暮らしのまなざし

カテゴリ:日々のいろいろ( 596 )




ヘンな訓練

今日、夫と久しぶりに出かけたときのこと。
駅まで行く途中の公園で、ヘンなオジサンを見かけた。
短パンに半袖のスポーツウエア、頭は薄くてずんぐりむっくり。お腹は完全にメタボ腹。このオジサン、最初はピクニックシートを敷いて寛ぐ家族らに混じって、芝生に仰向きに寝ていた。
ところが、何を思ったかいきなり跳ね起きると、慌てた様子で5、6メートルくらい離れた公園の案内板のところまで走って行った。あまりに唐突な動きだから、「何?どうした?」と思わず、オジサンを目で追った。
案内板のところでハアハア息をしながら、おもむろに腕時計を見つめ、そのまま元いた場所にとぼとぼと帰ってきた。そしてばたんと倒れて、仰向けに寝てしまった。
「何だったんだろう…」
気になって目を離せないでいると、いきなりまた跳ね起きて、だだだっと走って行く。
案内板のところで腕時計を確認し、また寝ていた場所へ戻ってくる。
「ねえ、あのオジサン、何だかヘンだよ」
歩きながら夫に言ってみた。遠巻きに二人で眺めていると、
またもや突然跳ね起きて、案内板まで猛ダッシュしている。半分ハゲたメタボ腹のオジサンがバネ人形のように跳ね起きて、慌ててダッシュするそのてんてこまいな姿は、なんとも可笑しい。夫も
「なんだ、ありゃ」
と笑い出した。見ていると、どうも「跳ね起きダッシュ」を繰り返している。案内板のところで腕時計を見るのは、アラームでも仕掛けているのか。アラームが鳴って跳ね起き、慌てて案内板までダッシュする。何かの訓練のようだが、しかし、何の訓練だろう。
「瞬発力とか鍛えてんじゃないの?」
と夫に言うと、
「瞬発力って言ったって、わざわざ寝てなきゃならないってことはないだろう」
「それなら、地震とか火事とかで飛び起きて逃げ出す訓練とか?」
「地震ですぐ飛び出す方がよっぽど危ないだろう」
「火事は?」
「消防士ってことか? あれが?」
二人はもうほとんど後ろ歩きの状態で見ている。しかし、あのメタボ丸出しのせり出た腹のオジサンが消防士とは思えない。それに、消防士が休日に公園に来て、ひとりで自主トレもないだろう。不思議だなあと思いながら見ていて、ふと頭に浮かんだ。
「火事といえばさ、たしかあなたのお父さん、ガラスにぶつかったんだよねえ」
夫がクスリと笑った。
そうなのである。夫の父親、すなわち義父は、火事だと聞いて、慌てて寝床から跳ね起き、そのままやみくもに走って行ってガラス戸にぶつかったという恐るべき過去を持つ。
「あれって、あなたの家が火事だったんだっけ?」
「ちがうんだよ、じぶん家ならわかるんだけど、よそん家の火事なんだからさ」
二人とも吹き出した。
「親父は火事が好きでさ、野次馬なんだよ。半鐘が鳴り出すと居ても立ってもいられなくなって、何処だ、えらいことだって出て行っちゃうんだよ」
「それで、火事の現場へ行って、どうするの?」
「えらいことだ、えらいことだって言って、ただ見てる」
爆笑した。
そういえば、うちの祖父も火事が好きだった。
幼い頃、真夜中に線路向こうで火事が起きた。たまたまトイレに立った私が見つけて、寝ている祖父に知らせたのだが、祖父は瞬時に跳ね起きて、窓から炎を確かめると「えれえことになった」と言って、はだけた寝間着のまま、すっ飛んで行った。
あの時の闇に浮かんだ白いステテコは忘れられない。
私と祖母は家の前の道路で遠巻きに炎を見ていたが、祖父はいつまでたっても戻ってこなかった。よその家は父親が家族の傍らに立って、何やら心配そうにみんなで喋っているのに、うちのじいちゃんは家族をほっぽらかして何処へ行ったのだろうと思った。
「ひょっとして、じいちゃん、消防士の手伝いでもしてんのかな」
「あのクソジジイがそんなこと、やれるわきゃねえ」
ぴしゃりと祖母に言われて、白いステテコが浮かんで、それもそうだなと納得した。
昔の男がみな、そして信州男がみな、火事好きの野次馬根性というわけではないだろうが、義父と祖父とに似たところがあったのがなんだか可笑しい。
やはり夫と私には遠い昔から縁があったのかもしれないな、と思ったりした。
「今度、あのオジサンを見つけたら、何の訓練ですかって聞いてみな」
「いやだあ、そんなこと聞けないよ」
「だって取材しなきゃ、文章も書けないだろう?」
申し訳ないが、義父の恥をネタに、もう文章は書いてしまった。夫よ、ごめん。
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by zuzumiya | 2010-08-25 17:29 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

