カテゴリ:日々のいろいろ( 618 )

凝りの原因

先日、美容院に行って若い兄ちゃんに肩をマッサージしてもらったら「凝ってますねぇ」と言われた。ま、肩という部位は「凝ってますねぇ」が褒め言葉、お世辞みたいなものである。
肩が凝っていないでフニャフニャだとまるで日頃怠けて暮らしているみたいで、肩が凝っていればいるほど仕事や家事を頑張っていて真面目な証拠だと無意識にみんな思っているのではないか。なぜなら、美容院の兄ちゃんはその後「お仕事、大変なんでしょう?」とかぶせてくる。で、私の場合はその凝りの原因が仕事や家事でないところが情けないので、兄ちゃんにも「ああ、そうですね」としか返せない。凝りの原因はおそらく仕事30%、残りの70%が猫なのである。
冬場、猫たちは寒いので私の布団の中に潜り込んでくる。ももちゃんは私の右隣、妹分のチビは左隣か足元中央。こう書くと「ふうん、可愛いね」なんて思われるだろうが、私にとっては「つらい」のひと言である。ももちゃんは幼い頃、まるで男性が恋人にするかのように私が片手で布団を押し上げ中に誘い、腕枕をして、胸の鼓動を子守唄のように聞かせて育てた。夏場以外は布団の中でしばらくそうして眠る。熱さか呼吸がつらくなってそのうち這い出て、私の顔の真横、同じ枕に顔を乗せて両手を投げ出すようにしてぷんすか眠る。尿意でこちらが目が覚めたりすると、薄暗闇に縞の顔のドアップが見えてドキリとすることがある。チビはももに習って、横向きの私の背中側の隙間から布団に侵入してくる。チビはへんな猫で、昼寝の時も体は横向きだが顔だけうつ伏せにして寝るのが好きで、息が苦しくないのか布団の中に頭から入っても方向転換しない。だから私たちの寝姿はもも・私・チビの川の字を狭いシングルベットの上に書いている。
私は自分の子どもにも腕枕はしてやったことがない。猫でやってみて、ほとほと世の男性が褥でどれほどの労苦に耐えているのかがわかった。可愛い恋人とはいえボーリングのボールのような人の頭。しびれを我慢し、嫌な顔ひとつせずお喋りにつき合い、よくぞ乗っけているものだ。腕枕はそんなに太っていない成猫のももでも10分も経たないうちに腕がしびれてきて、私は手を引っ込める。しかし、背中にぴたりとデブ猫のチビが張り付いていて、私は寝返りが打てないのである。人は寝返りを打つことで、血液やリンパの流れをよくしているのだという。寝返りを打たないことは身体にものすごく悪いのである。ついに我慢ができなくなって寝返りを打つと、息の続くチビがもぐらの移動のように足元にぐんぐん潜って行くのはいいけれど、私の左足を越えて両足の間に落ち着いてしまうとこれがまた厄介なのである。最初は久々に仰向けになれて気持ちがいいが、これが続くと今度は腰が痛くなってくる。なんとしても左側に寝返りが打ちたくなってくる。しかし、寝返りばかりを打って右側のももの安眠を妨げたくはない。ももが「とてもじゃないが寝てられない」と出て行ってしまい、しばらく経って寒さにふるえて布団の中に入り直し、冷たい毛を私の背中にすり寄せられては今度は私の安眠を妨げるからだ。うう、どうしよう。でもやっぱりつらい。で、左に寝返りすると思った通りにその拍子にももが布団から這い出てしまう。もういいやと目をぎゅっと閉じると、しばらく経って今度は枕がぐんにゃり潰れてきて(私の枕はウォーターピローである)、嫌な予感がする。左側に向いた私の鼻先にももの冷たく濡れた鼻が触れて、布団に入る隙間を探しているのがわかる。つまり、ももという猫は私の横向きになった腕のなにしろ腕枕を望んでいるのである。ああ。
そうやって私は寝返りを打っては両腕を痺れさせ、足元にいるチビを蹴り飛ばすことのないように仰向けになっても両足をベッドの端に寄せ、そのために枕に対して体勢が斜めになっているので首にも負担がかかっているのか、朝、目覚めても首やら肩やら腰やら、身体中が痛いのである。職場では苦笑いして「0歳児クラスに入るとこれだから…」なんておんぶやら抱っこのせいにしているが、実は毎晩の猫との添い寝のせいだとはとても人様には言えないのである。


