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健やかなる人・石田千

a0158124_8494385.jpg石田千の随筆『店じまい』。
いつもながら彼女らしい風味のある、遊び心のある文体。つっかけで水たまりをひょいと飛び越えるような自由な比喩。選んでくる題材もいつだって日向の匂いのする懐かしいものばかり。それらが合わさって文章全体から彼女らしいおっとりした空気が漂う。でも、その穏やかさの底には芯の強さ、しっかりと育ってきた健やかな骨格みたいなものを感じる。
「文は人なり」というけれど、彼女の書く文章は彼女の風貌そっくりだ。
どちらかというと素朴であたたかみのある、恋人よりお母さんが似合いそうなこざっぱりとした顔立ち。手足が長く背も高く、よく笑い、よく歩き、よく食べる体育会系。
随筆の文章だけはどうやっても人柄が出てしまう。
あるがままの自分を自分で嫌いとか駄目だとか、そんな風にばかり思っていたら、物語が転んでいくような、登場人物がひとりでに語り出すような、そんな助けのこない随筆というジャンルは、シビアすぎて書けなくなってしまうだろう。
自分を好きでいること。大らかに認めて否定しないこと。信じてあげること。
そういうことが芯からゆるやかにできてるから、文章は書いていけるし、伸びやかな文体のまま行けるんだろう。そんなふうに自然に思わせるところが、実に健やかなんだよな。表現の世界では、きっと根の健やかな人だけが残っていけるんだろう。

a0158124_850593.jpg※千さん始めなら、『月と菓子パン』からどうぞ。
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by zuzumiya | 2010-02-10 08:54 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

憧れのふゆごもり

a0158124_2261861.jpg『ぽとんぽとんはなんのおと』(神沢利子・作、平山英三・絵)には、もわっとするほどの温かみを感じてしまう。かあさんぐまの大きな横腹の体温、そこに寄り添うこぐまたちのやわらかい毛、呼吸するたびにそれぞれの山が静かに上下する。こぐまが伸びをして見せるまだ肌色の足裏にはやわらかく皺になったところにうっすら土がついている。少し冷たく黒々と湿っている鼻、その鼻先で呼吸と共にかすかに震える落ち葉。狭い穴ぐらには三匹の匂いとしっとりとした土の匂いが満ちている。
自分たちの体温と息だけで温かく湿っている穴蔵はなんと落ち着くことだろう。そんな穴蔵で「おっぱいをのんではくうくうねむって」大きくなったふたごのこぐまが、ふと目覚めたときに耳にした外の音、春への足音をかあさんぐまになんども尋ねるお話だ。
この外の音の聞こえてくる感じの距離感が妙に親しいのは、たとえば、温かなふとんの中にいて半睡半醒のまどろみの中で耳にしているあの音の感じと同じだからだろう。「聞こえる」というのは、周りがではなく自分の内部が静かになっていてはじめて「聞こえる」ことなのだと思う。私がこうして今、静かになっていられるのは、まさにこの本の醸し出す平和な空気のおかげだ。
本の中のこぐまたちも周りではなく自分たちが穏やかにゆったりと静かであるからこそ、雪降る夜のしみ入るような静けさに気がつくのである。そして、こぐまたちを安らかに静かにさせているのはかあさんぐまの体温と匂いと「ふたりともかあさんにだっこであさまでおやすみよ」という語りかけである。本を読んでいると、母親である大人の私でもすんなりこぐまになっていってしまう。
大きくて温かく湿ったかあさんぐまにぴたっと寄り添って、かあさんぐまの肌の下の血の流れでなんだかむず痒くなってしまうほど、鼻の穴にかあさんぐまの毛まで吸い込んでうつらうつらしていたい。いとしいものにはこれぐらいくっついていたいのだ。そして「なんのおと?」とたまに尋ねては、かあさんぐまの教えてくれる外の世界を想像する。
今はまだかあさんぐまの体温や匂いから片時も離れたくはないけれど、春になったらちょっとだけ外を歩いてみようかな、などと思いをめぐらす。そして微笑みながらまたいつのまにか寝入ってしまう。ああ、いいなあ、ふゆごもり。いとしい人とする休日の朝寝のよう。

a0158124_2264788.jpg『たのしいふゆごもり』(片山令子・作、片山健・絵)には、おっとりした暮らしの温かみがある。ふゆごもりの準備のために費やされる晩秋の森での豊かな時間が美しく愛らしい絵で描かれている。本を見ている私もいつしか一緒に森の落ち葉を踏みしめて秋の匂いを吸いながら歩いていくことができる。
ベッドにひとりで眠れないこぐまのために、ぬいぐるみを作ってあげる約束をしたかあさんぐま。翌朝こぐまが目覚めてみると、オーバーを羽織ったかあさんぐまは「雪が降ってくる前にふゆごもりの仕度をしなくては」と、こぐまを急かして森へ連れ出す。揃いの青いオーバーを着たくまの親子が、白い息を弾ませながら山の斜面を下りていく見開きの風景はいつ見ても清々しく、心が浮き立ってくる。