木箱の犬

娘に頼まれて郵便局へ行く道すがら、びっくりするものを見た。
通りの脇の民家には、玄関扉の横に粗末な犬小屋がある。
犬小屋の入り口前にはどういうわけか木箱があり、ぼろが敷かれていて、いつも雑種犬が丸くなって寝ている。なんとなく気になっていて、いつもそこの家の前を通るときは必ず玄関先を見て、木箱に犬が寝ているかどうかを見るのが習慣になっている。
寝ているといっても犬は鼻先だけ腹の毛の中に潜り込ませて、両耳はいつでもぴんと立てている。私の歩く気配を聞き取っているのである。
たまに柵の前で立ち止まったりすると、何事かとすぐに顔を上げ、「うぉん」とひと声こちらに向けて吠えてみたりして、まずまず番犬気取りなのである。
そういうところが飼犬の役割として飯を貰っている以上致し方ないとはいえ、こちらも悪人でもないのに吠えられればいい気はしない。
「なんだよ、ばか犬」と心のなかで言い捨てたりした。
過去に1度だけ犬が散歩に出ていたのか、木箱に居なかった時があったが、玄関先に犬をつなぐ細い綱がただするりと伸びているのが、なんともつまらなくて、そんな気持ちになることに自分でも驚いた。
まあ、そこの犬とはそういう経緯があった。

今日も自転車で通りがかる際に、いつものように木箱で寝ているだろうと思っていたが、「うぉん、うぉん」と鳴き声がする。どうしたのだろうと思ったら、どこかで低く「んゃ〜おぅ、んゃ〜おぅ」と猫のだみ声がする。
「さては野良猫とでも揉めているな」
と愉快な気持ちになって、猫の姿を探してみたら、猫ではなかった。
なんと真黒な鴉が一羽、門扉に乗って、首を振り振り、猫の声音で鳴いていた。
あまりのことにびっくりし、自転車で数メートル行きかけたが、やめて振り返った。
鴉も立ち止まったこちらに気づいて振り返ったが、別段、危害はないと感じたらしく、しばらくするとまた吠える犬を見下ろし、「んゃ〜おぅ」とだみ声を作ってみせた。

まったく、いけしゃあしゃあ、とはこのことである。
犬はつながれているので門扉までは届かず、ふざけた鴉を見上げて、ただ吠え立てるしかない。しかし、鴉の奴は、門扉の上をちょんちょんと両足で弾んでみせ、まるで踊るようにして、全身で犬をからかっている。
家の者はいないのか、薄情なのか、サッシのなかの障子は一向に動かない。
犬は苛立つが、どうにもならないので情けなくうろうろしては、鴉に向かってひとつ、ふたつ吠えるのをただ繰り返すだけである。
「綱さえなければ門扉に飛びかかってやるものを」
と、犬の気持ちになって悔しく思ったが、真にそう思わしめるのは、あの鴉の背中であった。猫のだみ声を出すときに首を下げて声を振り絞るようだが、どこかいじめっ子が「やーい、やーい」と人をからかうときにするあの首の下げ方を想起させ、むっくりと盛り上がった背中がやたらと意地悪く見えた。
鴉というのは賢いとは知っていたが、猫の声音まできちんと真似して、つながれた犬にこういう悪ふざけをするとは知らなかった。
あのときばかりは、木箱の犬が哀れであった。

****************************************

これは、たしかまだ桜の咲いてた時分に別のところに書いた文章なのだけれど、この木箱の犬とはこの鴉の一件以来、ほんとうに仲違いをしてしまったようである。
私が買い物で通るたびに、立ち止まってもいないのに、顔を合わすだけで、吠えるようになってしまった。あの時、鴉を追い払わずただ突っ立って見物をしていた私をおそらく根に持っているのだろう。こちらの気持ちを知りもしないで、この文章を犬語で読んでやりたい気持ちである。
庄野さんの随筆を読んでいて、井伏鱒二が飲んで夜ふけに自宅に帰るときに、路地の角ごとに近所の犬が顔をのぞかせては「あのかただ」「やっぱり、あのかただ」と吠えられることなく引っ込んで、「私だけは長年の馴染だから、どんなに夜がふけていても、出迎えを受ける」と随筆に書いてあったというのを読んで、ひどく悔しくなって、わざわざここに載せてしまった。
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by zuzumiya | 2010-08-25 17:26 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