[PR]
by zuzumiya | 2017-03-11 12:43 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

ブログの自由

いやぁ、びっくりした。
昨日、書きかけて眠ってしまった文章を直そうとブログに行っていじっていたら、“ブログジャンル”というのが気になっていろいろな方のブログを見ていたんですけど、中にブラウスの前をはだけて小玉スイカのダブルのような豊満な胸をあらわにした露出趣味の方のブログに出会ってしまい、「な、な、なんだこりゃー」と慌てふためき、部屋に自分ひとりなのをいいことに朝っぱらから中学生の男子のようにドキドキしながら思わず見入ってしまいました。世の中にはいろんな趣味の方がいるんですねぇ。私は女性ですけど、重力に逆らえなくなった中年といえどもかなりの貧乳なため、まるで男性のように豊満な女性の胸にはいつも釘付けになってしまいます。ま、心の内は「どうやったら、こんなに育つんだ?」ですけど。結局、書くことがみんなすっ飛んでしまい、胸の鼓動を鎮めるために逃げる猫をひっつかんで撫でまくっていました。今日が3.11だっていうのに、私ってどうしてこうなんだ?
思い出したらまた書きます。

※ジャンルが「日々の出来事」から「つぶやき」にかえました。50代にはかわりはないけれど。

[PR]
by zuzumiya | 2017-03-11 09:57 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

晴れより曇り

小さい頃、私は晴れより曇りの方になぜか安心した。朝、晴れてしまうと、もうそれでその日の運を使い切ってしまって、いいことが何にも起こらないような気がしていた。先日、山田稔さんの詩人天野忠について書かれたエッセイで、「過善症」という言葉を知った。山田さんも実は天野さんのエッセイ(『余韻の中』)で読んで知ったのだが、〈しあわせだと、次に来る不幸が心配になる、むしろ悪い状態にいる方が次にくる良い状態を思うことで気がまぎれるといった、「禍福を逆にうけとる形のちょっと複雑な心理状態」〉をいうらしい。ここを読んだ時にまさしく私も「過善症」だと笑ってしまった。ソンなタイプである。今日はトビアスのピアノが似合う薄灰色の曇り空。窓辺に立つと遠くの欅の枝が海の中の珊瑚のように手を広げている。さほど寒くもないこんな春の曇り空はコーヒーを手にぼんやりするのにちょうどいい。晴れるとやることを作ってわざわざ動いてしまい、どことなく気ぜわしいものだが、こんな曇りの方が何かを諦めたような眠ったいような気持ちになってゆったりできるものだ。寒さが緩む春だからなおさらのこと。ほら、やっぱり曇りもいいもんだ。

※〈 〉内は山田稔著 『北園町九十三番地 天野忠さんのこと』より

[PR]
by zuzumiya | 2017-03-06 13:24 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

ドテンしてぇ

ももちゃんの妹分であるチビの愛くるしいところは、私が本を持ってベッドに横になると、待ってましたとばかりにベッドに飛び乗って私の太もも辺りに向こうをむいて座り、次の瞬間、ドテンと体ごと私の足にもたれ掛け寝転んでしまうところ、である。そのチビの体の重みと温みに全幅の信頼と深い愛情を感じ、癒され、ぼけっと座っているだけでいつまでもドテンが来ないと待ちわびて「ドテンは?」とつい催促するぐらい好きなのである。おそらくはこちらに背中を向けているチビの心の中では「せーの」という掛け声があってのドテンであるような気がして、その無音の「せーの」がまた健気でうれしいのである。いやはや、かわええ。
[PR]
by zuzumiya | 2017-03-05 22:44 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

