誰々ちゃんと遊ぶって言いだすから、我が子があぶれないようにって、仲間に入れて貰おうって、親子で気を揉んでさ。そんなとき、いつもゆみちゃんは
「みんな、うちにおいでよ。そうだよ、ママ達もみんなで来ればいいんだよ、どう?」
って、誘ってくれたんだよね。
なかには、
「えーっ、でも、田中さんを呼ぶんなら、あたし行かな〜い」
って、はっきり言う人もいたりして、私もゆみちゃんも目を丸くしたっけ。

子供たちはシュンくんの子供部屋で勝手に遊ばせて、親たちはリビングを占領して、それぞれ持ち寄ったお菓子をつまみながらいろんな話をした。
好きなタレントの話、幼稚園の先生のどうしようもない幼さ、マンションの七不思議、そこにいない奥さんの悪口……。
ゆみちゃんは、なんでも大っぴらにして、あの頃から夫婦のこともよく話してくれた。
ゆみちゃんが面白おかしく、コウちゃんの金遣いの荒さやフィリピーナとの浮気の話や「てめえ、殺すぞ」って怒鳴り合うとっくみあいの夫婦げんかや、コウちゃんの稼ぎの中から親の借金を細々と返してる話をするから、みんなも笑いながら少しずつ、自分の家のボロを、情けない旦那や意地の悪い姑への不満を話せたんだ。

今、思えば、ゆみちゃん、寂しかったんじゃないだろうか。
誰かに、笑いながらでも、聞いて貰いたかったんじゃなかったか。

誰にも誉めてもらえない、誰からも認めてもらえない、子育て真っ最中の専業主婦のうさ晴らしのお喋りは尽きなくて、どんどん相互依存して、エスカレートした。
そのうち、夕飯のおかずと子供のパジャマまで持ち寄って、よく家族で夜を一緒に過ごしたね。社会へ出てからは、同僚はいても友人はできなかったし、学生の頃からの友人も仕事や旦那の転勤と、事情や環境が変わると自然に縁遠くなってしまうものだから、家族ぐるみの付き合いっていうのが、なんだか忘れてた友情を取り戻せた気がして、うれしかったんだろう。

あの頃、旦那たちの帰りはみんな遅かったなあ。
マンションの誰ともつき合わないとしたら、そんな遅い時間まで、話し相手は子供だけになる。私たちはそんな夜の孤独を嫌って、寂しさを抱えて群れて、幾時間も、他愛ないお喋りで埋め尽くしたんだ。

あれは何の集まりだったっけ?
お好み焼きのパーティーだっけ? それとも鍋だったか?
それぞれの旦那も連れてきていたから、きっと休日だったんだろう。
旦那も参加の初めての大々的な飲み会をやったの、ゆみちゃん、憶えてるかな。
みんなお互い、それぞれの家の旦那の悪いとこ、情けないとこ、エッと驚くようなとこ、事前の奥さん情報でぜんぶ知ってるから、目の前に当の本人がいるのがどうしようもなく可笑しかった。私たち、女どうしの秘密ってことで、目配せして、でも時にはぜんぜん関係ないところで、思い出し笑いで吹き出したりして、楽しかったね。
ゆみちゃんもコウちゃんもお酒が強くて、お人よしで、ぽんぽん飛び交う江戸っ子口調の冗談が面白くて、夫婦漫才見てるようで、いろいろ問題はあるけど、とんでもない危ないけんかもするんだろうけど、でも絶対、似た者夫婦だよなあ、って思ってたんだよ。
「まったくよう、コイツはよう、こうだから」ってコウちゃんが片目をつぶれば、
ゆみちゃんも「ふざけんなってんの、バ〜カ!」と笑って返して、ふたりの会話は、人寄せの楽しく酔ったお酒のせいだったのかもしれないけど、もの凄く微笑ましかった。
少なくともあの時、わたしの目にはそう映った。
なんだ、言うほど仲悪くないじゃんって。
夫婦げんかは犬も喰わないって、ほんとじゃないかって。

飲んで騒いでしばらくして、ゆみちゃんが急に叫んだ。
「ねえ、みんな、味噌汁飲みたくない? あたし味噌汁、いま無性に飲みたい。
締めの味噌汁!」
そう言って、ゆみちゃんは立ち上がり、冷蔵庫を覗いた。
きゃははと笑って、こちらを向いた手には大きな玉葱が2個。
「玉葱しかないや」
そう言って、ゆみちゃん、あなたはくるりとふり返ると、せっせとまな板で玉葱を刻んだ。もう夜も更けて、子供の睡眠時間を考えたら、ほんとにお開きにしなければいけない時間だった。旦那たちも仕事の話、子供の話、マンションの話とひととおり済んで、喋り疲れた顔をしてぼんやり煙草を吹かしていた。

ゆみちゃんがお盆に乗せて持ってきてくれた玉葱の味噌汁。
全員分の汁椀がないからって、ごはん茶碗に入れたのもあって、大雑把なゆみちゃんらしくて可笑しかったけど、でもみんなありがたく、うれしそうに受け取った。
アツアツの味噌汁からは玉葱の甘い湯気が出ていて、赤みそ仕立てで、ほんとに玉葱しか入ってなくて。でも溶けてるのか少ないのか、何処に入ってるのかわからないくらいで、
箸を入れて引き上げると、これでもかってほど薄く切った透明な玉葱が引っかかった。
火傷しないように歯を立ててそうっと頬張ると、味噌と甘みがふんわり舌の上に広がって、思わず「うまっ!」って声が出た。たまらずすぐに、すいっと啜れば、味噌の甘辛にきゅうんと口中が絞られて、思わず、たんっと舌鼓を打った。ほんとに美味しかった。
そして、胃に落ちた味噌汁の熱さで、なんだかとてもほっとした。
ほんとに締めって感じで、浸みたんだ。
このタイミングで味噌汁を、しかも玉葱の具で持ってくるゆみちゃんの主婦としての感性ってやつに、わたしは参った。
誰もが喋らなかった。
しいっと啜る音を立てて、みんなが口をすぼめてゆみちゃんの味噌汁を味わっていた。
コウちゃんも啜っていた。
コウちゃんにとってはいつもの味で、別段、感動なんてなかったのかもしれないけど、みんなが旨いと口々に言ってるのに悪い気はしなかったろうと思う。
ねえ、ゆみちゃん、あのとき、コウちゃんがもし、
「コイツ、料理だけは結構、上手いんスよ」
って、みんなの前で誉めてたとしたら、どうだった?
そんなことぐらいじゃ、やっぱり、変わらないか。
積年の恨みは消えないか。許せないか。
離婚、してたか。