木の実とりではリスの親子に、蜂蜜とりではおじいちゃんぐまに出会う。川ではかえるの親子と魚をとり、綿畑ではやまねの親子と綿つみをして、最後はきのこをとりながら家路につく。夕ご飯には大きな魚や木の実やきのこで作った料理がたくさん。そして、かあさんぐまはこぐまの小さくなったオーバーでぬいぐるみと新しい枕を作る。今日出会ったかえるやリスやおじいちゃんぐまややまねの形をしたぬいぐるみが出来上がり、親子は満足して蜂蜜入りのお茶を飲む。
窓の外には冬を知らせる初雪。ページを捲ると、見開きでしんしんと降る雪の夜の静かな風景。玄関の扉を開けて黄色い灯りの中に棒立ちになって雪を見つめるくまの親子がいる。この見開きは、ほんとうに美しい。私の心も暗闇のこちら側でうっとり佇んでいる。雪にただこの世界を包まれていく、この静寂、この充実、この安らぎ。
暖炉の前で居眠りをしてしまったこぐまは、ふと気がついて「さっきはねむっちゃった。でもこんどはずーっとおきてようね」とぬいぐるみに話しかける。でもそんなこぐまも、この何もかも満たされた静かな雪夜には、どんなに頑張ってもじきにとろとろと寝入ってしまうんだろうな、と思わせる。ちょうど、クリスマスや大晦日の晩のこどもたちの可愛い挑戦のように。

『たのしいふゆごもり』の中には自然の恵みが充ち満ちている。それは木の実や蜂蜜などの収穫物だけをいうのではない。そもそも「ふゆごもり」をするいのちの体内時計のありかたそのものが、もうまったくの自然の恵みだと嬉しくなる。深まりゆく秋の森の中で、昨日まではいつものように暮らしていたはずが、今朝からは「ふゆごもり」に向けて準備を始めなくてはならないとわかるその境目とはいったい何なのだろう。
陽のやわらかさ? 踏みしめた落ち葉の湿り気? 朝の空気の冷たさ? 空の色? 雲のかたち? 木肌のざらつき? 自然の中で生きているあまりにも動物的な、細やかでいてしかも大らかな感性としか言いようがないもの。私たち人間が持っていたのに忘れていく、薄れていかざるをえない感性。
私がこんなにも「ふゆごもり」に憧れるのは、それが、いとしいものの温もりと匂いに満ちた平和な閉ざされた世界であること、そしてその中でこんこんと眠ることがただの自然の営みで、生きていくための本能でしかないことの、そのこのうえない幸福にあるのだろう。
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by zuzumiya | 2010-02-03 22:08 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

『コレラの時代の愛』と『ほかならぬ人へ』

a0158124_22175889.jpgちょっと独特な純愛?映画だった。でも、いろいろと考えさせられる映画はいつだって好きだ。原作は『百年の孤独』『予告された殺人の記録』などで有名なガルシア=マルケスの同名小説。

若い頃、一目惚れしたお嬢様フェルミナと何とか文通にこぎつけて、さあ、結婚というときに「幻想だった」と心変わりされて振られてしまった男、フロレンティーノ。でもこの男、失恋してもあきらめきれず、彼女に見合う男になろうと社長にもなり、その間、彼女は命の恩人の医者と結婚し、子どもも生み、そんな彼女の人生を胸を痛めながら近くでずっと眺めてきて、なんと51年9ヶ月4日目、彼女の夫が死んだ葬式の日に現れて、これほど長い年月、あなたを想い続けたと告白する。

何かこれだけ書くと、純愛そのものという感じなのだけれど、でも、この男、彼女を忘れるために、51年9ヶ月4日の間、622人もの女性と関係を持っている。ここが奇妙で独特。どんなに女性と肉体関係があったとしても、心は彼女のものであって、だから自分は純潔だという論理なのだ。葬式の日に現れて、とんでもないことを言い出すから、彼女に一喝されるが、あきらめずにまた手紙を送る。詩人気質のフロレンティーノだから、結局その文才にほだされて彼女は彼と再会する。娘に老人の恋を汚らしいと蔑まれ、ふたりは船旅に出る。
その船旅でのフェルミナのセリフが実によかった。
リアリティがあって、結婚の真髄を語っていると思う。

「フナベルはいい夫だった。彼以上の夫は想像できない。でも、振り返ると彼との結婚生活は喜びより問題の方が多かった。口論ばっかりだったわ。怒りの日々…」
「信じられないわ。あれほど長い年月幸せに暮らせたなんて。あまりに多くの問題に悩み、ケンカばかりしながら…。しかも本当に愛しているかどうかもわからないまま。」

