暮らしのまなざし

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有資格と無資格の保育

今、うちの園はハローワークに保育士の求人を3人出しているが、一向に人が集まらない。待機児童の話から保育士の給料が低すぎることが一時話題になったが、国はたったの2%上げると言っただけだった。給料の低さの話題の際に保育士のハンパない仕事量まで明らかにされてしまったために、潜在保育士はついに職場に戻っては来ず、またなり手も依然少ないままで、どの園も人手不足は解消されていない。おそらくは求人自体は変わらず多いのだから、より条件のいい方、給料の高い方から順に決まっていっているのだろう。金を積まなきゃ、人は動かないのだ。
そういうわけで非常にキビシイ労働を日々強いられているが、人が来ない限りは現場が無理をするしかないので、我々、非常勤のパートたちが時間数、日数を増やしてしのいでいる。しかし、今の現状を考えてみるに、新たに人が来たとて、障がい児を多く抱える、しかもいまだ手のかかる3歳児クラスである。担任たちが障がいについて知識や経験があるのかといえば、「ない」のだそうで、園長も手探りの状態だと白状していた。それなのに子どもを引き受けざるをえないというのは、果たして園にとっても親御さんにとってもよいことなのかどうなのかと思ってしまう。新入りが来たら、いわゆる“加配”と言われる障がい児にマンツーマンで付く保育担当になる。配属先が分かった段階で、給料が安いうえに一筋縄ではいかない障がい児担当となると尻込みする人もいるだろう。知識と経験がないと体力的にも精神的にもつらいはずだ。うちのクラスには少なくとも加配が必要な子が3人もいるのである。私が本来の勤務時間に戻れるのはいつになることやら、と思う。
って、今日の話題はそういう愚痴ではなかった(笑)。
保育士の資格って本当に必要なのかと思ってしまうことについて、今日は書きたかったのである。うちの園では早番遅番の延長時、あるいは日中でも昼食やお昼寝などの時間帯には担任のフォローのために非常勤が入る。非常勤とはパートのことで、二通りあって有資格者と無資格者がいる。この資格の有り無しがごちゃまぜになって一緒に保育しているというのが、実はときどきすごく引っかかるのだ。無資格でも長年保育に携わっているおばちゃんたちというのは、有資格者から見たらどのように扱うべき存在なのかわからない。保育歴から言えば私なんかよりずうっと長い無資格のおばちゃんたち。彼女らには彼女らの「長年、子どもを見てきた」というプライドがあって、それぞれ自分は仕事ができると思っている(フシがある)。ならば、保育に保育士という資格が果たして本当に必要だろうかと疑ってしまうのである。彼女らに言わせればきっと「資格なんか実はいらないのよ。給料のための紙っぺらよ。子どもさえ育てたことがあればいいの」だろう。じゃあ、資格ってなに?何のためにあれだけ勉強して、「遊びとは?」「発達とは?」って研修して、報告書書いて、会議してやってきたのか、ということになる。賃金の差はあるにせよ無資格者を雇って「子どもを育てたことがあれば(実際、育てたことのない人もうちの園にはいる)誰だってできる」みたいなことが、どこかで保育士を社会全体が「子どものお守り」のように低くみる風潮に繋がっているのではないかと思う。たしかに人手不足もあるのだが、いまだに保育士が国家資格の専門職と重く見られないのは、そういう悪循環にある気がする。
もっと言えば、うちの園は例えば早番遅番の延長時はクラス担任が帰ってしまい、子どもの日中の活動や健康状態など簡単な挨拶程度の話は資格の有無に限らずパートが引き受けている(怪我など重大なものは当番の正職が伝える)が、担任が帰った時点で、どこか本来の「今日の保育」は終了して、あとの延長時間は「怪我さえさせなきゃ、それ以上の保育の質は望まない」ふうな、園や正職側の“妥協の感覚”があるのではないかと思う。そうでなければ、少なくとも正職の担任が帰ってしまった後なのだから、責任の所在のこともあるし、有資格者で経験のある保育士をピシッと揃えておきたいはずである。まあ、そこにも人手不足という問題があるのかもしれないが、無資格で長年勤めているというおばちゃんたちの保育に対するいっぱしの発言権が次第に大きくなっていくというのは、どこか違う気がする。
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by zuzumiya | 2017-04-26 23:15 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

