杉田久女と宇内

a0158124_10387.jpg「あら、わたしだって長いこと苦労も辛抱もしてますわ、勲章や月給の高いことをのぞむんじゃありません、もっともっと貧しくてもよいから、意義のある芸術生活に浸りたい…」
久女は眼に涙をためていう。宇内も、久女が虚栄からそいうのでないことはわかっている。しかしそのほうが、ほんとはずっと厄介なのだ。
ダイヤや着物や名誉が欲しい女なら対処のしようもあるが、感情の動揺しやすい、自然や人生に何かにつけて昂揚感を味わい感激し、また、どうかするとわけもなく憂鬱になる、そういう、絶えず白熱した発光体を裡にもっているような女が、正面の大手門から堂々と
<意義のある芸術生活に浸りたいのです。平凡と安逸だけを貪るよりも、あなた、さあ、いまからでもすぐ絵筆を持って!>
と攻めてくるのは、男にとってさぞ、やるせないことだったろうと思われる。貧しくても意義のある芸術生活を、というのは、現実では夢のような話で、牛の舌を煮たり夜の川で鰻を釣ったりすることとちがう。
「貧しくても意義ある芸術生活」を送るべく神からその運命を負わされた者は、花咲かぬまま地獄をかいまみた苦しみの末に悶死する、そんな運命が待ち受けているかもしれないのだ。そういう地獄と天国の綱わたりのような人生は、人に強いるべきことではないのだから困る。
何がなんでもその道を選ばなければ生きられないような、限られた人間だけが、その道を<選ばせられて>しまう。人為ではない、巨いなる超越者の手によって。
宇内にはそのへんが見えていたにちがいない。
しかし彼はそのあたりの機微をことこまやかに妻と話し合い、妻の思いこみを訂正し、芸術と実人生の相関関係について論じ合う、という手のかかることを避けている。宇内の怠慢という以上に、それまでの日本の夫婦に、話し合いの伝統なんかないのである。明治の文物は開化したようにみえるが、男と女の共通語が育つ土壌ではないのだ。
            田辺聖子『花衣ぬぐやまつわる……わが愛の杉田久女』より。

画家としての才能を認めて結婚したのに、そこにどうしようもなく憧れを持って惹かれていたのに、九州は小倉の片田舎の中学の図画教師となって、その職に甘んじて一向に絵筆を持たない夫、杉田宇内に対して、久女がこころに巣くわせはじめた怒りの発端がうまく書かれている。夫、宇内とのこういった精神面での齟齬(たぶん、いちばんこの夫婦にとって厄介なところなんだろう)が、やがては久女を俳句に猛烈に駆り立てて行ったのだろう。やるせない。
久女はきっと、そういった芸術一本槍に貫かれた生活を人生の理想として、夫がそれを与えてくれないのならば、自分でその渇きを癒すしかないと思ったのだろうか。自覚はあったのかなかったのかわからないが、俳句と出会って尋常じゃないほどのめり込んで行ったのが、なんだかわたしにはよくわかる。
久女はもともと絵が好きだったし、視覚的な句も多い。つまりはみんな見えて、わかっていた。小倉の自然を間近にして「どうしてあなたは描かないの? この景色が見えないの? 何も感じないの?」と不満に思って、怒って、それがつのればやがては諦めに変わっていく。
自己中心的、勝手な思い込みの女だろうがなんだろうが、久女のこころに思い描いた結婚生活が日々目の前でどんどん崩れていく。そのさまを想像するに、まだ俳句との出会いもなくて子供も抱えていて、自分に何が出来るかなんぞ思いもしなかった頃の久女の心情は、さぞやがっくりときて、絶望的だったろうと思う。
夫宇内の心情にもせつないものがある。妻にやれやれと言われても、自分の才のことは自分がいちばんわかっている。絵で食べていくことの困難さも想像がつく。愛する妻子を抱えて綱渡りするわけにはいかない。そこに宇内の優しさもまっとうな責任感もある。
芸術家であるまえに生活を担う者として、いまあるこの場からなんとか精神の充実をはかっていくしか方法はない。久女が大袈裟に言うほど、絵の世界から全く離れたわけではないのだ。教師となって若き生徒たちに絵画芸術の素晴らしさを教えることは、それなりに意義や充実感がある。自分をほんとうに愛してくれているのなら、いつかはその生き方の素晴らしさを久女もわかってくれるだろうと宇内はどこかで信じていたのではなかったか。
夫婦はたしかに芸術愛好でつながっていたけれど、その奧で芸術への求め方の程度、温度というものがやはり決定的に違っていたのだろう。久女の方がおさまりがつかないくらい熱かった、激しかったのだろう。
この結婚は果たして良かったのだろうか。でも、他のお茶の水の同窓生のように銀行員や官吏との良縁をのんで結婚していたら、そして何不自由ない暮らしのなかで、その上で俳句に巡り会っていたら、久女の句はどんな句になっていたのだろう。
俳句がたしなみ程度のものでしかなく、「生きる術」「心の拠り所」となって久女の人生の根幹を強く貫いていくような唯一無二の激しいものになりえたかどうかはわからない。宇内と不幸な結婚をしたことで、俳句と真に出会い、俳句と真に生き、後生に残るあれだけの名句が生まれたのだと思えば、せつないことだが、これもまた神の見事な手さばきと言えなくもない。
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by zuzumiya | 2010-01-24 01:04 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)
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