生きるよすが

横文字のゲームクリエイターなんぞと言っても安月給なのに、25の若さで借金ヒィヒィこさえて燃費の悪いアメ車を買って飾り立て、19の彼女に入れ込んで千葉まで送り迎いに往復し、甲斐性あるとこ見せようと飲食代は全て持ち、親の顔見りゃ「金がない!」と言いやがる。聞くとクジ運ないのに毎月宝くじなんか買って、数千円も公共事業にまんまと寄付をして、困りに困ってネットの懸賞やらお茶の俳句にまで応募したという。なんでまた息子がよりによって俳句なんだろうとしばし考え、そういえば昔中学の頃、国語で作らされた七夕の俳句が先生に褒められたことがあったなぁとニンマリ思い出した。そうだそうだ、私もあの時うんとこさ褒めたんだっけ。褒めるってやっぱり凄いことなのねぇ、25になっても覚えてたのねぇ、生きるよすがなのねぇと思いつつ、仕方なく息子に一万貸す。
[PR]
by zuzumiya | 2017-03-05 18:29 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

独り者にも春がきた

だいぶ春らしい陽気になった。自転車を出すのもひと頃より億劫でなくなった。毎日、通勤で走る道の脇に古い木造のアパートがある。名前はわからないが、ペンキの剥げた外階段のついた、いかにも昭和の「○○荘」といった感じのアパートで、駅からも遠く、車二台がすれ違えない狭い道路沿いに背の高い竹やぶが覆いかぶさるようにあって、いつでも薄暗くジメジメした所である。窓側を見ると六部屋あるが、そのどれもがいかにも男の独身者か高齢者の一人住まいといった感じの茶色や黒の野暮ったいカーテンを吊るしていて、どの部屋も少しだけ開いたカーテンの隙間から室内干しの洗濯ピンチが覗いている。道路沿いのブロック塀の中、ちょうど一階の端の部屋の窓脇に、背の低い木が植わっていて、冬場はここに木があることすら気づかなかったが、この木に白い花がチラホラついて白梅だとわかった。大家さんが昔植えたものだろうか。よく見るとあまり道路にはみ出さないように剪定した跡もある。一階の端の窓もカーテンがほんの少し開いていて、中にしなびた茄子のような黒い靴下が侘しくぶら下がっている。あそこの住人もカーテンを開けるたび、あの小さな白梅を目にしているはずである。時には窓を開けて、その匂いをそっと胸中に吸い込んだりするのだろうか。そうやってまた今年も春が来たことをなんとなくひとり噛み締めていたりするのだろうか。ああ、春だ。春が来た。


[PR]
by zuzumiya | 2017-03-05 16:14 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