結局、ふたりは結ばれる。なんと53年7ヶ月11日ぶりに。

a0158124_22164869.jpg先日直木賞をとった白石一文の『ほかならぬ人へ』を読んだとき、何となく複雑な気持ちになった。お騒がせな小説だとも思った。結婚相手、人生を共にする相手がほんとうに私にとって「ほかならぬ人」なのかどうか、映画のフェルミナのようにわからないまま進んできてしまって、それでも山あり谷ありの夫婦の歴史はできて、振り返ればそれなりに幸せだと思えて、でも、何となくこの疑問はいつまでも心に引っかかってしまう。時に希望のような光さえ帯びて。



「この世界の問題の多くは、何が必要で何が不必要かではなく、単なる組み合わせや配分の誤りによって生まれているだけではないだろうか。これが必要な人にはあれが、あれが必要な人にはそれが、それが必要な人にはこれが渡されて、そのせいで世界はいつまでたってもガチャガチャで不均衡なままなのではないか。」

「ベストの相手が見つかったときは、この人に間違いないっていう明らかな証拠があるんだ」
「それ本当?」
「たぶんね。だってそうじゃなきゃ誰がその相手か分からないじゃないか」
「だからみんな相手を間違えてるんじゃないの」
「そうじゃないよ。みんな徹底的に探してないだけだよ。ベストの相手を見つけた人は全員そういう証拠を手に入れてるんだ」
(中略)
「ほんとは二人ともベストの相手がほかにいるんだ。その人と出会ったときは、はっきりとした証拠が必ず見つかるんだよ。」
「だからさ、人間の人生は、死ぬ前最後の一日でもいいから、そういうベストを見つけられたら成功なんだよ。言ってみれば宝探しとおんなじなんだ。」
                     
                       (白石一文『ほかならぬ人へ』より)

実はこの本を読む少し前、問題のつきない自分の結婚について、思いを巡らしたときに、ふと、もしかしたら私と夫は結婚で家庭を一緒に築いていくペアではなくて、一緒に仕事をやるべきペアだったのではないか、と思いついたことがあった。まさに、白石さんが書いたように「組み合わせが違うのではないか」と思っていたのだった。と同時に、以前、ソウルメイトについて書かれた本を読んだとき、あてはまると思った「この世において共通の問題を一緒に乗り越えるために結婚する運命」のペアのことも思い出してもいた。
そして、また、趣味が合う程度では結婚に至らないという、まさにベストの相手へ向かって選り好みするばかりに結婚が決まらない婚活の現状の話も思い出していた。

53年7ヶ月11日もの人生をかけて、もはや老体となってまでも、ベストと思った相手を慕い求めて、ついには愛を叶えた男、フロレンティーノ。彼にとってはベストなのだろうが、それは彼の側から見た純愛物語であって、フェルミナにとっては果たしてどうなのだろう。その後のふたりは人生の終末に向かって、ほんとうに満足して暮らしていけたのだろうか。「彼以上の夫は想像できない」と言いきった彼女は彼をどこまで愛せたのだろう。純愛というより、実は猛烈なる片恋の物語なのだろうか。人というのは、心が見えないばかりに、結局は、どちらかがより多く愛してしまうような不均衡な関係しか結べないものなのだろうか。(まさに白石さんの言う「配分」の問題)それでも幸せだと思う時、見返りという均衡を求めない愛こそが、純愛なのか。愛されるより、愛することのしたたかな強さを思い知る。

私にもどこかにまだベストの相手がいるような、フロレンティーノのような徹底ぶりに至らなかったという気にもさせられるし、白石さんのいうそのベストの相手のゆるぎない証拠とは何だろうとも夫を頭に描きながら考えるし、そんなことばかり浮ついて思っていたら、実際の日々の結婚生活でなれる幸せにもなれないような、そんな気にもなる。
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by zuzumiya | 2010-02-01 22:27 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

B・ENOの『ANOTHER GREEN WORLD』

a0158124_10505310.jpg遠く遠く、天上で風が舞うようなかすかな音から始まって、からころとピアノの単音がゆるやかな風に吹かれた風鈴のようにおぼろげに鳴り、ゆらゆらてらてらとした音と光の波間を作り出していく。そこへ重厚なシンセサイザーの、世界を切り開いていくような圧倒的な強さと広さのメロディーが押し寄せる。
BRIAN ENOのアルバム、『ANOTHER GREEN WORLD』の11曲目、「BECALMED」。
おんぼろのステレオでこれを聴きながら、あのときのわたしは家の中から見えた電信柱の先っぽの三角帽が西日にきれいに輝いているのにうっとり見とれていた。高校1年の頃。傍らには祖母がいて、たしか針仕事をしていた。

