あなたがいてもいなくても

俳優の阿藤快さんが亡くなった。出棺される風景をテレビで見た。地元の人、ファンの人が涙を流しながら手を合わせていた。
こういう風景を見るたびに、いつかは私の想い人も多くのファンにそうやって見送られる日が来るのだなと思う。私とひとつ違いだから、私の方が先に逝くかもしれないが、私より彼の方が懸命に生きて、駆け抜けるように生きたから、いつでも生きたがっていたから、世の中の不公平を背負って旅立つのはきっと先のような気がする。こうやって人の死を見ながら、淡々と“その時”の準備をしているのかと思った。
ときどき、死というもの、別れというものを考える。
私は彼に一度しか触れたことがない。単なるファンの握手だった。一度、視線を合わせて、一度、言葉を交わし、一度笑みを交わした。
もうきっと記憶にはないだろう。当たり前の話だ。
触れたとか言葉を交わしたとか、そんなものはどうでもいい。何もなかったと同じでいい。
私が彼を知っている。知っているのは私が知りうるかぎりのことを知っている。それでいい。これも当たり前の話だ。人は一生かけても自分すらわからず、つかみかねて死んでいく。すべてなどわかりっこない。どんなに近しくても他人のことなど、どれほどわかるだろう。私は、彼でなくたって人を、私の知りうる限りで知っている、それが真実だ。
私の知りうるかぎりの彼を私はこうして好きでいる。そうやって生きてきた。
人が死んで、なぜ人は泣くのだろう。もう会えない、話せない、笑いもできないし、けんかもできない、触れられない、一緒に歩く未来がない…。
“ないないづくし”が絶望を呼んで、寂しくて、悲しくて、悔しくて、泣くのだろうか。
そう考えたとき、私にとって彼は生きていても、もはや死んでいるのと変わらないと思った。
よく老親を施設に預けて「生きてさえいてくれたらいい」と願ったりする。あれも違うように思える。「どこかで生きている」「今日も生きているはず」、そんなのは実は死んでしまったことと大差ない。
うまくは言えないが、私は彼が死んでしまっても、今日、今の今をどこかで生きていようとも、同じだと思う。“あなたがいてもいなくても”という言葉の深さがよくわかる。
何も変わらない。だから、きっと、私はあのように泣くこともないのだろうなと思う。
ただ、私が知りうる限りの彼が残した思い出と教えてくれた世界の見方で私の寿命を全うして、私なりに生きていくのだろう。ポジティブな言い方をすれば、人は生死に関わらず、生きているのだ、ずっと誰かの心の中で。思えばきっと、共にある。


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by zuzumiya | 2015-11-23 11:29 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)
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