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「The Fall 落下の王国」 万華鏡のような映像美

a0158124_2195552.jpg映画を見ながら、ひさびさにきゃあきゃあ騒いでしまい、一緒に見ていた夫に「うるさい、台詞が入ってこなかった」と一時停止、戻りボタンを何度も押させてしまった。
「The Fall 落下の王国」は、噂以上の素晴らしい映像美だった。監督はインド出身のターセム・シン。
調べてみると「ザ・セル」につぐ長編まだ2作目で、彼はもともとCMディレクターだったり、MTVの映像を作っていたらしい。第40回シッチェス・カタロニア国際映画祭でグランプリ(最優秀作品賞)、第38回カンヌ国際映画祭で芸術貢献賞を受賞しているそう(「芸術貢献賞」なんてぴったりな感じだ)。
衣装は日本の誇る石岡瑛子(アカデミーの衣装デザイン賞も獲っているほどの人)。
凄いのは13の世界遺産、24ヶ国以上でロケーション撮影されたということ。たしかに遺跡に宮殿に、砂漠、草原、湖、美しい珊瑚礁の海と凄かった。

ストーリーはたいしたことないが、もう最初の白黒場面からワンカットワンカットがびしっと美しい。写真集を捲っているかのように緻密に構図が計算されてる。
それから登場人物、すなわち6人の戦士がいい。石岡さんの衣装がまず素晴らしい。
個人的にはダーウィンの衣装、あの赤い派手な甲虫の柄のような毛皮、その下には「時計じかけのオレンジ」めいた白いシャツ。エジプトの壁画のような奴隷の黒人の角の被り物。6人並んだときの色合いのよさ。途中で出てくるお姫様のアジアンな蓮の精を思わせる衣装。特に仮面の戦士との結婚式のドレスの顔の前のジャラジャラ、それから結婚式の白いドレスのまわる舞踏の映像美。
階段がエッシャーの絵のようにやたらにある宮殿に黒の兵隊達が蟻のように群がって上って行くシーン。海の中を象が泳ぐ水中シーン(どうしてこんなこと考えつく? インド人だから?)。途中にちょこっと入る人形アニメーション。その前だったか後だったか、アレキサンドリアが棚から落ちて、片足を壊すイメージシーンのアンティークな西洋写真を思わせるテンポよい絵の数々。火事になる場面の火の赤さの美しさ。旗に血を染み上がらせるアイデア。小物の使い方も素晴らしい。おじいさんの入れ歯とかダーウィンのペットの猿とか、アレクサンドリアの持っている大事な木箱の中身の写真とか穴の開いた手紙とか。

昔、見ていてゾクゾクしたCMにサントリーのウィスキーの「ランボー、あんな男、ちょっといない」があったが(マーラー編の風神雷神のアニメも洒落ていた)、砂漠を歩いて行くランボーや大道芸人の火吹き男の、ああいう幻想的かつ退廃的美しさを思い出した(すみません、私自身がCM出身者なもので)。美しさのなかに退廃が滲まないと、びびっと来ないのです、わたしは。
とにかく、高校のときに初めてみたフェリーニの「カサノバ」を見たときと同じ興奮がよみがえってきた(なんというか、私好みの「芸術的に作り込んだ仕掛けの素晴らしい映像美を見た!」という感じが、当時を思い出させるのである)。
レンタルだったが、これはひさびさの「買い」のDVDではないかと思う。
持っておいて、なんども繰り返し再生し、誰かと「ここが圧巻」「ここが綺麗」「ここが大好き」と一時停止して、万華鏡のような映像美を褒めちぎりたくなる映画だ。
「アバター」とは違った意味で「人間の想像力って、すごいなあ」「CG技術があってくれてよかったなあ」と心から思えるのである。
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by zuzumiya | 2010-05-08 02:33 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

音楽と詩

a0158124_044811.jpg今朝、引出しからふと手に取った一枚のCD。
フランスの夫婦デュオで「クリンペライ」の『トリステ』というアルバム。
いつ買ったのだか思い出せない。
「トリステ」の意味はたしか、哀しみだったかしら、と頭を傾げる。

ジャンルはトイ・ミュージック(玩具音楽)。
ほとんどがインストゥルメンタルで、
たまにハミングのような、鼻歌のようなものが入るけれど、
ピアニカやハモニカ、アコーディオン、トイピアノやたて笛やギター、タンバリンに
鉄琴、木琴のような素朴な楽器で演奏されている。
2分程度の、時にはもっと唐突に短い曲が、全部で41も入っている。
まるで、音楽の玉手箱。色とりどりのウィスキーボンボン。
それらの音楽は、たとえば、
街角の人形劇の小さな恋物語のような、
大道芸人の作った愛らしい風船の犬のような、
手品師の細長い指の間の嗤うジョーカーのような、
ささやかな影のようなドラマをもう孕んでいる。
アンビエント・ミュージックよりもはっきりと舞台が設えてあって、
音楽がそこに主人公とシナリオを求めて待っている感じがする。

a0158124_2253037.jpgそんな音楽に誘われて、一冊の詩画集を手にした。
私の好きな漫画家、やまだ紫の詩画集『樹のうえで、猫がみている』。
詩の一編ずつに淡白な、風のような人物と、
やけに存在感のある濃い猫の挿絵が描かれてある。
音楽が流れる。
目で文字を追う。
頭の中で静かに女の声が語りだす。




