カテゴリ:日々のことづけ( 281 )

“さみしい”を歪めないで

成長した娘と私はかなりいろんな話をします。何の話からだったかもう忘れてしまいましたが、娘が私にぽつりと言いました。
「人間“さみしい”っていう感情がいちばん難しくて、困りもんだよね」
“さみしい”という本来他を求める純粋で温かな感情が、様々な誤解や揉め事や犯罪にまで繋がって、その結果“悲しみ”を生んで歪められてしまう不幸を18の子どもが自分の人生からか読んだ小説からかはわかりませんが、わずかでも心に触れて知っているということをどう受け止めたらいいのか、ちょっと複雑でした。客観的にひとりの大人としては「よくその年でそこまでわかってすごいわね」という気持ちと、親として「私の知らないところで、あなたにそれをわからせるような出来事があったとしたら…」と申し訳ない想いが込み上げてきます。でも、今こうして互いの18年と47年の人生から少しでも学んだことを素直に話せることに安らぎと深い喜びも覚えているのです。
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by zuzumiya | 2012-11-04 17:57 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

カウンターに立つ人

新しくできたそのカフェは美容院の隣にあります。聞けば美容院の店長さんの奥様が経営しているとのこと。美容院で髪を整えてもらったその後で、新しい自分のために一杯のお茶をゆっくり頂く。ハーブティーなら、身体の内側からもリフレッシュできそうです。店内は4人掛けのテーブルが2つとカウンターだけのささやかな作り。生成りと焦げ茶でまとめられた店内に私好みの静かなジャズが流れています。紅茶を頂きながら「もしもこんなお店で働けたら」と想像して素敵な店内を眺めていると、カウンターの中で彼女が洗い物をしていました。ふと、カウンターというところには彼女のような、静かで穏やかで温かな気配を漂わせる人がよく似合うんだな、と思いました。目立たず、何ものも邪魔しない、でも“影のような”薄い存在ではなく、付かず離れずたしかにそこに居て、安らぎのオーラをやんわり発光してくれる存在。仕事場とそこで働く人の絶妙な関係にいつでも小さな感動を覚える私です。
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by zuzumiya | 2012-11-02 12:40 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

親のできること

今日、娘は初めてのバイトに出かけた。希望通りの美容業界で働く幸運に恵まれた。人よりハンディのある子を社会の大人のひとりとして、見捨てずにチャンスを与えて引っ張り上げてくれた店長さんに何よりも深く感謝している。娘には信頼の重みを理解して頑張ってほしいし、私も彼女を精一杯フォローしようと思う。といっても、私のできることなど大したことではない。部屋をきれいに整え、温かな食事を作って待つ。笑顔で「いってらっしゃい。頑張って」と手を振って送り出し、「おかえりなさい。お疲れさま」と出迎える。そんな当たりまえのことを続けていくしかない。でも、その当たりまえが人を生かすことも安らぎを作ることも知っている。時にはアドバイスや励ましの言葉を尽くすより、一杯の白いご飯とあったかい味噌汁の方が人を救うことも知っている。親なんて、カッコよく多くのことができなくてもいいのだ。「帰っておいでね。ここで待ってるから」が伝われば。
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by zuzumiya | 2012-10-31 11:52 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

おめでとうの黒板

バス停の向かいに小さなケーキ屋さんがあります。ドア脇に黒板が立てかけてあって「おたんじょうび、おめでとう」の文字と「ひとみちゃん」「たけしくん」と名前が大きく書かれています。「今日のこの日この世界に、ひとみちゃんとたけしくんがめでたく生まれました!」道行く人に向かって、文字が元気に叫んでいるようです。ドアが開いて、ケーキの箱を持った男性が黒板の前で立ち止まり、携帯で写真を撮って満足そうに帰って行きました。どっちのパパなのでしょう? 家で待っている奥さんに写真を見せて微笑みあう姿が想像できます。我が家も以前そこで誕生日のケーキを買ったことがあります。もしかしたら、あれからずっと息子と娘の名前がそれぞれの誕生日に黒板に書かれていたのかもしれません。誰かが知らないところでそっと祝福してくれている。世の中にはそんな素敵なこともあるのですね。
ケーキ屋さんの親切に心が温かくなりました。
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by zuzumiya | 2012-10-23 09:47 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

