暮らしのまなざし

カテゴリ:ちっちゃい器で生きていく( 38 )




ドンマイな日々

バレーボールの試合で、大事なところでサーブをミスしても「ドンマイッ」と仲間に向かって声を張り上げ、顔色ひとつ変えずにコートへ戻って行く。観ているこちらは「ドンマイじゃねえよ、どうすんだよ」といつも思うが、ああいう選手の図太さがほしい。
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by zuzumiya | 2017-04-10 14:36 | ちっちゃい器で生きていく | Trackback | Comments(0)

私の吉田さん

朝からカランコロンと金属の触れ合う音がする。うちのバカ息子がデートに乗っていくアメ車をまたいじりまわしているのかと思って窓から覗くと、朝日に照らされた吉田さんのハゲ頭が見えた。
「吉田さん、頑張ってるな」
吉田さんがスタッドレスタイヤを外していた。それだけで季節感のわかるいい旦那様と私の中でポイントが上がる。シジュウカラが高らかにさえずっている。
吉田さんは向かいの家のご主人である。よく気づく働き者で、毎朝、洗濯物は干すわ、ゴミは出すわ、庭に出て草むしりはするわ、年末なんぞ隣近所でどこよりも早く網戸を洗っていた。私が引越してきた当初、あまりの働きぶりに奥さんが病弱なのかと思ったほどだ。
朝、出勤する時間が私と重なっていて、お互いが玄関の扉を開けて目が合うと、ほぼ間違いなく吉田さんの方から笑顔で「おはようございます」と挨拶してくれる。腰の低いいい人だ。年は60代の中頃か。小柄で痩せていて頭は見事に禿げ上がっているが、まるで福祉関係にでも勤めていそうなおっとりとした物腰で優しい声音で話す。
しかし、しばらくして奥さんは対照的にものすごく気の強い人だとわかった。しょっちゅうガミガミと小言を言う声が外まで聞こえてくる。吉田さんは何やら抗弁しているようなのだが、気が弱いのか小さな声でモゴモゴと喋っていて、聞き耳を立てている私はいつも歯がゆい。「吉田さん、頑張れ!もっと大きな声出せ!」なんぞと心の中で応援している。
去年の夏は酷かった。吉田さんが庭で植え替えをしていて、その姿をリビングから仁王立ちした奥さんが見ていて何やら指示を出している。
「だから違うでしょ、そこに植えてどうすんのよ、もっと右よ右っ!」
しゃがんだ吉田さんがせっせこ言われた通りに直し、これでどうでしょうかと後ろを振り返ると
「だからさ、言われないとわからないわけぇ?いっつもそうじゃん」
と言い放って窓をピシッと閉めた。奥さんのあまりの剣幕に私は「ひょええ~」と仰け反ったが、子どものようにしゃがんでいつまでも土をいじっている吉田さんのハゲ頭に「何を思っているのやら…」と哀れに思った。しかし、次の瞬間「吉田さん、今はあんな風だけど、ありゃきっと、昔浮気でもして、よっぽど奥さんを怒らせたんじゃないか」と思えてきた。私にとっては毎朝、出勤前にベランダに洗濯物を干す天気予報がわりにもなる見上げたご主人でも、もしかしたら奥さんにとっては過去に酷い仕打ちをされたどうしようもないダメ亭主なのかもしれない。そうでなきゃ、あんなに隣近所にまる聞こえの大声で夫をなじるわけがない。「吉田さんとこは奥さんが頂点のカースト制なんだな。あれが世に言う“モラハラ妻”というやつで、うちとは逆だな…」と妙に感慨に浸ったのだった。
うちは吉田さんとこみたいに夫婦の一方が大声でなじるということはなく、やり合う時には日頃のストレスが爆発して、双方が大声を出し大喧嘩になる。夫は女のように口の立つ理論派で、すべて自分が正しいと思って譲らない自信家なので、情というものや「人間だもの」のゆらぎやしょうがなさを認める私のような感情的な人間は歯が立たない。正しさには情の入る隙間がなく、そのうち自分の方が悪いという気にさせられてしまう。
私は妻にうまく言い返せない吉田さんをひそかに配偶者のモラハラと闘う同志とみて、何か事あるごとに二階の窓から覗いては、いつでも優しいまなざしと声援を送っているのである。
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by zuzumiya | 2017-04-02 10:43 | ちっちゃい器で生きていく | Trackback | Comments(0)