「うすあかり」

腕枕をし
好きな男が眠っている
わたしは嬉しくて眠れない
あっちやこっちへ寝返りをする
天井の豆電球を見つめてたりする

男がよく眠っていると
その胸に手を当てて心臓のリズムを読む
耳をつけて音を聴く
足をからませたり
横顔を見ていたり
くたびれて眠くなるのを待つ
こんなわずかな灯が欲しかっただけだ

その昔 わたしは
極寒の暗くて何も見えない憎しみばかりつのる
どろどろした沼の中で生きていたことがある




寝転がった猫が伸びをする。目が合う。
不思議なことに黙読するペースと一曲分がちょうどぴったりだった。
そして、面白いと、ひとり微笑んだ。
ページを捲る。
音楽もついてくる。
文字を目で追う。
再び、女が淡々と語りだす。




「くだもの」

くだものはたいてい
食べる気のおこらない固い皮をしている
皮を剥ぎ 小さく切り 幼い子に与える
くだものの味を覚えた子は
次からくだものの固い皮を見て欲しがる

男友達は くだものは
女が切り分けてくれるものと信じて
つま楊枝をもって待っている

好いてもいない相手に
子供のようにくだものを切るのは
不貞のようで腹立たしい

男友達は腹立たしい実を
またたく間にたいらげた




日差しが陰る。ふいに甘い匂いが増してくる。
音楽をかけながら、こうして詩を読むのも悪くないな、と思う。
どうして気がつかなかったのだろう。
音楽と詩。


(※「うすあかり」「くだもの」/やまだ紫『樹のうえで、猫がみている』より)
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by zuzumiya | 2010-04-15 00:08 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

自信を持つ権利 

a0158124_10405176.jpg大好きな松浦弥太郎さんのエッセイ、『軽くなる生き方』。
弥太郎さんは『暮らしの手帖』の編集長で古本屋さん「COW BOOKS」の代表。文章を書くということにとても真摯で誠実な人。嘘は書かない。それがひしひしと伝わってくるから、読んでいてとても安心できるし、この人なら大丈夫だと信頼できる。
人柄がとても文章に滲み出ていて、読んでいるだけで彼の存在を感じられ、目の前で彼の話を聞いているような、そんな不思議なつながりを感じて、温かい気持ちになる。
『くちぶえサンドイッチ』にあったような、日常雑感的な何気ないエッセイから彼の本質的な良さを見つけるのも好きなのだけれど、彼は「エッセイは何より実用であるべき」という人で、「人の役に立てる文章でありたい」と願う人だから、今作はまさに彼の考える、いまの彼の提案できる「生き方の実用書」だったと思う。
彼の生きてきた人生から、重ねてきた毎日の生活から「僕はこんなふうに思うんだけど…」という具体的な提案がいくつもあって(この「具体的であること」はとても大切だ)、そのいちいちにうなづけた。
なかでもうれしかったのは、40歳までは自分を作り上げるための「貯金」の時期で、40歳からはこれまで作り上げた人生や貯めてきた経験という「資産」の運用を考える時期だというところで、

<40年という時間が共通であれば、誰だってたいした差はないというのが、僕が立てた仮説だ>

としながら、

<人生の資産は、苦労や努力の量で決まるのではない。ある程度の時間を過ごせば、誰だってなにかしら得ているはずだ。それに気づいていないだけだ。
「40年、生きてきた自分には『目に見えない資産』がある」
40歳の誕生日が来たら、自分にそう言い聞かせ、自信をもつ権利があるーこのところ僕はそんな気がしている。>

と書かれていたこと。
特に「自信を持つ権利がある」という表現には、多くの読者が励まされることだろう。この人の良さは、この分け隔てのなさにあって、トップに立って多くのことを成し遂げているにもかかわらず、自分は決して特別じゃない、読者のあなたといつでも同じところでつまづき、考え、幸福をもとめて暮らしているんです、というスタンスを心しているところ。心の育ちの健やかさがあり、上品な人だと思う。
いちばん掛けてもらいたい言葉を、正直で誠実だと信じている人から、ぽんっと掛けてもらった気がしてうれしい。また頑張れそうだ。
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by zuzumiya | 2010-03-03 10:42 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

