暮らしのまなざし

カテゴリ:わたしのお気に入り( 189 )




じゃがいもとわたし

a0158124_11255253.jpg『いま、きみにいのちの詩を 詩人52人からのメッセージ』という本の中に武鹿悦子さんという詩人の「白い芽」という詩がある。






白い芽

使い忘れてダンボール箱の底に残っていたじゃがいも
干からびてお婆さんの握り拳のようになり
皺のあいだに三つ、四つ、
つぷっとまるい
白い芽を覗かせている

湿り気もなく
季節の温度も伝わってこない箱のなかで
ゆっくりと自分の時計に合わせて
芽をふいたじゃがいも
自分自身を養分にして伝える
じゃがいもの命

このようにして伝えられてきたのだ、命は
そのようにして伝えられていくのだ、命は


a0158124_11351292.jpgこの詩を読んだときに、はたと思い出したことがあった。
わたしが昔、仕事を辞めることになったとき、当時の課長のN氏がわたしに小さな絵本を一冊くれた。
『にょき にょき』(しまだ しほ作)といって、じゃがいもの話だった。
芽が出たじゃがいもは食べられないからとママに捨てられて旅に出る。はさみやさんに会って伸びた芽を切られそうになっては逃げて、しまうまに会って食べられそうになっては逃げて、ようやく、やおやの店先でざるの上に盛られたじゃがいもを見つけて寄っていくのだけど、「へんなじゃがいもとはおつきあいしたくない」と無視される。あまりに絶望して「死んでやる」とじゃがいもは土にもぐる。そうしてしばらくたって、通りがかったおじいさんに発見されて、土から引っこ抜かれると、じゃがいもがいっぱい飛び出てくる。じゃがいもを家に持って帰って、おばあさんと一緒に喜んで食べるというお話。

当時、わたしは結婚したてで逃げ場があったから、とにかく会社を辞めたい一心だった。それだから、この絵本の意味も、N氏がくれたほんとうの気持ちも、ぜんぜん考えようとしなかった。ただ漠然と、「芽が出なかったなあ」とか「絶望して土にもぐるってところが、今のわたしなんだろうな」ぐらいにしか感じてなかった。
今回、この「白い芽」の詩に出会って、思い出して『にょき にょき』を読み直してみたら、あの頃のN氏のやさしさや励ましが今ものすごくよくわかって、じいんとしてしまった。仕事の面では期待に応えられなかったけれど、そのあと、結婚して子どもをもうけて、子育てしながら勉強して保母にもなれたし、夫への感謝の本も出せた。今思えば、華々しい世界から絶望して土にもぐったけれど、わたしの芽は伸び、茎はすっくと立ちあがり、葉は茂って、いつのまにか人生の収穫がそれなりにあったんだなあ、と思える。
彼はこの絵本を渡しながら、きっとまずは「自分を信じて安心できる場所で静かに時を待ちなさい」と思ってくれていたんだろう。そして「芽が出ることのほんとうの意味をわかりなさい」と教えてくれていたんだ。
芽が出ること。残念ながらわたしの芽は何者かになって成功する方には伸びなかった。でも書くことを通して、じぶんを自由に表現したり、この世界を見つめて喜怒哀楽のぜんぶを噛みしめて、より深く豊かに生きていこうとすること、生きることぜんぶをまるごと受け入れようとすること、きっとそっちの方に伸びていったんだ。
芽が出ること。それはわたしにとって、誰かのために、誰かの笑顔のために、じぶんの良さを生かそうと努力すること、なんだ。

自分自身を養分にして伝える
じゃがいもの命

きっと、人が一人生きて行くことだって、親が子どもを育てることだって、そして書くことだってみんな同じ。わたしという命をまわりの誰かに伝えていくことなんだろう。
生きることに心ひらこう。喜びも悲しみもぎゅっと味わおう。ていねいに生きよう。
誰かの心にも宿る実りを信じて。
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by zuzumiya | 2010-01-31 11:30 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

