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『フォトグラファーズ・イン・ニューヨーク』で好きになった写真家

a0158124_22425462.jpgこの一週間、正職の先生よりも多く働いた自分にご褒美のフライドチキンを片手に映画を楽しんだ。『フォトグラファーズ・イン・ニューヨーク』。ニューヨークの街を撮り続けている15人の写真家を追ったドキュメンタリー。大学時代の彼が写真を専攻していた影響で映画の中に出てきたウイリアム・クラインやロバート・フランク、ダイアン・アーバスなんかは知っていたけど、新たに好きな写真家を見つけた。ジェフ・マーメルスタインとブルース・ギルデン。どちらもAmazonで写真集が買えるようだが、どちらも一冊、万超えする値段だ。ジェフの『Sidewalk』なんて3万円以上もする。二人ともニューヨークのストリートに出て、街行く人々の流れの中にいて、一瞬を逃さず躊躇せずガンガン撮影していく。ジェフの方は肩に乗ったサルがラッパーのような粋なポーズを決めていたり、デブチワワが新聞の束の上にいっちょ前に仁王立ちしていたり、肥った男性が本をハンバーガーのように口に咥えていたり、彼独特のユーモアと人間の可愛らしさ、おかしみ、温かみにあふれている写真。ギルデンの方は街行く人にいきなり真正面からカメラを構えて背景に一瞬バッとフラッシュをたいて身動きできないところをバチッと撮る。これも彼独特のやり方で彼が選んだ被写体もちょっとエグい魅力の、個性的な顔つき体つきの人ばかり。一瞬の人間の表情がすごく面白い。ギルデンはこの強引な方法で日本のヤクザにも体当たりしてフィルムに収めたというから凄い。モノクロの『GO』という写真集らしいが見てみたい。今やブログには写真がつきものなのに、タラタラと文章ばかりの私のブログ。よく皆さん、読みに来てくださいます。ありがとう。精神的に余裕ができたら是非とも私も写真を載せていきたいです。
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by zuzumiya | 2017-04-07 22:45 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

アーティストのドキュメンタリーが好き

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新年度が始まった。園長が読みを誤って辞めた人間が予想外に多くて、残った人間で保育をやりくりせねばならない状況になった。私は難しい子が多くいるクラスの手伝いに今週いっぱい入ることが決まっていて残業することになっている。お金にはなるがうまく務まるか非常に不安である。自分は保育士の資格と経験があるから仕事はしているが、適性は疑わしいといつでも思っている。だから、正職を辞めて、パートでのんびり無理せず身の丈でやろうと決めたのに、何故か仕事運が私をより難しい方へ、悩める方へと導いてしまう。休日もクラスのことを考えたり、図書館から紙芝居を借りてきて読みの練習なんてやっていたら、まるで正職の頃と変わらないじゃないかと思い、せめても最後の週末だけは自分らしさを取り戻して楽しもうと好きなドキュメンタリー映画を1本見た。『マドモアゼルC ファッションに愛されたミューズ』という作品。以前にもhuluで『ファッションが教えてくれること』という邦題のアメリカの『VOGUE』の編集長アナ・ウインター(映画『プラダを着た悪魔』のモデルになった女性)のドキュメンタリーを見たが、今度はフランスの『VOGUE』の元編集長セリーヌ・ロワトフェルドの話である。
私の中のある部分はファッションや写真や音楽やアートのようなクリエイティブな世界をこよなく愛している。日芸に進んだのもいずれ日本でMVが盛んになると見越して、作れるようになりたかったからだ。だから、写真家やアーティストたちの伝記や仕事のドキュメンタリーを観ているとなぜか無性に心が弾んできて血が騒ぐ。「こういう世界っていいよなぁ」と50を過ぎても少女のように目をきらめかせて憧れがまだくすぶっている。
フランスの『VOGUE』の編集長だったセリーヌ・ロワトフェルドが10年間の編集長の座を捨てて、自分の頭文字をつけたオリジナルなファッション雑誌『CR』を新たに完成させ世に送り出すまでを追ったドキュメンタリーなのだが、『ファッションが教えてくれること』もそうだったが、もはやアートと呼べるような見事なファッションページを作り出すアイデアが斬新で奇抜でユニークで、観ていて面白くて胸が高鳴る。服を売りたいがための服がメインの宣伝ページではなく、もはや主役の服を超えて、ある物語のワンシーンを作っていて、たしかに服がそれを彩ってはいるが服がすべてを担っていないというようなアートフォトを生み出しているのである。それを仲間内でああでもないこうでもないとやりながら作っていく様はすごく刺激的でスリリングで、でものめり込むくらい楽しそうで、映画を観ながら「私だったらどういう物語、シチュエーションを考えるかなぁ」なんてワクワクする。そういえば、常盤新平さんのエッセイにもアニー・リーボビッツがローレン・ハットンというモデルのヌードを撮りたかったが断られたので、体に泥をかけて「泥を着せた」という話が出てきたが、アートにはそういう自由な発想、心の解放があるから、ムラムラと元気が出てくるのだ。保育を含めて日本の教育のような何かの型にはめたり、個性を重んじるとは口先だけで「みんなで、みんなで」と集団から外れることを良しとしないような世界で日々がんじがらめになっていると、こういう人とは違う斬新さが求められるようなアートの世界の映像を見ると、ほんとに心がスカッとする。だから、時々、私はこういうアーティストたちのドキュメンタリーを見て、「こういう世界を好む自分が好き」と生きる力をもらうのだ。作品を観た直後は「明日から金髪にして保育園に行ったろか!」と一瞬とんでもない気合が入るところもいい。