「おばあちゃん、きれいなんだよ。ほんと、これを聴いているとねえ、世界がいつもと違って見えるんだよ。ほんとにすごいんだから、わかるかなあ?」
「……」
「あそこに電信柱の先っぽが見えるでしょ。あの何でもない電信柱が、この曲聴いてるとね、すんごくきれいに見えるんだよ。西日が当たってね、やわらかく輝いている感じが、神々しいっていうか、ほんとにきれいなんだよ。何でもない風景が一瞬で変わって見える。音楽ってすごいねえ」
「ふう〜ん、そうかねえ……」
それでも、祖母は手を止め、孫が熱く語るその電信柱の光る先っぽを見ようと腰をあげてくれた。

いま思い出すと少しせつなく、そして笑ってしまう。
なにせ、あのBRIAN ENOの、それも実験的な『ANOTHER GREEN WORLD』を大正生まれの祖母とふたりで聴いていたのだから。あのあと、わたしは大胆にも音楽評論家の立川直樹氏へENOに渡してほしいとファンレターを書いて送ったのだった。たしか、ENOの音楽を聴いているとスーパーのビニール袋が風に舞い上がったのすら美しく見える、とかなんとか書いて。でも、立川氏はちゃんと返事を下さった。ENOの住所はわからない、と。たぶん、ENOにティーンのファンがいることにかなり驚いたと思う。でもそのおかげ、かどうかは知らないけれど、高校3年のときにENOが日本に来て、ラフォーレ赤坂で講演を行った。笑えるけれど、ほんとの話だ。

いまCDでこの「BECALMED」を聴いていると、不思議な感慨を覚える。
あのとき、祖母はどんなふうな気持ちだったろう。音楽を聴いて電信柱の先っぽがきれいに見えるなんて、わけのわからない事を言い出す孫に、何か少しでも不安はなかっただろうか。10代でENOなんかを聴いて、世界が美しく見えるなどと思ってしまったばかりに、あれからわたしは祖母から、家から、従順な子供の時代から、どんどん離れて行ってしまった。あの電信柱の光る先っぽはほんとに人生の分かれ目だったのだ。あんなものが美しく見えてしまったばっかりに、わたしは祖母の望む堅実で安全な人生を歩めなくなった。県内でも優秀な語学の高校に通っていたのに、周囲の反対を押し切って、大学は180度違う芸術学部を選んだ。祖母に高額な授業料を出させ、そして、男に猛烈な恋をし、家へは帰らなくなり、一握りの者しか成し得ないような夢を見て浮き足立ち、しなくてもいい挫折を繰り返した。

それなのに、息子が芸術の道へいま行こうとしている。
そもそも創(つくる)と名付けた息子だ。わたしと夫の血を分けた息子だ。しかたがないと言えばしかたがない。応援はする。しなければならないだろう。
それでも、彼の前には茨の道が続いていることはわたしにはよくわかっている。やさしくて素直な家族思いのあの息子が、これから幾たびも訪れる精神の挫折に耐えていけるだろうか。わたしが味わった、いや40を過ぎた今このときだって噛みしめている苦い思いを息子にも味わわせることになるかもしれないのに、わたしはそれがわかっていて、ほんとに息子にその道を歩ませてしまってもいいのだろうか。背中を押してしまっていいのだろうか。

「俺さあ、インストゥルメンタルの方が好きかも。だって、音楽聴いていて、いろんなイメージが湧いてくるんだもん」

芸術の道へ行くのだからと、健気にも息子はいまあらゆる音楽を聴こうと張り切っている。そんな彼にわたしは、BRIAN ENOのいくつかのアルバムを手渡そうとしている。

「これを聴くとね、世界ががらって変わって、きれいに見えたんだよ。高校1年の頃かな、電信柱の先っぽが西日に輝いてね……」

『ANOTHER GREEN WORLD』の11曲目。
「BECALMED」の風の音が9階の窓辺に、わたしと息子のふたりの世界に静かに流れ出す。目に浮かぶのは、あの日の祖母とじぶんの姿だ。見える世界が変わってしまったように、ここからわたしも変わってしまった。あの日の祖母はたぶん、なにも予想していなかっただろうが、わたしにはわかる。息子もきっと変わっていくだろう。遠く手の届かないところへここから旅立つ。
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by zuzumiya | 2010-02-01 10:53 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(3)

じゃがいもとわたし

a0158124_11255253.jpg『いま、きみにいのちの詩を 詩人52人からのメッセージ』という本の中に武鹿悦子さんという詩人の「白い芽」という詩がある。