しゃぼんだまとハナレグミ

a0158124_015367.jpg夕方の買い物帰りの道で、目の前をすいと光るものがよぎりました。何だろうと目で追うと、しゃぼんだまでした。流れてきた方向を見やると、玄関の門の前で、幼稚園ぐらいの男の子がひとり、立ったまましゃぼんだまを吹いていました。コップを持つ左手はギブスで覆われ肩から包帯で吊されています。元気に外を走り回っていた男の子が、その元気さゆえにひょんなことで腕を痛めてしまい、友達と遊ぶこともできないんだなと想像しました。
おそらく昼間は母親が部屋で静かに遊んでやったり、絵本を読んでやったりしていたのだろうと思います。夕方になって食事の仕度にとりかからねばならなくなった母親は、だだをこねる男の子に手を焼きながらも、不憫に思い、台所洗剤で即席のしゃぼんだま液を作ってあげたのかもしれません。
彼はきっと、遊びたくても遊べないつまらなさやひとりぼっちのよるべなさを、吐息と一緒に胸のうちから少しずつ吹きだしては、しゃぼんの玉にしてふくらませていたのでしょう。それでもまわるく虹色ににじんで、ふうわり空に溶けていくしゃぼんだまは、とてもきれいで儚くて、吹いては飛ばし、弾けてはまた吹いてを繰り返すうちに、じぶんもまた空に吸い込まれていくように、こころは静かにおさまっていったのかもしれません。彼は夢中でしゃぼんだまを吹いていました。
小さい子どもには子どもなりの、日々のせつなさがあるものだし、それをやさしく包んでくれる何かが必ず存在するものなのだと、このとき思いました。うす赤い夕空に浮かぶしゃぼんだまはとても澄んで見え、西日をうけるときれいに光っていました。

ハナレグミの「ハンキーパンキー」という曲を聞くと、いつもあのときの男の子としゃぼんだまの情景を思い出します。

どこまでやれるかなんて
無限に浮かぶままの回答
きたるべき日々を
余すとこなく 見据えたいんだ

僕のための 日々のあわ

静かでゆったりとしたギターの音色。ボーカルの永積タカシくんの、ひかえめで、ちょっと鼻にかかった甘やかな声。「日々のあわ」と、つぶやくように歌う彼の、内にひろがる心模様を、たとえば、ささやかな祈りや希望のかけらのようなもの、生きていくことへの痛みや慈しみを、すべてを受け入れようとする澄んで静まった穏やかさなどを、わたしはことばの余韻とともにしんみりとかみしめることができます。

わたしたちが日々生きていくということは、あの男の子のように、道ばたでしゃぼんだまを飽きもせず吹いているようなものなのかもしれません。そのときどきで、さまざまな思いを吹き入れた、さまざまな大きさのしゃぼんだまをふうわりと広い空に放って、生まれては離れていくものを、とどまらずに流れていくものを立ったまま、ただ静かに見送っている。でもそれらはいったん離れてしまうと、儚くもきれいで、せつないくらいにいとおしく、みな輝いて見えるのです。そうやって日々を、吹いては見送り、吹いては見送りしながら、生きているような、そんな気がするのです。
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by zuzumiya | 2010-01-28 00:02 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

長田弘の詩を読むことは

a0158124_10493737.jpg長田弘の詩を読む。このことはわたしにとって特別なこと。
最初のページの何もないほの白さ。
詩を読むために、ここで静かに深呼吸をする。
こころを落ち着かせる、しんとさせる。
こころを耳にして、目を耳にする。
この穏やかなる作業、これこそわたしは、詩を読むことの本質だと思う。
次のページを開く。
活字がある。ことばがある。
もどかしさ、心細さのなかにもそっと耳を傾ける。
語りかけることばに、その一行一行に、慈愛でもって寄り添う。
こころを静かに透明に、やわらかにする。
ことばに対して、これほど深い懐かしさを感じることはない。
長田弘の詩を読むことは、そういうことだ。


草が語ったこと

空の青が深くなった。
木立の緑の影が濃くなった。
日差しがいちめんにひろがって、
空気がいちだんと透明になった。
どこまでも季節を充たしているのは、
草の色、草のかがやきだ。
風が走ってきて、走り去っていった。
時刻は音もなく移っていった。
日の色が、黄に、黄緑に、
黄橙に、金色に変わっていった。
ひとが一日と呼んでいるのは、
ただそれきりの時間である。
ただそれきりの一日を、
いつから、ひとは、慌しく
過ごすしかできなくなったのか?
タンポポが囁いた。ひとは、
何もしないでいることができない。
キンポウゲは嘆いた。ひとは、
何も壊さずにいることができない。
草は嘘をつかない。うつくしいとは、
ひとだけがそこにいない風景のことだ。
タビラコが呟いた。ひとは未だ、
この世界を讃える方法を知らない。