おじいさんと犬

おじいさんと犬がいる。
おじいさんは小さくてずんぐりむっくり。
笑うと目のなくなるような優しい顔立ちで、
膝と腰はまるでかがんでいるかのように曲がっている。
犬はおじいさんの風貌に似合わず、洋犬の茶色いミニチュアダックス。
名前は聞いたことがない。
老人に飼われているペットが甘やかされて皆そうなように、
この犬の胴回りもみっちりと温かそうに肥えている。
なんとなく衣服や全体の雰囲気から、おじいさんはひとり身で、
小さな平屋にこの犬とだけ暮らしている、そんな気がする。
毎朝、通勤の道で、おじいさんと犬によく会う。
いつだったか、通りの向こうで目撃した。
おじいさんが犬を散歩させてたら、いきなり窓が開いて、顔を出したおばさんに
「そこでおしっこさせないでよ」と叱られて、
おじいさんは曲がった腰をさらに曲げて、ぺこぺこ謝っては、犬の綱を引き寄せていた。
今朝、コンビニから出てきたら、おじいさんと犬がいて、
おじいさんは犬をガードレールにつないでいるところだった。
犬は別れを察知して、短い足で足踏みしながら、そわそわしている。
おじいさんも犬のせつなく泳ぐ目を見て、心配になったのか、
「ちょっとだけだ、ちょっとだけ、な、よしよし」と言い聞かして、
一瞬だけ両手で顔をつつんだ。そして、おじいさんはコンビニに入っていった。
それからが大変だった。
犬はもの凄い太い声で、ほんとうに「ばうわう、ばうわう」という声で、
おじいさんを追って鳴き出した。
ミニチュアダックスの、あの小さな体のいったいどこに、そんな力が隠れているのか、
朝の街じゅうに響きわたる、それはそれは凄まじい声だった。
大好きで、大事で、
まるで、じぶんがいなければ、おじいさんは守りきれない、
離れたら、おじいさんもじぶんももうおしまいなんだ、と言わんばかりのあの叫び。
犬ながら、ちょっと、びっくりした。
あんなふうに、大事な誰かを大事だと、大好きだから行かないで、ひとりにしないでと、
全身の力で泣き叫ぶ、そういうだだをこねたのは、
いったいいつが最後だったろう。
いつから、わたしは、こんなにものわかりがよくなったんだろう。
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by zuzumiya | 2010-08-25 17:24 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

はっきりしない春

今日、さっき買い物に行ったときのこと。
どこからか鶯の声がするので、今年初めてだな、と嬉しくなって歩きながら音の方角を探していると、どうやら道端の住宅の庭にあるほんの少しの竹薮から強く聞こえてくる。
私が思わず立ち止まって竹薮の方を真剣に見つめると、不思議なことに鶯も声を一段と高くして、朗々と鳴き上げるようだ。
まるで鶯の姿を求める私の視線が鶯からもはっきり見てとれて、それをものすごく喜んでいるかのように、聴いていると「こんなに?」と驚くほどの強い調子で辺りに響かせる。
ほーほけきょ、ほーほけきょ、ほけっきょ。
まだ若い鶯なのか、いつでも滑らかな鳴き声ではなく、時折途中でつっかえてみたり、きちんとした「ほー」ではなく「ふー」とくぐもって揺れてしまう音が出たりする。
可愛さに笑いかけて、はっとした。

もしや、これはいたずらではないか。

そう思ってよく見れば、竹薮のわきに大きなガラス窓がある。
レースのカーテンが引かれているが、あそこから家の誰かが鶯笛を吹きながら、私の様子にほくそ笑んでいるのではないか。アニメのサザエさんにだって、カツオが鶯笛を吹いて、裏のおじいさんに一句書かせてしまうという笑い話があるくらいだ。
そして、この私にも似たようないたずらをした憶えがあった。

家には鳥の鳴き声を収録したCDがある。
あのときは外で野鳥が鳴いていて、何が鳴いているのか調べたかったのでCDをかけたが、メジロだとわかった。いい気になってCDのボリュームを上げていたら、そのうち、外にいる本物のメジロとCDのメジロとが囀り合いを始めてしまった。「いいねえ」などとベランダでひとり悦に入っていたら、いきなりCDのメジロが終わって次のカケスにかわった。でもこのカケス、「ジイジイ」と激しく鳴き立てて、ものすごくブサイクな声なのである。外のメジロは驚いて、それ以来うんともすんとも言わなくなってしまった。
もし、あの囀り合いが求愛の意味だったとしたら、ほんとうに外のメジロには申し訳ないことをしたと思う。

もしかしたら、うまいこと鶯笛ではなくても、私のような野鳥のCDかもしれず、もしそうだったら、わざわざ足を止めて、口をぽかんと開けて見上げている私の顔はさぞや間抜けに見えただろう。いたずらだとしたら、肩を振るわすほど可笑しかったにちがいない。
季節の鳥なので本物の声を何度も聞くわけにはいかないが、できれば野鳥の素人でも、鶯の姿をこの目で見ながら「こういう声が鶯なわけだな」と納得して聞いてみないことには、春の陽気に気を良くしているぼんやり頭は、鶯笛でもCDでもまんまと騙されてしまう。まあ、気分ということだけなら、竹薮にスピーカーでもいいんだろうが。

30分ほどして買い物を終え、また同じ通りを歩いてみたが、案の定、鶯は鳴いていず、真相はまさしく薮の中。何となくしてやられた気持ちになって、竹薮を睨みつけて帰ってきた。

テレビでレポーターが蕎麦屋の店の横に咲いている桜を見つけて、
「昨日の陽気でもう都内でも桜が咲きはじめています!」と、喜び勇んで店に飛び込んだら、奥に座っていた蕎麦屋の主が「ありゃ、杏だよ」と冷たく言い捨てた。
ああ、そうか。
うちの前に咲いているあの「桜もどき」も実は河津桜なんかではなく、杏かもしれん、と焦った。梅と桃との区別もいまひとつはっきりせず、そのうえ杏まで存在するとなったら、もうどれがどれだか、私にはお手上げである。
もしかしたら、園芸屋が「染井吉野は高いが、桜に似ている杏ならお安いですよ」とでも言って売りつけているのだろうか。
春は厄介だ。心待ちにしているものがありすぎて、人はつい騙されやすくなる。
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by zuzumiya | 2010-08-25 17:22 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