ほんとはさ、そんなに好きじゃなかったはずなんだ、子供の頃から。
玉葱の味噌汁。
でもね、あれ以来、よく作る。玉葱を薄く薄く、できるだけ薄く切って。
あのとき、かなり酔っぱらってたはずのゆみちゃんが、あんなにあるかなきかの薄さで玉葱を切ってたってことは、やっぱり、ゆみちゃんが玉葱とは裏腹に情に厚いってことだと思うんだ。
たしかにそうだよ、玉葱の味噌汁の玉葱は、うんと薄い方が美味しいんだ。

まな板の上で、玉葱を切りながら、
あの時の味噌汁を、夫婦で騒いだあの飲み会を思い出す。
引越しのトラックの姿もわからず、いつの間にか子供を連れてすっといなくなっていたゆみちゃんのことを、ひとり残されて、ずいぶん長いこと表札から3人の名前を消せなかったコウちゃんのことを、西側のベランダにずっと放りっぱなしにしてあったあゆみちゃんの乳母車のことを、思い出す。

私にとって、ふたりの離婚ははじめての友人の離婚だった。
友人の離婚ってね、自分たち夫婦の先にも、小さく不安のさざ波が立つものなんだ。
大丈夫、そう言いたいところだけど、うちの夫婦の場合もどうなるかはわからない。
変わらないものはないって、わかってるはずなのに、夫婦ってものだけは、ぎりぎりまでなんとか変えずに踏みとどまろうとするもんなんだね。
このまま踏みとどまる方が安全でしあわせなのか、
わかれて別々に生きていく方が思っても見なかったしあわせに出会えるのか、
私にはわからない。
夫婦のぎりぎりはまだ来ていない、そういうことなのかな。

ゆみちゃん、今ならどう答える? 
選んだ人生は思ったとおりですか?
後悔はありましたか? しあわせですか? 
今でも、コウちゃんをふと思い出しますか?
玉葱の味噌汁、作っていますか?

5時半の鐘が鳴った。あっという間に夕飯の支度の時間だ。
主婦ってやつはやることが多すぎて、何もかも中途半端になる。
手紙を書くことも、思い出に浸ることも、
先を考えることも、自分自身を考えることも、何もかもが。
そうじゃなきゃ、家庭を回していけないんだよな、主婦ってやつは立ち止まれない。
そしたら、わたしたちは回遊魚だ、マグロだ。
それともどうだろう。
まな板で玉葱をひたすら刻みながら、ゆみちゃんは来る日も来る日も考えてたのかな。
中途半端な、少しずつの時間を重ねて。
だからあんなに薄く切れるようになったのかな。

もう秋だね。
今日は風が冷たくて、食卓に座ってこれを書いてても足元が寒い。
うちは久しぶりに、玉葱の味噌汁にするよ。思い出しついでに。

ゆみちゃん、
今晩、あなたの家の味噌汁は何ですか?
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by zuzumiya | 2010-08-23 12:16 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

ジャスミンの道

仕事の帰りに夜道を歩いていると、どこからか花のいい香りがします。
見ると少し先のお宅の塀からジャスミンの花がこんもり豊かに垂れ下がっています。
毎朝同じ道を通っているのに気づかなかったのは、たぶん道の反対側を歩いていたせいと、電車に遅れてはならないと急いでいたせいかもしれません。夜は辺りが暗いぶん、嗅覚の方が視覚に勝って気づかせてくれたのでしょう。
しばらく家の前で立ち止まり、冷えた夜気に包まれたジャスミンの香りを胸いっぱい吸い込みました。
なんだか仕事の疲れもいっぺんに吹き飛んで、清々しく体が浄化されたような感じがしてとてもしあわせな気分になりました。
私のように、この場所を通る勤め人たちがジャスミンの香りに一瞬でも癒されて、胸のうちに笑顔と元気を取り戻しているのかなと思うと、このお宅に住んでいる花好きな方のやさしい人柄に感謝したくなりました。
そんなことを思いながら笑顔で歩いていると、2軒ばかり先のお宅の塀にも同じようにジャスミンの花が群れて咲いているのが見えました。そして、さらにその先のお宅の塀にもまたジャスミンが見えています。あれれ?
ぴんときました。
想像するに、きっと昔、最初のお宅のジャスミンがあまりにいい香りなので、近所の奥さんたちが「いい香りですね」と会うたびにほめて、「それなら持っていきませんか?」となって、ジャスミンの花株のおすそわけが始まったのではないでしょうか。
マンションに住んでいると隣近所のつきあいなど皆無で、回覧板が気づかぬうちに玄関のドアノブにかけられていてびっくりしてしまいます。
「回覧板で〜す」とお隣に届けに行って、お隣のおばさんと「学校はどう?」などとひとしきりおしゃべりをして、お菓子をひとつまみティッシュにくるんで貰って帰ったきた子供の頃に比べれば、あまりにドライで、これでいいのかなあと少し寂しくなるときもあります。
こんなふうなジャスミンの花のおすそわけが、もしあったとしたら、ささやかだけれどとても自然で、人間的なあたたかいつながりが、ここにはあるのだなと羨ましく思えてきます。そして、そのつながりがまた道行く見知らぬ人をもしあわせにしているのです。
誰かと分かち合う気持ちとそのしあわせ。それがジャスミンの花の姿になって、今この道にふうわり咲いて漂っているのだとそう思いました。
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by zuzumiya | 2010-08-23 12:13 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