宮沢賢治 『よだかの星』

a0158124_028187.jpg44歳にして、『よだかの星』で宮沢賢治にやられてしまった。
いつだったか国語で『春と修羅』を習ったような気がするが、学校の授業というのはどうなのだろう、あのときはなぜか宮沢賢治を好きになれなかった。
でも、人生のなかで出会うべきものには遅かれ早かれきちんと出会い、向き合うことになるのだろう。この法則はほんとうに私を深く安心させる。
よくも考えず手放した宝石が巡り巡って私の手元に帰って来たかのような感動がある。
私にとって、賢治は思春期でなく、思秋期の今だったということだ。でも、なんだかそれでいいと思う。その方が賢治をずっとよくわかる、ずっとよく心で噛みしめることができると思っている。
しかし、44歳が日暮れ時に童話の一編を読んで、ほろほろ泣くのであるから、人生は面白い。生きてみなければわからない。

『よだかの星』
なんというか、せつなく悲しい話だった。
どうしようもなく、とことん孤独な話だった。
そして最後に、やはりこれは美しい話だと思った。

賢治の文章のそこここに、これでもか、これでもかというくらい徹底的によだかを孤独へ追いやる描写があって、むおむおと胸が押される。
よだかは醜い器量で、鳥のみんなに嫌われている。本当は「美しいかわせみや、鳥の中の宝石のようなはちすずめの兄さん」として同種の鳥なのに、

「はちすずめは花のみつをたべ、かわせみはお魚をたべ、よだかは羽虫をとってたべるのでした。」
と賢治は容赦なく書く。羽虫か…、と読んでいる私のこころはなおも俯いてしまう。
そして、鷹の言いようも酷い。

「たとえばおれは、青いそらをどこまでもとんでゆく。おまえは、くもってうすぐらい日か、夜でなくちゃ、出てこない。」

なにかもう、器量云々を超えて、すべてに嫌われ、見放された重苦しさが襲ってくる。
まるで、おまえは、間違ってこの世に生まれてきた、と言われたみたいに。
そこに追い打ちをかけるようによだかが飛んでゆく風景描写が書かれる。それは、単に夜になっていく描写なのだけれど、よだかが飛ぶと、不吉なこの世の地獄に見える。
そら恐ろしい夜を好んで飛ぶ鳥なんて、鳥じゃない、不吉そのものだと徹底的に鳥たちに嫌われる要素がここにもある。

「もう雲はねずみ色になり、むこうの山には山やけの火がまっ赤です。」
「よだかがおもいきってとぶときは、そらがまるで二つにきれたようにおもわれます。」
「雲はもうまっくろく、東の方だけ山やけの火が赤くうつって、おそろしいようです。よだかはむねがつかえたようにおもいながら、またそらへのぼりました。」

この「むねがつかえたように」なるよだかの気持ちは手に取るようだ。きっと鷹の言葉を何度も何度も反芻して、この暗い世界を飛んで生きるしかない自分は、疑いようもなく、寸分違わず、まったくその言葉通りの要らぬ存在なのだと思い詰めたにちがいない。

甲虫をよだかは二度飲み込むが、一度目に飲み込んだ時、なぜか背中がぞっとして、二度目にはのどにひっかかってばたばたする。その固い異物感、そして腑へ落ちて行った後の静かな時間。その哀しみ、虚しさがなんだか体感としてよくわかる。そして、ついに大声をあげて泣いてしまう。

「ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、まいばんぼくにころされる。そしてそのただ一つのぼくがこんどはたかにころされる。それがこんなにつらいのだ。ああ、つらい、つらい。ぼくはもう虫をたべないで飢えてしのう。」

醜いと蔑まれ、存在価値のないとなじられる自分自身でさえ、身一つ生かすためには幾匹もの虫をただ殺さねばならない。それなのに、鷹は無理難題を言いつけて面白半分に自分を殺そうとする。このどうしようもない力のからくり、生きるということのゆるぎなさ、救いのなさにつくづく嫌気がさしたのだろう。何ものをも、もうその存在を傷つけたくはない、そのたった一つの生を奪いたくはない、よだかはそう思ったにちがいない。

赤く燃えた山やけ(山火事)を登場させた賢治の感性は素晴らしい。
この赤はよだかの飛ぶ夜の空の不吉さを醸し出しているのと同時に、よだかの生きざるをえないこの世というものの酷さをも表し、よだかの芯にたぎる怒りでもあり、生命力でもあり、弟のかわせみの感じる悪い予感でもある。挿絵の赤が目に刺さる。

賢治の筆の厳しさはさらにこちらをへこませる。
よだかが死を決意して「やけてもいいからつれてってください」と星々に願い出ているのに、星々すら冷たい断り方をするのだ。
特に鷲の星は底意地の悪い人間のようだ。

「星になるには、それそうおうの身分でなくちゃいかん。またよほど金もいるのだ。」

しかし、よだかは諦めず、弱りながらも飛んで行く。諦めずとは悲しいかな、死を諦めず、なのだ。なぜなら、「わたしのようなみにくいからだでもやけるときには小さなひかりを出すでしょう。」とよだかは健気にも信じているから。