世界は言葉に満ちている

先週の週末のこと。わたしが午後から出かけなければならない用があって、手早く洗濯をして、シャワーを浴びたかったのだが、夫が何を思ったか、狭い洗面所を陣取って片づけを始めた。A型夫の片づけはほんとに細かくて、たとえば、眉毛鋏や毛抜きや小さなものがごちゃごちゃと入っている小物入れが棚にあるとすると、それをいったん全部ティッシュを敷いた床に広げて、小物入れの底を四隅の隅まできれいに拭く、そしてその小物ひとつひとつをきれいに拭く、というような丁寧さなので、始まるとなかなか終わらない。
「人が忙しいときに、何やってんのよう」
カチンときたが、そもそも主婦で今は家にいるくせに、きちんと隅々まで掃除していないわたしがいけないわけで、夫は見るに見かねてのことだろうと思ったので、文句は言えない。そんなふうにきめ細かくやってもらって悪いな、とは思う。でも、どっちかっていうと「そこまでしなくても」だし、「わたしが出かけてからすりゃいいでしょ」であって、とにかく邪魔で迷惑だった。

誰かと一緒に暮らすその生活のなかで、いちばん解釈に難しいのは「やさしさ」というものだったりする。良かれと思ってやっても、その良かれが相手のいま欲しい良かれにぴったりあてはまらないと、良かれの「やさしさ」が一瞬でひるがえって仇になる。
若い頃、台所に立つ夫の背に「お皿を何枚洗ってくれたって、今、欲しいのはそんなんじゃない、愛の言葉なのに」と何度憎々しく思ったことか。
夫はわたしへのやさしさや、ふたりで生活していくことへの誠意の表れとして掃除や洗濯の家事を積極的に手伝ってくれたのだが、いつだってわたしは、言葉でする愛情表現の照れや面倒さからの「逃げ」として捉えてきた。

でも、先日、帰宅してぴかぴかな洗面所で手を洗ったとき、ふと、うれしくなった。
手を洗いながら、洗面所のそこいらを見渡して、どれもこれもがきれいに並んで、すっきりと清潔そうなのを見たら、ニヤニヤとにやけるぐらいうれしさが胸に広がった。
そして、そのとき、はっと気づいたのである。

会話というのは別に話し言葉を交わすだけを言うんじゃないな。
生活のいたるところに、話す言葉にかわる言葉が隠れているんじゃないか。

ぴかぴかの洗面所もそうだし、毎晩ふつうに出てくる温かいごはんや、なにげに飾ってある花だとか、あったかいお風呂だとか、さっぱりしたシーツだとか、玄関の靴がきれいに揃えてあったりとか……。
そういうところに潜んでいる「語られない言葉」をどれだけこころで受け取れるか、そういうのもひとつの会話なんじゃないか、と思った。「世界は言葉に満ちている」
ちょっと大袈裟だけど、そう思った。
それからわたしは手を拭いて、たぶん、出がけには忙しくて、いや、ちょっと腹立たしくて言えなかった言葉を、夫にあらためて言いに行った。
「洗面所のお掃除、ありがとうね」
夫は一瞬きょとんとしたが、すぐに、にっこり笑った。
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by zuzumiya | 2010-08-23 12:51 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

やすこちゃんの花

貧乏草が通り名の花、ハルジオンを見ると、なぜか、やすこちゃんを思い出します。
あのひょろひょろと細く背の高いところや、木綿糸を束ねてざくんと切ったようなぼうぼうの小さな花、つぼみがちょっとうなだれている感じが、なんだかやすこちゃんに似ているような気がします。やすこちゃんは、たしか小学校一年のときのクラスメートでした。家はわりと近くて、赤い寸胴ポストのあった煙草屋さんの通りの平屋で、湿っぽい庭のある小さな家でした。何度か呼ばれて遊んだはずなのですが、よくは思い出せないので、なにか特別、面白いことや楽しいエピソードがあったわけでもないのでしょう。ちょっと遊んでさほど気が合わずに離れていってしまった子だったと思います。ただ、憶えているのは、やすこちゃんはよく授業中にすかしっ屁をしていた、ということです。
授業中にどこからかもやもやと豆を煮たような野暮ったい臭いがして、男の子たちが「くせえ」と口々に騒ぎだします。
「やすこじゃねえの」
「う、くせっ、やっぱり、やすこのヤツだ」
「やすこ、くせえ、屁こいた」
そう言われてみると、なんだかやすこちゃんの方から濃く臭ってくる気がして、わたしも心のなかではやすこちゃんがおならをしたんだと思いました。みんなにじろりと見つめられたやすこちゃんは、ショートカットのざんばらの頭を垂らして、ただ俯いていました。その後も何度か授業中にやすこちゃんのあたりが臭くなる事件があって、いつしかやすこちゃんは何かにつけ男の子から「くせえ」とからかわれ、「屁っぷりやすこ」とあだ名をつけられました。その頃からたぶん遊ぶこともなくなったのでしょう。心のどこかでわたしも男の子たちのように、おならをするやすこちゃんを小馬鹿にして、疎んじていたのだと思います。わたしたちが二年生に上がるとき、やすこちゃんは杉の子学級にいきました。
春から夏にかけて雑草に混じって、町のあらゆるところで貧乏草が風にゆれています。
「持って帰ると貧乏になる」という由来の真偽はわかりませんが、咲いた花には華やかさがなく、野の花のつつましさというより、どことなく侘びし気に見えます。人間に福相、貧相があるように、可哀想ですが、花にも貧相があるようです。
よく晴れた日の朝。電車に乗っていて、線路の端に綿毛になったたんぽぽと一緒に貧乏草が長閑に群生しているのを見かけました。人に嫌われてもそのかわり摘まれずにすんで、仲間と一緒に日なたぼっこができているのです。
何となく心が和んだのは、男の子たちと一緒になって蔑んで、自分より下に見ていたやすこちゃんが、昔のことはすっかり忘れて、今は穏やかに幸福そうに暮らしているような気がして、ほっとしたからかもしれません。
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by zuzumiya | 2010-08-23 12:46 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