白い芽

使い忘れてダンボール箱の底に残っていたじゃがいも
干からびてお婆さんの握り拳のようになり
皺のあいだに三つ、四つ、
つぷっとまるい
白い芽を覗かせている

湿り気もなく
季節の温度も伝わってこない箱のなかで
ゆっくりと自分の時計に合わせて
芽をふいたじゃがいも
自分自身を養分にして伝える
じゃがいもの命

このようにして伝えられてきたのだ、命は
そのようにして伝えられていくのだ、命は


a0158124_11351292.jpgこの詩を読んだときに、はたと思い出したことがあった。
わたしが昔、仕事を辞めることになったとき、当時の課長のN氏がわたしに小さな絵本を一冊くれた。
『にょき にょき』(しまだ しほ作)といって、じゃがいもの話だった。
芽が出たじゃがいもは食べられないからとママに捨てられて旅に出る。はさみやさんに会って伸びた芽を切られそうになっては逃げて、しまうまに会って食べられそうになっては逃げて、ようやく、やおやの店先でざるの上に盛られたじゃがいもを見つけて寄っていくのだけど、「へんなじゃがいもとはおつきあいしたくない」と無視される。あまりに絶望して「死んでやる」とじゃがいもは土にもぐる。そうしてしばらくたって、通りがかったおじいさんに発見されて、土から引っこ抜かれると、じゃがいもがいっぱい飛び出てくる。じゃがいもを家に持って帰って、おばあさんと一緒に喜んで食べるというお話。

当時、わたしは結婚したてで逃げ場があったから、とにかく会社を辞めたい一心だった。それだから、この絵本の意味も、N氏がくれたほんとうの気持ちも、ぜんぜん考えようとしなかった。ただ漠然と、「芽が出なかったなあ」とか「絶望して土にもぐるってところが、今のわたしなんだろうな」ぐらいにしか感じてなかった。
今回、この「白い芽」の詩に出会って、思い出して『にょき にょき』を読み直してみたら、あの頃のN氏のやさしさや励ましが今ものすごくよくわかって、じいんとしてしまった。仕事の面では期待に応えられなかったけれど、そのあと、結婚して子どもをもうけて、子育てしながら勉強して保母にもなれたし、夫への感謝の本も出せた。今思えば、華々しい世界から絶望して土にもぐったけれど、わたしの芽は伸び、茎はすっくと立ちあがり、葉は茂って、いつのまにか人生の収穫がそれなりにあったんだなあ、と思える。
彼はこの絵本を渡しながら、きっとまずは「自分を信じて安心できる場所で静かに時を待ちなさい」と思ってくれていたんだろう。そして「芽が出ることのほんとうの意味をわかりなさい」と教えてくれていたんだ。
芽が出ること。残念ながらわたしの芽は何者かになって成功する方には伸びなかった。でも書くことを通して、じぶんを自由に表現したり、この世界を見つめて喜怒哀楽のぜんぶを噛みしめて、より深く豊かに生きていこうとすること、生きることぜんぶをまるごと受け入れようとすること、きっとそっちの方に伸びていったんだ。
芽が出ること。それはわたしにとって、誰かのために、誰かの笑顔のために、じぶんの良さを生かそうと努力すること、なんだ。

自分自身を養分にして伝える
じゃがいもの命

きっと、人が一人生きて行くことだって、親が子どもを育てることだって、そして書くことだってみんな同じ。わたしという命をまわりの誰かに伝えていくことなんだろう。
生きることに心ひらこう。喜びも悲しみもぎゅっと味わおう。ていねいに生きよう。
誰かの心にも宿る実りを信じて。
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by zuzumiya | 2010-01-31 11:30 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

しゃぼんだまとハナレグミ

a0158124_015367.jpg夕方の買い物帰りの道で、目の前をすいと光るものがよぎりました。何だろうと目で追うと、しゃぼんだまでした。流れてきた方向を見やると、玄関の門の前で、幼稚園ぐらいの男の子がひとり、立ったまましゃぼんだまを吹いていました。コップを持つ左手はギブスで覆われ肩から包帯で吊されています。元気に外を走り回っていた男の子が、その元気さゆえにひょんなことで腕を痛めてしまい、友達と遊ぶこともできないんだなと想像しました。
おそらく昼間は母親が部屋で静かに遊んでやったり、絵本を読んでやったりしていたのだろうと思います。夕方になって食事の仕度にとりかからねばならなくなった母親は、だだをこねる男の子に手を焼きながらも、不憫に思い、台所洗剤で即席のしゃぼんだま液を作ってあげたのかもしれません。
彼はきっと、遊びたくても遊べないつまらなさやひとりぼっちのよるべなさを、吐息と一緒に胸のうちから少しずつ吹きだしては、しゃぼんの玉にしてふくらませていたのでしょう。それでもまわるく虹色ににじんで、ふうわり空に溶けていくしゃぼんだまは、とてもきれいで儚くて、吹いては飛ばし、弾けてはまた吹いてを繰り返すうちに、じぶんもまた空に吸い込まれていくように、こころは静かにおさまっていったのかもしれません。彼は夢中でしゃぼんだまを吹いていました。
小さい子どもには子どもなりの、日々のせつなさがあるものだし、それをやさしく包んでくれる何かが必ず存在するものなのだと、このとき思いました。うす赤い夕空に浮かぶしゃぼんだまはとても澄んで見え、西日をうけるときれいに光っていました。

