暮らしのまなざし

2017年 03月 25日 ( 2 )




なじみの店

常盤新平さんのエッセイを読んでいるせいか、最近はやたらと喫茶店で珈琲が飲みたくなる。珈琲なんぞ実は夫がいいやつを毎月、通販で買ってあるので、家でいくらでも本格珈琲が飲めるのだが、家から出て外で味わってみたいのである。たかが一杯の珈琲をわざわざ外でね、文庫本なんかコートのポケットに入れてね、出かけて行きたいのである。影響されやすい私はすぐに地元の歩いて行けるくらいのところにある喫茶店をネットで探してみた。以前、車で通って「もしかしたら喫茶店?」と見かけた場所をGoogleMAPで調べてみるとたしかに喫茶店であることがわかった。ネットに写真が掲載されていて見たが、天井が高くてゆったりと広く、ダークブラウンの色調の木の内装が落ち着いていて、とても雰囲気のあるいいお店であった。もちろん、チェーン店ではない。ケーキも種類があってどれも美味しそうだ。モーニングもきっと期待できそうである。なんとか歩いて行ける距離なので(本当は自転車出したいくらいなんだけど)、休日を利用して是非とも行ってみたい。そして、できればそこが私の人生初の「なじみの店」になれたらいいな、もう50過ぎたんだから今度こそなじんでみてもいいのかな、なんてドキドキしながら夢見てるのである。
[PR]



by zuzumiya | 2017-03-25 20:57 | ちっちゃい器で生きていく | Trackback | Comments(0)

「シュウトメ根性」

今年度もあとわずか。パートの分をわきまえて、欲をかかず無理せず身の丈でやってきたおかげで来年度も同じ職場で仕事を続けられる。昨日、ついに辞職する先生方の名前が我々パート職員にも告げられた。どよめきが起こったが、私の予想はほぼ的中していたので驚かなかった。辞める人間というものは年度末に溜まった有給のことで最後の不満を小声で漏らし、あたふたするものだからなんとなくわかってしまうものである。ただ一人、園を辞めて海外で幼児教育に携わるという若い娘がいて、彼女はすこぶる仕事がデキる人だったのでてっきり園から誘われて正規職員になるのかと思っていたから驚いた。やはりデキる子の夢はデカイ、若さっていいなぁと思って、思わず「いろんな生き方があるんですねぇ」と感慨深く漏らしたら、横にいた例のこの園20年の先輩が「1年もたなかったか…」とつぶやいたのでまたしてもムッとしてしまった。
何度も書くが確かに20年は凄い。偉い。その間にいろいろあったろうと思う。プライベートにだっていろいろあって、続けることが難しく思えて辞めようかと悩んだ日々もあったはずだ。でもなんとか踏ん張って続けたことは素晴らしい、とは思う。だからって、それがすべてではない。人はいろいろだ。
人が辞めていく時、いろんな職場で私はいつも思ってきたことがある。辞めていく人に「続けていくことができなかった」と努力や辛抱が足りなかったかのように語る人がいるが、(先ほどの「1年もたなかったか」の“もつ”という言葉使いもそうだ)その発言はやはり考えなしの言葉に思えてしょうがない。
ほんとに千載一遇の素敵ないい職場だから、やりたい夢と天秤にかけても残る人もいる。逆にあまりに心地いい職場だから、ずっと居たくなってしまい、大切な夢が遠のくという考え方で敢えて出て行く人もいる。何でもかんでも努力や辛抱の価値観で切られては困る。
むしろ、長年の先輩としては若者が去ることに責任や反省こそを感じてほしいと思う。彼女の最終決断においてこの園が「選ばれなかった場所」という見方を心に置いて、何か反省すべきことはないか、改善しなくてはいけないことはないか、辞めていく人間のもらす言葉や態度にそのヒントはなかったか、自分にできることはなかったか、などと謙虚に真剣に考えなくてはいけないと思う。「去りたい人間は去って結構」と豪語したらしいある園の園長も知っているが、それでは何も変わらず、よってその園はいつも人に去られてばかりいて、年中人手不足だという。
辞めていく人間がいると、残された人間は心がなぜか揺さぶられる。人はいつでも岐路に立っていること、そして自分の選択の是非を、価値観を自分に問うことになるからだろう。その一瞬の不安定さがああいった「1年もたなかった」の言葉をひょいと言わしめたのかもしれないが、女性においてはそれだけではないのである。
とかく女性は心のどこかに「シュウトメ根性」を持っている。「自分が新人の時には先輩の酷いイジメにあって、それでも辛抱して働いた。今はその先輩はだいぶ丸くなって、ぜんぜんラクなはずよ」と言い切る人を知っている。「自分の方が苦労したんだから」と苦労自慢をし、他の人に同じ苦労を「するべきこと」のように無意識に押し付け、苦労の伝授をしたがる女性を私は哀しい「女のシュウトメ根性」だと捉えている。小さい頃に人は「自分がやられて嫌なことは人にやらない」と何度も教えられてきたはずなのに、「自分だってやられたんだから、アンタもやられなさい」となぜか人は変わってしまう。どうしてそうなるかと考えてみたら、やっぱりその時々できちんと気持ちを受け入れられ、「大変だったね、よく頑張ったね」ときちんと評価されなかったことからくる“捻れた寂しさ”じゃないかと思う。実際の嫁姑の話では、同じ姑でも「私はイジメられたから絶対、お嫁さんにはやさしくしようと思う」という見上げた女性だっている。そういう姑、いや先輩のひとりでもいる職場の人間関係はきっと少しずつでも良い方向へ変わっていく。
先の20年選手の「1年しかもたなかったか…」発言もその裏に「自分は20年も長きに耐えたのに」という苦労自慢、「シュウトメ根性」がほの見えて、どうにもいやらしさを覚えてしまう。悪い人じゃないのはわかっているんだけど(苦笑)。



[PR]



by zuzumiya | 2017-03-25 10:19 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)

ふだんの暮らしに息づいているたいせつなもの、見つめてみませんか?
by zuzumiya
プロフィールを見る
画像一覧

※このブログの無断な転載はご遠慮願います。

最新の記事

夢のなかの街
at 2017-05-20 09:32
母の日=妻の日
at 2017-05-14 18:37
ランチョンマットの食卓
at 2017-05-14 01:11
私の吉田さん2
at 2017-05-07 16:21
母の凄さ
at 2017-05-07 15:00

検索

ブログジャンル