今日の悲しみの果て

自分が思いもよらなかったことで誤解されているというのはものすごく辛いものだ。
今日、ある人にひどい誤解をされていることに気がついてものすごくショックで心外だった。「そんなことはないです。ぜんぜん違います」「誤解です。そう思わせてたならごめんなさい。でも違うんです」と必死に誤解を解こうとしても「いや、絶対そうだ」と言ってガンとして譲らず、こちらの言い分は聞き入れてもらえなかった。
心外なのだが詫びる態度に出ているのに、少しもそれを認めようとしない頑なさによほどのことだったのかとゾッとしたが、人にずっとそんなふうに思われていたなんて、あまりのショックで、ただでさえプライベートでいろいろあるのに50過ぎにもかかわらず思わず涙が滲んでしまった。
最近、ネットでエレカシの宮本浩次を検索すると、同時に「発達障害」やら「薬」やらのワードが並んで出てくる。おそらくは先日の「ワイドナショー」などの場違いな番組での印象なのだろう。確かに音楽番組ですら質問やコメントを振られた際に、例のいつもの髪を触ってグシャグシャにしたり、話が質問からずれてあらぬ方向へ飛んでみたり、興奮して思わず立ち上がってしまったり、ファンであっても「ああ、またやってるけど、大丈夫かなぁ」と思わずその外しっぷりや周囲からの浮き加減にドキドキハラハラしてしまう。若い頃はまだそれでも「チャーミングで面白い人だな」と周囲には思われていただろうが、50を過ぎた中年の今は、やはりバンドの歴も長い大御所なのでもう少し年相応に貫禄を見せて落ち着き払っていてほしいというファンもいるだろう。いわゆる「いじる」方にもそれなりの敬意を含めて発言してもらいたいな、と思ってしまう。人によっては「多少オーバーに面白おかしく、天才の奇人キャラクターを作ってわざと注目を浴びるようにやっている」という見方もあるが、たしかに見られる商売なのでそういう計算みたいなものがあるのかもしれないし、一度ついたキャラクターの仮面は容易には剥がせず、周囲に求められるキャラクターをそのまま演じきるしかないのかもしれないが、彼の場合は「思わず」や「何気ない癖」が多くを占めているんじゃないかとも思う。それなのに「発達障害」やら「薬をやっている」なんてネットに書き込まれたりして、本人や友人、親族が何かのはずみで目にしたらほんとうに辛いだろうな、可哀想だなと他人事でも思ってしまう。
今日もMステでバンド紹介のVTRのところで、お客に「バカヤロ」と言ってイキがっていた若気の至りの頃のコンサートが流れて、ワイプの中の宮本さんの表情が少しだけ暗くなったように見えた。ラジオなんかでもいまだに女性DJに切れた話を蒸し返されたり、そういう過去の失敗、たぶん思い出したくもない自分の至らなさをメディアがエレカシ宮本というと必ず出してくる、ついてまわるのを本人は上辺では「逆に話題作りになってアルバムが売れてよかった」などと笑い話にかえてはいても、やっぱり内心はいい気はしなくて、自分の身から出た錆とはいえ、いつでも後悔していて反省もあって辛いし、できれば触れてほしくない嫌な話題なんじゃないかと思う。メディアはそういう人の失敗、汚点を面白おかしく取り上げたいのだろうが、実に意地悪だなと私なんかは思ってしまう。覚せい剤をやったとか詐欺をしたとかはすぐに忘れて復帰させるくせに。
それにしても今日の宮本さんの歌唱力は素晴らしかった。VTRやタモリさんのコメントやジャニーズのガキタレのチャチャも含めて、ああいう前フリがあったからこそ、「歌で真正面から真剣勝負した」というふうに見てとれた。テレビの前でヒヤヒヤしていたファンも「どうだ、これがエレカシだ!」と大いに溜飲を下げたのではないだろうか。それにしてもどんな人でも、人に誤解されるというのは嫌なものなんですよ。
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by zuzumiya | 2017-04-01 09:26 | ちっちゃい器で生きていく | Trackback | Comments(0)

