暮らしのまなざし

『子宮に沈める』を見て考えよう

a0158124_1739856.jpg昨日、早速、公開初日で『子宮に沈める』を見てきた。
新聞の記事でカメラが部屋の中だけのフィックスだとは知っていたが、流れてきた映像はまるで一家の生活をどこかの隙間から覗き見しているような、時には限りなく床に近く低く(たぶん寝転んだ子供の目線くらいで)撮影されていたりするので、そのリアルな空気感、臨場感には思わず息をひそめた。
驚いたのは音楽を最初から一切使わなかったこと。この決断はとても勇気がいったろうし、素晴らしかった。監督はきっと音楽によって余計に悲しみを増長させるような、故意に観客をある方向に導いていくような真似はしたくなかったんだろう。“そこで起きていること”をそのままに、非常に客観的に淡々と描いて投げてみせて、観客がどのようにでも考え、どのようにでも揺さぶられるようにしたかったんじゃないかと思う。
監督はドキュメンタリーを撮ろうとしているわけではなく、あくまで大阪の二児放置死事件をベースに自分の解釈で自分の“映画=フィクション”を撮っているんだとインタビューでは語っていたが、見せ方、伝え方という細部はこのようにある意味で非常にテクニカルに撮っていた。考えてみれば、最初の頃の親子三人で遊んでいるような暮らしの幸福感をやわらかな音楽のイメージで補完する必要なんてほんとうはまったくないのだし、ゴミ袋で埋まった部屋の中を飛び交う耳障りなハエの羽音やマヨネーズの空き容器から勢いよく「ごくん」と飲みこんだ時の音が音楽で弱まってしまうのは惜しく、音楽が全くないことで非常に生々しく、観客に“生と死”を感じさせることに成功したと思う。

大阪の事件をモチーフにしているとはいえ、何ら事件についての具体的な説明はなかった。細かいことを言えば、何で旦那さんが出て行ったのか、母親の実家とのつながりはどうしてないのか、昼は何の仕事をして夜は何をやっていたのか、女友達は子供のことを何も気遣っていなかったのか、保育所など行政は何もアクションをとらないでいたのかなど、全然描いてくれていないので疑問は残る。事件についてワイドショーで聞きかじったぐらいの知識しかないので、彼女の境遇や事実の細やかな点は、ちょうど今新刊で出ている『ルポ虐待 大阪二児置き去り事件』を読むしかないかと勝手に途中で割り切った。
監督によれば、シングルマザー以上の背景や境遇とかを細かに説明しだすと“特殊な家庭”、“特殊なケース”になってしまって“自分とはかけはなれた別の世界”での出来事で片付けられてしまうからということだが、境界をあいまいにしておくことでより肝心な部分「あなたの育児にも、あなたの暮らしのなかにも、こういう感情、こういう気持ちの芽生え、覚えがありませんか」と訴えることができ、「母性っていったい何なんでしょうね」という疑問を素直にぶつけることができる。

うちは夫が協力的だったが、最初の子である息子の夜泣きがひどくてとても苦労した。
夫婦に子供がいることが当たり前で、それでこそ家庭だと思っていたし、子供がいればとにかくもっとさらに幸せになるようなそんな気がして子供を作ったわけだが、背景には期待されていたのに仕事がうまく行かなかったという敗北感もあった。欲しかった家庭に逃げ込み、母という存在に逃げ込んだ感がある。
そんなんだから、子育ては面倒や苦労が先に立って、息子を可愛いとなかなか思えなかった。ある時、いつものように息子を怒っていたら、ふと、息子の目線になって、怒って立っている怖い私を下から見上げたイメージが浮かんで、単純に「かわいそうだな」と思えた。「こんなお母さんだったら、自分が子供だったら、嫌だなぁ」と。それからだろうか。愛情っていうものは自然に胸底からじわじわ湧いてくるものでもあるけれど、「愛そう」という意識的な決意と努力でもって育む、“作っていく”ものでもあると思った。“愛に努力が必要”なんて、若い頃は思ってもいなかったけれど、この息子の子育てがあってから、少し見方が変わったと思う。愛情神話というか、私なりの母性神話というのが崩れた瞬間だったんだろう。
私は私の自然な気持ち以外に「憐れな息子を積極的に愛そう」としたために、精神的にもぐっと関わり合いが増え、相乗的に子育てはいい方向に向かっていったと思っている。
もちろん、フリーとして自宅で仕事をしていた夫の協力は大きかったし、私の精神的な安定にもつながっていたと思う。