ハナレグミの「ハンキーパンキー」という曲を聞くと、いつもあのときの男の子としゃぼんだまの情景を思い出します。

どこまでやれるかなんて
無限に浮かぶままの回答
きたるべき日々を
余すとこなく 見据えたいんだ

僕のための 日々のあわ

静かでゆったりとしたギターの音色。ボーカルの永積タカシくんの、ひかえめで、ちょっと鼻にかかった甘やかな声。「日々のあわ」と、つぶやくように歌う彼の、内にひろがる心模様を、たとえば、ささやかな祈りや希望のかけらのようなもの、生きていくことへの痛みや慈しみを、すべてを受け入れようとする澄んで静まった穏やかさなどを、わたしはことばの余韻とともにしんみりとかみしめることができます。

わたしたちが日々生きていくということは、あの男の子のように、道ばたでしゃぼんだまを飽きもせず吹いているようなものなのかもしれません。そのときどきで、さまざまな思いを吹き入れた、さまざまな大きさのしゃぼんだまをふうわりと広い空に放って、生まれては離れていくものを、とどまらずに流れていくものを立ったまま、ただ静かに見送っている。でもそれらはいったん離れてしまうと、儚くもきれいで、せつないくらいにいとおしく、みな輝いて見えるのです。そうやって日々を、吹いては見送り、吹いては見送りしながら、生きているような、そんな気がするのです。
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by zuzumiya | 2010-01-28 00:02 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

長田弘の詩を読むことは

a0158124_10493737.jpg長田弘の詩を読む。このことはわたしにとって特別なこと。
最初のページの何もないほの白さ。
詩を読むために、ここで静かに深呼吸をする。
こころを落ち着かせる、しんとさせる。
こころを耳にして、目を耳にする。
この穏やかなる作業、これこそわたしは、詩を読むことの本質だと思う。
次のページを開く。
活字がある。ことばがある。
もどかしさ、心細さのなかにもそっと耳を傾ける。
語りかけることばに、その一行一行に、慈愛でもって寄り添う。
こころを静かに透明に、やわらかにする。
ことばに対して、これほど深い懐かしさを感じることはない。
長田弘の詩を読むことは、そういうことだ。


草が語ったこと

空の青が深くなった。
木立の緑の影が濃くなった。
日差しがいちめんにひろがって、
空気がいちだんと透明になった。
どこまでも季節を充たしているのは、
草の色、草のかがやきだ。
風が走ってきて、走り去っていった。
時刻は音もなく移っていった。
日の色が、黄に、黄緑に、
黄橙に、金色に変わっていった。
ひとが一日と呼んでいるのは、
ただそれきりの時間である。
ただそれきりの一日を、
いつから、ひとは、慌しく
過ごすしかできなくなったのか?
タンポポが囁いた。ひとは、
何もしないでいることができない。
キンポウゲは嘆いた。ひとは、
何も壊さずにいることができない。
草は嘘をつかない。うつくしいとは、
ひとだけがそこにいない風景のことだ。
タビラコが呟いた。ひとは未だ、
この世界を讃える方法を知らない。

                        
                        (『人はかつて樹だった』より)
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by zuzumiya | 2010-01-27 10:51 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

杉田久女と宇内

a0158124_10387.jpg「あら、わたしだって長いこと苦労も辛抱もしてますわ、勲章や月給の高いことをのぞむんじゃありません、もっともっと貧しくてもよいから、意義のある芸術生活に浸りたい…」
久女は眼に涙をためていう。宇内も、久女が虚栄からそいうのでないことはわかっている。しかしそのほうが、ほんとはずっと厄介なのだ。
ダイヤや着物や名誉が欲しい女なら対処のしようもあるが、感情の動揺しやすい、自然や人生に何かにつけて昂揚感を味わい感激し、また、どうかするとわけもなく憂鬱になる、そういう、絶えず白熱した発光体を裡にもっているような女が、正面の大手門から堂々と
<意義のある芸術生活に浸りたいのです。平凡と安逸だけを貪るよりも、あなた、さあ、いまからでもすぐ絵筆を持って!>
と攻めてくるのは、男にとってさぞ、やるせないことだったろうと思われる。貧しくても意義のある芸術生活を、というのは、現実では夢のような話で、牛の舌を煮たり夜の川で鰻を釣ったりすることとちがう。
「貧しくても意義ある芸術生活」を送るべく神からその運命を負わされた者は、花咲かぬまま地獄をかいまみた苦しみの末に悶死する、そんな運命が待ち受けているかもしれないのだ。そういう地獄と天国の綱わたりのような人生は、人に強いるべきことではないのだから困る。
何がなんでもその道を選ばなければ生きられないような、限られた人間だけが、その道を<選ばせられて>しまう。人為ではない、巨いなる超越者の手によって。
宇内にはそのへんが見えていたにちがいない。
しかし彼はそのあたりの機微をことこまやかに妻と話し合い、妻の思いこみを訂正し、芸術と実人生の相関関係について論じ合う、という手のかかることを避けている。宇内の怠慢という以上に、それまでの日本の夫婦に、話し合いの伝統なんかないのである。明治の文物は開化したようにみえるが、男と女の共通語が育つ土壌ではないのだ。
            田辺聖子『花衣ぬぐやまつわる……わが愛の杉田久女』より。