なじみの店

常盤新平さんのエッセイを読んでいるせいか、最近はやたらと喫茶店で珈琲が飲みたくなる。珈琲なんぞ実は夫がいいやつを毎月、通販で買ってあるので、家でいくらでも本格珈琲が飲めるのだが、家から出て外で味わってみたいのである。たかが一杯の珈琲をわざわざ外でね、文庫本なんかコートのポケットに入れてね、出かけて行きたいのである。影響されやすい私はすぐに地元の歩いて行けるくらいのところにある喫茶店をネットで探してみた。以前、車で通って「もしかしたら喫茶店?」と見かけた場所をGoogleMAPで調べてみるとたしかに喫茶店であることがわかった。ネットに写真が掲載されていて見たが、天井が高くてゆったりと広く、ダークブラウンの色調の木の内装が落ち着いていて、とても雰囲気のあるいいお店であった。もちろん、チェーン店ではない。ケーキも種類があってどれも美味しそうだ。モーニングもきっと期待できそうである。なんとか歩いて行ける距離なので(本当は自転車出したいくらいなんだけど)、休日を利用して是非とも行ってみたい。そして、できればそこが私の人生初の「なじみの店」になれたらいいな、もう50過ぎたんだから今度こそなじんでみてもいいのかな、なんてドキドキしながら夢見てるのである。
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by zuzumiya | 2017-03-25 20:57 | ちっちゃい器で生きていく | Trackback | Comments(0)

萎れたビオラ

朝、見たときは元気に咲いていたのに、昼過ぎに見たらクシャリとぜんぶ萎れていた紫のビオラ。慌てて水をやった。霜をかぶっても強い花だと聞いていて、実際にそうであったが、あんなに萎れていると無事にもち直してくれるか心配だ。花ってこういう裏切り方をする。いや、潔い死に方というべきかな。
昨日、離婚届をもらってきた。窓口の職員がなぜか声を小さくして書き方の説明をしてくれた。用紙をもらってきただけなのに、なぜか気分が落ち込む。たぶん、別居前、一度、私が差し出した離婚届に夫は判を押していたという過去の事実がそうさせるのだ。あの時、すでに二人は終わっていたんじゃないかと何度も考えてしまう。
日曜は母の家に行く約束になっている。電話をかけると「今ある(金のある)私は私の行いでこうなった。(貧乏な)アンタはアンタの行いが悪かったからだ」と言われた。子どもを4人も生んで捨てて自分のためだけ考えて生きてきたくせに、そのすべてが「よい行いだった」と捨てた子どもに言わしめたいのか。金は貰えたが、金以外の方法で愛情は貰えなかった。「そんなんだから、私はあなたをいまだに心の底から信じれないでいるのよ」と言いたかった。日曜に行くのに気が重い。





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by zuzumiya | 2017-03-17 13:39 | ちっちゃい器で生きていく | Trackback | Comments(0)

日々の泡

人に言われた言葉が妙に頭に残って自分の行動を縛るいうことがある。
「糖尿病のオシッコは泡が立つというから、いつもオシッコした後見ちゃう」
この言葉を友人にふいに言われてから、私は便器に座るたび、目の前のドアにトイレでオシッコを確認する彼女のかがんだ姿が浮かんでくるようになってしまった。で、自分も流す段になってオシッコをまじまじ見るようになった。どうか、この泡がすぐに消えますようにと願いながら。
年をとると不安や心配はトイレまで追ってきて、ちっとも落ち着かせてくれないのだ。

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by zuzumiya | 2017-03-11 08:58 | ちっちゃい器で生きていく | Trackback | Comments(0)