夕方の老人

年々、孤独だと思えるものの中身が変わってきたように思う。
若い頃は誰かがいるとかいないとか、他人という人を介して感じられる孤独だった。
でも、年をとってくると、それがもっと深い、もっと根源的なものに変わってくる。
そして、恋人や家族のようなどんなにか近しい者であっても、それはどうすることも、どう慰めることもできない、手の届かないものになってくる。
でも、書いてみれば、何ということもない。
「人は一人で生まれて来て、一人で死んで行く」のように、厳然たる事実なわけで、たしかにどうすることもできないそういうものだったりする。

たとえば。
ここまで生きてみても、そしてこれからいくら生きてみても、おそらくは、この世にはどうにもならないことがあるということ。
別段、世界の戦争や飢餓や貧困という大きな話ではなく、実に個人的な日常生活レベルにおいてでもだ。そして、それはやっぱり、素直に諦めなくてはいけないんだろうが、ほんとのほんとは諦めきれず、ほのかに淡い夢になって、わずかな生の時間をも支えて行く。

それから。
いいときも悪いときも常に変化して移り変わって行くこと。そして、それは止められるものではないこと、受け入れて行くしかないこと。

そして。
こんなことぼんやり考えているこの暇人の私も、今生限りで死んで行くこと。
輪廻転生があってもなくても、この私であることはもう絶対的に有限であること。
そして、たとえ生まれ変わって、お金があっても貧困の最中でも戦争の最中でも、喜怒哀楽を感じながら、人は懸命に生きて行くのを繰り返すことには変わらないこと。

ざっと思いつく限り、そんなところから、最近の私の孤独はしんしんと生まれくる。

よく、夕方に買い物からの帰り道、住宅街を抜けてくると、猫の額ほどの庭に老人たちがつっかけで出て、何やら植木をいじってみたり、眺めたりしているのを見かける。
そんな姿はどこか微笑ましいのだけれど、どうして老人たちはみんな夕方になるとこうも同じことをするのだろうと不思議に思っていた。夜のうちに植木に水を吸わせる、なんてことはもちろんわかっているのだけれど、どうもあの老人たちの後ろ姿にはそれだけではないような、何かしみじみとしたものが漂っていて心を惹いた。

100歳を迎えた詩人、まど・みちおさんに「れんしゅう」という詩がある。


れんしゅう
 
今日も死を見送っている
生まれては立去って行く今日の死を
自転公転をつづけるこの地球上の
すべての生き物が 生まれたばかりの
今日の死を毎日見送りつづけている

なぜなのだろう
「今日」の「死」という
とりかえしのつかない大事がまるで
何でもない「当り前事」のように毎日
毎日くりかえされるのは

ボクらがボクら自身の死をむかえる日に
あわてふかめかないようにとあの
やさしい天がそのれんしゅうをつづけて
くださっているのだと気づかぬバカは
まあこのよにはいないだろうということか


これはまどさんを特集したテレビの放送で、まどさんが西の空の夕焼けを見ている姿に流れた詩だった。だから、「今日の死」というのは日が暮れて行くその夕焼けのことなんだなあと、そして、夕焼けを眺めながら、死んで行くことの「れんしゅう」を毎日させてもらっているんだなあ、と思って、そうねえと少ししみじみした憶えがある。
そんなことが以前にあったから、夕方老人たちがする庭いじりも変に気持ちに染み付いていたのだろう。

私はまだ40代で、ほんとの老境などわかりもしないが、いまの段階でさっき書いたような孤独が何とはなしに心に迫ってきて、そこから思うに、人間同士はどうしてもやさしさがあって(私はひとえにやさしさだと思っている)、言っても詮ないような類いの孤独にも、とかく慰めを言いすぎるのだと思う。実際には言わなくても、言葉を持ってる人間の宿命というか、言わねばならぬ、言いたくなるとうずくのが人間なのだろう。
反対に、自然はたとえ小さな鉢植えの植物であっても、いいも悪いも常に変化して移り変わって行くことをいつでも無言で受け入れて、なるがまま滅んでは再生して行く。
何かそういうことを、老人たちは一人で受け取って、一人で静かに飲み込んでいきたいのだろうと思う。庭の植物のそばにいて、しんしんと落ち着いていたいのだと思う。
それでもって、そういう一連の事情など考えるものでもなく、当たり前に感じるものとして五感にあるから、みんなこぞって、夕方になるとつっかけに足を落として、庭にふらりと出てみたくなるんだろう。
不思議なことに。そして、やっぱり、ありがたいことに。

先日、私も試しに土を買って来て、夕方にベランダの鉢植えの植え替えをしてみた。
一日の疲れを含んだような練れたゆるい風に吹かれて、鳥の声やら散歩する犬の鳴き声やらが聞こえてきて、やっぱり、ものすごくいいもんだなあ、と思った。
今日も終わって行くというささやかな充実感のような、移り変わって行くものにただ身をまかせて流されてゆく物寂しさのようなものが湧いて、そういうやさしい静まりのなか、言っても詮ない最近の孤独を、人でなく葉っぱや土に触りながら、確認していた。
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by zuzumiya | 2010-08-21 18:41 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

しらちゃんとたまごパン

昔、子供たちがまだ小学生の頃、休日の朝によくせがまれて、「たまごパン」を作った。「たまごパン」というのは単にフレンチトーストのことだが、私が小さい頃、学校がまだ土曜の半ドンであったときに、昼食によく祖母が作ってくれたもので、祖母がそう呼んでいたのだった。
最近は、息子も独立して家にいないし、娘もダイエットばかり気にしているから、朝からこの「たまごパン」を作ることはなくなった。でも、娘のお弁当で卵焼きを作るとき、砂糖を加えた卵を箸でかき混ぜていると、ふと「たまごパン」を思い出す。

