暮らしのまなざし

2017年 02月 19日 ( 2 )




素直に生きられたら…。

久しぶりに映画館へ行ってきた。一人で。
休日なのに客はまばら。中年夫婦の離婚をめぐるスッタモンダの話だからか、若いカップルは一組だけ。私より年配の夫婦やオバチャン、オジチャンの一人者が目立った。
劇場に一人ちんまり座っていると、よその人の話し声や笑い声が意外と大きく響いてきてびっくりする。私も夫と来ていた頃は、映画が始まるまであんなふうに愉快そうにこれ見よがしに喋っていたのだろうかと頭を過ぎる。「何をそんなに喋っているのやら」「まさか始まってからもその勢いでいちいち隣と喋るんじゃないだろうね」とちょっと意地悪な気持ちになってくる。
で、始まってすぐ目の前の一人者のオバチャンや斜め前の年配夫婦のオバチャンらが監督の演出にまんまと引っかかって、阿部寛のさほど可笑しくもない大袈裟な演技にハッハッハと爆笑しだした。「あーあ。そんなに笑っちゃって」と思うと同時に「素直に生きられていいよなぁ」とも思う。監督はもともと脚本で鍛えた人であるから、ここぞという「泣かせどころ」を心得ていて、私なんかは「来たなっ」と無意味な身構えをしているうちにそこいら中でスッ、スッと鼻をすする音が聞こえてきて、またしても「あーあ。今度は泣いちゃったか」となんだか鼻白む。そしてまた「素直に生きられて…」の心境になる。
オバチャンたちはいちいちよく笑い、よく泣いて、映画を見終わると心の洗濯をしたかのようにスッキリとしたんじゃないか。
私は映画が終わって館内に照明が点くあの瞬間が嫌いだ。コンサートも同じ。「物語の世界から現実に引き戻される」とかそんなきれい事じゃなく、なんだか、照明がついてみんながモソモソと動き出して上着や手荷物なんかを着たり持ったり確認している時の、あの変なのろったい間がどうにも居たたまれないのである。
夫婦で座った上品で恰幅のいい老紳士も、映画が終わって灯りがついた途端、なんてことないちっぽけで情けないただの爺さんに見える。神吉拓郎さんじゃないが「モソモソやってないで、スマートに上着をひっつかんで早く出てってくれ」と内心言いたくなる。これは観客みんなにあてはまる。
それからもう一つ。私は泣いてもいないのに、そんな時、人から顔を見られたくないのだ。映画を心から楽しんだ、酔いしれたという上気した顔、笑みがやんわり張りついた顔をなるべくしていたくはないが、もししていたとしたら見られたくもないし、人様のそういう顔も恥ずかしくて見たくない。私は誰とも視線を合わせず、上着の前ボタンも閉めずにそそくさと出る。
更にエレベーターの前の人だかりが嫌で、人だかりから「あそこのシーンが面白かった、笑っちゃったね」なんていう感想がちょこっとでも聞こえてくるともうダメで、6階だろうと7階だろうとさっさとひとり階段で下りて行く。同じものを見て楽しんだ、あの和気あいあいぶりのシアワセ熱にどうしても馴染めない。
ものごとの終わりは余韻があるぶん、へんなふうな空気になっていて、そういうのにまんまと取り込まれて尋常ならざる浮かれた姿を人様に平気で見せるのはなぜか私にっては“恥”なのだ。心の奥でひとりガッツポーズをしていても、いつものように柔らかに取り澄ましていたい。あーあ。素直に生きられたら…である。


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by zuzumiya | 2017-02-19 18:14 | ちっちゃい器で生きていく | Trackback | Comments(0)