以前、「『母性』を読んでいろいろ考えた」というタイトルの6月13日のブログで、母親の心の中には母として子を庇護したい部分と庇護されたい娘の部分とが共存していて、バランスをとろうとしていて、夫はその娘の部分の要求を是非満たしてあげてほしいと、そうすれば自ずと母として立っていけるものだと書いた記憶がある。夫が妻から母性を導き出す、妻の母性を育む覚悟を持つこと、それが男の場合の子育てになると今でも思っている。
映画では、夫が着替えだけ取りに来て、妻が追いすがってもそのまま出て行ってしまうシーンがあるから、妻を孤独にさせたいちばんの原因は夫で、夫こそが悪者のように感じたが、映画を見たあとの舞台挨拶で「この映画には悪者がいないんです」という言葉を俳優の一人から聞いて、夫の立場、男の気持ちというものも実は自分はまだよくわかっていないんじゃないかと思った。
夫族のなかには妻が妊娠した途端に浮気をするとか、子育てにかかりっきりになっている忙しい妻をよそに浮気するとか、その手の話をよく聞く。手のかかる子供と大人の自分とを天秤にかけさせる幼稚さに呆然とするが、そこにもまた“父になっていく”という時間のかかる戸惑いやそこからくる孤立や孤独があるのかもしれない。やさしい妻の顔から髪振り乱して夢中で育児し、母の顔になっていくその過程で、いきなり「一緒に走れ」と迫られる父親という役割。物事が子供を中心に有無を言わさず決定していき、家庭がどんどん妻と子供で占められて出来上がっていくことの疎外感と重圧感。妻とはまた違った様相で、ぽんと生まれた子供にぐいぐいと自分が追い詰められて、父親という枠にはめられてもう二度と逃げたり、放り投げたりすることができない果てしのなさに呆然となるのかもしれない。ああ、でも、と思う。それでも、妻の味方は夫しかいないんだよ、と私はすがってしまう。

それと、この映画を見てあらためて考えたのは、夫婦二人だけのお互いに注がれる愛と子供ができてからの家族としての愛とはやはり違うんだ、ということをマスコミに踊らされることなく、もう一度私たち女性はきちんと捉え直した方がいいのではないかと思った。世間では“美魔女”と言ってもてはやされているけれど、子供を産んでも女を捨てずにいつまでたってもきれいな奥さんでいるっていうのが理想だと煽っているけれど、それって、実はものすごく女性たち自身を追い詰めていることじゃないかと思う。セックスレスの問題もそうだけど、夫側、男性側の言い分というのも、はねつけるんじゃなくて、もっと真摯に耳を傾けてみるべきなのかもしれない。「子供が生まれて妻が母親になって、家族愛が芽生えてきて、もはや肉親的な強い結びつきの家族としか見られないのに、セックスなんてする気になれない」という言い分だが、よくよく考えればその通りなんじゃないだろうか。女性誌に代表されるマスコミはいつでも「結婚して子育て中でも、セックスを誘える、したくなる女性であれ」的な書き方をするが、あれは単にそういうムーブメントを作れば女性の消費をあらゆる方面にがんがん促せるからだろう。実際、そんなふうに子育て中に精神的に余裕が持てるというのは、経済的にもかなり余裕があるということで、ヘンにそれに踊らされるとえらい無理をすることになる。
どんなに家事育児を立派に頑張っていても、セックスレスの奥さんは夫からの愛情がなく、それは不幸なことで、女として見られていない、もはや終わっていると言わんばかりの論調は、この映画の若い母親のように、夫の迎えにいじらしくも口紅をうっすらと引かせ、「もう愛してないの?」と詰め寄らせるような無駄な疑心や焦りを生み、何かでそれを拒まれたときの落胆は完全に自己否定にまで容易に繋がるだろう。マスコミが子供を持っても“女として扱われる愛”を最重要に掲げたために、今まで家族として“家族愛”でじゅうぶんに満足でそれゆえ魅力的だった妻たちがとたんに不幸にカテゴライズされ、女としての自分磨きの努力不足、自業自得だと否定され、男たちもその流れに乗って、性的魅力こそ女の魅力と賛同した結果、離婚は増え、もしかしたらシングルマザーが増えたのだとしたら、果たしてそれは言い過ぎだろうか。でも、最近はひところよりセックスレスの深刻さは抜けてきたようで、妻たちの方が「セックスレスでなにが悪いの?私たちはじゅうぶんシアワセよ」と語っているという文章も読んだ気がする(たしか亀山早苗さんの著作だったと思う)ので、いい傾向かもしれない。『産後クライシス』という本が出ているそうなので、セックスレスが妻に及ぼす精神的影響についてはまた読んで考えてみようと思っている。