認めてくれたのかな

今いるこの町に引っ越してきたのがおととしの6月の末。もうすぐ2年になるところでまた庭で不思議なことが起こっている。去年の春は伸び放題が嫌でやたら邪険に切りまくっていた鈴懸の木に白い花が咲いて驚き、それからは雪柳、小手毬、つつじと咲き続き、濃いピンクの薔薇まで咲いて、秋にはおととしには咲かなかったので何者かわからなかった金木犀がついに咲いてくれた。今年はダイニングの出窓の前に植わっている目隠しの木に薄ピンクの花が咲いているのを今日ベランダから見つけ、どうやらハナミズキではないかと思っている(ハナミズキだったらいいのになと思っていた)。もうすぐ2年という頃になって、ようやく庭の植物たちが私たちを主と認めてくれたのだろうか。それとも去年の冬にハナミズキの木に野鳥のための餌団子をたくさんぶら下げてあげたので、糞が肥料になったとか?野鳥を育てたことを木が見ていて、そのご褒美とか?いろいろ考えて、ひとり楽しんでいる。





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by zuzumiya | 2017-04-23 14:08 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

私の「今日の人生」

a0158124_2334521.jpg「ねことじいちゃん」の3巻目を買いに行ったら、益田ミリちゃんの新刊の「今日の人生」まで出ていた。即買いする。で、最近は頭が仕事モードになってて書くことも思いつかないので、私もミリちゃんの真似をさせて頂く。
焼き鳥をしようと調理台に立て掛けてあった焼き網をコンロの上に出したら、網の中になんとヤモリがいた!「うわっ」と大声を挙げたが、瞬間「ヤモリは家の守り神」と思い出して、すぐに網を元に戻した。今思えば、昨日は園でトカゲを2匹も見たのだったが、前兆だったのか。それにしても、ひどく驚いたくせに瞬時に冷静に考えられる自分の脳の働きに感心した今日の人生。





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by zuzumiya | 2017-04-22 16:38 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

春は部屋の模様替えがしたくなる

新しく人が入るまでたぶん、残業して正職より長時間労働になるだろう。
担任に恩義があるのでできるだけ頑張るつもりでいるが、なにせ障がい児やグレーの子を含めて配慮が必要な子が8人もいるクラスなので、新入園児にきちんと関わりたくても人手が足りなくてストレスが多い。そのうえ、ついにアレルギー性鼻炎を発症してしまった。鼻血が出るほど鼻が出る。
その反動でプライベートでは今度はインテリアにこだわり始めている。来る5月の連休に備えて部屋(10畳)の模様替えを考えている。前々から部屋を「ブックカフェ」のようにしたかった。
1、デスクを取り払って本棚3つを買う。
2、パソコンと食事ができるテーブルを買う。
3、棚板が重さで歪んでしまった格好悪いCDのラックも買い替える。
4、最近、また写真集や雑誌(ブルータスやカーサブルータス等)を買うようになったのでラダータイプの見せる収納棚を買う。
5、無印良品の長押を買ったので、外国旅行で収集したポストカードを壁に飾る。
6、以前買ったアートポスター(私に似た女がコーヒーを淹れている白黒のイラスト・静岡かどこかのカフェのもの)に加えてもう一つミニポスターを買ったので貼る。残りの空間はどうするか、貼ってからまた考える。
7、目にも鮮やかな大小様々な観葉植物(フェイクを含む)を至るところ(吊るしたり、置いたり)に置く。(購入はまだ未定)
8、読書のためのひとり掛けソファを買う(センス重視か座り心地かで悩みどころ)。
9、もちろん、椅子の横にフロアライトも買う。
旅行にも行かない完全なるインドア派なので、音楽と本と植物とコーヒーがあれば何時間でもいられるような癒しの空間を作る。気が変わらないうちに順次、購入は進めていくが、6月のボーナスですべて揃うようにはしたい。ここに書いたからには頑張って働くぞ!
ただし、猫との共存だから猫タワーはあるし、デカイ室内物干しがなんとも困りもの…。
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by zuzumiya | 2017-04-16 08:24 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