画家としての才能を認めて結婚したのに、そこにどうしようもなく憧れを持って惹かれていたのに、九州は小倉の片田舎の中学の図画教師となって、その職に甘んじて一向に絵筆を持たない夫、杉田宇内に対して、久女がこころに巣くわせはじめた怒りの発端がうまく書かれている。夫、宇内とのこういった精神面での齟齬(たぶん、いちばんこの夫婦にとって厄介なところなんだろう)が、やがては久女を俳句に猛烈に駆り立てて行ったのだろう。やるせない。
久女はきっと、そういった芸術一本槍に貫かれた生活を人生の理想として、夫がそれを与えてくれないのならば、自分でその渇きを癒すしかないと思ったのだろうか。自覚はあったのかなかったのかわからないが、俳句と出会って尋常じゃないほどのめり込んで行ったのが、なんだかわたしにはよくわかる。
久女はもともと絵が好きだったし、視覚的な句も多い。つまりはみんな見えて、わかっていた。小倉の自然を間近にして「どうしてあなたは描かないの? この景色が見えないの? 何も感じないの?」と不満に思って、怒って、それがつのればやがては諦めに変わっていく。
自己中心的、勝手な思い込みの女だろうがなんだろうが、久女のこころに思い描いた結婚生活が日々目の前でどんどん崩れていく。そのさまを想像するに、まだ俳句との出会いもなくて子供も抱えていて、自分に何が出来るかなんぞ思いもしなかった頃の久女の心情は、さぞやがっくりときて、絶望的だったろうと思う。
夫宇内の心情にもせつないものがある。妻にやれやれと言われても、自分の才のことは自分がいちばんわかっている。絵で食べていくことの困難さも想像がつく。愛する妻子を抱えて綱渡りするわけにはいかない。そこに宇内の優しさもまっとうな責任感もある。
芸術家であるまえに生活を担う者として、いまあるこの場からなんとか精神の充実をはかっていくしか方法はない。久女が大袈裟に言うほど、絵の世界から全く離れたわけではないのだ。教師となって若き生徒たちに絵画芸術の素晴らしさを教えることは、それなりに意義や充実感がある。自分をほんとうに愛してくれているのなら、いつかはその生き方の素晴らしさを久女もわかってくれるだろうと宇内はどこかで信じていたのではなかったか。
夫婦はたしかに芸術愛好でつながっていたけれど、その奧で芸術への求め方の程度、温度というものがやはり決定的に違っていたのだろう。久女の方がおさまりがつかないくらい熱かった、激しかったのだろう。
この結婚は果たして良かったのだろうか。でも、他のお茶の水の同窓生のように銀行員や官吏との良縁をのんで結婚していたら、そして何不自由ない暮らしのなかで、その上で俳句に巡り会っていたら、久女の句はどんな句になっていたのだろう。
俳句がたしなみ程度のものでしかなく、「生きる術」「心の拠り所」となって久女の人生の根幹を強く貫いていくような唯一無二の激しいものになりえたかどうかはわからない。宇内と不幸な結婚をしたことで、俳句と真に出会い、俳句と真に生き、後生に残るあれだけの名句が生まれたのだと思えば、せつないことだが、これもまた神の見事な手さばきと言えなくもない。
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by zuzumiya | 2010-01-24 01:04 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