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by zuzumiya | 2017-04-02 22:21 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

老け込む理由

a0158124_1759891.jpg今日のように薄ら寒くてシトシトと雨の降る日は絶好の読書&昼寝日和と本をかかえて電気毛布の中に潜り込んでしまう。若い頃は雨で嫌だなとは思いつつも、休日は友人と誘い合わせて電車に乗って都心まで遊びに行ったものだが、いつからこんなに出不精になってしまったのか。「雨の日は寝てるに限る」とか「雨の日は静かでいいやな」だなんて、これが年をとったということか。そんなことをつらつら考えていたら、待てよ、と思った。
エレカシの宮本浩次が「遁生」という曲を発表したのが24歳ぐらい。その若さだと“老成”という言葉がぴったりくるけど、51歳の今の私にはもう“老成”だなんて言葉は使えない。それでは中年が老境の心理に頷いたり、年寄りじみた考えをするのは何と言えばいいのか、ぴったりした言葉を誰か知らないか。
性格なのかなんなのか、なぜか私の読む本は“ジイさんもの”が多い。書き手がジイさんである随筆、エッセイの類が好きなのだ。しかも、最晩年のものを選んで読む。先日も詩人の天野忠の随筆集を買ったし、庄野潤三や小沼丹、永井龍男、長田弘、山田稔、荒川洋治、神吉拓郎、津野海太郎、木山捷平、常盤新平、久世光彦、井伏鱒二、みんなジジイか、とっくに死んでいる。
そういう老境のものを好んで読み、BGMには静かな墨絵のようなピアノの曲ばかりを流して日々を暮らしている。そんなんだから、頭の中が妙に年寄りじみて、まだ51歳なのにどんどん老け込んでジジむさく(ババむさくとは言わないのは何故?)なっているんじゃないかと、ふと気づいたのである。
最近では、常盤新平のいうところの“リトル・ピープル(庶民)”の暮らしぶりや欲のなさにうんうんとただ頷いて、読んでいてまったりしてしまう。例えばこうだ。
<もっとも、何ごとにも動作も考えもおそくなっている。歩いていると、どんどん人が追いこしてゆくし、電車も混みあう急行は避けて、各駅停車に乗ったりする。時代にもはるかにおくれてしまった。「それでいいんじゃないですか」とYさんは笑う。「年相応、分相応ということがあるんです。僕なんかお天気のいい日に庭いじりをして、夕方ひと風呂あびて、ビールが飲めたら十分です。それから好きなテレビを見たり、本が読めたりしたら」欲張ってはいけないと私もわが身に言いきかせる。望みはなるべくささやかなほうがいい。多くを望むのは若い人たちにまかせる。>とか、
<コーヒーが飲みたくなって、小さな喫茶店に行きつくと、ほっと一安心する。土曜日というと、早起きだ。金曜日の夜にいくらおそく寝ても七時ごろには目がさめて、風呂にはいり髭をそり、食事もとらずに出かけてゆく。地下鉄で一時間ほどかかって街に着くと、目に入った喫茶店でトーストとコーヒーを注文する。それにゆで玉子なんかがついてくると嬉しくなる。>とか
<もう多くは望まない。日々の暮らしが無事であればいい。なにごともないのが正常な生活なのだ。>なんかを読むと、常盤さんやその友人知人たちの見事なリトルっぷりに「いいねえ」なんて頬が緩む。ほんとうは、常盤さんの50代は徹夜ばかりでものすごく忙しく、精力的に仕事をこなしていたのだが、そういうところはなぜか読み飛ばしている。<何もかも遠のいていくようだ。これも致し方ないのだが、それに慣れてしまった気もする。人に会わない日がつづき、電話もかかってこない日がつづくと、世の中に見すてられたような気はしないものの、年をとるというのはこういうことなのだとさとる。それは淋しいことだけれど、ぼやくに当たらない。みんなそうなのだから。>に、やっぱりニンマリしている。“ジイさんもの”じゃなく、佐野洋子や田辺聖子、最近人気の佐藤愛子などの“バアさんもの”も読んだりもするが、何故かあまり続かない。それは、彼女らが作中でみな元気すぎるだからだ(佐野さんは鬼籍にはいられたが)。元気すぎてシャンシャンしていて、誰彼かまわず怒ったり叱ったり、口うるさいのがしつこくてウザったくなるのだと思う。幸田文や武田百合子あたりはふんにゃり曲げた背筋をシャキンと伸ばさなきゃならぬ。ジイさんのぬるま湯に浸かったような、ほのあたたかい“ゆるやかな諦観”がいい塩梅で今の私には性に合う。単なる怠け心だとどこからか声が聞こえてきそうだが。