                        
                        (『人はかつて樹だった』より)
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by zuzumiya | 2010-01-27 10:51 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

杉田久女と宇内

a0158124_10387.jpg「あら、わたしだって長いこと苦労も辛抱もしてますわ、勲章や月給の高いことをのぞむんじゃありません、もっともっと貧しくてもよいから、意義のある芸術生活に浸りたい…」
久女は眼に涙をためていう。宇内も、久女が虚栄からそいうのでないことはわかっている。しかしそのほうが、ほんとはずっと厄介なのだ。
ダイヤや着物や名誉が欲しい女なら対処のしようもあるが、感情の動揺しやすい、自然や人生に何かにつけて昂揚感を味わい感激し、また、どうかするとわけもなく憂鬱になる、そういう、絶えず白熱した発光体を裡にもっているような女が、正面の大手門から堂々と
<意義のある芸術生活に浸りたいのです。平凡と安逸だけを貪るよりも、あなた、さあ、いまからでもすぐ絵筆を持って!>
と攻めてくるのは、男にとってさぞ、やるせないことだったろうと思われる。貧しくても意義のある芸術生活を、というのは、現実では夢のような話で、牛の舌を煮たり夜の川で鰻を釣ったりすることとちがう。
「貧しくても意義ある芸術生活」を送るべく神からその運命を負わされた者は、花咲かぬまま地獄をかいまみた苦しみの末に悶死する、そんな運命が待ち受けているかもしれないのだ。そういう地獄と天国の綱わたりのような人生は、人に強いるべきことではないのだから困る。
何がなんでもその道を選ばなければ生きられないような、限られた人間だけが、その道を<選ばせられて>しまう。人為ではない、巨いなる超越者の手によって。
宇内にはそのへんが見えていたにちがいない。
しかし彼はそのあたりの機微をことこまやかに妻と話し合い、妻の思いこみを訂正し、芸術と実人生の相関関係について論じ合う、という手のかかることを避けている。宇内の怠慢という以上に、それまでの日本の夫婦に、話し合いの伝統なんかないのである。明治の文物は開化したようにみえるが、男と女の共通語が育つ土壌ではないのだ。
            田辺聖子『花衣ぬぐやまつわる……わが愛の杉田久女』より。