『困難な結婚』読んでも気楽になりませぬ

a0158124_23505628.jpg
なんども書いてきたが家庭内でいろいろあって、もうひと月以上も夫と口をきいていないし、顔も見ていない。そんな中、写真家で『かなわない』や『家族最後の日』の著者でもある植本一子さんが好きだと書いていた本『困難な結婚』(内田樹・著)を読んでみた。それなりの発見も確認もあって、読んでみてよかったと思う。とはいえ、今の家庭内離婚の危機的状況がすぐに解決に向かったというわけではない。「どうしよっかなぁ」はいまだ続いている。
内田さんは本書で<それをすることがあなたにとって、ほんとうにたいせつなことなら、それに相応しい「勢い」があります。>と書いているから、グズグズしている今はまだ結論を出すべき時ではないということだろう。
さて、本書では驚くべき発見があった。<配偶者が変われば、あなたは別の人になる>というところ。ここは読んでいて「嘘でしょ?」と思った。私は今の夫と別れたら、もう誰とも結婚しないだろうと思っている。夫という他人と暮らして家族を作って、もうすぐ子どもも巣立とうとするところでなんだかひどく倦んでしまって、もうこれ以上他人と暮らすのは面倒だと感じている今となっては、私が再び別の男と結婚して嬉々としてその暮らしを楽しむなんてことがあろうはずがないと思う。
内田さんによると<人間の中にはいろんなタイプの「配偶者特性」が潜在的には眠っているということです。だから、どんな人と結婚しても、「自分がこんな人間だとは知らなかった」ような人格特性が登場してきます。いってみれば、配偶者が変われば、結婚しているあなたは別人になるんです。どの人と結婚しても、そのつど「その配偶者でなければそういう人間ではなかったような自分」になります。それはいわば配偶者からの「贈り物」みたいなものです。>ということらしい。
いくら新しモノ好きな私でも、25年以上も結婚生活をした後じゃ「出てくる自分なんてもうないよ、出し切ったよ」とボロ雑巾のように卑下したくもなるが、夫ではない別の男とまた一緒に暮らせば、「え?これがワタシなの?」と瞬きしたくなるようなまだ見ぬ新しい自分が顔を出すのだろうか。スルメかだし昆布のように。でも、なんとなく行く手に希望の光がチラチラ見えてくるようで、悪い気がしないのも事実だ。反対に夫が新しい配偶者を得たとしたら、彼にも「新しい自分」が出来て、それはついぞ私がどんなにこの人生で努力しても出会うことができなかった彼ということで、そう思えばなぜだか少し哀しい気にもなる。
で、あとひとつ。夫婦の倦怠期の話で、内田さんは書く。<自分自身の人生が楽しいと、倦怠期が起きても、それほど致命的なものにはなりません。「倦怠している」人たちというのは、ある種の自己倦怠を病んでいるからです。自分で自分自身のありようにうんざりしている。そして、その倦怠を自分の周囲の人間関係全体に拡大している。自分自身が日々新しい発見にわくわくしながら暮らしていたら、選択的に配偶者についてだけ「倦怠する」ということにはなりません。>
なんかこの<倦怠とは自己倦怠にほかならない>というのは今回いちばんグサッときた。たしかに自分の感じ方なので、自分の心の持ち方のほうに責任がないか、不調はないか、夫婦ともに更年期なのだ、注意すべきところである。この文章の少し前に内田さんはこうも書いている。