※< >内は常盤新平『明日の友を数えれば』より引用です。
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by zuzumiya | 2017-03-26 18:01 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

家族写真

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子どもたちが幼かった頃、外国映画に見る暖炉の上のように家族写真を小さなフレームに入れて棚にいくつも飾っていたことがある。引越しに引越しを重ねているうち、子どもたちも家族写真の甘ったるさに恥ずかしさを覚えるほどに成長し、主婦の私も並べたフレームの掃除の面倒さもあって、いつの頃か飾ることはやめてしまった。その後、家族写真の入ったフレームはアルバムやその他の撮りためた写真と一緒にダンボールに入れられ、どの家に引っ越しても天袋の奥にしまわれた。
夫が別居する際、その中から家族の思い出として画用紙ほどの大きさの一枚の額を持って行った。そこには大小の丸や四角の切り抜きがあって、そのどれにも幼い息子と娘、あるいは肩寄せ合って笑う家族四人が収まっている。再び同居を始めた時、その額はそのまま夫の部屋に飾られていた。ところが数ヶ月前、部屋の模様替えをした時に、夫が何を思ったかその額を出してきてリビングの壁に飾った。私はすかさず「もうこういうものは出したくないの。飾りたいなら今までどおり自分の部屋に飾って」と告げた。その時、夫と私の時間の流れ方の違いというか、家族に対する捉え方の隔たりをすごく感じた。なぜか夫の時間はこの笑顔の家族写真のまま止まっている、もしかしたら止めておきたいのかもしれない、と感じた。
映画やドラマで登場する家族写真はいつでも「こんな頃もあったのに…」という切ない気持ちを見ている側に起こさせる。たいてい主人公が家族写真を手にとり、ぼんやり眺めているシーンである。懐かしさと愛おしさと一枚の家族写真から派生してくる様々な暮らしのフラッシュバックと、もう戻れない取り返せない時間とそこから遠く隔たってしまった今と、そして最後に必ず「どうしてこんなことになってしまったんだ」「どこでどう間違えたんだ」という強烈な悔恨がふきだす。すなわち、その主人公の家族には握りしめている家族写真のように幸せや平和がそのまま続いてはいかなかった、儚く消え失せて惨憺たる真逆の現実になっているという哀しい証拠のように家族写真は扱われる。そう、過去の平和な家族写真は今の哀しみや不幸の証拠写真なのだ。
昨日見た映画『葛城事件』の家族写真もやっぱりそういう使命を帯びて映画で使われていた。家族へ対する愛情が暴君のような抑圧になっていることを自分では全く気づかず、妻や息子を萎縮させ、徐々に精神を蝕ませ、従順でも対人関係が苦手な長男はリストラのち自殺、妻は精神崩壊し入院、次男は引きこもりからの無差別殺人へと追いやることになる父親の役を三浦友和が演じている。その父親がやっぱり昔の家族写真をひとり見つめるシーンがある。そこには映画ポスターのキャッチフレーズ「俺が一体、何をした。」のつぶやきがどうしても重なってしまう。そういえば、妻より夫、女より男の方が映画やドラマで写真を見つめる率が高い気がする。昔から過去の思い出を吹っ切れず未練がましいロマンチストは男の方だからか。
そういう家族写真の使われ方を見てきたためか、私は子どもたちも成人した今さら、わざわざ幼い頃の家族写真をリビングに飾ろうとはどうしても思えない。そんなものを見たらどうしたって今をあの頃と比べてしまう。今の哀しみと不幸の証拠写真にはしたくない。夫が家族写真を飾ろうとする意味はもしかしたら「あの頃に戻りたい」あるいは「戻れないまでもここから歩いてきたことをしっかり憶えておきたい」なのかもしれないが、私の方は「もう終わったこと、過ぎ去ったこと、そこには戻れない。いまの私たちは誰もそこにはいない。すべては変わっていく。現実を見つめて今のお互いと向き合いたい」なのかもしれない。家族写真をリビングに飾りたがった夫だけが、なぜか家族写真の昔にとどまろうとしていて、そこからでしか私や子どもたちを見たくないような、変わってしまった家族を認めたくないような、そんな気がしてしまう。それは三浦友和が演じた恐ろしくも哀しい父親の一方的な愛情にどこか似かよっている気がして複雑でもある。