画家としての才能を認めて結婚したのに、そこにどうしようもなく憧れを持って惹かれていたのに、九州は小倉の片田舎の中学の図画教師となって、その職に甘んじて一向に絵筆を持たない夫、杉田宇内に対して、久女がこころに巣くわせはじめた怒りの発端がうまく書かれている。夫、宇内とのこういった精神面での齟齬(たぶん、いちばんこの夫婦にとって厄介なところなんだろう)が、やがては久女を俳句に猛烈に駆り立てて行ったのだろう。やるせない。
久女はきっと、そういった芸術一本槍に貫かれた生活を人生の理想として、夫がそれを与えてくれないのならば、自分でその渇きを癒すしかないと思ったのだろうか。自覚はあったのかなかったのかわからないが、俳句と出会って尋常じゃないほどのめり込んで行ったのが、なんだかわたしにはよくわかる。
久女はもともと絵が好きだったし、視覚的な句も多い。つまりはみんな見えて、わかっていた。小倉の自然を間近にして「どうしてあなたは描かないの? この景色が見えないの? 何も感じないの?」と不満に思って、怒って、それがつのればやがては諦めに変わっていく。
自己中心的、勝手な思い込みの女だろうがなんだろうが、久女のこころに思い描いた結婚生活が日々目の前でどんどん崩れていく。そのさまを想像するに、まだ俳句との出会いもなくて子供も抱えていて、自分に何が出来るかなんぞ思いもしなかった頃の久女の心情は、さぞやがっくりときて、絶望的だったろうと思う。
夫宇内の心情にもせつないものがある。妻にやれやれと言われても、自分の才のことは自分がいちばんわかっている。絵で食べていくことの困難さも想像がつく。愛する妻子を抱えて綱渡りするわけにはいかない。そこに宇内の優しさもまっとうな責任感もある。
芸術家であるまえに生活を担う者として、いまあるこの場からなんとか精神の充実をはかっていくしか方法はない。久女が大袈裟に言うほど、絵の世界から全く離れたわけではないのだ。教師となって若き生徒たちに絵画芸術の素晴らしさを教えることは、それなりに意義や充実感がある。自分をほんとうに愛してくれているのなら、いつかはその生き方の素晴らしさを久女もわかってくれるだろうと宇内はどこかで信じていたのではなかったか。
夫婦はたしかに芸術愛好でつながっていたけれど、その奧で芸術への求め方の程度、温度というものがやはり決定的に違っていたのだろう。久女の方がおさまりがつかないくらい熱かった、激しかったのだろう。
この結婚は果たして良かったのだろうか。でも、他のお茶の水の同窓生のように銀行員や官吏との良縁をのんで結婚していたら、そして何不自由ない暮らしのなかで、その上で俳句に巡り会っていたら、久女の句はどんな句になっていたのだろう。
俳句がたしなみ程度のものでしかなく、「生きる術」「心の拠り所」となって久女の人生の根幹を強く貫いていくような唯一無二の激しいものになりえたかどうかはわからない。宇内と不幸な結婚をしたことで、俳句と真に出会い、俳句と真に生き、後生に残るあれだけの名句が生まれたのだと思えば、せつないことだが、これもまた神の見事な手さばきと言えなくもない。
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by zuzumiya | 2010-01-24 01:04 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

バトンを渡す

a0158124_055464.jpga0158124_031939.jpg優秀な表現者の人たちには共通するものがある。
自分で作り上げた世界を見せながらも「でもこれをヒントにして、自分たちの生活のなかで自分たちで何かを見つけて下さいね。みんなそういうものを創り出せる存在なんですから」というようなコミュニケーションをとる。そう、バトンを渡すような感じ。
伝えるということの意味を知っている。伝えるとは、人に何かをさせる、行動を起こさせるところまでいって、ほんとうに伝わったといえることを肝に銘じているようなのだ。わたしの好きな永井宏さんも松浦弥太郎さんも、そういうスタンスでもって表現に携わっていることをあらためて誇らしいと思う。
松浦さんはエッセイ『今日もていねいに』のあとがきで、
「おそらく、あなたの心にも似たようなレシピがあるでしょう。今回はたまたま僕が代表して書きましたが、それをカスタマイズしてもっと良いものに生まれ変わらせ、次に発表するのはあなたかもしれません。」と書く。
永井さんも『ボタンとリボン ほんとうにたくさんのロマンティックなこと』という本のまえがきで
「この本によってたくさんの愉快なことが起こってくれればよいと思っています。誰でもが言葉(art)を生みだし、並べたり揃えたりしながら、声を上げるということが、もっともっと普段の生活の中に自然に存在していて欲しいと願うからです。何気ない眼差しの奧に潜んでいる多くの物語を、この本を眺めたり読むことで感じることができるはずで、そこに、喜びも悲しみも、全てひっくるめての、楽しくもしくは豊かに生きるためのコツというようなものの発見がきっとあるはずだと信じています。この本を眺め、共感された方は、自分もまた参加するのだという気持ちで、自分なりの眼差しを頭の中に潜めながら、いまの時代、自分なりのものを作る、表すということはどういうことなのかということを考えて欲しいと思います」と書く。
ちょうど同じ時期にこのふたりの本に出会って、ほんとうに奇跡的な縁を感じた。
まさしく読者は今、バトンを手渡されている。
そのバトンにはひとこと「やってごらん」と書かれている。
伝えるべきものがあって、伝えることができる場所にいる表現者たちはすべて、プロアマを問わず、媒体を問わず、このふたりのスタンスを心の底にそっと持っていなければならないと思う。
そして、受け取ったバトンはいつだって、次の人のためにある。
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by zuzumiya | 2010-01-22 00:12 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