絵はがきの絵

先日、講演会の仕事でお世話になった講師の先生から絵はがきを頂きました。精神的な不調で約束をお断りさせて頂く旨の手紙を送ってすぐの返信でした。大きな病気を経験された方なので、控えめに、でも真摯に、私の心身への気遣いの言葉が綴られていました。
「あなたの意志に添い、ジッとおとなしく会える日を待ちます」のやさしい言葉に、先生の愛くるしい笑顔を思いだし、しばし温かい気持ちになりました。
絵の方は、薄緑色の壁の洋風な家に白い窓枠の大きな窓が二つ、左右に描かれています。窓辺には赤やピンクや白い色の花が植えられています。左側の窓は閉じられてカーテンが引かれ、右側の窓は開いていますが室内はまっ暗、窓辺に吊るされたカナリアの鳥かごが日を浴びて金色に光っています。表に“長野県信濃美術館 東山魁夷館”とあるので、東山魁夷氏の油彩だとわかりました。
先生の心のこもった文章を読んでから裏返し、絵をじっくり眺めていると、今の私という人間が見事に表われているな、と感じました。片側の窓のしっかり閉じられたカーテン、鳥かごのカナリア、そしてその背後の深い闇。闇のせいか、カナリアは少し寂しげに見えます。明るさのなかにも静かな孤独が感じられるのです。今の私はきっとカーテンがきっちり閉じられた窓の奥にいるのでしょう。あるいは鳥かごの中のカナリアかも…。
外の世界は花が咲き、明るい光に満ちているのに、隔絶されている。片方の窓が開いているのは、かろうじて世界とつながりたい気持ちや中途半端な戸惑いを表しているようです。そして、カナリアの私は明るい窓辺にいても、かごの中。そこに先生の言葉以上のメッセージを感じました。
「今のあなたの姿ですよ」
「窓は開いているじゃないの、外はこんなに素敵ですよ」あるいは
「いつかそこから飛び立って、もう一度、世界の素晴らしさを歌ってごらんなさい」
言葉としてこうやって書いてしまうと、あまりにストレートすぎて、心が弱っている者には少々強引です。絵の中から、そのときどきの気分で解釈可能な絵というゆるやかなものの中から、ほのかに立ち上がってくるそんな程度でいいのでしょう。絵はがきの持つ言葉だけでない、絵と合わさった表現力、魅力に改めて気づかされた思いがしました。
私の今の精神状態から、この絵はがきを選びとった先生の感性も見事ですが、そういう魂の微妙なやりとりができた先生との絆や縁もまたうれしく思えました。
言葉だけでなく、その絵の中に送り手の言葉にしていないさまざまな想いの機微が込められている絵はがき。素敵です。
「たまにこうしておはがきくらいは出してもいいのかしら?」と書いてくださった先生とゆっくりと絵はがきのやり取りからまた始めるのもいいかな、と思います。今この素敵な思いつきをどんな一枚から始めようかと、ワクワクしている私がいます。
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by zuzumiya | 2012-10-17 10:29 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

おばあさんのまなざし

先日、買い物へ行ったときのこと。そこのスーパーは入口を入ってすぐのところにカート置き場があり、その脇に一列にベンチを並べて、ちょっとした休憩所を作ってあります。ベンチを陣取っているのはたいていがお年寄りです。私がカートを返している時、ふと視線を感じました。どうやらひとりの品のいいおばあさんが私に微笑みかけているようです。そのまなざしには何だか“眩しいもの”を見つめているような、そんな温かな感じがありました。私の姿かたちが素敵で“眩しい”わけなどありません。その時の私は両手にスーパーの袋をこれでもかというほどぶら下げた情けない状態でした。人見知りの私はおばあさんに直接話しかけることもできないまま「なんだろう」と首を傾げながらスーパーを出ました。
自転車のかごに袋を移し入れている時に、はっと気がつきました。これは全くの想像なのですが、あのおばあさんはもしかしたら、私のことがちょっと羨ましかったのではないか。カート置き場で、家族のために買い込んだたくさんの袋をバランスよく両腕にかけようと奮闘している私を見て、「ああ、私にもあんな母親の時代があったのよねえ」と思い出して、昔を懐かしんでいたのかもしれない、そう考えるのがいちばん自然な気がしました。そういえば、あのおばあさんは小さな袋しか持っていませんでした。いろんな時代を経て、ひょっとしたら今はひとり暮らしなのかもしれません。
穏やかな秋の日差しのなか、大勢の主婦たちに混じって自転車をこぎながら、私もいつかは頑張る母親の姿に思わず見とれ、眩しい視線を送ってしまうんだろうなと思い、やさしい気持ちになりました。
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by zuzumiya | 2012-10-16 14:58 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