<危険なのは、自分自身が社会的にうまくいかないことを結婚関係とリンクさせて説明しようとすることです。「この人と結婚さえしていなければ……」と仮想して、配偶者の無理解や無能を自分自身の不幸の原因にすると、もうダメです。だって、たしかにあらゆる自分の不調は配偶者の無理解と無能で「説明できる」からです。(中略)ほんとうは自分の心身の不調には配偶者以外にもいろいろな原因があるんです。(中略)でも、そういうさまざまな微細な「不調」が加算されて、水がコップのふちからあふれそうになったときに、「最後の一滴」となるのが、だいたい家の中のいさかいなんです。(中略)僕の経験から申し上げるなら、自分の心身の不調は無数の微細な不調の算術的総和によるものです。だからひとつひとつほぐしてゆくしかありません。(中略)配偶者のことは脇において、自分はそれ以外のどういう条件がクリアーされると機嫌がよくなるか、それを考える。そして、それが実現するようにこつこつ努力して、「心ない一言」で「コップから水があふれる」ような危険水域に自分を持ってゆかないことです。>
内田さんは、風邪で寝込んでいる妻に夫が自分の夕飯は支度しないでいいと言ったことで「私のご飯はどうなるのよ」とブチ切れて離婚した知人の話を引き合いにだして上記のことを説明している。妻の腹具合にまで気がつかなかった夫の想像力の欠如はたしかに不愉快ではあるけれど、妻の方がある程度自分の体調を予測して動いていたら、夫を当てにせずに自分の非常用の食料を自分で用意しておくことをデフォルトにして暮らしていたら、離婚に至るような致命的なダメージにはならなかったのではないかと書いている。
うーん、そうだろうか。このあたりは、自分のものは自腹で買って記名してストックしておく今の我が家のやり方みたいで、「まあね、自分が食べるんだから理にかなっているわね」とは思うけれど、ほんとはそうスパッと割り切れない侘しさがある。正しいのだけど正しさにはどことなくやさしさがない、にじむ情がないのだ。男の人はどうも正しいことには気づきやすいが、やさしいことを第一優先にしない。きっと世の中の多くの妻は「風邪で熱があるのに、結婚していて一人暮らしじゃないのに、なんで台所に立ってレトルトお粥をチンしなきゃいけないのよ」と思うんじゃないか。病気なのに気にかけてもらえていない寂しさを「これが私が思い描いていた結婚生活?」と悔しく虚しく思うに違いない。心から納得してそういう準備万端な自立の生活をデフォルトにできていればいいのだが、通常でなく、いざという時に一緒に暮らしている人を当てにしない、できないっていうのはやっぱり女には堪える。「大人らしく自分のことは自分で」という正しさと「それでもやっぱり相手に甘えたい、頼りたい」という情の依存の矛盾が結婚生活には渦巻いているから難しい。
どんなに本を読んでもドラマや映画を見たとしても、自分の結婚にすべてが当てはまって「ああそうか」と思えるものはない。正解が見えてこない。内田さんじゃないけど葛藤のネタが増えただけである。<「葛藤すること」のうちに、最も現実的なソリューションがあるんです。>の言葉を信じて、まだまだ頭を抱えるしかないようだ。ふぅ~。