茨木のり子さんの『歳月』

a0158124_9195156.jpg「自分の感受性ぐらい」や「倚りかからず」で有名な詩人の茨木のり子さん。
その作品は、鋭い言葉の直球で軸がゆらがず、凛とした強さでもって読む者に深く内省を迫るようなものが多いが、先日『歳月』という詩集に出会い、今までになく心を揺さぶられた。
この詩集は先立たれた彼女の夫、三浦安信さんへの想いを綴った一種のラブレターであり、茨木さんは夫を見送ってから40篇にも及ぶ詩を書き残していたのだが、生前は「照れくさいから」という可愛らしい理由で出版されなかった。
かの金子光晴を敬愛し、厳しい人、凛々しい人のイメージが強い茨木さんが「ラブレター」だの「照れくさい」だの、似合わないなと思わず微笑んでしまったが、たしかにこの詩集の中には、夫婦であった頃の、ふたりの性愛すらもまっこうから正直に懐かしみ、せつないくらいの愛おしさを込めて綴られているものがあり、生前に出されていたらさぞや恥ずかしくて道も歩けなかっただろうと想像できる。
先日、やはり城山三郎さんの先立たれた奥様との思い出が書かかれた本を読んだが、「新婚初夜にシーツを汚してしまった」という件があって、何でこんなことまで書くのか、妻を亡くしたことが冷徹な作家の筆をここまで乱すものかと驚いたのだが、茨木さんのこの『歳月』を読んでみて、そんなふうに書かざるをえない、書いてしまう途方もない哀しみと孤独がわかった。
つれあいを亡くすことは、もしかしたら自分が死ぬまでの間の、長く狂おしい恋の始まりなのではないかと思う。そしてそれはたぶん、かつて若かりし頃の恋人時代に感じていた恋情の数百倍、数千倍の激しさで、日夜思いもしないところからふいに襲ってくる。
夫がぴんぴんしていて、話すこともケンカすることも触れることもでき、夫の吐き出す息のいくらかを私が吸い込んでいるこの部屋で、今、どんなに想像を巡らしたとてわかることのできない、哀しみの陶酔をもたらすのだろう。
生きているうちに、その恋情の半分も相手に向けられないことの愚かしさ、ともに居られる時間の当たり前のような浪費…。しかしそう思う反面、それが人間の自然というもの、それでいいのかもしれないとも思う。夫婦は片方が死んでから、またあらたな夫婦の恋物語を始めるのだから。身体と心に残された刻印と歴史を時にせつなく愛おしみながら、いつかまた巡り会えるその日を夢見て、孤独を生きる。いつか交わす抱擁の懐かしさと喜びのために課せられる必要な孤独。

どれもこれも胸に染み入るいい作品だが、最後にひとつだけ紹介しよう。

急がなくては

急がなくてはなりません
静かに
急がなくてはなりません
感情を整えて
あなたのもとへ
急がなくてはなりません
あなたのかたわらで眠ること
ふたたび目覚めない眠りを眠ること
それがわたくしたちの成就です
辿る目的地のある ありがたさ
ゆっくりと 
急いでいます

(『歳月』茨木のり子 花神社)
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by zuzumiya | 2010-01-17 09:20 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(2)

ゴンチチと栗コーダー

a0158124_964129.jpg私が随筆を好む理由に「日常の本当を描きつつ、日常を慈しむコツのようなものをそっと教えてくれるから」というのがある。音楽にもそれがあてはまり、平凡な日常の生活を何一つ変えることなく、でも浮き立たせて見せて「そうだったのか」と、ささやかな幸福に気づかせてくれる随筆的なものを好んでいる。
たとえば、休日の午後。
ベランダの洗濯物の家族のパンツや靴下がゆるく風に揺れている平凡きわまりない風景も、そこにゴンチチのギターが流れてくれば、のほほんとして微笑ましい幸福の風景に変わる。BGMというと、音楽そのものが独り立ちできない、力がないかのように受け取られがちだが、実はそうではない。
これぞ、音楽のマジック。音楽をメロディと歌詞の総和として、その世界にどっぷりはまって聞き込んでしまうような音楽を「音楽がメイン」の音楽とすると、ゴンチチは、窓をあけたらリビングに吹いてくるそよ風のように、日常生活にすっと入り込む「日常生活がメイン」の音楽だろう。前者にはリアルな日常を超えてここではないどこかへ瞬時に連れ去ってしまう力があるけれど、後者は、このリアルな日常の見え方をちょっとレンズをいじくって変えてくれる力がある。どちらもすごいが、「パンツ=幸福」に見させてしまう音楽の力、肯定感は、もっともっと評価されるべきだと思う。