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by zuzumiya | 2017-03-20 21:04 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

郷愁の「The Rose」

a0158124_1384435.jpg鶴橋監督の影響でベット・ミドラーの「Experience The Divine」というグレイテストヒッツアルバムを出してきて聴いている。「Do You Want To Dance?」はもちろん、私の好きな「When A Man Loves A Woman」や聴くたびに涙腺をやられる「The Rose」が入っている。特に「The Rose」はいつの頃だろう、リリースが今調べたら1979年だというから14歳の中学生の頃だ。ある日、おそらくは日曜日のような休日の昼下がり。床に寝そべってラジオのFENを聞いていた。当時は洋楽に興味を持ち出した頃で、英語もわからないくせにラジオはいつもFENだった。トップテン番組だったかもしれない。「The Rose」の静かなピアノが流れてきた。何だかすごく悲しいような、でも同時に揺るぎない強さを感じる美しいメロディーと歌声に、歌詞が何にもわからないのに聴いていてつつーっと涙が流れた。「The Rose」を聴くたびに、あの日、寝そべりながら、台所で動いているおばあちゃんに気づかれないように涙をそっと拭って鼻をすすっていた14歳の多感な自分が昼下がりの柔らかい光の中に見えてくる。もう少し大きくなって、曲が使われていたジャニスの伝記映画も見たし、さらには歌詞の日本語訳も読んだ。「ああ、そうだったのか」と曲にまつわるいろいろを知って行ったが、そんなこととは別に私の中で「The Rose」にはいつでも郷愁のような懐かしさを感じてしまう。失われてしまってもう戻れないのに、あの頃はそうとも知らずに毎日を特別とは思わず、何ら疑いもせず、退屈やらちょっとした不満やらにくるまれてぬくぬくと暮らしていたんだなと。幸せってそういう時間の過ぎ方をすることを大人になった私は知っている。


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by zuzumiya | 2017-03-17 23:30 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