暇つぶし

読書や映画鑑賞や文章書きが好きだが、それを暇つぶしだと思ったことはない。じゃあ、自分にとって暇つぶしとは何だろうと考えたら、あったあった。小さい頃から好きだったのはチラシの不動産広告を見ること。あの部屋の間取り図を見るのが好き。ここは何の部屋にしてどういう家具を置こうか想像するのが楽しかった。今はネットで不動産屋さんのサイトを見て、住みたい街で検索をかけると間取り図だけでなく部屋の写真や動画が出てくるので、楽しくて時間を忘れて見入ってしまう。そして、はたと気づく。私にはもう一生住むべき家が決まってしまっているんだと。今の家は税金の関係でまだ母のものだが、いずれ私のものになるはず(相続で揉めなければ)。私は病院や老人ホームへ入る以外はもうここを離れることはないのだと将来が決まりきってしまっていることは、なんだか贅沢だが安心なようでつまらない。私はほんとうを言えば、西荻窪や阿佐ヶ谷あたりに一度暮らしてみたかった。だからネットの検索にもそのへんの町を入れてみる。すると家賃の相場がわかり、「ふんふん、今の給料じゃ1Kもきついのか…」などとわかって暗くなるのだが、それで想像がおしまいになるのはつまらないから、あてもないのに一緒に暮らす誰か(あえて同性とも異性とも決めないで、深く考えないでおく)がいることにして、すると部屋の選択範囲がぐっと広まり、想像上の相手と部屋の割りふりなんかを考えたりして、また楽しくなってくる。あえていえば、これが本にも映画にも見放され、なあ~んにも書く事が見つからない時の暇つぶしである。
それからもうひとつ。雑誌の街紹介の特集号を買って眺めること。
今日も『HANAKO』の吉祥寺の特集を買ってきた。先だっては『OZ』の雑貨の特集号でいろんな街の雑貨屋さんが出ていたのでつい買ってしまった。で、ページをめくって眺めては「いいなあ、コレ欲しいな」「こういうとこで食べてみたいな」「ここ、行ってみたいな」と思っている。思うだけで、実際はまず行かない。先日の内田樹さんの『困難な結婚』に母親というのは行動範囲が狭くなって、娘がその範囲から遠くに出て行ってしまえば追いかけることはないと書かれてあったが、私も若い頃に比べて行動範囲がえらく狭まっている。渋谷や池袋なんてのはもちろん、電車一本で座って行ける新宿にすら行こうとは思わない。面倒なのだ。なので、本当は雑誌に紹介されている吉祥寺も自分ひとりでは行かないし、せいぜい娘か友人を誘って行くかどうかだが、娘を誘えば飯を奢らされるし、友人はオバサンで疲れやすく、喫茶店でだべるだけなら別に地元でいい。でも、「もしかしたらいつか行くようなこともあるかもしれないから、その時のために買っておいてもいいかな」という思考がつい働くのである。この「いつか」の夢や希望のために私は何度も出費してきたし、事実、どこへも行くことなく雑誌は資源ゴミに出され続けた。でもやめられないのである。自分でも面白いなと思うのは、同じ街特集でも京都や沖縄、ハワイなんて号には絶対手を出さないのである。想像上で街歩きすればいいのだが、「もはや完全に行くことはない」とわかりきっている場所ゆえに気持ちが乗らない。


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by zuzumiya | 2017-03-09 13:36 | ちっちゃい器で生きていく | Trackback | Comments(0)