このよだかの死ぬために繰り返される努力たるや、すさまじい。
賢治も何十行にも渡ってここをしっかりと書き込んでいる。このよだかの飛翔の努力が行を追ううち、生きるための努力のように錯覚してきて、でもそうだった、死ぬための努力なのだった、とあらためて気がつくとき、胸は震え、よだかの叫び声の「キシキシキシキシキシッ」が鋭い錐のように胸に突き刺さってくる。
これほどの健全さで、生命力漲る強い飛翔の力を持っていて、しかも、醜いからだでも放つことのできる光を信じるような美しい魂を持つよだかが、今どうしても死のうとしていることへの理不尽さ、もはやこの世にはその死を誰も止められないことへの無力感、無情さに、本当に胸がえぐられるのだ。
賢治はよだかの飛翔で生命力を繰り返し書き込んで、こんなにも惜しい尊いひとつの命を生かすのではなく死なせてしまうことで、差別と偏見の恐ろしさを語った。

よだかの、光になるため死んでいく痛ましい努力と一途な想いに対して、どんな言葉がふさわしいかといえば、やはり「美しい」しかないだろう。
醜いと嫌われていたよだかが、きっとひそかにもっとも憧れていただろう言葉、
「美しい」を捧げたい。
死にゆく姿ではなく、死に臨んで最後に見せた生きて飛ぶ真摯な姿がどれほど眩しかったか、美しかったか、よだかに語ってやりたくなる。
地上の誰もが、そして、天上の星々すら誰もよだかを助けなかった。
よだかはひとりで飛んで、ひとりで逝って、ひとりで星になった。
よだかがその後どうなったのか、そして天上によだかの美しい星がきらめいてあることを、結局、地上の鳥たちは永遠に見ることはないという虚しさ。
あのよだかの持つ生命の本来の美しさを、生きてきた日常において、ひとひかりも輝かせることなく、誰もそこを見ようとも知ろうともせず、よだかが死に向かうことでしか、生命のありのままの美しさを発揮できなかったことが、厳しくもあり、しみじみと悲しい。
死ぬことでなく、生きることでこそ、あの凄まじい飛翔をさせたかった、と切に思う。
たとえ、星になって永遠の命として輝くのだ、という理屈があるにしても。

「そしてよだかの星はもえつづけました。いつまでもいつまでももえつづけました。
今でもまだもえています。」

この余韻に、心がしんとする。
人の心がときに暗闇に覆われるとき、
その奥の奥に、よだかの星がひとつ、きらめいてあってほしい。
そのひかりがたとえ、弱々しくも小さくとも、燃え続けてありますように。
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by zuzumiya | 2010-02-25 00:29 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(4)

「誰も知らない」の子どもたち

a0158124_1343991.jpg季節はいつだろう。
そうだ、秋だ。私の誕生日だから、秋のはずだ。
秋の日のうす明るい午後。
ひとり道路に出て、駅の方を見ている。
まだ、来ない。
線路から飛び出ている猫じゃらしを一本引き抜いて、振りまわす。
小道の敷石をひとつ抜かしでぴょんぴょん飛んでみる。
家の中から、もやもやとテレビの音がする。
垣根の間からおばあちゃんをうかがうと、台所に立っている。
はたまた。
わたしは道路の端にしゃがみこみ、砂いじりをしている。
砂はさらさらとして温かい。
ときどき、砂をはらって立ち上がり、道路へ出てみる。
駅の方から車が現れる気配はない。
もしかしたら、来ないかもしれない。
しかたなく、またしゃがみ込んで、
温かくなめらかな砂のなかへ両手の指をひろげる。

映画『誰も知らない』を見た帰り、電車の中でふいに浮かんできたのは、誕生日に来てくれるはずの母をひとり外に出て待っていたときの情景だった。それは、現在の私が透明人間のようになって、あの頃の幼い私の後ろに立って、母を待ちながら手持ち無沙汰にやっているいろいろな遊びを穏やかな気持ちで静かに見つめている、といった感じの映像だ。目の前にそれが浮かぶと、なんだか無性に懐かしくなり、あの頃の家のまわりの風景も空気も光の感じも、いじっていた砂の温かみも、幼い私自身の後ろ姿の小さささえ、ちゃんと「覚えている」と思えて、すべてにたまらなくいとおしくなった。
不思議なことに、昔を思い出すたび、透明人間の私が幼い私をそばでじっと見つめているような感覚を覚える。それと同じ感覚を映画『誰も知らない』でも味わった。
あの映画に登場した子どもたちの見つめた世界を、胸のなかにしまってある心情を、私はたしかに「覚えている」と思えた。幼い頃の私がそのままスクリーンの中にいた。
だから穏やかな懐かしさとともに、ある部分では強烈にせつなくなった。私も母を求めて、受け入れられなかった子どもだったからだ。けれどそれがどんなにか悲しい事実でも、何度、母にうまくあしらわれてだまされても、どうにも諦めきれずに心のどこかでは、やはり希望としかいえないものを持っていたし、幼い私が毎日、母を想ってひたすら泣き暮らしていたかというとそうでもなかった。子どもどうし遊んだり、子どもの世界で笑ったり悩んだり、泣いたりしていた。
子どもというのは植物に似ている。暗い箱の中に入れられても少しでも光のある方へと身をよじって伸びて行く。来ないかもしれない母をひとり待っているせつない時間のなかにも、温かくてさらさらな砂と戯れる恍惚の時間を私は持っていた。猫じゃらしを振り回してささやかな自由を満喫し、敷石をうまく飛び越えては喜んでいた。それが子どもだったということを、思い出した。
もともとこの映画のモチーフは実際に起きた「西巣鴨子ども4人置き去り事件」だが、是枝監督がこの映画を幼児虐待事件が後をたたない今、ひとつの「事件」として、社会に問題提起するようなタッチで作らなかったところはさすがである。どんな境遇で育って来たかにかかわらず、かつて子どもだったすべての大人が、スクリーンでもう一度ひとりの子どもに戻って瞬間瞬間を生き、世界を見つめることができたのだから。
映画の中の子どもたちをいとおしく思うとき、自分の中に失われずに生き続けてきた「子どもの自分」の存在を確認でき、いとおしく思えるはずだ。大人がそう思えたとき、はじめて傍らにいる現実の子どもたちに救いの手を差し伸べられる気がする。