エレカシの「喝采」に寄せて

私は何でも人より先んじるより遅れをとる方だが、エレカシの宮本さんの歌うちあきなおみの「喝采」をようやくネットで見た。ちあきなおみの歌を歌う情報は知っていて、それが「喝采」であって、間違っても私の好きな「黄昏のビギン」なんかじゃないことは少し残念ではあったが、見てみて吃驚した。歌の上手さにほんとうに惚れ惚れした。二番めの歌詞に「喝采」を選んだわけがほの見えて「ああ、そうか」と納得もした。マイクを強く握りしめ、真剣に丁寧に歌う姿に、久しぶりに「私はやっぱり、この人が好きだったんだ」と心底思え、あの頃感じていた愛おしさとそこへ帰ってきた懐かしさに頬がゆるんだ。ファンは水ものと言っていたが、寄せては返す波のようだね。
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by zuzumiya | 2017-03-11 18:40 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

こんなCDを聞いてます

a0158124_1331869.jpga0158124_134549.jpgCDの棚をまじまじと見たら、ジャンルを越えてピアノものの多いこと多いこと。すべて単音や和音がぼわわーんと伸びて始まるような瞑想チックな、静かで穏やかで、まるで墨絵のような感じのものばかり。なんで同じようなものばかり買ってしまうのか。私が“雨と休日”という以前、西荻窪にあったCDのセレクトショップ(現在はオンラインショップになっている)のファンということもあるけれど、音楽をかける時というのはたいてい部屋で読書かパソコンで文章を書いている時というのが理由になりそうだ。
っていうか、常日頃その二つぐらいしかしていないのである。読書も文章書きも頭の中では日本語がぐるぐる回っているわけだから、そういう時に耳が日本語の歌詞を拾っちゃうともう読書も文章も一歩も先へ進まなくなる。だから、DJが曲の合間にペラペラ喋るラジオも聞けない。つまりは、私が選んできた音楽は読書と文章書きを邪魔しないもので、そうなると先に書いたような静かなピアノの曲ばかりになるのだ。そしてこれからも私の趣味が広がらない限りは、選ぶ音楽の基準はほぼ「読書と文章書きを邪魔しないものになる」ということに今日、深く気づいてしまった。ああ、そうだったか。
でもね、ほぼと書いたのは、私だって読書や文章書きの合間に掃除をしたり、風呂上がりにクリーム擦り込んだり、ネットショッピングしたりもするわけで、そういう時に流す音楽というのもあるわけで、そういう時は季節に合ったもの、その時の気分に添うものを選んでいるのである。以前にこのブログでも「春の窓ふきにはワルツが合う」とか「蒸し暑い夏の夜こそフィーリンがいい」とか書いた。洋楽だって、エレカシだって実はいっぱい持っている。
で、今回紹介する上記の二枚だが、雪の中の山小屋のジャケットがドイツの音楽家トビアス・ヴィルデンの『ARTIFACTS/SCENES PIANO WORKS』で、素足のイラストの方が森ゆにさんの『シューベルト歌曲集』。トビアスのピアノの音は「雪の結晶のよう」と評されているが、季節や昼夜を問わないと私は思う。B・ENOの『THURSDAY AFTERNOON』並みに鳴っていても読書と文章書きの邪魔にならない美しい作品。森さんは別にオペラ歌手ではないけれど、少女のように素朴にまっすぐにドイツ語で歌っているのがなんだか聞いていて心のふたが開くというか、明るい野原に連れ出されたようで気持ちが軽くなってくる。思わず窓を全開して部屋の拭き掃除をしたくなる。私のなかではそんな春モノの音楽のひとつ。両方ともおすすめです。


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by zuzumiya | 2017-03-04 14:03 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