素直に生きられたら…。

久しぶりに映画館へ行ってきた。一人で。
休日なのに客はまばら。中年夫婦の離婚をめぐるスッタモンダの話だからか、若いカップルは一組だけ。私より年配の夫婦やオバチャン、オジチャンの一人者が目立った。
劇場に一人ちんまり座っていると、よその人の話し声や笑い声が意外と大きく響いてきてびっくりする。私も夫と来ていた頃は、映画が始まるまであんなふうに愉快そうにこれ見よがしに喋っていたのだろうかと頭を過ぎる。「何をそんなに喋っているのやら」「まさか始まってからもその勢いでいちいち隣と喋るんじゃないだろうね」とちょっと意地悪な気持ちになってくる。
で、始まってすぐ目の前の一人者のオバチャンや斜め前の年配夫婦のオバチャンらが監督の演出にまんまと引っかかって、阿部寛のさほど可笑しくもない大袈裟な演技にハッハッハと爆笑しだした。「あーあ。そんなに笑っちゃって」と思うと同時に「素直に生きられていいよなぁ」とも思う。監督はもともと脚本で鍛えた人であるから、ここぞという「泣かせどころ」を心得ていて、私なんかは「来たなっ」と無意味な身構えをしているうちにそこいら中でスッ、スッと鼻をすする音が聞こえてきて、またしても「あーあ。今度は泣いちゃったか」となんだか鼻白む。そしてまた「素直に生きられて…」の心境になる。
オバチャンたちはいちいちよく笑い、よく泣いて、映画を見終わると心の洗濯をしたかのようにスッキリとしたんじゃないか。
私は映画が終わって館内に照明が点くあの瞬間が嫌いだ。コンサートも同じ。「物語の世界から現実に引き戻される」とかそんなきれい事じゃなく、なんだか、照明がついてみんながモソモソと動き出して上着や手荷物なんかを着たり持ったり確認している時の、あの変なのろったい間がどうにも居たたまれないのである。
夫婦で座った上品で恰幅のいい老紳士も、映画が終わって灯りがついた途端、なんてことないちっぽけで情けないただの爺さんに見える。神吉拓郎さんじゃないが「モソモソやってないで、スマートに上着をひっつかんで早く出てってくれ」と内心言いたくなる。これは観客みんなにあてはまる。
それからもう一つ。私は泣いてもいないのに、そんな時、人から顔を見られたくないのだ。映画を心から楽しんだ、酔いしれたという上気した顔、笑みがやんわり張りついた顔をなるべくしていたくはないが、もししていたとしたら見られたくもないし、人様のそういう顔も恥ずかしくて見たくない。私は誰とも視線を合わせず、上着の前ボタンも閉めずにそそくさと出る。
更にエレベーターの前の人だかりが嫌で、人だかりから「あそこのシーンが面白かった、笑っちゃったね」なんていう感想がちょこっとでも聞こえてくるともうダメで、6階だろうと7階だろうとさっさとひとり階段で下りて行く。同じものを見て楽しんだ、あの和気あいあいぶりのシアワセ熱にどうしても馴染めない。
ものごとの終わりは余韻があるぶん、へんなふうな空気になっていて、そういうのにまんまと取り込まれて尋常ならざる浮かれた姿を人様に平気で見せるのはなぜか私にっては“恥”なのだ。心の奥でひとりガッツポーズをしていても、いつものように柔らかに取り澄ましていたい。あーあ。素直に生きられたら…である。


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by zuzumiya | 2017-02-19 18:14 | ちっちゃい器で生きていく | Trackback | Comments(0)

要らないものへのお返しの話

要らないからあげると言われて、それなら貰うかと二度ほどものを貰った。
二度も貰ったので何かお返しせねば、という気になってささやかなお茶菓子を買った。
でも。向こうは要らないものを人にあげて、こっちはわざわざ金を出してお返しの品を買う。何だかわりに合わない気がする。
私には別に人にやるほどの要らないものはない。あってもたぶん、捨てる。




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by zuzumiya | 2017-02-14 20:51 | ちっちゃい器で生きていく | Trackback | Comments(0)