a0158124_9125853.jpg「栗コーダーカルテット」のCDに出会った。
小学校の音楽の時間に練習させられたあのリコーダー(唾臭かったな)を大人のおじさんたちが懸命に吹いて、懐かしくも愉快で愛らしい音楽を奏でている。聞き込んでどうのこうのと論評したくなるような「音楽がメイン」の方の音楽ではないけれど、栗コーダーの音楽をかけてみれば、あっという間にこの日常がやさしく、いとおしいものに様変わりする。ゴンチチにしてもこの栗コーダーにしても、映画音楽で使われているのには、そういう「空気をやさしく演出する」ような、ちゃんとした理由があるからなのだ。
街や電車のなかで、若者達が聞いている音楽のほとんどがおそらく「音楽がメイン」
の方の音楽だろうと思う。そういう音楽しか生きていくための助けやエネルギーにならないと思っているのなら、だまされたと思って、たまにはこの手の「日常生活がメイン」の音楽をiPodに入れてふらりと出かけてみてほしい。サラリーマンの寝顔も八百屋の店先も道端の名も知らぬ赤い花も愛しさにあふれて見えるだろう。そういう世界に本当は私たちは暮らしているんだってことがしみじみとわかるはずだ。そして、なんだかうきうきとしあわせな気分になって、この日常の、この人生の主人公は音楽を聞きながら今歩いているこの自分なんだって思えてくれば、この世界も自分もあるがままに肯定して、生きていくエネルギーはもう充電されたってことだ。


※栗コーダーカルテッド『アンソロジー20songs in early 10years(1994-2003)』
 ゴンチチ『GUITARS』
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by zuzumiya | 2010-01-16 00:40 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

『口笛とウクレレ』 関口和之 featuring 竹中直人

a0158124_15235027.jpg突然ですが、「口笛」吹けますか?
小さい頃は吹けていた覚えがあるのに、いま、わたしは吹けません。いつの頃からか吹けなくなりました。夫に聞いてみると夫もそうだといいます。いったいどうしたことでしょう。大人になってわたしは口笛を失していたんですね。心がしんとしてしまいました。
あなたは最近、誰かが口笛を吹くのを聞いたことありますか? 
街角からも口笛は消えてしまいました。世の中がどんどん暗く、厳めしい方向へ向かっているようで、残念です。
ところが、面白いCDを見つけたのです。なんと、その口笛がメインのCDです。
うれしいことに、大人になっても口笛がすこぶる上手な人が残っていたんです。あの俳優の竹中直人さんです。ははん、と納得しませんか? いかにもと、ニヤついてしまうでしょ?
サザンオールスターズの関口和之さんとのコラボレーションなんですが、関口さんがウクレレを担当して、竹中さんが「口笛奏者」なのです。タイトルはそのまんまの『口笛とウクレレ』。曲は「雨に濡れても」とか「ムーンリバー」とか「私の青空」とか、みんながよく知っているナンバーばかり。聞いているとつい、一緒に口をすぼめてしまいますが、出るのはひゅうひゅうというかぼそいすきま風なのです。
彼の口笛はほんとうに上手です。俳優のせいか、口笛にも表情がある。伸びやかでおおらかに弾んでいたかと思うと、少しせつなく寂しげに漂ったりもするのです。わたしはいつも家で洗い物などをしているときにこのCDをかけていますが、今日は車で出かける用事があったので、車に持っていってかけてみました。
雲ひとつない冬晴れの空。日曜日の午前中のベランダからは色とりどりの布団や毛布が垂れて、混んでいない道路は、ただのほほんとまっすぐに伸びています。はるかかなたの煙突からはふかふかと白い煙がたなびいて、ビルや行き交う車の輪郭がきらきらと光る筋を放ちます。自転車に乗ったおまわりさんの背中も、ファミレスの店先で幟を立てているおねえさんの顔も、うららかな日差しを吸ってなんだか明るく、健やかな感じです。
車でちょっとそこまでのはずが、気がついたらとても素敵な、充実したドライブになっていました。これも竹中さんの口笛のおかげだと思います。
優れた音楽は世界を変えずにディティールの美しさを際立たせてくれるものです。音楽があればわたしは日々の世界にしばしば目を見張ることができますし、いまここに生きていることが素直に楽しくなって、幸せに引き寄せられるのです。
暖かくなったらやってみたいこと。
それは車の窓をあけて、思うさま彼の口笛をそよ風にのせて、意気揚々と走ってみたいです。口をすぼめて、ね。