せっこおばちゃんのナポリタン

スパゲティーのナポリタンを作るたび、ちょっとせつない気持ちになる。
私がはじめてそれを食べたのは、小学校のたしか、4年生頃だろうか、せっこおばちゃんの家だった。いとこたちと遊んで、そのまま夕ご飯をよばれることになって、おばちゃんが作ってくれたのがナポリタンだった。お皿に乗ってでてきた、オレンジ色の毛糸の束のようなスパゲティーには目を見張った。
私は今までスパゲティーといったら、おばあちゃんが半日ことことフライパンで煮つめたミートソースしか食べたことはなかった。これはおばあちゃんが若い頃、厚木のベースキャンプでベビーシッターをしていたときに、アメリカ人の奥さんから教えてもらったものだった。今思えば、大正生まれのおばあちゃんにしては、孫のためとはいえ、かなりモダンな食べ物を作ってくれていたのだが、子どもというのは残酷なもので、レストランや喫茶店のショーウインドーに飾ってあるけばけばしい「オレンジ色のスパゲティー」を是非とも食べてみたいとひそかに思っていたのだった。

せっこおばちゃんが作ったナポリタンも実にチープで簡単なものだった。
ウインナーに玉葱と人参、ピーマンをいためて、これでもかというほど、べっとりのケチャップで味付けしてあった。おばあちゃんのミートソースの方がずっと手が込んでいたし、お金もかかっているとわかっていても、このときは叔母ちゃんの作ってくれたナポリタンの方が数倍おいしそうに見えた。いとこたちと一緒に、リビングのテーブルに子どもだけでぺたんと座って、口のまわりから鼻の頭までオレンジ色のギトギトにして、ふざけ合ったり、笑い合ったりしながら食べた。おばちゃんは自分でモスグリーンに塗りかえた台所で煙草をふかして、それを満足そうに眺めていた。
「みーちゃん、おかわりする?」
「うん。すっごくおいしい」
いとこたちも私につられて小さな皿を差し出した。しばらくすると、左官屋だったゆきおじちゃんが日に焼けた顔で仕事から帰ってきた。
「ごめんね、今日はうけがよくて、これっきゃないのよ」
そう言っておばちゃんが傾けたフライパンには、わずかに子どもひとりぶん足らずの量しか残っていなかった。それでもゆきおじちゃんはビールを開けてもらって、上機嫌で子どもたちの席に割り込んできて、やっぱり口のまわりをオレンジ色のギトギトにして、せっこおばちゃんの作ったナポリタンにがっついていた。

と、ここまで思い出して胸が詰まる。
なぜなら、この家族はこの後、10年足らずで、バラバラになるからだ。せっこおばちゃんとゆきおじちゃんはあんなに仲がよかったのに、離婚した。遊びに行くたびに必ずどこかが模様替えされて、手をかけ、きれいになっていた家。おばちゃんがいつでもアメリカンポップスをステレオでかけ、家事をしながら鼻歌を歌っていた。泊まるときはいとこたちの二段ベッドの上に特別に寝かせてもらった。私のことを機嫌がいいと「みーちゃん」とあだなで呼んでくれた。
いつでも、どこの場合でもそうだが、家族のいちばんいいときにちょこっとお邪魔してその家族の良さというか、しあわせかげんを肌身で知っていると、離婚はほんとうにつらい。友人の夫婦の離婚もかなりこたえた。
あの、チープなあり合わせのナポリタンをみんなして笑いながら食べていたとき、たしかにしあわせだったのに、羨ましいくらいに「家族」だったのに、どうしてそれが続かなかったのかなあと、この年になっても、これだけ夫婦をやっても、まだ、ぼんやり考えてしまう。あったものがなくなってしまうことに、たまらなくせつなくなる。
たぶん、あの家族を思うとき、私は子どものままなのだろう。
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by zuzumiya | 2010-08-23 12:40 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