魚雷式読書で『日曜日の捜しもの』白石公子を読む。

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私の50代はこんなんでいいんだろうか、と思いながら毎日、寝っ転がって本ばかり読んでいる。読みながら、そこに著者が紹介した本があるとすぐにiPadで検索し、図書館に予約を入れるか、ネットの古本屋(多くはブックオフオンライン)で購入してしまう。
ブックオフのシステムは購入金額が1500円に達すると送料が無料になる。この1500円ジャスト(まず、やれたことはない)か、ちょっと超えたぐらいにするために「あの本をやめ、この本を文庫サイズにし…」などとやりくりに苦心する。頑張ったつもりが「送料無料まであと4円です」なんてのが表示されると悔しくなって、「どこかに108円で良い本はないか」と探す。店側もそれをわかっていて、“108円本のコーナー”(夥しい量であった)を設けたりしたこともあった。このやりくりも結構楽しいものだが、そのために買い逃した本もいくつかあった。先日など、検索に著者名を打ち込んで3件しか出てこないのを「買われてしまったか!」と仰け反ったが、冷静になってよく見てみると藤枝静男と永井龍男が一緒になって「永井静男」と文字を打っていたから笑ってしまった。まぁ、そんなこんなで小さなメリハリのついた生活を私も送っている。
この“小さなメリハリ”という言葉、実は今読んでいる詩人でエッセイストの白石公子さんの『日曜日の捜しもの』というエッセイから拝借した。音楽ではこういうのを「オマージュ」と言い逃がれをするが、文章の世界だともろ「パクリ」だなと思いながら書いている。すみません。
最近になって、今の自分の心境(なんとなくのんべんダラリとして、欲やら希望やらがなくて、今日もとりあえず生きています的な、大人としてダメダメな感じ)に近いことをお偉い作家さんが正直に平然と書き綴ったゆるめの随筆が読みたいと思うようになっている。これは明らかに萩原魚雷さんの影響である。そういう「こんな心境は自分だけでない、あの偉いセンセイ方もその頃はそういう心境に陥っていた」と本で“確認”(“共感”よりもっと切実)しながら、そう書いてあることだし、「まあ今日のところはこれでいいじゃない」とゆるく自己肯定しながら、とりあえず本を読んで眠くなって寝ちゃいましたという感じが荻原魚雷さんの読書スタイルだと解釈していて、個人的には“魚雷式読書”と呼んでいる。なんというか、魚雷さんの本ってほとんどが随筆を紹介しているが(そこが好きなのだが)、自分と似た、自分にハマった箇所をとにかく本からばんばん引用しまくり、「ほらね、こんなこと言ってる」「ここがいいでしょう」と紹介してまわって終わるだけの印象がある。まあ、そこに偉い作家さんの知られざる一面、哀れで可笑しい人間味が現れていていいのだけれども。今回、その引用で埋めちゃう書き方を“魚雷式エッセイ”と呼ぼうと思う。しかし、読んでいくうちに自分も魚雷さん的なモノの見方、感じ方になって、なぜか締まったタガが緩まって気が楽になっていくから不思議だ。ま、世間的には、こうして天気がいいのに外へも出ずに掃除もせずにこんなことツラツラ書いているわけだから、ダメダメになっているだけだれども(笑)。
で、話はようやく白石公子さんに至る。昔、エッセイの『はずかしい』は読んだ覚えがあるのだが、まるきし内容は忘れた。なので、今回ネットのコメント欄で「この人はウツなんじゃないか」と書かれていた『日曜日の捜しもの』をわざと読むことにした。
魚雷式読書のおかげで遅ればせながらかもしれないが、最近、「ああそうか」と心に落ちてきたことがある。簡単に言ってしまえば「エッセイはその人を伝えるための自己紹介文である」ということを痛切に感じてきている。エッセイの面白味は物事や事件の奇っ怪さ(ネタ)よりも(日々そんなに事件らしきことは起こらない)、作者がどう感じたか、どう思ったかにある。そこにその作者の人となり、人柄が出て「この人、なんだか好きだなぁ」となれば成功だと思うのだ。だから、エッセイやら文章を書く時に心がけるべきことは「私はこういう者です」の飾らない正直さ、気取りのない人間臭さじゃないかと思う。だからこそ、何も起こらない身辺雑記的なエッセイでも面白いものは面白い。その人の感じ方、考え方が面白いから好きになる。作品とのつながりというより、人間どうし作者と肩を抱き合ったり、握手し合った感じだろうか。「友達になれそう」と読者に感じさせられたら、それはもう大成功だ。
で、読者の一人に「ウツなんじゃないか」と怪しまれた白石公子さんだが、それは“馴じみ”という言葉や関係を嫌い、暇さえあれば横になって眠気で朦朧としながら浮かんでくるひとり言をこれぞ私の本心などと楽しんでいるせいだと思う。でも、私はそんな白石さんをフフフと笑い「友達になれそう」と感じた。『日曜日の捜しもの』にはそういうシンパシーあふれる文章でいっぱいだった。