魚雷式読書で『日曜日の捜しもの』白石公子を読む。

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私の50代はこんなんでいいんだろうか、と思いながら毎日、寝っ転がって本ばかり読んでいる。読みながら、そこに著者が紹介した本があるとすぐにiPadで検索し、図書館に予約を入れるか、ネットの古本屋(多くはブックオフオンライン)で購入してしまう。
ブックオフのシステムは購入金額が1500円に達すると送料が無料になる。この1500円ジャスト(まず、やれたことはない)か、ちょっと超えたぐらいにするために「あの本をやめ、この本を文庫サイズにし…」などとやりくりに苦心する。頑張ったつもりが「送料無料まであと4円です」なんてのが表示されると悔しくなって、「どこかに108円で良い本はないか」と探す。店側もそれをわかっていて、“108円本のコーナー”(夥しい量であった)を設けたりしたこともあった。このやりくりも結構楽しいものだが、そのために買い逃した本もいくつかあった。先日など、検索に著者名を打ち込んで3件しか出てこないのを「買われてしまったか!」と仰け反ったが、冷静になってよく見てみると藤枝静男と永井龍男が一緒になって「永井静男」と文字を打っていたから笑ってしまった。まぁ、そんなこんなで小さなメリハリのついた生活を私も送っている。
この“小さなメリハリ”という言葉、実は今読んでいる詩人でエッセイストの白石公子さんの『日曜日の捜しもの』というエッセイから拝借した。音楽ではこういうのを「オマージュ」と言い逃がれをするが、文章の世界だともろ「パクリ」だなと思いながら書いている。すみません。
最近になって、今の自分の心境(なんとなくのんべんダラリとして、欲やら希望やらがなくて、今日もとりあえず生きています的な、大人としてダメダメな感じ)に近いことをお偉い作家さんが正直に平然と書き綴ったゆるめの随筆が読みたいと思うようになっている。これは明らかに萩原魚雷さんの影響である。そういう「こんな心境は自分だけでない、あの偉いセンセイ方もその頃はそういう心境に陥っていた」と本で“確認”(“共感”よりもっと切実)しながら、そう書いてあることだし、「まあ今日のところはこれでいいじゃない」とゆるく自己肯定しながら、とりあえず本を読んで眠くなって寝ちゃいましたという感じが荻原魚雷さんの読書スタイルだと解釈していて、個人的には“魚雷式読書”と呼んでいる。なんというか、魚雷さんの本ってほとんどが随筆を紹介しているが(そこが好きなのだが)、自分と似た、自分にハマった箇所をとにかく本からばんばん引用しまくり、「ほらね、こんなこと言ってる」「ここがいいでしょう」と紹介してまわって終わるだけの印象がある。まあ、そこに偉い作家さんの知られざる一面、哀れで可笑しい人間味が現れていていいのだけれども。今回、その引用で埋めちゃう書き方を“魚雷式エッセイ”と呼ぼうと思う。しかし、読んでいくうちに自分も魚雷さん的なモノの見方、感じ方になって、なぜか締まったタガが緩まって気が楽になっていくから不思議だ。ま、世間的には、こうして天気がいいのに外へも出ずに掃除もせずにこんなことツラツラ書いているわけだから、ダメダメになっているだけだれども(笑)。
で、話はようやく白石公子さんに至る。昔、エッセイの『はずかしい』は読んだ覚えがあるのだが、まるきし内容は忘れた。なので、今回ネットのコメント欄で「この人はウツなんじゃないか」と書かれていた『日曜日の捜しもの』をわざと読むことにした。
魚雷式読書のおかげで遅ればせながらかもしれないが、最近、「ああそうか」と心に落ちてきたことがある。簡単に言ってしまえば「エッセイはその人を伝えるための自己紹介文である」ということを痛切に感じてきている。エッセイの面白味は物事や事件の奇っ怪さ(ネタ)よりも(日々そんなに事件らしきことは起こらない)、作者がどう感じたか、どう思ったかにある。そこにその作者の人となり、人柄が出て「この人、なんだか好きだなぁ」となれば成功だと思うのだ。だから、エッセイやら文章を書く時に心がけるべきことは「私はこういう者です」の飾らない正直さ、気取りのない人間臭さじゃないかと思う。だからこそ、何も起こらない身辺雑記的なエッセイでも面白いものは面白い。その人の感じ方、考え方が面白いから好きになる。作品とのつながりというより、人間どうし作者と肩を抱き合ったり、握手し合った感じだろうか。「友達になれそう」と読者に感じさせられたら、それはもう大成功だ。
で、読者の一人に「ウツなんじゃないか」と怪しまれた白石公子さんだが、それは“馴じみ”という言葉や関係を嫌い、暇さえあれば横になって眠気で朦朧としながら浮かんでくるひとり言をこれぞ私の本心などと楽しんでいるせいだと思う。でも、私はそんな白石さんをフフフと笑い「友達になれそう」と感じた。『日曜日の捜しもの』にはそういうシンパシーあふれる文章でいっぱいだった。