※現在、関口和之さんの『口笛とウクレレ』シリーズは第二弾も出ていて、口笛奏者に前作の竹中直人さんの他、2007年口笛世界チャンピオンの分山貴美子さんを迎えてパワーアップしております。そちらもお試しあれ。
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by zuzumiya | 2010-01-12 15:39 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

冬の定番、雪の絵本。

雪の絵本をいろいろと探してみました。
始まり方は大きく分けて二通りあって、雪がいままさに降っているパターンと、昨日の夜に降って朝目覚めたら銀世界のパターンとがあります。
前者は家にいて雪に降り込められている静の世界、後者は積もった雪景色のなかに飛び出していく動の世界。そして、共通して雪の絵本のなかには、雪がある外とストーブのある暖かな家という対比が上手に描かれていて、それはそのまま外では冒険活動、内ではお母さんがいてくれる安心休息につながり、どの季節の絵本に比べても、よりじぶんの家やお母さんの暖かさ、やさしさというものに「守られている」ことを自然と実感できるようになっています。

a0158124_18303885.jpg静の世界の代表選手は、『ゆきがやんだら』(酒井駒子/作)です。
彼女の作品はすでに欧米やアジアの国々で翻訳出版されています。新聞や雑誌など多くのメディアで取り上げられ、賞賛されてきました。他の作品ですが、すでにフランスやオランダでは賞も獲っており、先日は今作でアメリカのニューヨークタイムズ紙が選んだ「今年の絵本ベスト10」にも選ばれました。絵本ばかりでなく、書籍や雑誌の装画や挿画、映画や芝居のフライヤー、現在は朝日新聞の「七夜物語」の挿画を担当するなど、活躍の場は幅広く、彼女の絵の人気のほどがわかります。今、わたしの最も好きな作家さんのひとりです。
物語はささやか。雪が降って幼稚園に行けなくなった「ぼく」と買い物をやめにしたママの、しんしんと雪に降り込められた静かな一日のお話です。

雪の絵本のなかにはわたしが個人的に「どうしてもこれがなくっちゃ」という外せない場面があります。それは、必ず「見開き」で、「主人公が雪景色を眺めている姿」です。
主人公の姿は遠景で小さければ小さいほど味が出るというか、大きな雪景色のなかにすっぽり包まれるように、ぽつんとただ佇んでいてほしいのです。大好きな、いまだかつてこれを越した絵本を見つけたことがないという、わたしにとって最高の冬の絵本『たのしいふゆごもり』にも見開きで、降りつもる雪を親子の熊がただ静かに見つめている場面があってくれます。

このしんしんと音もなく、雪に白く白く降り込められている静寂の感覚こそ、雪の絵本の醍醐味だと思っています。単に絵柄として美しいとか雪の絵本らしいとか、そんなものではなくて、問題はその静寂の意味をどれだけ繊細に、どれだけ大切にその作家さんが思っているか、にあります。わたしは、絵本は実はとても立体的なものだと思っていて、匂いや音や温度、そういった視覚だけではない感覚も刺激されて立ち上がってくるのが絵本の世界なのだと思います。『ゆきがやんだら』の見開きの雪景色には聴覚だけでなく、目に見えない体内時計の「静まり」までもが感じるのです。雪や雨というのは、本来、地上の人間たちにこの「静まり」の感覚を呼び起こさせるための機会なのではないでしょうか。世界を見つめることで、自然を見つめることで、おのずと静まりゆく内を身体に持っていること、そのささやかなしあわせを作家さん自身が実感として持っていないとこういう場面は描けません。