家に帰って、食卓から暮れていく空をぼんやり眺めた。
いまごろ、あの4人の子どもたちはどうしているだろう。
この広い空の下、今でもひっそり誰にも知られることなく、
生き続けているような気がした。
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by zuzumiya | 2010-02-14 13:39 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

「今あなたに知ってもらいたいこと」

a0158124_0214071.jpg「ジョンの場合には、あのジョンがやったんだとわかることもあるでしょうが、そんなに有名な人でなくとも、人類の歴史が進んでいく中のある一点で、その人がしたことが必ず意味を持ち、寄与しているはずです。
それは、どこかのパン屋さんが作ったクロワッサンであったり、畑で採れた野菜であるかもしれない。それを口にした人たちの命が救われたり、元気になっていることもあるでしょう。作ったものが自分の手から離れ、行く先々で働いている。そのことを作った本人は知ることができない。また、知らなくてもいいという、何か運命のおもしろさというものがあるのです。
ただ、何かを始めなければ、なんの力も働きません。
まずは「善意」を持って「始めて」ください。
グッドネス、善意、善性ということが、とても大事な時代になってきました。私たち一人ひとりのすることが、世界を変えていっているのだという明確な意識と善意を持って、世界に、宇宙に、よいバイブレーションを送りましょう。」
                        (「まずは始めてみること」より)


愛にあふれた多くの言葉があるなかで、ここにいちばん、励まされた。

自分はいま何をしているのか、これでいいのか、ほんとうは何がしたかったのか…。
考えれば疑問符だらけになる毎日で、いつでもやめようとするもう一人の自分がいる。
でも、ヨーコさんのこの言葉を読み返すたび、私はいつでも背中を押してもらえる。
以前に書いたバーガー屋さんのコーヒーマドラーに刻まれた言葉の話。
あのマドラーの棒切れで自分はまったく構わないと、いつだってそう思う。

この本はあまりにヨーコさんが素敵なので、お守りのように机の前に飾っている。
すべての人に「Bless you!」
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by zuzumiya | 2010-02-13 00:22 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

「いつか眠りにつく前に」

a0158124_026072.jpg「いつか眠りにつく前に」という映画が良かった。
年をとって、愛だの恋だの言ってるやつは色キチガイだ、頭がおかしいんじゃないかって言う人がいるけど、その考え方はとても憐れな寂しいことだと思う。
年をとって、死というものが見えてくるからこそ、この世がどんなものであれ、もうすぐ終わってしまうことがわかってきたからこそ、愛にあふれて生きていたい、愛を信じて感じて生きていたい、この世のいたるところに愛は隠れていて、見つけ出して感じることが人生の最も素敵な瞬間で、それをいくつもやりとげて、あぁこの世は素晴らしいところだった、いい人生だったと安らかに死んでいきたいと願うのは、人間の魂としてとても健やかで正しくて美しいことなんじゃないか。
もちろん愛にはいろんな形がある。友だち同士にも、恋人や夫婦の間にも、師弟の間にも、親子の間にも、隣人同士にも、人間全体に対しても、動物や自然に対してだって、愛は向けられる。そばにいなくても、一緒に暮らさなくても、たとえ伝えられなくても、思うとおりに運ばなくても、愛は人の中に生まれてずっと育っていくものなんだ。
ラブソングを人間がずっと作り続けて、ずっと歌い続けて、ずっと愛し続けてきたことも
とても希望の持てることだし、アーティストが懸命にラブソングを歌う姿にみなが感動するのは、伝えたい魂が実に健やかで正しくて美しいからだ。そこに人としての真実の姿を感じるから、あんなにも熱く響いてくるんだと思う。
この映画では主人公がふたつ、素晴らしい歌を歌ってる。
ひとつは有名なジャズのスタンダードナンバーで「タイム・アフター・タイム(何度も何度も)」、もうひとつは賛美歌のような子守歌のような「I SEE THE MOON」。
どちらも歌詞もメロディもいい。
そして、この両方の歌に愛があふれてることが喜ばしい。