『老妻だって介護はつらいよ 葛藤と純情の物語』にため息

先日、NHKの番組でノンフィクション作家の沖藤典子さんの亡き夫の介護のお話を知った。
沖藤さんは結婚以来、あることがきっかけでずっと夫を恨んできた。夫の方も「顔も見たくない」とはっきり罵るほどで、妻だけでなく子どもにも冷淡で、家庭そのものを毛嫌いしていた。何十年も互いにただの同居人のように過ごし、夫婦仲の冷え切った老夫婦の片割れがある時、病に倒れたとしたら、その老夫婦はどうなるのだろう。これまでの恨みつらみが爆発して「あんたの面倒なんか見るもんか!」とこの時とばかりに離婚するのだろうか。目の前で痛みに顔をしかめている病人に離婚届を叩きつけることができるだろうか。実はこの問題は今すごく私自身が将来を見据えて深く考えていることなのだ。沖藤さんは長年憎み嫌っている夫の介護を老妻として引き受けた。子どもをアテにできない老老介護である。夫婦の介護の話は心温まる美談が多いなか、沖藤さんのところは大嫌いな夫の介護をする葛藤する老妻という立ち位置で始まるのでひどく興味が湧いた。私も今のままでは沖藤さんのようになるだろう。沖藤さんの葛藤の中身が詳しく知りたい。結局、沖藤さんの夫は亡くなってしまうのだが、その後の心境を彼女はどんなふうに説明してくれるのだろうか。で、『老妻だって介護はつらい 葛藤と純情の物語』を読んだ。読んでいて「何故、熟年離婚を選ばなかったのだろう」と何度も思ったが、実は60歳の時点で一度離婚していたが、3年後に復縁しているらしい。どうやら「出て行く」と啖呵を切った夫の方が出ていかなかったようだ。でも、惜しいことにその辺の詳しいことは書かれていない。同居人のようだとはいえ、一緒に夕飯を食べたり、テレビを見ては政治家の悪口を言いあったり、買い物にも行ったり、時には孫も連れての家族旅行にも行っていたと書いてある。おそらくは日々の暮らしというレベルでは、互いに自室を持ち逃げ場があったので、同じ屋根の下に住んでいてもさほど苦にはならず、それぞれが仕事の忙しさにかまけていれば問題にならなかったのだろう。長年連れ添えば、ある程度の諦めが普通になり、一人同士という感覚が育ち、気楽だと思えていたのだろう。マンションでなく戸建てとなってからは、我が家も家庭内離婚がスムーズにできるほど見事にすれ違える。このまま離婚して、夫が出ていける貯金ができるまで同居人でもいいかと何度も考えた。沖藤さんの本の存在を知る前から、はやく離婚の決心をしないと夫が倒れてからは離婚できなくなるな、となんとなく思っていた。目の前で苦しむ人を足蹴にはできるほど鬼ではない。夫に助けられた恩情もある。しかし、それだけで微笑んで慈しんで介護できるほど自分の結婚生活と妻としての人生に納得ができてない。私にも沖藤さんのように夫に言ってやりたい、言わねばならないことがあるのだ。『夫婦いとしい時間』という本が足枷になって書くこともできない鬱屈した想いが実はある。若い頃のように大っぴらに喧嘩ができたらいいのに。いや、もうそうなったら本当に終わりのような気がする。
沖藤さんは書いている。〈問題の根は、自分の力で突き進むべきことを、夫に頼り、それがかなえられなかったと、一生恨んだことだ。〉これは大いに私にあてはまる。でも、これが分かったからとて今、夫が生きている今、自分の罪として贖罪の意識から目の前の暮らしや今後の人生がぱあっとひらけていくものだろうか。グジュグジュしたこの悩みや葛藤はなくなるものだろうか。正直、そうとも思えない。そこにはやはり沖藤さんが書くように“死”という〈永遠の不在〉だけが〈胸の荒野をあの世に持っていく〉ものなのではないか。
切ないのは沖藤さんが夫の病気を契機として〈人生最後の夫婦の日々〉があると望みを持っていたことだ。たぶん、そこがタイトルの“純情”なのだろう。私も前に書いた。若い頃は結婚に憧れ、中年になると仲睦まじく歩く老夫婦に憧れるものだと。女とはこれほどまでに純情なのだ。介護のなかにも穏やかさを見つけ、人生最後の夫婦の日々をひそかに心に描いていた老妻、沖藤さん。この言葉にこんなに揺さぶられるのだから、私の心の何処かにもまだ薄ら明るい希望があるのだろうか。
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by zuzumiya | 2017-02-04 23:20 | ちっちゃい器で生きていく | Trackback | Comments(0)

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