たとえば(と書いて、“魚雷式エッセイ”ぶってみると)
<「こんにちは」と声をかけられて顔を上げると近所のブティックの主人だった。二回ほどその店で洋服を買っただけなのに、こうして会うたびに挨拶を交わさなくてならなくなっているのは、いささか窮屈だ。知らない間に近所づきあいがはじまっているようで、いたたまれなくなってしまう。>(「馴染み客について」より)

上記のブティックで服を買ったのは、たぶん、この↓ジャケットかと思われる。

<そのジャケットを着て店の前を通るのが、どうにもイヤなのだ。ましてガラス越しにあの主人が(あっ、例のジャケット、着てるぞ)とニヤニヤしながら見ていると思うと、ますます不愉快な気分になり、ジャケット姿を主人に見られたくない自意識と意地がせめぎあって、違う道を通ったりするのだ。> (「やっかいな客のために」より)

電車の中で座っていると前に老婆が立って、席を譲ろうと声をかけたが断られた話で、
<次の駅で新しく乗って来た事情を知らない人達に、お年寄りを前にして席を譲らない図々しい女だと思われ、新聞の投稿欄なんぞに書かれたりするのも傷つく。お願いだから座って下さい。>(「悲しみの丸ノ内線」より)

<もっとも他人が軽く指摘する「肥った」「やせた」は、挨拶程度のもので、そこから相手のちょっとした私生活の変化を探ろうとする下心が少しだけ働いている。>(「食べすぎた後に体重計に乗るか」より)

<原稿用紙四枚ほどの書評エッセーだったのだが、出だしに何度もつっかかって先に進まず、弱気になるほどに知的に思われたい、といった下心が芽生えて、何を書いたらいいのかわからなくなり、そんなこんなでだらだらと三日もかかってしまった。>
<女性には、思いっきり髪を伸ばすときと短くするときがあるが、ショートにすると決めたときの、ある種の気負った不安と興奮した状態。そして、終わったときの虚脱感から、やがて見慣れない自分への戸惑い。美容院からほうり出されて行き場を失ったような、おちつかないもの悲しさ。これらの感情の流れは、時間のかかった原稿を書き上げ、ファックスで送った後に襲われる感情とよく似ている。そして、あてどもなく街を歩き回り、いろんな店に立ち寄って疲れてくると、やっと、いつもの自分を取り戻し、たちまち帰りたくなるのだ。>(ともに「身の置き場を失って」より)

いかがだろうか、この白石公子の人となりは。私は好きなんだな、こういう不器用な人。軽めのエッセイでよくある自虐ネタの「笑わせてやるぞ」のドタバタ感もない。それはきっと詩人の感性が描写を深くしているからだと思っている。思春期に父親の入った後のお風呂に入れなくて、湯船の栓を抜くシーンがあるが、
<「ごおっと苦しそうな音がして、排水口に吸い込まれていく水面の窪みを見つめながら、栓をするのに今なら間に合う、まだ、大丈夫だ、とせきたてる自分がいて、それでも動けずにいた。>(「父の後のお風呂は」より)
この水面の窪みと一緒に良心がずずーっと吸い込まれていく動けない水圧の感じ。トイレの水道の修理人を呼ぶために急遽、家中の掃除をしだすが、黴取りスプレーをブラウスに飛び散らせてしまい、余計に慌てたあと、
<お兄ちゃんが帰った後、ひとつ問題が解決した安堵でトイレに行きたくなり、スリッパを履いたら、まだ生暖かかった。ドキドキしていた。>(「梅雨のブリーチショック」より)
書かなくてもエッセイは終われただろうに、スリッパの生暖かさが妙に読者の心に沁みてくる。スリッパに残った人の温みに気づいて、そこでまた「ドキドキしていた」とあらためて心のトンガリ具合に実感が湧いているのである。詩人ならではの感受性が要所要所で文章に芯を作っていく。「いやあ、勉強になります」と言いたい。勉強にはなるけれど、私はたぶん、こんなふうには書けない。



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by zuzumiya | 2017-02-19 16:05 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

