男の弱さ、許せますか? ドラマ『昼顔~平日午後3時の恋人たち~』を見て
『白い巨塔』をはじめ山崎豊子作品とか『半沢直樹』みたいなビジネスマンの出世ものとか、『北の国から』みたいな国民的家族愛ものじゃない限り、ドラマというのは男性視聴者を呼び込める作品はまず少なく、メインターゲットは女性である。だから、セリフはどうしてもテレビの前の女性が喜ぶ、あるいは女性が「よくぞ、言ってくれた!」と溜飲を下げるようなものになりがちだ。「今のセリフをうちの旦那にも聞かせてやりたいわ!」と息まいても、当の旦那は飲み屋で飲んだくれていたり、のんびり湯船に浸かっていたりする。女性から見て「セリフがいい」と称賛される作品はなにか脚本家のそういう狙いや思惑にまんまと引っかかって喜んでいるみたいで、実はあまりいい気がしない。いつもテレビの前で「またまた、そんなこと言わせて、主婦が喜ぶとでも思ってる?」なんて、天邪鬼な私はついつぶやいてしまう。
もちろん、ドラマ『昼顔』にも今までその手の女性ウケするセリフはあった。昼顔妻の利佳子の言った「女は冷蔵庫じゃない」みたいなやつだ。でも、そこは腕の確かな脚本家、井上由美子さん。それだけを売り物にしていない。女性がメインターゲットならば、その女性たちに向かってヒヤッとするような男性の本音を言わせるという作戦で挑んできた。
例えば、今回の第10話の、不倫がバレて裕一郎がその妻、乃里子に責められるシーン。
乃里子「ねえ、どこがいいの?紗和さんってすごく美人というわけ
でもないし、特別な才能を持ってるわけでもない。わかるように言って」
裕一郎「どこが好きかなんて、わからない」
乃里子「じゃ、どうして?もしかして“魔性”っていうやつ?
女にはわからない色気をふりまいているのかしら」
裕一郎「ごめん、ノリ。そんな似合わないこと言わせて…。
彼女といると自信が湧いてくる。僕を必要とし、僕の言葉を必死に受け止めてくれる。
なんか、体の奥で『もっとがんばろう』って、無限の力が湧いてくる…」
乃里子「要するに、年上の研究者が相手だとコンプレックスに感じるけど、パートのおばさんなら優越感で
自信が出るってわけ。小さっ…」
ここのセリフ、ものすごく私にはツボだった。
まず、乃里子の同性を見る目、すなわち、美人か才能があるか(才能なんて言葉、普通の女は頭に浮かびもしないだろう)それ以外は箸にも棒にもかからないという価値基準。それを平気で、常識のごとく言ってのける乃里子。研究者であり、大学の准教授であるという頭脳派で、プライドが高く我が強く、その分どこか冷淡なところのある乃里子の人物像をよく表している。色気だけの魔性の女とは正反対のところに位置し、そういう女性を同性として見下し軽蔑するタイプであることを夫もわかっているから、「ごめん、似合わないことを言わせて」なんて謝らせている。このあたりのセリフも上手い。
哀しいのは、「どこが好きだかわからない」ほど、もう相手をぜんぶ好きであるという事実。それから、「彼女といると自信が湧いてくる」「もっとがんばろうって無限の力が湧いてくる」という言葉。相手の容姿だとか性格だとか、長所なんてものじゃなくて、どこがいいとあえて言うこともできない彼女の存在ぜんぶが自分に自信を与える、生きる力になっているなんて聞かされた時には、もう乃里子じゃなくてもショックで言葉を失ってしまわないか。乃里子にとっては一生懸命寝る間も惜しんで論文を書き、大学という古い男社会で努力し戦ってきたのに、片や何の努力も必要のなくありのままの存在で好きだと言われる女性がいるなんて、もうこれ以上ない屈辱だろう。アイデンティティを揺るがす。
