茨木のり子さんの『歳月』

a0158124_9195156.jpg「自分の感受性ぐらい」や「倚りかからず」で有名な詩人の茨木のり子さん。
その作品は、鋭い言葉の直球で軸がゆらがず、凛とした強さでもって読む者に深く内省を迫るようなものが多いが、先日『歳月』という詩集に出会い、今までになく心を揺さぶられた。
この詩集は先立たれた彼女の夫、三浦安信さんへの想いを綴った一種のラブレターであり、茨木さんは夫を見送ってから40篇にも及ぶ詩を書き残していたのだが、生前は「照れくさいから」という可愛らしい理由で出版されなかった。
かの金子光晴を敬愛し、厳しい人、凛々しい人のイメージが強い茨木さんが「ラブレター」だの「照れくさい」だの、似合わないなと思わず微笑んでしまったが、たしかにこの詩集の中には、夫婦であった頃の、ふたりの性愛すらもまっこうから正直に懐かしみ、せつないくらいの愛おしさを込めて綴られているものがあり、生前に出されていたらさぞや恥ずかしくて道も歩けなかっただろうと想像できる。
先日、やはり城山三郎さんの先立たれた奥様との思い出が書かかれた本を読んだが、「新婚初夜にシーツを汚してしまった」という件があって、何でこんなことまで書くのか、妻を亡くしたことが冷徹な作家の筆をここまで乱すものかと驚いたのだが、茨木さんのこの『歳月』を読んでみて、そんなふうに書かざるをえない、書いてしまう途方もない哀しみと孤独がわかった。
つれあいを亡くすことは、もしかしたら自分が死ぬまでの間の、長く狂おしい恋の始まりなのではないかと思う。そしてそれはたぶん、かつて若かりし頃の恋人時代に感じていた恋情の数百倍、数千倍の激しさで、日夜思いもしないところからふいに襲ってくる。
夫がぴんぴんしていて、話すこともケンカすることも触れることもでき、夫の吐き出す息のいくらかを私が吸い込んでいるこの部屋で、今、どんなに想像を巡らしたとてわかることのできない、哀しみの陶酔をもたらすのだろう。
生きているうちに、その恋情の半分も相手に向けられないことの愚かしさ、ともに居られる時間の当たり前のような浪費…。しかしそう思う反面、それが人間の自然というもの、それでいいのかもしれないとも思う。夫婦は片方が死んでから、またあらたな夫婦の恋物語を始めるのだから。身体と心に残された刻印と歴史を時にせつなく愛おしみながら、いつかまた巡り会えるその日を夢見て、孤独を生きる。いつか交わす抱擁の懐かしさと喜びのために課せられる必要な孤独。

どれもこれも胸に染み入るいい作品だが、最後にひとつだけ紹介しよう。

急がなくては

急がなくてはなりません
静かに
急がなくてはなりません
感情を整えて
あなたのもとへ
急がなくてはなりません
あなたのかたわらで眠ること
ふたたび目覚めない眠りを眠ること
それがわたくしたちの成就です
辿る目的地のある ありがたさ
ゆっくりと 
急いでいます

(『歳月』茨木のり子 花神社)
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by zuzumiya | 2010-01-17 09:20 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(2)
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Commented by cinnamonspice at 2010-01-18 03:39
ずずさん、こんにちは。
お邪魔します。
茂木さんの詩、「自分の感受性ぐらい」を以前私もどこかで耳にしてとても印象に残っていて覚えていました。
 “つれあいを亡くすことは…長く狂おしい恋の始まり”というずずさんの言葉、とても共感しました。どんなに手を伸ばしても、届かないところにいる人への恋。とても切ない恋ですね。“あなたのかたわらで眠ることが…成就”茂木さんの詩の言葉はそんな切ない恋に大きな希望と安らぎを与えてくれる気がしました。そして、これ以上のないだんなさまへのラブレターですね。茂木さんの「歳月」、いつか手にとってみたいと思います。
Commented by zuzumiya at 2010-01-19 08:54
cinnamonspice様、コメントありがとうございます。詩について、ほんとうはよけいな鑑賞だとか感想など載せないままのそのままを、ぽんっとプレゼントしたかったんですが、きっとどんな短いものであれ、作者の著作権を考えると、いけないことなんだろうなあ、と思い、やめました。今でもほんとはやりたい。だって、いい詩はいっぱいあるんですもの、紹介したい(笑)。
まどさんは今月末頃に、全詩集が再販されることが決まっています。といっても日本の話ですが。「トンチンカンな夫婦」も大好きな詩です。今度、今の仕事が落ち着いたら、またそれについても書いてみようと思います。これからもよろしくお願いします。


ふだんの暮らしに息づいているたいせつなもの、見つめてみませんか?


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