「シュウトメ根性」

今年度もあとわずか。パートの分をわきまえて、欲をかかず無理せず身の丈でやってきたおかげで来年度も同じ職場で仕事を続けられる。昨日、ついに辞職する先生方の名前が我々パート職員にも告げられた。どよめきが起こったが、私の予想はほぼ的中していたので驚かなかった。辞める人間というものは年度末に溜まった有給のことで最後の不満を小声で漏らし、あたふたするものだからなんとなくわかってしまうものである。ただ一人、園を辞めて海外で幼児教育に携わるという若い娘がいて、彼女はすこぶる仕事がデキる人だったのでてっきり園から誘われて正規職員になるのかと思っていたから驚いた。やはりデキる子の夢はデカイ、若さっていいなぁと思って、思わず「いろんな生き方があるんですねぇ」と感慨深く漏らしたら、横にいた例のこの園20年の先輩が「1年もたなかったか…」とつぶやいたのでまたしてもムッとしてしまった。
何度も書くが確かに20年は凄い。偉い。その間にいろいろあったろうと思う。プライベートにだっていろいろあって、続けることが難しく思えて辞めようかと悩んだ日々もあったはずだ。でもなんとか踏ん張って続けたことは素晴らしい、とは思う。だからって、それがすべてではない。人はいろいろだ。
人が辞めていく時、いろんな職場で私はいつも思ってきたことがある。辞めていく人に「続けていくことができなかった」と努力や辛抱が足りなかったかのように語る人がいるが、(先ほどの「1年もたなかったか」の“もつ”という言葉使いもそうだ)その発言はやはり考えなしの言葉に思えてしょうがない。
ほんとに千載一遇の素敵ないい職場だから、やりたい夢と天秤にかけても残る人もいる。逆にあまりに心地いい職場だから、ずっと居たくなってしまい、大切な夢が遠のくという考え方で敢えて出て行く人もいる。何でもかんでも努力や辛抱の価値観で切られては困る。
むしろ、長年の先輩としては若者が去ることに責任や反省こそを感じてほしいと思う。彼女の最終決断においてこの園が「選ばれなかった場所」という見方を心に置いて、何か反省すべきことはないか、改善しなくてはいけないことはないか、辞めていく人間のもらす言葉や態度にそのヒントはなかったか、自分にできることはなかったか、などと謙虚に真剣に考えなくてはいけないと思う。「去りたい人間は去って結構」と豪語したらしいある園の園長も知っているが、それでは何も変わらず、よってその園はいつも人に去られてばかりいて、年中人手不足だという。
辞めていく人間がいると、残された人間は心がなぜか揺さぶられる。人はいつでも岐路に立っていること、そして自分の選択の是非を、価値観を自分に問うことになるからだろう。その一瞬の不安定さがああいった「1年もたなかった」の言葉をひょいと言わしめたのかもしれないが、女性においてはそれだけではないのである。
とかく女性は心のどこかに「シュウトメ根性」を持っている。「自分が新人の時には先輩の酷いイジメにあって、それでも辛抱して働いた。今はその先輩はだいぶ丸くなって、ぜんぜんラクなはずよ」と言い切る人を知っている。「自分の方が苦労したんだから」と苦労自慢をし、他の人に同じ苦労を「するべきこと」のように無意識に押し付け、苦労の伝授をしたがる女性を私は哀しい「女のシュウトメ根性」だと捉えている。小さい頃に人は「自分がやられて嫌なことは人にやらない」と何度も教えられてきたはずなのに、「自分だってやられたんだから、アンタもやられなさい」となぜか人は変わってしまう。どうしてそうなるかと考えてみたら、やっぱりその時々できちんと気持ちを受け入れられ、「大変だったね、よく頑張ったね」ときちんと評価されなかったことからくる“捻れた寂しさ”じゃないかと思う。実際の嫁姑の話では、同じ姑でも「私はイジメられたから絶対、お嫁さんにはやさしくしようと思う」という見上げた女性だっている。そういう姑、いや先輩のひとりでもいる職場の人間関係はきっと少しずつでも良い方向へ変わっていく。
先の20年選手の「1年しかもたなかったか…」発言もその裏に「自分は20年も長きに耐えたのに」という苦労自慢、「シュウトメ根性」がほの見えて、どうにもいやらしさを覚えてしまう。悪い人じゃないのはわかっているんだけど(苦笑)。