消費を操るマスコミに女心のいちばん弱い部分を握られて、操作されて踊らされることのないよう、今一度、夫からもらう愛が恋人時代か新婚時代のような男女の愛から、家族としての愛に徐々に変わりつつある、変わっていくことに、そこに育児と引換えに自分の女性性をすべて失ってしまったかのような悲しみや自己否定の感情を何一つ抱くことはないのだと伝えたい。こういう愛情の捉え方の問題というのが、もしかしたら育児放棄の問題の根っこに静かに横たわっているのかもしれないと、この映画を見て思った。
老若男女多くの人にこの映画を見てもらって、いろんなものの見方でそれぞれに気づいて語ってもらって、世の中が少しでもいい方向へ動き出してくれたら、と願う。



※追記(11月14日)
映画の中ですごく考えられたいい演出だなと感心したのが、育児放棄されて子供らが食べ物を探していた時に、ヨチヨチ歩きの弟が流しの下から漂白剤を見つけていじろうとするのだけれど、3歳のおねえちゃんが「これはダメ!」って、激しく奪いとるシーンがあるんです。見ている方はヒヤヒヤするんですけど、これは何で素晴らしいのかというと、お姉ちゃんが女の子ゆえ母親をよく見てきたという意味と、母親がこの子らを放棄する前まで、良き母親としてきちんと躾をしてきたという証拠にもなっているんだと思うんです。お話として入れなくても成立するシーンなんですが、そういう細かい配慮がリアルさを引き出すし、よく考えられているなと好感が持てるいい演出でした。
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by zuzumiya | 2013-11-10 23:31 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(2)
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Commented by 山口 at 2013-11-22 10:29 x
できちゃった結婚をして今生後20日の子供を育てている25歳女です。
マスコミによる情報によって家族愛が廃れているのでは?の下り、なるほどと思いました。確かに、そうかもと思いました。
ただ今の世の中、手に入ってしまう情報が増えることで、隣の芝は今や隣だけじゃなく四方八方の芝が目にはいる時代。さらには女性の生き方も多様になってる。女性の現状はメディアによる情報操作だけでなく、社会の変化によるものでもある気がします。
自分の幸せを他のものさしで測るのではなく、自分で測ることが第一に必要な気がする。でもきっと、それだけじゃだめな気もする。難しいです。なんか意味不明な文章ですみません!
Commented by zuzumiya at 2013-11-25 22:43
コメントを寄せて頂きありがとうございます。返信が遅れてすみません。
「メディアの情報操作だけでなく、社会の変化によるものでもある」の件に鶏が先か卵が先かのようだと考えてました(笑)。「自分の幸せは自分のものさしで」と頭ではわかっていつつも、「きっと、それだけじゃだめな気もする」の気持ち、同じ女性としてよくわかるんですが、その隙間に
あれもこれもといろんなものが入ってきちゃうんでしょうね。ひとりの若い女性が恋をして結婚して子供を産んで育てて、やがてやつれて老いさらばえていく、というライフサイクルを「誰かの為に一生を捧げ費やせたんだ」と、「そんなふうにできた自分は何より幸せ者じゃないか、愛しいじゃないか」と思えたら、ほんとにいいですよね。赤ちゃんのお世話大変でしょうけど、たくさんの思い出を現在進行形で作っているから、旦那様と協力して、がんばってください。お幸せに。

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