たとえば(と書いて、“魚雷式エッセイ”ぶってみると)
<「こんにちは」と声をかけられて顔を上げると近所のブティックの主人だった。二回ほどその店で洋服を買っただけなのに、こうして会うたびに挨拶を交わさなくてならなくなっているのは、いささか窮屈だ。知らない間に近所づきあいがはじまっているようで、いたたまれなくなってしまう。>(「馴染み客について」より)

上記のブティックで服を買ったのは、たぶん、この↓ジャケットかと思われる。

<そのジャケットを着て店の前を通るのが、どうにもイヤなのだ。ましてガラス越しにあの主人が(あっ、例のジャケット、着てるぞ)とニヤニヤしながら見ていると思うと、ますます不愉快な気分になり、ジャケット姿を主人に見られたくない自意識と意地がせめぎあって、違う道を通ったりするのだ。> (「やっかいな客のために」より)

電車の中で座っていると前に老婆が立って、席を譲ろうと声をかけたが断られた話で、
<次の駅で新しく乗って来た事情を知らない人達に、お年寄りを前にして席を譲らない図々しい女だと思われ、新聞の投稿欄なんぞに書かれたりするのも傷つく。お願いだから座って下さい。>(「悲しみの丸ノ内線」より)

<もっとも他人が軽く指摘する「肥った」「やせた」は、挨拶程度のもので、そこから相手のちょっとした私生活の変化を探ろうとする下心が少しだけ働いている。>(「食べすぎた後に体重計に乗るか」より)

<原稿用紙四枚ほどの書評エッセーだったのだが、出だしに何度もつっかかって先に進まず、弱気になるほどに知的に思われたい、といった下心が芽生えて、何を書いたらいいのかわからなくなり、そんなこんなでだらだらと三日もかかってしまった。>
<女性には、思いっきり髪を伸ばすときと短くするときがあるが、ショートにすると決めたときの、ある種の気負った不安と興奮した状態。そして、終わったときの虚脱感から、やがて見慣れない自分への戸惑い。美容院からほうり出されて行き場を失ったような、おちつかないもの悲しさ。これらの感情の流れは、時間のかかった原稿を書き上げ、ファックスで送った後に襲われる感情とよく似ている。そして、あてどもなく街を歩き回り、いろんな店に立ち寄って疲れてくると、やっと、いつもの自分を取り戻し、たちまち帰りたくなるのだ。>(ともに「身の置き場を失って」より)

いかがだろうか、この白石公子の人となりは。私は好きなんだな、こういう不器用な人。軽めのエッセイでよくある自虐ネタの「笑わせてやるぞ」のドタバタ感もない。それはきっと詩人の感性が描写を深くしているからだと思っている。思春期に父親の入った後のお風呂に入れなくて、湯船の栓を抜くシーンがあるが、
<「ごおっと苦しそうな音がして、排水口に吸い込まれていく水面の窪みを見つめながら、栓をするのに今なら間に合う、まだ、大丈夫だ、とせきたてる自分がいて、それでも動けずにいた。>(「父の後のお風呂は」より)
この水面の窪みと一緒に良心がずずーっと吸い込まれていく動けない水圧の感じ。トイレの水道の修理人を呼ぶために急遽、家中の掃除をしだすが、黴取りスプレーをブラウスに飛び散らせてしまい、余計に慌てたあと、
<お兄ちゃんが帰った後、ひとつ問題が解決した安堵でトイレに行きたくなり、スリッパを履いたら、まだ生暖かかった。ドキドキしていた。>(「梅雨のブリーチショック」より)
書かなくてもエッセイは終われただろうに、スリッパの生暖かさが妙に読者の心に沁みてくる。スリッパに残った人の温みに気づいて、そこでまた「ドキドキしていた」とあらためて心のトンガリ具合に実感が湧いているのである。詩人ならではの感受性が要所要所で文章に芯を作っていく。「いやあ、勉強になります」と言いたい。勉強にはなるけれど、私はたぶん、こんなふうには書けない。



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by zuzumiya | 2017-02-19 16:05 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)

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