阿久悠と宮本浩次

先日、テレビで阿久悠の特集番組を見た。その中で堺正章が歌った『街の灯り』が昭和らしいメロディと歌詞でいい歌だなぁと思った。ドラマ「時間ですよ」の挿入歌だったらしいが覚えていない。今度、カラオケで歌ってみようと思った。
「街の灯りちらちら あれは何をささやく
 愛が一つめばえそうな胸がはずむ時よ」
なんて、素敵な歌詞だろう。「街の灯りちらちら」が甘く切ないような、人恋しい気分に拍車をかけて、始まったばかりの恋心にしみじみと効いてくる。
昔は、エレカシの宮本さんもいい歌詞を書いていた。個人的には売れないエピックの頃の、若さゆえの老成めいた背伸びととんがった歌詞が好きで、中年の今読み返すとなぜかしみじみと心に来て更に深みを増している。私は以前、あの頃の宮本さんの歌詞を優れた随筆のようだと書いたことがある。私の好きな歌に『通りを越え行く』がある。歌詞だけ見ても、ほんとにいい。なんてことない日々の暮らしのワンシーンなんだが、たまらなく詩情に溢れている。
「ああ、町の音遠くにして
 寒き夜なら猶なつかし
 今朝のままなる我が部屋の」
文語調だから、なのではない。仕事を終えて帰ってきた部屋の、今朝出て行った時そのままの部屋の自分らしい温もり、安心感、そういったものが町の音が遠くかすかに聞こえてくるような空気の澄んだ寒い夜は、なおのこと懐かしくいとおしく心に沁みてくると書いている。この感性、ものすごく素晴しい。平凡な日常の中にある人の生のつつましやかな滋味深さ。歌詞全編とおして、うら淋しいなかにも、どこか生の温もりに満ちて、ささやかだけどしみじみとした幸福感がある。人がひとり生きていくことにやわらかな灯りのようなものがともっている。いい歌詞だ。


※「通りを越え行く」は『エレファントカシマシ5』の中に入っています。
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by zuzumiya | 2017-02-10 23:23 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

荻原魚雷さん

荻原魚雷さんにはまっている。先日の『本と怠け者』に次いで『活字と自活』を読んでいる。魚雷さんはまたしてもこんなふうに書く。
<今日もまたとくに予定のない日にありがちなことをするだろう。つまり部屋を掃除して、洗濯して、食料品を買い物して、古本屋をまわって、喫茶店で本を読んで、酒を飲んで、家に帰ることになるだろう。あまりものは持ちたくないが、知らず知らずのうちにものが増えてゆく。>
私は酒が飲めないし、近くに行ける喫茶店もない。喫茶店で純粋に本だけを読むことは憧れでやってみたいことだが、コーヒー一杯で何時間ねばれるものなのか。小心者でそんなことに気を回していたら文章が頭に入ってこない気がするので、人待ちの時以外は試したことはない。それでも暮らしの質が、生活の芯のところが、そういうものだと自分に許している、ほどよく諦めたこのゆる~い感じがなんだか魚雷さんと私とは似ていて、天野忠とか黒田三郎とか辻征夫とか詩人の好みも同じで、彼の仕事や生活のまっ正直な悩みや告白にニヤニヤしながら読んでいる。〈好きな時間に寝て起きて、好きなときに酒が飲めて本を読める生活以上の望みはない。〉だなんて、ああ、そうね、そういうものよね。なんてステキなの。作家の名前や有名な作品が情報として知ってはいても、今までは触手が動かなかった。「フン、何さ」という私の天邪鬼な性格もある。好き嫌いが激しい。古本の世界は「読みたい本がたまたま古本にしかなかった」程度の素人からしたら、ガイドがいないと歩けないような鬱蒼とした森のようで、なんだか近寄り難かった。でも、魚雷さんに<何度も繰り返して読んでいる>とか<即買いした>と書かれると「読まなくっちゃ」と傍らのiPadを起動させ、ネットの古本屋や図書館に予約を入れまくっている。そう、私にとって魚雷さんは本の世界の扉をまた新たに開いてくれた大切なガイドだ。彼が「こっちにおいで」と手招きするなら、自然と行ってみようという気になる。もうそれはレンアイっぽい微熱を含んでいる。私も死んだ時のために、あまり本は増やしたくないと思っていた。でも、もういいやと思っている。
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by zuzumiya | 2017-02-05 17:06 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)


ふだんの暮らしに息づいているたいせつなもの、見つめてみませんか?


by zuzumiya

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