昔、白石一文の『ほかならぬ人へ』という小説を読んだとき、「この世界の問題の多くは、何が必要で何が不必要かではなく、単なる組み合わせと配分の誤りによって生まれているだけではないだろうか」という一文があって、今でも事あるごとにその言葉を思い出す。人と人との仲や男女の仲のこじれも、組み合わせと愛情配分の誤りに尽きると私もそう思う。この裕一郎と乃里子の夫婦も哀しいかな、組み合わせと配分の誤りだ。
准教授になった乃里子にとって裕一郎は“あげちん”で、裕一郎にとって乃里子は、自分が必要とされていると思えないほど自尊感情を削られる“さげまん”だったということになる。妻の乃里子が仕事で頑張って成功すればするほど、夫裕一郎は自分に自信をなくしていく。そして、妻の成功を手放しで喜んであげられない自分の器の小ささに心を悩めていく。でも、乃里子にとっては裕一郎という無条件で頼れる存在があったからこそ、安心して伸び伸びと仕事に打ち込めたのだ。裕一郎は自分の絶対の“理解者”だと信じていたに違いない。この“理解者”であるという甘えを彼女は愛情と捉えていたんだろう。
では、裕一郎に妻への愛情はなかったのかといえばそんなこともない。妻が仕事に打ち込んで生き生きとし、「いつもありがとう。あなたがいてくれるからよ」と喜んでくれれば、夫として人間として、役に立っているという自負と満足感はある。自分が彼女にしてあげられることは仕事に打ち込めるようにフォローすること、彼女が求めていることをしたいようにやらせてあげられること、言ってみればそれが彼女への愛情だと認識していたと思う。きっと心のどこかで、そういう男こそ器のデカイ本物の男と思っていたかもしれない。
でも、そこにあるのはまず乃里子ありき、最優先、主導権は常に乃里子の関係性だ。裕一郎の乃里子に対する甘えとは何だったんだろう。たしか年下の夫という設定だが、今までの話を見る限り、そもそも裕一郎に自分というものをありのまま出せて主張できる甘えなど許されていなかったように感じる。やはり、乃里子にとってはこれ以上なく心地よく、裕一郎にとってはどこか歪で窮屈な関係だったのか。ああ、すべて、組み合わせと配分の誤り、切ないけれどそれに尽きる。
私はたぶん、乃里子タイプの女なのだと思う。だからこそ、この回のこのセリフにこんなにも感じるものがあるのだろう。自分が何かに一生懸命になっているうちに気がつけば大事な男の自信を奪い、頑張る意欲を失わせていたなんて、女として、というより人間として、何かものすごく情けないというか、至らないというか、この巡りあわせの不運にしみじみとせつなくなる。でも、井上由美子さんの書くように図らずもこういった関係に陥ることはあるのだろう。昔、夫の仕事がうまく行かなかったときに「どうしてもっと家族のために死に物狂いで頑張れないの?」と迫ったことがある。私もきっと長年連れ添うなかで、どういうわけか彼の自信を奪い、頑張る意欲を失わせてしまっていたのだろうな、と思ったりする。
男の本音、もっと言えば男の弱さに対して、私たち女はどれぐらい敏感でいられるだろう。そして、どれぐらいそれを許せるのだろう。そんな問いかけを今回、井上由美子さんから貰った気がする。
もちろん、ドラマ『昼顔』にも今までその手の女性ウケするセリフはあった。昼顔妻の利佳子の言った「女は冷蔵庫じゃない」みたいなやつだ。でも、そこは腕の確かな脚本家、井上由美子さん。それだけを売り物にしていない。女性がメインターゲットならば、その女性たちに向かってヒヤッとするような男性の本音を言わせるという作戦で挑んできた。
例えば、今回の第10話の、不倫がバレて裕一郎がその妻、乃里子に責められるシーン。
乃里子「ねえ、どこがいいの?紗和さんってすごく美人というわけ
でもないし、特別な才能を持ってるわけでもない。わかるように言って」
裕一郎「どこが好きかなんて、わからない」
乃里子「じゃ、どうして?もしかして“魔性”っていうやつ?