[PR]
by zuzumiya | 2017-03-05 00:10 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

保育には正解はないと言うけれど。

園では早番遅番の乳児のフリーという立場で仕事をしている。
フリーなので0歳~2歳までのどのクラスにも同じように入る。過去の園では0歳児や1歳児の担任として勤めて、担任ならではのやりがい、面白み、辛さの経験もあるが、今はフリーという仕事の大変さを感じている。
つまりはどのクラスに入っても子どもの情報(単に持病や身体がらみの話だけでなく、性格や家族環境なども)がわかって保育に対応できなくてはならないのと、親やクラスの担任たちの性格や特徴を掴んでそれぞれのクラスに合わせたやり方に従って動かなければならないという難しさだ。はっきり言って、これが結構面倒である。
担任の人間的なクセ、保育のクセのようなものをキャッチし、「いい悪い」とか言ってられずに(パートなので言える立場でも議論をしあえる時間もないが)「合わせて」いかねばならない。時には子どものことなんかより、担任の保育の進め方に「え?」となりながらも「ハイハイ」と深く考えずに聞き入れて動く。自転車をこぎながら「なんだかなぁ」と思いながらも「保育には正解はない」という大前提のもと、すべてがうやむやになって心の中に澱のようにたまっていく。
今日の2歳児の遅番でこんなことがあった。
ブロックで遊んでいて、お片付けの時間になった。ある男の子(A君としよう)が先生の「お片づけ」の声を聞いて他の子(B君)が作ったブロックに手を出して(こういう悪気はないがお節介な子はよくいる)片付けようとした。瞬間、B君がA君の手を鷲掴みにした。A君はその痛さで泣いた。事情を知らない遅番の正職が飛んできて、まずB君に手を鷲掴みにした事実を叱る。当然な対応だろう。ちょうどそこへA君の母親も帰ってきたことから彼女は事情を説明し謝り、「それならB君、片付けてよねッ」と冷たく言い放って去り、どんどん保育を先に進めていった。それを見た私はB君に「自分で片付けたかったんだよね。手を出すんじゃなくて口で「やめて」と言えばよかったんだよ」と言ってきかせた。B君も泣き出す。B君はクラスでは一度意地を曲げるとなかなか直らない扱いに難しい子と担任からはされているが、「先生も一緒に片付けようか?それともB君が自分で片付ける?」と私が言っても、涙をためて睨んで首を振るばかり。ブロックに私が手を出そうとするとその手をはじく。「先生向こうへ行ってようか?」と聞くと首を振り、「それならそばにいる?」と訊いても首を振る。「じゃあ、どうしたいか先生に教えてくれる?」と言うと、「ヤダ」。しばらくするとそばに同僚のパートがやって来て、ブロックを片付けてくれようとしたが私が手で制した。何度めかの同じ質問でB君はようやく「壊しちゃった」とつぶやいてあらためて泣く。
すなわち、A君にブロックを壊されてしまったことが悔しくて片付けもできなかったのだと分かった。「じゃ、もう一度作ってから片付けようか?」と訊くと、B君は素直にうんと頷いた。「先生も手伝っていいかな?」と訊くとまた頷く。
「こんな感じだったっけ?」「ここはこれでいい?」とやりとりしながら完成させると、B君は今度は自分で片付け始めた。しかし、ここがB君の難しいところ。片付け終わって納得したはずだろうに、私を見る目つきがまだ鋭いままなのだ。すぐにB君の気持ちに気づけなかった私への恨みなのか、と感じた。
この一連の話をパートナーの、無資格だがこの道20年のベテランパートのおばちゃんにしたら、ひと言。「そんなのほっとけばいいのよ。ひとりで考えさせることも必要よ」と言われた。そうだろうか。先のセリフはいかにも百戦錬磨のベテランらしく聞こえがいいが、そして「保育に正解はない」と言われてはいるが、私はあの場合はB君のわがままだと大人が放っておくことは違うのではないかと思う。周りに保育士という肩書きのたくさんの大人が居ながら、よく話も聞きもしないで、すなわちB君の拙いながらも自分なりの気持ちの吐露をさせないで、ただわがままと見定め、ひとり放って置かれることがベストなどとは私には到底思えない。それなら我々大人はいったい何のためにそこにいるのか。ブロックを早く片付けて生活の流れをどんどん先に進めたいがため、か。そんなふうに自分の気持ちをうやむやにされたら、B君はいずれ大人というものを信じなくなってしまう気がする。助けてほしい時に助けてもらってこそ、大人との信頼関係ができていく。
私は放っておかれたB君を想像してみた。他の子たちは先生の前に集まり紙芝居に見入っている。B君だけが離れて床にぺたんと座り、涙も乾き、ぼんやり前を向いて呆けている。頃合を見計らったように現れた大人にひと言ふた言声をかけられ、ブロックを片付けてもらい、促され、腑抜けたように立って連れて行かれる。悔しい気持ちも悲しい気持ちももはやどうでもよくなっている。ただただ、どんより疲れている。こんなふうな虚しい姿が見えるのだ。
B君に「先生向こうへ行こうか?それともそばにいようか?」と言った時、どちらにも首を振ったこと、素直に片付けたとしても最後までどこか私を許せないという目つきで睨んでいたところは、なんだか彼が自分の気持ちをわかってほしいのにわかってもらえてこなかった積み重ねを背後に感じさせた。もしかしたら家でも「そんなふうにいつまでもわがまま言ってるなら、もう知らないからねっ」と親に放っておかれているのかもしれない。気持ちを聞いてほしいのに深いところまで聞いてもらえないで打ち捨てられるその繰り返し。大人に頼りたいのに突っぱねられて心底頼れないもどかしさ、悔しさ、孤独感。そんなものがあの「いてほしくないけどいてほしい」という矛盾した気持ちや鋭い目つきを作ったのかもしれないと思うと、すべての大人を代表してその鈍感ぶりになんだか謝りたい気持ちになる。たとえ早番遅番のパートの保育士であっても、担任じゃなくフリーの立場であっても、20年もこの仕事してきてないけど、私はここぞという時はちゃんとあるべき大人として(「保育士として」とまでは言わない)向き合おうと思う。

※捕食の際には私の隣で笑顔に戻ったB君。あの睨んだ凄みのある顔つきが目に焼きついていますが、これからも難しい子と怖じずに向き合っていきます。


[PR]
by zuzumiya | 2017-03-02 22:24 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

