2017年 03月 02日 ( 1 )

保育には正解はないと言うけれど。

園では早番遅番の乳児のフリーという立場で仕事をしている。
フリーなので0歳~2歳までのどのクラスにも同じように入る。過去の園では0歳児や1歳児の担任として勤めて、担任ならではのやりがい、面白み、辛さの経験もあるが、今はフリーという仕事の大変さを感じている。
つまりはどのクラスに入っても子どもの情報(単に持病や身体がらみの話だけでなく、性格や家族環境なども)がわかって保育に対応できなくてはならないのと、親やクラスの担任たちの性格や特徴を掴んでそれぞれのクラスに合わせたやり方に従って動かなければならないという難しさだ。はっきり言って、これが結構面倒である。
担任の人間的なクセ、保育のクセのようなものをキャッチし、「いい悪い」とか言ってられずに(パートなので言える立場でも議論をしあえる時間もないが)「合わせて」いかねばならない。時には子どものことなんかより、担任の保育の進め方に「え?」となりながらも「ハイハイ」と深く考えずに聞き入れて動く。自転車をこぎながら「なんだかなぁ」と思いながらも「保育には正解はない」という大前提のもと、すべてがうやむやになって心の中に澱のようにたまっていく。
今日の2歳児の遅番でこんなことがあった。
ブロックで遊んでいて、お片付けの時間になった。ある男の子(A君としよう)が先生の「お片づけ」の声を聞いて他の子(B君)が作ったブロックに手を出して(こういう悪気はないがお節介な子はよくいる)片付けようとした。瞬間、B君がA君の手を鷲掴みにした。A君はその痛さで泣いた。事情を知らない遅番の正職が飛んできて、まずB君に手を鷲掴みにした事実を叱る。当然な対応だろう。ちょうどそこへA君の母親も帰ってきたことから彼女は事情を説明し謝り、「それならB君、片付けてよねッ」と冷たく言い放って去り、どんどん保育を先に進めていった。それを見た私はB君に「自分で片付けたかったんだよね。手を出すんじゃなくて口で「やめて」と言えばよかったんだよ」と言ってきかせた。B君も泣き出す。B君はクラスでは一度意地を曲げるとなかなか直らない扱いに難しい子と担任からはされているが、「先生も一緒に片付けようか?それともB君が自分で片付ける?」と私が言っても、涙をためて睨んで首を振るばかり。ブロックに私が手を出そうとするとその手をはじく。「先生向こうへ行ってようか?」と聞くと首を振り、「それならそばにいる?」と訊いても首を振る。「じゃあ、どうしたいか先生に教えてくれる?」と言うと、「ヤダ」。しばらくするとそばに同僚のパートがやって来て、ブロックを片付けてくれようとしたが私が手で制した。何度めかの同じ質問でB君はようやく「壊しちゃった」とつぶやいてあらためて泣く。
すなわち、A君にブロックを壊されてしまったことが悔しくて片付けもできなかったのだと分かった。「じゃ、もう一度作ってから片付けようか?」と訊くと、B君は素直にうんと頷いた。「先生も手伝っていいかな?」と訊くとまた頷く。
「こんな感じだったっけ?」「ここはこれでいい?」とやりとりしながら完成させると、B君は今度は自分で片付け始めた。しかし、ここがB君の難しいところ。片付け終わって納得したはずだろうに、私を見る目つきがまだ鋭いままなのだ。すぐにB君の気持ちに気づけなかった私への恨みなのか、と感じた。
この一連の話をパートナーの、無資格だがこの道20年のベテランパートのおばちゃんにしたら、ひと言。「そんなのほっとけばいいのよ。ひとりで考えさせることも必要よ」と言われた。そうだろうか。先のセリフはいかにも百戦錬磨のベテランらしく聞こえがいいが、そして「保育に正解はない」と言われてはいるが、私はあの場合はB君のわがままだと大人が放っておくことは違うのではないかと思う。周りに保育士という肩書きのたくさんの大人が居ながら、よく話も聞きもしないで、すなわちB君の拙いながらも自分なりの気持ちの吐露をさせないで、ただわがままと見定め、ひとり放って置かれることがベストなどとは私には到底思えない。それなら我々大人はいったい何のためにそこにいるのか。ブロックを早く片付けて生活の流れをどんどん先に進めたいがため、か。そんなふうに自分の気持ちをうやむやにされたら、B君はいずれ大人というものを信じなくなってしまう気がする。助けてほしい時に助けてもらってこそ、大人との信頼関係ができていく。
私は放っておかれたB君を想像してみた。他の子たちは先生の前に集まり紙芝居に見入っている。B君だけが離れて床にぺたんと座り、涙も乾き、ぼんやり前を向いて呆けている。頃合を見計らったように現れた大人にひと言ふた言声をかけられ、ブロックを片付けてもらい、促され、腑抜けたように立って連れて行かれる。悔しい気持ちも悲しい気持ちももはやどうでもよくなっている。ただただ、どんより疲れている。こんなふうな虚しい姿が見えるのだ。
B君に「先生向こうへ行こうか?それともそばにいようか?」と言った時、どちらにも首を振ったこと、素直に片付けたとしても最後までどこか私を許せないという目つきで睨んでいたところは、なんだか彼が自分の気持ちをわかってほしいのにわかってもらえてこなかった積み重ねを背後に感じさせた。もしかしたら家でも「そんなふうにいつまでもわがまま言ってるなら、もう知らないからねっ」と親に放っておかれているのかもしれない。気持ちを聞いてほしいのに深いところまで聞いてもらえないで打ち捨てられるその繰り返し。大人に頼りたいのに突っぱねられて心底頼れないもどかしさ、悔しさ、孤独感。そんなものがあの「いてほしくないけどいてほしい」という矛盾した気持ちや鋭い目つきを作ったのかもしれないと思うと、すべての大人を代表してその鈍感ぶりになんだか謝りたい気持ちになる。たとえ早番遅番のパートの保育士であっても、担任じゃなくフリーの立場であっても、20年もこの仕事してきてないけど、私はここぞという時はちゃんとあるべき大人として(「保育士として」とまでは言わない)向き合おうと思う。

※捕食の際には私の隣で笑顔に戻ったB君。あの睨んだ凄みのある顔つきが目に焼きついていますが、これからも難しい子と怖じずに向き合っていきます。


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by zuzumiya | 2017-03-02 22:24 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)


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