ほんとうの勝負

一篇のエッセイを読む。読後の温かな余韻に「ああ、うまいなあ」と思う。
最初のページに戻って、読みかえす。「ここでこの話に振って、こう持っていくのか」と話の流れの中にあるさりげない巧さに感心する。最後にタイトルを眺めて「なるほどねぇ」と納得する。本を閉じ「ああ、負けだ。自分にこんな素晴らしいエッセイは到底書けない」と思って、しんみりする。
身の程知らずはわかっている。けれど、こんなふうに何事も勝ち負けで決めてしまうのが私の癖で、このけったいな癖のために、生きていても「負け」ばかりを味わい続けている。
息子は新聞配達をしながら専門学校で3Dを学んだ。
その苦学生ぶりが上層部の目にとまり、就職難のなか、めでたくゲーム制作会社に入社した。新入社員なのに、即戦力としてすぐに大手の仕事を何本も任され、毎日残業が続いている。驚くべきことに、残業で帰ってきてご飯を食べずともゲームだけはする。本人は「これは俺のストレス発散なんだ」と言うが、その一方で「このグラフィックはいいよ」「ここの処理が甘いのがバレバレじゃん」とか言って、ゲームなどしたこともない門外漢の私に画面を指差し説明する。素人はそんなところ、気にもとめないよと思うが、「作り手側に立つと、やっぱり見方が違うねぇ」などと誉めておく。
先日、その息子が今話題のゲームソフトを買ってきた。もうすぐもうすぐと発売を楽しみに待って、会社の人たちにも「発売されたら俺、寝不足になると思います!」と真顔で宣言していたゲームだ。帰ってくるなり始めて、平日はギリギリ夜中の1時半まで、休日はほぼ丸一日画面に張り付いている。
「これはよく作り込まれてるよ!」「こういうとこ、凄いんだよねえ」
息子は心底、感心した様子で、そしてそれを誰かと分かち合いたいのか、とても嬉しそうに私に話す。その幸福そうな眩しい笑顔を見るたび、同じクリエイターとして強烈な「負け」を感じないのか、ちょっと不満に思う。でも、ふと自分のこれまでの生きづらさを思い出して、それはそれでいいのかも、と思い直した。息子の好きなことを仕事にしながらも、なおも「好き」を失わず、純粋に楽しんでいる姿は、私にはできなかったこと。正直言って、羨ましい。
私はいつでもいつの間にかひとりで勝負を仕掛けて(はなから勝負になんぞならないものまで仕掛けて)、当たり前だが負け続けて、負けるたびに「才能がないからだ」と自分を責め、かけがえのない「好き」にあれこれ余計な疑問を差し挟んで、育むどころか台無しにしてきた。若い頃の失敗や挫折を経て、今少しばかりわかったのは、自分の「好き」を自分でむやみやたらに傷つけないこと、ちゃんと守ってあげること、それが何よりも大事だということだ。
勝負といえるほんとうの勝負は、実はそこにあったんじゃないかと、今思える。
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by zuzumiya | 2012-10-14 19:40 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