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by zuzumiya | 2017-03-25 10:19 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

不毛感という凪

昨夜、本を読んでいて寝落ちしてしまったので、久しぶりに朝のシャワーを浴びた。体を洗っていてふと、ここ数日の間にものすごくカチンときた出来事があったはずだが、と思い出そうとして、出てこない。あれだけ怒っていたはずなのに、という感覚だけは残っているが、何に怒っていたのかすっかり忘れている。自分でも「え?」という感じだ。最近はお腹の底から笑うこともなければ、涙を流して泣くこともない。ムッとしたり、カチンとくることはあってもひと晩寝ればずいぶん薄まる。楽しくてたまらないと夢中になったり心浮かれることも、ない。じゃあ、喜怒哀楽がその程度になってしまったのなら、私の心の中は一体何が占めているんだろうと考えたら、ちょっとした不安や心配事、自己嫌悪や後悔からくる「あーあいう残念な感じ」なのである。これは一応落ち込みの部類に入るのだが、人生において何度となく挫折や失望を繰り返してきたために多少、深度計の針がバカになってしまって、深いものを浅め浅めに捉えようとするらしい。具体的に書くと、風呂で湯に浸かりながら「あーあ」とつぶやいてはダメな自分のダメぶりを思い出す。でも体が弛緩してくるにつれて、だんだんどうでもよくなってきて「まぁ、いいか」で落着、忘れようとするのである。この後にモヤモヤと浮き立ってくるのが「残念な感じ」ぐらいのゆるさでくる自分への諦め、もはやどうにもなれない不毛感なのである。年をとるとこのなんとも言えない不毛感が避け難くなってくる。
先日、映画館でさほど可笑しくもないところで声を立てて笑っていたオバチャンたちがいたが、あれは今思うに意識して、いわば多少の無理をして、笑っていたのではないか。少しでもチャンスがあれば笑っておこうというような。放っておけば喜怒哀楽のすべてが薄まり、不毛感の凪に覆われてしまう老いの感情を意識して奮い立たせ、喜んだり笑ったり、今を人生をじゅうぶん生きて楽しんでいると自分に知らしめようとしていたに違いない、なんて思う。


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by zuzumiya | 2017-03-20 09:56 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