玄関の灯り

あんまり暑いので、最近は夕方に買い物に行っています。
買い物帰り、住宅街をぶらぶら歩いてくるのですが、玄関の灯りっていいなあと思います。ほら、玄関の外壁とか天井とかに、夕方になるとちょこんと点くあの小さい電灯のことです。どの家もそれぞれ玄関前に灯りをともして、帰ってくる家族を待っています。塾帰りのこどもやバイト帰りの若者、仕事帰りのお父さんやお母さん。早く帰った誰かが忘れずに玄関の灯りをともしてあげて、他のみんなの帰りを待っているのです。
「ほら、家はもうすぐですよ」「家のなかには夕飯の支度をして待っている家族がいますよ」「にぎやかで和やかな暮らしが今夜も続いていますよ」と、通りを歩いてくる家族に向かって合図を送っています。そういう灯りが玄関の灯りなのです。
もちろん、玄関先で鍵穴が見えづらいとか、泥棒用心とかの理由もあるのでしょう。でも私が感じるのはなによりも、待っている人がいる家なんだ、ということや、家族がまだ全員そろっていないんだな、ということ。灯りのなかに滲み出る人恋しさや家族の絆の方なのです。マンション生活が長いので、こういう小さいけれどほのぼのとした暖かい灯りがあることを忘れていました。
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by zuzumiya | 2010-08-23 12:30 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

ベランダからの風景

洗濯物を干しに出ると、新しく建ったアパートの2階の端のわずかなベランダにはもう、布団が干してある。あそこはなんとなく若い人ばかりが住みだしたと思っていたが、あるとき、老人と若い人に両手をつり上げられてようやく階段を下りてきたよちよち歩きの赤ん坊を見たので、家族ものも住んでいるのだとわかった。
9階のこちらからは洗濯物の中身は見えないが、いつも天気がよければほほ毎回、きちんと布団が干されているので、あの端の部屋こそ、赤ん坊のいる家族の住んでいる部屋なのだと思う。
人の家の洗濯物や布団やらが干されている風景を見るのが好きだ。
なんとなく、ほっとする。あのおそらくは2DK程度の小さなアパートの部屋のなかに、赤ん坊がいて、教育テレビのパペットの声がして、朝のこの時間、若い母親は食事の後かたづけや部屋の掃除と、忙しく立ち働いて生活しているのだと思うと、なんとも心が和む。2階の端のわずかなベランダの、わざわざシーツを取り払った、何やら赤茶けた平凡な柄の布団に、明るく穏やかにちゃんと陽射しがさしているのを見ていると、しあわせというもの、愛というものの姿をいま自分は見ているのじゃないか、と思う。
あの布団に当たっている陽射しのように、あまりに平等で、ささやかで、普通なことなので、生活のただ中にいる人間にはなかなか気が付けない。
いや、ほんとうは、人はわからないようでいて実はわかっているのかもしれない。
わかっているからこそ毎日毎回、ああやって天気が良ければ布団を干すのかもしれない。
私があそこの母親を呼んできて、ここから「あれがあなたの家のベランダですよ。幸福そのものじゃありませんか」なんて言わなくても、彼女の芯はわかっているのかもしれない。
しあわせや愛は手をかえ品をかえ、あらゆる方法で、するりとしんなり、生活に入り込んで、生活そのものになっているのかもしれない。そして、うまい具合に習慣化している、普通になっている。別段、彼女は愛をことさら意識して布団を干したわけじゃないし、陽射しが翳り出せばそのまま担いで取り込むだけだ。私が見ているこの貴重なしあわせと愛がそうやって、あの部屋の中に今日もすんなり、いとも簡単に、取り込まれていく。
その不思議。そのあまりに自然な有り様。
なんだろう。しあわせやら愛やらの秘密に触れた気がした。
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by zuzumiya | 2010-08-23 12:24 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

玉葱の味噌汁

今までそんなに好きじゃなかった。
どちらかといえば汁が甘くなるのが嫌いだった。
でも、今ではよく作るんだ。玉葱の味噌汁。玉葱だけの、味噌汁。

ゆみちゃん、お元気ですか?

たしか品川に暮らしてるんだよね。シュンくんはうちの祐一よりひとつ上、
あゆみちゃんは、そう、たしか智美と全く同じ誕生日だったっけ。ふたりとも元気かな。
新しい旦那さんとはどう? ごめん、名前知らないんだ。
もう再婚してずいぶん経ってるはずだけど、今度はうまく行ってるかい?
去年だったかな、あゆみちゃんから智美にひょっこり年賀状が来てた。
住所を見たら品川のマンションだったから、ようやくビンボーから抜け出せたのかって、ちょっと羨ましかった。うちは相変わらず、っていうか年々ヤバくなっているよ。
今でも相変わらず、9階に住んでる。ときどき、コウちゃんにも会うよ。
ずいぶん、痩せた。いつだったかエレベーターで一緒になったとき、「俺、病気かなってぐらいに痩せたもん」って笑ってた。離婚やつれじゃん、って思ったけど、口には出せなかった。でも、たぶん、そうだったんじゃないかな。

痩せたコウちゃんを見ると、離婚ってやっぱりもの凄く消耗するんだろうなって思った。もしかして、ゆみちゃん、あなたはもう玉葱の味噌汁なんて作ってないで、バンバンいいもの食べて太ってんじゃない?
そういえば、シュンくんがときどき泊まりに来てくれるんだって。
コウちゃん、喜んでた。なんだか、シュンくん、彼女のことで相談があったらしくて、「ようやく男どうしの会話ができた」って笑ってた。自分の存在を忘れないで、父親として、実の父親として頼りにされてるの、よっぽどうれしかったんだろう。
こっちは何も訊いてないのに、コウちゃん、わたしの顔見ると懐かしがって、いつもよく話しかけてくれるんだよ。