昔、千葉にいた頃は新築のマンションで部屋も広かったから、小学生の息子の友達をよく泊めてやった。なかでも、しらちゃんのことはよく憶えている。
しらちゃんの両親は別れたのだったか、お母さんが早くに亡くなったのか、忘れてしまったが、しらちゃんは父方の祖父母と父親と4人で暮らしていた。
お父さんは相当のガンマニアで、大小さまざまなモデルガンが部屋いっぱいに並んでいると、しらちゃんは自慢げに教えてくれた。
「いいじゃない、それで遊んでくれるんでしょう?」
と訊くと、
「ぜ〜んぜん。触るとものすごく怒る」
しらちゃんは口をとんがらせた。

しらちゃんが自分とよく似た境遇で、おばあちゃん子だったせいもあって、私はしらちゃんには格別甘かった。
しらちゃんのわがままだけは聞いてやりたいような、そして、泊めてやっておばあちゃんを少しでも楽させてやりたいような気になって、いつだったか、しらちゃんを3泊も連泊させたことがあった。
おばあちゃんなので、他の奥さんとの型通りの「すみません」「いいえ」の電話口での余計な挨拶もいらなかった。それも気が楽だった。

夫もしらちゃんの境遇を聞いて、何か感じるものがあったのかもしれないが、あの時はいくらフリーで家にいるとはいえ、ずいぶんとよく遊んでやった気がする。
普通は食卓で人生ゲームやオセロや、トランプにウノぐらいしか遊んでやらないのに、あの連泊の日々は、しらちゃんと夫のチームで風船でバレーボールをしたり、スポンジボールでバスケットをしたり、食卓を真ん中に持ち出して即席の卓球をしたり、かなり体力を使った憶えがある。
和室の壁にシーツを貼って、巨大スクリーンにして、イルカの映画を見せてやったのもしらちゃんだった気がする。

今、思い出すと、あの時も今も、ふと
「しらちゃんはちゃんと楽しかったんだろうか」
と思う。そして、あの時も今も
「3泊もしていったんだから、きっと楽しかったんだよな」
と自分に言い聞かせる。

こんなことを考えるのは、高校時代に泊まった友人の家での思い出が引っかかっているからだ。高校の時、友人の家に泊まりに行ったら、その友人が私の見ている前でも、母親の首に両手を回して「ママ〜」と甘えるので、びっくりした憶えがある。母親のいなかった私はびっくりしながら、照れながら、同時にひどく羨ましかった。

家族の仲良くしている姿は、それがいつもの当たり前の姿で、何ら意識などしていない仕草や雰囲気なゆえに、見ているこちらには、結構、突き刺さるものがある。
単に、私の性格がひん曲がっていたのだろうが、小学生のときなど、遊びに行った家で出された麦茶が甘かっただけで、母親のやさしさみたいなものを強烈に感じて、泣きたくなったりしたものだった。
そういう私だったから、しらちゃんをめいっぱい歓迎したい気持ちがあるのだけれど、家族4人であんまり仲のいいところを見せつけて、しらちゃんを知らず知らずのうちに傷つけてやしないかと心配する気持ちもあった。
敏感な子供には、どこでどう地雷を踏むかわからない。

3泊もしていたから、朝のメニューに困ったのだと思う。
最後の朝に、卵があって簡単に済んで、子供うけもいい「たまごパン」を作った。
食パンを4つに切ったのを卵に浸しては焼き、何枚も何枚も大皿にのせてやった。
「これ、何て言うの?」
「たまごパンだよ、おいしいよ」
世話焼きの娘がしらちゃんに教えてやった。
子供たちは喜んで食べていた。

食べ終わった皿を台所の私に返しに来たとき、しらちゃんが
「おばちゃん、たまごパンの作り方教えてくれる?」
と訊いてきた。
「え? いいよ。おばあちゃんに作ってもらうのね」
「ちがう、たぶん、オレが作れると思うから」
「そうか。いいよ、じゃあ、電話のところのメモ帳とボールペン持って来て」
それから私は、小学生のしらちゃんが困らないように、箇条書きにして矢印を使って、できるだけわかりやすく手順を書いた。私の手元を見つめているしらちゃんに、
「しらちゃんは、コンロ使ったことがあるの?」
と訊くと、
「うん、インスタントラーメンなら、ばあちゃんに頼まなくても一人で作れる」
「そうか。えらいねえ、うちのつーくんはカップヌードルもひとりで作れないのに」
それから、念のため、しらちゃんを台所のコンロの前に連れて行って、火加減も教えた。
「砂糖を多く入れると、すぐこげちゃうから、気をつけるんだよ」
「ありがとう、おばちゃん」
「どういたしまして。頑張って挑戦してくれ」
しらちゃんは、笑ってメモをたたんで、半ズボンのポケットに押し込んだ。
それからくるりと振り返って、息子と娘の遊んでいる方へかけて行った。
あのまま、ズボンに入っているのを忘れちゃうんだろうな、そのまま洗濯されちゃってぼろぼろになっちゃうんだろな、とわかっても、いいやと思った。
一瞬でも、しらちゃんの役に立てたと思って、うれしかった。

夫のフリーの仕事が行き詰まって、息子が小学6年にあがる前に私達は千葉から引っ越した。部屋はぐんと狭くなって、息子が新しい学校で努力して作った新しい友達も、昔のように泊めてやることができなくなった。
息子と娘以外にフレンチトーストのことを「たまごパン」と呼ぶのを知っているのは、あの時のしらちゃんだけだ。
私達が引っ越したあと、しらちゃんもほどなくして大阪に引っ越したらしいと、いつだったか息子から聞いたことがある。
しらちゃんが一度でも私の教えた「たまごパン」を作ってくれたか、確かめる術はない。
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by zuzumiya | 2010-08-21 18:21 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