バトンを渡す

a0158124_055464.jpga0158124_031939.jpg優秀な表現者の人たちには共通するものがある。
自分で作り上げた世界を見せながらも「でもこれをヒントにして、自分たちの生活のなかで自分たちで何かを見つけて下さいね。みんなそういうものを創り出せる存在なんですから」というようなコミュニケーションをとる。そう、バトンを渡すような感じ。
伝えるということの意味を知っている。伝えるとは、人に何かをさせる、行動を起こさせるところまでいって、ほんとうに伝わったといえることを肝に銘じているようなのだ。わたしの好きな永井宏さんも松浦弥太郎さんも、そういうスタンスでもって表現に携わっていることをあらためて誇らしいと思う。
松浦さんはエッセイ『今日もていねいに』のあとがきで、
「おそらく、あなたの心にも似たようなレシピがあるでしょう。今回はたまたま僕が代表して書きましたが、それをカスタマイズしてもっと良いものに生まれ変わらせ、次に発表するのはあなたかもしれません。」と書く。
永井さんも『ボタンとリボン ほんとうにたくさんのロマンティックなこと』という本のまえがきで
「この本によってたくさんの愉快なことが起こってくれればよいと思っています。誰でもが言葉(art)を生みだし、並べたり揃えたりしながら、声を上げるということが、もっともっと普段の生活の中に自然に存在していて欲しいと願うからです。何気ない眼差しの奧に潜んでいる多くの物語を、この本を眺めたり読むことで感じることができるはずで、そこに、喜びも悲しみも、全てひっくるめての、楽しくもしくは豊かに生きるためのコツというようなものの発見がきっとあるはずだと信じています。この本を眺め、共感された方は、自分もまた参加するのだという気持ちで、自分なりの眼差しを頭の中に潜めながら、いまの時代、自分なりのものを作る、表すということはどういうことなのかということを考えて欲しいと思います」と書く。
ちょうど同じ時期にこのふたりの本に出会って、ほんとうに奇跡的な縁を感じた。
まさしく読者は今、バトンを手渡されている。
そのバトンにはひとこと「やってごらん」と書かれている。
伝えるべきものがあって、伝えることができる場所にいる表現者たちはすべて、プロアマを問わず、媒体を問わず、このふたりのスタンスを心の底にそっと持っていなければならないと思う。
そして、受け取ったバトンはいつだって、次の人のためにある。
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by zuzumiya | 2010-01-22 00:12 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

茨木のり子さんの『歳月』

a0158124_9195156.jpg「自分の感受性ぐらい」や「倚りかからず」で有名な詩人の茨木のり子さん。
その作品は、鋭い言葉の直球で軸がゆらがず、凛とした強さでもって読む者に深く内省を迫るようなものが多いが、先日『歳月』という詩集に出会い、今までになく心を揺さぶられた。
この詩集は先立たれた彼女の夫、三浦安信さんへの想いを綴った一種のラブレターであり、茨木さんは夫を見送ってから40篇にも及ぶ詩を書き残していたのだが、生前は「照れくさいから」という可愛らしい理由で出版されなかった。
かの金子光晴を敬愛し、厳しい人、凛々しい人のイメージが強い茨木さんが「ラブレター」だの「照れくさい」だの、似合わないなと思わず微笑んでしまったが、たしかにこの詩集の中には、夫婦であった頃の、ふたりの性愛すらもまっこうから正直に懐かしみ、せつないくらいの愛おしさを込めて綴られているものがあり、生前に出されていたらさぞや恥ずかしくて道も歩けなかっただろうと想像できる。
先日、やはり城山三郎さんの先立たれた奥様との思い出が書かかれた本を読んだが、「新婚初夜にシーツを汚してしまった」という件があって、何でこんなことまで書くのか、妻を亡くしたことが冷徹な作家の筆をここまで乱すものかと驚いたのだが、茨木さんのこの『歳月』を読んでみて、そんなふうに書かざるをえない、書いてしまう途方もない哀しみと孤独がわかった。
つれあいを亡くすことは、もしかしたら自分が死ぬまでの間の、長く狂おしい恋の始まりなのではないかと思う。そしてそれはたぶん、かつて若かりし頃の恋人時代に感じていた恋情の数百倍、数千倍の激しさで、日夜思いもしないところからふいに襲ってくる。
夫がぴんぴんしていて、話すこともケンカすることも触れることもでき、夫の吐き出す息のいくらかを私が吸い込んでいるこの部屋で、今、どんなに想像を巡らしたとてわかることのできない、哀しみの陶酔をもたらすのだろう。
生きているうちに、その恋情の半分も相手に向けられないことの愚かしさ、ともに居られる時間の当たり前のような浪費…。しかしそう思う反面、それが人間の自然というもの、それでいいのかもしれないとも思う。夫婦は片方が死んでから、またあらたな夫婦の恋物語を始めるのだから。身体と心に残された刻印と歴史を時にせつなく愛おしみながら、いつかまた巡り会えるその日を夢見て、孤独を生きる。いつか交わす抱擁の懐かしさと喜びのために課せられる必要な孤独。

どれもこれも胸に染み入るいい作品だが、最後にひとつだけ紹介しよう。

急がなくては

急がなくてはなりません
静かに
急がなくてはなりません
感情を整えて
あなたのもとへ
急がなくてはなりません
あなたのかたわらで眠ること
ふたたび目覚めない眠りを眠ること
それがわたくしたちの成就です
辿る目的地のある ありがたさ
ゆっくりと 
急いでいます

(『歳月』茨木のり子 花神社)
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by zuzumiya | 2010-01-17 09:20 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(2)


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