あの頃はみんなでよく集まってバカ騒ぎしてた。
ゆみちゃん家に5家族ぐらい集まった時もあったなあ。うちが1度転勤で引越して、新しいマンションに移ったときも、家族ぐるみの付き合いなんてもうしなかった。
たぶん、はりきりすぎて疲れちゃったんだろう。残ったゆみちゃんたちだって、もうしてないってあの頃の手紙には書いてあったもんね。いい潮時だったんだな。

今思えば、親の私たちも必死だったんだ。
上の子供が幼稚園になって、早くこのマンションに友達作らなきゃってそれぞれが焦ってた。朝はみんなでマンションの前で当たり障りのない会話して、親どうし交流してバスを見送った。午後にバスが帰ってきたら、今度は子供のひとりが誰々ちゃんと遊ぶって言いだすから、我が子があぶれないようにって、仲間に入れて貰おうって、親子で気を揉んでさ。そんなとき、いつもゆみちゃんは
「みんな、うちにおいでよ。そうだよ、ママ達もみんなで来ればいいんだよ、どう?」
って、誘ってくれたんだよね。
なかには、
「えーっ、でも、田中さんを呼ぶんなら、あたし行かな〜い」
って、はっきり言う人もいたりして、私もゆみちゃんも目を丸くしたっけ。

子供たちはシュンくんの子供部屋で勝手に遊ばせて、親たちはリビングを占領して、それぞれ持ち寄ったお菓子をつまみながらいろんな話をした。
好きなタレントの話、幼稚園の先生のどうしようもない幼さ、マンションの七不思議、そこにいない奥さんの悪口……。
ゆみちゃんは、なんでも大っぴらにして、あの頃から夫婦のこともよく話してくれた。
ゆみちゃんが面白おかしく、コウちゃんの金遣いの荒さやフィリピーナとの浮気の話や「てめえ、殺すぞ」って怒鳴り合うとっくみあいの夫婦げんかや、コウちゃんの稼ぎの中から親の借金を細々と返してる話をするから、みんなも笑いながら少しずつ、自分の家のボロを、情けない旦那や意地の悪い姑への不満を話せたんだ。

今、思えば、ゆみちゃん、寂しかったんじゃないだろうか。
誰かに、笑いながらでも、聞いて貰いたかったんじゃなかったか。

誰にも誉めてもらえない、誰からも認めてもらえない、子育て真っ最中の専業主婦のうさ晴らしのお喋りは尽きなくて、どんどん相互依存して、エスカレートした。
そのうち、夕飯のおかずと子供のパジャマまで持ち寄って、よく家族で夜を一緒に過ごしたね。社会へ出てからは、同僚はいても友人はできなかったし、学生の頃からの友人も仕事や旦那の転勤と、事情や環境が変わると自然に縁遠くなってしまうものだから、家族ぐるみの付き合いっていうのが、なんだか忘れてた友情を取り戻せた気がして、うれしかったんだろう。

あの頃、旦那たちの帰りはみんな遅かったなあ。
マンションの誰ともつき合わないとしたら、そんな遅い時間まで、話し相手は子供だけになる。私たちはそんな夜の孤独を嫌って、寂しさを抱えて群れて、幾時間も、他愛ないお喋りで埋め尽くしたんだ。

あれは何の集まりだったっけ?
お好み焼きのパーティーだっけ? それとも鍋だったか?
それぞれの旦那も連れてきていたから、きっと休日だったんだろう。
旦那も参加の初めての大々的な飲み会をやったの、ゆみちゃん、憶えてるかな。
みんなお互い、それぞれの家の旦那の悪いとこ、情けないとこ、エッと驚くようなとこ、事前の奥さん情報でぜんぶ知ってるから、目の前に当の本人がいるのがどうしようもなく可笑しかった。私たち、女どうしの秘密ってことで、目配せして、でも時にはぜんぜん関係ないところで、思い出し笑いで吹き出したりして、楽しかったね。
ゆみちゃんもコウちゃんもお酒が強くて、お人よしで、ぽんぽん飛び交う江戸っ子口調の冗談が面白くて、夫婦漫才見てるようで、いろいろ問題はあるけど、とんでもない危ないけんかもするんだろうけど、でも絶対、似た者夫婦だよなあ、って思ってたんだよ。
「まったくよう、コイツはよう、こうだから」ってコウちゃんが片目をつぶれば、
ゆみちゃんも「ふざけんなってんの、バ〜カ!」と笑って返して、ふたりの会話は、人寄せの楽しく酔ったお酒のせいだったのかもしれないけど、もの凄く微笑ましかった。
少なくともあの時、わたしの目にはそう映った。
なんだ、言うほど仲悪くないじゃんって。
夫婦げんかは犬も喰わないって、ほんとじゃないかって。