物語のなかにとてもささいなところですが好きな場面があります。酒井さんの芸の細かさとでもいいましょうか、愛情深くて繊細さがよく出ています。「ぼく」に風邪を引くから雪がやむまで外へ出てはいけないときつく言っていたママですが、パパが雪で飛行機が飛べなくなり帰れないと受けた電話の後に、心配そうな遠い目をして腕を組みながら、ぼんやりベランダへ出てしまうのです。ここではふっと微笑んでしまいました。有名な「ぼくとママしかいないみたい、せかいで……」は多くのファンが口々に素敵と誉めるところですが、パパが帰れないという流れのあとに出てこそ、生きてくる深みがあります。
                                    

a0158124_18311938.jpg動の世界の代表選手としては『ゆきがふったら』(レベッカ・ボンド/作)です。
大きめのサイズで、表紙の絵も雪山に立つにぎやかで色鮮やかな子どもたちの姿です。ページをめくってみると、動の選手の名にふさわしく、紙面いっぱいに大胆なうねるような動きのある絵で、深々と積もった雪を描いています。この躍動感あふれる絵がこれから起こる楽しいことを予感させるのです。

ひと晩じゅう降った雪。さあ、町には除雪車の出番です。雪を押して固めて山にして、どんどん積み上げていきます。子どもたちは除雪車の音を聞くともう大騒ぎ。あわてて支度を始めます。除雪車は子どもたちみんなのヒーローなのです。なにせ大きな雪山をただでプレゼントしてくれるのですから。巨大な雪山を前に、集まった子どもたちは考えます。
「このゆきのやまをどうしよう? なにをつくればいいのかな?」
この楽しいことを考えるということが、どれほどわくわくしてしあわせなことか、そのひとときを絵本はわたしたちにも分け与えてくれるのです。

何ページにもわたって子どもたちの懸命な分担作業が続きます。そんなにぎやかな作業のなかにも、作者はふっと詩的な表現を差し入れてきます。
「スコップでしろいゆきをすくって、
 レモンいろのゆきをすくって、
 みずいろのゆきもすくう。」
日向だったり、日陰だったり、当たった光の加減で変わる雪の色をていねいに表現してみせるのです。たいへんな作業はみんなで協力し、模様をつけたり、飾ったりする細やかな作業はひとりずつ真剣にやっています。それぞれがそれぞれの持ち味とアイデアで気持ちをひとつに動きます。そして、巨大な雪山はどんなふうになったでしょうか。できあがったときの子どもたちの、光をあびてのけぞるその晴れ晴れとした輝かしい笑顔! 
わたしはこの絵本のなかでこの絵がいちばん好きです。そして、みんなでつくった雪山の遊び場の素晴らしさ!

最初にわたしが書いたように、動の世界を描いた絵本は徹底的に雪と遊びます。
子どもたちにとっては砂浜の砂と同様、空から降ってくる雪は自然の最高のプレゼントです。掴んでも痛くないし、ふわふわ軽いし、変形自在、もとは水だから口にも入れちゃう。でも、暖かくなれば溶けて消えてしまう儚さもある。自然は口はきけないけれど、なんてうまくできているんでしょう。

最高な素材を貰って、徹底的に遊んだ後は、暖かい部屋と夕ごはんが待っています。
動の世界の絵本は特にその対比がしっかりとして、家のなかが至福の場所のように描けているのです。そしてそこに読者もほっとひと息つけるのでしょう。冒険と休息と。単純なことのようですが、車の両輪のようなこのふたつのバランスを、大人のわたしたちはないがしろにしてしまいます。
「くらくなったら、おうちにかえって、あったかいごはんをにぎやかにたべて、すきとおったよるをしずかにながめる。」
この単純さ、この幸福。ここへ、この暮らしの原点へ戻りたいといつでも強く思います。
ああ、また雪が降らないかなあと、子どものようにぽかんと口をあけて空を見つめてしまいます。実際の雪が見られるまで、絵本のなかの雪の世界をどうぞたっぷり楽しんでみて下さい。
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by zuzumiya | 2010-01-04 18:32 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

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