聞き耳団地

ああ、また図書館から予約の本が届いたとメールが来てしまった。
今は常盤新平を読んでいる。家には既に3冊ほどのエッセイがあるが、さらに今日1冊、詩人の白石公子さんおすすめの小説『たまかな暮し』が届いた。風もなく陽気もいいから図書館まで歩いて行くかという気になる。
ここへ引越して来てから新たに通うようになった図書館の前には、公団だか都営だかの古い団地があって、棟と棟との間に小さな広場がある。道路を隔てた前にはコンビニがあり、線路を越えないとスーパーには行けない不便な団地に住む人々の冷蔵庫のような役割を果たしている。午前の仕事の帰り、図書館で本を受け取った後は必ずここで昼食を買っている。この小さな広場に天気がよければいつでも老人の二人連れがいて、おそらくはこの団地の住人なのだろうが、ベンチの足元にコップ酒やビールや焼酎の缶を数本立てて、酔いに任せて陽気に喋っている。いかにも酔っ払いの野太いダミ声が団地の壁に反響して、道行く人も何事かと振り返るほどである。うるさいと苦情は出ないものかと心配になる。コンビニには何度も来ているのであまりに老人たちを見て「よく会うね、ねえちゃん」などと声をかけられたらたまらないと、毎回、慌てて自転車を出す。
ある時、老人たちにまじって、ごく普通の身なりの主婦らしきオバサンが一緒ににこやかに喋っているのを目撃してちょっと驚いた。絶対に彼らは近所の鼻つまみ者だと思っていたから、話かける人が、それも女性がいることに意外だった。彼らにしてみたらただ酒を飲んで陽気に仲間と喋っているだけで、生臭い喧嘩沙汰になったり、誰彼かまわず通行人に絡んだり、飲んだくれてそこらを汚物だらけにしたりはしていないのである。見かけるたび「まったく、昼間っからいい気なもんだ」と呆れてしまうが、よくよく考えれば社会やら家族やらの有用性の枠の中からとうに弾き出された行き場のない老人たちなのだ。「あれはあれで、わずかな年金からでも飲まなきゃ生きてる楽しみがないんだろう」とも思えてくる。そんなふうに考えながら自転車に乗っていると、自分の老後は酒も飲めないし、人見知りな性格ゆえに、さぞや孤独を持て余すことになるだろうと思えた。目も見えづらくなって読書も文章書きも億劫になったら、映画も疲れて見続けることができなくなったら、私には何の楽しみが残っているんだろう。
もしかしたらあの主婦のオバサンもああ見えて本当は孤独な一人暮らしで、あの老人たちの無邪気で陽気なお喋りを毎回「始まったナ」とほほえましく聞いていたのかもしれない。「あんなふうに楽しく生きられたら…」とおおらかな笑い声を羨ましく聞いていたのかもしれない。私にはオバサンのようにフレンドリーに振る舞える勇気はまだない。まだ、切羽詰まっていない。
古ぼけた団地の灰色の壁は住んでいる人もなぜか古ぼけた老人たちばかりに思わせる。酔っぱらいの陽気な老人たちの声がいくら反響しても、黙って許せているようなあの壁の中には、やっぱり一人暮らしの孤独な老人たちがひっそり暮らしているように感じてしまう。



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by zuzumiya | 2017-03-18 20:20 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

鶴橋監督、またしてもベット・ミドラーですか!

a0158124_13114418.jpg読書の合間に映画をAppleTVで2本見ました。『だれかの木琴』と『後妻業の女』です。どちらも女の業の深さを考えさせられる映画でした。後妻業の方は私の大好きな鶴橋康夫監督で、映画の途中でベット・ミドラーの「Do You Want To Dance?」が流れてきた時には「イヨッ、待ってました!」と心で叫んでいました。監督、よほどこの曲に惚れ込んでいるようで、自作の挿入歌に使うの何回目?と笑ってしまいました。ベット・ミドラーのこの曲が流れて来たら鶴橋作品と思って間違いないのではないでしょうか。ほんとにこの曲は大人の艶気と渋みがあって、こちらをじらしてくるような登場感があって、美しく悩ましく切なげに盛り上がって行くし、どんなシーンをも粋にひきたたせてくれるんです。監督は音楽にこだわる方だと思うので、きっとバーに流れていた曲も特別な演出的配慮があってのものでしょう。一曲、素敵だなぁと思えたジャズの気怠い女性ヴォーカルの曲があって、気になるのでなんとか曲名を調べてみようと思っています。小夜子役の大竹しのぶさんと結婚相談所の所長の柏木役の豊川悦司さんが酒場で探偵殺しの相談をする場面だったと思います。思わず、監督の音楽の趣味の良さを思いました。そういえば、「黄昏のビギン」も大竹さんに殺しの場面で歌わせていましたね、ふふふ。脚本も演出も面白かった。大阪弁だから勢いがあって泥臭くてスッタモンダの喜劇になってくれるんでしょうね。ストーリーや演出から離れますが、一人の女としてみれば、飢えと空虚が入り混じった小夜子の底知れない業というか、生い立ちなどの人間的な背景をもっと知りたいな、と思いました。


※音楽を担当した羽岡佳さんの事務所に曲名と歌手をお訊きしています。果たしてお返事くれるでしょうか。


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by zuzumiya | 2017-03-16 22:11 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