リラックスポーズ

最近のももちゃんのお気に入りは、ティッシュの箱の紙が出てくるあの隙間に前足を両方ともズボッと差し込んで、しずしずと座ることである。

やめてほしい。








[PR]
by zuzumiya | 2017-02-27 22:27 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

キョウコ、どうする?〜れんげ荘シリーズ『ネコと昼寝』読了〜

a0158124_17311318.jpg
やっぱり来たか、という感じで本の嗜好が随筆から小説にがらりと変わってしまいました。エッセイや随筆を読みすぎると反動で小説が読みたくなって、お話のなかにドップリ浸かりたくなってしまいます。それを私は「小説へ逃げる」と呼んでいます。それが昂じると今度はミステリーに手を出します。
昨日、群ようこさんの『れんげ荘』シリーズ読み終わりました。昔はシリーズの2作目の中途で投げていました。生活費の10万という数字、仕事を辞めて暇に向き合う姿、他人との関係、先行きの不安。当時はいろんなことがリアルなようでやっぱりリアルでないような変な中途半端さを覚え「んなこと、続けられるか、ウソッパチ!」と思って本をほっぽり投げたのでした。でも、今は以前とは違う状況下で本を読んでいました。主人公キョウコさんの暮らしぶりにすごく重なる。うちの家庭は夫と息子と私ですが、仕事の関係で平日はそれぞれが外食です。休日は食事を一緒に摂ることもあれば、息子のように遊びに出てしまったりもあります。基本、それぞれの稼ぎから家に貯金というか非常用のお金(公金という)は入れますが、外食はすべて自腹となります。主婦である私も同じ。食事の支度や買い出しなど家事がなくなったことは素直に嬉しいのですが、自分のもの(自分しか使わないもの)はたとえ部屋の芳香剤ひとつ、シャンプーひとつでも公金でなく自腹で買うんです。もちろん、医者代も。それからたとえば、暖かくなって部屋のファブリックを春物に替えたいと思ったら、男どもは「そんなもの必要ない、贅沢だ」とか言いますが、私がそれを押し切って買えば、リビングのものであろうとすべて公金ではなく私の自腹になります。同じ理由で観葉植物も花も食器の皿一枚だってそうです。猫の餌代もそう。そういうキビシイ暮らしをしているので、今回はなぜか1ヶ月10万円のキョウコさんの暮らしぶりに非常にシンパシーを感じてしまうんです。しかもキョウコさんは母親とは元来うまく行っていないし、独身でいるところもちょうど家庭内離婚中でそれぞれが上下に別れて同居人的に暮らしている私の今とあまり変わらない。図書館通いの金のかからない読書が趣味というのも似ています。先日、うちの母が何を思ったか、まあ、淋しかったんでしょうが、「結婚相談所に財産を狙ってこない裕福な男を探しに行く」と電話で鼻息荒く言ってきた時にはガビーンときました。ネタばれになりますが、今回のシリーズ最新刊『ネコと昼寝』の最後にはキョウコさんの母親もちょっと大変なことになってまして、本を胸に抱きながら「お互い、今のままじゃダメだよね。自分のことも母のことも、何とかせねば」とつぶやいてしまいました。というわけで、逃げてきたはずの小説のお話の中でも、現実が炙り出される始末。どよんときている休日です。って、部屋の空気も悪いや。換気!換気!
江國香織さんの新作、出ました。喉を潤す美味しい水のようになってくれるかな。ちょっと読んでみます。



[PR]
by zuzumiya | 2017-02-26 08:56 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)


ふだんの暮らしに息づいているたいせつなもの、見つめてみませんか?


by zuzumiya

プロフィールを見る
画像一覧

S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

※このブログの無断な転載はご遠慮願います。

最新の記事

恐るべきシーリングライト
at 2017-08-20 09:25
私という有限
at 2017-08-16 20:44
こんな体たらく
at 2017-08-14 19:30
「more records」..
at 2017-08-12 06:24
生まれ変わっても会いに行く
at 2017-08-07 20:48

最新のコメント

検索

ブログジャンル

画像一覧