女にはわからない色気をふりまいているのかしら」
裕一郎「ごめん、ノリ。そんな似合わないこと言わせて…。
彼女といると自信が湧いてくる。僕を必要とし、僕の言葉を必死に受け止めてくれる。
なんか、体の奥で『もっとがんばろう』って、無限の力が湧いてくる…」
乃里子「要するに、年上の研究者が相手だとコンプレックスに感じるけど、パートのおばさんなら優越感で
自信が出るってわけ。小さっ…」
ここのセリフ、ものすごく私にはツボだった。
まず、乃里子の同性を見る目、すなわち、美人か才能があるか(才能なんて言葉、普通の女は頭に浮かびもしないだろう)それ以外は箸にも棒にもかからないという価値基準。それを平気で、常識のごとく言ってのける乃里子。研究者であり、大学の准教授であるという頭脳派で、プライドが高く我が強く、その分どこか冷淡なところのある乃里子の人物像をよく表している。色気だけの魔性の女とは正反対のところに位置し、そういう女性を同性として見下し軽蔑するタイプであることを夫もわかっているから、「ごめん、似合わないことを言わせて」なんて謝らせている。このあたりのセリフも上手い。
哀しいのは、「どこが好きだかわからない」ほど、もう相手をぜんぶ好きであるという事実。それから、「彼女といると自信が湧いてくる」「もっとがんばろうって無限の力が湧いてくる」という言葉。相手の容姿だとか性格だとか、長所なんてものじゃなくて、どこがいいとあえて言うこともできない彼女の存在ぜんぶが自分に自信を与える、生きる力になっているなんて聞かされた時には、もう乃里子じゃなくてもショックで言葉を失ってしまわないか。乃里子にとっては一生懸命寝る間も惜しんで論文を書き、大学という古い男社会で努力し戦ってきたのに、片や何の努力も必要のなくありのままの存在で好きだと言われる女性がいるなんて、もうこれ以上ない屈辱だろう。アイデンティティを揺るがす。
昔、白石一文の『ほかならぬ人へ』という小説を読んだとき、「この世界の問題の多くは、何が必要で何が不必要かではなく、単なる組み合わせと配分の誤りによって生まれているだけではないだろうか」という一文があって、今でも事あるごとにその言葉を思い出す。人と人との仲や男女の仲のこじれも、組み合わせと愛情配分の誤りに尽きると私もそう思う。この裕一郎と乃里子の夫婦も哀しいかな、組み合わせと配分の誤りだ。
准教授になった乃里子にとって裕一郎は“あげちん”で、裕一郎にとって乃里子は、自分が必要とされていると思えないほど自尊感情を削られる“さげまん”だったということになる。妻の乃里子が仕事で頑張って成功すればするほど、夫裕一郎は自分に自信をなくしていく。そして、妻の成功を手放しで喜んであげられない自分の器の小ささに心を悩めていく。でも、乃里子にとっては裕一郎という無条件で頼れる存在があったからこそ、安心して伸び伸びと仕事に打ち込めたのだ。裕一郎は自分の絶対の“理解者”だと信じていたに違いない。この“理解者”であるという甘えを彼女は愛情と捉えていたんだろう。
では、裕一郎に妻への愛情はなかったのかといえばそんなこともない。妻が仕事に打ち込んで生き生きとし、「いつもありがとう。あなたがいてくれるからよ」と喜んでくれれば、夫として人間として、役に立っているという自負と満足感はある。自分が彼女にしてあげられることは仕事に打ち込めるようにフォローすること、彼女が求めていることをしたいようにやらせてあげられること、言ってみればそれが彼女への愛情だと認識していたと思う。きっと心のどこかで、そういう男こそ器のデカイ本物の男と思っていたかもしれない。
でも、そこにあるのはまず乃里子ありき、最優先、主導権は常に乃里子の関係性だ。裕一郎の乃里子に対する甘えとは何だったんだろう。たしか年下の夫という設定だが、今までの話を見る限り、そもそも裕一郎に自分というものをありのまま出せて主張できる甘えなど許されていなかったように感じる。やはり、乃里子にとってはこれ以上なく心地よく、裕一郎にとってはどこか歪で窮屈な関係だったのか。ああ、すべて、組み合わせと配分の誤り、切ないけれどそれに尽きる。
私はたぶん、乃里子タイプの女なのだと思う。だからこそ、この回のこのセリフにこんなにも感じるものがあるのだろう。自分が何かに一生懸命になっているうちに気がつけば大事な男の自信を奪い、頑張る意欲を失わせていたなんて、女として、というより人間として、何かものすごく情けないというか、至らないというか、この巡りあわせの不運にしみじみとせつなくなる。でも、井上由美子さんの書くように図らずもこういった関係に陥ることはあるのだろう。昔、夫の仕事がうまく行かなかったときに「どうしてもっと家族のために死に物狂いで頑張れないの?」と迫ったことがある。私もきっと長年連れ添うなかで、どういうわけか彼の自信を奪い、頑張る意欲を失わせてしまっていたのだろうな、と思ったりする。
男の本音、もっと言えば男の弱さに対して、私たち女はどれぐらい敏感でいられるだろう。そして、どれぐらいそれを許せるのだろう。そんな問いかけを今回、井上由美子さんから貰った気がする。
by zuzumiya
| 2014-09-20 02:43
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by zuzumiya
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