飲んで騒いでしばらくして、ゆみちゃんが急に叫んだ。
「ねえ、みんな、味噌汁飲みたくない? あたし味噌汁、いま無性に飲みたい。
締めの味噌汁!」
そう言って、ゆみちゃんは立ち上がり、冷蔵庫を覗いた。
きゃははと笑って、こちらを向いた手には大きな玉葱が2個。
「玉葱しかないや」
そう言って、ゆみちゃん、あなたはくるりとふり返ると、せっせとまな板で玉葱を刻んだ。もう夜も更けて、子供の睡眠時間を考えたら、ほんとにお開きにしなければいけない時間だった。旦那たちも仕事の話、子供の話、マンションの話とひととおり済んで、喋り疲れた顔をしてぼんやり煙草を吹かしていた。

ゆみちゃんがお盆に乗せて持ってきてくれた玉葱の味噌汁。
全員分の汁椀がないからって、ごはん茶碗に入れたのもあって、大雑把なゆみちゃんらしくて可笑しかったけど、でもみんなありがたく、うれしそうに受け取った。
アツアツの味噌汁からは玉葱の甘い湯気が出ていて、赤みそ仕立てで、ほんとに玉葱しか入ってなくて。でも溶けてるのか少ないのか、何処に入ってるのかわからないくらいで、
箸を入れて引き上げると、これでもかってほど薄く切った透明な玉葱が引っかかった。
火傷しないように歯を立ててそうっと頬張ると、味噌と甘みがふんわり舌の上に広がって、思わず「うまっ!」って声が出た。たまらずすぐに、すいっと啜れば、味噌の甘辛にきゅうんと口中が絞られて、思わず、たんっと舌鼓を打った。ほんとに美味しかった。
そして、胃に落ちた味噌汁の熱さで、なんだかとてもほっとした。
ほんとに締めって感じで、浸みたんだ。
このタイミングで味噌汁を、しかも玉葱の具で持ってくるゆみちゃんの主婦としての感性ってやつに、わたしは参った。
誰もが喋らなかった。
しいっと啜る音を立てて、みんなが口をすぼめてゆみちゃんの味噌汁を味わっていた。
コウちゃんも啜っていた。
コウちゃんにとってはいつもの味で、別段、感動なんてなかったのかもしれないけど、みんなが旨いと口々に言ってるのに悪い気はしなかったろうと思う。
ねえ、ゆみちゃん、あのとき、コウちゃんがもし、
「コイツ、料理だけは結構、上手いんスよ」
って、みんなの前で誉めてたとしたら、どうだった?
そんなことぐらいじゃ、やっぱり、変わらないか。
積年の恨みは消えないか。許せないか。
離婚、してたか。

ほんとはさ、そんなに好きじゃなかったはずなんだ、子供の頃から。
玉葱の味噌汁。
でもね、あれ以来、よく作る。玉葱を薄く薄く、できるだけ薄く切って。
あのとき、かなり酔っぱらってたはずのゆみちゃんが、あんなにあるかなきかの薄さで玉葱を切ってたってことは、やっぱり、ゆみちゃんが玉葱とは裏腹に情に厚いってことだと思うんだ。
たしかにそうだよ、玉葱の味噌汁の玉葱は、うんと薄い方が美味しいんだ。

まな板の上で、玉葱を切りながら、
あの時の味噌汁を、夫婦で騒いだあの飲み会を思い出す。
引越しのトラックの姿もわからず、いつの間にか子供を連れてすっといなくなっていたゆみちゃんのことを、ひとり残されて、ずいぶん長いこと表札から3人の名前を消せなかったコウちゃんのことを、西側のベランダにずっと放りっぱなしにしてあったあゆみちゃんの乳母車のことを、思い出す。

私にとって、ふたりの離婚ははじめての友人の離婚だった。
友人の離婚ってね、自分たち夫婦の先にも、小さく不安のさざ波が立つものなんだ。
大丈夫、そう言いたいところだけど、うちの夫婦の場合もどうなるかはわからない。
変わらないものはないって、わかってるはずなのに、夫婦ってものだけは、ぎりぎりまでなんとか変えずに踏みとどまろうとするもんなんだね。
このまま踏みとどまる方が安全でしあわせなのか、
わかれて別々に生きていく方が思っても見なかったしあわせに出会えるのか、
私にはわからない。
夫婦のぎりぎりはまだ来ていない、そういうことなのかな。

ゆみちゃん、今ならどう答える? 
選んだ人生は思ったとおりですか?
後悔はありましたか? しあわせですか? 
今でも、コウちゃんをふと思い出しますか?
玉葱の味噌汁、作っていますか?

5時半の鐘が鳴った。あっという間に夕飯の支度の時間だ。
主婦ってやつはやることが多すぎて、何もかも中途半端になる。
手紙を書くことも、思い出に浸ることも、
先を考えることも、自分自身を考えることも、何もかもが。
そうじゃなきゃ、家庭を回していけないんだよな、主婦ってやつは立ち止まれない。
そしたら、わたしたちは回遊魚だ、マグロだ。
それともどうだろう。
まな板で玉葱をひたすら刻みながら、ゆみちゃんは来る日も来る日も考えてたのかな。
中途半端な、少しずつの時間を重ねて。
だからあんなに薄く切れるようになったのかな。

もう秋だね。
今日は風が冷たくて、食卓に座ってこれを書いてても足元が寒い。
うちは久しぶりに、玉葱の味噌汁にするよ。思い出しついでに。

ゆみちゃん、
今晩、あなたの家の味噌汁は何ですか?
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by zuzumiya | 2010-08-23 12:16 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

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