「何度も何度も」

言葉なんて何の意味があるかしら
私の心の想いを伝えてはくれない
どうか耳を傾けてほしい
言葉にしなかった想いに気づいてほしい
何度も何度も自分に言い聞かせるの
あなたを愛せる私はなんて幸運なのって
ものすごく幸運だわ
あなたは私の元に戻ってくる
毎日日が暮れて一日の終わりに私の元へ
私にはわかるの
この先長い年月が過ぎても
私の愛はみずみずしいまま
そして何度も何度も囁くわ
私はあなたを愛することができて
なんて幸運なの

「I SEE THE MOON」

私がお月様を見るとお月様も私を見る
あの人のことも見ているはず
神様はお月様と私を祝福してくださる
あの人のことも祝福してくださるわ
神様は天国から地上を見て
私のためにあの人を選んでくださった
大勢のなかから私ひとりのために
私が誰よりもあの人を愛しているから
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by zuzumiya | 2010-02-11 00:28 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

健やかなる人・石田千

a0158124_8494385.jpg石田千の随筆『店じまい』。
いつもながら彼女らしい風味のある、遊び心のある文体。つっかけで水たまりをひょいと飛び越えるような自由な比喩。選んでくる題材もいつだって日向の匂いのする懐かしいものばかり。それらが合わさって文章全体から彼女らしいおっとりした空気が漂う。でも、その穏やかさの底には芯の強さ、しっかりと育ってきた健やかな骨格みたいなものを感じる。
「文は人なり」というけれど、彼女の書く文章は彼女の風貌そっくりだ。
どちらかというと素朴であたたかみのある、恋人よりお母さんが似合いそうなこざっぱりとした顔立ち。手足が長く背も高く、よく笑い、よく歩き、よく食べる体育会系。
随筆の文章だけはどうやっても人柄が出てしまう。
あるがままの自分を自分で嫌いとか駄目だとか、そんな風にばかり思っていたら、物語が転んでいくような、登場人物がひとりでに語り出すような、そんな助けのこない随筆というジャンルは、シビアすぎて書けなくなってしまうだろう。
自分を好きでいること。大らかに認めて否定しないこと。信じてあげること。
そういうことが芯からゆるやかにできてるから、文章は書いていけるし、伸びやかな文体のまま行けるんだろう。そんなふうに自然に思わせるところが、実に健やかなんだよな。表現の世界では、きっと根の健やかな人だけが残っていけるんだろう。

a0158124_850593.jpg※千さん始めなら、『月と菓子パン』からどうぞ。
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by zuzumiya | 2010-02-10 08:54 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

憧れのふゆごもり

a0158124_2261861.jpg『ぽとんぽとんはなんのおと』(神沢利子・作、平山英三・絵)には、もわっとするほどの温かみを感じてしまう。かあさんぐまの大きな横腹の体温、そこに寄り添うこぐまたちのやわらかい毛、呼吸するたびにそれぞれの山が静かに上下する。こぐまが伸びをして見せるまだ肌色の足裏にはやわらかく皺になったところにうっすら土がついている。少し冷たく黒々と湿っている鼻、その鼻先で呼吸と共にかすかに震える落ち葉。狭い穴ぐらには三匹の匂いとしっとりとした土の匂いが満ちている。
自分たちの体温と息だけで温かく湿っている穴蔵はなんと落ち着くことだろう。そんな穴蔵で「おっぱいをのんではくうくうねむって」大きくなったふたごのこぐまが、ふと目覚めたときに耳にした外の音、春への足音をかあさんぐまになんども尋ねるお話だ。
この外の音の聞こえてくる感じの距離感が妙に親しいのは、たとえば、温かなふとんの中にいて半睡半醒のまどろみの中で耳にしているあの音の感じと同じだからだろう。「聞こえる」というのは、周りがではなく自分の内部が静かになっていてはじめて「聞こえる」ことなのだと思う。私がこうして今、静かになっていられるのは、まさにこの本の醸し出す平和な空気のおかげだ。
本の中のこぐまたちも周りではなく自分たちが穏やかにゆったりと静かであるからこそ、雪降る夜のしみ入るような静けさに気がつくのである。そして、こぐまたちを安らかに静かにさせているのはかあさんぐまの体温と匂いと「ふたりともかあさんにだっこであさまでおやすみよ」という語りかけである。本を読んでいると、母親である大人の私でもすんなりこぐまになっていってしまう。
大きくて温かく湿ったかあさんぐまにぴたっと寄り添って、かあさんぐまの肌の下の血の流れでなんだかむず痒くなってしまうほど、鼻の穴にかあさんぐまの毛まで吸い込んでうつらうつらしていたい。いとしいものにはこれぐらいくっついていたいのだ。そして「なんのおと?」とたまに尋ねては、かあさんぐまの教えてくれる外の世界を想像する。
今はまだかあさんぐまの体温や匂いから片時も離れたくはないけれど、春になったらちょっとだけ外を歩いてみようかな、などと思いをめぐらす。そして微笑みながらまたいつのまにか寝入ってしまう。ああ、いいなあ、ふゆごもり。いとしい人とする休日の朝寝のよう。