人を守るもの

面倒くさがりで、肌の手入れに熱心になる方じゃない。それでも寒くなるとさすがに風呂上がりにはクリームをすり込む。不思議なもので、クリームをすり込むという行為は、手でも顔でも体でも、なんとなく精神的に満たしてくれるようだ。どうしてそう感じるのかはわからなかったけれど、ある日、テレビでニベアクリームのCMを見て「ああ、これだったか」と気がついた。
小学生の頃、いとこの家に泊まりにいくと、風呂上がりには必ず叔母がニベアクリームを顔につけてくれた。いとこと私の三人を横一列に並べて、ほっぺとおでこと鼻の頭と顎に、ちょんちょんちょんと手際よくクリームを乗せていく。
私の育て親の祖母は、夏場のあせも対策で「シッカロール」(当時の祖母は“汗しらず”と呼んでいた)はつけてくれても、子どもの頬に大人のつけるようなクリームまでは必要ないと思っていたのだろう、つけてくれたことはなかった。寒さで頬が荒れはじめてようやく、大工だった祖父がニヤニヤとお守りみたいな万能薬の「オロナイン軟膏」を持ち出してきて、「これをすり込んどきゃ治る」とごっつい指でひと塗り、頬にすりつけられて終わるぐらいだった。
だから、叔母さん家のニベアクリームの青い缶はなんだかとても洒落ていて、贅沢な品に見えた。いとこたちがさほど感激もせずにされるがままに顔を突き出しているのを見て、これが普通であることにちょっぴり羨ましくなった。風呂上がりのニベアクリームは、おばあちゃん子だった私にとって、叔母の若い母親らしい、若い母親だからこそ気のつく愛情表現として、ほんのり温かく心に残った。
今のCMのコンセプトも表現も、昔と変わりない。母親が笑う子どもの頬にクリームをつけてあげている。映像を見ながら、湯上りの肌にクリームがなじんでいくあの淡い香りまで思い出した。あの頃の、幸せないい気持ちが蘇った。叔母に母親というものを感じたはずなのに、いつもの母恋しの寂しさにすり替わらなかったのは不思議だ。
もしかしたら、誰でもいいのかもしれない。誰かに大事にされて慈しまれている、そうはっきり心に刻まれる瞬間こそが大事なのだ。そういう瞬間は時を経てもその人の中にちゃんと残って息づいている。「どうしてかわからないけれど、なんだかいいんだよなぁ」のなかにひょっこり隠れていたりして、その人を守っている。
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by zuzumiya | 2012-10-11 11:33 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

幸福な不自由さ

猫を飼ってみて、会話というのが実は言葉じゃないんだな、もっとぐっと本能で“わかる”感じなんだな、と思った。言葉というよりその奥にある気持ちや想いというものを頼りに行き来して、読みとり読みとられて、じんわり通い合うものなのだ。そしてこの言葉の介在しない“幸福な不自由さ”に「神様の粋な計らい」を感じて、安堵のため息が出る。気まぐれにすり寄ってくる猫を胸元に抱けば、ほどけていく手足とうっとりと細めた目に強烈な愛おしさが湧いてくる。「好き」とはっきり言葉で言われたわけでもないのに、今、ひとりと一匹は確実に「好きよ」「好きだよ」の100倍ぐらい濃密な会話をしている。「だって、さっきそう言ったじゃない!あれは嘘なのっ!」なんて、人間同士の言質のとり方がいかに馬鹿らしく無粋なことか。
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by zuzumiya | 2012-10-10 15:07 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)

祈りと感謝

何か不安なことや心配になることがあれば、自然に空を仰いで「どうか神様…」と祈っている。
毎朝、通勤の途中にあるお地蔵様には「今日も穏やかに過ごせるように見守っていてください」なんて、心のなかで手を合わす。考えてみれば、神様も仏様も私には区別なく、ちっぽけな私という人間が人間を超えた大きな存在に向かって、頭を垂れておすがりし、お願いしているに過ぎない。
それでも、祈りがあれば、同時に感謝も生まれる。
帰宅の際にはお地蔵様に向かって心のなかで「今日もありがとうございました」と必ずお礼の言葉をかける。嫌なことがあって、電車の間中、忘れようと思っても忘れられず、本も読めないことになっていても、朝、願かけしたお地蔵様の祠がすっかり暗くなっていて、そんなところにぽつんと立って、相も変わらず微笑を湛えているお顔を覗けば、「それでもまあ今日も、大事なくといえば大事なく終わったかなぁ」という気になれて、すっと「ありがとうございました」という言葉が続く。
祈って、感謝する。
駅前の街道脇のここに、もしお地蔵様の祠がなかったら、何かに向かってそっと頭を垂れるような厳粛な瞬間も、平らかに心をなだめて手離し許す瞬間も、こんなにも繰り返されることはなかっただろう。
そして、願い、祈るという気持ち。
それほどまでに心をふるわす、乞う何かが心に湧いて出るということ。
不器用だからこそ、否定感のぬぐえない性質だからこそなのかもしれないが、ふと、そんなふうに真水のような純粋さがある自分に気づく。

宗教・宗派にこだわりはなく関心はないのだが、ただ、祈る・感謝するのワンセットを繰り返す心は、やはり、平安に導かれるという気がしてならない。すべては、自己暗示なのかもしれないが。
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by zuzumiya | 2012-06-03 09:22 | 日々のことづけ | Trackback | Comments(0)


ふだんの暮らしに息づいているたいせつなもの、見つめてみませんか?


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