ああ、隣人

五月の薫風が気持ちよい休日。
ベランダで洗濯物を干していると、隣の網戸があいてサンダルの音とともに男ヤモメの鼻歌が聞こえてきた。この天気に機嫌がいいのだろう、鼻歌はふんふんと響いて大きな声である。しかも、境の仕切り板のすぐそこで歌っている。板越しに今、男ヤモメと私は面と向きあっているのかと思うと、妙な緊張が走り、洗濯物を握りしめた。
何の歌を歌っているのかとしばらく聞き耳を立てていたら、いきなりがらがらと痰が絡みだし、男ヤモメは激しく咳き込み、サンダルをひきづるように早々と家の中に退散した。ほっとした。「調子に乗って歌なんぞ歌うから…」と苦笑した。
この男ヤモメ、実はマンションでも有名な変わり者である。
今までこのマンションに長年住んできたのに、ようやく今年になって初めて役員を引き受けたらしい。よくぞ住人がこれまで男のわがままを許していたと呆れてしまう。ここへ越してきたとき「お隣は変わり者だからねえ、挨拶に行っても出てこないでしょ」と同じ階の噂好きのおばさんに教えられた。そうなると人間、ばしっと色眼鏡がかかってしまうものである。
ある時、ベランダの方でじょろじょろと細く水の流れる音がするので、
「まさか、あの男、ベランダで用を足してるんじゃ」
とあわててベランダに出た。遠巻きに、洗濯物を柵に干しているそぶりでそうっと隣の様子を覗いたら、植木鉢の上には男の性器の先っぽならぬヤカンの先っぽが見えたから、単に植木に水をやっていたのだった。「なあんだ」と思い、ややがっかりもしたが、ウジがたかる男ヤモメのくせにどういうわけか花の植木鉢が置いてあるのには感心した。
ひとり者のオヤジがやかんで花の植木鉢に水をあげている。美女と野獣のような、豚に真珠のような真相がわかると、なんだがふっと可笑しくなって、かすかに温かいものがめぐった。
がしかし、この男、変には変なのである。
うちのテリトリーのきわのきわまで、ベランダの柵に蒲団や毛布を干すのである。
よほど家族が多くて干す蒲団が多いのではない限り、隣家とのきわには干さないものだろう。男のいない隙にちらりと覗くと、何もこっちに寄せて干さなくても柵の向こうには何も干していないのである。だから思うに、まあこれは単なる私の想像でしかないのだが、隣の男ヤモメは蒲団を干しながら、ちょろちょろとうちのベランダを覗いているのではないだろうか。そうは思いながら、わかっていながらも、つい癖で、高校生の娘のどうかと思うようなエロい紐パンや派手なブラジャーを男ヤモメ側に干してしまうのである。
それからこの男ヤモメ、夏場になると網戸にして夜遅くまでテレビをつけている。
風呂上がりにバスタオルを干しにベランダへ出たときに、男の部屋からバラエティ番組のような騒がしい人の声がするからわかるのだが、同時に呆れるほど大きいいびきも聞こえてくる。おそらくテレビの前でビールでも飲んでうたた寝でもしているのだろう。
やれやれと呆れてしまうが、でもその後にどういうわけか私は「網戸を開けっ放しで寝たら風邪引くだろうに」と思ってしまうのである。
別にいい人ぶっているわけではない。その証拠にテレビから聞こえてくる声が番組の声かエロビデオの女のあえぎ声かをまずよく聞いて確かめているのである。どうしても私の中では男ヤモメはどこかやましい存在でなくてはならぬものらしい。
それでも、やっぱり隣の男ヤモメは変わった奴で、出来れば廊下などで顔を合わせたくもないのだが、さっき書いたような感情はたしかにあって、それが同じ屋根の下に住む隣人への不思議な情のようなものなのかもしれないと、ふと思ったりするのである。
都会のマンション生活では近所付き合いもヘッタクレもないのだが、隣家との仕切り板の向こうにひとたび人のいる気配があれば、机でものを考えてても「何やってんだ?」と気をとられるし、ふだんは聞こえてこない誰かと話をしているような声がすれば思わず「珍しいな」と耳をそばだててしまうし、反対にカタリと音もしなくなれば「どうしたのだろう、まさか死んでないよなあ」と変な気になって、廊下を通る際には新聞受けを横目に見たりもする。
これからの季節は網戸になるので、ベランダに出ると男ヤモメの部屋からは独特な渋い加齢臭のような、いかにも男ヤモメらしい、女と住んだら間違いなく中和されて消えて行くであろう独身男のすえた匂いが流れてきて、一人の人間が生きて生活しているそのおかしみとあわれを他人の匂いの中にいやがおうにも感じてしまう。
会話もしないし、できればあんまり顔も合わせたくはないし、挨拶も面倒だったりもするのだが、それなりに隣がいることに、同じ屋根の下に一緒に住んでいるということに、都会人特有の、ないようであるような親近感と連帯感、捨てがたい不思議な安心感が確かにある。あの男ヤモメですら、引っ越したり、入院していなくなったりすれば、どことなく物足りない寂しい気がする。私はあの男ヤモメの隣人を通して、大げさかもしれないが、もしかしたら、人が生きていくということを再確認したり、生きて行くそのこと自体にしみじみと同情しているのかもしれない。自分のなかにそういう不思議な隣人への情のようなものがあるのをなぜか、可愛らしいと思うのである。
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by zuzumiya | 2010-08-21 18:18 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

祖父の家庭菜園

散歩に出るなら、夕方の、日がやわらかく黄味を帯びてきた時間帯がいい。
夫と隣町までぶらぶら歩いて行くと、前も後ろもまっすぐに伸びた狭い路地を見つけた。

「こんなところは珍しいなあ」

夫は買い替えたばかりのデジカメを早速、取り出した。
下町でもそうだが、路地に生きる人々というのは、どうしてこんなにも草花を愛して止まないのだろう。そして、道行く人に見せるというサービス精神が旺盛である。
道に沿って、そこかしこに丁寧に花が植えられているのをただ眺めて歩くだけで、心が洗われてくる気がする。建物を見ても、そんなに豪勢な家はない。この不景気にこれだけの花を買い求めて飾るのだから、お金もかかるだろうに、花より団子に陥らぬ心根にいたく感心した。