a0158124_2264788.jpg『たのしいふゆごもり』(片山令子・作、片山健・絵)には、おっとりした暮らしの温かみがある。ふゆごもりの準備のために費やされる晩秋の森での豊かな時間が美しく愛らしい絵で描かれている。本を見ている私もいつしか一緒に森の落ち葉を踏みしめて秋の匂いを吸いながら歩いていくことができる。
ベッドにひとりで眠れないこぐまのために、ぬいぐるみを作ってあげる約束をしたかあさんぐま。翌朝こぐまが目覚めてみると、オーバーを羽織ったかあさんぐまは「雪が降ってくる前にふゆごもりの仕度をしなくては」と、こぐまを急かして森へ連れ出す。揃いの青いオーバーを着たくまの親子が、白い息を弾ませながら山の斜面を下りていく見開きの風景はいつ見ても清々しく、心が浮き立ってくる。

木の実とりではリスの親子に、蜂蜜とりではおじいちゃんぐまに出会う。川ではかえるの親子と魚をとり、綿畑ではやまねの親子と綿つみをして、最後はきのこをとりながら家路につく。夕ご飯には大きな魚や木の実やきのこで作った料理がたくさん。そして、かあさんぐまはこぐまの小さくなったオーバーでぬいぐるみと新しい枕を作る。今日出会ったかえるやリスやおじいちゃんぐまややまねの形をしたぬいぐるみが出来上がり、親子は満足して蜂蜜入りのお茶を飲む。
窓の外には冬を知らせる初雪。ページを捲ると、見開きでしんしんと降る雪の夜の静かな風景。玄関の扉を開けて黄色い灯りの中に棒立ちになって雪を見つめるくまの親子がいる。この見開きは、ほんとうに美しい。私の心も暗闇のこちら側でうっとり佇んでいる。雪にただこの世界を包まれていく、この静寂、この充実、この安らぎ。
暖炉の前で居眠りをしてしまったこぐまは、ふと気がついて「さっきはねむっちゃった。でもこんどはずーっとおきてようね」とぬいぐるみに話しかける。でもそんなこぐまも、この何もかも満たされた静かな雪夜には、どんなに頑張ってもじきにとろとろと寝入ってしまうんだろうな、と思わせる。ちょうど、クリスマスや大晦日の晩のこどもたちの可愛い挑戦のように。

『たのしいふゆごもり』の中には自然の恵みが充ち満ちている。それは木の実や蜂蜜などの収穫物だけをいうのではない。そもそも「ふゆごもり」をするいのちの体内時計のありかたそのものが、もうまったくの自然の恵みだと嬉しくなる。深まりゆく秋の森の中で、昨日まではいつものように暮らしていたはずが、今朝からは「ふゆごもり」に向けて準備を始めなくてはならないとわかるその境目とはいったい何なのだろう。
陽のやわらかさ? 踏みしめた落ち葉の湿り気? 朝の空気の冷たさ? 空の色? 雲のかたち? 木肌のざらつき? 自然の中で生きているあまりにも動物的な、細やかでいてしかも大らかな感性としか言いようがないもの。私たち人間が持っていたのに忘れていく、薄れていかざるをえない感性。
私がこんなにも「ふゆごもり」に憧れるのは、それが、いとしいものの温もりと匂いに満ちた平和な閉ざされた世界であること、そしてその中でこんこんと眠ることがただの自然の営みで、生きていくための本能でしかないことの、そのこのうえない幸福にあるのだろう。
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by zuzumiya | 2010-02-03 22:08 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

『コレラの時代の愛』と『ほかならぬ人へ』

a0158124_22175889.jpgちょっと独特な純愛?映画だった。でも、いろいろと考えさせられる映画はいつだって好きだ。原作は『百年の孤独』『予告された殺人の記録』などで有名なガルシア=マルケスの同名小説。

若い頃、一目惚れしたお嬢様フェルミナと何とか文通にこぎつけて、さあ、結婚というときに「幻想だった」と心変わりされて振られてしまった男、フロレンティーノ。でもこの男、失恋してもあきらめきれず、彼女に見合う男になろうと社長にもなり、その間、彼女は命の恩人の医者と結婚し、子どもも生み、そんな彼女の人生を胸を痛めながら近くでずっと眺めてきて、なんと51年9ヶ月4日目、彼女の夫が死んだ葬式の日に現れて、これほど長い年月、あなたを想い続けたと告白する。

