暮らしのまなざし

李禹煥の余白

「日曜美術館」でまたひとつ素敵な出会いをした。
韓国人の「李禹煥(リーウーファン)」という現代美術家、78歳、男性。
フランスのベルサイユ宮殿の庭に並木道に、巨大な鉄板と石を配置した「関係項-対話」の作品群。瀬戸内海の直島の、建築家安藤忠雄とのコラボでもある「李禹煥美術館」の静謐な空間。インタビューではたしか「“作ること”と“作らないこと”の出会いが表現の出発」と言っていた気がする。「余白」という言葉も何度か出ていた。
韓国の人だが日本に長くいて、若い頃はニーチェやハイデッガーの哲学を学んでいたというし、自身も鎌倉に住んでいるというから、石や白い砂利を使った作品なんかを見ていると京都の寺庭みたいで、仏教や日本美術の影響をすごく受けているんじゃないかと思った。
特に余白という言葉。李禹煥のインタビューの言葉自体は忘れて正確ではないかもしれないが、私はこの「余白」をこう受け取った。
作者の世界に見る者を招き入れて、作者の世界や意図を見てもらうんじゃなく、作者は作品を作ってはいても、そこに見る者が入って自由自在に何かを感じたまま出ていく、見る者の世界を作品を通して見る者自身の中に作って出ていく、作品にはそういう作りすぎない余白、見る者との対話のような余白が必要だということ、だったんじゃないかなと思う。
この精神はものすごく俳句に似ていると思った。
俳句はごくごく少ない言葉数で人の五感を刺激し、目の前にある世界、ある気配を立ち上げる。でも、立ち上がった世界はこれが正しく、こうでなければならないということはなく、自身の想像力でどんどん深く広く世界を見ていく、感じ取っていく自由が許されている(そもそもそれが鑑賞というものの本質だと私は思っているが)。
あるいは、アンビエントなる環境音楽もそうだ。単音の余韻が、繰り返す単調なメロディーが深く心を鎮めて、解放であると同時に集中でもあるような深遠な境地にさせる。そのある種の曖昧さが音楽を受け取る者との間に常にその時でしか成り立たない一対一の対話を作りだしていると私は思う。
作りすぎないこと。鑑賞者が作品の中に何かを感じとり、自ら自由に思索できる余地、余白を作っておくこと。そういう作品を人々に、日常に投げかけること、そこに意義がある。
そんなふうにあの番組を見て、李禹煥のインタビューや作品を見ながら、私は思った。
最小限の詩歌でない、たとえば散文のようなものでも、何か同じ効果が得られないか、そういう余白が許されないものか考えた時、ふと思い出すものがあった。
今、読んでいる石田千の作文集『きつねの遠足』に『林芙美子随筆集』の書評があって、そのなかの一文にこうある。
<つたない作為を戒め、いつか「流水の如く特色の味なし」の境地を表現したいと願い、(後略)>
この場合、「流水の如く特色の味なし」という言葉はきっと林芙美子の随筆に出てくる彼女自身の言葉なんだろうが、それがどこか李禹煥の言う余白と私は重なる気がする。
点と点が繋がって線になる。現代美術の李禹煥から、林芙美子の随筆へ。私のなかに芽生えた不思議な縁を今、面白く感じている。


※『石田千作文集 きつねの遠足』(幻戯書房) 『林芙美子随筆集』(岩波文庫)
  「日曜美術館 ベルサイユにアートの虹をかける~李禹煥の挑戦~」再放送9月14日夜8時
※李禹煥という人は書籍も出ています。『余白の芸術』(みすず書房)、番組で紹介された樹の詩は『立ちどまって』という詩集(書肆山田)に入っています。
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by zuzumiya | 2014-09-07 16:34 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)
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