線路沿いの道に入った。
道幅は軽自動車が一台通れるくらいの狭さだが、ここもまた気持ちよくまっすぐに伸びている。道の中ほどに薄茶色の猫が座っている。向こうから、自転車を押しながら歩いてくる家族連れがいる。さっきの路地といい、この細道といい、なにかとても懐かしさを誘う風が吹いている。夫はもちろん、カメラを構えている。
ぽつぽつと歩き出すと、この線路端の住民も草花が好きらしいことがわかった。
猫の額ほどの庭や玄関の周り、ほんの小さな三角形の余り地も花壇にして、パンジーやサフィニア、マリーゴールド、カランコエなどがきれいに植えてある。
隠れた線路端の細道なのに、ゴミや空き缶なども落ちていず、雑草もきちんと抜かれて、花がみな生き生きとこちらを向いている。昔乗った都電荒川線から見た線路端もプランターがたくさん出ていて、気持ちが和んだ憶えがある。
ひっきりなしに電車が通る、目にも耳にもうるさい場所だからこそ、大いに草花を植えて癒されたいのだろう。そしてその想いが共通して、この道端の数軒の人々が協力し合ってこの場所を清潔に福々しいものに保っているのだろう。
庭先は花で見事だったが、線路の際の舗装されていないわずかな土の部分は家庭菜園として利用しているらしく、どこの家も支柱をさしてトマトや茄子、胡瓜やいんげんのような身近な野菜を育てていた。

「ねえ見て、これ茄子でしょ、茄子が植わってる」
「茄子?」
「こんな狭い場所なのに、みんなていねいに育てられていて、気持ちがいいねえ」

家庭菜園といえば、死んだ祖父を思い出す。
母方の祖父は昔は大工だったが、体が資本の大工だけではいづれは食べて行けなくなるとしっかり者の祖母が思ったのか、二人はアパートをやっていた。
6畳に4畳半の台所、水洗便所、浴槽なしのシャワーのついた単身用の部屋を6部屋持っていて、アパートはもちろん、大工の祖父が建てた。
私は親の事情で祖父母の養女となり、「大家さんのお孫さん」として、大学を卒業するまでそこで暮らした。アパートの住人は時代ごとにいろんな人がいたが、しっかり者の祖母は不動産屋に頼みこんで、近くの短大と提携していたのだろう。部屋が空けば必ず大学生のお姉さんが紹介されてきた。

祖父は大工根性が抜けきれず、子年生まれの性分もあって、暇さえあればちょろちょろと庭に出ては、トンカチやノコギリを握って何やら作っていた。今思い出してみても、いったいあんなに毎日、何を作っていたのかさっぱりわからない。いくらぼろアパートといっても、そんなに年がら年中、故障したり補強したりもなかろうに。
祖母は気が強く、祖父の大工時代に睡眠時間3時間で働かされたのと、浮気性で女苦労をさせられたせいで、随分と折り合いの悪い夫婦だったから、祖父は家の中より庭に逃げ出していたのかもしれない。

私が小学校三、四年くらいの頃だったろうか。
生活の足しにか、昔とった杵柄か、市のシルバー人材センターから依頼を受けて、大工仕事を再開していた頃があった。
毎朝、カリカリの梅干しを細かく刻んで御飯に混ぜた、もの凄い大きな握り飯をただ一つだけ持って(私はこれをみすぼらしく思えて哀しかった)、祖父はどこかへ出かけて行った。時々、ほんの気まぐれに、夕方、駅に迎えに行くと祖父はたいそう喜んだ。
面白かったのは、祖父がどこかの家のトイレのドアを頼まれて作ったときのこと。
飾り窓を斜めに取り付けてしまい、苦情の電話が家にも来て、祖母と大げんかをしていたことがあった。
「なんだ、たかが便所のドアじゃねえか、うるせえなあ」
というのが祖父の言い分だったが、あの頃は白内障が徐々に進行していたのか、単に老いぼれて手元が狂ったのかはわからないが、斜めに傾いだ飾り窓が目に浮かんで、私は可笑しくてしょうがなかった。

この祖父のことは以前に拙著『夫婦いとしい時間』やブログのエッセイにいくらか書いているが、実に面白い男だった。
祖母は私が常に優秀であることを望んだが、祖父は違った。私が机についていると、
「下手な考え休むに似たり」
と言って、ステテコ姿でにやにや立っているのである。
それで、ムッとすると、
「かずみ、すいか喰うか、すいか」
と誘うのである。
「勉強してるから、あとでいい」
とつっけんどんに言うと、
「うめえぞ、すいか。いいのか、すいか喰わねえのか、え」
ともう一押ししてくる。知らんぷりで鉛筆を動かしていると、ちょっと間があって、そのうち、階段を一足一足みしみし言わせて下りて行く音がする。
この階段をゆっくりと下りていく音がするたびに、なぜだが急に「可哀想な事をした」という気が起きて、やんわりと自己嫌悪になる。
そして集中は途切れて、ついに鉛筆を置いて、私は台所へすいかを食べに行く。