何かこれだけ書くと、純愛そのものという感じなのだけれど、でも、この男、彼女を忘れるために、51年9ヶ月4日の間、622人もの女性と関係を持っている。ここが奇妙で独特。どんなに女性と肉体関係があったとしても、心は彼女のものであって、だから自分は純潔だという論理なのだ。葬式の日に現れて、とんでもないことを言い出すから、彼女に一喝されるが、あきらめずにまた手紙を送る。詩人気質のフロレンティーノだから、結局その文才にほだされて彼女は彼と再会する。娘に老人の恋を汚らしいと蔑まれ、ふたりは船旅に出る。
その船旅でのフェルミナのセリフが実によかった。
リアリティがあって、結婚の真髄を語っていると思う。

「フナベルはいい夫だった。彼以上の夫は想像できない。でも、振り返ると彼との結婚生活は喜びより問題の方が多かった。口論ばっかりだったわ。怒りの日々…」
「信じられないわ。あれほど長い年月幸せに暮らせたなんて。あまりに多くの問題に悩み、ケンカばかりしながら…。しかも本当に愛しているかどうかもわからないまま。」

結局、ふたりは結ばれる。なんと53年7ヶ月11日ぶりに。

a0158124_22164869.jpg先日直木賞をとった白石一文の『ほかならぬ人へ』を読んだとき、何となく複雑な気持ちになった。お騒がせな小説だとも思った。結婚相手、人生を共にする相手がほんとうに私にとって「ほかならぬ人」なのかどうか、映画のフェルミナのようにわからないまま進んできてしまって、それでも山あり谷ありの夫婦の歴史はできて、振り返ればそれなりに幸せだと思えて、でも、何となくこの疑問はいつまでも心に引っかかってしまう。時に希望のような光さえ帯びて。



「この世界の問題の多くは、何が必要で何が不必要かではなく、単なる組み合わせや配分の誤りによって生まれているだけではないだろうか。これが必要な人にはあれが、あれが必要な人にはそれが、それが必要な人にはこれが渡されて、そのせいで世界はいつまでたってもガチャガチャで不均衡なままなのではないか。」

「ベストの相手が見つかったときは、この人に間違いないっていう明らかな証拠があるんだ」
「それ本当?」
「たぶんね。だってそうじゃなきゃ誰がその相手か分からないじゃないか」
「だからみんな相手を間違えてるんじゃないの」
「そうじゃないよ。みんな徹底的に探してないだけだよ。ベストの相手を見つけた人は全員そういう証拠を手に入れてるんだ」
(中略)
「ほんとは二人ともベストの相手がほかにいるんだ。その人と出会ったときは、はっきりとした証拠が必ず見つかるんだよ。」
「だからさ、人間の人生は、死ぬ前最後の一日でもいいから、そういうベストを見つけられたら成功なんだよ。言ってみれば宝探しとおんなじなんだ。」
                     
                       (白石一文『ほかならぬ人へ』より)

実はこの本を読む少し前、問題のつきない自分の結婚について、思いを巡らしたときに、ふと、もしかしたら私と夫は結婚で家庭を一緒に築いていくペアではなくて、一緒に仕事をやるべきペアだったのではないか、と思いついたことがあった。まさに、白石さんが書いたように「組み合わせが違うのではないか」と思っていたのだった。と同時に、以前、ソウルメイトについて書かれた本を読んだとき、あてはまると思った「この世において共通の問題を一緒に乗り越えるために結婚する運命」のペアのことも思い出してもいた。
そして、また、趣味が合う程度では結婚に至らないという、まさにベストの相手へ向かって選り好みするばかりに結婚が決まらない婚活の現状の話も思い出していた。

53年7ヶ月11日もの人生をかけて、もはや老体となってまでも、ベストと思った相手を慕い求めて、ついには愛を叶えた男、フロレンティーノ。彼にとってはベストなのだろうが、それは彼の側から見た純愛物語であって、フェルミナにとっては果たしてどうなのだろう。その後のふたりは人生の終末に向かって、ほんとうに満足して暮らしていけたのだろうか。「彼以上の夫は想像できない」と言いきった彼女は彼をどこまで愛せたのだろう。純愛というより、実は猛烈なる片恋の物語なのだろうか。人というのは、心が見えないばかりに、結局は、どちらかがより多く愛してしまうような不均衡な関係しか結べないものなのだろうか。(まさに白石さんの言う「配分」の問題)それでも幸せだと思う時、見返りという均衡を求めない愛こそが、純愛なのか。愛されるより、愛することのしたたかな強さを思い知る。

私にもどこかにまだベストの相手がいるような、フロレンティーノのような徹底ぶりに至らなかったという気にもさせられるし、白石さんのいうそのベストの相手のゆるぎない証拠とは何だろうとも夫を頭に描きながら考えるし、そんなことばかり浮ついて思っていたら、実際の日々の結婚生活でなれる幸せにもなれないような、そんな気にもなる。
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by zuzumiya | 2010-02-01 22:27 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)


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