先生が辞める時

今年もそろそろ年度末が近づいてきた。
どこの園でも辞める先生たちがいて、早いところではもう来年度のクラス分け、担任が決まっていることだろう。
いつも思うのだが、先生が辞めるというのは保育園でも幼稚園でも学校でも、寿退社や介護退社、夫の転勤や家の購入、引越しなど以外はおそらくは人間関係じゃなかろうか。保育や教育の現場では考え方、価値観の違いが致命的だったりする。夫婦仲が悪ければ子どもがうまく育っていかないように、ペアを組む先生との相性、保育観、教育観がすごく大切になる。大人だから表面上はなんとか取り繕っていても、実際はいろんなところで漏れ出て、子どもやクラスの雰囲気に影響してしまうものだ。子どもは総じて力関係、序列というものに敏感である。クラスリーダーにはビビって逆らわないが、それ以外にはワガママをぶつけてきたりする。そうやって人を見る。甘えを使い分けている。クラスという小さな集団で自分の居場所を確保し、日々を生き抜くために身につけていく知恵なのだろう。そういうことを逆手にとって「私の言うことは聞くんだから、あなたの言うことを聞かないのはあなたの能力がないせいよ」とこれ見よがしに威張るリーダーはおかしい。子どもとのそれぞれの関係性は違って当たり前なのだから互いに良いところを認め合い、足りない所はフォローし合わないといけない。先生が辞める時というのは、小さな職員室で誰ひとり仲間が信頼できなかった、心からの味方が誰もいなかったという絶望感、内側からの問題なんじゃないか。子どもや保護者が嫌い、面倒ということではないと思う。足の引っ張り合いで、支えたり支えてもらったりの関係がなかった、というのが本当のところなんじゃないだろうか。

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by zuzumiya | 2017-03-15 23:32 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

降ってきた読点

うたた寝から目覚めたら視界の中で何かが違う。何だろうと見回すと窓に何かが張り付いている。猫のチビも両足で立って見上げている。「うわっ」すぐにメガネをかけた。見ると、運よく蛾やヤモリのような生き物ではなかった。ガラスの中央に墨の毛筆で書かれたような5センチくらいのシュッとした点があった。「句読点?」と思った。いや、正確には読点(ヽ)なんだが、書道で言えばその最後を「止め」でなくシュッと「はらい」で流したような点だ。そういうのがガラス窓に残されてあった。量といい、その勢いといい、すぐにカラスの仕業だとわかった。この辺を縄張りにしているカラスの一羽がわざわざ猫のケージのある方の窓に向かって空から糞を飛ばしたんだろう。まったく、もももいい加減バカにされている。
とはいえ、その読点もどきの点をぼんやり見つめていると、なぜだかすぐに掃除して消さなくては、という気にならない。糞だし汚いしバイ菌あるかもしれないし、ケージのあるベランダは狭いし寒いし、面倒で億劫ではある。でも、それだけではないような。暇人な頭がいきなり現れたその点に何かカラスの糞以上のものを感じ取ろうとしている。
昔、子どもがまだ幼い頃、千葉から東京までよく車でドライブをした。ちょうど浅草のあたりでアサヒビール本社の金色の巨大なオブジェが見えると、子どもが「神様の落っことしたウンコだ」と騒いで「ウンコビル、ウンコビル」と笑った思い出がある。糞つながりでそんな楽しかった家族の昔を思い出した。昨日読んだ白石公子のエッセイに<ぼんやりという言葉が好きなのは、その瞬間、なにかを忘れていたり、なにかを思い出していたりするからだ。※>というのがあったが、ほんとうにそうだと感心する。
単なるカラスの糞であることをひとたび頭の隅に押しやって、いきなり天から降ってきた「読点」として、神様からのメッセージをあえて考えてみる。「まだまだ続く」なのか、ここらでひとつ「区切りをつけよ」なのか。するとまたしても私の思考は離婚話へとつながっていく。いやいや、もしかしたら「読点」なんかじゃなく神様は「ペケ」のつもりか「チェック」のつもりでマーキングしたのではないか。だとしたら、どうだ?なんとなくもうこの夫婦の行き着く定めは決まっていて「ハイ、終了」という感じか。そういえば“お墨付き”という言葉もあるじゃないか。ああ…。
ベッドにぼんやり座っていると、チビが膝に飛び乗ってきた。「にゃーん」と鳴いたその目は「ありゃ、カラスの糞だね」と言っていた。

※『はずかしい』白石公子 白水社


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by zuzumiya | 2017-03-12 21:28 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

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