朝は着物の前がはだけ、黄色い目ヤニだらけで起きて来る。食卓に御飯が並ぶまで手持ちぶたさなのか、食卓を指で叩いてリズムをとる。
チンドン屋のように「ズンチャ、ズンチャ、ズンチャカチャッチャ」とやれば、食卓の皿やコップがカチャカチャと鳴って、朝から祖母の怒りを買うのである。
食事の途中でがぶりと入れ歯を外し、湯のみのお茶にくぐらせて洗う。
その入れ歯は歯医者の先生に黙って、自分で使いやすいように「大工らしく」鉄やすりで勝手に削ってしまう。
物を食べれば、必ず片尻あげて、蛙を踏んづけたような汚い音のおならをする。
すかさず私が文句を言えば、
「かずみはやせっぽちだから、肥やしをかけてやった」
と憎まれ口をたたく。
「ごちそうさま」ではなく、「馬ぁ勝った、牛ゃ負けた」と言い、寝に行くときは
「さあ、そろそろ横に立つとするか」である。
トイレに入れば、社会の窓は全開、手も洗わない。
窓辺に立って何を言うかと思ったら、
「ももひきや破れてちぎれてケツが出て、朝の太陽にちんこちぢまる」
と変な歌を詠む。かなりユニークな男だった。

それから、祖父には覗き癖があった。
大工仕事をしている振りをして、梯子をかけて二階の庇に上っては、若いお嬢さん方の部屋の中をベランダ越しにちらちら覗いていた。もっと昔には、どういう理由をつけて部屋に入ったのかわからないが、独身男の部屋にも入っていた。(この時はなぜか幼い私も一緒に入った記憶がある)
その後、祖父が侵入したのが男にばれたらしく、家賃を持って来た際に祖母はえらく文句を言われていた。

大工仕事だけではなく、二階の庇に上がる理由は他にもあった。
それが家庭菜園であった。
祖父は魚屋から発砲スチロールの箱をいくつも貰ってきて、土と苗を入れては二階の庇や物置の屋根に上げた。
そこには茄子や胡瓜、どじょういんげん、さやいんげん、トマトが植わっていた。
うちの庇の方には、巨峰の葡萄棚も作っていた。物置の前には苦くて酸っぱいだけの夏みかんの木があり、アパートの前には甘柿と渋柿とが三本植えられていた。
隣のアメリカ帰りの同級生の家は、椿やら沈丁花やら金木犀やら、品のいい花が咲いていたのに、我が家の庭はみな食べ物づくしで、食い意地が張っているみたいで恥ずかしかった。
特に柿が熟れて共同の通路に落ちても、祖父は掃除などしないので、そこに銀蝿がたかって、隣から苦情もきていた。そういう時でも、
「んなものは、おめえ、自然のことなんだから、しょうがねえ」
「ほっときゃ、土にかえる」
という始末だった。アパートの住人も大家の祖父の素行には困ったものだと呆れていただろうが、祖父が穫れた野菜や果物を気前よくベランダ越しに分けてやったりしていたから、なんとか目をつぶっていたのだろうと思う。

私はその頃からいんげんが好きで、祖母にいんげんのみそ汁やいんげんをいっぱい茹でてもらっては、マヨネーズと醤油をかけて食べていた。茄子はみそ汁に入れていたが、あの頃、祖母は胡瓜までみそ汁に入れていた。胡瓜の出来は悪く、皮が硬く種が大きくて、とても生で食べられなかったので、みそ汁に入れていたのだろう。トマトも皮が硬かったがよく食べた。思えば、祖父の作った野菜はどういうわけか、みな皮が硬かった気がする。祖母から「えんごうじじい(=強情っぱりなじじい)」と呼ばれていた祖父らしい出来といえる。

家庭菜園といえば、とんでもなく臭い肥料のことも思い出す。
祖父が生ゴミのくずから肥料を作るといって、筒状のゴミ箱を庭の隅に置いた。祖母は料理の度に野菜くずや魚の骨や内蔵や卵の殻やらをそこへ入れていた。
ところが祖父は「肥料を作り出す」のではなくて(そんな芸当はできないに決まっていたのだが)、そのままその生ゴミから出た腐った水を単に植木に注ぐのだった。
「油かす」だの手製の「生ゴミ水」だの、とんでもなく臭う肥料をアパートの住人がいるのに、隣近所もあるのに、かまわず土の上に注いでまわるのである。
夏の網戸の頃に、窓辺の机で勉強していると、いきなりぷうんと臭ってくる。
「また、やったな」
と鼻をつまむ。いっさんに階段をかけ下りて、
「おばあちゃん、臭いよ、また始まった」
と祖母に文句を言っても、口の悪い祖母は
「あの、くそじじい!」
と虚空を睨むだけである。それもそうで、私達はあの臭い肥料のおかげで野菜が食べられたのだし、吝嗇だった祖母はその野菜のおかげで八百屋にいかずとも済んでいた。

それにしても、今思い出して可笑しいのは、アパートの住人が誰ひとり文句を言ってこなかったことである。みな夏の盛りに、肥料をベランダの目と鼻の先に撒かれても、我慢していたのだと思うと、可笑しくなってくる。
私が思うに、独身者や学生の集まりであったから、祖父に見つからないように、ベランダの柵から手を伸ばして、時には生った野菜を失敬していたのかもしれない。
それで鼻が曲がるほど肥料が臭くても、みなじっと耐えていたのではないか。
あの肥料の臭いが流れてくるたび、「おえっ」と吐き気がしたが、ざるにあげられ湯気がもうもうと立っている青々としたいんげんを見ると、「旨そう」に変わってしまう。
ただ、トマトや葡萄のように、生のものにかぶりつくとき、どこか鼻のうんと奥の方で微かにあの悪臭がよぎることもあった。

今思い出すと、祖父という男はつくづくクリエイティブな人間だった。
カラーテレビのブラウン管を抜いた大きな箱で、増えすぎたインコの巣を作ってくれたり、夏休みの工作の宿題で回転する牛乳箱を作ってくれたり、木製の大きな組み立てプールも作ってくれた。孫やアパートの住人たちが喜ぶからと、発泡スチロールをありったけ屋根に並べたみすぼらしい家庭菜園を作って、臭い肥料を撒き(本人がいちばん臭かったろう)、野菜作り、果物作りに励んだ。
最後の最後に親族間で諍いがあり、特別養護老人ホームに入れられる前まで、少なくとも鶴間のあのアパートがあった頃は、とにかくちょこまかと休むことなく何かを作っていた。

友達の家からの帰り、踏切を渡れば、線路端の道が次の駅まで続く。
そのまっすぐな道を走って行くと、道路に梯子が突き出ている。
「ああ、じいちゃん、車の邪魔になるのに」
と思って見てると、そのうち、トンカチをぶら下げた祖父が梯子を下りてくる。
「ただいま」
と言って横を通り過ぎる。
縁側のざるには祖父が穫ったいんげんがこんもり置いてある。
祖母は灯りのついた台所でこちらに背を向けて忙しく立ち働いている。
そんなありふれたいつもの風景は、あの頃、何遍もあって、爪の先ほども貴重には思えなかったが、40過ぎてもまだ昨日のことのようにありありと思い出せる。
私は当時、母親とのことでどんなにか悩みを抱えて泣いていても、結局は幸せだったのだと思える。幸せでなかったら、こんな何でもない風景など思い出せやしないのだ。
私のなかの、こうやって下手の横好きながら、文章を飽くことなく書くところは、実は勤勉な祖母の血ではなく、祖父の血なのではないかと思う。


「いいなあ。私、この道すごく気に入ったなあ」
「そう?」
「今日はいい散歩だったよ。写真、楽しみだね。スライドショーやろう」
「そうだな」

線路端の、家庭菜園とも言えないようなほんのわずかな土の上に、今しがた如雨露で水が撒かれたばかりの丸く湿った跡がある。そんなのを見つめて歩いていると、ほのぼのとして、やさしい気持ちになってくる。
とんでもなくユニークな祖父と、厳しく情の濃かった祖母と、ほんとは二人に隠れて泣いてばかりいた泣きべその孫だった。たった三人であの小さな暮らしを必死に守っていたことが、奇蹟のように愛おしく思えた。
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by zuzumiya | 2010-08-21 18:14 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

記憶のシャッフル再生

ときどき、ふっと、とんでもなく昔の記憶の断片が浮かんできて戸惑う。
それは不思議と特別なイベントや記念の日ではない。たとえば、昔しばらく住んだことのある場所の、西日のあたるスーパーの入り口で、夫とふたりこれから買い物に入って行こうとしている、そんな何ということもない瞬間だったりする。
二人が新婚でとか、私が妊婦でというような記憶に残りそうな特別な理由がくっついているわけでもない。ただただ普通の、ごくありきたりの、いつもの生活のワンシーンでしかない。現実の私はというと、机に向かって仕事をしている。そんなささいな記憶を思い出す(というかふいに湧いて出て来る)きっかけになるような匂いや光や音や、漠然と辺りの雰囲気や、そんな感覚的な刺激があったわけでもない。きわめて普通にしているだけ。ただ突然、記憶のシャッフル再生としか思えないことが起こる。
そうして出てきたとり立てて何でもない映像に不思議に心が奪われる。「そんな日があったなあ」と懐かしくなって、ささいな瞬間だけれど「もう二度とそこへは戻れないんだなあ」と思い、次の瞬間、胸の奥へきゅううとせつなさが差し込んでくる。
そして、こういうことが起きるとあまりに不思議なので、自分は実はもう長くないんじゃないかと思ったりする。もうすぐ死んでしまうから、とんでもない昔の何でもない瞬間の記憶がふいに湧いて来て、「ほら、お前の人生はこんなにもささいな瞬間の連なりだったけれど、今せつなくなるくらい、しあわせだったろう?」と神様が教えてくれているんじゃないかと勘ぐったりする。
そうして何となく思う。自分にはきっと「いつものようにじゃすまされない、世界が一変して見えてしまうような日」がいつかは来るんだろうな、と。悲観主義なわけじゃなくて、それが単に事実なんだろうな、と。人よりもずっと貧乏だし、いろいろ気に病むことも多いが、総じておだやかな毎日がおだやかに過ぎて行くけれど、でもそこには何の保証もなかったんだと気づく。
必ずその日は来るし、なんだかんだ言ってもそこへ向かってじりじりと押されるように生きて行くしかない。その日が来たら、もう今までのような「いつも」も「普通」も「平凡」もいっぺんに消え失せる。そうして、時間は秒針だけが音を立てて、今まで思ってもみなかったあらたな価値でカウントが始まるんだろう。
そう思うと、過ぎて行く今が、この時間が、家族といるこの何気ない暮らしのこのままが、見えているこの世界が、胸に抱えてる想いのすべてが、強烈に愛おしく「惜しい」と思えてくる。昔のようにささいなことでけんかをしたり、うだうだ迷ったり、意地を張って一人でいるような、そんなことをしている暇はもうないんだ、とはっきり思えてくる。死から逆算すれば、人生はいつでも「残された時間」だった。誰でも「残された時間」を握りしめて、そうとは知らずにうかうかと生きている。でも、何かでこの「残された時間」の感覚に気づいて、漠然と、でも無性に強烈に「惜しい」と思える瞬間、かつてない意味と深さで、しあわせが打ち寄せてくる。どういうわけか、ときどき起こる記憶のシャッフル再生は、そんなことを私に思わせる。



※「蛇のしどろもどろ」ではないこのブログに、こういうことを書くつもりはなかったのですが、情けないくらい、言葉にすると消えて行く部分があって、うまく書けなかったけれど、大切な何かにちょこっとでも触れられた気がして、載せておきたくなりました。とても400字にはまとめられませんでした。記憶のシャッフル再生があると、いつでも何とも言えない気持ちになります。懐かしさだけでは言いきれないような、せつないような哀しいような、でも穏やかなやさしい気持ちです。阿部昭さんが「人生の一日」と書いていますが、たぶん、シャッフルされて出てきた何でもない一日が彼のいう一日だったのかもしれないなあ、と今では思います。
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by zuzumiya | 2010-08-09 12:12 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

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